2003年 3月

 
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2003年 3月の幻想断片です。

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  3月31日− 


[ちょっとした俺の自慢話を聞いてくれ(4)]

(前回)

「ほォら、あいつらに追いつかれたじゃないのよ!」
 しばらく考え込んでいると、女性兵は両手を左右の腰に当てて胸を張り、少しうつむいて上目遣いに俺を睨み、口をとがらせて顔をしかめた。ところがさっきからの不満そうな態度とは裏腹に足踏みをやめて立ち止まっており、わざとらしく伸びをする。
「んーんっと」
 この子、話し足りないのだろうか――俺は考えた。
「あいつらって? あの兵士かい?」
 ここは敢えて下手に出る。花園に沿って続く砂を敷き詰めた馬車道に沿って、二、三人の若い兵がフラフラしながら息せき切らして一目散に駆けつけてくる。俺はそいつらを指さした。
「ふぁーあ。いつもあたしが勝ってばかりで、つまんないわ」
 武術着の上からでも分かるほど少女らしからぬ発達を遂げた肩の筋肉を持つ彼女は、うなずく代わりに深い溜め息をつく。
 ミザリアの女性は穏やかで気だてがいいと聞いていたが、とんだ誤解もあったものだ。こんな勝ち気な女の子がいるとは。

 けだるく温い春の風が通り過ぎ、花の香を運んでくる。
 黄金のような輝きを秘める彼女の前髪は午前の陽を浴びて光り、額には汗をかいている。それを黒いグローブで拭う時、彼女は一瞬だけ笑顔になった。天真爛漫そうな、素直で可愛らしい本来の顔だ。あまりの違いに、俺は図らずもはっと息を飲む。
 随分と威張っているくせに、妙に人懐っこい部分も持ち合わせており、何故か立ち去り難くなる。暴走と内省、力と気高さ――さまざまな二面性を持ち、良くも悪くも印象に残る人物である。

 それから間もなく、兜は被らずとも重そうな鉄の鎧を装着し、堅い皮で作った膝まである茶色の軍靴を着て、三人の兵は不規則な足音を響かせつつ駆け寄って来た。彼らは女性兵の目の前に来ると、三人が三人、膝に手をついて腰を曲げ、前屈みの姿勢でへたばっている。どうやら俺を咎めたりするわけではなく、女性兵を追ってきたのは疑い得ない。何も悪いことをしていなのに、少しだけドキドキしてしまった小市民の俺だった。

 まあ、そんなことはどうでもいい。
「だらしないわねえ」
 汗だくになり、今にも倒れそうな兵を見るや、青い武術着姿の女性はさげすむように鼻でフンと笑った。若いのにも関わらず、すごい貫禄だ。他方、疲れ切った兵たちの方は恨み節を呟く。
「はあァ、少しは護衛する方の身にもなって下さいよ……」
「だから護衛なんて要らないって言ってるでしょ!」
 少女は青い瞳を見開き、甲高い声を張り上げて厳しく一喝した。重心を低くし、腕を曲げて拳を固く握りしめ、今にも飛びかかりそうな勢いだ。効果てきめん、兵は肩を落として黙り込む。
「お父様にもそう報告しなさい、何度でも。分かったわね!」
 少女は追い打ちをかけ、それから勝ち誇ったように笑った。


  3月30日○ 


[弔いの契り(12)]

(前回)

「皆様、お食事中に失礼いたします」
 誰も手入れをしなくなり、荒れ果てた花園を彷彿とさせる白髪混じりの頭をゆるゆると下げ、デミル儀典官は口火を切った。
「実はお願いがございます」
 聞いているとイライラしてくる馬鹿丁寧な貴族向けの口調で、やたらに長い話を俺流に要約すれば、こんな感じだろうか。
『主賓のあんたらが踊ってくれねえと、他のやつが踊れねえ』

 なんでそこまで気を遣うのか分からんが、とにかく儀礼ってのは色々と決まりがあるらしい。まあ、そういうもんなんだろう。俺には一生、縁のない事だと思ってたが、冒険者が意外とお偉いさんに人気があるってのを忘れてたぜ。今さらながら、こういう茶番に来てしまったのを後悔する。特にダンスなんかさ――。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 ルーグは相変わらずの冷静な態度を崩さず、俺たちを見回した。その視線にはちょっとした秘密の目配せが含まれている。
「どうだろう。そういう決まりなら、お先にやらせて貰おうか?」
 運ばれてきたばかりの食べ物を品定めしていたシェリアは、執事の依頼に怒り出すかと思われたが――珍しく事実を厳粛に受け止める。さすがは社交界に詳しい、元お嬢様って訳か。それともシェリアにはシェリアなりの考えがあるのだろうか?
「お預けってわけね。まあいいわ」
 せっかく膨らませた花びら衣装が台無しになるのを嫌がり、椅子に座らなかった彼女は、言いながら後ろを素早く確認した。桃色のスカートの裾が華麗にはためき、甘い香水が鼻をつく。
 彼女の焦点の行き着く先は、一段上から俺たちの様子を注視している若い男爵だった。隠しても隠しきれない不吉でグロテスクな期待が、ゆがんだ口元から溢れている。昼間に垣間見えた一種の異常さが、夜に潜む闇の力で増幅したかのようだった。

 俺の背中を不気味な悪寒が走った。直感が危険だと告げているのに、やつの目的が何か分からないから現時点では対処できない。それに、ここは男爵が治めている村の、男爵の屋敷の離れのダンスホール。地の利は相手にあるし、身分も違う。

 そうか、やっと分かったぞ――ルーグもシェリアも〈とりあえず向こうの出方を警戒しつつ見守ろう〉って伝えたかったんだな。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「どうしますか。リーダーとシェリアさんで行かれます?」
 タックは何事も無かったかのように落ち着いた口調で話し始めた。どうやらダンスのペアを決めようとしてるらしい。ルーグとシェリアは確かにお似合いの二人ではある。と、すると――。

 俺は耳がじわりと熱くなってくるのを感じた。そしてぎこちなく横を向けば、ちょうどリンの薄緑色の瞳が視界の中央に入る。
 時間が止まる。

 背の低いリンは俺を上目遣いに見ていた。仲直りしようよ、あたしもつまらない事でがっかりしてたけど、もう気にしてないから――とでも言いたげに、親しみを込め、はにかんだ微笑みで。

 その間も、例の三人だけの楽団による白けた音楽は流れ続けていた。拍子も旋律も和音も悪くないのにどうも噛み合わず、ホールの中で散り散りになっている。参加者の村人たちは小声で話をしながら、相変わらず葬式のような食事を摂っていた。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「じゃあ、リンローナさんは……」
 タックが俺に話しかけた時、俺は現実に引き戻される。

 すかさず俺が視線を逸らすと、リンは遅れて瞳を伏せた。
 ごめんな、と心の中で懺悔しつつ、俺はきっぱりと言った。
「タック、お前、先に踊って来いよ。俺、ここにいるからさ」
「分かりました」
 悪党の幼なじみは即答した。大方、俺の返事を予期してたんだろう。それを知っていながら訊いてくるなんて、ほんとに頭に来る。あの野郎め、部屋に戻ったら絶対にとっちめてやるぜ!

 そう。運動には自信のある俺にも、苦手なものがある。
 一つは、水泳。
 もう一つは、わけの分からん儀礼が絡んでくる〈ダンス〉だ。
 男がこう動いて、女がこう手を取り、なんて考えていると混乱する。身体と頭を一度に使えないらしいぜ――俺ってやつは。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「素敵なお嬢さん。僕と踊って頂けませんか?」
 リンの前に歩み出るとタックは片膝をつき、右手を差し出す。

 雲間から太陽が現れるごとく、小柄な聖術師の表情はパッと明るくなった。白鳥のように着飾ったリンはスカートの裾を清楚な仕草で触れ、膝を軽く曲げて淑女の礼をし、タックに応えた。
「喜んで」


  3月29日× 


[ちょっとした俺の自慢話を聞いてくれ(3)]

(前回)

 そう。彼女の雰囲気を最も特徴づけるのは〈鋭い視線〉だ。
 確かにただ者でない厳しさがあるし、世間を斜に構えているようだ。が、血も涙もない冷酷者とは明らかに一線を画している。

 何と言ったら適切なのだろうか?
 思春期に特有の、自分の中に潜む限りなき情熱を制御できず、そのことに苛立って全ての押しつけに反抗してみたり、世界と比べて自分の存在のあまりの小ささに悩んだりする――。
 良く良く見れば、そういう純朴な〈背伸びしたい気持ち〉が潜んでいる。俺はとっさに直感した。あの子は世間一般に言う〈良い子〉じゃないが、根っからの悪党でもない。厳しい視線は本来のものではなく、敢えて強情さを演出しているんじゃないか、と。

 俺も商人の端くれ、これでも人を見る目はあるつもりだ――仕入れや納品で最も重要なのは信頼に足る取引相手だからな。

 彼女はその場で駆け足足踏みを続けながら、顔をしかめる。
「何よ? あたし急いでんの!」
 少女とは思えないドスの効いた声だ。じろじろと見つめていたせいだろうか、彼女は上目遣いに睨んだ。もしかしたら見た目よりも年齢は高くて、王宮を警備する女性兵なのかも知れない。それにしてはだいぶ横柄な態度なのが妙に引っかかる。
「こ、こりゃ失礼……」
 迫力負けし、とりあえず謝っておく。それでも何となく立ち去りがたく留まっていると、彼女の方も俺の方を見つめて、喋り足りなさそうに口を尖らせている。もちろん手と足を動かしながら。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 彼女は長い金の髪を、運動の邪魔にならないように頭の上でお団子状に二つに丸めて、それぞれを白い羽毛つきのピンで留めていた。馬上からではあるが、かなり高価そうな品に見える。さすがは王宮を警備する国家公務員、高給取りなのだろうな。

 服装は、肌にピッタリと密着した黒い長袖と長ズボンの上に、青い繻子で作られた半袖の武術着を羽織っている。上下が繋がっている武術着は腰の辺りまで長い切り込みが走り、濃い赤紫で縁取りされている。細いけれども筋肉質の両脚はしなやかに長く伸び、ズボンを履いているとはいえ男なら惹きつけられずにいられないだろう。その武術着の腰の辺りを白い帯でキュッと締め、紫のスカーフを肩の周りに巻き――結構オシャレだ。
 両手には黒い指出しグローブをはめている。靴はブーツと言っても過言ではない代物で、蹴られると痛そうだ。足首と膝の半分あたりまでサポートしている、ごっつい茶色の革靴である。

 王宮警備の女性兵だけあって全般的に筋肉質なのだろうが、武術着や、その他もろもろの服装のお陰で巧みに隠されている。武術にはメロウ島を中心とする北方系、ミザリアを中心とする南方系があるが、彼女の場合は当然ながら南方系だろう。

 背丈は、普通の若い女性くらいだ。脚がすらりと伸びているし、体中から威圧感を発しているので背が高く思われがちだが、十代後半の女性としてはほとんど平均に近い身長だろう。正確な年齢が分からないので何とも言えない面はあるがな。
 昔、近くに住んでいたラサラさんちの二人娘――あの背の高いお姉さんと、おちびさんのを足して二で割ったくらいじゃないかな。痩せていても痩せすぎではなく、筋肉質でも太ってはいない。ずんぐりでもヒョロヒョロでもなく、良い意味でがっしりしている。女性だけでなく、男性を含めても理想の体型だろう。


  3月28日○ 


[ちょっとした俺の自慢話を聞いてくれ(2)]

(前回)

 堀を渡り終えると、馬が走り易いように粒の細かい灰色と黒の砂を撒いた道が僅かな登り勾配で続いていた。幅はかなり広く、前後合わせて十頭ほどの大型貨物馬車でも道から外れずに進めるし、中型車同士なら止まらずに行き違えるだろう。
 俺のは一頭立ての小型車だから〈運転が楽〉などという段階を通り越し――いかにもちっぽけで、雰囲気負けしてしまう。
「いかんいかん、これが向こうの作戦なんだ……」
 別に俺のために作られたわけじゃないが、これからの交渉に臨むにあたって、ありったけの自信を取り戻そうと努力した。

 通用門だから正門に比べれば見劣りするのだろうが、それでも王家にはふさわしい程度の丸い庭園が広がり、道はその淵に沿うようにして緩やかに曲がっている。馬は特に問題なく走っているので、鞭打つ必要もなく、俺はしばし景色に没頭する。

 中庭には春の花が見事に咲き誇り、むせるような匂いの一端が漂ってくる。赤、黄色、紫、白――南国の花はどれも華麗で、元気な感じだ。モニモニ町からはミザリア海峡だけを隔てた反対なのに、亜熱帯と分類されるこの国の植生はだいぶ違う。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 おそらく貴族の別邸だろう、どっしり構える角張った建物の二階同士をつなぐ石橋の下をくぐると、水車や川を配した次の小さな庭の奥に赤レンガで作られた倉庫群が延々と立ち並んでいるのが見えてきた。花園の間に広がる草の原っぱの緑はいよいよ新鮮で、照葉樹や椰子の木が大いに枝を伸ばしている。

「ほっ!」
 その時、突然の出来事だった。
 青い何かが目の前に現れ――俺は慌てて手綱を引いた。
「おっとっと」
 俺は前のめりになるが、馬は何とか歩みを休める。

 危うく人身事故を起こすところだった。相手は青に輝く服を身にまとい、俺の馬車の目の前を駆け足で通り過ぎようとする。
 肩幅はしっかりしているが、後ろ姿は華奢で、どうやら女性らしい。俺は不満に思いつつも最低限の節度を死守し、言った。
「ちょっと、君。危ないじゃないか!」

「何よ、うるさいわね!」
 その女性は振り向き、威圧するかのように大声で怒鳴った。

 きつい言葉と、彼女の外見の落差に、俺はいささか拍子抜けしてしまう――相手が十五歳くらいの少女だったからだ。顔かたちは悪くないが、視線は厳しい鋭さに充ちている。俺は情けなくも彼女の視線に射られ、身体がすくんでしまったのだった。


  3月27日− 


[ちょっとした俺の自慢話を聞いてくれ(1)]

