2002年12月

 
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2002年12月の幻想断片です。

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 12月31日− 


 場所が違えば、祈りも異なる。

 今日も天から白い土産が届けられるヘンノオ町では、毛皮のコートに身をつつんだ長い金の髪の女性が、肩を怒らせて針葉樹の並木道を足早に歩いている。雪と氷と風と、暖炉の赤と、時たま姿を現す柔らかな光の交錯する不思議な世界である。
 公爵であり天空の神者でもあるヘンノオと、月光の神者ムーナメイズは手袋の両手に息を吹きかけて、見張り塔の頂上に立っているが、たぶんいつもより早めに帰り支度を始めるだろう。

 メラロール市ではヘンノオ町ほどの雪は積もっていないし、今日は止んでいるかも知れない。町のカフェではソーセージやビールが飛ぶように売れ、活気に満ちた年末商戦が繰り広げられる。それも夜更けには静まりかえり、来たるべき新年の無事を迎える聖句へと代わり、鐘が鳴れば暖かい挨拶が満ちる。
 シルリナ王女は明日の王室談話の練習を済ませ、早めに床に就くだろう。レリザ公女は最後まで何を語るか悩み続けて、ペンを握りしめたまま、うつらうつら船を漕ぎ出すかも知れぬ。

 マホジール町では、年内の晩餐会を全て終えた後の静けさの中、リリア皇女の部屋のランプだけが灯っているのだろう。

 南ルデリア共和国の多くの船乗り――例えば、ミシロン氏ナホトメ氏――は、船上で初日の出を見るのかも知れない。

 保養地のミラス町では、別荘を利用に来た貴族相手にシャンレイヴァは遅くまで働き、忙しい年末を過ごしているはずだ。他方、同じ保養地でも〈避暑地〉に分類される山奥のサミス村では、ファルナシルキアが楽しい夢を見ていることだろう。
 夢の中身のハチャメチャ度合で言えば、魅惑のシャムル島に住んでいるジーナリュアや、ナルダ村の魔法使いの卵のナンナ、その友達で村長の娘のレイベルも負けていないはずだ。

 デリシ町の奥に〈七力研究所〉を構えるカーダ博士テッテは相変わらずの研究生活だろうし、旅人のミラーシーラは旅先のパーティーで飲み過ぎ、二日酔いで新年を迎えるだろう。

 やはり旅先で年をまたぐケレンスルーグタックシェリアリンローナは、年末年始のアルバイトでへとへとかも知れぬ。

 そして忘れちゃいけないサンゴーンレフキルは、年が変わるまで尽きぬ話をし、時間の経つのが速すぎるのに驚きながら隣同士のベッドにもぐり込むことだろう――特にサンゴーンは。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 リンローナは曇りガラスに向かい、自分に言い聞かせた。
「来年もいい年になるといいね……いい年にしなくちゃね!」

 こうして年は暮れゆき、時間の河は少しだけ色を変える。
 河の流れは止まらぬ――いつまでも、そしてどこまでも。
 


 12月30日△ 


 背中の大きな荷物をものともせずに素早く歩き、妖精の血を引くリィメル族の女の子が窓の下にやって来た。銀の髪に見え隠れする両耳はやや尖っており、瞳は翡翠の色をしている。
「こんちは。来たよ!」
 その声は良く響き、通りの向こうまでこだました――彼女は商人志望で、今は弟子として修行中の十六歳、名前はレフキルという。ここは冬になっても決して雪の降らない南国の町なので、レフキルは半袖にキュロットという夏のような出で立ちだった。
「いらっしゃいですの〜。待ってましたわ」
 少し遅れて、窓から同年代の少女が顔を出した。こちらは背が高くてほっそりした印象を受ける、南方民族ザーン族のサンゴーンである。銀の髪だがレフキルよりも灰色に近く、襟元には草木の力を宿している不思議な緑色の首飾りをつけている。
「すぐ行きますの!」
 サンゴーンは喜びにあふれた顔で言い、その場を離れた。彼女は諸事情により無職で独り暮らしだが、年越しを挟んだ三泊の予定で大親友のレフキルが遊びに来てくれるのだ。今日はいよいよレフキルの仕事納めで、寂しがり屋のサンゴーンはこの日が来るのを胸がはち切れんばかりに待ちわびていた。

 階段を駆け下りる音がして、急に静かになったかと思うと、本当かどうか確かめるようにおそるおそる玄関の扉が開く――。
 その様子を、レフキルの方はにこやかに眺めている。
「レフキル!」
 やがて叫び声よりも速く、サンゴーンが飛び出した。
「ほんとに来てくれたんですの。夢みたいですわ!」
 大げさだよ、サンゴーンは――と言いかけたレフキルは口をつぐみ、その代わりに相手の手を握りしめた。温もりが伝わる。

 南国の冬の涼しい夕風が通り過ぎ、レフキルの後ろ髪とサンゴーンの前髪を空へ引っ張った。レフキルとは違い、サンゴーンの服装は長袖ブラウスにベスト、下はロングスカートだった。
「だいじょぶ、逃げやしないから」
 もちろんレフキルも楽しみだったので、手の平を上に向けて親友を安心させるように語る。他方、サンゴーンは目を丸くした。
「おっきな荷物ですの〜」
「うちの母ちゃんが持ってけって」
 レフキルは無造作に背中のサックを下ろし、紐を解いて中身を開けた。そこには野菜や果実がぎっしりと詰め込まれている。

「美味しそうですわ。さあ、とりあえず入ってくださいの」
 サンゴーンが独特の口調で言った、その時である。
「おじゃましま……んっ、なんか焦げ臭くない?」
 いつもの展開になってきたなぁと思いつつ、レフキルが鼻をつまんで顔をしかめると、サンゴーンははっとして口を抑える。
「大変ですの、お魚を焼いたままでしたわ」
「消火!」
 反射的に、レフキルは匂いの元を目指して駆け出した。

 西の空は深い赤に染まり、南は藍色、東はすでに闇を唄う。
 夕陽は明日を創る――今年という夕陽はまさに沈む一歩手前であり、その後には次の太陽が夜明けを待ち構えている。

 二人の祝週(新年)は手が届きそうなところまで来ている。
 


 12月29日− 


[弔いの契り(4)]

〔参考→幻想断片・2001年 5月20日

 俺らのパーティーの中で、シェリアだけは独自の社交着を持っている。まあ、社交着と言ってもそんな大げさなものじゃなく、普段着を仕立て直した程度らしいが、とりあえずリンは絶賛していた。ルーグも見たけど、あんまし詳しく教えてくれなかったな。
 結局、そのぶんシェリアのサックに入る荷物が減って、いちおう運搬係を担当してる俺にしわ寄せが来るんだから、ゆゆしき事態だけど、まあたまにはドレスも役に立つもんだなと思う。

 ドレスはシェリアの派手好みに合っていて、赤と薄桃色を基調としているが、品良くまとまっている。あとでタックに聞いたところによると、花びらか、つぼみを意識したデザインだそうだ。俺にはその手のセンスが欠けてるらしく、よく分かんねえけどな。
 襟元が大胆に開いていて、艶やかな首筋と、しなやかな肩のラインと――そんでもって、割とふっくらした十九歳の胸が強調されている。男なら、どうしても、まずそこに目が行くだろうな。
 襟の折り返しは六枚ほど。緩やかなカーブを描いて垂れ下がり、桃色の裏地が現れている。真上から見れば、たぶん花びらに似てるんだろう――もしも、そんなことをしでかす馬鹿な輩がいたら、シェリアの魔法でぶっ飛ばされるのが落ちだけどな。
 俺は目線を下ろしていく。胸を過ぎると、シェリアの身体は急速に凝縮されていき、きゅっと締まった申し分のないウエストに到達する。そこまでの緊張を一気に解き放ったかのように、床まで届くほど長いスカートは見事に膨らんでいた。二枚の赤い〈がく〉が左右に分かれ、その間には花びらっぽい桃色の部品が何段も組み合わさっていて、圧巻だ。スカート全体を逆さまに眺めれば、やっぱし花のつぼみに見えるのかも知れねえな。

 ん?
 あのスカートで左右に分かれてる、鳥の翼か花の〈がく〉みたいな明るい赤のところ。あれ、絶対、どっかで見たことあるぜ。
 そういや胸のあたりも――俺の目線は再び上がっていく。

 間違いねえ! ありゃ、いつもの普段着じゃねえか。
 なるほど、お気に入りの赤い服を活かしつつ、スカートに細工を加えたわけか。さすがシェリア。俺たちの財政状況を省みずに〈あの上着が欲しい、この宝石を買って〉と言いまくるワガママな奴だけど、言うだけあってファッションセンスは抜群だな。
 あの赤い服、冒険を求めての移動中はほとんど〈着た切り雀〉に近いけど、ものはいいらしい。思ったほど痛んでないしな。
 ちなみに、やつの薄紫の髪のてっぺんには、どっかの国の姫さんのような赤いリボン――服と似た色の――がついていた。

 俺の服装チェックは、実際には一瞬のことだ。
 登場するなり、シェリアは驚いたように言った。
「あら、ケレンスまで正装なのね。変な感じだわ」
「しょうがねえだろ。俺はこんなん着たくねえよ」
 ふてくされて、また蝶ネクタイをいじりだす。俺と同じく、やはりシェリアのドレス姿を初めて見るタックは素早く目を走らせた。
「新しい服を買わなくても、充分素敵ですよ、シェリアさん」
 パーティーの会計担当のタックにとり、シェリアのおねだりは敵なんだ。やつとしては、ここで釘を打っておく必要があった。
「そうだな」
 と同調したのはルーグ。相変わらず冷静そうだが、恋人関係にあるシェリアのおしゃれは嬉しいようで、声は弾んでいた。

 そういや、リンはどんな格好をしてるんだ?
 てんでバラバラな想像の図が頭の中を駆けめぐる。
 白鳥か、それとも晴れた青空か。ここはシックに黒か?

