2003年 2月

 
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2003年 2月の幻想断片です。

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  2月28日− 


[ラニモス教の概略(1) 宗教都市]

 ルデリア大陸と周辺諸島に住む者たちの多くはラニモス教を信仰しており、幾つかの〈宗教都市〉と呼べる町が存在する。マホジール帝国の光の神殿も有名だが、一番の代表は聖王のお膝元、ハイム河とハイム山脈とに囲われたリルデン町である。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 海と山に挟まれた細長い盆地は確かに神秘的であり、リルデン町はその最北に位置する。通常の都市は爵位を持つ貴族や力のある騎士が領主として君臨し、それと別に住民事務の頭として市長や町長が置かれているが、ここでは聖王(大神者)の住まうラニモス神殿が名実ともに支配・行政の要を担うのだ。

 城壁に囲われた町の中心に広がる、古びた尖塔のひときわ目立つ創造神ラニモスの神殿の最奥に贅を尽くした謁見の間があり、背後には聖王の居城が構えている。その広さと、天井の高さ、内装の豊かさ――部屋の壁の全面に貼り付けられた壁の赤い布地から、神話の場面を描いた巨大な壁画、床に敷き詰められた絨毯(じゅうたん)、ベッドから枕から机から椅子に至るまでふんだんに使われた金の粉、聖王の威厳を増幅させる長いマントと世界の帝王位を示す冠、長髪のかつら、最高級のレースを用いた姫君の洗練された白のドレス――それらは、かつて聖王こそが世界政治の焦点だった時代の名残である。

 古くからリルデンを含む周辺の肥沃な盆地を独自の領土として支配していた聖王は、ラニモスから人間に与えられたとされる四つの神者、すなわち火炎・大地・天空・氷水を一手に継承しており、宗教的には絶大な権威を持ち得ていた。三帝国時代にはメラロール・ガルア・マホジールの各国皇帝に戴冠する役割を果たし、名目的には皇帝の上位に立っていたのである。

 だが、度重なる浪費によってしだいに財政が厳しくなり、聖王領の歯車は狂い出す。最も聖王を権威づけるものであり、それゆえ最も禁じ手である〈神者権の売買〉を行うに至り、リルデンの影響力低下は決定的になった。まずは火炎の神者を莫大な金額でメラロール王に売却し、調子に乗ったのか天空の神者・大地の神者を続けざまに同じくメラロール王へ売却したのだ。

 残る神者の印は氷水のみとなり、さすがに聖王も節約に励むようになった。リルデン町は西回り航路の中継点になっていたため、貿易を奨励して資金を得ようとする。しかしながら湾は狭く、港には向いていなかった。大きな帆船は聖王領を無視し、ロンゼ町(現・ズィートオーブ市)からモニモニ町へと進んでゆく。

 マホジール帝国同様に長期低落傾向の聖王領であったが、転機が訪れたのはつい最近のことである。南ルデリア共和国の独立に伴い、代表のズィートスン氏は恐れ多くも聖王に圧力をかけたのだ。残された氷水の神者を取引材料とし、それと聖王領の自治権維持を交換条件にしたのである。経済力はもちろんのこと、武力でも勝ち目が無く、それでも保身を考える聖王に選択肢はなかった。条件を受け容れて四つの神者を全て失い、聖王は名実ともに〈ただの人〉へと成り下がったのである。

 なお聖王はラニモス神殿の司祭長を兼ねている。リルデン町には創造神ラニモスだけでなく、聖守護神ユニラーダと邪神ロイド、つまりラニモス教の頂点に立つ〈三神〉の神殿が完備されている。女神ユニラーダはともかく、冥界と死を司るロイド神殿があるのは、むしろロイドの気を静めてこの世の災厄を軽減させるためだ。他の二神殿と比べればロイド神殿は閑散としている。

 これはルデリア世界全般に言えることであるが、ロイド神殿に仕える神官の中には心からロイドを信仰している邪教徒もおり、地下でいかがわしい儀式を繰り返していると恐れられている。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 リルデン町の他には、マホジール帝国本国に宗教都市と呼べるものが存在する。ルドン伯爵領土の奥には創造神ラニモスを祀る中心地として〈光の神殿〉の町があり、マホジール町からさらに山へ踏み込んだ奥には時の女神ティネアを信仰する〈時の神殿〉の町がある。ティネアはラニモス教の神に数えられているものの、実質的には古代宗教の名残と考えられている。
 


  2月27日− 


[春待つ日々(3)]

(前回)

 雨に打たれ、風に食べられ、長い時の流れを経て角の削られた石は上半分を覗かせ、下半分は土に埋まり――高き天上界と深き冥界と、この地上界とを繋ぐ抜け道のように立っている。
 その中にひときわ目立つ真新しい石がある。サンゴーンとレフキルは急に話をやめて黙り込み、厳粛の意識を顕わにした表情でそっと石に近づいた。森の小径では木々に阻まれていた強い海風を直接に受け、サンゴーンの銀の前髪は乱される。

 レフキルはしゃがんで、身の丈も横幅も彼女の膝くらいしかない棒状の黒い石の前にひざまづき、対照的な色の白い花束を手向ける。草の上に横たえられた花の亡骸は二度と咲かぬ。

 それは墓石だった。
 この国の古くからの伝統を引き継ぐ棒状の形状に合わせ、右に九十度倒した字で、縦方向に名前と享年が刻まれている。

サンローン・グラニア(享年七十八歳)ここに眠る

 両親が謎の失踪を遂げたため、祖母のサンローンは実質的にサンゴーンの唯一の肉親であった。サンゴーンの最も大切な人であったのは言うまでもないが、妖精と人間の血を受け継ぐリィメル族のレフキルにとっても生涯の恩人と呼べる人物だ。
 サンローンは世界的に重要な草木の神者を務め、さらにイラッサ町の町長として善政を敷き、町民からの信頼は絶大だった。特にリィメル族――人間からも妖精からも中途半端な存在とみなされていた――の偏見を失くす運動は大成功を収め、レフキルが生まれる頃には居心地の良い国になっていたのである。
 功績に比するならば、この墓石はあまりにも小さく質素だが、それは彼女自身が生前に遺言したことだった。場所も本人の希望通り、海と町と、広い世界が見渡せる山の上が選ばれた。

 レフキルは膝をつき、サンゴーンは立ちつくしたまま――瞳を閉じて想い出に沈み込む。二人は同じ風の音を聴いていた。


  2月26日△ 


[諜報ギルド(5)]

(前回)

 若い役人は奇抜とも思えるほどの案を出しました。

『盗賊団を、盗賊団の取り締まりに使いましょう』

 かつての三帝国時代に〈知の国〉と呼ばれていたメラロール帝国の流れを継ぐメラロール王国は、もともと作戦を練るのが得意なお国柄なのですが、彼の発言はまさにその象徴でした。
 しかし物事は最初から上手く運んだわけではありません。彼の提言はあまりに突飛すぎたため、消えかかろうとしました。
 それを拾ったのは当時のメラロール市助役だった人物です。盗賊団の取り締まりにほとほと困り果てており、どんな愚策だろうが、とにかく藁にもすがりたいほどの思いだったようです。

 助役は、提案者の若い役人を特命の盗賊団対策責任者に任命します。その会議で素案は徹底的にたたき上げられ、最終的には〈知の国〉の面目躍如たる対策案へと発展していきます。
 ちなみにここで言う〈若い役人〉とは、のちに市内治安長官に就任するディラント子爵であることを付け加えておきましょう。

 さて、盗賊団自らを盗賊団の取り締まりに使うとはどういうことでしょうか。考えれば考えるほど矛盾するように思われますが、実はこれこそが最も有効で、かつ有益な手だてだったのです。
 それは盗賊団を分断し、抗争を利用するということを意味します。治安を悪化させる盗賊団を、むしろ治安維持に使うのです。盗賊団を撲滅する方法は、盗賊団が一番詳しいのですから。

 言うのは簡単ですが、いざ実行に移すのは困難を極めます。平民時代の若かりしディラント子爵を中心とする盗賊団対策会議では、最終的な目標から遡り、どう持っていけば一つ一つの問題点を確実に乗り越えられるか激論に激論を重ねました。

『盗賊団の中でも最大かつ最強の集団を、メラロール王国子飼いの治安維持部隊にする。そのためには盗賊団を分断させる必要があり、そのためにはグループ同士の抗争を利用する。抗争を起こさせるため、公認諜報ギルドの奨励金、および治安維持部隊の身分の保証をちらつかせ、王国派と反王国派……』

 ちょっと難しかったでしょうか。ケレンス、あくびをしないで。

 もちろん一つのギルドが力を持ちすぎないように、あらかじめ手を打っておくことも必要でした。そのような巨大で強力な組織が台頭すれば、逆に治安の足かせとなるからです。もはや他に誰にも止められなくなってしまうでしょう。まさに諸刃の剣です。
 対策会議の若い委員たちは熱き意見を交わし、検討を繰り返しました。そしていよいよ、最終的な提言が出されたのです。