 朝の空気は清々しいものの、さすがは南国で陽射しはやや強く、青空を流れる雲の色まで明るいようだ。海鳥の啼き声が遠く響いており、ここが小さな島国であることを思い出させる。
 俺は馬の手綱を握りしめたまま、通行手形を確認しに行った衛兵が戻ってくるのを待っていた。それとは別に二人の衛兵が俺の馬車の荷物を一通り改め、禁止されている武器や麻薬、魔法の書物、隠れ兵がいないかを点検する。若いのと中年くらいのとの組み合わせの男たちは何か楽しげに雑談しながら、それでも専門家らしく手際よく調べ終えると、並んで敬礼をした。
「ありがとうございました。問題ありません。しばらくお待ちを」
「そりゃどうも」
 薄茶色の気に入りのつば有り帽子を取って、俺は素っ気なく応じた。その実、伯爵様にでもなったような気分で、誇りさえ感じていた。故郷のモニモニ町を離れ、初めて他国の役人との交渉に臨むわけだから多少の緊張感もあったが、しょせんは俺の得意な商談だ。成功させる自信は大いにあったし、事実こうして首尾良く運んだ――けどな、今回俺が話をしたいのはそんな件じゃなく、もっと別の種類の自慢話だ。まあ黙って聞いとけ。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 さっきの二人の衛兵は次の馬車の検問に向かった。彼らは最低限の威厳を維持していたが、どうしても退屈そうに見えた。

 頑丈な石の城壁は高くそびえ、重要地点には見張り塔が厳粛に立ちはだかる。幾つもの建物――おそらく貴族の別邸やら会議場やら調理場やら――と、芝生や花園や池の中庭、廻る回廊の最奥に、白い石で造られた開放的な建築様式で有名なミザリア国の王宮があるのだろう。たぶん広間ではカルム王が朝の謁見の真っ最中だが、ここから窺い知ることは出来ない。

 その一方で、俺の目の前の狭い通用門は開け放たれ、許可を受けた荷馬車が次々と行き交っている。動きやすそうだが身を守るには少々心許ない革の鎧に身を固めた十人ほどの衛兵たちは、それぞれに大剣や槍を所持しているものの、警戒感はさして強くない。まさに長きに渡って平和を謳歌するミザリア国らしい風物詩と言い切っても構わないだろう。もちろん夜になれば門は固く閉じられるし、見張り塔が異常を察知して鐘を鳴らしても同様、王宮防衛の拠点を担うが、今はその時ではない。

 俺の前の大型馬車が空堀に架かる狭い橋を巧みに進んでいった。いよいよ俺の番だ。気分を落ち着かせ、堂々と構える。

「南ルデリア共和国のイグル殿、行ってよろしい」
 書類をきちんと書いておき、もちろん正式の通行手形を用意してあったため、審査は実に簡単だった。倉庫地区のみ立ち入ることの出来る通行証を受け取り、上着のポケットにしまう。役人との商談は倉庫地区にある部屋と聞いているので問題ない。

「ご苦労さん」
 馭者の席から礼を言い、俺は荷馬車を走らせるのだった。


  3月26日○ 


[海を飛んだ少女(9)]

(前回)

 タックを待つ間、四人はカフェの入口の横で何となく小さな円を作ったが、シェリアだけはあからさまにそっぽを向いている。
 彼らは皆、手持ちぶさたな様子で待っていた。空気は凍てつくように冷たく、鼻から洩れ出す吐息は白い。夜空の星は藍色に深まる西の空にその数を増やしつつあった。ガラスの箱に入れられた魔法のランプが通りのあちこちに灯り、月光の原液を吸わせた芯が柔らかな黄色の輝きを周辺に投げかけている。
 緩い曲線を描くレンガの路沿いに整然と並んでいる料理店からは肉や魚を焼く匂いが流れ、食欲を大いにそそる。三階建てで統一された住居の煙突からは暖かな煙が立ち上っていた。

「ひゃっ」
 きつく腕組みして華奢な肩を精一杯に怒らせていたリンローナは、身を切るような北国の夜風の冷たさに耐えられず、手袋をしたまま毛皮のコートの前ボタンを上から順番に閉じてゆく。
「冷えるな」
 長い防寒具の裾がはためいたルーグは、ややうつむき加減で低く呟いた。特定の誰に語りかけるわけでもなく、自らの発言を噛みしめるように。残響は彼の内面の深淵へと堆積してゆく。
「ああ……」

 ケレンスが短く応える間もなく、後ろのドアが開いてタックがそそくさと現れた。タックはルーグを促し、先頭に立って歩き出す。年少のリンローナを中央に挟んで、シェリアとケレンスが続く。
 最後尾の二人は普段から馬が合わぬことが多いが、昔話の副作用だろうか――特につつき合うこともなく、それぞれの物思いにふけっていた。タックとルーグが魚系の定食屋を指さすと、リンローナはうなずき、後ろの二人は視線だけで賛意を示す。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 店の長椅子に腰を下ろして給仕に最初の注文を伝えると、シェリアは落ち着いたのか、本来の活気とわがままさを少し取り戻した。わざとらしく咳き込んでから、会計係に強く要望する。
「夕食はおごってよね。さっき喋りすぎて喉が渇いたわ」
「お茶の一杯くらいなら、おまけしますよ」
 ダメで元々のつもりだったのにも関わらず、前向きなタックの回答に対し、シェリアはすかさず意外そうに聞き返したが、
「え、ほんとに?」
 ここはチャンスとばかり念を押し、既成事実化しようとする。
「男に二言はないわね? タック」

「せっかくのお話の、ささやかなお礼にいかがでしょう?」
 タックが見回し、提案を持ちかけたのは他の三人である。パーティー全体の会計係である以上、タックの独断で共同資金を使うわけにはいかぬ。彼は最初にリンローナの方を見下ろす。
「あたしは賛成だよっ」
「金銭の管理はタックに任せてある」
 ルーグが婉曲に承認すると、ケレンスも面倒くさそうに言う。
「たまにはいいんじゃねーの」
「ふーん。ま、いいわ」
 自分の話が思っていた以上に大きな影響を与えたと改めて知ったシェリアは、滅多に味わうことのない半透明の感慨と、一握りの恥ずかしさ、妙に冷めた気持ちとの狭間で揺れ動いた。
「じゃ、出来るだけ高いお茶の方が得よね……」
 そう言ってメニューを取ると、小さな笑いが起きた。タックはほくそ笑み、リンローナは口元を押さえて清楚に微笑む。ケレンスは飲みかけの水を吐き出しそうになり、ルーグは頬を緩める。
「な、何よ」
 姉が珍しく狼狽した後、代表して説明するのは妹である。
「だって、すっごくお姉ちゃんらしかったから!」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 リンローナは先ほどの昔話を再び持ち出し、嬉しそうに――だが必要以上に興奮することなく、節度を守って穏やかに語る。
「あの時は本当に怖かったけど……風に乗ったお姉ちゃん、空を泳いで海を飛んでるように見えたよ。鳥さんみたいだけど鳥さんじゃないし、お魚さんみたいだけどお魚さんじゃないし……」
「私は私に決まってるじゃないの」
 比喩を真に受けてむくれるシェリアにケレンスがまたもや吹き出すと、その張本人から睨まれてしまう。彼は肩をすくめた。

「そんなに面白い話かしらね、これ」
 あきれたように呟いた彼女に、間髪入れずタックが訊ねる。
「それからは、そんな無謀な魔法は使っていないんですか?」

 するとシェリアは口をとがらせ、大げさに右手を振った。
「そんなにやっちゃあ、体が持たないわよ!」
「とか言って、色々やらかしてそうだけどなぁ。姉御は」
 ケレンスがぽつりと口を挟む。シェリアは身を起こして抗議しかけたものの――楽しい作戦を思いついたのか、急に小悪魔的な笑みを浮かべ、すらりと長い指先を剣術士の方に向けた。
「そうだ、ケレンスに体験させてあげるわ。私の暴走魔法を!」
「ま、まぁ、待て、待てよ。早まるな、な」
 何かを防ぐような形で滑稽に両腕を伸ばし、慌てて相手をなだめすかすケレンスは、その実、情けなくも完全に腰が引けていた。巧みに剣を操る接近戦には長けていても、心理戦や魔法絡み――さらには、案外と女性に弱いケレンス少年であった。
 当然ながら、シェリアは彼を一刀両断に笑い飛ばす。
「冗談よ。冗談に決まってるでしょ!」

「お待たせしました」
 そこへちょうど良い具合に給仕がやって来た。大皿には新鮮な緑の野菜の葉が広げられ、その上では未だに煙を発し続けている火を通したばかりの海の魚が、一口サイズの細かい破片に分かれて並んでいる。香ばしさが空腹の胃を刺激する。
「メシだぜ」
 ケレンスは不満そうにゆがめた顔をぱっと輝かせ、じゅるっと唾を飲み込み、小皿を持ち上げてフォークの柄を握りしめた。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 メラロール市の夜の帳は、まだ下りたばかりだ。
 これが冒険者たちの、とある冬の休日の出来事である。

(おわり)
 


  3月25日− 


[海を飛んだ少女(8)]

(前回)

「……っていうわけ」
 一番に盛り上がる部分を語り終えると、シェリアは急激に興味を失くしたようだった。けだるさが畳みかけるように襲ってきたのか、顔にも言葉にも明らかに覇気が無くなり、どこで打ち切ろうかと苛々し始めているように見えた。さっきからしきりに髪の毛をいじっており――それが彼女の心理を露骨に顕している。
 最初は邪魔ばかりしていたケレンスも、いつの間にか女魔術師の昔話に引き込まれてしまったようで、文句はなりを潜め、ただカフェの天井を走る不可思議な横長の木目模様を呆然と眺め、余韻に浸っていた。その日、その場所に立ち会ったリンローナやルーグの様子は言わずもがな、二人は深い追憶に浸っている。タックだけがいつものように冷静で、テーブルの下へ両手を伸ばし、近づく勘定のため財布の中身をちらりと確かめた。

 すでに宵の口を迎え、若い恋人たちや家族連れ、仕事を終えて集まってきた商人、友人同士、髭を伸ばして芸術家然と構えた男や、近所の老人――ありとあらゆるメラロール市の人々が集まってくる。窓が大きく、しゃれてはいるが少し重い喫茶店のドアを彼らが押すたび高らかに鈴が鳴り、ウエイトレスの歓迎の声が発せられる。客は熱いお茶を飲んで冷えた身体を温め、あるいは旧交を温め、会話を通して心を温め合い、見つめ合う。

 店の給仕はシェリアたちのテーブルの横を素通りしてゆく。五人がそれぞれの思いの中で沈黙を重ねれば、洗い場の水音が妙に耳につく。井戸から汲み出すか、ラーヌ河の支流を利用しているのだろう。文化都市メラロールは水の豊かな街である。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 ツ、ク、ツ、ク、ツッ。
 良く手入れされた人差し指と中指の爪で椅子の肘掛けをリズミカルに五回打ち、シェリアは鋭利な口調で宴の幕を下ろす。
「はい、おしまい!」
 そのまま立ち上がると、冷めたティーカップを持ち上げて薄紅色の艶のある唇を近づけ、僅かな残りを一息に飲み干した。
「もう夕飯の時間でしょ?」
 シェリアがそそくさとコートを羽織り出すに至り、ルーグもケレンスもリンローナもようやく我に返って動き始めた。余情は夜の空気に少しずつ溶けるように消え失せ、現実に引き戻される。
「あ、僕、会計をしてきますから先に出ていて下さい」
 素早く準備を済ませたタックが伝票を持って歩き始めると、数人の給仕があちらこちらから唱和した。客の回転率を上げたい時間とはいえ、出来る限りの真心を込め、彼女らは礼を言う。
「どうもありがとうございましたッ!」
「またのお越しをお待ちしております!」

 それらの挨拶や、客のおしゃべり等、雑多な言葉の混沌地帯を整然と斜めに切り裂き、女性にしてはやや背の高いシェリアは颯爽と店を後にする。ケレンスとリンローナが続き、ルーグはリーダーらしく忘れ物がないか辺りを見回してから出発した。


  3月24日− 


[七力研究所レポート〔芽月編〕(7)]

(前回)

 テッテは軽く深呼吸してから、穏やかな気持ちで言った。
「七力について色々と研究してきましたけど、研究すればするほど〈七力では割り切れない事柄〉が多く見つかるのですよ」
「さっきの、白樺の樹液も……」
 ジーナは何か言いかけたが、突然に口をつぐんでしまった。相手の話に割り込んではいけない、という彼女なりの配慮だ。

 テッテはその辺りのことを察して、にこやかに笑いかける。
「ええ。水は樹の中に、風の中に。そして大地の中にも」
「大地の、中?」
 微かに呟いたリュアは、その意味を理解すると息を飲んだ。秘密の宝物がじょじょに明らかになるような驚きに充ちた感情を露わにして、瞬きする。ジーナも顔を上げて青年を見上げた。
「どういうこと?」

「例えば雨が降っても洪水にならないのは、こんな風に説明できます――大地の精霊たちが雨水を飲んでくれるからです」
「あたし知ってる! 落ち葉の中って湿ってるんだよ」
 もはや沈黙し続けることに耐えられなくなり、ジーナは持ち前の活発さを解放して勢い良く喋った。他方、テッテは両手を口元に当てて二枚の花びらのように開き、子供みたいな悪戯(いたずら)っぽい微笑みで、誰も知らない夢幻の逸話を物語る。
「ただ、あまりの大雨になると、無理ですけどね」
「そりゃあ、そんなにいっぺんに飲み込めないよー」
 ジーナは大地の精霊に成り代わり、照れ笑いをしつつ頭をかいた。その様子が面白くて、リュアもテッテも思わず吹き出す。

 しばしの間、三人は森の静寂を邪魔しない程度の声をあげ、楽しさの渦のまっただ中を縦横無尽に浮遊した。それは近づいている別れを惜しむかのように、長きに渡って続くのだった。

 それもしだいに収まってゆく。遠くの方から流れ来るのは家路をたどり始めた鳥の啼き声だ。テッテはしんみりと述懐する。
「水だけではありません。土の中にも細かい風はあり、風の中にも細かい土のかけらが混じっている、そんな気がします。見ようと思っても見られませんし、僕の独りよがりの考えかも知れませんが、そう思うんですよ……そう感じて仕方がないのです」
「うまく言えないけど……あたし、分かる気がする」
 夕陽を背中に受けて、ジーナはぽつりと呟いた。
「リュアも」
 もう一人の少女も丁寧な仕草でうなずく。その右手の温もりの中で、樹液を吸った青い麦わらはふやけ、役目を終えていた。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 木々の新芽をなでる風は少し肌寒く、昼間が刻々と冷めていくことを秘やかに伝える。優雅な薄紅に染まって、綿雲は漂う。