 ちょうど、その時だった。
「こんばんは」
 姉貴の背中に隠れていた背の低いリンが顔を出し、肩を覗かせ、一歩だけ踏み出す――はにかんだ微笑みを浮かべて。
 俺の疑問の解ける時がようやく来たわけだ。


 12月28日− 


[空の落とし物(12)]

「ジーナちゃん、どこにいるの?」
「こっちだよ」
 リュアとジーナは大声で呼びかけ合いますが、お互いの姿はぜんぜん見えません。辺りはもう水色の霧でいっぱいです。
 子供たちが投げ合った末の流れ弾や、走る途中で生まれた雪煙は浮かんで、地面のそばにある〈第二の空〉、または丘を覆う〈水色の雲〉が現れようとしていました。視界はかなり悪くなっていて、雪合戦どころか、普通に歩くことさえ困難です。
「こっちこっち!」
 耳を頼りに、ジーナの声のありかを求め、両手を広げてバランスを取り、リュアは一歩ずつ確認しながら慎重に進みました。

「どーなってんだ?」
「早く脱出しろっ」
「誰か、助けて!」
 子供たちの間には混乱が広がっていました。何とか霧の薄い方を見定め、手探りで丘から逃げ出そうとします。駆け出して転んだり、おでこをぶつけ合う男の子がいたり、泣き出してしまう女の子もいました。しかも霧は濃さを増しているようなのです。

 みんなはほうほうの体で丘を脱出し、今や雲の真ん中に取り残されたのはリュアとジーナの二人だけでした。周りから音がなくなり、リュアの不安は増します。心細くて仕方ありません。
「ジーナちゃん、帰ろうよ……」

 その瞬間、リュアの肩を後ろから誰かがつかみました。
「きゃあ!」
 飛び上がって驚いたリュアの手を握りしめたのは――。
「あたしだよ!」
 ジーナの声を聞いて、リュアの積もり積もった恐怖心は一気に和らぎました。依然として、大変な状況なのは間違いないけれど、ジーナは信頼できる友達です。一人では混乱しても、二人で知恵を合わせれば良い考えが思いつくかも知れません。
「雲の色が変わったこと、気づいた? 」
 近くにいるリュアの姿さえ霞んでしまうほどの濃い霧の中で、ジーナは辺りの様子をうかがいながら、冷静に言いました。
 リュアは首を振り、そしてジーナは発表を続けます。
「それから、足元の水色の雪がどんどん減ってる。浮かんだ雲が、地面に残ってる雪を上から引っ張ってるんだよ。たぶん」
「ほんとだね……」
 足元の雪を両足で代わる代わる踏みしめ、リュアは感心して言いました。また、確かに雲は水色から灰色へと変わりつつあるようでした。それは、まるで青空が曇ってゆくかのようです。
「嫌な予感がする」
 ジーナが低くつぶやき、リュアは身を固くします。
「どうするの? ここから逃げるの?」
「とりあえず町に出て、テッテお兄さんが……」
 今後の方針を、ジーナが言いかけた時でした。

 ゴロゴロゴロォ。

 遠くの方で何かが地を這うように重く轟きました。
 そのせつな、ジーナの表情はぐっと引き締まります。
 ちなみに〈テッテお兄さん〉というのは、二人が前にお世話になった若い不思議な男の人です。森の向こうで、博士といっしょに魔法の力を研究しています。ジーナは今回の騒ぎにテッテが絡んでいるという確信がありました。証拠は水色――かつて二人は、テッテの畑で水色の植物を見たことがあったからです。
「え、今の音、なあに? それに、どうしてテッテお兄さんが出てくるの? もしかして、テッテお兄さんが雪を作ったの?」
 不安そうに訊ねるリュアに、ジーナは厳しく問います。
「まさか、リュアのおなかが鳴ったんじゃないよね?」
「違うけど。そんなに怖い顔をして、どうしたの……」
 つないだ手に力を込め、リュアは心配そうにつぶやきます。
 雲は、いつの間にかほとんどの雪を吸収し、暗い灰色です。

 ジーナはリュアの手を引いて、思いきり叫びました。
「カミナリだ! ここにいたら、だめだよ。逃げよ!」
 駆け出したとたん、真っ白な稲妻が光ります――。

(続きは凍結。気が向いたら)
 


 12月27日△ 


 小春日和の昼下がり、空気は適度な水分を含み、しっとりと湿っていた。温度は上昇し、お湯に浸かっているかのように暖かい。あらゆる種類の鳥たちがそれぞれの歌い方で即興交響曲に参加し、大地の巣穴からはもぐらの親子が顔を出した。
「気持ちいいのだっ……」
 シロツメクサのじゅうたんに寝転がり、覚醒と睡眠の狭間にある〈永遠のうたた寝〉を浮き沈みしながら、十七歳のファルナはつぶやいた。それが意識的に発せられた言葉なのか、寝言に過ぎないのかは、本人にも他の誰にも決して分からない。

 ファルナがいたのは山の中腹にある窪地だった。周りには白い雪が壁のように積もり、冷たい北風が吹いているのにも関わらず、その窪地だけは春の穏やかさが舞い降りていた――砂漠のオアシスのように。待ちに待った赤や黄色や白や紫の花が咲き乱れて甘い芳香が漂い、蜜蜂の羽音が軽やかに響いている。ぽかぽかした陽気の中をそよぐのは、若い春風だった。

 終わりのない天上世界(天国)の調和。
 しかしながら、それは長続きしなかった。

「ありゃ?」
 突如、ファルナは足元に寒さを覚えた。春の封印が壊されて、ここぞとばかりに冬の精霊が入り込んできたかのように――。

 それだけでは済まなかった。
(あっ!)
 という叫び声をあげる間もなく、気がつくとファルナはなだれに巻き込まれて、胸の辺りまで雪に埋もれていた。なだれに特有の轟音もなく、ファルナにはどうすることもできなかったのだ。
 足を、手を、腰を動かそうとするが、動かせるのはせいぜい首だけだった。必死に藻掻いて、苦しそうにうめき声を発する。
「うーん、うーん……」
 体温はどんどん下がる。ファルナは今や絶体絶命であった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「助けて、なのだっ!」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 瞳を開けると、妹のシルキアの顔があった。まぶしい光。
「おはよう、お姉ちゃん。起きた?」
 妹は、姉の布団の足元を引っぺがしただけでなく、自分用の布団を姉の身体に積み上げ、さらにシルキア自身もうつぶせの体勢で乗っていた。多くの布団と妹の体重に押さえられ、ねぼすけのファルナも息苦しさに耐えられず、目覚めたのだった。
「起きますよん……」
 ついにファルナは無条件降伏を約束する。その時の姉の顔があまりにも失望の色が濃くて、シルキアは思わず吹き出し、占領を解除する――まずは自分が降り、続いて布団を取り除く。
「お姉ちゃん、朝にようこそ」
「ひゃあ!」
 現実の寒さに襲われ、姉は思わず身震いした。真冬に近づくほど活発化する〈すずらん亭〉の朝の戦いは、こうして終わる。
 


 12月26日− 


[空の落とし物(11)]

 向こうからこっちへ、こっちから向こうへ。
 こぼれ玉に流れ弾、歓喜と悲鳴が入り混じります。

「きゃあっ」
 慌てて頭をかかえ込み、その場に座り込んだ無防備のリュアは集中的に狙われ、いくつも背中に雪玉を受けました。痛くはないけれど、せっかく乾き始めていたコートも服も台無しです。
「リュア、戦うの!」
 ジーナは声を張り上げました。背の低さを活かし、ちょこまかと動いて敵を錯乱します。たった一人で弾を繰り出し、防戦続きですが、他よりも高い位置にいるので場所的には有利です。
「あたし手伝うわ!」
「降参するなら今のうちだぞー」
 そのうち、ジーナに助太刀する女の子や、男の子グループに参加する少年も現れます。遊びはいつでも真剣勝負です。

「大丈夫かな?」
 最前線が別の場所に移動し、そろりそろりと起き上がったリュアの肩や服から細かな水色の雪がこぼれました。それは地面に落ちる前、磁石のように上へ引き寄せられ、宙を舞います。さっきよりも浮力が強まっていました――気のせいではなく。
「うわぁ!」
「きゃはっ」
 雪合戦の方は入り乱れての大混戦でした。もう誰が敵か味方かは関係なくなり、単なる雪玉のぶつけ合いです。男の子たちはいつの間にか利き腕と反対の手で投げるようにしています。
「それ、それっ!」
 いつも中心にいるのは、やんちゃ者のジーナです。

 その様子を少し遠くから眺めていたリュアは、もしかしたら自分にも出来るかも知れないと思いました。野蛮な気もするけど、みんなの仲間に入りたいという気持ちも確かにあったのです。
「リュアも……がんばる!」
 しゃがみこんだリュアはありったけの勇気をかき集め、軽く武者震いしながらも、丹念に足元の雪を握りしめて固めました。

 この一弾に、精魂込めて。
 リュアは振りかぶり。
 片目を閉じて、狙いを定め。
 子供たちの大混乱の中へ投げ込みました!

「あ……あ!」
 リュアの喜びの叫びは、最後の瞬間、悲鳴に変わります。勢いに乗って飛んだリュアの弾丸は、途中で急に方向がそれて、見知った親友の後頭部をめがけて落ちていったからです。
「わ!」
 張本人であるジーナはびっくり仰天し、頭をなでながら、固い弾の飛んできた方向――つまりリュアの方をにらみました。
 二人の視線が交わり、幾ばくもなくピッタリと合わさります。

「ジーナちゃん!」
 リュアは自分のコントロールのなさを呪いました。身体がすくんでしまい、口は渇きますが、それでも懸命に謝りました。
「ごめんね、そんなつもりじゃなかったの」
 その一方で、ジーナは怒りに顔をゆがめています。
「リュア〜!」
 老婆の化け物のように、しわがれ声で問いつめるジーナ。

 その表情と声色が徐々にゆるみ、優しい笑みになります。
「投げ方のこつ、教えるから、こっちおいでよ!」

 その時、リュアはすぐに返事できませんでした。
 熱い水が瞳の中に少し浮かんできたからです。
「うん……」
 リュアは小さくうなずくのが精一杯でした。
(ジーナちゃん、ありがとう)
 その言葉は喉まで出かかって、心の奥へ沈みました。


 12月25日△ 


 朝はとっくに過ぎたのに。

 乳白色の濃い霧に沈む都会の谷は、夢と現実の境目が曖昧になっていた。太陽の光は溶けて乱反射し、浅い水底の真実を美しく縫い、地上を歩く者の姿を消し去っていた。生気ある霧にまとわりつかれた高層ビル群は、水飴の棒を思い出させる。

 背びれを動かして、魚の骨が行き過ぎる。

 いつまでも泳いでいるのは、誰?
 あなた? それとも、わたし……?
 