  2月25日△ 


[夜半過ぎ(7)]

(前回)

 その時突然、真っ黒の影が首を出したのである。
(はっ!)
 突然の出来事に身構えるゆとりはなかった。ファルナは悲鳴を上げることも出来ず、反射的に上体をのけぞり、瞳を大きく見開いた。全身が一気に縮まってしまうような錯覚を覚える。美味しそうな匂いが示唆し続ける優しさとは別に、背景の闇が増幅する恐怖の方は一歩先んじて確実にやって来たのであった。

「……ファルナ?」
 立ちすくんでいると女性の囁きが聞こえた。自分の名前を呼ばれることにファルナは一瞬ぎくりとする――とともに、その声には憶えがあると直感した。しかしながら密なる夜気が頭の中を針のような痛みで繰り返し突き刺し、思考の流れを切り裂いて痙攣させ、彼女の〈関連づける〉という行為を邪魔していた。
 働かない頭を放棄し、視覚に頼って目を凝らすと、月の光を受けて朧にかすむ相手はファルナと同じくらいの背丈のようだ。

「あら、どうしたの? 起きちゃったかしら」
 今度は語りかけるようにメッセージが届けられたが、それは言葉よりも少し淡泊にこだました。ファルナの耳の奥に残る響き、そこに闇との摩擦で磨り減った親しみ深い感情を的確に補うならば、相手の正体はおのずと明らかになる。間違いない――。

「お母さん?」
 それでもなお軽い疑問形になったのは、妖しい精霊が現れてもおかしくない夜の不思議さに浸りすぎたからだろう。光の治める時刻とは全ての組成が変わったかに思える闇の中で、確かなものは何一つとして存在しないことを彼女は直感していた。

「ええ。私よ」
 すぐになじみのある声で返事があり、ファルナはようやく一安心して溜め息をついた。その息の流れが白く霞んで見える。
 そう、ここでは〈見える〉のだ――。
 ドアの隙間から洩れてくる柔らかで微細な明かりの曲線たちを片側の頬に受けて、母親のスザーヌがそこに立っていた。

「よかったのだっ」
 守ってくれる人がいる実感は彼女の緊張をほどくのに充分であり、奇怪な触手を伸ばしていた闇が遠ざかるように思えた。


  2月24日− 


[諜報ギルド(4)]

(前回)

 タックは目を開けると、言葉を選びつつ丁寧に語り始める。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 ずっと昔から、そのような制度があったわけではありません。

 僕らがいま生活をしているメラロール王国でも、かつては他の国と同じ程度には盗賊団がはびこっている時代がありました。念のために付け加えるのならば、ここで言うメラロール王国とは正式にはメラロール市を中心とするラーヌ公国の地域ですが。

 盗賊団に話を戻しましょう。彼らは秘密裏の徒弟制度を築き上げ、追跡やスリ、鍵開けや罠の設置といった専門技術を培いました。その中には、ナイフ使いやパチンコでの投石などという暴力的なものも含まれます。彼らはボスを頂点とする厳しい階級社会を作り、大きな組織は〈盗賊ギルド〉を名乗ってアジトを作り、対立するグループと裏社会での抗争を繰り返しました。

 珍しいお宝を狙う冒険家の集団もいたのですが――身近な所では空き巣や引ったくりはもちろん、時には無辜の市民が盗賊団同士の抗争の巻き添えを食うこともありました。今では世界一安全な町と呼ばれるメラロール市でさえ、その頃、夜に一人で出歩くには相当の覚悟が必要だったと伝えられています。

 治安の維持に悩んだメラロール王国では色々な案が出されました。まずは市内の兵を増やし、徹底的な弾圧を加えます。それらの取り締まりは一定の効果を生みますが――何しろ敵は逃走や偽装、潜伏のプロです。結局のところ、にわか仕立ての兵隊では歯が立たず、完全な根絶やしには至りませんでした。ほとぼりが冷めると活動再開し、いたちごっこが続きます。

 そんな八方ふさがりの時、一人の若い役人が現れました。


  2月23日− 


[内なる戦い(エピローグ)]

(前回)

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「……ん?」

 気がつくと、まぶしい光に満ちた新しい朝であった。
 熱は下がっており、気分は良かった。
 小鳥のさえずりが聞こえる――リュナンは身を起こした。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「サホっち、おはよう」
 リュナンが出ていくとサホは門の前で待っていた。ここ数日、リュナンが体調を崩していた間、サホは一人で学院に通っていたのである。サホの方も、さすがに今朝は安堵の微笑みだ。
「おはよっ、久しぶり。もう風邪は治ったの?」
「うん、サホっちのおかげだよ。ゆうべはどうもありがとう」
 相手が驚くだろうということを予期しつつも、リュナンは敢えて言い切った。当然の結果ながらサホは即座に聞き返してくる。
「え? 何で?」

 しかし、間もなくリュナンはそれがあながち間違いではなかったことを悟るのだった――サホが身振り手振りを交えて勢い良く語り出した一つの物語の冒頭は、こんな風に始まっていた。

「そうそう聞いてよ、ねむ。けさ、夢見たんだけどさぁ、妙に恐ろしげなのよね。で、ねむが降ってきて、抱きかかえてさあ……」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 手をかざし、あおいだ空は、夢の中よりも青く澄んでいた。

(おわり)
 


  2月22日△ 


[内なる戦い(本編)]

 そこは真っ暗闇の世界であった。
 唯一、光は無いはずなのに自分の手足だけは見える。
 しかし、それ以外は果てしない漆黒のみだった。町の風景も川の流れも、一本松も、そして家族や友達の姿も、通りを行き交う人々も、向こうの丘も遠い山並みも、海も空も、世界の全てが夜に塗り替えられたようだ――いや、夜でさえ、もう少し濃淡があるはずだ。これは単一の暗がりが永遠に続いてゆくのだ。

(いやだよ……ここはどこなの? ねむちゃんの家は?)

 自分だけは最後の砦として最も確かなはずだが、むしろそう考えれば考えるほど、存在の根本からぐらついてしまう。突如、周りの闇が意志を持つ波のようにざわめき、リュナンに覆い被さり、取り込もうと襲いかかる。彼女は徐々に蝕まれていった。

(あっ!)

 悲鳴さえも許されないのか。
 彼女の細い両足は闇に掬われ、身体は傾いていく。確固たる足場はもろくも崩れ、落下する感覚が襲う。思わず目を閉じたのだが景色は全く変わらなかった。いつの間にか瞳は開いていたので、再び閉じる。また同じ闇、瞳が開いている、また閉じる――そのまま終わりのない場所の終わりへと墜ちてゆくのだ。

 低いところの深みから、何十人もの男の声が聞こえてくる。

《リュナンよ、早くここへ来るがいい。どうせ普通の生活を送れぬお前は、普通の人間になれぬ。早く我々に魂を渡すのだ》

(そうだね。ねむちゃん、きっと普通の人になれないよね――)

 幼い頃から病気がちのリュナンはふっと気を緩める。すると、どこか分からない場所で、何者かが笑うような声が聞こえた。

 意識が遠くなり、ここ数日は貪ることの出来なかった深い眠りがリュナンを捉える。それはいささか深すぎる眠りだったが、彼女にはもう抵抗する力は残されておらず、闇のなすがままだ。
 首筋を冷たいものが漂うが、彼女は遙かなる平穏を夢見る。

 病は彼女を食べ終え、今にも一つの灯火が消えようとする。

 ――まさに、その時であった。

 誰かの温かい身体がリュナンを受け止めてくれたのだった。
 落下は止まらないが、もう決して一人ではないと直感する。
 自らの身体への闇の浸食も、すんでの所で引いてゆく。

 そして耳元では、聞き覚えのある少女の声が囁くのだ。

『ねむ。負けちゃダメ』

「サホ……っち?」
 声が出るようになっていたリュナンは親友の名を呼んだ。かすかに、背中の方で誰かがうなずく気配があった。応援は続く。

『ねむは必ず元気になる。あたいがゼッタイ治してみせる。医学も魔法も何も使えないけど、ねむの病気は必ず良くなってくよ』

「うん。でも……」
 リュナンは口ごもった。今回の風邪も長引いてしまい、学院を休むのは四日目だが、一向に良くならない。睡眠時間が減るとリュナンはすぐに調子を壊してしまう。ところが最近は家で横になっていても苦しい考え事や不安に邪魔されて、深い眠りに入ることが出来ないのだった。眠ったとしても恐ろしい悪夢に苛まれる。休んでいるのにも関わらず具合は悪くなる一方だった。

『ねむ自身がそう思わなきゃ。そうしなきゃ治んないよ!』

 背中のサホの声は少し苛立ったように言った。それでもリュナンは自信を持つことが出来ない。小さい頃から病気がちで、何度も生死の境を彷徨い、一度は学院を休みすぎて留年したこともある経験や、心無い人々の陰口が、傷つきやすい彼女の心をいっそう痛めつけていたのだった。彼女は弱々しく反論する。

