2002年 5月

 
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2002年 5月の幻想断片です。

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気分

 

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  5月31日− 


「ちがうの!」
 十歳くらいの少女が叫んだ。その瞳と髪は薄紫色である。
「リンローナなんて、背なんかこーんなにちっちゃくって、いつもあたしとルーグのあとをついてくるような子なんだからぁ!」
「でもね、お姉ちゃん。あたしは十五歳のリンローナで、お姉ちゃんは十九歳だったけど、魔女に子供にされちゃったんだよ」
「そんなの、やだ! ねえ、ほんとのリンローナを返してよ!」
「困ったなぁ……」
 足にまとわりつき、甲高い叫びで訴えかけてくる幼子になった姉に、リンローナはほとほと手を焼いている様子であった。
「昔からあんな風だったんだなぁ」
「でも、素直で可愛らしいと思いますけど。子供ですから」
 ケレンスとタックは姉妹の様子を興味深げに眺める。その横でルーグは無言のまま、腕組みして心配そうに考えていた。
 


  5月30日△ 


[だがしやっきょく(8)]
「袋ごと冷蔵庫に入れておけば、二年くらいは持ちますから」
 得意がるわけでもなく、むしろ淡々とした口調で利点を告げる。いったい何十年間、こうしてここで客と向かい合って来たのだろうか。言葉遣いも仕草も取りたてて丁寧というわけでもないのだが、他人への敬いの気持ちが自然に染みついているようで、好感が持てるのだ。ややもすると、単なる〈自慢したがり屋のおせっかい〉になりかねないが、さすが経験の差。際どい境界線で踏み留まり、しかも最後の一線を越えることがない。
 彼女は現代に生きる年老いた魔女そのものであった。とても狭苦しい空間にしっくりと収まって、相手を見上げている。
 青年は再び説明書に視線を落とし、関心ありげに念を押す。
「じゃあ、余った薬はそうすればいいんですね。二年くらい?」
「そうねぇ、二年くらいはぜんぜん大丈夫ですね」
 聞かれても太鼓判を押すだけで、無理に売ることもなく、決して他製品の批判もしない。江戸っ子らしい粋な商人であった。
 名残は尽きぬが、さすがに彼の方は時間が気にかかっていた。ここで話を打ち切るべく、勘定を促す決まり文句を唱える。
「おいくらでしょ……」
「千円です」
 声は大きいが、特に耳が遠いという訳でもないらしい。彼が言い終わる前に、先手必勝の素晴らしい反応であった(続く)。
 


  5月29日× 


[まぼろし]
 儚くも可憐、けがれなき泡沫。丸みを帯びた四枚の花びらは天使の羽か――それと相反する、内に秘めた強さをも持つ。
「きれい……」
 神々しく光り輝く水晶玉を見つめる占い師のように、おそるおそる両手をかざして、レフキルがつぶやいた。南国に夏のはじまりを告げるのは淡雪の花である。南国では真冬でも決して降ることのない雪に、古代人が託した思いは何だろうか。
 草木の神者であるサンゴーンは蒼い瞳を静かに瞬いた。
「このお花、育てるのが大変ですわ。魔法を使うと枯れちゃいますし、咲いても、一晩で溶けるように散ってしまいますの。散る前に、せめてレフキルだけは見てもらいたかったんですわ」
 レフキルは顔を上げ、興奮を押し殺した低い声で語る。
「丹念に育てた甲斐があったんだ。サンゴーンの、こころからの気持ちが肥料になって、花も応えてくれたんだね、きっと!」
「あらら……ちょっと恥ずかしいですの」
 サンゴーンは頬を赤く染めた。レフキルは再び花に魅入る。
「でも、ほんとにさ、幻みたいな花だね」
 その花の周りだけは、ほんのり明かりが灯るようだった。
 