 12月24日− 


[空の落とし物(10)]

「そういえば、ジーナちゃんの雪煙、きれいだったよ」
 リュアがぽつりと言ったことを、ジーナは聞き逃しません。右足を深い雪から引っこ抜いて前進し、親友に詰め寄りました。
「どういうこと?」
 寒さに頬をうっすら染めたリュアは、喜んで説明を加えます。
「あのね、ジーナちゃんがコートに乗って行っちゃってから、水色の雪煙が浮かんで、お星さまみたいに光ってたの。少しずつ合わさって、キラキラ踊ってるみたいで……ほら、あれだよ!」
 リュアが高く指さしたのは丘の頂上の方角でした。

 ジーナのそり遊びの軌跡に沿って浮き沈みする、大地を離れた細かな雪のかけら――天空の妖精たちは、指先くらいの大きさにまとまり、だいぶ数が減って見通しが良くなっています。
 それとは別に、降り注ぐ柔らかな太陽の光を受けて瞬く細かな結晶は、七色の虹のガラスを砕いたかのようです。まず最初にジーナが滑り、だいぶ遅れてリュアが通り過ぎた影響です。

「これも……?」
 同級生の少年は、空に貼り付いてしまったジーナの流れ弾に、自分で作った新しい雪玉をおそるおそる投げつけました。
 その刹那です。二つの〈宝石〉は呼び合って、水のしずくが合わさるのと同じような自然さで、一回り大きく成長しました。
「雲みたい!」
 一部始終を少し離れた場所で見ていたジーナは、雪合戦の反撃も忘れ、手の届くところに生まれた空色の雲の誕生を祝福します。誰もが不思議な出来事に心を奪われ、リュアがぽつりと洩らした不安は、お隣のジーナの耳にも届きませんでした。
「とってもきれいだけど、このまま新しい雲が膨らみ続けたら、どうなっちゃうのかな。ねえねえ、ジーナちゃん、どう思……」

 その語尾は、大勢の歓声にかき消されました。
「すげぇ」「ワー!」「かわいい」「もっともっと!」

 向こうの方で少しずつ背伸びをしていた大きな雪人形の丸い頭と胴体が、ついに大地の呪縛から解き放たれたのです。それを合図として、他の小さな雪人形たちも生命を持ったかのように飛び跳ねると、子供の目線と同じくらいの高さでぴたりと止まりました。それ以上は昇る力が足りない風船を想像させます。
 町の子供らは喜んで雪人形に飛び移りました。乗ると重みで落ちるけれど、離れると浮かぶ、魔法じかけのシーソーです。
 雪みたいだけど雪でなく、雲みたいだけど雲でなく、霧みたいだけど霧でなく、青空みたいだけど青空ではありません。

「よーし、行くよ!」
 ジーナは少年のスキを見て雪の矢をつがえ、狩人が弓で獲物を射る真似をして、雪合戦の再開を高らかに宣言しました。


 12月23日− 


[空の落とし物(9)]

「これって、絶対、あの人のしわざだね」
 なだらかな坂道をリュアと並んで降りてくる途中、ジーナは確信に満ちて言いました。二人の後ろに足跡の列が続きます。
 ふもとの方では子供たちが雪人形作りに余念がありません。最初はお団子くらいの小さな球体を雪の上で転がすと、だんだん大きくなります。一人では押せないくらいまで大きくなれば胴の完成です。その上に、やはり同じ方法でこしらえた頭を乗せて出来上がり。早くもいくつかの雪人形がお目見えしました。
「ええっ? ジーナちゃんすごい。犯人が分かったの?」
 リュアは身を乗り出します。とぼけている響きはありません。
「リュア……ほんとに、まだわかんないの?」
 ジーナはすっとんきょうな声をあげました。それから口をつぐみ、あきれた様子で腕組みし、その場に立ち止まりました。
「だって、分からないもん」
 ちょっとすねたリュアが、正解をせがもうとした直前です。

「ヒャ!」
 またもやジーナが、今度は驚きの短い叫びをあげました。肩に命中した雪玉が落ちる前に、素早く敵の姿をとらえます。
「雪合戦しよう!」
 同級生の少年が新しい雪玉を掲げて、腕を振り下ろし、投げる真似をしました。これで黙っているジーナではありません。
「やったなー!」
 と、怒りよりもむしろ嬉しさを全面に表して、ひざを曲げ、足元に手を伸ばし、空のかけらの水色の雪を固く握りしめました。
 それから忘れずリュアに耳打ちします。
「あとで教えるから、あたしが知ってるってことは内緒だよ」
「うん、でも……」

 きょとんとしているリュアはもう視界に入りません。ジーナは身体を精一杯のけぞらし、斜め四十五度に雪の矢を放ちます。

 少年のおなかを一直線に目指し。
 きれいな放物線を描いて。
 蒼い閃光は突き進みました――。

「よっ」
 しかし少年の方が一枚上手でした。少年は、ジーナの雪玉がぶつかる直前、上半身を思いきりひねって避けきったのです。
「次々いくよー」
 ジーナが次の雪玉の仕込みを始めようとした時です。
 こぼれ弾(だま)の行き先を指さしたのはリュアでした。
「ねえ、あれ見てっ!」

 ジーナが放った、丸い水色の矢。
 高度を下げずに、速度だけを落としてゆき。
 そして止まったのです――宙に浮かんだまま。


 12月22日− 


[弔いの契り(3)]

「それでは女性の方々をお連れに参ります」
 老執事は一礼すると、足早に立ち去った。俺はさっきから襟元の黒い蝶ネクタイがむず痒くて、ことあるごとに首を動かす。
「こんな堅苦しい服はたまんねえな」
 爺さんがいなくなったのをきっかけとして、俺は不満を爆発させた。ちなみに俺たち男三人衆は、闇色のタキシードのジャケットとズボン、衿の立っている白シャツに蝶ネクタイという、いわゆる正装の出で立ちだ。無精髭も剃って、何だか顔が涼しい。
「行こう」
 日が沈み、暗く淀んでいる細い石作りの道を、ルーグはまっすぐに指さした。男爵の屋敷の離れに、ちょっとしたダンスホールがあるという。申し訳程度に置かれている幾つかのランプの炎がゆらめき、俺たちの下に不吉な濃い影を落としている。
「ん?」
 ごちそうの匂いがして、俺は鼻を動かし、唾を飲み込んだ。
「はしたないですよ、ケレンス。華麗なダンスパーティー前に」
 やっぱり子供用の衣装を着るしかなかったけど、妙に似合っている探偵気取りのタックが顔をしかめたので、口答えする。
「俺はごちそうを食いに行くんだぜ。踊りは関係ねえよ」
「あの姉妹はどんな礼服を着てきますかねえ?」
 お得意の戦法だ――タックは全く別の話題を出してきた。けど、俺は見事に引っかかり、自分の考えに沈む結果となる。
「うーん……俺らがタキシードなら、あいつらドレスだよなぁ」
 やはり正装に違和感のないルーグは先頭に立ち、黙ったまま歩いている。その沈黙が何を意味するのか、俺は知らない。
 窮屈で貴族趣味のこの服装がふさわしくないのは、男ではどうやら俺だけらしいな。へっ、馬鹿げた茶番だぜ。糞食らえだ。

 屋敷の中は閑古鳥が啼いていて、寒々しかった。男爵の付き人はほとんどおらず、ダンスパーティーなんざ開いても一体誰が参加するのかいぶかしかったが、俺たちが屋敷の離れにある天井の高い小さなダンスホールに着いてみると、すでに二、三十人ほどの村人たちが可能な限りの正装で集まっていた。ど田舎だから、それほど格式張っているわけじゃないけどな。
 ここのダンスホールは壁も床も古びていたが、辛うじて威厳を保っているように思われた。小さいとは言っても五十人くらいは優に入りそうだ。昔、村が栄えていた頃の名残かも知れねえ。
 一通り見回してみて、妙な点が幾つかあった。まずは年頃の未婚の女の子が誰もいないということだった。ほとんどの女性が三十路に達しているのは明白だったし、唯一、二十代前半と思える女の子は旦那同伴だった。そこより下になると皆無だ。
 ヤローどもは十代も参加している。その中で一番幼く見える、たぶん十四、五のガキに視線を合わせると――やつは驚愕の感情を表に浮かべ、臆病そうな瞳をぱっと逸らしやがった!

「へん。俺は招かれざる客ってわけか」
 低い声で愚痴をこぼすと、右隣のタックが鋭く目を光らせる。
「ケレンスだけじゃなく、僕らみんなのようですよ」
 確かに、あのガキだけじゃねえ。その場に居合わせた村人たちはことごとく覇気が無いし、その様子は何かに怯えているようにも感じられた。視線は伏せられ、唇はきつく結ばれている。
 そもそも俺たち冒険者ごときを村を挙げて歓迎する――ってのからして怪しいもんだ。やつらの態度はよそよそしく、嬉しそうには見えねえ。むしろ、罪の意識と闘うかのように沈んでる。
「無理矢理に駆り出されたって感じですね」
 タックの評は的を射ていた。ルーグも慎重に言う。
「気をつけた方がいいだろう。ぬかるなよ」
「ああ」
 ちょっと面白くなってきたな――俺は軽くうなずいた。

「ゲストの女性をお連れいたしました」
 その時、後ろから嗄れた老人の声が聞こえた。
「シェリア・ラサラ嬢、リンローナ・ラサラ嬢のお越しです」


 12月21日◎ 


[大掃除]

 雨よ雨よ、もっと降ってよ。
 どんどん降って、何もかもを流して。
 嫌だったことも、楽しかったことも。

 そして。
 楽しかった思い出だけを水たまりに溶かして。
 天の遠くに運んでちょうだい。

 だけど。
 嫌だった思い出も、そのまま流してしまわずに。
 大地に染みて、肥料と変えて、かき混ぜて。

 もうすぐ、来年がくるから――。

 だから、雨よ雨よ、もっと降ってよ。
 降ってよね。

大陸歴×××年、風月、二十一日
シェリア・ラサラ
 


 12月20日− 


[潜る]

「ほら、見えますわ〜」
 銀の髪のサンゴーンが上を指さし、独特の間延びした口調で言った。レフキルは驚きと感動で、素早く両眼をまばたきした。妖精の血を引く長い耳は震え、腕と背中には鳥肌が立つ。
「すっごいね!」

 見上げた空は――空ではなく、海であった。
 藻草のひょろひょろした根が張る遠浅の海の向こうには、おぼろな太陽が揺れている。もちろん海水の中には、赤や黄色、青や橙、白や銀色、緑や紫や桃色、またはそれらが入り混じったり、縦や横や斜めの線、あるいは斑点だったりする熱帯魚たちが身軽に泳いでいる。水深が浅いため、大きな魚は少ない。
 それはまさに〈夢〉から出てきたような光景であった。