「だって、ねむちゃん、きっと普通の大人になれないよ……」
『そんなこと、ないって!』

 見えないサホは、裏返った声で言った。それは受け取り方によっては、泣きたいのを精一杯こらえているようにも聞こえた。

『確かにねむは普通じゃないかも知れないよ。だけど、どこを探せば普通の人がいるっての? 普通ってどういうこと、何?』

「それは……」
 リュナンは続く言葉をためらったが、観念して打ち明ける。
「例えばサホっちみたいに、家のお手伝いをして、学院にも通って、手先も器用で、運動もできて、みんなの役に立って……」
『はははっ。笑えない冗談だな、それ』
 サホは泣き笑いの声を洩らす。それから力強く語り出した。
『あたいが普通の基準だったら大変だよ。普通じゃない方の代表格なんだから。あたいの赤い髪、近所で白い目で見られてること、知ってるでしょ? 目立ちたがり屋とか、何とかってサぁ』
「うん。でも」
『でもじゃないって!』
 赤毛の親友は必死に否定する。背中のサホの存在感が少しずつ大きくなってゆくこと、それに伴って自分の意識がはっきりしてゆくことをおぼろげに感じながら、リュナンは相手の話に耳を傾けた。闇の中にうっすらと明るい部分が見え始めている。

『ねむにも、他の人に負けないような〈いいとこ〉がいっぱいあるよ。ねむは過小評価してるけどさ。あたい、それが歯痒くって』
「他の人に負けない、いいとこ? ねむちゃんに?」
『そうだよ!』
 サホは断言したあと、優しい口調になり、説明してくれる。

『辛い経験をしてきたことをちゃんと受け止めて糧にしてきたから、他の人の辛さを分かち合おうとするでしょ。それは、他の人には簡単に真似できない、ねむのすごい部分だよ。ほんとに』

「そうかな……」
 リュナンの返事には迷いの色が明らかに濃くなっていた。不思議なことに、その悩みがぐらつけばぐらつくほど、リュナンの墜ちる速度は緩み、安定した足場が出来上がってゆくのだ。

『それに、普通の人なんか目指してもつまんないよ。たぶん』
 サホの声が追い打ちをかける。すでに落下は止まっている。
『いわゆる〈普通の人〉なんてのは、友達になるどころか、会いたいとも思わないね。そんな平均的で、平準的で、何の特徴もないような人なんて、会う価値ないもん。あたいはそう思うよ』
「そうか……あっ」
 リュナンは驚いて周りを見渡した。突然、辺りが明るくなり始めたのだ。そしてさっきまでとは反対の、軽い上昇感がある。

『自信がありまくる人なんて、そうはいないと思うよ。それでもこの自分と付き合っていくしかないから、一生懸命やってる。ねむもさ、もっと自分のこと好きになって、完璧な人を目指すのをやめれば楽になれるよ……そしたら病気にも打ち勝てるはず!』

「そう、だね。きっとそうだよね!」
 そこはいつか高い木のてっぺんから見上げたような、果てしのない澄みきった青空であった。気がつけば、背中には二枚の翼が生えている。遙か下には故郷のズィートオーブ市の街並みが見え、海も分かる。サホの支えはなくなったが、リュナンは今、自分の力で羽ばたいていた。力強く、誇らしく、高らかに。

 今まで後ろにいたはずのサホが、今は正面に見える。親友も白い翼で風のように舞っていたが、不意に右手を差し出した。
『人と違ってても、いいじゃん。違うのが当たり前なんだからサ。違ってても、いい部分を認め合っていける仲でいたいよ……』

「うん、これからも、こちらこそ、よろしくね!」

 光がいっぱいに充ちている。リュナンは一生の友の右手をしっかりと握りしめ、と同時に今の素直な気持ちを言葉に乗せた。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

(サホっち、本当に、本当に……ありがとう!)

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜


  2月21日△ 


[ナルダ村の二月]

「最近、鉢植えが元気がないの……」
 櫛で整えた黒髪を揺らして首を垂れ、村長さんの娘のレイベルは溜め息をつきます。ようやく雪はやんだけれど、外はどんより曇っています。ここ数日、彼女は太陽の光を見ていません。
 こんな雪だらけでは鉢植えが元気がなくなるのは仕方のないことでした。おまけに、北国のナルダ村はとても寒いのです。
「まかせといてっ。すぐ元気になるよっ☆」
 いくぶん気軽すぎる口調で言い放ったのは、レイベルの学友のナンナです。少しカールした金の髪が目立つナンナは十二歳で、南の国からやって来た転校生です。実は魔女の孫娘で、ちょっとした魔法を使えます――いつも失敗ばかりなのですが。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「これ、これっ。これでもうバッチリだよ☆」
 ナンナが自分の家の物置から見つけてきたのは、スズメの家にちょうど良いくらいの大きさの、古びた四角い茶色の木箱でした。不思議なことに、ふたもなければ底も抜けています。箱というよりは〈角張った筒〉という方がふさわしいかも知れません。
「ナンナちゃん、無理しないでね」
 今までが今までなのでレイベルは不安そうな様子でしたが、ナンナの指示通り、恐る恐る筒の中に鉢植えを入れました。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「大地の力よ、天と仲良くなる裏切り者のこの箱を、遠いお空の彼方に届けて。地下水を吹き出すように……ラーグリアン!」
 ナンナとしては珍しくスラスラと呪文が言えたのは、箱に呪文を書いた紙が貼ってあったからです。まさに棒読みでしたが、その詠唱を横で見ていたレイベルは、いつものようにうろ覚えのメチャクチャな呪文よりは、何だか期待できるように感じました。

 ナンナが両手をかざすと、橙色の光が出ました。その直後、筒の下の地面がにわかに動き始め、丸く盛り上がりました。
 するとどうでしょう。
 突然、筒は跳ね上がるようにして、ものすごい勢いで天高く昇っていきます。反対向きの氷柱(つらら)のように立ち上がった地面が、筒を支える長い長い土台となって、天と地をつなぐ橋になろうとしています。ナンナは照れくさそうに頭をかきました。
「あっ……成功しちゃったかも。どう、レイっち?」
「すごいわ、ナンナちゃん!」
 レイベルの方は曇り空の彼方を見上げて、感嘆の叫びをあげました。木の幹のように伸びてゆく土の柱の先は見えません。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 雲の向こう側の青空へ鉢植えを連れてゆき、光をあびせる。
 アイディアを考えるだけでなく、実現するのがナンナです。

 だいぶ時間が経ってから、小さな魔女は呪文を唱えました。
 すると茶色の架け橋はどんどん縮まり、土の中に帰ります。
 いよいよ例の筒が見えてくると、二人は歓声をあげました。

 待ちきれずに飛び上がり、背伸びをしました。
 そして少女たちは首を突き出し、覗き込みます――。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「レイっち、ほんとにゴメンねっ……」
 普段は元気印のナンナですが、足取りの重い帰り道でした。
「ううん、ナンナちゃんはぜんぜん悪くないわっ」
 レイベルは精一杯、友達を慰めようとします。けれど彼女自身もかなり落ち込んでいるようで、話が途切れると溜め息ばかり出てしまいます。村のどこを見ても積もっている雪の深さは進路をはばむだけでなく、心まで冷たくのし掛かってくるようでした。

「空の上って、とても寒いところなのね」
 レイベルがぽつりと洩らしました。
「また明日、別の方法を考えよーよ。ねっ?」
 と、元気を振り絞って呼びかけたのはナンナの方です。レイベルは顔を上げて応えました。村長さんの家はあとちょっとです。
「うん。ありがとう……それじゃ、また明日ね」
「バイバーイ!」

 二人は立ち止まり、手袋をはめた右手を振って別れ、それぞれの家路を急ぎます。吐息は薄暗い空に溶けていきました。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 戻ってきた鉢植えは、花びらも、がくも、くきも、根も、葉っぱも――鉢植えの土までもが白くカチカチに凍っていたのでした。
 


  2月20日△ 


[夜の習作 その二]

 薄氷よりもなお薄い、蒼の半透膜――それが夜だ。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 暗くなればカーテンを引く。
 その前に、誰かが夜の幕を引く。
 何枚も、何十枚も、何百何千何万何億何兆枚も……。

 薄い膜でも、重ねるから暗くなるわけだ。
 蒼になるまでには、黄色や赤のオシャレな膜もあるぜ。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 出来上がった空の暗幕にコンパスを立てて、円弧を描く。
 コンパス――それは俺が作った、古びた特殊なコンパスだ。
 支える方も、線を引く方も、どちらも尖った針になっている。
 膜の一部を剥がすには、これがいい。

 その夜は満月だったので、針を離さず、完全な円を形作る。

 俺の力加減で、昼や夕方の空が混じった独特の色が出る。
 今夜はめくり方が足りなかったのか、夕暮れの橙色だった。
 同じ満月でも、微妙に大きさや色が変わるのはこのためだ。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 朝に向かう場合は、逆の手順で膜を剥いでやる。
 剥がす時は見てる奴が少ないから適当でも構いやしない。
 何百枚もいっぺんにひっ掴むと、ひと思いに破り捨てる。

