2002年 6月

 
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2002年 6月の幻想断片です。

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  6月30日− 


[すずらん日誌・七月原案(7)]
 ――そして物語はタックがファルナに追いつくシーンへと繋がる。しっとりと湿り気の増した〈双子森〉は一つの巨大な神殿のように気高く謎めいた雰囲気を漂わせ、自らの霧の吐息の中に深く沈みつつあった。その中で生命を育む数多の生き物の蠢動(しゅんどう)が微かに、時には強く、波のように感じられる。
「ほら、ファルナさん、森のざわめきに耳を澄ませてください」
 暖かい冬の陽射しに似た父親風の優しさでタックは語りかけた。彼は何種類もの声色や眼差しを自在に使い分けることが出来る。盗賊の技術として身につけたポーカーフェイスであった。
 はっとして、ファルナは森の中にいる自分を再認識し、焦っていた心が少し安らぐ。タックの言うとおり、森のハーモニーの子守唄を聴きながら、瞳を閉じて気持ちを落ち着かせたが、茶色の長い睫毛は若干震えており、その横顔の表情は硬かった。
「さあ、もう大丈夫ですね。目を開けて、お嬢さん」
 タックはせっかく立ち直りつつある相手の不安を蒸し返さないよう細心の注意を払い、自分の声を風に混ぜ合わせて囁く。
 宿屋の看板娘は〈紫の草〉のつぼみが特殊な妖術を浴びて数倍の速さで花を咲かせてゆくかのごとく、最初はこわごわと、音もなく秘やかに、その素直な一双の瞳を開いていった。
 こうして改めて見ると、なかなかの綺麗な顔立ちをしているファルナだった。美人というのは大げさだが、可愛らしいことは間違いない。山奥で育ち、何のけがれも世の中の嫌な部分も知らずに育ってきた瞳は夢見がちに潤んでおり、大きすぎぬ鼻と、ふっくらした桃色の唇はバランスが取れていた。彼女からほとばしるのは魂の清純さであった。村の大人からは自分の娘のように愛され、酒場の人気に一役買っているのもうなずける。
「……」
 柄にもなく、さっきまでのポーカーフェイスを忘れて相手に魅入ってしまったタックだったが、それは実際には僅かな間だけだった。彼は大げさに目を逸らすと、火照った顔を誤魔化すかのように頬を軽く叩き、おもむろに三叉路の左の道を指さした。
「よく見てください。印が見えますか?」
「なーんにも見えないですよんっ」
 ファルナはタックの様子の変化には全く勘づかず、速攻で返事をした。すると横の盗賊は一歩を踏み出して、伸び上がったり腰を低くしたりした。ファルナはちょっと首をかしげ、タックと同じように準備運動じみた奇妙な動きをした――その時である。
「あっ」
 看板娘は驚きに充ちて、短く叫んだ。
「なんか光ったのだっ。黄色いものが!」
「ふふっ。気付きましたね」
 普段の自分という、彼にとっては〈一つの現象〉に過ぎぬものを素早く構築し直し、にこやかに微笑んだ。そして説明する。
「リンローナさんですよ。魔法の道しるべを、シルキアさんにバレないように落としていったのでしょう。あとを追いましょう!」
「さすが冒険者さんなのだっ!」
 ファルナは心底嬉しそうに、溜まっていた不安のモヤモヤを吐き出すかのように相手を褒めたが、かといって楽観できる状況ではない。いつしか〈双子森〉には雨の予感が強まっていた。
 


  6月29日△ 


[すずらん日誌・七月原案(6)]
「親愛なるファルナさんへ」
 シェリアは一言を発すると急に黙り込んでしまい、夢幻色のさらさらロングヘアーの前髪を掻き上げて何やら顔をしかめた。
「リンローナって、なんでこんなに読みやすい字を書くのかしらねぇ……改めて気付いたけど、無性にあったまくるわ!」
 わなわなと手を震わせ、今にも手紙を破り捨てんとするシェリアに困惑しつつも、ファルナは最も効果的な言葉を選んだ。
「シェリアさん、うちのワイン……」
 看板娘の〈呪文〉は非常に功を奏し、自分の心の底へと向かいつつあった十九歳の魔術師の意識は瞬時に引き戻された。
「あ、そうだったわね。手紙でしょ?」
「続きをお願いしますのだっ」
 ファルナは悲痛な面もちで先を促した。ファルナとシェリア――どちらも二人姉妹の姉であるが、性格の相違は大きい。ただ、どこか似ている気もする、微妙な取り合わせの二人であった。
 シェリアは少し真剣さを帯び、堂々と朗読を始める。
「え……と。
『親愛なるファルナさんへ。リンローナです。時間がないので、いきなり本論から書くのを許してください――シルキアちゃんが本気で〈光の水〉捜しに行こうと言ってます。断っても駄目そうなので、私で役に立てるか分からないけど一緒に行きます。
 この手紙は、準備すると言ってシルキアちゃんから逃れて、書きました。私だけでは完全に力不足なので、誰か私の仲間にも声をかけてください。お願いします。時間がなかったので汚い字でごめんなさい。それではまたね。リンローナ・ラサラ』

 まあ、こんなとこだわ。用件だけのつまんない手紙ね」
 まったく平静きわまりないシェリアとは対照的に、ファルナは両手を頭に当て、見るからに憔悴しきっている様子であった。
「大変ですよん……あんな森の奥へ行っちゃうなんて」
「仲いいんだねぇ、あんたたち」
 感心して呟く魔術師に、ファルナはいつになく突っかかる。
「リンローナさんのこと、心配じゃないのだっ?」
「べっつにぃ〜」
 口笛でも吹くかのように唇をとがらせ、後ろ手に手を組んで、あさっての方角を見上げる。その表情は道化師のように推し量りがたく、あどけないと言い切っても差し支えない程であった。
「ファルナは、シルキアが心配なのだっ!」
 怒りにも似た視線に悔しさを混ぜ合わせ、相手に叩きつけると、ファルナは部屋のドアを勢い良く開き、階段を一段飛ばしで駆け下り、勝手口を開いた。取る物も取りあえず森へ向かう。
 シェリアはしばらくの間、無表情のまま立ちつくしていた。が、やがて静かに窓辺へ歩み寄り、宿屋の横で朝から短剣の稽古に精を出していた盗賊の卵を発見すると、大きく手を振った。
「タック!」
「はいっ?」
 突きの練習を中断して、タックは声のした方を見上げた。むろん、あの高い声はシェリアのものだと頭の中で認識しつつ。
「どうしました?」
「あの子、追って!」
 シェリアが言い終わるか否かのうちに、タックは向こうの森に吸い込まれていくファルナの後ろ姿を瞼の裏に焼き付けた。
「了解です!」
 論争好きではあるが、無駄な論争をしないのはタックの素晴らしい点である。答えるとともに彼の身体は反射的に動いた。
「任せたわね」
 シェリアは涼しい朝風を浴び、左右にゆっくりと手を振った。
 それから不意に溜め息をついて、彼女は自問自答する。
「べっつにぃ〜」
 さっきと同じ言葉を繰り返したかと思うと、腕組みして首をかしげ、そのままおもむろに椅子へ腰掛け、呆然と壁を見つめた。
「私だってさ、ちょっとは心配なのよね。納得いかないけど」
 消えるか消えないか位の声を、さらに潜ませて独りごちる。
「リンローナのこと」
「おいっ、何かあったのか? シェリア、リンローナ?」
 部屋のドアが激しくノックされ、彼女には聞き慣れたルーグの声がした。シェリアの、タックへの言伝を耳にしたのであろう。
「何でもないわ、ここは若い者に任せましょ。ボケのファルナとツッコミのタックか。案外、くっつけば上手く行く感じがするわね」
 終わりの方はほとんど聞こえないくらいの小さい声であった。
「はっ? 何だ、どういう意味だ?」
 ドアの向こうで真面目なルーグが困っている。もしや着替え中かも知れないと思うと、女性の部屋のドアには決して手をかけられぬ彼――さすが騎士志望の若い紳士であった。シェリアはそういう彼の思いをドア越しに感じつつも、またもや頭を巡らせ、結局のところ、一つのお願いをルーグに頼んだのであった。
「悪いけど、ケレンスに伝えて。シルキアとリンローナが森の奥に行った、って。それを追って、ファルナとタックも行ったわよ」
「本当か。私たちも今すぐ追おう」
 結局のところ、シェリアはルーグと二人きりの時間を何とか作りたかったのであった。真剣なルーグに対し、彼女は嘘をつく。
「いま、着替え中なのよ。さっきの件、ケレンスに伝えて」
「わかった!」
 廊下にこだまする足音が遠ざかると、彼女はさっきよりも深い溜め息をつき、再び椅子に腰掛けて足を組み、不服げに語る。
「あの様子だと、ルーグも最終的にはリンローナたちを追うことになりそうね。正義感が強いというか……ま、私もどうせ暇だし、探しに行ってやるか、仕方ない――ほんとに着替えよっと」
 そしてシェリアは木製の両開きのクローゼットを開いた。
 