「風の雫、樹液、大地の水。彼らは無言ですが、実に雄弁――おしゃべりです。全ては関わり合っている、ということの何よりの証拠であるような気がします。僕は、それもけっこう面白いかなと思うんですよ。私の雇い主であるカーダ博士はがっかりすると思いますが――七力をずっと研究してきた方ですからね」

 三人は森の出口で分かれた。草原の菜の花にはつぼみが生まれ、匂い立つ輝きの時を今か今かと待ち構えている。希望の女神アルミスの季節も、手が届くところにまで近づいている。

「じゃーねー!」「また遊びに行くね」
「それでは」

 坂を下ってゆく二人の少女たちと、それを見送る青年とは、お互いが小さな黒いシルエットになるまで手を振り続けていた。

(おわり)
 


  3月23日○ 


[七力研究所レポート〔芽月編〕(6)]

(前回)

「森の贈り物、白樺の樹液をどうぞ」
「わぁい!」
 ジーナは飛び上がって喜び、さっそく〈風飲みストロー〉を取り出した。風に含まれる微量の水分だけでなく、木の幹から樹液を吸い込める、氷水の魔力を帯びた不思議な麦わらである。
 彼女はさっそく手近な樹の幹に飛びついた。地味な茶色の木々に比べ、肌が清楚な白をしていることに改めて感動する。
「あ、その前に、白樺の樹にお願いしてくださいね」
 テッテが補足すると、ジーナは悪戯っぽい笑顔を返した。
「いただきまーす、って?」
「そうですね……まあ、気持ちが伝われば大丈夫ですよ」
 テッテが困ったように言うと、ジーナも少し真面目になる。
「うん」

 ジーナは瞳を閉じ、手を組んで祈りを捧げる。しかしリュアの方は決心がつかず、白樺とジーナとを交互に見つめていた。
「リュアさん、どうしましたか?」
 テッテが訊ねると、リュアは視線を下げ、小さな声で言う。
「でも、ほんとに飲んじゃっても平気なのかなぁ?」
「?」
 大人の考えで判断したテッテには何が何だか分からない。しかし、すぐに子供のころの気持ちを思い起こして問いかける。
「もしかして、樹が可哀想……ってことでしょうか?」
 こういう所を決しておそろかにしないのはテッテの長所であった。子供の考えを馬鹿にせず、なるべく同じ位置に立って受け答えをしようとする。誰しも、かつては子供時代があったのだ。
「うん。だって、せっかくの樹液なのに」
 リュアの台詞に、聖なる祈りの途中であったジーナは顔を上げ、不思議そうに親友を見つめた。テッテは淀みなく微笑む。
「大丈夫ですよ」
 まずは最初の一言で相手の気持ちを和らげ、説明を続ける。
「確かに樹液は人間で言うと血のようなものですが、ここに生えている白樺の樹はとても大きいですし、実はまだ若いのです。リュアさんに樹液を分け与えても、全く影響はないのですよ」
「そうなんだ……」
 リュアは瞳を潤ませ、偉大な白樺の樹を見上げるのだった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「んー」
 一歩先をゆくジーナは樹液を吸うのに苦心している。麦わらの先を樹の幹に当て、大きく息を吸い込んでも、口に入るのは森の空気だけだ。肺が充たされても、胃の方は決して膨れない。
「ふぁあぁ」
 一度、思いきり息を吐いて仕切り直しをする。

 にわかにジーナはさっと両腕を振り上げ、飛び跳ねる。
「わかった!」
 彼女は鋭く叫び、持ち前の器用さで麦わらの改造を始める。
 ――と言っても先端を幹に当てて押しつぶすだけなのだが。
「これで大丈夫!」
 先の潰れた麦わらを掲げ、ジーナは歯を見せて相好を崩す。

「こう……かな?」
 リュアの方はジーナの見よう見まねで〈風飲みストロー〉をいじった。その手つきはおっかなびっくりで、今にも壊しそうだ。
 青年は一歩引いて腕組みし、少女の想像力に任せている。

 準備が整ったジーナは麦わらの先を指でつかみ、白樺の幹へ押しつけた。そして反対側の出口に柔らかな唇を近づける。
(こんなんで、本当に樹液を飲めるのかな)
 期待と不安が入り混じりつつ高揚していくのを感じながら。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 ジーナは唇をすぼめ、今度こそは――と息を吸い込む。
 口の先につながる細い管から、爽やかな空気が入ってくる。
(ダメで元々!)
 一向に水の感触は生まれない。ただひたすら風が虚しく通り過ぎるだけだ。それでもジーナは諦めず、口先に力を込める。
(おいで、おいで、上がっておいで……)
「ジーナちゃん?」
 リュアが訊ねた、まさにその時であった。

 何だか分からないものが麦わらを通じて、唇に到達する。
 乾いていた口の中に、わずかではあるが新鮮な水分が広がってゆく。その流れは一瞬では終わらず、どんどん溢れてくる。
 舌を湿らせ、喉に潤いをもたらし――。

 ついに味覚が反応する。
「んっ、美味しい!」
 ジーナはぱっと顔を上げ、驚きの表情で叫んだ。
 彼女の〈風飲みストロー〉にはほとんど透明に近い白色を帯びた樹液が流れている。それを見ていたリュアは静かな祈りを終え、さっそく親友を真似て別の白樺に自分の麦わらを当てる。
 そして息を吸い込んだ。

「あっ!」
 反応はすぐにあった。発酵乳を大量の水で割ったような、ほんのり甘く爽やかで癖のない味わいが口の奥に広がってゆく。
「すごく自然な感じ……」
 感慨深くリュアが呟き、ジーナも自らの言葉で感想を洩らす。
「こんな美味しい樹液を持ってるなんて、白樺ってすごいね!」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「そうですね、白樺は素敵な樹液を隠しています」
 テッテはゆっくりと瞳を閉じ、瞑想するように秘かな口調で語り始めた。通り過ぎる風は昼の終わりがそう遠くないことを無言のうちに知らせてくれる。少女らは手を休め――掌には不思議な麦わらの青が付着していた――助手の言葉に耳を傾ける。
 深い事象をなるべく平易に説明すべくテッテは言葉を選ぶ。
「天空の力を持つ風の中にも、草木の力を持つ樹の中にも水がありました。氷水の力は、水の中だけに留まらないのですね」
「うん」
 ジーナが相づちを打つ。リュアは黙ってうなずいた。

 梢の間から射し込む陽の光を受けて目を細めたテッテは、心の中のもやもやが浄化されて透明になってゆく過程を強烈に感じていた。やがて決心する――これまで自分の胸にだけ秘めていた一つの考えを伝えよう、と。ジーナとリュアならば真剣に聞いてもらえるのではないか、と。持論の押しつけでもなく、教え諭すわけでもない。あくまでも対等な立場で聞いてもらうのだ。


  3月22日− 


[海を飛んだ少女(7)]

(前回)

「そん時、見えたのよね……浜辺への細い細い一本道が」
 遠くを見つめるような眼差しをし、シェリアは落ち着いた口調で呟いた。時間と場所を遙かに越えた想い出の中の一幕である。口調はいつもと変わらぬように聞こえたものの、不思議な余韻が残り――妹のリンローナはその違いを的確に感じていた。
 シェリアは追憶に浸って口をつぐんだ。今まで沈黙していたルーグはこぶしを握りしめ、まざまざと甦る悔しさを受け止める。

「波が高く、私はシェリアのもとに近づくことさえ出来なかった。その場に踏みとどまり、自分の体勢を維持するのがやっとだ。あんなにも自分の無力さをつきつけられたのは初めてだった」
「ルーグはぜんぜん悪くないわよ」
 と強情に言い張るのは、当然ながらシェリアである。リンローナは会話の流れを止めないように気をつけ、ひそやかに語る。
「あたし、あの日は本当に怖かったよ。通りすがりのおじさんとおばさんに、誰か船乗りさんに頼んで船を出してもらえませんかってお願いしたんだけど、お姉ちゃんはずうっと向こうだし、助けに行ったルーグも危なくて……心が張り裂けそうだったよ」

「それで、続きはどーなったんだ?」
 彼らの想い出話にケレンスが水を差す。
「しょうがないわね。もうちょいだから、ちゃんと聞いててよ」
 話が長くなり過ぎ、シェリアは面倒くさそうに言った。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 自らが生み出した水流に乗って身体が動くと、身も凍りつくような寒さが襲いかかってくる。うねり、飛び跳ねる水は巨大な化け物の腕のようだった。手足の感覚はほとんど無くなり、歯はガチガチ鳴ったが、それでも幼いシェリアは驚異的な集中力を維持し続け、次のチャンスが来るまで少しずつ移動し続けた。

 長くは持たなかったろう。しかし奇跡は起きた――彼女が言うところの〈浜辺への細い細い一本道〉が姿を現したのである。波の狭間をゆく海の谷間の直線が、薄紫の瞳にはっきりと映る。

 シェリアは力を抜き、思考を一挙に解放して世界と繋がる。

 直後、猛烈な圧力を背中に感じ、身体が前屈みになった。彼女は苦痛に顔をゆがめつつも、震える歯を食いしばって体重をさらに後ろへかけた――魔法じかけの見えない椅子に背中を預けて。速度が増せば増すほどに両脚は鉛のごとく重かった。彼女はまさに一艘の船となり、また一陣の風となり、海をかき分けてゆく。突然の小さな抵抗にざわめいて揺れる黒い水面を二つに切り裂き、覆い被さろうと企む波を辛うじて避けながら。

 飛び交う水しぶき、汐の香り、塩の味。

 かつて体験したことのない早馬並みのスピードに、シェリアの視界は狭まっていた。それでも何とか正面に焦点を合わせるべく気丈に顎を持ち上げると、上下左右に激しく振れる景色の中央近くに、遠いはずのリンローナの頭の緑が拡大して見える。

 妹の姿を見て、気が緩んだのか。
 暴走した魔法の勢いが強すぎたのか。
 それとも横波や強風にあおられたのだろうか。

 シェリアはほんの刹那、ぐらついてバランスを崩した。
 しかし、こういう修羅場では一つの失敗が生死を分ける。
 体勢を懸命に修正しようと身体を仰け反らせるものの、常に風の圧力を受けているため上手くはいかない。腰の後ろで固く組み合わせていた両手を微妙に持ち上げた、その時であった。

 身体がわずかに前のめりになる。
 それは復旧が困難な臨界点を少しだけ越えていた。
 あとは崩壊の道を突き進むだけである。

 圧倒的な海と猛烈な風とに挟まれ、シェリアの視界の下の方から目に見える世界の全てに海の容積が溢れていった。一瞬一瞬が驚くほどゆっくり流れていったが、実際には悲鳴をあげる暇さえもないのだった。水闇は彼女を誘い、確実に迫り来る。

 絶望的な反抗も顔を打つ水圧でついえた。彼女は反射的にまぶたを下ろしたが、さっきから激しい呼吸を繰り返している口を閉じるのは遅れてしまう。遅れて、自分の身体が水の表側に衝突した音が現実離れした幻のように響いたのだった――。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

何も見えない。
何も聞こえない。

息もできない。
触れるものとて存在しない。

それでいて全てに触れられている。

ただ氷のような冷たさに包まれている。

口の中には塩の味がし、喉が疼いている。


意識を失いかけたシェリアは、何かを聞いた。
――ような、気がした――

耳は詰まっていて、くぐもった泡の音がする。

(そうだ、音がする……)

それが何だったのかは、今でも分からない。

自分自身の魂の鼓動なのか。
それとも、海の鼓動なのか。

息はできない。

(だけど、音が聞こえる)

急に元気が出てきて、生命の執念が再び燃焼する。

(お願い。もし残ってたら、働いて!)

そして再び両手を後ろで組み合わせ。
海のまっただ中で、彼女は天空魔法へ集中し始めた。

(私を波の上の世界までつれてって。私の風よ!)

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

彼女は瞳を開けた。

何も見えない。

――。

何も見えない?

――。

(見える)

ある方向が全体的にぼんやりと明るい。

水の中で、魚のように自由には動けないけれど。
シェリアは魔法の風で、海を飛ぶことができる。

海を見通す魚の目は持たないけれど、光なら分かる。

(あっちよ!)