「穴を開けたら、水が漏れだしたり……しないよね?」
 レフキルは少し現実に戻って、無二の親友に訊いた。するとサンゴーンは曖昧な言い方で、質問の主に説明を始める。
「たぶん大丈夫ですわ。いま、サンゴーンたちの身体は、土と水が逆に反応しますの。だから、こうして土に潜れますわ」
「それはさっきも聞いたよ。で?」
 すかさずレフキルは合いの手を入れる。ここで話を促さない限り、ずっと堂々めぐりになってしまうことを知っていたからだ。
 サンゴーンは特に気分を害することもなく、相変わらず浮き輪に身体を預けたまま、のんびりとした調子で根拠を述べる。
「もともと土は水を通しませんの。だから、いくら水を掘り返しても、こちらに浸水することは、おそらく無いかと思いますわ」
「そっか……水は掘らなきゃいけないんだ」
 レフキルは納得し、微妙に足を動かして上手に今いる位置を保持しつつ、うなずいた。しかし素朴な疑問は後を絶たない。
「でも、なんで喋ったり、息をしたり出来るんだろ」
「あの葉っぱには、天空の属性も入っていたようですわ〜」
 サンゴーンの勘は、今日はかなり冴えているようであった。
 他方、レフキルの関心は早くも別の方へ向かっている。
「じゃあ、魚を捕まえるには、水の中に穴を掘ればいいんだ」
「そうだと思いますの、だけど道具も何もないと大変ですわ」
 サンゴーンは親友の意図が読めず、不思議そうに応えた。なお、彼女の浮き輪には、何かを塗りつけたような後があった。

// ----- 中略 ----- //

 こうして二人は、しばらく地面の中を漂って、海の空を見上げていた。のちに、レフキルはこれを[地中遊泳]と名付ける。
 


 12月19日− 


 シルキアが目を覚ましたとき、辺りはまだ暗かった。
 夜かと思って耳をすませば、ほんの微かな鳥の歌声が聞こえる。冬至を目前に控えた〈この朝〉はいちだんと冷え、いちだんと遅くやってくる。鼻で息を吸うと頭に突き抜ける感じがした。

 保温という卵の殻から抜け出すのは、いつも勇気が要る。小細工せず、シルキアは一気に布団をはいだ。全部の冬が一時に集まり、自分だけ狙ってくるような気がする。シルキアを縮こまらせて、世界に占める彼女の表面積を小さくさせようとする。だからシルキアは震えながらも大きく伸びをして、威嚇した。
 それから右手を差し出して、ベッドの下の上着の袖に素早く腕を通り、いよいよ凍りついた朝の空気の中を泳ぎ始める。

 冬の朝は特殊な匂いだ。それは匂いというよりも、気温の低さから来る一種の刺激という方が近い表現かも知れないが。
 カーテンの隙間に顔を寄せてみる。少し湿ったガラスの、その向こうの町並みは、鼻や口から洩れる吐息よりも白く霞んでいた。それは雪であり、それは霜であり、それは霧であったろう。
 辺りはまだ暗く、冷気は針のように身体を突き刺してくる。単に日の出前というだけではなく、天は濃い灰色の雲で覆いつくされているようだった。薄暗い部屋の中で、彼女の茶色の髪は黒っぽく見えた。風の音は普段よりも弱く、その隙間を縫って、張りつめた鳥の唄が引き続き一日の始まりを告げていた。

 隣のベッドでは、三つ年上のファルナが安らかな寝息を立てている。朝に弱い姉を起こすのはシルキアの役目だが、今はまだその時ではない。靴を履き、シルキアはそっと部屋のドアノブに触れた。金属製のドアノブは冷たさをいっぱいに吸い込み、冬の一つの指標だった。それをゆっくりと右に回していく――。

 身体の隅から隅までかじかんで、階段を下りるのは慎重になる。一階の食堂のドアを開けた瞬間、予想以上の膨らみきった暖かさがまとわりついてきて、シルキアは思わず目を閉じた。
「おはよう」
 子音を立てて、声の練習がてらシルキアはささやいた。暖炉の中で炎が弾け、光と熱に代わる音が不規則に響いていた。
「おはよう、シルキア」
 厨房から顔を出し、母が低い声で言った。ここは村で唯一の宿屋だから、客がいれば朝はことのほか早い。長く厳しいこの季節は、ほとんど開店休業状態だが、それでも客は全くいなくなるわけではない。今日は数人の行商人が泊まっていた。

「お父さんは?」
「玄関の周りの雪かきしてる」
「雪はやんだの?」
「そうね。今日は晴れそうだわ」

 会話が途切れ、母はそっと持ち場に帰った。シルキアは食堂を見渡して、何の手伝いから始めようかと考えをめぐらした。
 結論から言えば、シルキアは全く別のものに心奪われる。

 真紅の龍。

 東の空の低いところに、それは横に長く伸びていた。
 重い雪雲が割れて、隠れていた赤い空が現れたのだ。
 それは虹のように短命な、きわめて神秘的な光景だった。

 本来は、朝の光が徐々に射し込み、勢力を増していくのを見るのが好きなシルキアではある。今朝は見られそうもないが、その代わり、いいものを見られた――と思う。その〈真紅の龍〉の価値と同じだけ、彼女はいい顔になる。薄氷を踏むような緊張を孕みつつも、凛として誇り高い、冬の朝の荘厳な表情に。

 形を変えてゆく空の谷間から、シルキアはふと目を離した。確かに、母が言った通り、しだいに晴れてきそうな天候である。

「……とりあえず、貯蔵庫に行って来ようかな」
「お肉を人数分お願いね。それと、滑らないようにね」
「うん。行って来る」

 姉のファルナが起きる頃には、早朝の厳しさはだいぶ緩和され、朝の第二幕が開演するだろう。それには――まだ、早い。
 


 12月18日− 


[空の落とし物(8)]

 響きわたったジーナの声に、居合わせた野次馬たちはおしゃべりをやめました――子供たちは雪玉を握りしめたまま、大人たちは手持ちぶさたで。その間に、ジーナは深い雪に足を取られながらも、何とか歩いて丘のはじまりにたどり着きました。
 そこに同級生の少年の姿を見つけ、ジーナは声をかけます。
「ね。冷たくないでしょ?」
「うん、知ってる。雪なの、これ?」
 少年の返事を着火点として、その場に居合わせた人たちは一斉にジーナを質問攻めにしました。色々なことに興味を持ち、探求せずにいられないのは、南方民族〈ザーン族〉の特徴です。
「これ、あなたが作ったの?」
「何なんだい、これは?」
「なんで青いの?」

 取り囲まれたジーナは頭がくらくらしましたが、それはほんのわずかな間でした。すぐ我に返ると、大きな声で言いました。
「あたしが知ってるのは、あたしが一番乗りってことだけ!」
 実はひそかに心当たりはあったのですが、確信がない以上、開き直るしかなかったのです。まだ踏まれていない水色の雪を手ですくい、ジーナはみんなに見えるように口に含みました。
「んぐ……それにね、これ、すっごく美味しいんだよ!」
「ほんおあ!(ほんとだ!)」
 同級生の少年が真似して頬張り、瞳を輝かせました。そして子供たちが続き、歓声をあげます。大人たちは子供たちの反応を見てから、いくぶん遅れて、その場にしゃがみ込みました。
 周りの一歩先をゆくジーナは、待ちきれずに提案をします。
「ねえ、雪人形作ろう、おっきいの」
「さんせい!」
 子供たちは突然の雪祭りに有頂天でした。
 一方、大人たちは諦めきれないような、しっくりこないような、ほっとしたような顔つきで、雪を食べながら立ち去ります。その背中は〈あとは子供たちに任せたよ〉とでも言いたげでした。

 これでいよいよ水色の雪は子供たちのものになったのです。冬の強い風が一吹きし、ジーナのポニーテールを揺らします。青空を砕いたかのような風花は、丘と町の間を漂いました。
「きれいね」
 ジーナは白い吐息で感想を洩らしました。けれど、素敵なことをいつも一緒に味わってきた親友の姿はありません。急に不安に襲われて顔を曇らせたジーナは、丘の上の方をあおぎます。おりしも、例のクラスメートの少年が〈そのこと〉を尋ねました。
「ねえジーナ。リュアちゃん、来てないの?」
「んー、あのね……」

 うつむきがちに、ジーナが口ごもった、まさにその時。

「あっ、リュアちゃんだ! おーい!」
 少年の声が聞こえるや否や、ジーナは反射的に顔を上げました。未だに残っていた、そり遊びの軌跡の煙――その中から、コートに乗って慎重に降りてくる雪まみれの女の子の姿が、確かに見え隠れしたのです。その子はゆっくり近づいてきます。
「リュア!」
 ジーナは思わず駆け出しました。その姿に気がついたリュアは立て続けに三回、転んでしまい、泣き笑いの表情でした。

 雪をかき分けるようにしてジーナはまっすぐ走り、迎えに行きました。最後は、放心状態で立ちつくすリュアに飛びかかり、抱きしめます。気温は低いのに、二人とも汗をかいていました。
 そして、ちょっぴりの涙も――。
「ごめんねリュア、置いてっちゃって」
 素直に詫びたジーナの手を、リュアは握りしめました。頭のはるか上と、それを映して足元に広がる青空よりも、リュアの顔は充実感にあふれ、晴れ晴れと暖かい光を振りまいていました。
「ただいま、ジーナちゃん……」


 12月17日− 


[空の落とし物(7)]

「ひゃーっ!」
 防寒具を広げただけという奇妙な橇(そり)に乗って、ジーナは坂道を滑り降りました。最初は直線的に進もうとしましたが、それでは速度がつきすぎて制御できなくなります。しまいには前のめりに倒れ、何度か転がって止まりました。そうでない時も、滅多に味わうことのない加速に、思わずコートの襟元を引きすぎてしまい、おしりがずれて止まってしまうこともありました。
 雪は積もったばかりのようで、柔らかく、転んでも痛みはありません。冷たくないので、服の中に入ってもへっちゃらです。