 決して同じ半透膜は使わないのが俺の主義だ。
 毎日再利用じゃあ、つまんねえこと限りなし――だな。
 使い終わった膜は太陽に溶かして、最初から作り直す。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 ――俺は誰かって?
 そんなの、あんたの方がよく知ってるだろ。

 俺は俺であり、そしてあんたでもある訳さ。
 


  2月19日− 


[諜報ギルド(3)]

(前回)

「今からお話ししますが、その前に一つだけ約束して下さい」
 ベッドに腰掛けて皆の顔を見回し、タックは口火を切った。

 ルーグは冷えた木の床にあぐらをかき、リンローナは壁によりかかって小さく膝をかかえている。シェリアはルーグのベッドに座って細い両脚を色っぽく組み合わせ、だいぶ酒の抜けてきたケレンスは自分の布団に大の字を描いている。ここはルーグ・タック・ケレンスの三人が泊まっている宿屋の男部屋である。
 自らの出した条件に対し、その場の全員が同意するのを確認し――ケレンスは横たわったまま、右足の親指を面倒くさそうに曲げただけだったが――タックは表情を変えず、重々しく語る。
「出来る限り真相を話したいとは思いますが、どうしても言えない部分もあります。それは皆さんが危険な目に遭う可能性を回避するため、とご理解下さい。秘密を知ることで皆さんに迷惑がかかるのは、僕としては何としても避けたいと思っています」
「分かった。では、ともかくまずはタックの話を最後まで聞こうと思う。質問はのちほど、まとめてということで良いだろうか?」
 ルーグが全体的な方針を提案すると反対意見は出なかった。その五歳年上の男と視線を交わし、タックは丁寧に礼を言う。
「ありがとうございます、リーダー。その方が助かります」
「前置きはいいわね。じゃあ始めて頂戴」
 焦れったくなったシェリアが、前髪を掻き上げて先を促す。

「はい」
 タックは返事をし、やがて茶色の瞳をゆっくり閉じていった。


  2月18日− 


[夜の習作 その一]

 夜空は漆塗りの黒雲に充ち、光のひとしずくさえ遮断する。

 風は吹きすさび――。
 全身の内側から何かが剥落するかのような、ともすると心地良くもある冷気が、肌のひだの微細な凹凸にまで染み入る。

 そんな夜であった。

 気温は限りなく摂氏零度に近づいていたが、水が凍るには若干、夜が浅かった。夜風を受け、湖面は微かに波立っている。

 見上げれば、やはり自らの重みで潰れそうな曇天である。

 だが、しかし。
 わたしは見た。
 見てしまったのだ――。

 湖の薄っぺらい表面(または深い暗部)に、真白き月影と銀の星のかけらたちが朧に映り、音もなく揺れていたのである。

 不意に風が止まった。
 向こうの山並みはいよいよ黒く燃えていた。

 夕よりも朝よりも、最もかけ離れた時間の出来事である。
 


  2月17日− 


[諜報ギルド(2)]

(前回)

 勇気を振り絞って訊ねたリンローナの発言が終わってから一呼吸置いて、抑えきれぬ笑いを我慢するような声が起こった。
「ぷくくっ……」
 それはタックではなく――言わずもがな、ケレンスであった。

 リンローナの方は何だか拍子抜けしてしまい、怒る気にもなれず薄緑の素直な瞳を素早く瞬きしていたが、タックはケレンスの反応を完全に無視し、いつも以上に冷静な口調で答える。
「そう思われるのも仕方ないと思いますよ」
 まずは相手の疑問を溶かすために前置きをする。事実、少女は安堵の胸をなで下ろし、本来の和やかな表情を取り戻す。

「大きな声では言えませんが、このメラロール王国において、盗賊ギルドの位置づけは他国と明らかに違っているのですから」
 タックは口に手を当てて筒状にし、周りの席に洩れないように注意し、序章を始める。リンローナは小さく慎重にうなずいた。

 するとテーブルの対面から興味津々に身を乗り出したのは、リンローナの姉で、やはり外国からやって来たシェリアである。
「私にも教えて頂戴。ちょっと気になってたのよ、そのギルド」
 言い終えてから彼女は振り向き、右斜め後ろの男性を見た。
「ルーグの夢に影響がないか、ってね」

 彼らのリーダーに決まったルーグの念願は、メラロール王国の騎士になることである。だが、今年の採用は終わったばかりとのことで、当分は冒険者として修行を積むよう提案された。
 国家権力に近く、国土防衛や治安維持に従事する騎士にとって、秩序を乱す者は敵のはずだ。泥棒まがいの可能性もあるタックと行動することによって、冒険者が所属する冒険者ギルドに悪い報告がもたらされ、ひいてはルーグの将来に直接的・間接的に影響を与える――それがシェリアの畏れている事態だ。
 ルーグは黙ったまま、すまなそうにうなだれる。

「一応、そこらへん、ちゃんと理解した方がいいと思うのよね」
 全くひるまず、シェリアはお構いなく得意の早口で続けた。

 ルーグが言い出せなかった本音を彼女が代弁したのだろう、とタックは解釈したが、そのような思考は微塵も表に見せぬ。
 突如として話題の渦中となった〈盗賊〉は、シェリアの指摘に相づちを打ち、それが一段落するまで待ち続けた。レンズの抜け落ちて壊れた眼鏡の奥から、鋭く真剣な眼光を発したまま。

 シェリアの唇が閉じられると、その場には緊張感が走る。話を最後まで聞き終えたのち、タックは率直に謝る所から始めた。
「僕としたことが……気が利かずに済みません」
 そして他の四人の注目を集める中、静けさを保ちつつ喋る。
「これから長きに渡り、寝食を共にするとなると、僕がどんな組織に所属しているかの秘密もお伝えしなければなりませんね」

「個人の秘密に、必要以上には介入するつもりはないが」
 今の今まで意見を述べなかったルーグが重々しく口を開く。
「差し支えぬ程度、教えて貰えると有り難い。嫌でなければ」

 そこで割り込んだのは、口を尖らせていたケレンスである。
「気をつけろよ。こいつは結構、こう見えて腹黒いからなァ」

 タックは無言で、自分の余ったビールのグラスをケレンスに手渡しする。効果てきめん、幼なじみの悪友は大人しくなった。
 残ったビールを飲み干すケレンスを横目に、パーティーの会計係に就任したタックは財布を出し、勘定のため店員を呼んだ。

 それから不思議な世界へ誘うかのように、優雅な礼をする。
「では場所を変えるとしましょう。宿屋の……僕らの部屋へ」


  2月16日− 


[弔いの契り(9)]

(前回)

 それからしばらくはデミルの指示のもとで面倒な儀式が続く。
 ぬるま湯をたっぷりと入れた獅子の頭を持つ仰々しい水差しと、半球状の銀色の小さな器、同じ形の少し大きめの器――それらを一つずつ手にした三人の洗盤係が席を廻って、位の高い者から順番に客の手を洗わせる。一人目が二人目の器にぬるま湯を注ぎ、その器で客が手を洗い、使い終わった水は三人目の器に開ける、という繰り返しだ。当然のことながら最初は男爵で、次が賓客扱いの俺ら五人だった。ぬるま湯は気持ちのいい温度で、立ち上る湯気からはわずかな香辛料の匂いがした。
 タキシードで決めた中年男どもの洗盤係は動作が極めて緩慢だ。儀礼のわからん俺なんかは、わざとイライラさせるためじゃなかろうかと勘ぐりたくなるが、タックやリン、ルーグはもちろんのこと、シェリアでさえじっとしているので、仕方なく辛抱する。

 昔はラニモス教がもっと力を持っていた時代もあったらしい。氷水の神者を務めていた聖王のおわすリルデン町は、ラニモス教の宗教都市として栄えたようだ――けど、そんな時代はとうに過ぎた。儀式や祭りは多分に残ってるが、日常生活とはだいぶ乖離してるし、そもそも俺はあんまり信心深い方じゃねえ。

 虹の力を象徴する七つの木の実を配ったり、ワインやスープの毒味が行われたりして、いざメシにありつける頃になると食い物はほとんど冷めていた。久しぶりのごちそうだったのにな。

「創造神ラニモス様を信ずる者に栄えあれ。聖守護神ユニラーダ様を信ずる者に幸いあれ。邪神ロイド様を信ずる者に災いあれ。春の女神アルミス様を信ずる者に希望あれ。夏の……」
 儀典官デミルの朗読は延々と続き、俺はあくびをかみ殺す。
「冬の神シオネス様を信ずる者に知識あれ。乾杯!」
「乾杯!」
 突然、皆はグラスを高く持ち上げて、素早く深い礼をする。