  6月28日− 


[波は誘うよ]

「うーんっ!」
「よいしょですのぉ!」
 歯を食いしばり、重心を低くし、ありったけの力を込める。レフキルとサンゴーンは木造の重い小舟を押し上げている最中であった。嵐に打ち捨てられた廃屋で見つけた時、それは底の板が一枚めくれて壊れ、まったく使い物にならなかったが、器用なレフキルは適当な材料を見繕って数日のうちに直してしまった。
 今日はいよいよ、街に待った進水式である。普段の二人の行いが良いのか、湿度が低く、からっとした南国らしい晴天にも恵まれる。もう少しで珊瑚礁の息づく青緑色の海が見えるはずだが、最後の緩やかな白い砂山が行く手を遮っている。二人の若い体からは汗が滝のように流れ落ち、質素な水着を湿らせた。
「ぐわぉっ!」
「の〜っ!」
 レフキルが半妖精のリィメル族らしくもなく獣の咆哮をあげて最後の力を振り絞ると、船首はついに峠を越えた。小舟は二人の手を離れ、今度は急激な勢いでもって、左右に二本の櫂を載せたまま、一気に坂を下って森のような海へとなだれ込んだ。
「はぁ、はぁ……やったね」
 肩で息をする友人の横で、サンゴーンは誇らしく拍手する。
「すごいですわ!」
 しばらくの感銘を味わうと、二人は小舟の後を追うかのように砂山を駆け下り、しぶきを上げながら水辺を快走した。まずは準備運動がてら水を掛け合って汗を流す。きゃっきゃと騒ぐ十六歳同士の娘と、その後ろにどこまでも広がる珊瑚礁の海は、さながら一枚の水彩画のように純粋で、遙かに透き通っていた。
 珊瑚を壊さないように気をつけながら、サンゴーンは小舟に乗り込み、不慣れな手つきで櫂を操る。レフキルは後尾につかまってバタ足をし、峠のシェルパのように後押しをした――水の上だとボートは軽い。遠浅なのでおぼれる心配も皆無である。
 だいぶ沖に出て足がつかなくなると、レフキルも小舟へ乗り込んで漕ぎ手を代わった。潮の流れに乗り、舟は空をゆく雲のようだった。トビウオの群れが跳ね上がり、二人は歓声を上げる。
「おいで、こっちだよ!」
「素敵ですわ〜」

 熱海(ねっかい)に浮かぶ南の真珠、亜熱帯の島国・ミザリア国では、町らしい町はミザリア本島のミザリア市とイラッサ町のみである。多島海には長い水草を組み合わせた高床式の古代風の家々からなる小さな集落が点在する。そういう独特の伝統的な南国の家々が建っている名もなき島の一つがレフキルとサンゴーン、二人の行く手に見えつつある――空の蒼と海の碧。
 


  6月27日× 


 家の軒先に、あるいは枝先から別の樹に。
 雫の宝石を連ね、きらびやかに着飾った。
 最後の雨があがり、強い夏の光が差し込めば、
 虹のかけらと、色あせた紫陽花を同時に映す。
 ――それは壊れてしまった蜘蛛の巣である。
 


  6月26日△ 


[すずらん日誌・七月原案(5)]
 能天気なファルナは翌日の朝になると、昨夜(ゆうべ)の妹とのいさかいをケロリと忘れてしまっていた。シルキアが何食わぬ態度で、まったく変わった様子を見せず、井戸水汲みや朝食運びの際、姉に対し、いつも通り振る舞ったのも一因である。
 さて、問題はその後であった。宿に泊まっているお客さんの食器を両親とともに片付け終えると、シルキアはすぐに二階の姉妹部屋に戻ったが、ファルナは一階の食堂(夜はもちろん酒場)で少しくつろいでから帰ることにした。その間、裏の勝手口が秘かに開き、音もなく閉じられたが、彼女には知る由もない。
 山菜取りにでも行こうかとシルキアを呼びに行ったファルナが見たものは、誰もいない、妙にがらんとした姉妹部屋であった。その時になってファルナはようやく昨夜のことを思い出したが、まさかシルキアが本気で出かけるとは考えてもいなかった。
 しかし自分の枕元に一通の羊皮紙の手紙を見つけた時、彼女はまず固まり、動揺し、ついには慌てふためくのであった。
「たっ、大変ですよん!」
 彼女は完全な文盲ではないが、この山奥のサミス村には学び舎もなく、字を読むのは不得手だ。しかも手紙の一部には遠いウエスタリア地域の方言も使われている。大意は理解したものの、焦ったファルナは失礼を承知で客室のドアを叩いた。
「御免なさい、ファルナなのだっ。リンローナさん、いますか?」
 ドアがゆっくりと注意深く開いた。ひょいと顔を出したのは、捜していたボブカットの小柄な聖術師ではなく、薄紫の長い髪が妙に艶かしい、リンローナの姉の魔術師シェリアであった。
「リンローナなら出かけたわよ。何か用?」
「あ、シェリアさんでも構わないのだっ! これを……」
 ファルナは手紙を渡した。シェリアは面倒くさそうに頭をかく。
「リンローナの字だわね。これを説明しろっていうわけ?」
 低血圧で朝の弱いシェリアは、どうにかこうにか朝食を済ませて、さすがに目も醒めてきたようだったが、少々不機嫌そうであった。が、何か思うことがあったのか、急にずるそうな微笑みを浮かべると、細い腕を組んで酒場の看板娘を見下ろした。
「ここのワイン、ほんと美味しいわよねぇ〜」
 相手の返事があるまで口をつぐみ、流し目で無言の圧力をかけ続ける。こうなると、もはや完全にシェリアのペースだった。
「わかりましたのだっ。一杯、おまけしますよん」
「よろしい! そうこなくっちゃ!」
 シェリアは恥も外聞もなく腕を突き上げた。そして大げさに咳払いを一つし、もったいぶってリンローナの手紙を広げ、良く響く芯のある声で読み始める。ファルナの喉がごくりと鳴った。
 


