[すずらん日誌・七月原案(7)]
――そして物語はタックがファルナに追いつくシーンへと繋がる。しっとりと湿り気の増した〈双子森〉は一つの巨大な神殿のように気高く謎めいた雰囲気を漂わせ、自らの霧の吐息の中に深く沈みつつあった。その中で生命を育む数多の生き物の蠢動(しゅんどう)が微かに、時には強く、波のように感じられる。
「ほら、ファルナさん、森のざわめきに耳を澄ませてください」
暖かい冬の陽射しに似た父親風の優しさでタックは語りかけた。彼は何種類もの声色や眼差しを自在に使い分けることが出来る。盗賊の技術として身につけたポーカーフェイスであった。
はっとして、ファルナは森の中にいる自分を再認識し、焦っていた心が少し安らぐ。タックの言うとおり、森のハーモニーの子守唄を聴きながら、瞳を閉じて気持ちを落ち着かせたが、茶色の長い睫毛は若干震えており、その横顔の表情は硬かった。
「さあ、もう大丈夫ですね。目を開けて、お嬢さん」
タックはせっかく立ち直りつつある相手の不安を蒸し返さないよう細心の注意を払い、自分の声を風に混ぜ合わせて囁く。
宿屋の看板娘は〈紫の草〉のつぼみが特殊な妖術を浴びて数倍の速さで花を咲かせてゆくかのごとく、最初はこわごわと、音もなく秘やかに、その素直な一双の瞳を開いていった。
こうして改めて見ると、なかなかの綺麗な顔立ちをしているファルナだった。美人というのは大げさだが、可愛らしいことは間違いない。山奥で育ち、何のけがれも世の中の嫌な部分も知らずに育ってきた瞳は夢見がちに潤んでおり、大きすぎぬ鼻と、ふっくらした桃色の唇はバランスが取れていた。彼女からほとばしるのは魂の清純さであった。村の大人からは自分の娘のように愛され、酒場の人気に一役買っているのもうなずける。
「……」
柄にもなく、さっきまでのポーカーフェイスを忘れて相手に魅入ってしまったタックだったが、それは実際には僅かな間だけだった。彼は大げさに目を逸らすと、火照った顔を誤魔化すかのように頬を軽く叩き、おもむろに三叉路の左の道を指さした。
「よく見てください。印が見えますか?」
「なーんにも見えないですよんっ」
ファルナはタックの様子の変化には全く勘づかず、速攻で返事をした。すると横の盗賊は一歩を踏み出して、伸び上がったり腰を低くしたりした。ファルナはちょっと首をかしげ、タックと同じように準備運動じみた奇妙な動きをした――その時である。
「あっ」
看板娘は驚きに充ちて、短く叫んだ。
「なんか光ったのだっ。黄色いものが!」
「ふふっ。気付きましたね」
普段の自分という、彼にとっては〈一つの現象〉に過ぎぬものを素早く構築し直し、にこやかに微笑んだ。そして説明する。
「リンローナさんですよ。魔法の道しるべを、シルキアさんにバレないように落としていったのでしょう。あとを追いましょう!」
「さすが冒険者さんなのだっ!」
ファルナは心底嬉しそうに、溜まっていた不安のモヤモヤを吐き出すかのように相手を褒めたが、かといって楽観できる状況ではない。いつしか〈双子森〉には雨の予感が強まっていた。
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