 何度か転ぶうちに、ジーナはコツをつかんできました。真っ直ぐ行くよりも、蛇のようにくねくね曲がって斜面を降りる方が面白いし、少しでも長く滑れるし、スピードもまともな範囲だということが分かったのです。カーブの操作は難しいのですが、思い切って重心を移動すると、橇は何とか方向を変えてくれました。スリルは最高潮に達し、ジーナの目が真剣になる一瞬です。
 空色の雪の花咲く数本の立ち木が迫っては去り、丘のふもとの野次馬たちや遠くの街並みは拡大して見えました――そのぶんだけ視界が狭まっていることには気づきませんでしたが。
 こうして運動の得意なジーナは、おおむね順調に〈初滑り〉を楽しみました。大事な友達、リュアのことをすっかり忘れて。

 ジーナの後ろには、彗星の尾のような霧の軌跡が出来ていましたが、後ろを振り向かないジーナは気付きませんでした。それを本当の雪国の人が見たら〈金剛氷石〉を想像したかも知れません。とても寒い日、吹きすさぶ風の中で、氷の妖精たちがダイヤモンドの宝石のように瞬く、世にも不思議な伝説です。
 いつまでも消えずに、ちかちかと光って宙を舞っている水色の〈金剛氷石〉は、リュアの心をとりこにしました。お母さんが話してくれた物語が、いま現実として目の前にあったのですから。
「ふしぎ!」
 しかも、この〈金剛氷石〉は、細かい霧の氷の妖精同士が手をつないで、わずかずつ大きな固まりを目指してゆくようでした。それはどことなく、天空を旅する綿雲の動きに似ていました。
 その〈氷の河〉の流れ込む先を目で追って、リュアはふいにジーナが行ってしまったことを思い出しました。夢から出てきたような〈金剛氷石〉を飽きるほど眺めていたい気持ちと、独りぼっちのさみしさが、心の中で押し合いへし合いを繰り返します。
 やがてリュアは身体をひねり、じっとコートを見つめました。
「お母さんに怒られちゃうよね……」

 その頃、さっそうと風を切って進み、ジーナはみんなの注目を集めて軽やかに滑りました。町と丘との境界付近では、雪に足跡を付けて笑っている子供たちと、雪の中に入るのをためらったままの大人たちが、いっせいにジーナの方を指さしています。
 ついに傾斜が緩やかになり、特製の橇から下車します。雪まみれになったコートを手にして立ち上がり、無造作に水色を払ってから裏表を逆にし、何事もなかったかのように羽織ります。
「早くリュアも早く来ればいいのに」
 申し訳程度に振り向き、ジーナはつぶやきました。滑りながら自分が作ってきた雪煙がひどくて、丘のてっぺんは見えにくいのですが、まだ心配するには及ばないと思って歩きだします。

 それからみんなに向かって自信たっぷりに叫びました。
「ねぇー、この雪ねー、ぜんぜん冷たくないんだよー!」


 12月16日○ 


[空の落とし物(6)]

「こうするの!」
 ジーナは脱いだコートを裏返しにして大きく広げ、足元に置きました。しゃがみながら、両腕を雪の中に深く突き刺して身体を支えます。それから膝を立て、服の敷物に座り込みました。
 コートの色がベージュだったので、遠くから見れば、まるで馭者(ぎょしゃ)が馬にまたがっているように思えたことでしょう。
「えっ?」
 リュアはまるっきり動揺してしまい、二の句が継げません。

 一方、ジーナの腕は早くも限界に達しようとしていました。コートの裏側は滑りやすく、自分の身体を支えるのは大変です。
「うーんっ」
 歯を食いしばり、ジーナは右腕を引っ張りました。
 その呪縛が解けて自由になった時、反動でのけぞります。
「おっと、と」
 が、あやうく平衡を取り戻し、コートの襟をつかみました。

 温もりの残る敷物が、いよいよ動き出そうとしていました。
 最後の留め金の左腕を、ジーナは思いきり持ち上げます。
「ま、待って!」
 あわてて駆け寄ったリュアよりも、わずかばかり早く。
 その瞬間だけ、風は凪ぎ、雲も立ち止まって下を見ました。

 金の髪を光らせ、ジーナは静かに移動を始めていました。
 にわか作りの橇(そり)は、水色の空を滑り出したのです!

「先に行ってるよ。それっ!」
 軽い口調で事も無げに言い放ったジーナは、しっかりと両手で襟を握りしめたまま、体重を前にかけました。みるみるうちに乗り物は加速していきます――かすかな雪煙を散らして。
 本来はデコボコの少なくない丘の斜面ですが、雪の積もった今となっては、素朴なゲレンデに生まれ変わっていました。

「ジーナちゃーん!」
 丘のてっぺんに取り残されたリュアは、ほおに両手を当てて声を限りに叫びましたけれども、親友の後ろ姿はどんどん小さくなるばかりです。忘れていた北風の冷たさが身にしみます。
 ここにいても仕方がないと諦めたリュアは、おてんばな親友に驚いたり、怒ったりしながら、一歩を踏み出そうとしました。

 その時です。
「あっ!」
 もともと雪の上を歩くのには都合が悪いのです。
 底が平らなリュアの靴は、つるりと滑りました。
「ひゃあ」
 とっさに両手を差し出したのもむなしく。
 リュアの身体は少しずつ斜めになってゆき――。

 次の刹那、頭から水色の雪の上に突っ伏しました。
 目の前が真っ暗になり、口の中に雪の粉が入ります。

「うーん……」
 手をついて、起きあがったリュアの、すぐそばで。
 最初は偶然か、幻覚か、目の錯覚だと思いました。
 違います、確かに〈何か〉が、ちらちらと瞬いています。それは夜空に輝く星のようにも、ランプのかけらのようにも、また小さな虫の群れのようにも見えます。舞い、浮かび、揺れています。
「すてき!」
 さっきまでの不安な表情は消え、喜びの花が咲きます。
 リュアはしばらく雪まみれのまま、流れる雲を思い出させる水色の雪の煙を、その少し潤んだ瞳で見つめ続けていました。


 12月15日○ 


[弔いの契り(2)]

「ダっ……ダンスパーチぃー?」
 俺は慌てて聞き返し、それから呆然と立ち尽くした。
 悪友のタックはニヤニヤ笑い、貴族の口振りを真似て言う。
「さようでございます。ケレンス殿はさぞかしお得意でしょうね。なにせ、運動は何だってお得意ですからねぇ……ふふふっ」
「そうなのか、ケレンス? ぜひ見てみたいものだな」
 やつの言葉を真面目に受け取ったルーグが反応を示す。
 男爵の屋敷の一階の廊下、その奥の方にある日当たりが悪くて陰気なカビ臭い部屋で、俺は両膝をつき、頭をかかえた。

 タック曰わく――俺が便所に行っている間、男爵の執事をしている眼鏡をかけた神経質そうな爺さんが来て、俺たち三人にあてがわれた寝室のドアをノックし、一方的にこう言ったらしい。

『お休みの所、まことに失礼いたします。突然のことではありますが、わが主人はあなた方を大変気に入り、歓待すべく、ささやかな夜会を開催する運びとなりました。ダンスをメインとした立食形式のパーティーとなります。よろしゅうございますね』

 独特の大げさな抑揚が耳につく、有無を言わせない早口で話しきると、時間と場所を説明し、老執事は会釈して退去した。
「一陣の嵐でしたよ」
 その〈事件〉を形容してタックが呟いた台詞だ。

 西日がわずかに射し込む薄暗い衣装部屋で、俺たちは例の老執事の無言の監視のもと、どれも似たり寄ったりの黒の正装を選んでいた。旅から旅への俺たちは、背中の荷物を減らすため〈基本的に〉無駄に華美な服は持っていない(シェリアという例外もいるが)。必要な時は誰かに借りるしかないわけだな。

 この部屋――というよりもこの屋敷、さらにはこの村自体――はひどく使い古された印象を受けた。自由都市リズリーからザール町に行く途中、脇道に入ったところにある小さな村だ。かつては主たる街道沿いの宿場として一定の存在感を放っていたが、どうやらここ数年の間、一気にうらぶれてしまったようだ。
 あまり良い噂を聞かなかったのだが、日程の都合上、この辺で一晩を明かさねばならない。野宿か、村かという二者択一になった時、シェリアは強烈に村での宿泊案を推した――外で寝たって、どうせ動物への警戒は必要だし、せっかくなら屋根付きの所で寝たいわ。ちなみに俺とタックはどっちでも良かった。
 やんわり反対したのはシェリアの妹のリンだ。動物さんより、人々の方が危ないと思うよ。あたし何か嫌な予感がするの。
 リンの〈予感〉ってのは結構当たる。けど、まくし立てるようなシェリアの口調に俺たちは戸惑い、リンも意見を引っ込めた。
 で、この村に到着し、男爵に冒険の話をせがまれたわけだ。

 数十の洋服ダンスのうち、男物の正装が入っているものだけ今は鍵が開けられていた。サイズが合いそうなのを適当に引っ張り出してみる。服自体はさすがに入れ替えられ、それほど古びてはいなかったが、ほこりがひどくて、いちいち咳き込んだ。
「ゲホ、ゲボッ」
 するとフクロウの置物みたいな執事は、俺のつばきが服にかからねえか、感情のない淀んだ瞳を光らせるってぇ寸法だ。

 ――全く、何から何まで気に食わねえ場所だな!
 こんなことならリンに賛成して野宿すりゃあ良かった。
 しかも、俺の大嫌いな〈ダンスパーチー〉ときたもんだ。
 たまったもんじゃねえぜ!