  6月25日− 


[月光の神者・ムーナメイズ氏の、とある日の講義]

「最盛期には十もの州から構成されたポシミア連邦も、ラット連合の独立や緒戦の敗退で、今はわずかに〈沿海州〉〈キルタニア州〉〈レルアス自治州〉の三州体制へと大幅な後退を余儀なくされました。そのうえ、三州の中で最も中央山脈寄りにある〈レルアス自治州〉は、まともな集落として数えられるのはレルアス村のみの、街道も通っていない辺境地域です。荒れ果てた土漠と危険な動物たちこそが主役の〈聖守護神に見放された土地〉とも呼ばれておりますが、ほとんど州としての体をなしていない〈レルアス自治州〉でさえ州の一つとして数えなければならぬ所に、現在のポシミアの切羽詰った状況があります。

 一方のレルアス村では、代々、レルアスと名乗る女性が月光術師の研究活動を主導しており、異世界から魔獣を召喚する月光術に関しては世界最高のレベルを誇っています。ただし、そこに一度入った者は死ぬまで研究活動に明け暮れ、決して脱出することは叶いません。月光の神者である私でさえ、彼らは帰国を許さぬでしょう。そうして世界の秘密が守られています。

 さて、ポシミア連邦の話に戻って、近隣諸国の情勢を考えます。南方には、戦に敗れて独立を認めざるを得なくなったラット連合が控え、北方には我がメラロールの属国となって久しいガルア公国が横たわります。黒髪族の国家として唯一残り、昔日の〈武の帝国〉ガルアの再興を目指すポシミア連邦ではありますが、その行く末は極めて厳しい状況であると断言できます。

 コホン……失礼。水を少々。ごくり。オッホン。

 ところでポルリペーチ連邦長は近年、これまで以上に軍備に力を入れ始め、周辺諸国には不穏な噂が広がっているようです。捨て身の戦は勃発するのか、平和は保たれるのか。そしてポシミア連邦は勢力を盛り返すのか、あるいは滅亡するのか――かなり長期に渡って、大きな戦争の起こらなかったルデリア大陸でも、ここ数年は諸国のバランスの崩れが顕著になり、各国が不安定な時期を迎えつつあるのは間違いないでしょう」
 


  6月24日○ 


 小さな雲を飛び石に、ジーナとリュアは見えない空の運河を渡った。強い風に吹かれ、髪の毛が逆立つのも気にせずに。
「わぁーっ、すっごーい!」
「ジーナちゃん、待って、怖いよぉー!」
 一面に雪が降り積もったかのような雲の島は南海の弧状列島のように数え切れないほど浮かび、膨らんだり分かれたり合わさったりしている。島のところどころに丸い池――雲の切れ間――があり、下界を覗けた。はるか下に見える森の広場では、テッテ青年が右手を額にかざして大空をあおいでいた。
「おーい、ここだよー!」
 ジーナが身を乗り出して手を振ると、地面のテッテもそれに応えた。はしゃぎすぎて、あやうく落ちそうになった彼女を、後ろから追いついたリュアがすんでのところで支え、事なきを得る。
 上空の強い風の海流に乗って、雲の島はどんどん流れてゆく。光のまぶしく降り注ぐ、ある夏の夢曜日のことであった。
 


  6月23日○ 


[だがしやっきょく(11)]
 服用したからと言って喉の痛みが完全に取れるわけではなかったが、それは市販の薬とて同じことである。ともかく老婆の薬は風邪を蓄えたダムの堰となり、何とか病気の進行を食い止めてくれたようだ。彼の朝の判断は充分に功を奏したのだった。
 その日の仕事を終え、夕焼けの光の名残を仰ぎつつ、本調子ではないため足早に最寄りの駅へ向かう。住宅街を抜け、自動車が通り過ぎるのを待って細い道を渡ると商店街が近づいた。
 しばらく歩いてゆくと、彼の脳裏に幾筋かの思考の支流が浮かび、少しずつ合わさって、ぼんやり一つの考えとなった。
 あの店は、まだやっているだろうか?
 方向的には道の左側に見えるはずである。彼はまず前方を確認し、目当てのものが見つからないと悟ると、首だけを動かして後ろを振り向いた。あのこぢんまりとした薬局があったと思われる付近を推定して凝視するのだが、オレンジ色の看板を掲げた新しくて大きなドラッグショップが見分けられるのみである。
 微妙に首を傾げ、彼は歩みを止めていた。こめかみの鼓動が速まっている。答えを知りたいという好奇心と不安は急激に強まり、意を決して、彼は身体の角度を少しずつ変えていった。ついには回れ右して逆向きとなり、元来た通りをじっと見渡す。
 じっと見渡す――。
 間もなく彼は自分の目を疑わざるを得なかった。今朝がた行って来たばかりの、あの古びた薬局が影も形も存在せぬ!
 もちろん最初はすぐに行って確かめようかとも考えたが、駆け出そうとした時、足の重さと、どうせ明日もまた通る道であることに気付く。風邪気味で疲れているだけかも知れないと無理に自分を納得させ、彼はそれ以上深追いせず、改めて帰途についた。横断歩道を越え、T字路を左に曲がれば駅前商店街だ。
 その間、頭の中では様々な縁起でもない筋書きが膨らみ、彼を揺さぶり続けていた。あの老婆はとうの昔に亡くなったのではないだろうか、そして薬局は崩され、跡地には大手のドラッグストアが建設され、それが辛抱ならぬ老婆の幽霊は病人を――。ありがちなホラーもののストーリーが浮かんでは消えてゆく。
 そんな馬鹿な。明日、確かめれば済む話じゃないか。
 心にそう誓って、彼は三両編成の電車に乗り込んだ。

(続きは「完全版」として「一般小説/物語」で公開予定)
 