強烈な意志の炎が、彼女を水中の泡の如く上昇させる。

ゆらめいている光の層がしだいに近づいてゆき――。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「はっ!」

 シェリアは水面上に顔を出すと、喜ぶ余裕も全くないまま、身体の重さがなくなる浮遊感にとらわれた。海からの脱出の続きのように上へ羽ばたく。身体の方は頭よりも正直だ。苦しかったぶん大きく激しく肩を上下させて貪るように風を吸い込み、逆に古くなった肺の空気を吐き出す。紫色の前髪は濡れそぼって額に張りつき、薄紅に染まる頬には幾筋もの塩水の河が走る。

 勇気を出して下を向くと、足は水から離れている。
 彼女は海を飛び、僅かながら空を飛んだのだ。

「お……ゃーん」

 はっきりと自分に向けられて投げられた誰かの声に導かれて正面を向けば、かなり近づいた砂浜と、そして小さな妹が必死に手を振る姿が見える。それがぐんぐんと近づいてくるのだ。

(私の魔力、あとちょっと頑張って……)

 シェリアは念じた。さすがに身体と意志の疲労感が現れ、肩や首、背中や腰や足の小指まで重力がゆっくりと戻って来る。
 底なしの威力を誇っていたシェリアの風魔法も、いよいよ限界に達しようとしていた。速度が落ちて彼女の身体を支えきれなくなり、踵(かかと)が着水する。素足の裏を海の舌が舐めるように、くすぐるように触れ合って、左右に飛沫の橋を架け続ける。

「お姉ちゃーん!」

 今にも消えようとするシェリアの精神をギリギリの所で支えていたのは、高まってゆくリンローナの叫び声だった。しだいに周りの風景が薄暗くなり、世界が離れてゆくのだろうかと朧気に感じつつ、シェリアは歩くほどの速さで水面を滑っていった。

(もう少し)

 妹の姿はもうはっきりと見えるが、目はかすれてくる。

(あと、ちょっと……)

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 シェリアがくずおれたのは波打ち際であった。
 立っていることも出来ず、身体はあっけなく傾き、昏倒する。
 魔法の風の最後の余波を受け、頬は砂浜をなぞった。

 そして、止まった。

 足先を洗う波が洗う、夢なのか現なのか分からぬ感覚。
 心の花園には早くも深い安らぎが直観的に溢れ出す。
 彼女の全面的な勝利で、戦いの幕は下ろされたのだ。

「お姉ちゃん、シェリアお姉ちゃん、しっかりして! 誰かぁ!」

 駆け寄るリンローナの声を聞き、シェリアは今度こそ本格的に失われてゆく混濁した意識の奥底で何度も繰り返していた。

〈助かった、助かった、これで、助かった……んだ……〉


  3月21日△ 


[春待つ日々(5)]

(前回)

 レフキルは『気にすることないよ』と相手を安心させるように言いかけたが、結局やめてしまった。気にしているからこそ、サンゴーンは内情を吐露したのだ。前提を覆すのは無益である。

「そう……」
 何と言ったら、相手を傷つけずに済むだろう。レフキルは知恵を絞るが、どうしても気の利いた台詞が思い浮かばなかった。

 彼女は苦し紛れに、こう言った。
「いいじゃん! いいよ」
「?」
 サンゴーンは、さも不思議そうに首をかしげる。話としては幾分ややこしくなったが、雰囲気が和らいだのは確かであった。

「何がいいんですの? 分かりませんわ」
 当然ながらサンゴーンは親友に訊ねた。レフキルは頭の中を整理しようとしたが、ふいに考えが明白になり、繰り返し語る。
「そのままでいいんだよ。無理する必要はないってこと!」

 非常に素晴らしい考えではないか、と思ったレフキルだったが、サンゴーンの表情は妙に沈んでいた。相手は訥々と呟く。
「でも、わたし、いつまでもおばあ様を卒業できませんの……」

 サンゴーンの言葉は鋭い針となってレフキルの心に突き刺さる。せっかく良案だと思ったのに、瞬時に間に色褪せてしまう。
 それでも必死に想いの数々を整え直し、レフキルは語った。
「卒業って何? サンゴーンはサンゴーンなんだからさぁ、お婆さんと全く同じことをやる必要はないと思うよ。きっと……ね」
「でも、いつもおばあ様と比べられますの」
 サンゴーンは諦め顔で本音を吐き出し、黙り込んでしまう。

 草木の神者の前任は実の祖母だっただけに、サンゴーンへの民衆の期待は大きかった。それを見事に裏切ってしまったぶん、彼らの失望は大きく、サンゴーンへの風当たりも強かった。前任者が偉人だっただけに不運な成り行きとも言えるだろう。
 しかしレフキルは考えた――あのお婆さんが、血筋にこだわってサンゴーンを指名することは無いだろうと。それはひとえに〈サンゴーンという人物こそが次の神者にふさわしい〉と考えたからだろう。そもそも個の利益を重んじる人ではなかったのだ。

 そうだ、そうに決まってる。

 空から伝わってくる老婆サンローンの気持ち――風を受け、レフキルは確信した。すかさず声を弾ませ、親友に問いかける。

「サンゴーンは、イラッサをどんな町にしたい?」
「どんな町?」
 サンゴーンの方は目を白黒させ、唐突な質問に戸惑う。
 それでも普段から思うところがあったのか、素直に言った。
「うーん……みんな仲が良くて、平和で」
「うん、うん」
 レフキルは相手の話を邪魔せず、相づちを打つだけである。一方、サンゴーンは夢を膨らませて、少しずつ明るく応えた。
「花や木や草があって……」
「いいじゃない」

 返事をしつつ、心の奥底でレフキルは叫んでいた。
(それって、サンゴーンのお婆さんとすごく似てる考えだよ!)


  3月20日− 


[諜報ギルド(7)]

(前回)

 盗賊ギルドと公認ギルド間の抗争は熾烈を極めました。相手のやり口を知っている者同士が、専門的な手段で一歩出し抜こうと争うのです。死傷者は双方に出ました。しかし、その影響で民衆が盗みや殺人の犠牲になることは格段に減ったのです。

 その頃になると、話は〈対策委員会〉の権限の範疇を越えています。委員会は発展的に解消し、あとは王国治安担当の上層部が直接に指示を与えるようになりました。同時にディラント氏は出世し、そのまま担当局のメンバーに格上げされました。

 権限は拡大され、次々と新しい施策が打ち出されます。
 だいぶ公認ギルド員が増えたため、いくつかのグループに再編します。敵の首領や要人を捕まえたり人材を引き抜いたり重要な情報を入手した場合などに、各グループ単位で報奨金を出すことにしました。ギルドのグループを競わせ、グループ内においても相互に見張らせ、集団責任を取らせる形にしたのです。

 これらの案をまとめたのもディラント氏だと言われており、氏にはいつしか護衛が付けられるようになりました。組織をズタズタにされた盗賊団からしてみれば、ディラント氏は敵の中枢の一人だったのです。逆恨みですが、まあ仕方はないのでしょう。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 その辺りから、公認ギルドは暗に〈諜報ギルド〉と通称されるようになります。もともとの〈盗賊ギルド〉と区別するためです。
 ただ、盗賊ギルドのメンバーを示す〈盗賊〉という呼称はその後も生き残り、代用となるべき〈諜報員〉は浸透していません。

 僕も盗賊と名乗っていますが、そういう組織に属す者と考えてもらって構いません。話の流れから察して頂ければ幸いです。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 では、僕らはどういう任を負っているのか、説明できる範囲でお教えします。ここではまた例のディラント子爵が登場します。

 ディラント子爵は〈情報〉というものに着目しました。かつてマホジール帝国が魔法の情報網によって世界の半分を治めたことを知っていましたし、盗賊ギルド員の従来からの情報収集能力の高さに着目したのです。諜報ギルドの方は荒くれた盗賊ギルドとは異なり、王国の潤沢な資金をつぎ込んで特別な教育が施されました。メンバーが情報を集め、集めた情報を駆使して戦いを優位に進める。知の王国、メラロールらしい作戦です。

 いまでは各市町村に諜報ギルドの出張所が設けられ、ひそかに情報交換を行っています。諜報ギルドの暗躍で盗賊ギルドはほぼ壊滅しましたが、各地でおかしな動きがないか調べ、さらなる治安維持を図るため――住民の不満をひそかに吸い上げるため、僕らは影の集団となって任に当たっているのです。

 大丈夫ですよリンローナさん、怖がらなくても。ごく普通に暮らしている一般市民の皆さんに迷惑をおかけすることは、まずありません。むしろ、それを防ぐための情報網なのですから。必要もなく無辜の市民を脅したり、事情聴取することもありません。
 相互互助であり相互監視組織である諜報ギルドは、そんな輩を許してはおきません。自由な発言の出来ない、息苦しい国家になってしまいますからね。僕らの原動力は常に愛国心です。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 市民からは諜報ギルドへの税金投入に反発も出ましたが、実際に事件は減り、しだいに黙認する形となっていったようです。つまり、治安維持の特殊部隊として理解を頂けたわけですね。

 かつての盗賊ギルドの中で、戦いだけが取り柄の危険分子の一部は、より危険な暗殺者ギルドと呼ばれる地下組織へ移動したようです。その壊滅も、僕らの重要な任務の一つです。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 以上、諜報ギルドと〈盗賊〉について、ご理解頂けましたか?


  3月19日− 


「えーと、セラーヌ町の歴史ですね」

 伝統ある石造りの図書館は天井が高い割に窓が小さくて、全体的にいかめしい。背もたれのある立派な椅子に腰掛け、彼女は調べものを始めるところだ。磨かれた木のテーブルにカビ臭くて分厚い辞書を置き、肩の凝りを感じつつ重いページを繰る。
 学院聖術科に通う十七歳、彼女の名はセリカ・シルヴァナという。長めの金の髪を後ろで束ね、薄い茶色の地に灰色系のチェックが入っている膝下のスカートをはき、リボンつきのレンガ色のベルトで細いウエストをきゅっと締め――花柄の模様が袖の先や襟周りにちりばめられたクリーム色の長袖ブラウスを着用して、その上に薄手の生地で編まれた春らしい薄茶のベストを羽織り、ボタンをかけている。全体的に清楚な印象の彼女を最も特徴づけるのは、とぼけたような丸いレンズの眼鏡である。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「歴史、歴史〜」
 独り言をぶつぶつ喋っていると、向こうに座っている老人は眉をひそめてセリカを睨み、迷惑そうにわざとらしく咳払いする。
「グォッホン」
「ん? これは何でしょう?」
 しかしセリカの方は、いっかな気にしない。そして本題を忘れ去り、ページを繰るうちにふと見つけた図に見入ってしまう。

 白い矢印がヘンノオ町から起こり、王都のメラロール市を通り抜けて新たな白い流れと合わさり、黒い矢印とぶつかりながら南下してゆく。最後は国境のオニスニ町に至り、河を挟んで対峙するが、黒い方にはマホジールからの援軍がかけつける。

メラロール動乱はオニスニ河畔の戦いで膠着状態に陥り、メラロール帝国の生き残りはマホジール帝国に投降し、リース地方を保護された。これで新生メラロール王国は手を引いた。数年の後、リース地方は正式にマホジール側の軍門に下り……」

 セリカは音読しつつ、学院へ提出する用紙に記入していく。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「ん、そういえばリース町って……どんな町でしたっけ?」

 セリカは新たな好奇心を起こした。彼女の悪い癖である。
 そして今度は無事にリース町の項目に辿り着いてしまった。

「ええと、なになに……リース町は、マホジール帝国領リース公国の公都である。もともとは旧メラロール帝国が治めていた土地であり、現在に至るまでノーン族が多く居住している。気候的には温暖だ。美しいリース河の恵みを受けて農作物の出来は良く、穀倉地帯として知られている。年間を通して西風が強いため、小麦をひく風車が数多く見受けられ、リース町の風景を彩っている。これが〈風の町〉と呼ばれる由縁である。また林業も盛んだ。船に乗せて、河口の港町リューベルまで輸送する」

 そこまで書き写すと、提出用の紙は埋まってしまった。
「出来ましたっと」

 畳んだ紙と筆記用具をポシェットにしまい、セリカは立ち上がった。重い辞書を両手で抱え――頭は別のことを考え始める。

(今日のお夕飯、何が出るのかしら)

「お夕飯、お夕飯〜」

 そして紙を提出する時まで、与えられたテーマと彼女が書いた内容とが全く違っているという事実に気づかないのだった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「セラーヌ町の歴史を調べ、簡単に記述しなさい」
 


  3月18日△ 


[闇問答]

「まだ降ってるよ」
 カーテンの隙間から覗き込み、彼は母親に伝えた。外は真っ暗で、雨がコンクリートを打つ音が響いている。肌寒い夜だ。
『何が』
 突如、頭の奥深くで、誰か知らない子の声がした。

 彼は応える。
(何って……雨がさ)
『雨?』
(雨を知らないの?)
『いや、知ってるさ』
(じゃあ、なんで聞くの? 雨でしょ?)
『あれは本当に雨なのか?』
(はぁ? 雨が降ってるんだよ)
『お前は、本当に、その目で見たのか?』
(見たよ)
 彼が言い返すと、相手は少し黙った。

 しばらくしてから、頭の声は意味ありげに呟く。

本当に……それは雨だったのかい?

(そうだよ。雨に、雨に決まってる……じゃないか)
 彼の反論は少しずつ弱まってゆく。自信がなくなってきた。
(雨だと思うけど。音もしてたし)
『その目で、確かに見たのかい?』
(暗かったから、はっきりとは分からないけど……)
『じゃあ、正確に見た訳じゃない』
(んー……まあ、そうかも知れない)

『あれは闇だ。闇の固まりが降ってる

(や・み?)
 二つの音が一つの意味になり、心を震撼させる。
 腕に鳥肌が立った彼に、頭の声は追撃をかける。

『そうだ。あれは闇が溶け出して、墜落したものだ』
(そんなはずは……あれは雨だよ)
『俺には闇に見える。闇の固まりが降っているんだ』

(朝になれば、水たまりができてるよ)
 弱々しく常識を述べた彼に、容赦ない批判が飛ぶ。
『あれは闇だまりだ。闇は光を浴びると水になる』
(そんな馬鹿な)
 彼の頭の中で〈常識〉が音を立てて崩れてゆく。

『そうだ。地面をたたき、ぬかるみを作る』
(だから、それは雨……)
『違う。闇が降っているのだ』

(雨)

『闇』

(雨)

『闇』


(闇……)
 


  3月17日△ 


[七力研究所レポート〔芽月編〕(5)]

(前回)

 少し行った先の分岐を脇に入れば、とたんに道幅は狭まる。光は割と射し込んでくるのだが、そのぶん丈の長い草が両側から腕を伸ばしている。テッテは大人の男性にしては痩せているから平気だが、太ったおばさんならば厳しいだろう――そのくらいの幅だ。ジーナとリュアには何ら問題はなく、むしろ彼女たちにとっては足元を這う木の根やでこぼこの方が危険だった。
 さすがに手をつなぐのは諦めて縦に並ぶ。ジーナがテッテの背中を追い、後ろからリュアがついてくる。道はしだいに下りとなり、辺りは少しだけ薄暗くなって再び森の中へ続いている。

「あっ!」
 リュアが驚きの声をあげると、ちょこまかと幹を駆け降りてきた尻尾の長い縞模様の親リスは警戒し、再び軽々と登ってゆく。
「何もしないよー」
 ジーナが呼びかけても後の祭りで、遙かな梢に小さな茶色の顔があった。木の枝で編み、樹皮を敷いた立派な巣も見える。
「行っちゃったよ、ジーナちゃん」
「野生の動物は警戒心が強いですからね」
 リュアとテッテの言葉にジーナは口を尖らせ、巣を仰いだ。
「つまんないの」

