2003年 4月

 
前月 幻想断片 次月

2003年 4月の幻想断片です。

曜日

気分

 

×



  4月30日− 


[メロウ修行場(1)]

ミザリアで、王女杯の武闘大会が開かれるんだってさ」
 木の床に草で編んだ黄緑のゴザを敷き、その上にあぐらをかいている。寝癖の残る短い髪を掻き上げ、大麦の黒パンと豚肉の生姜焼き、野菜サラダを威勢良く食べ終えて喋り始めたのはセリュイーナだ。二十七歳の彼女の筋肉は全体に引き締まり、本来は黄色系の肌はうっすら日焼けし、さっぱりした口調と性格は同性にも異性にも好かれる、存在感のある人物である。
「ま、私らには関係ないけど」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 ルデリア大陸の北東、トズピアン公国の沖合には三つの島が浮かび、東方諸島と呼ばれている。最果てのグレイラン島、良好な天然の銀鉱を持ち世界第二の大きさを誇るジルビ島、そして公都マツケの向かいに見える〈武術の魂〉メロウ島である。
 その名もメロウ家の土地であるメロウ島は、最も由緒があり、しかも最強の名高い武術の中心地である。世間一般に〈メロウ修行場〉と通称される闘術訓練の館には、自給自足的な集団生活を営みつつ心技体を鍛える、若くして腕に憶えのある屈指の強者たちが集結している。メロウ氏は誰も彼もとむやみやたらに弟子を取らないため、常に参加者は百名程度に限定され、現在は男性約八十人、女性は約二十人ほどが在籍している。メロウ氏の信頼厚く、多忙な氏に代わって全般の運営と弟子の育成を任されているのが、冒頭のセリュイーナ女史であった。


  4月29日− 


[春待つ日々(7)]

(前回)

 友の言葉を半ば呆然と聞いていたサンゴーンは、少しずつ顔を上げていった。冬の空は蒼く澄んで安らかに広がり、呼吸する息に紛れて自分の中に流れ込み、心を清らかにしてくれる。
 風吹く丘に立ちつくし、ズボンの膝の辺りがはためくのも髪型が乱れるのも気にせず、南の空の高みに浮かぶ陽の光に目を細める。さっきまで曇っていたサンゴーンの海色の瞳は、しだいに魂を取り戻したかのごとく生気に充ちた光を発し始める。今や畏敬の念に彩られ、その焦点は遙か無限大の遠く――天上世界を指し示していた。なおかつ足元の景色をも忘れていない。

(サンゴーンって……時たま、あたしにも分からなくなるよ)
 幼い子供のままなのか、むしろ何もかもを超越しているのか。急に二、三歳、年を取ったように見えた親友の横顔に、レフキルは驚いて目を見張った。彼女の性格を特徴づける〈危うさを秘めた優しさ〉は緑色の霧となって湧き出し、前面に顕れつつある本来の芯の強い部分をつつみ込むように円く取り囲んでいる。

「サンローン……おばあ様?」
 空の遠くに向けて、草木の神者がかすれた声で呟くや否や。
 当のサンゴーンは銀の髪を抑え、レフキルは無理矢理に右足を伸ばして花束を持ってきた紙を踏みしめ、すでに飛んでしまった白い花の二の舞を避けるため、抑えつけねばならなかった。
 確かにそれは風の返答であり、風を含んでいる〈もっと大きなもの〉の返事であったことを、二人は鋭い直感で知っていた。
 風がやんでゆくと、斜めになった草は気丈に立ち上がる。

「見ていてくれたんですの?」
 そう言ったサンゴーンは、頬を緩め、すぐに首を振る。
「おばあ様は、どこにでも、いらっしゃるんですわ」

「うん。きっと、きっと……そうだよ!」
 相手の思いをしっかり受け止めるため黙りがちだったレフキルは、にわかに沸き起こる感激に任せ、泣き笑いの顔で友に歩み寄る。サンゴーンは微笑みを浮かべ、細い手を差し伸べた。
 やがて二人の少女たちは右手を重ね、人差し指、中指、薬指、小指、最後に親指を曲げて、互いの存在と体温を感じた。