  6月22日○ 


[すずらん日誌・七月原案(4)]
「シルキアちゃん、ビールのおかわり!」
「はーい、只今!」
 その晩、いつも以上にテキパキ動き回るシルキアを見て、彼女の期待通り、まずはリンローナがねぎらいの言葉をかけた。
「シルキアちゃん、しっかりしてるよね〜」
 返事は決まっていた――シルキアはほくほく顔で応える。
「あたし、近い将来には、ここの看板娘になるからね」
 その合間に、リンローナの正面のケレンスが悪態をつく。
「ほーんと、しっかりしてるよなぁ。どっかの聖術師とは違って」
「むっ」「むむっ」
 うら若き少女たちの不満げな声が重なって響いた。聞き捨てならないとでも言いたげな様子で、ファルナは妹を、リンローナはケレンスを睨む。普段の可愛らしい笑顔が台無しであった。
「だって、あたしにお仕事を任せて、お姉ちゃんは冒険に行っちゃったんだもん。それは、看板娘を譲るって意味だよね?」
 シルキアはわざとらしく腕組みして宙を仰ぎ、自信たっぷりに言い放った。その挑発に、ファルナはすっかり乗ってしまう。
「看板娘はファルナですよん!」
 険悪な空気が漂い、リンローナはケレンスを相手にするのをやめにして〈すずらん亭〉の姉妹の方に向き直った。ケレンスはつまらなそうに頬杖をつき、ビールのジョッキをぐいっと傾ける。
「じゃあさ、冒険者の人と一緒に、先月の〈光の水〉を探しに行こうよ。早く見つけた方が正式な看板娘ってことでどう?」
 暗くなり始めた酒場の各テーブルには、神秘的な輝きをぼんやりと放つ〈光の水〉の、ランプならぬグラスが置かれている。
「シルキアちゃん、そう何度も幸運は訪れないかも知れないよ。森の奥は、たとえ冒険者がついていても、きっと危な……」
 急展開に戸惑いつつも、二人姉妹の妹同士、なんとかシルキアをなだめようと説得の演説をぶったリンローナだったが、その語尾は当事者の一人の大声にかき消されてしまった。
「望むところなのだっ!」
 看板娘の座がかかると、他のことに頭が回らなくなってしまうファルナの盲点をついたシルキアの作戦はまんまと成功した。
「おかわり、お持ちしました〜!」
 シルキアは喋りながらも、きちんと仕事は果たしていた。厨房に行って、注文されたビールをいつの間にやらお盆に乗せ、客の注目を浴びつつ戻ってきた。姉はその様子を苦々しく思う。
 妹は空のお盆を小脇にかかえ、右手を真っ直ぐに伸ばした。
「決まりっ。じゃあ、あたし、リンちゃんと一緒に行く!」
「ええっ?」
 それを聞いて、リンローナが身を乗り出し、びっくり仰天したのは言うまでもない。ケレンスは歯を見せ、悪戯っぽく微笑んだ。
「にーっ。こいつぁ面白くなってきたぜ〜」

 こうしてセレニア家では珍しく姉妹戦争が勃発したのだった。
 


  6月21日◎ 


[すずらん日誌・七月原案(3)]
 タックに名を呼ばれて我に返り、ファルナは荒い息のまま、細い三叉路で呆然と立ち止まった。額には汗の玉がいくつも浮かび、せっかく梳(くしけず)った長い髪の毛はやや乱れていた。
「ふう。やっと追いつきました」
 タックが同い年のファルナの横に並ぶと二人の背丈はほとんど変わらなかった。彼の呼吸は少し速まっているが、まだまだ余裕の表情。さすが日頃から体力勝負の冒険者稼業である。
「あんな約束をしたファルナが馬鹿だったですよん」
 ファルナは重くつぶやいた。その瞳は南の夜空に浮かぶ青い灯火の星のように反省と悔やみに燃え、ウエイトレスという接客業の彼女としては人前ではめったに見せぬ顔つきであった。

 ――サミス村の存亡に関わる冒険を終えて〈紫の草原〉から舞い戻ったタックたちは、数日の間、ファルナとシルキアの両親が経営する〈すずらん亭〉に大歓迎で寝泊まりし、力を蓄えることとなった。平和な毎日が過ぎたが、すべての騒動の始まりは昨日の夕闇の刻、宿屋〈すずらん亭〉一階の酒場であった。
 さて〈紫の草原〉をめぐる冒険では、ファルナとシルキアの姉妹は明暗を分けた。年上のファルナが森の案内役として五人の冒険者を導いたのに対し、シルキアは姉のぶんまで〈すずらん亭〉で働いていたのである。妹のシルキアの方が姉よりも活発で革新的な性格であり、彼女は今回の結果を受け入れがたかった。冒険者とともに、手に汗握る思い出を作りたかったシルキアは、ついにその晩、考えに考えた作戦を決行したのだった。
 


  6月20日◎ 


[すずらん日誌・七月原案(2)]
「ふふふっ、お姉ちゃんたちを驚かせちゃうんだからっ……あたしを〈紫の草〉の冒険に連れて行ってくれなかった罰だよね!」
 サミス村の北辺から始まっている〈双子森〉のかなり奥の方でほくそ笑んだのはシルキアだ。ファルナの妹の十四歳である。
 さっきまで森の外の空は深い蒼だったのにも関わらず、辺りには急激に雨の匂いが漂い始め、どんどん薄暗くなってきた。頭上から響くミミズクの低い声が妖しい雰囲気を増幅させる。
「こんな遠くまで、大丈夫? 道は分かるんだよね?」
 シルキアの勢いに引きずられつつも、左右に注意を払いながら早足で歩くのは、彼女よりひとつ年上のリンローナである。
「あんまり良い気がしないんだけどなあ、この森……」
 背中が悪寒でぶるりと震えたリンローナとは正反対に、地元の娘であるシルキアは堂々とし、自信に満ちて言うのだった。
「だってリンちゃん、冒険者だよね? 悪いやつらが出てきても、オーヴェルさんみたいに魔法でやっつけちゃうんだから!」
 数日の滞在のうちに、すっかり仲良くなったシルキアは、友達を愛称で呼んだ。呼ばれた方は相手の過信に仰天してしまう。
「ちょっと待って! あたし、冒険者って言っても、聖術師なんだよ。治癒は得意だけど、攻撃魔法とは、ぜんぜん縁がないの」
 それでもシルキアはひるまない。まだまだ行き馴れた道の延長線上だったこともある。つい一月前、姉とともに霧の深い森で迷子になったばかりだったのも、シルキアを落ち着かせた。
「攻撃できる聖術もあるってオーヴェルさんから聞いたよ?」
「うん、あるにはあるけどね。でも、あたしは使えな……きゃ!」
 そこでシルキアが突然立ち止まったので、リンローナはあやうく、つんのめりそうになった。冒険者の勘で何らかの異常を察知した彼女は、森に似た薄緑の瞳を見開き、恐る恐る訊ねた。
「シルキアちゃん、どうしたの?」
「少し……遠くまで来すぎちゃったかも知れないなぁ」
「えっ?」
 その時だった。吐息に似た生暖かい風が吹き、二人をあざ笑うかのように撫でる。リンローナの首筋を冷たい汗が流れた。
 


  6月19日− 


[すずらん日誌・七月原案(1)]
 時は潤月(うるおいづき、七月)の半ば近くであった。
「はっ、はっ」
 吐く息も苦しげに、昼なお暗い〈双子森〉をひた走っているのは、サミス村の誇る〈すずらん亭〉の看板娘、ファルナである。健康的な茶色の髪は妹のシルキアより若干長く、後ろで結んでいる。普段は穏やかな性格のファルナであるが、髪と似た色をした瞳は曇り、くちびるは青ざめて、きつく閉じられていた。
 暖かで明るい夏の光は生い茂る木々の葉によって遮断され、僅かな木漏れ日がまれに瞬くのみである。はるか遠くで獣の雄叫びが発せられると、ファルナは思わず握り拳に力を込めた。
「はあっ……シルキア、ほんとに、どこ行ったのだっ?」
「落ち着いてください! 思い当たる場所があるんですか?」
 木々の根っこを軽やかに飛び跳ねて猛追し、声高に叫んだのは旅人風の背の低い若者であった。青年というにはやや若く、少年というには大人びてきた微妙な年頃である。レンズの抜け落ちた眼鏡が上下にずれるのも気にせず勢いよく駆けてゆく。
「ファルナさん!」
 彼は十七歳で冒険者の盗賊業、タック・パルミアであった。
 