 勾配は緩やかになって左右の草の壁も消え、道幅は広くなった。少女たちを気遣ってゆっくり歩いていたテッテはそこで立ち止まり、急に振り向いたので、ジーナは勢い余ってぶつかりそうになる。あまり運動の得意でないリュアの息は弾んでいた。

「さあ、着きましたよ」
 テッテは右手を掲げ、その一帯を指し示した。ひときわ目立つ白っぽい幹に灰色の傷が幾筋も刻まれ、風格が漂っている。


  3月16日△ 


[弔いの契り(11)]

(前回)

「いっただっきまーす」
 まずは色々な種類の肉に片っ端からフォークを突き刺し、器に移すのも面倒で直接口に運ぶ。クチャクチャと音を立てて噛めば肉汁が溢れ、舌の上でとろける。やっぱり一番食った気になるのは肉だな。冷めてはいるが、この肉汁の多さ、かなりの高級品らしい。普段の町の晩飯じゃとても手が出せないはずだ。

「んー、んめえ、うめえ」
 とりあえず腹の虫が収まってくると周りを見回す余裕も出てくる。村の男どもの何人かは料理のテーブルの列を遠巻きに眺めていたが、いちおう賓客扱いの俺が食うのを見て、初めて本格的に群がってきた……といっても数人だが。その中には男爵付きの小姓も二、三人混じっており、パンや肉、魚や野菜やらを厳選して銀の皿に見栄え良く盛りつける作業に余念がない。
 未だにダンスをやっているやつは皆無だ。音楽は虚しく流れ、あちこちの話し声と言っても嫌に耳障りな囁きばかりだ。パーティーってのはこんなもんなんか? これじゃまるで〈葬式〉だぜ。

「ケレンス」
 聞き慣れた声に振り向けば、唇の周りを肉汁だらけにした俺を見上げて苦笑し、二枚の皿を重ねてタックが立っている。その悪友の後ろにはルーグがいて、やはり皿を二枚手にしていた。
「せっかくお皿があるんだから、使いましょうよ」
 俺は口の中のものを一気に飲み込んでから不満を漏らす。
「何だよ、お前ら、二枚も持ってるのか?」
「いや。シェリアとリンローナの分を取りに来たんだ」
 ルーグが応えると、俺は反射的に自分たちの席の方へ視線を送った。ちょうどシェリアが厳しい表情で何かをリンに耳打ちしているところだった。当然、内容は分からないが。とにかく、ルーグがシェリアの、タックがリンの食い物を取りに来た訳だな。

 何故か分からないが、ちょっと悔しかったので悪態をつく。ルーグをおちょくるつもりはねえから、常に矛先は決まっている。
「すっかり中身までも紳士気取りだなァ、タックさんよ」
「ケレンスが代わりに持っていきます? リンローナさんに」
 素早く器用に手先を動かしながら徐々に立つ位置をずらしてゆき、それぞれの手で支える銀の皿に適当なおかずを取り分けながら、タックは相変わらずの冷静な声で興味なさそうに言う。

「はぁ? そりゃ、どういう意味だ?」
 俺は恥ずかしながら動揺してしまい、慌てて声高に訊ねると、結局はさっきの乾杯のように村人の視線を集める羽目に陥る。
「まあ、別にいいですけどねー」
 リンの好きそうな野菜を多めに載せ――といってもバランスの取れた食材をきれいによそって迅速に仕事を終えると、タックは俺だけが分かるように白けた表情をし、背中を向けて去りゆく。
「お、おい。待てよ」
 フォークを持つ利き腕を情けなく伸ばした直後、俺の脇をルーグが通過する。双方の皿は充分な食い物で充たされていた。
「ケレンス、悪いが私も先に行っているぞ」
「俺も行く」
 やや気まずい気持ちで、俺はつぶやく。すぐに手近なレタスの葉にフォークを刺して引きずり、自分の皿に滑り込ませる。
「とりあえず準備万端だ」
 そう言う時に限って、周りのスープとかが急に欲しくなってきやがる――だけど言っちまった手前、俺にも意地があるんだ。

 立ち止まってくれたルーグを促し、俺は決然と歩き出す。
「行こうぜ、ルーグ」
「ああ」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 さて俺たちが席に戻ると、ちょうどタイミングを見計らうかのように儀典官のデミル――老執事が近づいてきたところだった。


  3月15日○ 


[七力研究所レポート〔芽月編〕(4)]

(前回)

「木が持っている水とは、すなわち樹液です」
「樹液……」
 テッテの言葉を繰り返し、リュアは期待に胸をときめかす。
「ええ。例えば白樺の樹液が有名です。メラロール王国にはガルアノーザリアンと呼ばれる地域がありますが、そういう北国では雪解けの頃に白樺の樹に亀裂を入れるそうです。その季節だけ採れるので〈シオネス様の飲み物〉と呼ばれています」
 知識をひけらかすわけでもなく、ぱっとしない研究所の助手は淡々と続けた。ジーナは青玉(せいぎょく)よりも遙かに澄んだ薄い藍色の瞳を大きく広げて感心し、思わず一瞬だけつま先立ちした。夏の光で編んだポニーテールの尻尾が飛び跳ねる。
「お兄さんって、ほんっと何でも知ってるんだ!」
 言われた方は〈とんでもない〉という様子で強く首を振った。
「僕が知っているのは、僕がいかに知らないか、ということだけです。だから僕は勉強し続けます……たぶん、生涯をかけて」
 リュアはすっかり黙り込んでしまい、食後のお茶のようにテッテの言葉の余韻を味わっていた。本音を洩らすのはジーナだ。
「学舎の勉強さえ大変なのに、一生勉強なんて、やだなぁ」

 気持ちのいい微風が頬を撫で、テッテははっと我に返った。
「話が逸れましたね。このシャムル島でも、数はあまり多くないですが白樺の木は生息しています。少し歩いてみましょうか」
 その提案にジーナは頷いたものの、リュアは顔を曇らせる。
 テッテとジーナが動き始めても、彼女は一歩を踏み出すかどうか迷い、渋っている。心配して振り返り、青年は声をかけた。
「あんまり奥の方へ行くのは、リュア、ちょっと怖いな」
 視線を合わせず、銀の髪の少女は下を向いて申し訳なさそうに理由を説明した。テッテはゆっくりと、丁寧な口調で応える。
「大丈夫です。ほんのすぐそこですよ」
「……うん」
 リュアはちょっと考えてから、テッテのことを信頼して結論を出した。言葉を発した段階ではまだ不安そうだったけれど、決めてしまうとだいぶ楽になったようで、頬の緊張は徐々にゆるむ。それは道端の小さな白い花のつぼみが開いてゆくのに似て、他人の心を妙にほっとさせ、母性本能を喚起する部分があった。
 ジーナは親友の元に駆け寄って腕を伸ばし、指を絡ませ、手を取って握りしめた。こぶしの中の暖かさの素が共有される。
「行こ、リュア」
「うん!」
 リュアは明るさを取り戻して言った。テッテは微笑んでいる。

「それでは参りましょうか」
 先に立って案内をする青年の背中を追い、手をつないだ二人の少女がついてゆく。早春の午後はだいぶ涼しくなっていた。


  3月14日○ 


[七力研究所レポート〔芽月編〕(3)]

(前回)

「これは風の中から水だけを吸い取る道具です」
 テッテは冷静さを取り戻し、落ち着いた口調で切り出した。
「まあ、強いて名付けるならば〈風飲みストロー〉でしょうか」
「〈風飲みストロー〉か……」
 改めてジーナは海色の麦わらをもう一度見回した。指先を滑らせると気持ちが良く、何だか魔法にかかったような気分だ。

 テッテは数本の〈風飲みストロー〉を掲げ、補足説明する。
「風自体を飲むのではなく、微量の水を吸い上げる訳ですが」
 二人の少女が真剣に聞いているのを確認し、彼は続ける。
「さっきの、僕の〈風絞り〉をご覧になれば分かると思いますが、実のところ空気中に含まれている水分はほんの少しだけです。特に今日は分かりづらいでしょうね、とてもいい天気ですから」

「天気によって、変わるの?」
 ジーナが訊ねると、青年は待ってましたとばかりに応える。
「湿気が多い時は風も水膨れしています。雨が降り続いた日には風の中に見えない雫がたくさん含まれています。時間帯によっても違います。夕方よりも朝の方が空気は湿っていますよ」
「それは氷水の力が影響しているのかな?」
 黙っていたリュアが質問するとテッテは満足そうにうなずく。
「ええ。この前は天空畑をご案内しましたが、今回は氷水畑で収穫したものを持ってきました。だから色が青っぽいのです」

「ほらぁ、ジーナちゃん。リュアはいい線、行ってたと思うよ」
 リュアが珍しく自信を持って言うとジーナは適当に反応した。
「ふーん。まあね」
「さあどうぞ、やってみて下さい」
 試供品の出来映えに大きな期待を寄せ、テッテは促した。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 ジーナとリュアは〈風飲みストロー〉をくわえ、唇をすぼめる。それから瞳を閉じ、肺の奥深くまで思いきり息を吸い込んだ。狭い空洞から風が入り込み、心のすみずみまでを充たしてゆく。

 突然、唇の先端で僅かな水の感覚が湧いた。舌を動かして口の中の粘膜を湿らせ、思い切り飲み込むと喉が鳴る。冷えておらず生ぬるいが、無色の純粋な味わいは清らかで上品だ。

『おいしい!』
 またもや、ジーナとリュアの歓喜の声が重なったのだった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「その〈風飲みストロー〉という名前は、あまり良くありません。水分を持っているのは、風に限ったことではないのですから」
 テッテが話し出すと、思い思いに森の小径を歩き回って風の水を味わっていた二人の少女たちは立ち止まって耳を傾ける。
「これを使えば、例えば土の中にも、木の幹にも水が含まれていることが分かります。世界を成り立たせる七力の一つである〈水氷(ひょうすい)の力〉は、泉や池や沼や湖や川や海、雨や水たまりだけでなく……あちらこちらに存在していたのですよ」
 テッテは相変わらずの調子で淡々と語った。麗しき刻は砂時計の一粒一粒となり、決して留まることなく流れ去っていった。
 太陽が微妙に動くと森の中は驚くほど光の具合が変化し、枝の影は見たことのない文字を描いた。鳥たちの歌声は静けさの向こう側で夢のように響き、白い蝶は花の季節を予感させる。

「木にも?」
 ジーナは手近な木のごつごつした堅い幹をこぶしでノックし、もともとの好奇心をはち切れんばかりに膨らませて訊ねる。
 するとテッテは嬉しそうに相好を崩して即答したのだった。
「ええ。風のように濾過された水とは、少し違いますがね」


  3月13日− 


[七力研究所レポート〔芽月編〕(2)]

(前回)

「これ、星吹きストロー?」
 テッテの顔と、彼の差し出した掌に横たわっている青い麦わらとを交互に見つめ、ジーナは心から興味津々そうに訊ねた。
「ジーナちゃん。この前のとは、ちょっと色が違うみたい……」
 その後ろから少しだけ顔を覗かせ、リュアが呼びかける。
「確かに青っぽいかな」

 相手の掌に収まりきらない一本の長い麦わらに目星をつけて精いっぱい腕を伸ばし、ジーナはつまむように持ち上げた。指先に触れる独特の感覚を確かめつつ自分の方に引き寄せる。
 片目をつぶって正面から眺めると、向こう側の景色が切り取られて小さな丸い世界に閉じ込められていた。普通の麦わらに比べると、若干内側の空洞は広いようだ。グラスの冷たい飲み物に浸せば、ふやけるまでの間、ストロー代わりに使えるだろう。
 それから目元に近づけ、角度を変えて凝視し、匂いをかいでみる。他方、リュアは麦わらに魅せられて無意識のうちに一歩を踏み出した。テッテだけが一人、口元をほころばせている。

「これは何だと思いますか?」
 落ち着いた声で、博士の助手は二人連れの賓客に尋ねた。決して得意がったりせず、淡々と語るのが彼の持ち味である。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 少女たちはかつて〈星吹きストロー〉と名付けられた空色の素敵な麦わらをテッテからもらったことがある。しかし深い青の種類は初めてだった。それはデリシ町の波止場からルデリア世界の隅々にまで繋がってゆく、大海峡の波の色を思い出させる。

 二人はそれぞれの考えに沈み込んだが、埒があかないと判断すると互いに駆け寄って耳打ちし、軽く意見交換を始めた。

 まずはジーナがリュアの耳元で囁く。
「あれ、ゼッタイに〈星吹きストロー〉の仲間だよ!」
「そうだね。リュアもそう思う」
「でも、何ができるんだろう? 青い星を作れるのかな?」
「あの色にヒントがあると思うけれど……氷水の力だと思うの」
「どういう意味?」
「ジーナちゃん、覚えてる? この前の〈星吹きストロー〉は〈天空畑〉で採れたよね、きれいな水色で。今度は青だから……」
「そうか! 学舎で習ったっけ。水色は天空、青は氷水って」

 テッテは聞き耳を立てず、むろん口を挟むこともない。穏やかな表情を保ち、二人の相談の様子を遠巻きに見守っている。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 しばらくするとジーナは残念そうに手を挙げて、叫んだ。
「もう降参! わかんないよ。テッテお兄さん、教えて!」
「それでは種明かしをしましょうか。はい、リュアさん」
 麦わらを持っていないリュアに一本見繕って渡すと、少女はふいに表情を緩めて、純粋な感謝の気持ちを言葉に乗せた。
「ありがとう」
「のちほど、森の神様にたっぷりお礼を伝えて下さいね」
 テッテが恥ずかしそうに首を振ると、小さな訪問者は顔と顔を見交わして微笑み、息の合った親友らしく同時にうなずいた。
『うん!』


  3月12日○ 


[七力研究所レポート〔芽月編〕(1)]

 絹のように気高い光沢を持つ目にも鮮やかな青い原色の手袋――冴えないロングコートのポケットから、青年はその一対を取り出した。新緑に焦がれ、芽吹きの季節を謳歌する森の日溜まりで、その象徴的な青は周りの事物より浮き出して見える。
 大陸の東に浮かぶ魅惑のシャムル島では海流の影響であまり雪も降らず、幾つもの土筆(つくし)の子は日ごとに伸び上がって土の中から顔を出し、抜きつ抜かれつの背比べを続ける。