「かっ……かんぱい」
 ワンテンポ遅れて無理矢理に取り繕うと、冷めた視線が俺に集まる。顔は恥ずかしさで急に火照り、耳までも熱くなった。

 こうして、とにもかくにも、ようやく宴の幕が開いたのだった。


  2月15日− 


[諜報ギルド(1)]

 出会ったばかりの頃、夜――宿屋の一階の酒場にて。
 メラロール王国にたどり着いて間もない十四歳(当時)のリンローナは、できるだけ声をひそめて、冒険者の中でも〈盗賊〉という物騒な役割についている二歳年上のタックに切り出した。

「ねえ……タックさん」
 その声と表情はあまりに硬かった。そのため彼女の隣に座っていたタックは、相手の警戒心を解こうとして柔らかく微笑む。
「僕のことは〈タック〉で構わないですよ」
「うん」
 リンローナは小さくうなずいたが、気持ちは晴れないようだ。

 ごくりと唾を飲み込み、覚悟を決めて、彼女は顔をもたげる。
「じゃあ、タック」
「はい。何でしょう」
 タックは相づちを打つと、隣席の小柄な少女が話し始めるのをじっと待った。こう言う時、無理に急かさないのは彼の長所だ。
「あのね、ちょっと聞きたいんだけど、いいかな」
 リンローナは相変わらず不安そうな口調で、再び口ごもる。

 さっきまではルーグとシェリアと談笑していたケレンスが、思いきり聞き耳を立てている。少し酒が回ってきているようだ。
「代わりに答えてやろーか?」
「あの……あたし、タックに訊いてるんだけど」
 リンローナは顔をしかめた。すかさずタックは質問する。
「何か、ケレンスに聞かれてはまずいことでしょうか?」
「へいへい、お熱いこったな」
 ケレンスの方は興味なさそうに、頭の後ろで腕組みをした。
 困ったようにうなだれ、リンローナはタックとケレンスを交互に見つめた。どうも手持ち無沙汰だったので、優雅にカップを持ち上げて傾け、温かい紅茶を口に含む。心の中が安らいでゆく。

「あのね、別にケレンス……に聞かれても困らないと思うよ」
 うっかり〈さん〉付けをしそうになり、話し方がぎくしゃくする。
 補足しても、ケレンスはふてくされて皿の肉をつついている。これ以上引き延ばしても、だめ――リンローナは結論を出す。

 顔を上げ、薄緑色の大きな瞳を輝かせ、少女は素直に言う。
「単刀直入で、失礼だったらごめんね!」
「ええ」
 タックは口元を緩めて了解し、次に続く言葉を期待する。

「タックって、盗賊ってことは……」
 リンローナは再び音量を落とし、囁き声で訊ねるのだった。
「つまり、泥棒さんなの?」


  2月14日△ 


[気持ちの谷間(1)]

「シェリア?」
 ルーグが訊ねる。
 シェリアは上の空で、口を半分開き、窓の外を見ている。

 ここはメラロール市のカフェであった。絵の展示や、芸術品の販売が行われるなど、さすがは文化都市メラロールであった。なかなか繁盛しているらしく、十席あるカウンターのうち八席までが埋まり、窓際に三つ並ぶ四人テーブルは満席であった。
 注文を取りに来たウエイトレスを前に、ルーグはもちろん、冒険者仲間のケレンス、タック、補助椅子のリンローナも注文し終わったが、窓際のシェリアだけは決めていなかったのだった。

「シェリア、注文はどうするんだ?」
 ルーグが再度訊ねると、薄紫色の長い髪を揺らし、シェリアは驚いた顔で我に返り、彼の顔をまじまじと見つめて返事する。
「え? 何か言った?」
「注文はどうする?」

 少し強い調子で迫ったルーグは明らかに心配そうであった。五人のリーダーであり、シェリアのことだけを過剰に配慮するわけにはいかないが、それでもやはり彼にとって幼なじみであり三つ年下の恋人のシェリアは別格の存在だったのであった。
「あ、じゃ、紅茶でいいわ」
 シェリアは興味なさそうに応えると、再び頬杖をついて物思いに戻ってゆく。彼女の妹のリンローナもさすがに不安を覚えた。
「お姉ちゃん、大丈夫?」
「……」
 実の妹の言葉にも応えはない。ここに至り、普段はシェリアと気があまり合わないケレンスでさえ困ったように顔をしかめた。
「こりゃ重症だぜ」
「リーダー、散歩でもしてきたらどうです?」
 タックの問いにルーグは言葉を濁す。出来るだけ公私混同はしたくないという気持ちが彼の中に強く存在していたからだ。
「ふむ」
 それを見て取って追い打ちをかけたのは、饒舌なタックだ。
「リーダーとして、メンバーの悩みを聞くと言うことですよ」

「……そうだな」
 しばらくの沈黙ののち、ルーグは申し訳なさそうに応えた。
「宿屋で待っていますから、ごゆっくり」
 タックが気遣って言う。リンローナも両手を組んで言った。
「気をつけてね」
 ケレンスには目で合図を送られ、ルーグは軽くうなずいた。

 そしてコートを羽織り、立ち上がってシェリアの肩を叩く。
「行こう」
「え? 何?」
 シェリアは夢から現に戻ったかのように呆然としている。
「散歩だ」
 ルーグが険しい顔で言うと、シェリアも少し自分を取り戻す。
「ええ。わかったわ」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 二人は店を出ると、市街地の華やぐ通りへ出ていった。

(続く)
 


  2月13日△ 


[春待つ日々(2)]

(前回)

 土を塗り固めて作り、人の足で削られたと思われる丸みを帯びた階段は、このごろ雨が降っていないので乾燥している。
 照葉樹の枝が左右から手をつなぎ、登り坂は光と影とで作ったトンネルのようだったが、傾斜はやがて緩やかになり、階段は尽きて細い森の小道となった。それも長くは続かなかった。
 木々が果て、急に視界が開けてきたのだ。遮られていた光が直接的に降りそそぎ、眼がくらんでしまったサンゴーンは額の上に手をかざした。真上から叩きつける夏の厳しい陽射しより、空気や風に溶けて細かく散らばる冬の方がまぶしいものだ。

 そこは山の頂を中心とした、ちょっとした広場であった。遙か下には神殿の尖塔、小さな港――故郷のイラッサ町を見渡せる。西には大都市ミザリアの王宮や市街地を、東には弧状列島、南東にはルン島とメフマ島などを一望することが出来た。
 どこまでも続く紺碧の海と、雲の浮かぶ蒼天は泣きたくなるほど澄みきっている。それは世界のどこへも繋がっている扉だ。この地上界だけでなく、死んだ者が召される天上界までも――。

「ここだね」
 レフキルの左腕に抱かれた白い花びらが風にそよぐ。

 そして二人がたどり着いたささやかな広場には――。
 黒や灰色の、大きさや色はまちまちの石が並んでいた。


  2月12日△ 


[春待つ日々(1)]

 陽の光はあまたの金剛石となって、どんな立派な王の謁見の間よりもまばゆく光り、照葉樹の枝と枝と間に散らばっている。
「よいしょ……と」
 丸みを帯びた土の階段は続き、勾配はにわかにきつくなる。彼女は立ち止まって、左手を膝につき、右手で額の汗をぬぐった。息は弾み、緑がかった銀の前髪は額に張り付いている。
 服装は十六歳らしく清楚な、襟元や袖の先にレースの模様が入り、縦に半透明の小さなボタンが五つ並んだ白い長袖ブラウスを着ている。山道を歩くため、お気に入りのスカートは諦めて茶色い長ズボンを履き、腰周りと足首をベルトで締めている。その内側の腿のあたりを汗のしずくが流れ落ちるのが分かった。
 冬とはいえ、もともと温暖な南国であるが、今日は特に新しい季節の訪れを予感させる。気温だけではない――それぞれに高さや歌い方の違う小鳥たちの〈さえずり合唱曲〉や、草の葉に置かれた朝露の最後のきらめき、風に舞う花びらのような黄色の蝶、風の温もり、幼虫、つぼみ――その全てが、季節を教える羅針盤の針として、次に進むべき一点を指し示している。

「サンゴーン、大丈夫? ちょっと休む?」
 後ろから聞こえた別の少女の声は、まるで平然としていて少しも疲れた様子はない。他方、サンゴーンは振り向いて、謝る。その顔はすまなそうにうつむき、自分を責めているようだった。
「レフキル……いつも、ごめんなさいですの」

(何かあったのかな。落ち込んでるみたい)
 親友のことなら、すぐに分かる。レフキルはサンゴーンの不安を和らげたいと願いつつ、出来るだけ優しい言い方で応えた。
「いや、別に謝ることはないけど。サンゴーンのペースで構わないよ。あたしだって、こういう坂道は、ゆっくり行くのがいいし」
 レフキルは妖精族の血を引いているために耳が長く、サンゴーンよりも微妙に銀の濃い銀の髪を持つ。瞳の色はもっと明らかな差があり、サンゴーンは海を思わせる深い青だが、レフキルは新緑の碧だった。背丈はレフキルの方が少しだけ低い。
 今日のレフキルは、赤や白や焦げ茶色の複雑な刺繍を織り込んだ民族衣装風の半袖シャツを着て、黒い半ズボンを履いていた。軽い山登りにしては、ずいぶんとシックな服装である。
 そして最も特徴的なのは、レフキルの華奢な左手に、二十輪ほど寄せ集めて紙で包んだ純白の花束が握られていたことだ。一つ一つの花はひ弱で小さいが、それでも精一杯健気に咲いた花からは、かすかな夜の匂い――月の香りが漂っていた。