  6月18日△ 


 降り続く雨もようやく峠を越えた。紫陽花の葉裏からこぼれ落ちた雫が水たまりにはねて、ぴた、ぴたと辺りに響いている。
「雨玉がもしも飴玉だったら……。
 時たま、しこたま降れば、たまらなく楽しいと思います」
 ぶつぶつ言っている少女の耳を、姉はぎゅっとひねった。
「ほーらぁ、怠けてないで。もうすぐ出番なんだからね!」
「ふぁーい……」
 少女は適当に返事をし、面倒くさそうに糸繰りを始めた。
 赤から紫まで、色とりどりの糸を空に張るのは七人の姫。
 彼女らを筆頭とし、虹の国の住人が活躍する季節である。
 


  6月17日− 


 静寂の森の奥に無数の小さな泉がある。その中のどれかひとつは、泉と同じ形と色をした敷物でカムフラージュされた偽物なのだ。やがて霧の中から溶け出すように現れた黒いローブの男が、早口で合言葉をささやく。秘密の敷物はかすかに揺れ、大きくめくれ上がり、ついには隠されていた洞窟が現れた。
 彼が右手を掲げて呪文を唱えると、輝く光の球が生まれた。
「さて、行きますか」
 先がまったく見えぬ、まん丸い断面の薄暗い洞窟に、彼は吸い込まれるようにして足を踏み入れた。ふわりと敷物がかぶさり、あとは単なる無数の小さな泉の群れにしか見えなかった。

 その一部始終を物陰から見ていた白いワンピースの少女は、恐怖と好奇心に目を見開き、もときた道を駆け出していった。
 


  6月16日○ 


[まほうのケーキ(6)]
 今や遅しとレイベルが現れるのを待っていた子供たちは、主役の登場で大いに沸き返りました。みんなは彼女を丸く囲み、心からの祝福の言葉とともに次々と贈り物を渡していきます。
 その間に、上品な物腰の村長夫人――レイベルのお母さんが、お皿とナイフとフォークとを持ってきたので、手持ちぶさたのナンナは食器類をテーブルに並べるお手伝いをしました。
「どんなケーキなんだろなぁ?」
 食いしん坊の男の子が楽しそうに本音をつぶやいた時、レイベルは両手で抱えきれないくらいのプレゼントを受け取り終わって、それらを床に置くところでした。着飾った娘は、みんなの顔を見回しながらお礼を述べ、ていねいに頭を下げました。
 それから大親友のナンナへまっすぐに視線を送りました。ナンナの心臓はどきんと鳴り、続いて鼓動が激しく打ち始めます。
「紹介するわ。今回のパーティーのケーキは、ナンナちゃんが作ってくれたの! 魔女にしか作れない、魔法のケーキだよ」
「えへへっ☆」
 注目が集まると、ナンナは半ば開き直って微笑みました。男の子たちはナンナを見直して、しきりに褒めちぎりました。
「すげーじゃん」
「たまには女らしいこともするんだなぁ」
 もはや誤魔化せません、ついにケーキが披露されるのです。結わえた部分をほどき、レイベルのお母さんはささやきます。
「さあ、開けますよ……」
 ナンナがぎゅっと目を閉じると暗闇だけが見えました。顔は血の気が引いて真っ青です。ナンナは諦めて耳をすませました。
 箱が開かれる音がした刹那、村長夫人は小さく叫びました。
「あらまあ大変! 運ぶときに壊れたのかしら」
 ナンナの頭の中と胸のあたりに雷のような電撃が駆け抜けます。そのうえ男の子たちが洩らした正直な感想が、ナンナの心に鋭く、深く、えぐるように突き刺さって、とどめをさしました。
「げーっ、なんだよこれー」
「きったねーの」
「ナンナらしいなぁ」
 瞳はじわりじわりと涙の温泉になってあふれだし、ナンナの柔らかい頬を伝います。ナンナは自分が悔しくて、情けなくて、やりきれない思いでした。男の子がはやし立てるのが悔しかったのではありません。大親友のレイベルにさえ本当のことが言えなかったのが悔しかったのです。そんな自分を大ばかだと思い、レイベルと友達でいられる資格は全くないと思いました。
 おばあちゃんの言うとおり、早く用意すれば良かった――。
 いつも明るいナンナの涙に、男の子たちは戸惑い、凍りつきました。レイベルにとっては一年に一回きりのお祝いの席だというのに、雰囲気は重くなりました。誰もしゃべりません。
 もしも空間を移動できる魔法が使えれば、今すぐにでもこの場から消え去り、逃げ出したい気持ちです。もちろん、それは叶いません。ナンナはいよいよ覚悟を決め、低い声で謝りました。
「レイっち、楽しみにしてたのにごめんなさい、あたし魔法のケーキ失敗しちゃった。それ、初めて作った手作りのケーキなの」
 そして涙いっぱいの目で、頬をふるわせながらレイベルをしっかりと見つめました。レイベルは一瞬だけ驚いたようでしたが、次に誰も予想できなかった不思議な行動を取ったのです。
 彼女はテーブルに歩み寄り、おもむろにナイフを持つと、慎重な仕草でケーキに下ろしました。スポンジにまっすぐ切り込みが入り、最初は二つ、結局のところ十六人ぶんのケーキが生まれます。自分に近い側の一かけを選ぶと、右手のナイフと左手のフォークで上手に支え、お花の模様のある取り皿に移します。
 勘のいい男の子が叫びました。
「おぉい、やめとけよ。ハラこわすぞー」
「そんなことないわっ!」
 おとなしいレイベルが珍しく声を荒げました。その目は怒りの炎に燃え上がっています。すぐに男の子は口をつぐみました。
 レイベルのお母さんも静かな口調でナンナを援護しました。
「そう。ケーキは形も大切かも知れないけれど、一番大切なのは中身です。食べる前からそんなことを言うのは失礼ですよ」
 今度は男の子たちが黙り込んでしまいます。ナンナはみじめな気持ちになりました。レイベルの誕生日会が台無しです。

 まさに、その時です。
 金属同士のぶつかる高い音が響きました。
 レイベルがフォークをお皿に落としたのです。
 そして。
 奇跡は起こりました――。
「このケーキ、おいしいよ!」