 二十代前半くらいの痩せ気味の青年は、見かけに無頓着なのか髪の整え方が中途半端で、寝癖が少し残っている。彼を特徴づけるのは使い古してフレームが微妙に曲がった眼鏡と、その奥に瞬く漆黒の双眸から発せられる柔らかな視線だった。
 彼の名はテッテ。気難しい発明家のカーダ老博士に雇われた四千人目の助手として、丘の一軒家での研究活動を支える。

 先ほどの青い手袋を五本の指の先までしっかりとはめ、手首まで隠れたのを確認してから、テッテはそれを回したり振ったりした。光を受けて鈍い輝きを秘め、夢幻の生き物を思わせる。

 その様子を真剣に眺めているのは、テッテの年齢の半分にも満たない二人の少女であった。活発そうに目を見開いて旺盛な好奇心を露わにしたポニーテールの似合う黄金色の髪の女の子は、学舎に通う八歳のジーナだ。背丈は低いけれども溢れるばかりの元気がみなぎり、運動が得意で手先も器用である。
 もう一人は彼女の同級生で、後ろから少しこわごわと眺めている。ジーナよりも若干背は高く、夢見るような瞳と柔和な口元が印象的な、銀の髪を肩の辺りで切り揃えた九歳のリュアだ。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 テッテは何もない場所に青い両手を伸ばすと、にわかに綱を握るような仕草をし、空気を掴んだ。それから桶で洗い終わった雑巾を絞る時を彷彿とさせる動作をし、渾身の力を注いでゆく。
「ヴヴヴッ」
 こめかみに青筋を立て、歯を食いしばり、握力が人より劣るテッテは〈見えない布〉を絞りに絞った。酔っているのかと疑いたくなるほどの赤ら顔になった頃、ようやく周囲に変化が生じる。

 風景がきしみ――まるで曲面鏡のごとくに歪んだのである。
 そして、ほんの少しずつ透明のしずくが丸く膨らんだかと思うと、突然続けざまに二、三滴こぼれ、足下の草の葉に弾けた。
「あたしもやらせて、お兄さん!」
 勢い良く駆け寄ったのはジーナだった。テッテが一気に力を抜くと、ねじ曲がった空間は何事もなかったかのように戻った。
「すごいなぁ」
 リュアの方はテッテの青い手袋を見据えたまま呆然と立ち尽くし、今しがたの信じられぬ展開を夢見心地に回想している。
「ふわぁ、ふわぁ……」
 激しい心臓の鼓動を感じたテッテは、間もなく膝に手をついて重心を前に落とし、肩を上下させて深い呼吸を繰り返した。普段の運動不足がたたったのか、額と背中にうっすら汗をかき、しばらくはジーナの願いに言葉を返す余裕さえなかった。熱気で蒸れる前に手袋を引っ張って脱ぎ、コートのポケットにしまう。

「天空の力を帯びる風にも、実は水が含まれているんです」
 やがて呼吸を整え、上体を起こしながらテッテは語った。
「この〈水絞り手袋〉も悪くありませんが、かなり疲れます。ジーナさんとリュアさんには、こちらの方が良いかも知れませんね」
 彼が次に取り出したのは数本の麦わらで、色はやはり青だ。


  3月11日○ 


[春待つ日々(4)]

(前回)

 ゆっくりと目を見開き、唇を上下に動かせば、かすかに汐の香りを含む冬の風に喉が乾いてゆくのを感じる。何か言いかけてやめたサンゴーンはほっそりとした指先を組み、空を仰いだ。
 いつの間にかレフキルも祈りを終え、ひそかに同年齢の親友の様子に注意を払っていたが、無用な言葉や先走った行動で相手の邪魔をすることは決してしない。向こうが始めなければ三日でも四日でも待つ――というくらい、どっしり構えている。
 サンゴーンは天空から大地に大きく視線を落として、その合間にレフキルをちらりと見た。銀色の前髪がさらりとこぼれる。

 やがて若き草木の神者は覚悟を決めたのか、再び口に力を込めてゆく。それは大変に勇気のいることだった――こんなことを言って、レフキルは心配しないだろうか。むしろ私のことを嫌いになるのではないか。面倒くさいと思われてしまうのではないか――ありとあらゆる悲観的な憶測が、彼女の頭をめぐる。
 それでも結局は、いつも真剣に、真摯に、真面目に対応してくれたレフキルへの信頼が打ち克つのだ。サンローンが亡くなってからというもの、包み隠さず本心を打ち明けられるのはレフキルだけだったし、レフキルの方もそのことを良く理解していた。

 親元を離れた木の葉が土に頬を寄せる瞬間の音に似て、透き通り、儚く消えてしまう囁き声でサンゴーンは口火を切った。
「町長としての自覚が欠けていますって」
「……誰?」
 レフキルは気持ちを抑えて怒るような、それでいて優しく微笑みかけるような、相反する要素を持つ奇妙な声色で訊ねた。
「サンゴーンのことですの」
「うん。それをサンゴーンに言ったのは、誰? ってこと」
 普段は穏やかな性格のサンゴーンだが、まれに、ひどく落ち込んでしまう日があった。出来るだけ相手を傷つけないように言葉を厳選し、口調を和らげて、レフキルは問いを投げかけた。

 ふいに強い風が木々の間を通りかかった。ナイフを彷彿とさせる甲高くて鋭い音が鳴り響き、二人の会話を途切れさせる。

「この前のお話し合いで……」
 サンゴーンは語尾を濁したが、頭をもたげた時の表情はさっきよりも格段に明るく見えた。辺りに留まっている想いのかけらが数珠繋ぎとなって、繰り返し繰り返し心の毒を引き出させる。

「どうしたらいいか、わかりませんの。町のお役には立ちたいですの、でも私に町長さんは重荷ですわ。実質的には摂政の方に全部任せていますけれど、私は何もせず町のお金で暮らしていますの。いつまでもこのままじゃダメですの……でもサンゴーンには一体、何ができますの? 何も思い浮かびませんわ」

 そして沈黙。サンゴーンは重く口を閉ざしてしまった。
 墓に手向けた白い花はかすかに揺れている。

 自分を責める彼女の悲痛な言葉の数々が木々の根に吸収されるまで充分に待ってから、レフキルは軽く溜め息をついた。
「そう……話し合いで」


  3月10日− 


[夜半過ぎ(9)]

(前回)

「ええ、そうよ」
 母親の顔は心なしか陰影を深めたように、ファルナは思った。ランプの中で不規則に踊り続ける炎の影響もあるが、決してそれだけではない。いわば太陽が薄雲に隠れるほどの些細な変化だったが、彼女は母の言葉から言葉以上の何かを捉えた。
「私たちの寝室まで起こしに来たの、シルキアが。おなかがへったって……。あの子、朝から何も食べてなかったでしょう?」

 木で作られた床がミシッと鳴り、母はささやきを休止する。住居までもが身震いして凍える、避暑地の冬の真夜中である。

「柔らかめにお芋を煮込んで、手早く作ったんだけど……」
「すやすやと寝息を立てていたよ」
 母がすまなそうに口ごもると、後を受けて父が説明する。
「咳は治まったし、食欲も出てきた。汗をかいていたから母さんに着替えを持たせた……薄くて、汗を良く吸収する綿の服を。朝になれば熱も下がるだろう。ずっと良くなっているはずだよ」
 娘と妻を安心させるように、父は優しい口調で語りかけた。彼の掲げる灯火は親子三人に、狭いけれど安全な丸い共同空間をもたらす。ファルナはあまりの寒さに手袋を口に当てて、思いきり吐息を吹きかける。空気に溶けてゆく雪色の温もりを瑞々しい頬に抱き寄せながら、彼女は頭一つ分高い父を見上げた。
「シルキアの寝顔、見たのだっ?」
「寝顔? ……ああ。ファルナも見たいのかい?」
 予想外な問いを受け、父は微妙に声の調子を上げた。それでもシルキアを起こさないよう、かなり注意深く喋っているのに、他の音が皆無のため廊下に響く。昼と夜では、価値観や存在感は裏表のようにひっくり返るのだ――ここでは取るに足らないものにこそ光が当たる。ランプが唯一の太陽に、ほんの小さな言葉が主要なメッセージを伝え、人肌は心地よい暖炉となる。

「行くかい?」
 父は腕の方向を変えて、姉妹の部屋のドアを照らした。いくぶん黄色みを帯びた木目が、闇のまにまに薄ぼんやり浮かぶ。

 ファルナはしばらく検討していたが、やがて曖昧に首を振る。
「シルキアが元気になってから見たいですよん」
「それはいい考えだと思うわ。今日はもう休みましょう」
 固く腕組みし、染み込む空気の冷たさを必死に防いでいた母が同意する。その声は震えていた。指先はかじかみ、足の指は冷えきっている。布団に潜ってもすぐには寝付けないだろう。

「そうだな。もう遅いし、ファルナまで風邪をひいてはいけない」
 父親が言い、妻と娘を先導しようとした、まさにその時。

 シチューのいい香りが忘れられなかったのだろう。
 静寂の奥底で、ファルナのおなかが〈クゥ〉と鳴った。


  3月 9日○ 


[弔いの契り(10)]

(前回)

 ダンスホールの入口付近に並べられた窮屈で簡素な木の椅子から数名の村人が起立し、老いも若きも背中を丸め、生気なく歩き始めた。男爵のいる上座から入口の下座に向かって二列のテーブルが長く続いている――もちろんホールの中央はダンスのための空間なので、邪魔にならぬよう左右の壁に沿って一列ずつだ。その上には各種のパンや肉や魚、野菜やパイを載せた大皿が置かれていた。テーブルから少し離れた場所に小さな机があって、色褪せた紺の給仕服を着た中年の侍女がおり、パンで作った粗末な食器を参加者の村人に手渡している。

 待ちくたびれたぜ。乾杯の恥ずかしさなど一気に忘れ去った。俺は即座に目を輝かし、悪友タックを突っついて確認する。
「もうメシ食っていいんだろ?」
「ええ……でも」
 やつは座ったまま口ごもり、レンズの抜け落ちた眼鏡の奥から鋭い眼光で男爵の方を見やり、次に誰もいないホールの中央を確認し――最終的には低い声で、そばにいるリンに訊ねた。
「ダンスが始まる前にガツガツ食べるのはどうなんでしょう?」
 こういう礼儀作法はリンかシェリアと相場は決まっている。何しろ出身地が文化の進んだ町だし、今を時めく貿易船の船長さんの御令嬢ときたもんだ。パーティーの経験くらいあるだろう。

 リンは細い首を曲げてタックの方を見、軽く首をかしげる。
「大丈夫だとは思うけど、ちょっと様子を見た方が安全かなぁ」
「要は大丈夫なんだろ?」
 俺は苛々して言った。リンは困ったように薄緑の瞳を瞬く。

 その時だった――音楽が始まったのは。
 乾杯の後、演奏家たちは男爵の椅子の近くにある台の上に並び、椅子に腰掛けて音の紡ぐ世界に入り込んでいる。台はけっこう広いので、たった三人だとひどく滑稽で場違いに思えた。
 かつては専門的に楽器を学んだ者が台の上にひしめきあい、素晴らしく重厚な音楽を奏でたこともあったのだろう。だが、今演奏している髪の薄い壮年の三人は、普通の村人が趣味でやっているようにしか見えなかった。服装がぱっとしないからだ。
 やつらが持っている楽器も最低限だった。地味な茶色の服を着込んだ痩せてるオッサンは主旋律の横笛、小太りで丸眼鏡のおやじは身体と同じくらいの大きさの弦楽器、そして白髪の混じる爺さんは一オクターブしか鳴らせない卓上の鉄琴だ。
 冴えない男どもは、それでも三拍子のダンス音楽を奏でる。

 しばらくあっけにとられていたが、俺の腹はいつでも正直だ。低く長い唸りをあげ、楽器としてやつらの演奏に参加しちまう。
 ふと横目で確認すると、シェリアはルーグとひそひそ話をしていた。リンは音楽に耳を澄ませ、タックは無表情に座っている。

 白い紙にくるんである清潔で高価そうなフォークを右手に、平べったい銀の器を左手に取って、俺はひょいと立ち上がった。
 いちおう俺たち用の席は用意してあるし、給仕や小姓も控えてはいるが、もともとは立食形式のパーティーだ。俺たちの目の前にあるのは食器だけで、基本的には歩き回って自分の欲しいものを取ってくる。小姓に命じてもいいんだが、そんな七面倒くさいことは俺の性には合わねえ。欲しいものはこの目で選び、この手で掴む。他人を信用しない訳じゃないが、自分で出来ることは自分でやる――それが一般庶民の俺のやり方だ。
 食器に関して言えば、村人たちが配給を受けたものよりも明らかに豪華で、良く分からねえ花の模様が入っていたりする。

 後ろは振り向かず、足早に歩き、目的の場所を目指す。
 こうして俺は冷めた料理の並ぶテーブルにたどり着いた。

 南国伝来の香辛料の、嗅覚を鋭く射る独特の匂いが立ちこめている。一番豪華だったのは雄の孔雀の丸焼きだ。焼いた肉に、あの奇妙な羽を突き刺し、翼を広げて威嚇するように見せかけている。たくさんの視線に監視されているように思えた。
 肉で言えば、他にもニワトリや牛、羊、鴨、それからウサギのがあった。野菜や果物の種類は多くないけども、そのぶん量は豊富で、多くの緑の中に赤やオレンジや黄色が混じっている。
 主食はパンだ。堅焼きから柔らかいのまで、砂糖でまぶした甘いのから香辛料入りのピリリと舌先に痛いものまで、薄い色や黒糖入り、球形や直方体、果物入り、目玉焼きを乗せたもの――さまざまなパンがある。今が旬の秋のキノコをゆっくり似たスープはまだ湯気を上げていたし、りんごパイや芋の煮物、東国ラット連合風のコメ料理も、しけた村にしては上出来だろう。

 鳴っている音楽も、もはや耳に入らない。
 俺の口の中は食事を求める唾液でいっぱいだった。


  3月 8日◎ 


[花冷え(2)]

(前回)

 一陣の強い風に窓枠がガタガタと風に震える音で、リュナンの安らかな眠りは中断された。意識の中の夢の比率が減るとともに、朧気だった辺りの状況がしだいに輪郭を持ち始める。
 ふと明るい光に気づき、彼女は頭と身体を横に倒した。

 真っ先に見えたのは、立ち並ぶ橙色の屋根の上に広がる青空と白い雲だった。降り注ぐ光の眩しさに少女は目を細める。
 その遙か手前で、家の庇(ひさし)から流れ落ちてくる水のしずくは不規則なリズムを刻んでいる。もはや時間を計る役目を終えた雨の名残は何の翳りもない金剛石のように透き通り、肩の荷が下りて余生を楽しむ老人に似た穏やかさを持っていた。

(雨……上がったんだ)

 地上にわだかまる嫌なものを洗い流してくれた雨が去りゆき、風は湿り気を回復してみずみずしく生まれ変わり、それは天が撒いた光の粉に優しく溶けて、清らかな水蒸気は故郷に還る。

 気持ちのいい体温が再び眠りの世界へいざなう。リュナンは特に抵抗することもなく境界線をまたぐ――その直前だった。

 ピューウィ。
 何の前触れもなく、鳥の唄を彷彿とさせる独特の高い音が暮れなずむ街に鳴り響いた。だが決して鳥の声でないことをリュナンは鋭い感性で察知している。最も原始的な楽器、口笛だ。

(サホっち?)