 といっても、現在は陽の昇りつつある午前中である。
「もうすぐですの。頑張りますわ」
 しばらく息を整えたサンゴーンは、そう言うと再び歩き始めた。レフキルは一瞬だけ心配そうに顔を曇らせたが、すぐに毅然とした表情を取り戻した。そして前を行く親友のペースを乱さないように気を遣いながら、長い曲がりくねった階段を登ってゆく。


  2月11日△ 


[悲願]

 県境の峠道を行く曲がりくねった細い国道は、スピードが出せず、非常に不便だった。この地域の交通のネックだったのだ。

 そのため地元の代議士は票集めのために奔走し、政権与党の道路族に圧力をかけ、候補道路から予算獲得、着工に至り――そして悲願の、近代的な高速道路が開通したのだった。

 俺は今、その真新しい高速道路に自家用車を乗り入れた。
 はるか下をゆく古い国道は、高速道路の開通によって交通量が減り、たまに通りかかる車はかなりの速度で飛ばしている。

 県境を真っ直ぐに貫く立派なトンネルの入口からオレンジ色の光が洩れだしている。助手席の妻はそれを見て、つぶやいた。

「莫大な建設費をかけて、地元もお金を出して、高い通行料を取られて――だけど長年の悲願がこういう形で実現したのね」

 車線が少ないのに、国道の車が押し寄せた結果――。
 前にも後ろにも数キロに渡り、車が数珠繋ぎになっていた。

「でも、通る車がいるだけマシなのかも知れないわね」
「かもな……とにかく、素晴らしい〈低速道路〉だぜ!」
 せわしなくハンドルを叩き、俺はぶっきらぼうに答えた。
 


  2月10日△ 


[海の上の街道(5) 海軍]

(前回)

 それでも船に乗る者が減ることはない。白い波頭を立てて海上をどこまでも行きたいと願う者は、老いも若きも、男も女も、貴賤を問わず存在する。生命をはぐくむ懐の深い海の魅力に惹かれて、彼らは今日も甲板に立ち――まぶしそうに目を細める。

 海びいきで有名な貴族としては、シャムル公国クリス公女が筆頭に挙げられる。世界最大の島であるシャムル島と、周辺諸島を領土とするシャムル公国は海洋国家を標榜している。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 現在のルデリア世界で、完全なる内陸国家はハーフィル自由国だけである。それ以外の国では、兵力や装備に差こそあれ、一応の海軍ないしは水軍を保有している。特に周りを海に囲まれているミザリア国やフォーニア国では、陸軍よりも力を入れている。ただ両国とも、他の国へ攻め込むほどの国力も、そのような大それた野望もなく、水兵部隊はあくまでも国防のためだ。

 ポシミア連邦とラット連合は、お互いを牽制できるだけの兵力を、陸海に限らず保持している。海洋国家のシャムル公国もそれなりに充実してはいるが、北シャムル地方の独立願望という国内事情もあり、海軍だけを優先することは出来ないでいる。

 南ルデリア共和国の海軍は、かつてのモニモニ海軍やヒムイリア海軍などを引き継ぎ、世界最強と噂される。騎士による陸での戦いは得意だが、海の方ではやや後れを取っているメラロール王国は、近年、海軍の装備や訓練の充実に力を入れる。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「出航!」
 凛々と引き締まった声が速やかに響き渡る。
 船長の黒い帽子を目深にかぶり、動きやすい白のワイシャツとズボンを着用し四十過ぎのミシロンは高々と右手を掲げた。その胸中に、離ればなれになった娘たちの面影がよぎったのか――一瞬だけ懐かしそうに口元をほころばせたが、すぐに出発時の船長の厳しさを取り戻し、部下に的確な指示を与える。
「出航!」
 ナホトメが復唱し、それを聞いた若い船員たちは鎖を引っ張る。船の足を止めていた碇は海面に姿を現し、回収される。
 青空から降り注ぐ新しい朝の光と、爽やかで心地よい潮風を受け、船はゆっくりと動き始める。波は穏やかな船出である。

 海に終わりはない。
 白い帆をいっぱいに広げ、船は今日も果てしなき路を行く。

(おわり)
 


  2月 9日− 


[弔いの契り(8)]

(前回)

 古めかしいタキシードに正装した男爵は相変わらず無表情のままで、やはり瞳は遠い場所を見ていたし、かすかに口元をゆがめつつ入場してきた。細い身体は今にも風に折れそうな葦を連想させるが、それでも歩き方はさすがに颯爽とし、優雅と言っても間違いではなかった。まあ俺とはご身分が違うからなァ。
 あまり熱心とは思えない拍手の中、男爵様は俺たちの前を通りかかった。そして妙に気になる視線を俺らに五人に向けた。

 ルーグには尊敬しているという感じの、上目遣いに。
 タックにはお手並み拝見という感じの、探るような。
 シェリアには馬鹿にしたような感じの、蔑む視線を。
 リンには、騙して艶めかしく誘うように。

 そして俺には――対決するように、ひどく憎悪を込めて。

 一瞬の交錯だった。もちろん俺の方もにらみ返してやったが、身体は緊張で硬くなっていた。掌が熱くなり、呼吸は苦しい。
 先に目を逸らしたのは男爵の方だった――用済みとでも言いたげに。俺は身分の差を越え、今すぐにやつを殴りたかった。

「ケレンス」
 肩に何かが触れ、俺は強ばった顔のまま、びくっと震えた。
 振り向くとルーグが立っていて、心配そうに俺を見ている。
「わかってる。わかってるんだ」
 俺は拳を強く握りしめ、力無く首を振った。俺はともかく、こいつらに迷惑はかけられねえ――ぐっと我慢するしかなかった。

 そうこうするうちに男爵の野郎は一段高い場所に設置されている上座につき、ゆっくりと回れ右をして腰掛けた。急に拍手が止んだので、俺の適当なリズムだけが残ってしまった。シェリアとリンが驚き顔で俺を見る――さすがは〈元〉お嬢様姉妹だ。俺のような奴とは違い、社交場での機微に通じているんだろう。
 久しぶりに見たリンの瞳はいつもよりも緑が深く、前向きに生きるあいつに似つかわしくない諦観が籠もっているようだった。

「今宵はよくぞお集まり頂きました。遠路はるばるやって来てくださった冒険者の方々を囲み、素晴らしい夜になるでしょう」
 執事がそう言った時、俺は場の雰囲気の変化を感じた。
 村人たちはみな、申し訳なさそうに顔を下げたのだ。
 あいつら、何か隠してやがるな――間違いねえ!
「今宵の儀典官を務めさせて頂きますデミルで御座います」
 執事は襟元の蝶ネクタイをいじりながら話を続ける――。


  2月 8日− 


[海の上の街道(4) 脅威]

(前回)

 旅客輸送の面ではどうだろうか。
 現在のルデリア世界で、いくつもの国を越えるのは限られている。冒険者や旅人、商人や船乗り、外交使節くらいで、ごく普通の農民や町民の中には自分の住む町さえ出ずに一生を終える者もいるほどだ。城壁に囲まれた町を出れば、野生の動物や山賊など、危険が増える。商人は隊商を組み、外交使節は護衛の騎士をつける。冒険者や旅人は自分の身を自分で守る。

 それでは町人や農民が隣町へ出かける時はどうするか。隣町と言っても、一続きではなく距離が離れているのが普通だ。
 金がなかったり、距離が短かったり、あるいは開拓が進んでいる地域であれば、街道上を徒歩で移動する。余裕があれば乗合馬車を使い、自宅で馬を飼っていれば乗って行くだろう。

 比較的近距離での移動の場合、船という選択肢はまず上がってこない。運賃の高さに加え、陸上交通よりも利用者側の不安が大きいためだ。大河をゆく小規模の淡水便か、大陸と島国とを結ぶ連絡船を除けば、船の定期便は皆無に等しい。旅客輸送に関して言えば、陸上交通に大きく水を空けられている。

 たとえ陸上交通を選んだとしても野生動物や山賊に襲われる可能性があるという点は既に述べた。では、それ以上に利用者の不安を煽り立てる海上の脅威とは、いったい何であろうか。

 まずは沈没の心配だ。荒れくるう波と、船のマストを折り、帆を吹き飛ばすほどの強い風が吹き荒れる嵐の晩、船長の必死の指示むなしく船は大きく傾いて、手練れの乗組員や乗客ともども水の中に飲み込まれる。もともと数の少ない旅客船では滅多に起こらないが、漁船の転覆や沈没は珍しいことではない。

 また、陸に山賊が巣くうように、海には海賊がいる。取り締まりの厳しいメラロール王国付近では見られないが、主にミザリア海周辺で忘れた頃に貿易船が被害に遭っている。ミニマレス侯国とマホジール帝国本国との国境付近や、ラット連合リュフリア州、弧状列島の無人島、あるいはシャワラット島の南部など、ほとんど住人のいない地域に拠点を作り――しかも一箇所に長居せず移動していると囁かれる。国際的に取り締まる機関はなく、各国が独自に対応しているため、状況は改善しない。


  2月 7日− 


[思い出]

 その夜は気温が高く、冬の透明な緊張感はなりをひそめていた。緩んだ空気は、遠くない次の季節の訪れを予感させた。

 幅も長さも余分がありすぎる豪奢なベッドにもぐり込み、あまりの冷たさに身体を丸める。彼女は安らかな体温を求めていたが、無理な相談であった。震えながら、彼女は心の中で呟く。


(あたしは、いっつも、こういう場所にいるのよ!)