「えっ?」
 ナンナは涙の筋を顔に残したまま、パッと顔をもたげました。その褒め言葉にはケーキを作った本人が一番耳を疑ったことでしょう。自分の耳がおかしくなったのかと思ったほどです。
 けれど、それは紛れもない事実でした。
「ナンナちゃん、ほんとは魔法使ったんでしょう?」
「はわぁ〜?」
 親友の質問に、ナンナは瞳をぱちくりさせました。みんなにざわめきが起こります。ちっちゃな魔女はにわかに元気を取り戻してゆき、顔は血の気が増してほんのり赤く染まりました。そして作品の味を確かめるため、レイベルのもとへ駆けつけます。
「んぐんぐ」
 口いっぱいに詰め込み、ナンナは上下左右にあごを動かしました。とっくに冷めてはいたけれど、舌の上から心の奥まで温かさが広がってゆくような、ちょっと甘めの、すてきな味でした。ごくりと飲み込んでからの後味も悪くありません。予想以上の出来に、ナンナは思わず飛び上がってガッツポーズです。
「うわ、ほっぺた落ちそ☆ 信じらんないよぉ!」
「マジかよっ?」
 子供たちはナンナのケーキの前に並び、あっという間に行列が出来ました。今回のシェフは最高の笑顔で、ケーキを一片ずつ、お皿に分けてあげます。その間にも、あっちで一人、こっちで二人と歓喜の声がはじけて、部屋中にこだましました。
「うめえよ、これ!」
「おいしいわ!」
「やるじゃねえか、おてんばっ」
「やった、やったよーっ!」
 ナンナは泣き笑いで大はしゃぎしました。
 一方、ドレスを着た可愛らしい主役は、くるりと一回りして半分しゃがみ、スカートの裾を軽く持ち上げて正式の礼をします。
「私の大切な魔女さん。どうもありがとう、魔法のケーキ!」
「どーいたしまして、お安い御用だよ〜。魔女におまかせね☆」
 ナンナはすっかり調子に乗り、親指を立ててウインクです。
「さあさあ、みんな。美味しいものを食べて、おなかもふくれて盛り上がったところで、レイベルの誕生日会を始めましょう!」
 レイベルのお母さんも、ちゃっかり最後の一かけらを平らげていました。ケーキは五分と持たないうちに売り切れです。
 お母さんの宣言を受けて、子供たちはフォークを持った利き腕を天に向かって突き刺し、あらん限りの大声を発しました。
「はーい!」
 レイベルとナンナは目で合図し、がっしりと手を握ります。
 こうして幸せなひとときが幕を開けたのです。(おわり)
 


  6月15日◎ 


[まほうのケーキ(5)]
 時計台の鐘が三つ鳴るころ、ナルダ村の子供たちはプレゼントを持ち寄って村長さんのお屋敷に集まりました。レイベルは村長さんの娘なのです。まもなくドアが開き――フリルつきの可愛らしいドレスで身を装い、おめかししたレイベルが現れます。
「お待たせ。みんな、来てくれてありがとう。さあ、入って!」
 歓声を上げて立派な屋敷に踏み込む学び舎の友達に続き、大きなつつみを持ったナンナも続きます。ナンナには珍しく、うつむきがちにモジモジしていると、レイベルの声がしました。
「ナンナちゃん、来てくれたんだ!」
「あの、あのねっ……」
 ナンナは顔を上げましたが、言葉に詰まりました。友達はみな、奥の部屋に向かい、玄関にはナンナとレイベルだけです。
 右肩に乗っていた使い魔のインコのピロに肩をつつかれると、ナンナは瞳をぎゅっと閉じました。そしてあらん限りの勇気を振り絞り、持ってきた大きなつつみを相手に押しつけました。
「レイっち、ごめん!」
「どうしたの? 何かあったの?」
 レイベルがびっくりして声高に訊ねると、ナンナは顔を上げ、自らを奮い立たせ、一気に事の顛末を説明しようと考えます。
 けれど、どんなに振り絞っても、一言しか出ませんでした。
「あのねっ、魔法のケーキねっ……」
 ナンナが再び視線を地面に向けて黙り込むと、レイベルは渡されたプレゼントをまじまじと見つめ、瞳をぱっと輝かせました。
「魔法のケーキ? これ、魔法のケーキなの?」
 ナンナは、こくんとうなずきかけ、思い直して首を振りました。でも相手はすっかり魔法のケーキだと信じ込んでしまいます。
「ほんとにありがとう! ナンナちゃんなら、きっと約束を守ってくれると思ってたんだ。だから今回、うちではケーキを用意しなかったんだよ。わたし、魔法のケーキ、とっても楽しみだったの」
「でもね……」
「さあ、行きましょっ!」
 レイベルが、はにかんだ素敵な笑顔で先をうながすと、
「う、うん」
 ナンナは曖昧に言葉を濁しました。歩きながら、心の中では反省や後悔ばかりが渦を巻いています。どうして、ちゃんと説明できなかったのだろう――気分は鉛のように重くなりました。
 ちょうどレイベルのお母さんが呼びに来たところでしたので、レイベルはケーキのつつみをお母さんに預け、ナンナの手を取りました。普段の二人からすると、中身だけが入れ替わったような変わりぶりです。元気で華やかなレイベルと、恥ずかしそうなナンナは、手をつないだまま奥の部屋へ進みました(続く)。
 


  6月14日○ 


[まほうのケーキ(4)]
 たいくつな時間が過ぎ去り、ナンナは素晴らしい青空のもと、息せき切って丘を登ってきました。せっかくのケーキがアリやハエに食べられたりしていないかどうか、心配だったのです。
 魔法の薬草屋に飛び込み、カウンターの裏にある狭い食堂に入ります。完成したケーキは出来たてのままテーブルに置いてありました。しかしそれはナンナの頭の中で描いていたケーキよりもだいぶ不恰好な代物でした。傾き、焦げがあり、スポンジも均一ではなく、見てくれの悪さはいかんともしがたいのです。
 ナンナはせっかくのケーキを爆発魔法でこっぱみじんにしたい衝動にかられました。こんなものをレイベルに見せるくらいなら、持っていかない方がマシなのではないかと思ったのです。その考えは飛べない紙風船のように心の中で大きく膨らみました。
 その時、後ろから現れた魔女がナンナの肩を叩きました。
「それが今の実力なんじゃよ」
 ナンナは下を向いて、くちびるを切れそうなくらい噛み締めました。悔しさの中で心の紙風船はしぼみ、何とかそこで踏みとどまりました。ケーキをレイベルに渡すことにしたのです。(続く)
 


  6月13日− 


[まほうのケーキ(3)]
 次の日は朝早くから抜けるような青空でした。食事の用意をしようと老婆が起き出したときです――台所の横の勝手口がきしみながら開きました。まだ温みの残る卵と牛乳びんを両手に、眠たそうな目をしたナンナがまさに今、帰ってきたところです。
「おはよう、おばあちゃん。ケーキの作り方、教えてね!」
 それからナンナとケーキとの格闘が始まりました。ごく普通の古びた料理の本をテーブルに置き、お婆さんからコツを聞いて、ナンナは最初に型を作りました。それから卵と砂糖を程よく混ぜあわせ、溶かしたバターを加えます。生地を型に流し込み、それを窯に入れて蒸し焼きにします。火力を調節して、焦げそうなギリギリまで蒸すのが、初心者のナンナには難しいのです。魔法は使わずに、まきを加えたり、ふいごを吹いたりしました。
「ふぁ〜……できたっ☆」
 果たしてケーキは完成しました。見栄えはとても悪く、崩れかけた古代の神殿のような物体でしたが、ナンナはとても誇らしく思いました。気持ちのいい汗をぬぐうと、朝ご飯もそこそこに、手提げ袋をひったくって村の学び舎へ駆けてゆきます(続く)。
 