  5月28日△ 


[だがしやっきょく(7)]
「毎食後に一包み飲んで下さいね。朝昼晩の五日ぶんです」
 病院の向かいにある処方せん受付の薬局でくれるような、店の名と薬の効能が大書された白い袋。ワープロで打ったものをコピーしたと思われるB5サイズの取扱説明書。それら二点を、彼女は戻ってくるなり狭いカウンターの上に並べて置いた。
 受け取った青年が特に興味を引かれたのは説明書の方だ。

 よく効く薬のご相談は○○薬局へ 風邪は万病のもと

 の名文に始まり、二行目には電話番号と営業日、三行目に営業時間が記されている。続く四、五行目には「この感冒剤は当店で調合し、胃腸に弱い方に好評である」ことが強調され、遠隔地からも注文があるという宣伝文句が謳われている。
 以下が圧巻であった。十六項目にも渡る箇条書きで、感冒の進行を抑制する秘訣と、禁止事項とが事細かに挙げられているのである。煙草や酒の我慢を強いたり、入浴回数を減らすことならまだしも、中には、おいそれと有給休暇の取りにくい会社人にはいささか守るのが難しいであろう養生法も書かれていた。
 例えば、

・ 38度以上の熱が有れば、外出しないで下さい。

 という一文である。彼はそれを黙読しながら頭の中で苦笑しつつも、最終的には苦笑した自分を苦笑せざるを得ないという複雑な心境に陥ってしまった。熱があり、本当に身体のことを考えるならば、外出を控える――間違いなく正論なのである。それが出来ない、またはやりづらい点にこそ根本的な問題があるのではなかろうかと思い、次第に無力感を覚えるに至った。
「はい、あとで読んでおきます」
 籠もりがちな声でつぶやいた彼をよそに、老婆はますます意気盛んとなり、愛想の良い微笑みで説明を加える。(続く)
 


  5月27日◎ 


[だがしやっきょく(6)]
 その優位を逃す商売人ではなく、すかさず攻勢をかける。
「うちで処方してる薬、あるんですけどねえ。引っ越していった方から頼まれたり、区外の方からも注文を受けてるのね」
 はつらつとした語り口からは、狙った獲物を必ず仕留めるという余裕と、店の商品に対する深い愛着――何よりも自らが選んだ職業への信頼と誇りが感じられた。言葉の端々に漂うアクの強さは、人柄の芯が醸し出すオブラートにつつまれて和らぎ、ちょうど良い案配でもって直に聞き手へ訴えかけるのであった。
 相手の口車に乗ると分かっていても、そういう過程を素直に楽しめるケースがあるとすれば、まさにこんな時であったろう。折しも時間不足、背に腹は代えられぬ切羽詰まった思い、面倒くささ、婆さん特製の風邪薬への興味を抑えきれぬ今となっては、彼のいらえは応える前から決まっていたも同然であった。
「じゃあ、それでお願いします」
「喉の風邪で良かったわね? 喉に効くのを出しときますね。熱とか咳が出始めたら、また別のがあるのだけれど……」
 喜びを顔に表すでもない。こんなのは当然の展開、日常茶飯事だ、とでも言いたげな冷めた表情に戻って老婆は横を向き、薬を取ろうと細い腕を伸ばした。一方、青年は深く安堵する――これで治るかも知れない、と。老婆の語りには、確かな経験に裏打ちされた紛れもない説得力があったのである。(続く)
 