 地に根付き、光を浴び、風を受け、水を飲み、熱を得て。
 草木はそれらの真ん中で、大きく育つ。

 固く、そして難しく結び合わさった紐の片隅が、一箇所だけ解(ほど)けたような気持ちを、サンゴーンは感じていた。悩みは消えたわけではないし、まだまだ絡まっているけれど、物事は思うほど難しくないのかも知れない。思うほど簡単でないのも事実だけれど、頼れるレフキルもいれば、亡くなった祖母のサンローンも必ず見守っていてくれる――いつでも、どんな場所でも。

「だって、」
「おばあ様は、」
「草木の神者だったんだから!」

 握手したまま向かい合い、弾む声で言葉を合わせ。
 それから彼女たちは、ひとしきり朗らかに笑った。


 祖母の墓に礼をして、二人は下り坂を軽やかに歩き始める。
 鳥は啼き、虫は地を這い、樹は緑を誇り、花は鮮やかだ。
 豊かな土の上を、風は舞い、唄って、森は生命を育む。

 空も海も果てしなく、暖かい陽の光は二人を照らしていた。
 次の季節は、背伸びすれば届く所にまで近づいている。
 あとは自分の気持ち次第――サンゴーンは思うのだった。

(おわり)
 


  4月28日○ 


[弔いの契り(14)]

(前回)

 フォークを皿に突き立てて嫌な音が鳴った時、ちょうど曲が終わって、奇しくも〈四人目の演奏者〉となった俺だったが――。
 驚いたことに、もはや誰一人、俺なんかに注目しなかった。

 ルーグはシェリアの、そして悪友タックはリンの手を取った。お互いに右手を差し出し、男は余った左手を腰に当てて軽く会釈し、女の方はスカートの裾をつかんで貴婦人っぽい礼をした。
 俺は敢えて目を離したが、次の瞬間、男爵にほど近い台の上から新しい演奏が始まった。あのぱっとしない三人組が、三拍子の調べを奏でている。どうにも田舎っぽく、野暮ったい曲だ。
 前奏が終わり、向こうで人影が動く気配があった。俺は意地でも見るものかと、ただ一人で目の前の肉と格闘しようとする。

「おお」
「あぁ!」
 あの無愛想な村人たちが低く歓声をあげた。
 見まいとしてたのに――つられて、俺も顔を上げてしまう。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 ゆったりとした曲に合わせ、ルーグとシェリアは息のあったステップを踏んでいた。右足、左足、右足。一小節で前進すると、今度は同じぶんだけ後退する。腕を動かし、首を揺らし、音楽の転回点になればシェリアはくるりと一回りする。ルーグはそれほど音楽が得意じゃないはずだが、俺らのパーティーでは随一のシェリアのリズム感を取り入れて、しかもきちんと相手をリードしている。そういや、ルーグは騎士を目指してるんだっけ。こういう面倒な行事にも対応できるよう、勉強はしてたんだろうな。
 シェリアが紅い花びらだとしたら、ルーグは黒い蜜蜂だろう。

 両方とも背が高いこともあり、見栄えはいい。シェリアだって文化の都の出身だし、しかも船長の令嬢だし、女の受け持ちを愉しんでいるように見える。もしかしたら故郷のモニモニ町で、何度かルーグと踊ったことがあるのかも知れねえな。二人は落ち着いて、ルーグはシェリアを引き立たせるように一歩引き、シェリアはシェリアで華麗に咲き誇っている。素人の俺から見ても上手いし、お似合いだ。紅いスカートのシェリア姉さんの顔が、芸術に触れ合う時に独特な、気高い微笑みを浮かべている。

 心臓が高鳴っている。決して嬉しい訳ではなく、募るのは不安ばかり。拒否する気持ちと、受け容れる鷹揚さが交錯する。
 それでも俺は少しずつ視線をずらしていった――。

 そこには、茶色い髪の盗賊と、薄緑の瞳の聖術師がいた。

 軽やかに足を動かし、手を離したり結んだり、つかず離れずの微妙な距離を保ちながら、確かにあいつらは〈愉しんで〉いた。
 シェリアとルーグが正当派ならば、背の低いあいつらは子供の遊戯のように思える。けど、音の波に乗って体を動かす喜びと心の解放感が伝わってくるのは、ルーグたち以上だった。リズム感の弱いリンはタックの的確な先導で何とか事なきを得ていたし、その分、リンが知っているダンスの基本がタックにも伝わっていた。そう――タックの野郎は盗賊ギルドのメンバー、こういう貴族界の踊りの極意なんて知るわけがない。それでも違和感なく踊ってるのは、やつの〈誤魔化し〉才能の賜物だろう。