  6月12日○ 


[まほうのケーキ(2)]
 その日の夕食が済んでから重い腰を上げ、ナンナはケーキの材料をテーブルの上に並べました。精神を集中させ、レシピ魔法の本を見ながら馴れない高度な調理呪文を口ずさみます。
「ティンクルリンクル……」
 めんどくさがりやのナンナは、卵やミルクや砂糖をまぜてから温めるのではなく、まぜながら同時に熱しようとする、普通の人ならば絶対にやらない無謀な魔法の使い方をしました。
 ボム!
「きゃあぁ〜っ!」
 すると案の定の結果です。ナンナの悲鳴は村の大通りに響きわたりました。ケーキの材料の卵は暴発、ミルクは蒸発、失敗誘発・頻発・併発・連発で、ナンナの頭の中も大爆発です。
 材料は無くなり、そのうえ、お店もとっくに閉まっている時間です。ナンナは裁縫をしていたお婆さんに泣きつきました。立派な魔女のお婆さんなら、ケーキを出すくらい、わけありません。
 けれどナンナがいくら頼み込んでも、お婆さんは決して手伝いませんでした。そのかわり助言をくれました。家の中に隠してある非常用の砂糖のありかと、牛と鶏を飼っていて明日の朝に卵とミルクを分けてくれそうな近所の家を教えてくれました。
「めんどくさいな〜」
 ケーキ作りをあきらめ、レイベルに一言謝って済ませようと考えたナンナを、今まで穏和だった魔女は初めて強く叱りました。自分の手落ちで約束を破るような孫娘は絶対に許さず、永久に家から追い出すというのです。お婆さんの瞳は本気でした。
 その晩、ナンナは泣きながらベッドに突っ伏しました(続く)。
 


  6月11日△ 


[まほうのケーキ(1)]
 仲良しのレイベルの誕生日が近づいてきて、魔女の孫娘のナンナはいつものように軽い気持ちで、どえらい約束をしました。
「ケーキは用意しなくていいよ。ばっちり大丈夫、ナンナに任せといて! すんごい魔法のケーキを作っちゃうからねっ☆」
 そしていよいよレイベルのお祝い会は明日です。早めに準備したほうが安心じゃろう、と魔女のお婆さんはやんわり注意しましたが、ナンナは学び舎の手提げ袋を放り出すなり、ほうきにまたがって遊びに出かけました。風に乗って声が流れてきます。
「あとで〜。ケーキなんて、魔法でちゃちゃっ、だもん!」(続く)
 


  6月10日△ 


[ルデリア数え唄]
 ひとつ ひみつの もりのなか
  ふたつ ふしぎな ものがたり
   みっつ みかづき まどろんで
    よっつ よふけの おまつりさわぎ

 いつつ いつでも きみのなか
  むっつ むげんの まほうたち
   ななつ なかまと てをとって
    やっつ やまこえ ぼうけんしよう
 
 ここのつ こころを あわせれば
  とうとう とけるさ せかいのなぞが
 


  6月 9日△ 


[或る一つの出逢い 〜いつか、ちゃんと書きたい話〜]

 古びた酒場のドアを開けたのはケレンスだった。涙が乾いたばかりのリンローナがその後ろに続き、タックがドアを閉める。
 狭く薄暗い店内はランプの灯る大人びた雰囲気で、静かに談笑する声が聞こえたが、この場の雰囲気にそぐわない十四歳のリンローナが黙ったまま一歩前に出ると、客の関心は三人の少年少女に集まり、それと比例して私語は消えていった。
 その時、店内の動きがあったように見えた。ランプの明かりだけでは、入口付近に立っていたケレンスからは確実に見分けられなかったが、店の隅の方に座っていた中年の男性と、その横の若い男女が目配せして立ち上がったように思えた。
 外の夜風さえ、はたと鳴りやんだ刹那の刻が流れて。
「お姉ちゃん……お父さん!」
 リンローナが涙声で叫び、父の元に駆け寄った。ミシロン船長は幼い娘を強く抱きしめる。その横には温かく見守るルーグと、苛つきを装いつつも、ほっとした表情を見せるシェリアがいた。
 メラロール王国の首都メラロール市、その中の港湾地区である。暗がりでリンローナを強盗から救い出したあと、これがケレンスとタック、シェリアとルーグとの最初の出会いであった。

「記憶の扉」「出会い(7-47)」の続きの部分にあたります)
 


  6月 8日○ 


[海と空のはなし(2)]
 夕陽が海に口づけし、海は真っ赤に頬を染めました。
 粉々になった光のかけらは、一晩の間、貝殻が蓄えます。
 海の底で眠る真珠たちを見上げれば、お星様です。
 朝になれば合わさって、明日の太陽になるでしょう。
 ――パイプの煙は白い雲、銀の笛の音は流れる風でした。
 そして今日も真新しい太陽がその姿を海の上に現します。
 


  6月 7日− 


[海と空のはなし(1)]
「海の底と空の果ては、実はひとつなのだよ」
 パイプの煙をくゆらせ、白ひげの老人はいいました。
「貝殻は海の耳、波音は海の歌です」
 大地の乙女は高らかに銀の横笛を吹きました。
 黄昏が来て、貝殻は美しい海の色に染まります。
 そしてひそやかに、波の音を録りました。
 


  6月 6日○ 


「さーあ安いよ安いよ、採れたての野菜の叩き売りでいっ!」
 ここはセンティリーバ町の〈鼻歌小路〉、露店ひしめきあい活気溢れる地区である。町の人が行き交い、店主たちの声が飛ぶ。二十五歳の魔女シーラは赤い布を頭に巻きつけ、身を乗り出して通りかかる人々を標的にし、宣伝・勧誘に余念がない。
 旅の道連れであり、恋人でもあるミラーはその横で呟く。
「すっかりその気になっちゃってますな」
「寄ってらっしゃい見てらっしゃい。見るだけならタダだよ!」
「商人になった方がいいんじゃないかね。魔女とは思えんな」
「何をぶつぶつ言ってんの。ほらっ、ミラーも大声出すのよ!」
「とほほ……」
 旅費が足りなくなり、残り少ないお金で宿屋の朝食で使い切れなかった野菜を安く買い込んだ二人であったが、傷みやすいし、売値は安いが出店したばかりで客の信用がないため、なかなか思い通りに売れない。その時、さらに追い打ちがかかる。
「おい、ネーチャンよ。誰の許可を取って、やってんだぁ?」
 黒髪族の特徴を強調したような、背がやたら高くて広い肩幅の、頑丈そうで物騒な男が怒鳴り込んできたのである。
「売上の七割を出せば許してやってもいいぜ……ケッ」
 ミラーは店じまいをして別な方法で金を稼ごうと即座に判断したが、シーラは怒りの導火線に火がついてしまった。
「何よあんた、何様なのよ。どこで何売ろうと勝手でしょ!」
「おいシーラ。やめといた方が……」
「ミラーは黙ってて!」
 そしてシーラと男との一触即発の睨み合いが始まった。
 