  5月26日◎ 


[だがしやっきょく(5)]
 物と物の間からひょっこりと姿を現したのは、鷹のそれのように誇り高く澄んだ輝きを放つ双眸(そうぼう)である。おそらく七十過ぎであろう老婆の顔としてはやや引き締まった印象を受けるのは、あまたの平凡と僅かばかりの数奇な経験によって培った〈人間を正確に見定める眼光の鋭さ〉であり、幾つもの人生の修羅場を越えた後に得たのであろう〈血肉と化した優しさ〉であった。二つの湖とも見受けられる瞳は、険しい山脈のように皺深い肌の中で燦然と瞬き、乳白色の髪は残雪を示していた。
 老婆の圧倒的なまでの存在感に押され、かっきり二秒が経過するまでは何も喋ることが出来なかった青年であるが、まずはゆっくりと唇を上下に離し、遅ればせながら言葉を紡いだ。
「あの……風邪薬はありませんか?」
「風邪。ああ、最近流行ってるもの。喉が痛いんでしょぉ。今の風邪は喉から来るんです。早めに薬を飲めば治りますよ?」
 相手は表情を変えず、何もかもお見通しだぞと云わんばかりの自信に満ち溢れた口調で、堰を切ったように話し始めた。
「ええ、喉が痛いんです」
 強いて表現すれば、有力な占い師に自分の過去と現在とを見事に当てられた時の感情に似ていた。いわゆる〈キツネにつままれた〉ような気持ちになり、少し裏返った声で、彼は相手の言葉を追認するだけの、非常に気の利かぬ相づちを打った。
 既にして場の主導権は、人生の先達を驚いたように見下ろすスーツ姿の青年ではなく、椅子に座るとカウンターから何とか顔が見えるくらい背の低い――老舗の老婆が握っている。(続く)
 


  5月25日○ 


[だがしやっきょく(4)]
 眩しい太陽を見つめるかのように顔を上げて目を細め、棚の上方から下方に向かって、彼はざっと商品を物色していった。
 するとどうだろう、瞳に映る光景は、この店の〈不思議ぶり〉を弱めるどころか、ますます強めるばかりであったのだ。
 おまけつきのキャラメルの箱、キャンディーの入れ物、原色系のガム、ラムネ、何だか良く分からないが体に悪そうな食べ物――ざっと見回したところ、手に届く範囲に並べられているのは駄菓子のような代物ばかりであった。彼の生まれ育ったのは新興住宅街であり、駄菓子屋の文化はすでに消滅していたが、それでも目の前の品々は朝から晩まで遊び通した子供時代を遠く呼び起こし、胸には懐かしい温もりが咲いたようであった。
 他方、この店は何だろうという疑念も湧き出してくる。その回答を探して左側に首を曲げると、子供の手に届かぬような場所には確かに薬も並べられており、本来はここが薬局であることを雄弁に語っていた。とはいえ市販の薬は軟膏や胃腸薬の類が多く、大型のドラッグストアで大量に見かけるような大手調剤会社の大衆向け風邪薬はどこにも見当たらないのである。
 通勤中で時間がないことを思い出した彼は、にわかにしびれを切らし、電光石火、カウンターへ迫った。迫ったというよりは〈体の向きを変えた〉という方が事実に近いかも知れないが。
「すいません」
 喋るのに喉を意識するのはこんな時ぐらいだろう――独特の嫌な痛みを覚えつつ、彼は店に入ってから初めて口を開いた。
「あっ?」
 すぐにいらえがあった。びっくりして飛び起きたような女性の声である。次の刹那、駄菓子の間で白い髪が見え隠れした。
「何の、御用でしょう?」(続く)
 


  5月24日○ 


[だがしやっきょく(3)]
 例えば大相撲の力士なら、立ち入ることすら困難ではなかろうか――それは後から考えたことだが、決して言い過ぎではない。店内はとにかく狭く、奥行きよりも幅の方がなお一層きつかった。普通の大人でも詰め込んで三人が限界だろう。
 一回り昔の素朴なたたずまいは彼の興味をそそる。鞄をぶつけないように注意しつつ首だけを動かすと、四方を埋め尽くしている数段ずつの棚には様々な商品が所狭しと並べられている。全体としては雑然としているが、注意深く眺めれば丁寧に整頓されていることが分かり、汚さは全く感じない。ややもすると店の存在そのものがこの現代においては幻想的でさえあった。
 遅ればせながら彼は気付く――山と積まれた商品で半ば埋もれたカウンターに、姿こそなけれど、確かに人の気配がすることを。けれども迎えの言葉はなく、それどころか何らの反応もなかった。ぱっとしない青年は、ふと我に返って喉の痛みと当初の目的を思い出し、名の知れた風邪薬を探し始める。(続く)
 