  4月27日− 


[港の宵(3)]

(前回)

 ミラーは、改めてシーラに惚れ直したのだろうか?
 彼は腐れ縁の恋人の名を、優しく静かに呼ぶのだった。
「シーラ」

 すると相手はゆっくり顔をもたげ、未だに夢の中を漂うかのような焦点の定まらぬ目つきで、隣に座っている男を見上げた。
「何?」
「まだ飲むのかい?」
 ミラーはうつむきがちに問うた。その表情は読み取れない。

 黒髪の女性は少し不服そうに、来たばかりの蒸留酒のグラスを爪で弾いた。その中身はいつしか半分程度まで減っている。
 さらに声を押し殺し、口をシーラの耳元に近づけ、男は言う。

「……僕らには似合わないんじゃないかな、こういう雰囲気」

 重いため息ののち――。
 しばらく困惑と苦悩を露わにし、彼女にしては珍しく頭を抱えて考えに沈んでいたシーラは、うめくように掠れた声で呟いた。
「残念ながら……認めざるを得ないわ」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 バーを出た所で潮の香を帯びた夜風に吹かれていたシーラは、急速に酔いが醒めてゆくのを感じていた。北国ガルアの春にはまだ寒さが居座っている。彼女はコートの前ボタンを閉じ、相棒を待っていた。支払いを終えてミラーが出てくると、彼女は少し眠そうな目つきで、腕を高く突き出し、景気良く宣言する。
「さー、飲み直そう。もっと安い店でね」
「まだ飲むんかい……せっかく仕事にありついたのに」
 軽くなった財布を開き、これ見よがしに見せつけて、ミラーは情けない声を出した。シーラの方は語気を強めて口答えする。
「だから、お祝いじゃないの。違う?」

 本人はあまり酒を飲まず、無駄遣いも控える堅実な性格のミラーはさすがにむっとして相手を睨んだが、すぐに肩を落とす。
「たまには奮発して、少し高級で静かな店に来れば抑制するかと思ったんだが。無駄にお金がかかっただけだ。失策だった」
「だって、美味しかったけど、あれじゃあ飲み足りないもの」
 とは、もちろん旅の聖術師、二十五歳のシーラの弁である。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「早く、次のお店を探しましょ。ねえ?」
 シーラに強引に腕を組まれると、ミラーはやむを得ず応じる。
「まあ、仕方がない……今夜だけは許してあげよう」
「さーっすがミラー! それでなくっちゃ!」
 褒め称える恋人の言葉に何となく釈然としない思いを胸の奥に懐きつつも、結局、最後まで付き合ってしまうミラーだった。

(おわり)
 


  4月26日○ 


[夜半過ぎ(11)]

(前回)

 ファルナは父の後ろにぴったり張りつき、三人の親子は濃密な闇を掻き分けるようにして進んだ。か細い月明かりの廊下は長い洞穴と化し、深い湖の底を思わせる絶対的な静寂と刺すような冷気の中で、ファルナは身の引き締まる緊張感の他にも、確かに〈安らぎ〉に似たものを感じていた。もはや心配は必要ないし、独りではない――何と心強いことだろう。彼女は思った。

 昼と夜とでは、一ガイト銀貨の裏表のように、同じ場所でも全く違う景色に変わる。普段はあっという間に駆け抜ける廊下も、永遠に続くのではないかとさえ思われた。父はその間も休まず歩き続け、やがてランプの光はあっけなく壁を照らし出す。ここからは右向きに半円を描いて一階に下る洒落た階段である。

「気をつけるんだよ」
 ソルディは振り向きざま、十七歳の娘に言った。ファルナが無言でうなずくと、彼女の長い影も一緒にゆらめきつつ動いた。

 木造りの手すりに掴まるが、手袋をはめていると滑りやすい。足元の木の板を一歩ずつ確かめながら親子は慎重に進んだ。
 シルキアの部屋から遠ざかり、一度は消えかかったシチューの香りは、再びひそやかに漂い来る。ファルナの喉が鳴った。
「お鍋の蓋は閉めておいたわ。冷めていなければいいけれど」
 母のスザーヌが後ろから声をかける。湯気を立てている鍋の姿が看板娘の頭をよぎるが、すぐに首を振って幻を追い出す。