  6月 5日− 


「いやなのだっ、いやなのだっ……」
 茶色の髪を振り乱し、白と若草色を基調とした可愛らしいウエイトレスの服に皺が寄るのさえ気がつかない。サミス村で唯一の酒場〈すずらん亭〉の看板娘である十七歳のファルナは、普段の明るさとは裏腹にしゃがみ込んで頭を抱え、店のテーブルに寄りかかる。茶色の瞳は何も映さず、まさに茫然自失の状態で、彼女の周りにだけ黒い霧が立ち込めているかのようだ。
「あらまあ、そんなの冗談よぉ。冗談に決まってるじゃない」
 騒ぎの張本人は〈すずらん亭〉特製のランチを頼んだ薬草売りの行商人のおばさんで、その表情は入り乱れた感情で今や複雑に引きつっている。無遠慮だったかも知れない自らの言葉で招いた災厄への反省、どうすればファルナに機嫌を直してもらえるか……ということを繰り返し考えつつも、あまりの彼女の豹変ぶりには、正直なところ、あっけにとられていた。

 事の発端は、例のおばさんがファルナの妹のシルキアに対して軽はずみに投げかけた冗談をファルナが耳にしてしまったことである。サミス村の常連客なら絶対に言わないことだが、その客はたまにしか来ないセラーヌ町からの行商人だった。

 その言葉を再現しよう。
『シルキアちゃん、しっかりしてるわよねぇ。
 看板娘の座を奪っちゃえるんじゃない?』

 常連客なら暗黙の了解で知っているのだが、看板娘がらみの話題には、姉のファルナは大げさすぎるほどに敏感なのだ。
「困りますよん……」
 ファルナは聞く耳持たずに悩み続け、失言のおばさんは大弱り、ランチを食べていた他の客たちも様子を伺うのみだった。
 そこに颯爽と現れたのは、ファルナと良く似た瞳の色をし、髪は肩のあたりまで伸ばした三歳年下の妹、シルキアである。
 そしてはっきりした高い声でこう言ったのだった。
「元気出さないと、あたしが看板娘になっちゃうよ〜!」
「ええっ! いやなのだっ! 困りますよん」
 ファルナは立ち上がり、狼狽してみせた。店の雰囲気は凍りつき、父と母もシルキアに何か言おうとした、その時である。
「じゃあお姉ちゃん、元気だしなよ。お姉ちゃんが元気出したら、あたし、看板娘の座を狙おうなんて思わないからね。きっと」
 ファルナはそれを聞いた刹那、すっくと立ち上がり、細い両腕を天井方向に伸ばすと、すごい速さでぶんぶんと振り回した。
「もう元気なのだっ! ファルナ、元気ですよん」
 店の中にほっとした溜め息が洩れ、父と母も胸をなで下ろす。シルキアは客のおばさんに向かって、そっとウインクした。
 


  6月 4日− 


 古い土壁には見たことのない絵文字が書いてあった。
 呆然と眺めていると、頭の中に、何者かが語りかけてくる。
 言語を超越した、意識と意識による直接の通信で。

 砂漠の塔……太陽の粉。
 酷暑を吸い込む、神の装置である。
 太陽の粉が貯まり過ぎると村が燃える。
 あのオアシスに捨てに行かねばならぬ。
 太陽の粉は、ほむらの武器を生む。
 やつらに狙われる。狙われる……。

 ネ・ラ・ワ・レ・ル!


 ――気がついた。
 私は長い間、意識を失って倒れていたようだった。
 


  6月 3日○ 


 鬱蒼とした森の中にぽっかりと開いた、不思議な草の息づく小さな畑――〈天空畑〉は、曇り空の下、静寂につつまれている。畑を任されているテッテ青年を訪ねて、八歳のジーナと九歳のリュア、同級生の二人の少女がやって来ていた。
「ほらっ」
 八歳のジーナは駆け出し、思いきり勢いをつけて、グラスの中の七草のエキスを斜め四十五度に投げる。するとどうだとう。何と、エキスのこぼれた軌跡が可愛らしい虹の橋になったのだ。
「やったぁ!」
「リュアも!」
 けれど彼女はタイミングを間違い、滝のような垂直虹になる。
「む〜」
「エキスはまだありますよ」
 テッテが用意した瓶から虹の素を受け取り、リュアは再挑戦。
「きゃあ!」
 だが、助走で転倒し、その弾みでエキスの中身が飛びだす。
「いたた……あれっ?」
 今度は上手く虹の橋が出来上がっていたのだった。
 


  6月 2日− 


[だがしやっきょく(10)]
 だるい全身を鼓舞して職場に到着し、薬を取り出す瞬間を待ち遠しく思いながら、彼は仕事の用意を進める。電源コードを繋いでネットワークのケーブルを接続し、スイッチを入れてコンピュータを起動させる。普段通りの準備を済ませて一呼吸ついたのち、いよいよ例の商品を取り出してみる。それは正月の福袋を開封するのに似て、何かしらの期待を抱かせる場面であった。
 森のリス穴を覗くような仕草で、そっと中身を検分する。
「ん?」
 所狭しと収まっている、幾つもの丸めた雪色の包み紙。
 次の刹那、彼は理解した。規格製品化された錠剤でもなく、使いやすく密封された粉薬でもない――それは一回の服用量ずつに分けられた、手作りの風邪薬に他ならなかった。
 直感で選択した栄えある最初の包み紙を持ち上げると、その重みを確かめながらテーブルに載せ、注意深く広げてゆく。南国の真砂を思わせる薬の粉が僅かにこぼれ、風に吹かれる。

 そして。
 白薔薇のつぼみは徐々に解放され。
 ついに花開く刻が来て。
 現れたのは――ミルク色の小さな薬の山だった。

 それを口元に運び、傾斜をつけて流し込み、包み紙を叩いて粉を落とし、水を注いで、ごくりと一気に飲み干した。(続く)
 


  6月 1日○ 


[だがしやっきょく(9)]
 彼が黒い鞄から色褪せた財布を取りだし、千円札を差し出すまで――日課として祈りを捧げる儀式の間の僧侶然として老婆は口をつぐみ、すべての動きを止めて、ただ待っていた。
「はい」
「ありがとう」
 代金を受け取り、薬の袋を前へ差し出しつつも、売り手はまだ話し足りなそうであった。自分の商品との別れを惜しむのか、はたまた町が動き始めたばかりの九時過ぎにやって来た珍しい話し相手をやすやすと逃すのが残念だったのか。もっと宣伝をして印象づかせ、再訪を促したかったのか。全部が当てはまる気もするし、全部が見当違いな気もすると青年は思った。
 だが彼は行かねばならぬ。
 歩き出そうと向きを変える寸前のことであった。カウンターの向こうの丸い老眼鏡がきらりと光り、老婆は相変わらずの自信と自分のペースを崩さずに最後の駄目押しを敢行する。
「まだ子供さんはいない年頃だろうけど……」
「はい?」
 意外な言葉に驚きを隠せぬ若いサラリーマンは、結局のところ足を休めて相手に向き直る。棚に並べられた駄菓子が目に入り、懐かしさを誘う。駄菓子屋のようでもあり、実際は薬局である。だがしやっきょく――という造語が脳裏をよぎった。
 薬剤師は続ける。
「袋のところに、十歳以下は三分の二だとか、十五歳以下は半分だとか、分量もきちんと書いてありますから」
 確かに記されていることを認めつつ、演説を聴き終えると、
「どうも」
 とだけ彼は応え、今度こそ決然とした歩みで一気に戸口を抜ける。その背中に届いた老婆の礼は、やり遂げたという満足そうな中にも、少しばかり寂しげな感じを秘めているようだった。
「ありがとう」
 外は蒸し暑く、日差しは明るすぎて眼が眩んだ。(続く)
 






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