  5月23日△ 


[だがしやっきょく(2)]
 左から右、右から左へと視線を彷徨わせれば、あわや向こうから来たベビーカーと正面衝突しそうになり、彼はふらつきながらも慌てて避けた。時計の針は九時を少し回ったところで、おおむね商店街のシャッターは降りている。贅沢は言わない、何でもいいから風邪薬が欲しい――彼の切羽詰まった願いとは裏腹に、やっとのことで見つけた薬屋はいまだ開店前であった。
 四つ辻を折れ、信号を渡ると、通りにひしめく店の数はだんだん減り始めた。ここを真っ直ぐ抜ければ普通の住宅街になる。
 諦めかけて歩く速度を上げようとした、その時だ。
「処方せん承ります」
 小さな白い旗に極太マジックで縦書きされた自己主張の激しい文字が、まるで砂漠の果てでたどり着いたオアシスのように、彼の心へ直に飛び込み、訴えかけて来たのである。
 立ち止まって軽く息をつき、建物を検分する。
 それは狭く、徹底的に使い古された木造二階建てであり、昭和三十年代のまま時の河の中州に置き忘れたような、庶民の庶民による庶民のための商店であった。彼がよく利用するチェーン店のドラッグストアとはまさに正反対の風貌である。
 ゆっくりと顔をもたげる。看板には〈〜薬局〉と書いてある。
(この際、やむを得ないな)
 すがるような気持ちで、一歩を踏み出してみる。(続く)
 


  5月22日× 


[だがしやっきょく(1)]
 それは初夏にしては妙に涼しい朝であった。
 折節の移り変わる狭間には四季を司る神がいなくなり、気候は不安定になる。先日の徹夜もたたって風邪をもらった青年は、朝起きてから喉の痛みを訴えた。出がけに常備薬を探したものの見つからず、慌ててネクタイを締めて黒い靴をつっかけると、周りには目もくれず、一目散に坂道を駆け下りた。
 満員電車に揺られ、混み合った階段を押し合いへし合いし、三回目の乗り換えで三両編成の電車に乗った。短いホームに降り立ち、構内の踏切を渡り、熱っぽい体を引きずるようにして自動改札を抜ける。そこは緑の木々こそないものの、低迷していた気分が少し和むほど、甚だ人間味のある空間であった。
 駅名を冠した、なんとか銀座とかいう看板がしゃれた電灯の先端に掲げられている。花屋に八百屋、蕎麦屋に本屋、肉屋に喫茶に電気店。所々に銀行のATM、ファーストフード、コンビニエンスストアも見受けられるものの、そこは概して、かつては日本中どこにでもあったはずの〈古き良き商店街〉であった。
 後ろから鈴の音が響き、自転車に乗った中年の主婦がゆったり通過する。いつの間にか空気は蒸し暑くなっていた。(続く)
 


  5月21日△ 


 絶滅したはずの〈むらさきほたる〉が発見され、小さな村はてんやわんやの大騒ぎとなった。紫色にちらちらと瞬く姿は、古文書によれば〈夢そのものよりも夢のようだ〉とさえ云われ、いにしえより究極の夢の代名詞であった。それが発見されたのだから、村の騒ぎようは推して知るべしであろう。一攫千金を狙うもの、保護するために捕獲すべきと考える者――戦士から盗賊から魔術師まで、貴族から農民まで、入り乱れての大乱闘。
 むらさきほたるを見つけた少女は絶望的な逃避行を続ける。そして追いつめられた果てで、少女は重大な決断を下す。
 