 手すりに沿って身体の向きを変えながら、父が頭上に掲げるランプの光の届く範囲を頼りにこわごわと足を出し、板を探して踏み下ろす――その作業を十数回続けたあとのことであった。
「ふっ!」
 ファルナは不意に息を吸い込む。降りようとしたのにその場で足踏みし、危うくバランスを崩しそうになったのだ。爪先を眼の代わりにし、反対の足を差し出しても次の段は見つからない。
「降りきったようね」
 母は娘の肩に軽く手を乗せた。そこはもう一階だった。
 星明かりも届かず、漆黒が床から天井まで充たしている。

 思わず身体の芯まで時間を止められそうなほど寒さの募る玄関ホールを横切り、食堂の入口を通り越し、やや横幅の狭くなった廊下の床を軋ませながら、三人の親子は厨房を目指した。


  4月25日− 


[港の宵(2)]

(前回)

「ジントニックお待ち」
 店主はグラスの中の氷を軽く鳴らし、馴れた的確な動作でシーラの前に注文の品を置いた。酒と場所の提供こそが自分の仕事とわきまえ、決して無駄口は叩かぬ。波の音さえ微かに響く――静寂の住まうバーの中で、客同士はささめき、笑い声も秘やかに響く。シーラは表情を変えず、目だけで礼を言った。
 一方、店主は威圧的でも卑屈でもなく、長年の職業人としての威厳と、歳経る哀愁に彩られた顔つきを少しも崩さない。ごく自然な態度で彼は引き出しを開けて平たい黒い石を手に取り、シーラの前に置いた。彼女の前には置かれている黒い石はこれで五枚目だった。他にも青や白の石が並んでおり、天井のランプに照り映えて、本来の色よりも全体的に赤っぽく見える。
 シーラとミラーの間には、旬の山菜を混ぜたガルア風ピザや、生魚の刺身の切れ端が残る陶器、口直しに注文した野菜スープの器が見える。店主が置いた石は伝票の代わりであった。

 シーラは何のためらいもなく冷えたグラスを持ち上げ、少しずつ角度をつけるとともに艶めかしい唇を近づけていった。しだいに嗅覚を打つ蒸留酒のアルコール臭は新しい期待を高める。

 そして一筋の細い水の流れとなった透明な液体は唇の先端を湿らせ、歯の隙間を刺激し――次の刹那、深き味わいが広がる。群青色の夜に光が生まれ、明け初めてゆくかのように。
 まぶたを閉じ、温くならない程度に舌の上で転がしてみる。いつもよりも高級な品は、さすがにそれだけ払う価値があった。
 飲み込めば、喉を焼いて胃を火照らせ、身体に染み込んだ。現実はしばし遠ざかり、心には安らぎと満足感が満ちてゆく。

 彼女の横顔を覗き込むミラーの黒い瞳は大きく見開かれた。恋人の白いうなじ、女性らしい華奢な肩の曲線、旅から旅の生活にしては良く手入れされた長く麗しい後ろ髪は朧気に瞬く。
 外で風が吹くと天井の紅い炎が揺れて濃い陰影を変化させ、瞬間ごとに彼女を別人にする。ミラーは思うのだった、何人ものシーラがいるようだ、と。行燈の光だけでなく、五杯目の酔いのせいもあるのだろう――恋人の頬はほのかに染まっていた。


  4月24日− 


[セラーヌ街道] 参考文献→「略地図・メラロール王国」

(ここは、本当に静かなところね)

 清潔なシーツを掛けたベッドに疲れた身体を横たえて足を投げ出し、冷え切った布団の中に潜り込んでから、オーヴェルは心の中でつぶやいた。疲れた身体といっても張り切って運動をした訳ではない。むしろその逆で――どこにも行けぬ霧雨の午後、二十一歳の若き賢者はほとんど身体を動かさず読書に没頭していたため、肩は凝るし腰はだるいし、眼は痛み、足はなまっていた。頭は重いが、思考はむしろ冴えてしまっている。
 自宅に干していた洗濯物は、暖炉の炎でどうにか乾いていたのは幸いだった。確かに春めいては来たものの、天候によっては未だに寒さが顔を見せる、深い森と高原のサミス村である。