 儀礼、儀式、格式、格調。
 社交界は、本当の思いとは裏腹に〈うわべ〉が主役だ。いま触れている布団の冷たさは、彼女にそれを強く連想させた。

 何の音も聞こえない静寂と何も見えない暗闇の中で少しずつ足が暖まり――つられて彼女の気持ちも穏やかになってゆく。

「あいつら、元気にしてるかな……」

 ミザリア国のララシャ王女は声に出して言ったものの、すぐに頬をほてらし、枕に顔をこすりつけて自らの発言を打ち消す。

(なんで、あんな下々のやつらなんかを……)

 以前、この王宮での暮らしが嫌になって、気晴らしに町へ出たことがあった。わがまま、おてんばで有名なララシャは王宮で心通い合える友がいなかったが、町で出会った同年代の二人――他人を気遣う心優しきウピと、冷静で賢いレイナ――といっしょに過ごした楽しい時間は忘れがたい経験になっていた。

(でも、なんで、こんなにあったかいの? わけわかんない!)

 今や、足だけでなく心までもほんわかと熱を帯びていた。ララシャは歯を噛みしめていたが、それからちょっと素直になる。

(あいつらは、本当のあたしに直に触れてくれた気がする)

「また会ってやるんだから、覚悟するのね……ゼッタイに」

 ララシャはそう呟いた――つもりだった。
 が、実際には、それは夢の中の台詞だった。

 朝になって侍女が起こしに来るまで、彼女は夢をさまよう。
 


  2月 6日− 


[海の上の街道(3) 航路]

(前回)

 香辛料を満載した貨物用の帆船は、熱い日差しに無骨な甲板をさらし、出発の時を今や遅しと待ちこがれている。ゆるやかなカーブを描いて続く白い砂浜には椰子の木が点在している。
 からっとした南風を受けて帆をいっぱいに膨らませた船は、鉄製の碇を上げ、漁船ひしめくミザリア市の港を快足に離れる。

 深い碧に澄むミザリア海は比較的穏やかである。風をつかまえ、海流に乗って数日進めば、しだいにルデリア大陸の輪郭がはっきりとしてくる。岬の先端にある灯台も見えるてくるだろう。
 文化の交流点であるモニモニ町で、船はルデリア大陸に上陸し、海の主街道は〈西廻り航路〉と〈東回り航路〉に分岐する。

┌─ 凡例 ─┐
│●=主要港 │
│◎=準主要港│
│○=拠点港 │
│・=漁港  │
└──────┘
【西廻り航路】

●ミザリア市
↓(ミザリア国)

●モニモニ町
↓(南ルデリア共和国、旧ウエスタリア自治領飛地)

○リルデン町
↓(南ルデリア共和国、旧聖王領)

●ズィートオーブ市
↓(南ルデリア共和国、旧ウエスタリア自治領)

◎リューベル町
↓(マホジール帝国領リース公国)

○オニスニ町
↓(メラロール王国・ラーヌ公国)

◎ラブール町
↓(メラロール王国・ラーヌ公国)

●メラロール市
↓(メラロール王国・ラーヌ公国)

○ヘンノオ町
−(メラロール王国・ノーザリアン公国)


【東廻り航路】

●ミザリア市
↓(ミザリア国)

●モニモニ町
↓(南ルデリア共和国、旧ウエスタリア自治領飛地)

○リンドル町
↓(南ルデリア共和国、旧リンドライズ侯国)

○ヴァラス町
↓(南ルデリア共和国、旧ヒムイリア侯国)

◎ミラス町
↓(マホジール帝国、ミラス伯領)

◎ポーティル町
↓(マホジール帝国領ミニマレス侯国)

・リュフル村
↓(ラット連合・ノーザリアン公国)

◎エルヴィール町
↓(ラット連合・ゴアホープ州)

●テアラット市
↓(ラット連合・北カイソル州)

○ベリテンク町
↓(ポシミア連邦・沿海州・トレアニア地区)

◎ポシミア町
↓(ポシミア連邦・沿海州)

●センティリーバ町
↓(メラロール王国領・ガルア公国)

○レイムル町
↓(メラロール王国領・ガルア公国)

○マツケ町
−(メラロール王国領・トズピアン公国)


 この他、シャワラット町(ラット連合)やオレオン町(フォーニア国)、デリシ町やシャムル町(以上シャムル公国)、カチコール村(メラロール王国・ノーザリアン公国)等へ支線が存在する。
 また、流れのゆるやかな大河は海と同じ役割を果たし、ミニマレス町(マホジール帝国領ミニマレス侯国)や、イキム町(ラット連合・北カイソル州)には、規模の小さい河の港が見られる。


  2月 5日− 


[海の上の街道(2) 特産品]

(前回)

 ルデリア大陸の西岸沿いを南のモニモニ町から北のメラロール市まで、ナホトメの乗る船が経由してきたのは〈西廻り航路〉と呼ばれている。海上をゆく二本の主街道のうちの一つだ。

 大陸を縦断し、さまざまな交流の妨げとなる中央山脈の存在により、ルデリア世界では早くから海上交通に目が向けられてきた。船は度重なる改良で洗練され、大型化・安定化する。

 他の乗り物には見られない大量輸送力は貨物に最も威力を発揮する。各国の特産を、欲しがる地域へ輸出、あるいは物々交換するのが貿易の基本と考えれば、逆に各国の輸出品目を考えることにより、おのずとモノやカネの流れは明白になる。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 南海に臨むミザリア国が原産の香辛料は、料理のスパイスや匂い消しなど用途が広く、各国の上流階級で人気を誇っている。当然ながら高値で取り引きされるため、航行距離が長くリスクが高いのをいとわず香辛料貿易に賭ける商人も数多い。
 全ての航路はミザリア国の王都ミザリアから始まる――と言っても大げさではない。なお、同国からは果実も輸出される。

 豊かな大地を持つ南ルデリア共和国やラット連合からは、主に小麦や米などの穀物が売りに出される。ミニマレス侯国は鉄、ポシミア連邦は綿花が特産品として有名だ。大陸の北側に位置するメラロール王国やガルア公国では、良質の木材や皮製品を生み出す技術がある。他にも様々な品物が波の上を運ばれ、はるか遠い旅の末、人々の生活の糧となるのである。

 以上を踏まえて航路を検討すれば、二つの方面への主要な道筋と、そこから派生する幾つかの支線を導き出せるだろう。


  2月 4日− 


[海の上の街道(1) 概要]

〔参考→ルデリア海上交通

 メラロール市は幾つかの街区で構成されている。最も目立つのは政治地区で、丘の上にそびえる典雅な白王宮を中心とし、貴族の大邸宅がその丘を守るように余裕を持って取り囲む。
 政治地区から放射状に広がる主要な通り沿いには、メラロール国立大学や数々の学院、魔術師ギルド、図書館、劇場などが立ち並び、学術・文化地区の様相を呈する。さらには町人の住む生活地区となって、そのまま衛星都市へ続き――その向こうにはちらほらと農地や牧場も見える。そして草原と森林。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 さて、いったんメラロール市に話を戻そう。
 市街地の中では経済を司り、最も西にあたるのが、海と川に沿って続く港湾地区だ。世界中から集まり、再び散ってゆく商人や船員は、それぞれに肌や髪の色が異なり、衣服や装飾もまた独特だ。地域色の豊かな方言も耳にすることが出来る。
 貨物船からは次々と樽や箱が運搬され、整然と建ち並ぶ貴族や大商人の倉庫に保管される。碇を降ろして停泊する帆船は静かに揺れている――湾の奥の良港では波も穏やかだ。

 木造の甲板では、今日も老いも若きも混じった水夫たちが、家でもあり生活基盤でもあり商売道具でもあり、何より大切な仲間の一人でもある船の身体を、モップで拭き掃除している。