  5月20日− 


 堀に架かる橋を渡って城門をくぐり、レンガ積みの角屋根の家々を左右に眺めつつ、町外れの小高い丘へ向かう。磨り減って苔むした急な傾斜の石段を登りきると、そう遠くもない昔に崩れ落ちた館の礎が、大火の名残を留めて微かに黒く煤け――まるで打ち捨てられた古代遺跡然として、茫々たる野の草に埋もれていた。どこからともなく風が吹き、白い花が揺れている。その上をゆく現在の館の主人は、黒胡椒じみた蟻である。
 見上げた空には雲一つなく、必要以上に片づいていた。
 


  5月19日− 


『モニモニ魔法学院魔術科・講義テキスト』より引用

●第五章/第十八節 魔術属性の融合[上級者向け]
 神が人間に与え給うた魔法であるところの〈魔術〉の属性には、火炎・大地・天空・氷水の四種類があることは前述したが、上級者は複数の属性を同時に掛け合わせることができる。
 以下に主な例を示す。

 火炎+大地=噴火(難易度:殆ど不可能)
 火炎+天空=落雷(難易度:極めて難)
 大地+天空=爆発(難易度:やや難)
 天空+氷水=吹雪(難易度:難)

 全体的に難易度が高く、扱いが難しいため、扱うにはギルド長への届出と許可が必要。特に初心者の無断使用は厳禁。
 なお火炎と氷水の融合は、基本的には無効となる。
 


  5月18日△ 


「らららぁ〜♪
 今日はお天気だわ〜♪
 私の気持ちも晴れ晴れだわぁ〜♪」

 背中のサックを下ろして、希望の女神アルミスの神殿前に座り込み、吟遊詩人は弦楽器をつま弾きながら謎の歌を朗々と唄っている。声は深く高らかで、歌唱力は抜群、さっきから続く妙な歌は広くもない通りにこだまする。彼女は古びた革のマントに身をつつみ、お揃いの色褪せたフードをかぶっている――吟遊詩人としては女性は珍しい。そのうえ年齢不詳ときたもんだ。

「洗濯物が良く乾きます〜♪」

 道行く人は〈変な歌だ〉と思いながらも、つい足を止める。
 メラロール王国の民ならば、彼女のことはすぐに勘づく。
 新しい国歌を作曲したメリミール女史であると――。

 通常、彼女の名には〈偉大なる奇才〉と冠がつけられる。
 


  5月17日− 


「あれっ、タックはどこ行ったの?」
 リンローナは首をかしげ、ケレンスは知らんぷりする。
「さあな。買い物にでも行ったんだろ」
 だが、彼は知っているのだ。
 タックが盗賊ギルドへ何かの情報を報告しに行ったことを。
 


  5月16日× 


【この夜】
 夜が来て、夜が咲いた。
 すがすがしい夜の花が咲いた。
 夜を摘み、夜を歩いた。
 かすかに夜の匂いがした。
 


  5月15日△ 


【銭湯】
「へえ、らっしゃいっ」「湯が熱すぎるぞ!」
「へえ、ごめんなせぇ」「今度は温すぎだ!」
「へえ、お待ち下せぇ」「丁度良すぎるぞ!」
「へえ、只今参りやす」その晩、湯船は薄紅。
 


  5月14日− 


「ララシャ様、これを。爺の心づくしのプレゼントですじゃ」
 ハリデリー大臣からの突然の贈り物を、十五歳の王女はその年齢にしてはやや筋肉質の腕を伸ばし、黙って受け取った。
 絹で包まれた両手大の箱を開いたとたん、まばゆい光が王女の瞳を突く――それは最高級の精巧なガラス細工であった。
(あんな星空をいつも見られたらいいのに!)
 ふと、城のバルコニーで呟いたことを思い出す。