 リュナンは本能に任せて上半身を起こし、春にそぐわない重い布団を両手で押しのけた。それからゆっくりと右足を床に差し出し、左足を差し出し、地面を確かめるように踵へ力を込める。

「ひゃ」

 その刹那、視界が急激に狭まり、真っ白になった。
 立ちくらみを起こしかけて思わずリュナンは膝をつく。視力は徐々に戻るが、心臓は苦しげな速い鼓動を打ち続けている。
 それでもめげずに彼女は立ち上がり、窓辺へ駆け寄った。

 部屋は二階だった。リュナンの視線は音の源を追い求め、レンガ作りの街路を縦横無尽に、立体的に慌ただしく移動する。

 その時、彼女の聴覚はもう一度、例の高い口笛を捉えた。
「間違いない……サホっちだ。どこにいるの?」
 敢えて呟くことにより、期待が事実になってくれればいい。

 ――願いが通じたのだろうか。
 わずかののち、窓ガラスと二階分の距離を挟んで、見上げるサホと見下ろすリュナンの目が、的の中心を射るように合う。

 赤い髪の目立つ親友は最初、リュナンに気づいてもらえたことを安心したように息をついたが、すぐに顔を上げて悪戯っぽく微笑むと、腕を伸ばして人差し指を突き出し、空の高みを示した。

「えっ?」
 リュナンが戸惑って少し首を傾げると、黄金の髪が揺れる。
 他方、サホは何かを叫びながら腕を激しく動かして、なおも東の空を見るように訴えている。相手の思いを理解したリュナンは教えられた方角に視線を送るが、この位置からは見えにくい。

 大急ぎで鍵を外して窓を開け、身体を乗り出す。
「寒いよっ」
 花冷えの夕暮れの風がパジャマ姿のリュナンに襲いかかる。震えながら思わず腕組みをし、背中を丸めて首を引っ込めた。

 その視界の片隅を不思議に長い紫色が横切る。
「ねむ、あれ見てよ!」
 窓を開けたため、サホの声も良く聞こえる。

 リュナンは寒さも忘れて、瞳を見開いた。
 暮れゆく西の空の残照をいっぱいに受けて――。
 東の空に浮かび上がったのは大きな虹の架け橋だった。
 片端しか見えぬが、サホの位置ならば全貌が分かるだろう。
 赤、橙、黄色、緑、水色、青、紫。
 七つの色が自分の持ち場を守って円弧を描いている。

「はっ……」
 息を飲んだリュナンに、さらなる嬉しい知らせが下から届く。
「誕生日おめでとう! プレゼントあるから、取りに来て!」
 言うまでもなくサホの言葉である。リュナンの心は喜びに沸き返り、街はにわかに明るさを増したかのように感じるのだった。
「うん! 今すぐ行くから、待っててね!」
 パジャマであることも気にせず、部屋のえもん掛けからコートをひったくると、部屋のドアを開けるのももどかしいくらいの勢いで飛び出し、廊下を駆け、階段を一段抜かしで下りていった。

 窓辺には二人の友情の証であるヒビだらけの焦げ茶のが置かれ、素敵な出来事の顛末を暗くなるまで見守っていた。

(おわり)
 


  3月 7日◎ 


[花冷え(1)]

 通りの脇の花壇では、早咲きのつぼみが凍えているだろう。
 せっかくの休日だというのに、ズィートオーブ市は朝から雨模様だった。どうしてもやる気の起きないリュナンはほっそりとした小さな身体をベッドに横たえ、窓ガラスを伝わる水滴を――その向こうに垣間見える目映い雨の線をぼんやりと眺めている。
 布団に身体を埋めているため寒くはないが、顔は出しているので呼吸をすると冷たい空気が肺の中まで伝わるのが分かる。曇ったガラスで仕切られた別の世界を何も考えず見つめていれば、世界はしだいに内なる自分と外の雨とに集約される。

 雨の流れは、流れ去る時間の一秒一秒を示していた。
 それらはただ過ぎゆくだけであり、二度と戻らない。
 少しでも役に立つとすれば、蒸発して天に還るくらいだ。
 だがそれさえも、雨が上がって太陽が顔を出した後のこと。
 次々と雨が行き交う〈今〉、瞬間は浪費されるのみだった。

 もどかしい――自分の無力さが。
 時代に逆らうなど、大それたことはできないけれど。

(せめて私なりの〈何か〉を成し遂げられればいいのに……)

 リュナンが寝返りを打つと、さらさらの黄金の髪も揺れ動く。今日は学院の講義がなくて幸いだった。この雨では風邪を引いてしまったやも知れぬ。親友のサホは取り越し苦労だと笑うだろうけれど、病気がちのリュナンは雨や風が本当に怖いのだった。
 それはリュナンが作り上げた必要以上の恐怖であることを、彼女は充分に承知している。それでも、論理的思考ではなく意味づけの不明瞭な直観の段階で彼女は雨を避けていた。高熱と病臥の経験が、彼女の記憶に深い畏れを刻んでいたのだ。

 しだいに雨足は弱まってゆき、風に吹き飛ばされるようになった。冬の名残を彷彿とさせるその雨は、近づく春を足止めするために最後の虚しい抵抗を試みているかのようにも思えた。

 不意に、町の広場で見た噴水を思い出す。
 灰色の石で丸く囲われ、偉大なる彫像の人物を後目に、勢い良く天に焦がれる水。無駄な努力であるにも関わらず美しい。

 この雨は、どことなく噴水に重なるのだった。
 上昇する方ではなく、停止し、むしろ墜ちてゆく水に――。

(雲の上には、大きな噴水があるのかな)

 ズィートオーブ市で一番のっぽの塔よりも遙かに高く、天に突き出す膿灰色の円柱は、実を言うと雲の大陸に生えている。
 雲から水分を吸い取り、天を目指して幅広く放つのだ。

 だがしかし、彼であっても天に触れることすら出来ない。
 希望の証であり時間の秤でもある雨は、しだいに登りつめる速度を緩め、ついには地面に引きずられて止まってしまう。

 そして一瞬の静けさののち、彼はどこまでも墜落するのだ。
 大地にぶつかって弾けても気にせず、土の中の奥底まで。
 地の涯ては大空に繋がっているとでも信じるかのように。

(雨はきっと、空の噴水の名残なんだよね)

 そんなことを考えながら、リュナンは眠りに誘われる。
 身体は温まり、意識は混濁し、夢と現実の境を越える。

 彼女の、十七歳の誕生日のことだった。


  3月 6日○ 


[海を飛んだ少女(6)]

(前回)

「それで、結局はどうなったのでしょうか?」
 タイミング良くタックが訊ねると、シェリアは我に返った。
「あ、まだ話してなかったわね」
 語り口はまんざらでもなさそうだったが、飽きっぽい彼女の限界が近づいたのだろうか――やや面倒くさそうになっている。
「じゃあ一気に行くわよ」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 十一歳のシェリアは少しずつ気持ちを楽にしていった。魔法を使う際には極度の集中力が要る。呪文の詠唱により魔源界につながる小さな穴が開くが、それを〈魔源口〉として安定させ、魔源物質を受け取るには術者の緊張維持が必須条件だ。心が不安定になったり、精神力を使い果たしたり、精神力を越える魔法を使おうとすると術者は確実に気絶する。最悪の場合、魔源物質が暴発し、術者を死に至らしめることさえあり得るのだ。
 いくら魔力を持つ者であっても、魔法を使うのに必要な集中の仕方は独特のもので、長い期間に渡る訓練が欠かせない。魔法使いを目指す子供が最初に習い、最も基本となるのが精神修行だ。弱い魔法から順番に試してゆき、何年もかけてようやく中級魔法に必要な精神集中が出来るようになる。魔法は一つの技術だが、それは相当に専門的な技術である。素質を持ち、仮に呪文を知っていても、鍛錬を重ねないと危険極まりない。

 シェリアは当時、まだ魔法を習い立ての身であり、例えば〈天空魔術〉の系列であれば指先から一瞬の風を起こす程度しか正式には伝授されていなかった。標準の天空魔術である〈ヒュ〉の呪文は教科書を先読みしていたことで何とか唱えられたが、起こした風で自分を動かすなど、本来は到底考えられぬ。しかも精神集中の重要さは耳が痛くなるほど聞かされていた。
 だが、その集中を不安定にさせることで魔源物質を多く取り込み、魔法を暴走させるしか窮地を脱出する方法を思いつかなかったわけだ。辛うじて成功した〈ヒュ〉を維持しながら、心を微妙に弛緩させたり極度に緊張したりして魔源口を拡張し、せっかくの〈ヒュ〉が消えないうちにより多くの魔源物質を利用し――しかも波打ち際に戻る前に自分の精神力が尽きてはいけない。

 困難でも、やらねばなるまい。
 シェリアにとっては、まさに生命を賭した賭けだったのだ。

(魔法の状態を感じながら、だんだん心を解放していくのよ)

 後ろ手に組んだ指の先から発するささやかな水流を腰に受け、シェリアはバランスを取るために膝を曲げて、重心をやや後ろにかける。彼女の思惑通り、風は順調に強まって渦は大きくなり、しぶきを上げ始めた。そのままでは前に倒れ、水面に顔をぶつけるため、シェリアはさらに胸をそらして抵抗を試みる。
 魔法は不安定さを増し、身体の周りのあぶくは沸騰するかのように弾けた。雰囲気の高揚と、何かが始まる予兆が充ちる。

 ふと彼女は気づいた。
 謎めいた弱い水流が前方から来ているのだ。

 見渡せば海は何とか落ち着いている。波の仕業ではない。

 その直後、シェリアは理解した。
 風を受けて、彼女自身が動き始めていることを――。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「そして私は、海の上を走り始めたってわけね」
 抑揚をつけて堂々と語り、シェリアは前髪を掻き上げた。


  3月 5日○ 


[諜報ギルド(6)]

(前回)

 予算獲得のため、若かりしディラント子爵は盗賊団対策の責任者として市や王国の財政部局と折衝を繰り返し、必要性と重要性を粘り強く訴えました。ついには市長らとともに当時の国王に謁見する機会を与えられ、謹んで最終報告書を献上します。
 国王は賛意を示され、予算が下りました。思考は実戦の段階へ急速に移ります。ディラント氏に休む暇はありませんでした。

 まずは相手を分断させるため、二番目と三番目に強力なグループを一方的に〈王国公認盗賊ギルド〉に指名します。ここで最強の派閥を指名しなかったのは、いきなり最も強いグループに特権を与えれば、そこが力を持ちすぎて誰も対抗できなくなるからです。そして二番目と三番目を協力させつつ、時には反目させながら、王国側の都合のいいように仕組んでいくのです。

 最初、当然ながら盗賊団のメンバーは上から下まで、王国側の誘いを相手にしませんでした。取り締まる側の、新手の検挙作戦と考えたのです。しかしもともと野心の高い者が集まっている闇の互助組織では、裏切りはつきものです。ディラント氏らは、まさにそのスキを狙い、各個撃破を目論みました。効果はすぐには現れませんが、一人、二人と盗賊団を抜けて王国側に寝返り、密告する代わりに多大な報酬を得る者が現れました。

 鍵開けや罠設置、登攀や追跡、スリなどの特殊技術に留まらず、数々の盗賊ギルドは元締めのボスから末端の少年に至るまで情報収集能力に長けた集団でした。放っておいても、どす黒い血のように噂は深い場所でじわじわと浸透していきます。
 たいていのメンバーは、王国について成功した者を〈サクラだろ〉と無視するか〈裏切り者め〉と敵視します。当然、王国特殊部隊員になった者は大きな危険を背負うことになります――盗賊団全体を敵に回すことになるからです。そのぶん報酬は多く、与えられる装備も充実していました。万能ではありませんが国家という盾もついています。彼らは盗賊団討伐の任を負い、仲間を誘ったり秘密情報を王国側に洩らせば臨時収入がもらえました。そして重要なのは、彼らが盗賊団の内情を良く知っていたことです。ディラント氏が予言した、盗賊団には盗賊団をという逆説的な作戦が功を奏す時がいよいよ到来したのでした。

 かつて所属していた盗賊団との争いで命を落とす者も決して少なくありませんでしたが、自分の利益を冷静に考えた結果、王国特殊部隊員という正式の身分を保証された上に給金の確約があるのならば、盗みよりも割がいいと考える者も現れました。かつて鉄の団結を誇っていた組織のタガが緩み始めます。
 最初のうちは〈王国公認盗賊ギルド〉に指定された二つの集団から、まるで水滴が垂れるように個々人で秘密裏に王国側へ志願するのが普通でした。しかし、それがある程度大きなうねりになると、指導力の極めて高い一部のボスに集まった忠誠心の高いグループを除いて、盗賊ギルドはおおむね崩壊へと突き進みます。大量離脱と分離独立、下克上による混乱は、王国側から〈公認ギルド〉に指定された派閥だけでは済まず、最大勢力から小規模集団まで、内と外から激しく揺さぶりました。


  3月 4日− 


[夜半過ぎ(8)]

(前回)