「僕に合うのは子供用のですかねぇ?」
 背の低いタックが自嘲気味に言った。ルーグはすでに三着の最終候補を選び、肩に当てて鏡の前に立ち、吟味していた。
 しょうがねえ、とりあえず俺も真面目に探すとするか――。


 12月14日− 


[空の落とし物(5)]

「うっわーっ」
 右から左、上から下まで見渡し、ジーナは歓声をあげます。

 青空の一部、天の子供のような丘の斜面。
 その〈空の落とし物〉は、何もかもを新鮮に見せてくれます。

 向こうには、何本かの大通りと入り組んだ小道が西の海を目指して走るデリシ町の市街地が俯瞰(ふかん)できます。神殿の高い尖塔(せんとう)や劇場、楕円形の闘技場がひときわ目立っていました。港には堂々とした貿易船や、帆に風をはらんだ軍船が停泊しています。緩やかな曲線を描く白い砂浜には、冬の白波が静かに寄せては返します。天気がいいので、はるか海の向こうにたたずむルデリア大陸もおぼろに見えます。
「すてき……」
 リュアは夢見る少女のまなざしで、遠くへ思いを馳せます。
 ソルディス山地を越えてくる北風を浴びて、二人の耳は冷えていましたが、心の中には暖炉があかあかと燃えていました。
「ねえ、リュア、これって絶対……」
 自分の推理をお披露目したくてジーナが話し出した時です。
「あっ、人がたくさん!」
 とっさにリュアが丘のふもとの方を指さしましたので、ジーナは答え合わせを忘れてしまい、リュアが示した場所――さっき自分たちがいた、町と丘との境目――に視線を送りました。

 これまで気がつかなかったのですが、主に子供たち、それから好奇心を忘れない大人たちが集まってきていたのでした。
「ありゃ、いっぱい来ちゃったな」
 ジーナはせっかくの二人の秘密がばれてしまったことを残念そうに思いつつも、すぐに気持ちを切り替え、宣言しました。
「とにかく、行ってみよ!」
「うん」
 リュアはうなずき、もと来た道をたどろうとします。リュアの考えの中では、当然、下まで歩いて帰ると思っていたのです。
「待って!」
 手で制したのは、もちろんジーナです。と同時に周りをくまなく探し始めました。特に木の周りの雪を注意深く掘り返します。
「何を探しているの?」
 困惑したリュアが訊ねるのも無理ありません。ジーナはたまにリュアの常識の範囲を越えたとっぴな行動を起こすのです。
 その張本人のジーナは、腕組みして独りごちました。
「さすがに手頃な板はないか……じゃあ仕方ないな」
 すると、突如ジーナは暖かいコートを脱いでしまいました。厳しい空気の流れが容赦なくジーナの身体に襲いかかります。
「どうしたの? ジーナちゃん、風邪ひくよ?」
 リュアは目を白黒させました。もう、わけがわかりません。


 12月13日○ 


[空の落とし物(4)]
 地図→『ルデリア大陸・南東部』 ※デリシ町は右上「レ」

「リュア。これ、食べられると思う?」
 雪に埋もれた細い登り坂をたどってゆく途中で、金の髪のしっぽを揺らし、いたずらっぽい微笑みを浮かべ、ジーナは隣の親友に相談しました。右手には水色の雪玉が握られています。
 肩を並べて歩いていたリュアは、信じられないとでも言いたげな表情になり、友達の顔をまじまじと見つめて聞き返します。
「ジーナちゃん、それ何か分からないから、あぶないと思うの」
 そう言いながらもリュアは諦めたような口調でした。ジーナが次にどんなことを言い出すか、何となく予想できたからです。
 ジーナは瞳を輝かせ、自信を持って応えました。
「ちょっとだけなら、絶対、だいじょうぶだよ」
「やっぱり、さすがジーナちゃんだね」
 リュアはあきれたように微笑みました。実はリュアだって、これが食べられるのかどうか、とても気にはなっていたのです。

「これで良しっと」
 立ち止まり、雪を踏みつけて足場を安定させます。ジーナはまず、あめ玉のように固めた雪を舌の先端でつつきました。
 ジーナは両眼を上げて、味が伝わってくるのを待ちました。
 その横でリュアは心配そうに両手を組み合わせ――と同時に身を乗り出し、興味しんしんの様子で緊張気味に見守ります。
「あっ、スカスカする!」
 ごく自然な言い方で、ジーナは最初の感想を洩らしました。
 じれったくて、今度は思いきって雪のあめ玉を一気にほおばれば、口の左側に可愛らしい小さな丸いコブが生まれました。
 その刹那(せつな)、ジーナの味覚は強い刺激を受け始めます。さわやかで透き通り、知らない場所へ招いてくれる――。
 まさに、空色にふさわしい味だと言えるでしょう。
「スカスカ……?」
 リュアの方は、ごくりとつばを飲み込み、ジーナの台詞を繰り返しました。それから自分で作ったあめ玉をじっと眺めます。

 口の中で素早くコブを移動させ、ジーナは突然叫びました。
「こえ、おいいい!(これ、おいしい!)」
「ほんとう? ジーナちゃん平気? おなか痛くない?」
 不安そうなリュアですが、高鳴ってくるのは胸の鼓動です。
「えんえん(ぜんぜん)」
 ジーナは首を振り、心からの最高の笑顔で返事します。それを聞いて、リュアの疑惑の氷は大部分が溶けたようでした。
 鼻先に当てて、リュアはあめ玉の匂いを確かめます。ほんのわずかな間、迷いましたが、答えはたった一つに決まりです。
 まぶたをしっかり閉じて、こわごわと口の中に含みます。
「ん?」
 口の中に広がって鼻に抜ける、独特の味わい――もしも二人がハッカを知っていれば、真っ先に思い浮かべたことでしょう。
 みるみるうちに緊張が消え、代わりに頬が緩みます。
「おもいろい(面白い)……ちゅ……おいいいね!」
 リュアも気に入ったようです。二人は頬にコブを作ったまま、お互い顔を見合わせて、ジーナは喜びをめいっぱいに表し、リュアはちょっと恥ずかしそうに、それぞれのやり方で笑いました。

 少しずつ縮んでゆくあめ玉を舌の上で転がしつつ、二人はまた登り坂に取りかかります。雪に気をつけながら、しかも軽い足取りで。後ろにはえんえんと、仲良く足跡が並んでゆきます。
 そしてついに、丘のてっぺん――森の入口に到着しました。


 12月12日○ 


[空の落とし物(3)]

「は?」
 ジーナは最初、リュアの言ったことを理解できませんでした。けれども、その後すぐに事態を飲み込み、素早くかがみます。
 いくぶん緊張しながらも、ジーナは一息に水色の中へ手を突っ込みました。思いきり掘り返して、右手にすくい上げます。
「ほんとだ、冷たくない!」
 色が変なことを除けば感触は雪に似ています。こぶしをギュッと握ると固くまとまりました。違うとすれば、それは雪よりもわずかにサラサラしていて、まるで砂浜の砂のようだったこと、そして手のひらで弄(もてあそ)んでも決して溶けないことでした。
「きれい……」
 空色の雪玉を陽に透かし、リュアはうっとりと言いました。
 一方のジーナは、それを触ったり、粉のように指の間から篩(ふる)い落としたり、片目をつぶって丹念に検分しました。
 やがて何かひらめいたようで、腕組みし、ひとりごちます。
「この色、もしかして……」
「ジーナちゃん、上の方に行ってみようよ!」
 リュアの言葉にさえぎられたジーナは、ふと我に返って自分の考えを中断し、銀の髪の友に向かって軽くうなずきました。
「うん。一緒に行こ!」
 そして二人は仲良しを本領発揮して、滑らないように気をつけながら、それでも出来る限り急いで丘の上を目指しました。

 同じ頃、ごく近所に住んでいて、リュアとジーナの学舎のクラスメイトの男の子が、丘の下の方でびっくり仰天していました。
「うわぁ? 何だぁ?」
 それを合図に、不思議な雪に気がついた大勢の子供たちも、少しの大人たちも、ふもとに続々と集まりだしていたのです。


 12月11日○ 


[空の落とし物(2)]

「何これ?」
 デリシの町の市街地の外れ、丘の道のはじまりにたどり着いたジーナは目を丸くしました。草の枯れた寂しい眺めだった丘の全体が、一面の水色です。広々とした丘の斜面が水色に染まっている様は、まるで晴れた青空を映した鏡のようでした。
 ジーナは冷静に丘の上から下まで眺め、つぶやきます。
「雪に似てる」
 色は違うけれど、積もった感じは確かに雪にそっくりです。
 土の上にも、枯木の枝にも、草の葉にもまんべんなく――。

 ジーナは一瞬のうちに想像力を働かせて考えました。
(熱いのかな、冷たいのかな。どんな感触なんだろう。
 食べられるのかな。食べられるんなら、どんな味だろう?)

 水色の雪の正体が何なのか、知りたくてたまりません。考えるだけで我慢できず、行動したくなるのがジーナの性格です。
 曲がりくねった道と、まばらに生えた広葉樹がなじみ深く、いつもリュアと遊んでいる丘なのに――今やジーナの目にはぜんぜん違うものに映りました。未知の山へ挑む冒険者の真剣な顔つきで、おそるおそる記念すべき第一歩を踏み出します。
 右足を持ち上げ、慎重に下ろしていきます。小さな靴が空色の空間に沈んでゆき、半分くらい埋まりました。柔らかかった足元の水色は圧力を受け、キュッと音を立てて堅く縮まります。

 ゆっくり右足を離すと靴跡が残っていました。ジーナは、やはり透明な水色をしている空をあおいで、力強く宣言しました。
「一番乗りだ!」

「あーあ、取られちゃった……」
 ようやく追いついたリュアは、楽しみにしていた最初の足跡をジーナ一人に奪われてしまい、がっくりと肩を落としました。
「ジーナちゃんと一緒に、足のスタンプ押したかったのに」
 今度は悔しさがこみあげてきたようで、ぷぅーっと頬を膨らまします。リュアの部屋の窓からは丘の様子が見渡せるので、いち早く奇妙な水色の雪化粧に気がつきました。それをジーナに教えたくて、約束の時間まで待ちきれず、慌てて走ったのです。
 ジーナやリュアにとって、他の誰よりも先に新しい情報を仕入れ、自分たちの印をつけることは、何よりも重要なのでした。
「ごめんごめん」
 ぺろりと舌を出したのはジーナです。さすがに独走しすぎたことを反省し、相手の気持ちを解きほぐそうと言葉をかけます。
「ねえリュア、こんな雪、見たことないよね?」
「うん」
 まだ少しだけ不満そうにリュアはうなずきます。そしてその場にしゃがみ込み、水色へ、右手をこわごわと差し伸べました。

 その直後。
 リュアは呆然として自分の手のひらと地面とを交互に見つめていましたが、おもむろに顔を上げてジーナの瞳をとらえると、風の唄のようにささやきました――小さいけれど、はっきりと。
「この雪、冷たくないよ……」


 12月10日− 


[空の落とし物(1)]