 けれど、あの儚くも満ち足りた星座群に比して。
 今、ここにあるガラクタは、なんて見すぼらしいのだろう。
 覗けば覗けほど、ララシャの目には、外見だけは美しいが悪寒さえ味わわせる〈空洞〉或いは〈虚無〉としか映らない。
「こんなのって……こんなのって」
 彼女は下を向いたまま声を震わせた。
「ララシャ様?」
 ハリデリーが心配そうに声をかけた瞬間。
 老大臣の目の前で優しい光の雷が弾けた。
 ガシャーン。
 ガラスの割れる音が後を追うように頭に響く。
「うそつき!」
 滅多に見せぬ気の弱い部分を臣下の者に悟られまいと、ララシャは猛烈な勢いで逃げ出した。涙が抑えられないのだ。
「なんとまあ……あんな豪華な品を」
 大臣は呆然と立ちつくし、散った透明な骸を見つめていた。やがて片膝をつく――痩せた頬は青ざめ、全く色がない。
 侍女らは顔を見合わせ、ひそひそと王女の陰口をたたく。

(みんな死んじゃえばいいんだわ! あたしの本心なんか、どうせ、誰だって、理解しようとさえしてくれないんだから……)
 右手の人差し指はガラスで怪我したのか、紅い血がにじむ。
 ふかふかベッドを熱い涙で汚し、少女は浅い眠りについた。
 


  5月13日− 


【い・つ・か】

 夜風が吹いて、ふと見上げれば、
 くしゃみしたのは、五日の月だ。

 ああ寒かろう。あんなにも天の高みにいるならば。

 恥ずかしそうに雲隠れした五日の月の横顔は、
 どっかの誰かに似てるよな気がした。

 それからまた――。
 夜風が吹いて、ふと思い出す。

 くしゃみしたのは、何時かの月だ。
 


  5月12日− 


【旅のススメ】

 とても大きな鳥かご。
 快適だけど息苦しい水槽。
 見えないけど縛られてる鎖。
 僕らはそんなところに暮らしてる。

 だからたまには旅に出ようよ。
 パソコンも重たい本も置いてさぁ。
 遠く遠く、もっとずっと遠くまで。
 誰も知らない〈名所〉をさがしに。

 ふらふらと森の小道をさまよえば。
 ほんとの自分に会えるかも、ね。

 ――会えたかも、ね。
 


  5月11日○ 


「あっ、ルヴィエラさん。おひさしぶり!」
「あら……えーっと、レフキルさん、でしたわね」
 イラッサ町の大通りで二人は偶然に鉢合わせた。
 レフキル――半袖半ズボンで、健康的に日焼けした商人見習いの明るい十六歳――と、ルヴィエラ――焦げ茶のロングスカートで細い脚を包み込み、白い半袖ブラウスの上に薄くて黒い繻子(しゅす)の上着をまとった二十五歳の麗人――は、はたから見れば何から何まで対照的な二人であった。
「あ、そうだ。ルヴィエラさん、薬草屋だったよね」
「ええ。それが何か。もしやクッキー祭ですか?」
 ルヴィエラが小声で言うとレフキルはぽんと手を打つ。
「話が早いっ! さすがぁルヴィエラのあねごー」
「あ、あねごって……そんな呼ばれ方、ショックですわ」
 クッキー祭とは、早く言えばクッキーコンテストである。
「ごめんごめん。でさぁ、何か良い味付けの素とかない?」
 レフキルが目を光らせると、ルヴィエラは低く笑い始めた。
「ふっふっふ……駄目です。今回はわたくしが優勝ですわ!」
「えーっ、ずっるーい! ね、お願いしますよっ、あねご!」
「ふっふ〜ん」
 お祭り好きなイラッサ町の人々は、普段の仕事以上に、お祭りごとには全力を尽くす。別に多大な賞金が貰えるわけでもなし、特別な地位が得られるわけでもない。彼らや彼女らが欲しいのは、一時的で良いから〈自分が町の噂の中心になる〉こと。ただ、それだけなのだ。それこそに価値があるのだ。
 今回は審査委員長としてララシャ王女が予定されている。わがままと言われるララシャ王女を唸らせるクッキーを作れるのは誰なのか? 町の噂はそれで持ちきりの今日この頃である。
 