「何してるのだっ?」
 と、ファルナが訊ねた時だった。陽炎のように母の顔がゆらめき、影がうごめく。ファルナが身をこわばらせると、母は言った。
「心配しないで。お父さんが来るところよ」
 それは部屋の中から湧き出すランプの灯りの作用だったが、河のせせらぎに照り映えて飛び跳ねる陽のように光と闇が入れ替わる不思議な競演は、ファルナにとって魔法そのものだ。
「うん」
 首だけでうなずいたのに、寒さの粒は相変わらず抜け目がない。隙を縫い、ファルナの体温を奪おうと大挙してやって来る。
「シルキアに食事を持ってきたの」
 母はささやきながら、慎重にドアを半開きにして身体を出し、ファルナのそばに歩み寄った。距離が縮まり、手が合わさる。
 その感触は予想と異なり、素手でもなく動物の毛で作った手袋でもなく――厚い布で作った料理用の〈鍋つかみ〉だった。
 母の両手に自分のこぶしを握りしめてもらうと、血行が良くなって指の先が熱くなる。わずかな温もりだが、とても安らいだ。

 妹の名前が出たので、ファルナは一番の心配事を訊ねる。
「シルキアに? お母さん、シルキア、大丈夫なのだっ?」
「熱は下がった。しっかり眠れば、じきに治ると思うわ」
 最低限の言葉のやり取りが、最大限の心の交流を生む。

 その時、突然。
「ファルナかい?」
 男性の声がするとともに、まばゆい輝きがファルナの焦げ茶色の瞳を射る――漆黒の世界に長く浸かっていると、かすかな灯りでも目はくらんでしまう。新しい光の量に馴れてくると、ランプを持って父のソルディが立っているのが、はっきり分かった。
「うん、お父さん……あれっ?」
 返事をしたファルナは、思わず鼻を動かし、乾いた口の中には唾が湧いてくるのを感じた。父の訪れとともに部屋の風の流れが変化して、さっきから彼女を誘っている、美味しそうなスープかシチューの匂いが微妙に強まったのだった。期待は膨らむ。

 空気の冷たさも忘れ、ためらわずにファルナは訊いた。
「この香り、シルキアのお夕飯なのだっ?」


  3月 3日− 


[梅花紀行]

「いってきまーす」
 家に帰ってから五分もしないうちに、玄関から麻里の声が聞こえましたので、お母さんは驚いて奥の部屋から顔を出します。
「麻里ちゃん、もうお出かけ? おやつにケーキがあるわよ」
「ありがとう。でも、その前にちょっと行ってくるね。帰る途中に、とってもきれいな梅の花が咲いてたんだよ。ゆっくり見てくる」
「気をつけてね」
 お母さんはいつもの口癖で小学二年生の麻里を気づかいました。しゃがんで黄色のくつをはいていた麻里は立ち上がり、かかとをトントンたたくと、ドアノブに手をかけて元気に言います。
「今度こそ、いってきまーす!」

 ドアが閉まってから、お母さんは優しくほほ笑みました。
「麻里ちゃんは本当に春が好きなのね……」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 バス通りが木の幹だとすれば、一軒家が建ち並ぶ静かな住宅地に沿って続く路地はさながら木の枝です。その、とある四つ辻の家の庭先に、梅の花がしとやかに咲き誇っていました。
 はなやかな桜もすてきだけれど、梅には梅にしかない品の良さがあります。麻里には、どちらも甲乙つけがたいお花です。
「きれいだなあ……これも、これも」
 先月に降った淡雪が溶けないで残っているかのような白梅は満開に近づいています。たくさんの赤いつぼみもほころび始めていました。その様子を見た麻里は、心の目で感じ取ったのです――今、ここで〈春という季節〉が確かに咲いてゆくことを。
「いいなぁ」
 あでやかな赤い梅もあざやかでいいのですが、冬から春へのバトンタッチには、白い花びらの内側から黄色のおしべをあらゆる方向に伸ばしている白梅の方がよりふさわしいように思えました。何人もの花の顔が見たくて、麻里はつま先立ちします。

 すると突然、後ろの方からしわがれた声が聞こえました。
「うちの梅が気に入ったかい。お嬢ちゃん?」
「えっ?」
 驚いて振り向くと、深緑と藍色のチェックのブラウスを着て茶色のズボンをはいた、髪の白いおじいさんが立ってました。髪と同じ色の太いまゆげは、ちょっとこわかったのですが、まぶしい光に瞳を細め、その眼差しは麻里を温かくつつんでくれます。

「こんにちは。とってもきれいで、すてきなお花だね!」
 あいさつが済むやいなや、麻里のくちびるからは自然に思いがあふれました。もちろん、とっておきの笑顔もいっしょです。
「お嬢ちゃん、縁側ならもっとよく見えるぞ。うちのばあさんも喜ぶだろう。もしよければ、お茶でもどうかね? 和菓子もある」
 背の高いおじいさんは弾む声で応えますが、麻里は困ったようにうつむいてしまいました。そして小さな声でささやくのです。
「でも、あとでお母さんに怒られちゃうから……」
「なんなら、お母さんも呼んできたらいい」
 おじいさんは動じず、すぐに提案しました。

 しばらくの間、麻里は難しい顔をして考えに沈みました。強い風が吹き抜け、麻里の黒い髪をいたずらして通り過ぎました。

 やがて麻里はおじいさんを見上げ、しっかりとうなずきます。
「聞くだけ聞いてみようかな。おじいちゃん、ここで待っててね」
「そうかいそうかい。あわてなくていいからね。ここにいるから」
「うん。また来るね。いってきます!」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 どこかでウグイスが鳴きました。空気は期待で一杯です。産声を上げた春の真ん中を、麻里は軽やかに駆けていきました。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

白梅(2003-03-02)
 


 幻想断片1000回 

 2000. 1.31.〜2003. 3. 2. 

 開始より1127日目
 


  3月 2日◎ 


[道]

「うわぁー」
 疲れに沈んでいたリンの草色の瞳がパッと明るくなった。額と頬にうっすらと汗をかき、それが降り注ぐ秋の光に輝いている。

 木造りの古びた立て札が近くにあり、上手くもない字で〈コルツ峠〉と刻まれている。少し傾いているのが何故か旅愁を誘う。ここは町から町へ向かう脇街道の、ひなびた峠の頂上だった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 鬱蒼とした森の中を尾根に沿って曲がりくねり、少しずつ高度を稼いでゆく細い道。消えそうになりながらも、しかし確かに続いていた。たまに小川を渡るために急な下り坂があるのを除けば概して登り続けだったが、一体どれくらい来たのか――序盤戦なのか、山の中腹なのか、それとも峠は近いのか――という情報は、左右に立ち並んで俺たちの視界を狭める背高のっぽの木々に隠されていた。ブナ、クヌギ、シラカシ、ニレ、等々。

 距離と高度の細かな積み重ねが結果となって現れたのは、ようやく勾配が緩やかになり、俺たち五人全員が冒険者の直感で〈峠だ〉と身体で理解し、急に視界が広がった時のことだ。

 遙か遠くまで見渡せる――リンが真っ先に歓声をあげたのも分かる気がする。冬に向けて赤や橙、黄色や茶色、それらのあらゆる中間色に衣替えする木々は華麗で清楚で、なおかつ力強く、そして儚い。他方、針葉樹は落葉樹の彩りを気にも留めず、永久の深い碧を誇っている。数多くの針葉樹に広葉樹が入り混じり、やつらの描く微妙な色合いは場所によって異なる。
 両側に山の迫る狭い平野をラーヌ河の支流が緩やかに蛇行している。脇街道は地形に逆らう素振りを全く見せず、河に寄り添うように続いているらしい。俺がそう判断したのは、隊商の馬車とおぼしき三つの小さな箱が辛うじて見分けられたからだ。
 細長い平野――より正確に表現するなら〈盆地〉というらしいが――の奥の方には、神殿の塔のような尖った建物が霞んでいる。次の宿場町まで、どうやら夕方までには着けそうだな。

 見飽きない。この広さは、どんな絵でも勝てねえだろう。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

果てしなき大地

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 一息つくと、ちょうどいい具合に腹の虫が自己主張し始める。
「とりあえずメシにしよーぜ」
 頭の後ろで腕組みし、ぶっきらぼうに言う。すると前に立っていたシェリアが振り向き、回りくどい表現で俺に賛意を示した。
「珍しくケレンスとは意見が合うようね」
「あたしも、おなか減っちゃった……」
 景色に見とれていたリンも、急に現実に戻って腹の辺りを押さえ、恥ずかしそうにうつむく。最終決定を下すのはルーグだ。
「そうだな。食事にしようか」
「よっしゃ」
 俺は右腕を振り上げ、即座に背中の荷物を下ろしにかかる。ずっしりとした重みが消え、肩が消えたかのように軽くなった。
「さっき水を補給しておいて良かったですね」
 なんてことを冷静に分析するのはタックに決まってる。

 こうして俺らは、朝に出た町で用意しておいた食事を広げた。
 野宿が続けば味気ない保存食を摂るか、森でかき集めなければならねえが、町を出て一日目の昼メシはそれに比べるとずいぶん有り難い。だいたい前の晩のうちに宿屋の主人に頼んでおき、長持ちする弁当か何かを作ってもらう。元冒険者だと、翌日の弁当を無料で提供してくれる気前のいいオッサンもいる。
 まあ、いつも通り森の中で木の実を拾ったり、魚釣りという選択肢も決して悪くはない。何しろ味付け担当のリンの腕がいいから、本当にひもじい思いをするのはまれだ。雨続きとか、な。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 メシを終え、わずかな食べかすを穴に埋める。あとでここを通りかかる者に迷惑をかけないため、ゴミの始末は旅人の常識だ。例えば熊がそれを食べて、人間の作るものの味に慣れちまったらヤバイぜ。街道は一気に危険が高まり、さびれるだろう。

 それから短い休憩となる。俺はこの時間が気に入っている。

「次の町が見えるわ。今夜もお風呂に入りたいわねぇ」
 と、シェリア嬢はのたまう。まあ、かなりささやかな夢だが。
「けれど、実際問題、ここからが長いんですよね」
 けろっとした言い方で、タックは釘を刺すことを忘れない。
「まあ、そうだけど……」
 シェリアは明らかに不満そうだが、反論できずに口をつぐむ。

「とにかく峠越えって思ってたけど、単なる通過点なんだよね」
 神妙な言い方で、そっと自分の感想を述べたのはリンだ。
「へへん。だから〈大海は雨粒より成る〉って諺があるわけだ。通過点、通過点。旅は数えきれねえ通過点の繰り返しだぜ」
 俺が知的な話をすると、さっそくタックが意地悪く指摘する。
「ケレンスにしては珍しいですね。王国の諺の引用なんて」
「まあ、たまにはな」
 俺は鼻の頭をこすった。右隣のリンはさも楽しげに微笑む。
「ほーんと、ケレンスも、たまにはそんなこと言うんだね!」
「明日、雨が降らないといいんだけど。困ったわねぇ」
 シェリアが呟くと爆笑の渦が沸き起こり、俺も一緒に笑った。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「よし。そろそろ出発しようか」
 ルーグの一言で俺らは重い腰を上げ、再び次の目標を指して歩き出す。右足、左足と、俺らの生きた証を大地に刻みつつ。

 そう。長い旅路の中で、ここは単なる〈通過点〉なのだから。
 


  3月 1日○ 


[ラニモス教の概略(2) 神者の継承]

 ラニモス教においては、神の意志を受け継ぐ虹の七神者が大きな役割を果たしている。そもそも創造神ラニモスがもたらした七つの魔法のうち、火炎魔術・大地魔術・天空魔術・氷水魔術は人間族に、月光術・妖術・幻術は妖精族に与えられた。人間族の代表として受け取ったのが、前回に説明した聖王である。

 神者が亡くなる、あるいはその位を放棄すれば、神者の印と呼ばれる七色の宝石、および神者の持つ力は、現任者が指名した人物に引き継がれる。その条件に関しては諸説あったが、近年では分析が進み、いよいよ統一見解が生まれつつある。

 現任者が、心の底から後継者に託したいと思う気持ち――。

 それが神者の引き継ぎを生むのだろうと考えられている。前任者が生きている場合はもちろん、不慮の事故であっても発動するようだ。滅多には有り得ないと思われる哀しい事態が実証されたのは、妖精族に関する血塗られた神者の歴史がある。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 メルファの大虐殺――今ではそう呼ばれる歴史上の惨事。
 神者を欲する人間が仕掛けたあくどい罠に、強力な魔法の力を保持する妖精は敗れていった。大きな集落を幾つか全滅させた非情な虐殺が残したのは、妖精族と人間族との深い対立だけであった。こうして人間は月光と草木の神者を手に入れる。

 メルファ族たちは文字通り〈死んでも〉人間に神者を引き渡す意志はなかった。突然の夜襲で命を奪われても、集落が残っている間は知り合いのメルファ族に神者を託した。その場合、神者の印は前任者を静かに離れ、風となって舞い上がり、後任者のもとに届くのである。たとえ集落が滅亡しても、手近な集落の顔見知りに引き継がれ、妖精族としては決して神者を手放さなかった。メルファの被害は甚大だったが、メルファとの戦いによって実は多くの犠牲を出し、歯ぎしりしたのは人間側である。

 彼らは悪知恵を働かせたあげく、一つの作戦を決行する。
 メルファの集落の最も若い赤子を生かしたあげくに捕虜とし、なおかつその子供に神者が継承されるように仕組んだのだ。
 彼らは赤子を連れ去り、精魂込めて育てた。そして成長した暁に、自分たちへ神者を引き継ぐよう洗脳を施したのである。

 救出軍を組成したメルファ族から辛くも逃れ続け、人間はついに妖精へ与えられたはずの血塗られた神者を手にしたのだ。
 用済みとなった最後の妖精族神者は殺されたが、彼は育て親の人間に対し、最期まで信頼の微笑みを絶やさず死んだ。

 夢幻の神者は代々人間の手の届かない辺境の森の奥へ避難することとなり、今のところ唯一、妖精族が守り続けている。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 その後、複雑な過程を経て、月光の神者は二十一歳のムーナメイズ・トルディン、草木の神者は十六歳のサンゴーン・グラニアに引き継がれた。彼らは神者の位を妖精に返しても構わないと考えているとの情報もあり、今後の動向が注目される。
 






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