 学舎はお休みの、夢曜日のことでした。冬の太陽は緩やかに昇ってゆき、優しい温かさを配ります。シャムル公国のデリシ町には青空が広がっています。今日もいい天気になりそうです。
 さて。買ってもらったばかりの茶色い手袋をはめて、銀の髪を肩のあたりで切りそろえた女の子が、大急ぎで走っています。その姿が坂の下の方から、しだいにこちらへ近づいてきます。
 ほら。女の子の苦しそうな息づかいも聞こえてきました。
「ふぁっ、はっ……」
 白い吐息を洩らし、坂道を駆けてくるのは、九歳のリュアです。マフラーが落ちそうになるのを慌てて抑えながら、リュアはそれでも走るのをやめません。額の辺りを重い汗が流れます。
 その頃、品のいい赤屋根の二階建ての家が立ち並ぶその坂道の上側へ、ちょうど差し掛かった別の女の子がいました。
「あれっ、リュアだ」
 そう言ったのは、リュアのクラスメートで八歳のジーナです。背丈は低めで、金の髪のポニーテールがよく似合っています。
「変なの。こっちから迎えに行く約束だったのに」
 不思議そうに言った時、顔をもたげたリュアと目が合います。リュアは嬉しそうに、けれど、何か切迫した表情で叫びます。
「ジーナちゃん、たいへんよ!」
 そこまで言うと、リュアは両膝に手をついて、息が上がってしまいました。坂の途中で荒い呼吸を繰り返しているだけです。
 これはただ事ではありません――そう直感したジーナは、好奇心いっぱいに瞳を見開いて、親友のそばへ駆け寄ります。
 そして待ちきれず、着くか着かないかのうちに訊ねました。
「どうしたの?」
「はぁ、はぁ……大変なの!」
「何が?」
 ジーナは早く知りたくてたまりません。相手のリュアはあくまでもマイペースで、自分の呼吸が整うまで胸を抑えています。
「ねえ、何があったの、教えて!」
 さらにジーナが催促すると、リュアは後ろを指さしました。
「あっちの丘に……」
「行こう!」
 応えるよりも先にジーナの足は動いていました。坂道を蹴り飛ばし、勢いに乗って、どんどん速度を増していきます。
「ジーナちゃーん」
 あっけにとられ、途方に暮れたリュアの声が遠ざかります。
 ジーナは一回だけ振り向いて、親友に言い残しました。
「向こうの丘で待ってる! リュアも早くね!」
 ジーナはまだ、リュアから何の説明も聞いていません。
 でも、行けばわかるはず――ジーナは確信していました。


 12月 9日○ 


「お空にはダムがあるの?」

 その一言にはっとして、通りすがりの私は耳を澄ます。
 見ると、長靴を履いた幼稚園生らしき男の子が訊ねている。
 傘をさした母親は不思議そうな顔をして、相づちを打つ。
「どうして?」
「だってね、だってね、こんなに雪を隠してるんだもん!」
 灰色の空と、星の粉のような粉雪を、子供は見上げる。
「そうね……」
 母親が口ごもった時、向こうから幼稚園のバスが現れる。

 私は急いで住宅街の小道を渡る。子供の声が遠ざかる。

 積もりゆく雪は、空にある水の多さを実感させる。
 雨は流れてしまうけれど、雪はその場所に留まるから。

 私はコートの襟を立て、みぞれ状の氷水を踏んで歩く。
 それはアスファルトの上で軽やかに踊り、弾け、飛び散る。

『お空のダムは、雲の中にあるわよ』

 もし、あのまま親子の会話が続いていたと仮定して。
 私は話の続きを考えてみた。筋のない断片が頭に浮かぶ。

『そっかー。じゃあ、雲は、上にある海なんだね』
『そう。私たちは空の海底をゆくヤドカリさんよ……』

 ――ふふっ。
 そんな会話なんて、あるわけないか。

 けれど、この朝になら、そんな夢も現実になりそうだった。
 肩と背中に染み込む冷気が、ちょっとだけ心地よく思えた。
 


 12月 8日− 


[弔いの契り(1)]

「よし。今日はそこまで」
 短い金髪が特徴的な二十代後半の若い男爵は、両手を何度か叩いた。乾いた音が、妙にがらんとした領主の部屋の高い天井と石作りの床に反響する。顔は端麗で彫りが深く、男っぽいのに比べ、腰回りや肉付きは女のように細く、不健康だった。
 俺はその瞬間を決して見逃さなかった――男爵が口元を緩ませた時、今まで冷静だった顔が、ひどくゆがんで見えたのを。そこに邪悪な何かを直感し、俺の後頭部の髪の毛は逆立った。

 彼を表現する上で最も特徴的なのは、どこか遠くを見据える瞳だ。目の前でいま現実に起こっていることには何も興味がなく、全てを突き抜けた先にあるものを渇望しているかのようだ。
 どうも浮世離れした、いけ好かない奴だ。みんなの反応を知りたくて、ちらりと視線を走らせる。ルーグの横顔は平穏さを装いつつも、右手の拳は強く握られていた。警戒の仕草だ――ってことは、俺の感想もあながち間違いじゃ無いのかも知れない。

「長々と、ご静聴ありがとうございました」
 話し続けていたタックが与えられた椅子から立ち上がり、馴れた調子で深々と頭を下げる。俺とルーグとリンは、タックに少し遅れて立ち上がった。居眠りしていたシェリアの背中を、あわてて妹のリンがつつく。目覚めたばかりで不機嫌そうなシェリアもどうにか起立し、俺たちは五人揃いぶみで丁寧に礼をした。

 俺たち冒険者や吟遊詩人は各地をめぐり、時にはこうして土地に縛られた領主から冒険談義を求められることがある。変化の乏しい毎日に飽き飽きしている領主は、しきりと面白い物語や不思議な体験談をせがむ。その代わり旅人には豪華な食事とベッドを与える。双方の利害関係は一致してるってわけだ。
 こういう状況になった時、俺たちのパーティーでは主にタックがスポークスマンとなって活躍する。彼の雄弁な語りを補足するのは聖術師のリンと、俺たちの誇るリーダーのルーグだ。
 俺はというと、早く帰りたい気分を抑えつつ、辛抱強く我慢して黙ってる。ああいうお偉方と付き合うのは苦手なんだよな。
 リンの姉貴で魔術師のシェリアは、最初の方こそ色々と口を挟んでくるが、そのうち退屈さに負けてしまい、船を漕ぎ出す。

 とにかく、こうして一泊目の冒険談は終わった。帰り際、リンが男爵をまぶしそうに見つめていたのが、心に引っかかった。


 12月 7日− 


[ルデリア歴史談義「ガルア帝国とガルア公国」(3)]

 万を持したメラロール側は、まだ十歳ほどの操り人形であるヒュール皇帝に圧力をかけ、全臣民に向け、ある宣言をさせた。
 その骨子は、
・ルディア村への遷都
・ガルア町をセンティリーバ町に改称
・自らが成長するまで帝国の大部分をメラロール側へ任せる
 の三点であった。

 ガルアの残党の幹部たちはメラロール側に騙されていたことを今さらながら知り、自らの権益が守れなくなる屈辱的な案に猛反発したが、もはや全ては手遅れで、彼らは闇に葬られた。現状に安住した住民の蜂起も僅かで、クーデターは成功した。

 この結果、皇帝ヒュールと、メラロールの軍門に下った旧ガルアの幹部、皇帝の数十人の従者たちはせめて華麗な行列を作り、いつか復讐すると心の中に誓い、帝都を去った。その警備をしたのがメラロール王国の兵団だったことは、かつて栄えたガルア帝国という国家が無くなったことを端的に象徴していた。
 彼らは辺鄙な寒村のルディアに閉じこめられ、実質的には幽閉生活を送ることとなる。独自の軍備は認められず、しかも要塞クリーズに近く、不穏な動きがないか常に監視されている。
 ガルア帝国の巨大な跡地には、メラロール連合王国に属し、センティリーバに都を置く〈ガルア公国〉が誕生したのだった。

 こうしてメラロール王国は大陸の北東部に新たな拠点を築いた。ガルア帝国の再興を最終目標とするポシミア連邦共和国との小競り合いはあったものの、割と平和なうちに何年もが行き過ぎた。こうして築き上げた盤石な支配体勢にも弱みはある。
 もしもルディア自治領のヒュールが呼びかけ、おとなしかった黒髪族が一斉に起ち、ポシミア連邦共和国が加勢したら?
 参加者が非常に多ければ、ガルア公国内にいるノーン族の駐留部隊では対処できない。ラグナス公爵らは逃げ場を失い、海の向こうのシャムル公国にでも亡命するしかなくなるだろう。
 新生ガルア帝国によって、メラロール本国はトズピアン公国への連絡路を絶たれ、最悪の場合は攻め込まれて滅亡するだろう。メラロール連合王国は、ガルア公国だけでなくトズピアン公国をも失い、領土が一気に半減する事態にもなりかねない。
 当然、ラグナス公らの命も危険にさらされる。リグルス、レムノスの二人の公子を手元に残しつつ、レリザ公女をメラロールに留学させているのも、彼らなりの用意周到な保険なのだった。

(おわり)
 


 12月 6日△ 


「なんで、そんなに頭に入るの〜?」
 分厚い歴史書を勢い良く閉じ、目を白黒させて、レリザが言った。ここは〈白王宮〉の奥の方にある王家専用の図書室だ。有名なメラロール王立図書館に比べれば、蔵書数は比較にならないほど少なく、せいぜい大きめの書斎といった様相である。
「知らないことを知るのが、楽しいから……かな」
 茶色の三つ編みで茶色の瞳のメラロール王国の第一王女、シルリナがはにかんで応えた。公務ではなかなか見られない、十八歳の清楚な少女の安心しきった素直な微笑みだった。冷静で知的で気品に溢れ、大人っぽく見られるシルリナも、親友のレリザの前では年相応の自然な姿に戻るかのようだった。

 ちょっとした調べものに使われるこの部屋には、基本的な人文・自然・社会・魔法などの書物が揃っている。今はシルリナ王女と、従姉妹のレリザ公女の自習部屋のような使われ方をしていた。古い本に特有のかび臭さ匂いを消すため、侍女の活けた花が、喋りすぎぬ絶妙の存在感で微かな芳香を放っている。
 天井すれすれまで伸びた本棚と年季の入った踏み台、曲線の彫刻の美しい木製の丸テーブルが三つ、椅子が数脚。本を長持ちさせるため暖房はなく、二人は足まで届く毛皮のロングコートに身をつつんでいた。特別の飾りはない揃いの上着だ。