  5月10日○ 


「魔法の力は年々弱っていると言うけれど……」
 二十一歳の若き女賢者、オーヴェル・ナルセンは呟いた。
 超魔法で世界的な伝令網を完成させ、広大な版図を築いたといわれる古代魔法帝国が消え去ったのち、キンガイア大帝による再統一が行われるまでは歴史的な暗黒時代が続いた。ただ分かっているのは、古代魔法帝国の崩壊と同時に出現したと伝えられる〈死の砂漠〉の拡大とともに、ルデリア世界全体の魔力が弱まり続けているということである。マホジール帝国の誇る魔法軍は有名無実化し、属国の独立を招く結果となった。
 オーヴェルのこれまでの研究では、魔源物質を呼ぶ魔源界への通路が少しずつ開きにくくなっていることを突き止めた。
「けれど……」
 魔法なんか無くても、あの素朴な村娘の瞳からは全ての自然が、四季の移ろいさえ真新しい〈不思議〉に見えるような気がするのである。だとしたら、魔法とは一体、何なのだろう……。
 オーヴェルは自らに問いかけた。
 


  5月 9日△ 


「村一番の、神さまの樹が、ちっさくなり始めだ。
 そっだけでねっ。春だつーのに葉っぱさ赤く変わんだ。
 おねげぇですから、種さ明かして、何とかしてけれ」

 これが村の長からの依頼であった。

「何かの魔法じゃないかなぁ?」
「魔法というより、呪いだわ」
「呪いというよりも怪異でしょう」
「どれも似たようなもんだろ」
「ふむ……まずは実際にその木を見てみないとな」

 偉大なる何でも屋、冒険者の腕と知恵の見せ所である。

 ――心躍る冒険は、すぐそこにある。
 


  5月 8日× 


 ハーフィル自由国はニード村を中心とした山の中の小国である。フレイド族と黒髪族が半々くらいずつ住んでおり、大した産業もなく、ルデリア世界の中でもかなり貧しい国といえる。
 もともとはポシミア連邦共和国に属するハーフィル州であったが、連邦が隣国であるラット連合との争いに敗れ、ハーフィル州は両国の緩衝地帯として切り離された。ラット連合側は山に囲まれて発展の見込みの薄いハーフィル州の割譲をお荷物と感じつつ、ポシミア連邦からの防護壁として利用したい、と考えた。ポシミア側はできるだけラット連合の進出を拒みたかった。その思惑が絡み合い、結果としてハーフィル州は両国の共同統治という形で独立し、以後、奇妙な安定を呈している。
 世間一般には、ハーフィル「不」自由国と揶揄されている。
 


  5月 7日− 


 母親は外を眺めて言いました。
「雨模様ねー」
『あまもよう、って、どんな模様?』
「そうねぇ……」
『どんな?』
「空から地面まで、雨粒が水のカーテンを作っている模様よ」
『水のカーテン……あまもよう!』
 娘は嬉しそうに長靴を履きに玄関へ出ました。
 


  5月 6日− 


「ケレンスの小さい頃って、どんな子供だったの?」
 リンローナの質問に、相手は頬の傷を撫でながら応える。
「俺の小さい頃か……そうだな、悪ガキだったな」
「自他共に認める、ね」
 幼なじみのタックが補足すると、ケレンスは吹き出した。
「ぷっ。木刀を持って戦士ごっこをして、俺たちのことを馬鹿にする年上のやつらを打ち負かしたり……やりたい放題だったぜ」
「よく、おやじさんに怒鳴られてましたよねぇ。ケレンスのおやじさんは剣術道場の親方で、無骨でおっかない武人でしたよ」
 二人とも真っ青な空を見上げ、懐かしそうに目を細めた。
「じゃあ、ケレンスって昔とあんまり変わってないんだね」
 リンローナは真面目な顔をして何度も神妙にうなずく。その額を、ケレンスは人差し指でピンとはね、呆れたように言った。
「そりゃぁリン、はっきり言い過ぎってもんだぜ」
「ごめんごめん」
「まあ、ケレンスも少しは成長してるんとは思いますよ」
「タック、おめぇ……ぜんぜんフォローになってねえよ」