 枕元のランプはさっき吹き消したので、部屋は圧倒的なまでに濃縮された漆黒だった。全身から力が抜け、眠りという名の底なし沼へ沈んでゆくような感覚に捉えられた。限りなく心が休まる瞬間だ。静寂を聞きながら、オーヴェルはまぶたを閉じる。

(改めて、何度でも新鮮に思います。本当に静か、と……)

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 河口に栄える王都メラロールから水の流れを遡るかのように、母なる大河ラーヌを横目に見ながら延々と東へ続くセラーヌ街道は、メラロール王国の三大候都の一つであり水車の街として有名な草原のセラーヌ町を通り過ぎると、しだいに高度を稼ぎつつ峻険な中央山脈の麓にある避暑地のサミス村を目指す。
 セラーヌ街道はサミス村が終点である。かつてはラーヌ河の源流沿いに中央山脈を越える道もあったようだが、馬を連れては通れないような厳しい山道が続き、崖崩れが多いこともあって廃れてしまった。旧街道は打ち捨てられ、ほとんど獣道と化している。今では通る者とて少ないが、急ぎの旅人や商人には僅かながら利用され、辛うじて残っているような状態であった。
 通称〈奥サミス〉と呼ばれる峠の一帯には原生林が広がり、運悪く熊の餌となって還らぬ者もいる。冬は大雪で歩けない。

 メラロールからガルアに至る、現在のところ唯一と言っても差し支えない道程は、もっと南を通っているザール街道であった。王国の貿易の中心として豊かな経済力を誇る、三大侯都の筆頭のラブール町に端を発し、自由都市リズリーを経て鉱山のザール町に到達する。馬車が楽々走れる立派な一級規格のザール街道に比べると、幅や整備状態にやや見劣りのする峠越えの二級規格は、クリーズ街道と名前を変えて北東に舵を取る。

 比較的なだらかな登り坂が続く単調な森の道は、要塞クリーズが迫ると急勾配になり、一気に中央山脈を越える。そこはもうガルア帝国の残党が押し込められたルディア自治領だ。二級規格の道は途中で二手に分かれ――世界最高峰のクル山を左に見ながら、世界最大の広さを誇るガルア湖の湖畔に寄り添うルディア街道、それともう一つは山の中を緩やかな勾配で下ってゆく西エルン街道――旅の者はルディア村に行って船に乗るか、陸路エルンを目指すことを決定せねばならないのだ。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 とりとめのない考えも、しだいに霧がかかってゆく。眠りの糸は銀の繭を形作り、オーヴェルの心を優しくつつんでいった。

(根雪が溶けたら……)

 毎年、オーヴェルがサミス村に帰ってくるのは秋から冬にかけてだった。夏場は山奥に籠もり、時たま村に物資の調達に来る以外は自給自足の研究生活になる。村を発つ日のことを思うと胸が痛むが、彼女には一生かけて追いかけたい〈夢〉がある。

 今はもう、健やかな寝息を立てているオーヴェル――。
 彼女の旅立ちは、そう遠くない。
 


  4月23日△ 


[港の宵(1)]

 波止場もそう遠くない飲み屋街の一角であった。店内には何とも言えぬ洗練された雰囲気があり、鈍く光る柱の木目は情緒を醸し出している。カウンターは十席強あったが、そのうち半分くらいが埋まっていた。旅人風の男女の二人連れが居れば、酒を愉しむ中年の商人、短い髪に白い物が混じる年輩客もいる。

 二人連れの片割れである男は、名をミラーと云った。
 彼は冷えたグラスを片手に載せて、少し傾け、弄ぶ。
 揺れる氷塊は角が取れ、一つの小さな楽器となって――。
 透き通るほどに薄い緑に染まる硝子を打つ度、軽く響いた。
 ジンとアルコールの混ざった匂いが常に鼻腔を刺激する。

 洩れいづる深き紅の灯火は奇怪な光を投げかけ、物の凹凸をよりはっきりと見せる極めて繊細な影を落とした。遠く波の音が宵の旋律を奏で、潮の香をほのかに含んだ隙間風に、天井の行燈(あんどん)は微かに振れた。それがバーのカウンターに緩やかな時間を刻み、全てを流転させた――心に至るまで。