「そんなに物知りなのに? やっぱシルリナはすごいね……」
 良く似た茶色の瞳を瞬かせ、レリザは感嘆の溜め息をつく。自分だってガルア公国の公女なのにも関わらず、今にも〈さすがシルリナはお姫様だね〉とでも言い出しそうな雰囲気だった。やはり茶色の長い髪を、レリザは後ろで一つに束ねている。
「物知りだなんて……レリザ、それは褒めすぎだと思いますよ。私は本当に無知だなと、いつも思っています。この世には私の知らないことが多すぎるし、興味は尽きることがありません」
 シルリナには珍しい熱心な演説に、レリザは聴き入った。
「……」
「特に歴史は面白いな。歴史には学ぶところが多いから――。私たちは、同じ失敗を二度と繰り返してはいけないと思うの」
 シルリナはいとおしそうに手元の歴史書を眺めた。彼女よりも少し眼の細いレリザは、親友の話を邪魔してはいけないと黙って頷いていたが、終わったと判断して、ふと感想を洩らした。
「シルリナは、きっと、いい王様になれるよ」
「レリザ。私は――」

 シルリナがとっさに何か言おうとした時。
 ごくささやかな音量で、ノックの音がした。
「シルリナ様、レリザ様。お食事の用意が出来ました」
「ありがとう」
 王女ははっきりとした良く通る声でそう返事をした。部屋は冷え切り、白い息だ。歴史書をかかえて立ち上がれば芸術品のような三つ編みが軽く揺れる。そして同年齢の親友を促した。
「さあ、後かたづけを済まして、お食事にしましょう。午後には、きっとセデレート先生も、公務を終えていらっしゃると思うわ」
「あたしは、先生がいない方が楽なのになー」
 うんざりした表情のレリザを見て、シルリナはまた微笑んだ。
 


 12月 5日△ 


[雨の祭りと、止まることと]

 夜の間、降り続いていた雨も、朝には止んでいました。
 気持ちのいい湿り気と涼しさで、頭は冴えてきます。
 空は溜め込んだ涙を出し切って、青々と澄んでいます。

 そんな、ある冬の日の朝のことです。
 小さな森の大きな木々は、雨の祭りを開いていました。
 木が一つの空となって、蓄えた雨を降らせています。
 その雨のまねごとは風の気まぐれによって変化します。
 誰か通りかかると、風が悪戯して、一気に降らせます。

 道端の草には季節はずれの実がたくさんなっていました。
 透明な実、雨の実。やがて溶けてしまう、束の間の実。

 もう少し季節がめぐれば、白い雪の実になるでしょう。
 大地は命を吹き込まれ、起き上がって霜柱になります。
 雨樋からしたたり落ちる雫は、鍾乳洞の柱になります。

 冬の真ん中に近づくことは、すなわち止まることです。
 だってそうでしょう? 熊だってやっていることです。

 優しい光は斜めに射し込み、長い影を投げかけます。
 さあ、湿った土を踏んで、ゆっくり歩きだしましょう。
 青空のかけらみたいな水たまりを飛び越えて。
 白い吐息の行き先を追いかけて。
 


 12月 4日△ 


 どんどん、どんどん、
  果てしなく、
   さらさらと、
    この洞窟の、
     左右から、
      しずくが、雨が、
       こぼれて、くるよ、
        降っ、て、く、る――。



 ――洞窟の左右から、雨が降ってくる。
 しずくじゃなくて、まさに雨なんだ。

 どうやらここでは〈重力〉が滅茶苦茶になっているようだ。
(富士の青木ヶ原樹海で、方位磁針が狂ってしまうように)

 地面があり、天があり、俺らは自分の場所を認識する。
 だけど、そういう根底の指標が変化してしまう、この洞窟。

 顔を向けると、身体をひねると、そっちが天になるんだ。
 わけがわけらんけど、ここではそういう法則が働いてる。

 で、雨はいつでも、必ず、俺の左右から降ってきてる。
(天から地面を目指して加速しつつ降ってくる感じの水)

 もしも雨が降ってくる方向が天だと定義したら。
 この洞窟での天は、俺の左右と言うことになってしまう。

 もしも雨が降ってくるのと反対方向が地面だと定義したら。
 ここの地面は、やっぱり俺の左右と言うことになるんだろな。

 要するに、いつもの主従関係が逆転しちゃったわけだな。
 天と地を決めて、縛り付けるのは、この俺だ。俺自身だ。

 辺りは薄暗く、薄明るい。
 髪の毛はびしょ濡れだけど、何故か服は乾いたまんま――。
 


 12月 3日× 


[ルデリア歴史談義「ガルア帝国とガルア公国」(2)]

 メラロールが実権を握るにあたり、いち早くその意図に気づいた誇り高き黒髪族の戦士らによる決死の抵抗も見られたが、それまでの内紛の影響で連帯感に乏しく、各個撃破でじきに鎮圧される。身体能力の高さや武器の扱いに馴れ、実戦では世界最強と謳われる黒髪族は力を発揮できず、かねてから〈知の国〉と呼ばれていたメラロール側の謀略によって翻弄された。
 幼いヒュールを首班とする傀儡政権ができ、軍事活動はガルア帝国のヒュール派とメラロール王国軍とが合同で当たった。民衆の反乱を抑えるのには主として旧ガルア帝国軍が投入され、メラロール軍は出来る限り戦闘をしなかった。その作戦に対し、住民側はガルア兵を〈裏切り者〉〈売国奴〉と呼び、メラロール兵をもっと汚い言葉で罵った。しかし同じ民族同士での争いに、住民側はしだいに虚しさを覚え、反乱は減っていった。
 またメラロールから派遣された国王の弟は、住民に対し出来る限りの懐柔策を取った。税はメラロール本国と同程度か、場合によっては本国より低くした。帝都ガルアに学院を新設し、文化や魔法の振興に務め、シャムル公国との交易を奨励した。

 それらの諸政策が実を結び、住民の生活水準は確実に向上した。安定した平和が根付き、厳しい北国の冬が少しだけマシな状況になると、異民族からの支配も悪くないと考え始める。それこそは、まさしくメラロール側が狙っていた状況であった。


 12月 2日− 


[ルデリア歴史談義「ガルア帝国とガルア公国」(1)]

「あの子は元気でやっているだろうか」
 朝食後、いくぶん風通しの良すぎる二階の石造りの長い廊下を歩きながら、口ひげを蓄えた小太りの男が呟いた。歳は四十くらいで、その仕草や言葉の隅々から滲み出る威厳があった。
 彼こそはメラロール連合王国領ガルア公国の現在の公爵で、国王メラロの実弟でもある、ラグナス・ラディアベルクである。
 その隣を少し遅れて優雅に歩いている細身の女性は、公爵の妻であるシレイン公妃だ。彼女は少し顔を曇らせ、呟いた。
「シルリナ姫様の足を引っ張らなければ良いのですが……」

 二人が話題にしているのは、長女のレリザ公女のことだ。
 レリザ公女は留学という形で、故郷のガルア公国より遙か西のメラロール市に暮らしている。シルリナ王女の話相手として王宮に居候し、物質的には何の不自由ない生活を送っている。
 属国の公女が本国に留学する――全く不審な点は見当たらないように思えるが、実は政治的な意図や思惑が深く潜んでいたのである。当のレリザ公女だけが気づいていないのだが。

 そもそもガルア地域に住むのは殆どが黒髪族である。メラロール王国の本国を統治するノーン族、その代表であるラディアベルク家とは全く異なる文化や歴史、考え方を培ってきた。
 ルデリア大陸東方の雄であり、かつての〈武の国〉ガルア帝国が滅びたのは、最後の皇帝ヒャースの死後の混乱に乗じたメラロール王国の作戦が、ほぼ完璧に成功したからである。

 ヒャース帝は当時、即位から数年の若い君主であり、素晴らしい武将として名を馳せていた。ところが海の向こうのシャムル公国を襲った〈悪魔危機〉に際し、自らを剣に封じて世界最強の武器となり、この世から姿を消してしまったのである。剣士ルーファスは、その〈ヒャースの剣〉を手に取り、悪魔を呼び出したアルペールを封印した。シャムル公国には再び平和が訪れた。

 ただ、そのとばっちりを受けたのが、突然に有能な皇帝を失ったガルア帝国であった。ライバルの混乱に目をつけたメラロール王国は、巧みに情報を操ってガルア帝国の支配層を幾つもの小派閥に分裂させ、互いに争わせて国力が疲弊したところを一気に狙ったのだ。それもあからさまな侵略ではなく、ヒャースの息子で、当時はまだ赤ん坊だったヒュールに皇帝を継がせようとするガルア帝国の一グループに協力する――という形で。


 12月 1日− 


[初冬]

 夜更けではないが宵の口でもない、夜の序章である。
 物見の塔から見下ろす北国の都は、微細な九日の月の光を浴びて白く浮きだす――あるいは積もり始めた雪が自ら瞬いているのかも知れぬ。ほのかに煙っている吐息が夜霧となって、景色を形作る各部品の境界線をさらに曖昧にした。町の向こうに広がる西海は対照的に黒く沈み、天球の続きのようだった。
「遙かな高みに行ってしまわれたようじゃ」
「……そうですね」
 男が二人、物見の塔に立っていた。最初の声は老人であり、後の声は青年であった。二人の耳は燃えるように冷えている。
 遅い昼間に、ようやく雪がやんだばかりの町は、刺すような寒さであった。北風衆は我が物顔で町の通りを吹き抜けてゆく。

 二人が見ていたのは、天頂に浮かぶ九日目の月である。
 望月ほど明るくはないが、上弦の月よりも存在感がある。
 何枚服を着ても突き抜ける寒さがあり、身体は震えるものの、頭は冴える。月が雲隠れするまで二人は飽かず眺めていた。

 その時、後ろのドアが開いた。二人は微動だにしない。まるで、この風流を壊す来客が誰だか予め知っているかのように。
「ヘンノオ殿。ムーナメイズ殿。戦略会議に参加願いたい」
 略式の鎧を着た三人目の男は良く通る声で一度だけ言った。その言葉には何の感情も込められておらず、事務的だった。
「分かりました」
「参ろう」
 若い〈月光の神者〉のムーナメイズ、ノーザリアン公国公爵で〈天空の神者〉のヘンノオが順に返事をする。それを聞いた〈三人目の男〉は、無骨な動作で軽く頷き、ドアを閉めて退出した。
 服の色や、彼らの表情は、淡い月光の下では判別できぬ。
「行きますか」
「そうじゃな」
 ムーナメイズとヘンノオはやや名残惜しそうに一言交わし、空と月と、自己と対話する貴重な束の間の時に終わりを告げる。
 そして彼らは螺旋階段を下り、三人目の来訪者――北方将軍バラドーの待つ暖かな会議室へと、現実の道を歩き始めた。

 九日の月が再び姿を現したのは、その直後のことであった。
 






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