 それから三人はひとしきり朗らかに笑い合ったのであった。
 


  5月 5日− 


 馬を駆って、夜を疾走する。
 町の灯が近づき、遠ざかる……。
 ささやかな人の営みが愛おしい。

 私はしがない旅人だ。
 彼らもまた、移動をしない旅人だ。

 町の灯が、一つ一つ、消えてゆく。
 


  5月 4日△ 


 山ほどもある、とてつもない大きさの魔物が、冬の寒い日にありったけの吐息を吐き出したかのよう――男爵の館から湖の小さな港まで、商人の屋敷から水車小屋まで、大通りから小道まで、畑から森まで。冷たく、湿っぽい霧が山や川から吹き出し、ひなびた町に白いエアブラシをしつこく塗りたくっていた。その町に属する、ありとある場所は、重く垂れ込めた妖しげで深い霧につつまれ、視界は全くもって失われたのであった。
 


  5月 3日− 


「馭者さんっ」
 革でできた大きな荷物ケースを隣の座席に乗せ、自身はその横にちょこんと座って、背の高い少女は早口で訊ねた。彼女は生まれ育った山村を発ち、馬車で海沿いの町を目指した。そしてさきほど最後の峠を越え――その時の、初めて海を見た感動も醒めやらぬまま、澄んだ瞳を輝かせて訊ねる。
「あの山……海の向こうに見えるのは、何という山なの?」
「あれけぇ。あれは山であって山でねぇ。皆は島、と呼んでさ」
 深く帽子をかぶり、煙草を吹かしながら、馭者は応えた。
「あれが〈島〉なのね! まるで、海の中にある山みたい!」
 自分の故郷と見慣れた景色を海に見いだすことは相当意外だったらしく、山娘は一つの大きな心のよりどころを得、無邪気な嬉しさと期待とに、今やはちきれんばかりであった。
「よーし、このまま一気に行くけぇ」
 馭者は鞭を入れると馬車は速まり、勢い良く坂を下ってゆく。もちろん、それ相応に縦揺れ・横揺れもひどくなった。
 新しい生活へ向かう速度と、不安の揺れのようでもあった。
 


  5月 2日− 


 ひらひらと、あの子の小さな手のひらに、
  若葉が一枚、落ちてきました。

 葉の裏に、指先でなぞる伝言を、
  もいちど、春の風に乗せます。

  ……届けばいいな、とお願いをして。
 


  5月 1日− 


 丘の上、春の風がそよぎ、つくしが首をかしげる。
 雪解けのぬかるんだ山道も、いつしか乾いていた。
「おねーちゃーん、こっちこっち!」
 両手を口に当てて、シルキアが声を限りに叫んだ。
「待って欲しいのだっ」
 後ろで結んだ茶色の髪を振り乱し、ファルナは歯を食いしばって追うが、待ちきれなくなって下りてきた妹に目隠しされる。
「シルキア、ふぁ、ぁ……ひゃあ」
 息も絶え絶えにファルナは最後の傾斜を登り切った。
「さあ、いくよ……三、二、一……」
 シルキアが目隠しを勢い良く外す。
 少し遅れて、姉の歓声が上がった。
「わぁーっ!」
 今度の下り坂は見渡す限り、たんぽぽの野原である。
 空は蒼く深い。風は清らかな賛歌をうたう。
 何よりも二人の村娘を祝福するかのごとく。
 




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