「オーイ、もう少し上だァ」

 良く通る、深い男の声が響きわたった。
 マストをよじ登る見習いの少年水夫に指示を出しているのは、南ルデリア共和国モニモニ町からやってきた船乗りのナホトメだ。腕まくりをした太い肩は赤黒く日焼けしている。毛深く、あごひげをも生やしている、金髪を短く刈った二十二歳である。


  2月 3日△ 


[秋のスケッチ]

 遅い午後であった。
 踏切の双つの眼が赤く灯ると、刹那の後、無機質な警報が一定のリズムで鳴り出した。まどろみから目覚めた旧い遮断機は、自分の身体の具合を確かめるように、こわごわと下りゆく。
 見上げれば、深く澄んだ蒼天の極みに流れているのは、初恋をした少女の頬を思わせる薄紅に染まった筋雲の群れである。かすかに吹き抜ける潮風の中にも、穏やかに暮れゆく充ちたりた昼間の残響が入り混じり、けだるい心に積み重なってゆく。

 踏切の警報は鳴り響いているが依然として列車は現れない。直線的に飛ぶギンヤンマが遮断機の竿の先にとまった――。

 今時珍しい木造平屋建ての終着駅の西側は〈広さ〉を感じさせる風景だった。国道のすぐ向こうは砂浜であり、海である。
 海岸線に沿って曲がりくねる二車線の国道、その急カーブを、生鮮トラックの巨きな白い直方体がのらりくらりと駆け抜けた。
 汐の香は排気にまみれる。ちょうど詰所の引き戸を開けた、終着駅にただ一人配属の壮年の駅員だけが気づいていた。

 だが、彼がささやかなホームに立つ頃、汐の香の傷痕はほとんど浄化され、再び優しく集落の路地裏へ染み込んでいった。
 待合室の丸椅子に腰掛けるのは、今日も茶色の猫だけだ。
 駅員は腕時計の長針を確認した。

 今夜のおかずに使う大根やニンジンを詰め込んだ地元のスーパーマーケットの袋を、前の荷台に満載した買い物帰りの主婦が、踏切の前で自転車を止めた。ぬばたまの後ろ髪が爽やかな曲線を描いて肩にかかり――ギンヤンマは鋭く飛び立つ。

「ピィーョ」

 列車のうらぶれた汽笛が聞こえた。
 レールの継ぎ目がリズミカルな楽を奏で、伝える。
 それが次第に強まると、二両編成のオレンジの気動車の顔が見えた。角度を変え、西日を浴びて輝く全貌を顕わにする。

「ピィーョッ」

 もう一度、鳴った。駅員は淡々とした表情で旗を握りしめる。

 ――近づいてくる。
 運転士がブレーキをかけ、減速させると、車輪がうなった。

 窓から顔を出す、なじみの男子高校生の表情がしだいにはっきりしてきた。微細な光の粒は斜めに降り注いでいる。そんな折、汐の香はまたもや国道からの排気に邪魔されて汚れた。
 腰の曲がった老婆が、行李を背負ってどこからともなく現れ、ホームの坂を難儀しつつ上る――地の涯てから続いてきた二本のレールはその付近で途切れ、くるりと回って宙を目指す。
 行き着く先は紅葉の彩りを帯び始めた空と、日本海である。

 自転車を降りた主婦の目の前を、気動車は重々しくエンジンを響かせ、不器用に揺れながら通過した。警報音は止まり、遮断機が開き、代わりに待ちぼうけの主婦はサドルにまたがる。
 ホームの駅員は旗を高く掲げた。列車はいよいよ速度を緩めて駅構内に進入する。ブレーキの空気の抜けるのは、全力で駆け抜けたディーゼルカーの吐息に聞こえる。運転士と駅員の交わしていた厳しい視線はようやく和らぎ、やがてドアが開く。

 しばらくの間、終着駅は帰宅の高校生で華やぐ。
 空気はすでに肌寒かった。彼らの若い喧噪が消えるとともに駅は今日の役目を果たし、長い静寂の夜を迎えるのだった。
 


  2月 2日○ 


[寒くて暖かかった日(後編)]

(前回)

 リンローナはその紙を丁寧に広げた。姉の字だった。

『リンローナへ
 見た目は変だけど、味は保証するわよ。食べてみて』

 それはまさしく四つ年上の十八歳の姉らしい文章であった。
 いつも強がってばかりいるけれど、本当は恥ずかしがり屋で、優しく繊細な心を持つ姉――面倒な手順を踏む料理なんて大嫌いなはずなのに、一生懸命、妹のために作ってくれたのだ。直接、本人に手渡せなくて、こういう手段を取ったのだろう。

「お姉ちゃん……本当にありがとう」
 透明度の高い翠玉に似たリンローナの薄緑の瞳は、すっかり潤んでいた。思わず書き置きの紙をしっかり胸に抱きしめる。
「あとで、美味しく頂くね」

 ――と、その時であった。
 玄関の呼び鈴が二度、三度と高らかに打ち鳴らされる。

「こんな時間に、誰だろう?」
 羽織ったままの上着のポケットから取り出したハンカチで涙を拭き、姉の短い手紙をテーブルに置いて、彼女は玄関に戻る。
「どちら様ですか?」
 聞きながらリンローナがドアを開けると、そこに立っていたのは意外な人物だった。学院聖術科のクラスメート、ナミリアだ。
「あれ、ナミ。どうしたの? 今日は用事があるって……」
 リンローナは驚いて、瞳をぱちくりさせた。ナミリアだけではなく、他にもなじみの顔が六、七人、見えたからである。しかも、それぞれが違う大きさの飾りつきの袋をかかえていたのだ。

 寒さの中、頬を赤くほてらせたナミリアが一歩前に出る。
「リン、本当の用事はこれからなんだ。誕生日おめでとっ!」
「おめでとう、リンちゃん!」
 後ろの学生たちが声を揃えて言った。

 今度は目を丸くしたリンローナの顔には、すぐにでも重い冬空を突き抜けて飛んでいってしまいそうなほどの、最大級の喜びが満ちあふれた。上手く言葉に表現できず、もどかしさを覚えたが、仲間を一人ずつ見回しながら念を押すように訊き返した。
「お祝いに集まってくれたの? みんな? 本当に?」
「合ったり前だよ。今日はとことん祝わせてもらうからね〜」
 ナミリアが胸を張ると、集まった友達から明るい笑い声が起きた。喜びはそのままに、少しだけ冷静さを取り戻したリンローナは次に何をすべきか考え――深々と頭を下げて、扉を開けた。
「みんな、みんな……ありがとう!」
 リンローナは元気良く、なおかつ極めて優美に語りかけた。
「きちんとお礼を言わせてもらいたいから、どうぞ入って。お姉ちゃんが作ってくれた、素敵なココアのケーキもあるんだよ!」

「おじゃましまーす」
「寒くてごめんね。今すぐ、暖炉をつけるね」
 集まった友達を張り切って客間に案内するリンローナは、もはや寒さを感じなかった。確かに身体はかじかんでいたけれど、心の中に春の太陽がいて、暖かく照らしてくれたから――。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 今でも大切な思い出として彼女の記憶に深く根ざしている幸せな出来事は、こうして本格的な幕開けとなったのである。

(おわり)



  2月 1日○ 


[寒くて暖かかった日(前編)]

 ちょうど二年前の、ちいさな物語である。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 ルデリア大陸の南西部にあるモニモニ町としては、この冬一番の寒さであった。ベージュのコートを着込んで学院から帰宅したリンローナは自宅の屋敷の玄関にある重い扉を閉めた。今日は料理研究部の活動もなく、真っ直ぐに帰宅したのだ。いつもいっしょに帰っている友達が、今日に限って用事があると言って別れたのが少し残念だったが、くよくよ考える性格ではない。
「ただいまー」
 がらんとした家の中から、返事はなかった。船長の父は遠い国への航海に出かけているし、母は幼くして亡くした。世話役の執事も出かけているのだろう。姉のシェリアもいないようだ。

 寒さの粒が漂っている居間に入る。赤い刺繍入りの濃い灰色の手袋をつけたまま、リンローナは両手を口元に当て、吐息をついた。指の隙間から湯気のような淡い白煙が立ちのぼる。
「ふぅー。……ん?」
 直感の鋭い彼女は何かがいつもと違うことに気がついて、広すぎず狭すぎず、しかも余裕のある居間を見渡した。食器をしまっている艶のある戸棚、冷えた暖炉、椅子にテーブル――。
(何かな?)
 リンローナは心の中でつぶやいた。視線はテーブルの上に釘付けだ。胸の鼓動は速まり、根拠のない期待が高まってゆく。
「ココアのケーキだね!」
 しかも、それは明らかに手作りのケーキだった。この家でお菓子を作る趣味があるのは、リンローナか死んだ母親くらいだ。
 そのケーキはスポンジの状態が均一でなく、少し焼きすぎの感があった。しかし精魂込めて作ったことが直に伝わってくる。それを見ただけで、感動屋のリンローナの涙腺は緩んでくる。
「書き置き?」
 ケーキの横には、雑に折られた四角い紙が置いてあった。






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