 奥まった席に座っている別の客が葉巻を持ち上げると、目つきの鋭い店主は素早くも遅くもない落ち着いた動作で、ほむらの揺れる油皿を渡した。高級な刻み煙草に火が移ると、男は無言のうちに皿を店主へ返し、それからしばらくは目を閉じて葉巻をくゆらせていた。酒とは違う安らぎを味わった男の口からは、吐息に乗せて艶美な煙の筋が立ち昇る。煙の流れは天井へ広がるとともに姿を消したが、独特の匂いの方は湖に落ちた水滴のように見えない斑紋を描いて、バーの空気に拡散してゆく。
 男が顔を動かすと、行燈の光を受けて黒眼鏡が紅く輝いた。
 そして髭面の店の親爺は無表情のまま、拍子をつけて瓶を小刻みに振り、注文を受けた追加のジントニックを造るのだった。

 最終的にその品が置かれたのは、先ほどの若い旅人ミラーの連れである二十代半ばの黒髪の女性、シーラの前だった。


  4月22日− 


[居眠りの途中に]

 川の水流が彼の目の前を小走りに駆けてゆく。軽やかなステップを踏み、内から沸き起こる祝福のせせらぎを唄いながら。
 水は映写機に映らないほど澄き通り、風の生まれ変わりのようだった。降りそそぐ光を返して、極めて細やかな鏡のごとく。

 水の奥底で眠る丸石もそろそろ目覚める頃だろう。
 時折、水面で飛び跳ねているのは銀の鱗の小魚か。
 水の上でとろけた氷を思わせる、太陽のかけらだろうか。
 それとも幼い少年の見た、束の間の夢か悪夢か――。
 まぼろし、か。

 川に沿って生い茂る細く長い黄緑色に尖った草の群生は、ささやかな空気の動きを察知して右へ左へと背筋をかしいだ。少し離れた土手で花開くタンポポの葉裏の繊毛の一本一本までもが微かになびいている。団子虫も大きく伸びをする陽気だ。

 雀や鶯や燕たちの高らかな歌声に合わせて、甘い芳香がほのかに漂っている。向こうの野原は柔らかな稜線を描いて広々と続く。それはさながら地上に降りてきた色とりどりの虹であった。草や葉、背の低い木々の緑をいっぱいに散らし、すみれの紫、菜の花の黄金、ほかにも赤や桃色や白が点在している。
 その間を川は幾重にも折れ曲がりつつ横切り、気まぐれに池を創り、一部は大地に染み込んで地下水となり――野原に住まう全ての生き物の喉を潤していた。天然の溜め池は土に結びつけた窓らしく、蒼い空を映していた。綿雲は遠く霞んでいる。

 土は軟らかく、温かであった。もはや冬の霜柱の名残すら留めず、草も木も、季節も人も少しずつ確実に移り変わってゆく。ただ、彼らが最も大切にするものを、それぞれの胸に懐いて。

 静寂の木陰では青年と乙女が幹に寄りかかり、甘美で優しい言葉の糸を紡いでいた。噂好きの揚羽蝶が男の鼻先に止まって邪魔をする。少女の長い黒髪は最高級の簾のようにこぼれ、屈託のない無邪気な笑みが一時的に膨らむと、野原の元々の旋律である鳥もさえずりも河のささやきも巧みに隠された。それは美しく、儚く、そして何故か無性に哀しい響きを帯びていた。

 足元では、胡麻粒を思わせる蟻の戦列が連なってゆく。息絶えたミミズは一日も経ぬうちに彼らの腹の中へ消える定めか。

 私の椅子で、揺りかごで、今日はどんな風が休むのだろう。
 目印に、私の花びらが一枚でも残っていれば良いのだが。

 そうして私は船を漕ぎ、居眠りしながら。
 私は川辺をつつみ込む春の日溜まりにたたずんでいる。
 限りなく公平で、限りなく非情な陽の光に射られて――。
 


  4月21日− 


[お姫さま談義(3)]

(前回)

「なんてったって、メラロールの王女様だもんね」
 大げさに手を広げ、ルヴィルはあっけらかんとした調子で言った。他国の王女を褒める言葉に、怪訝そうな様子で通行人の老人が振り向いたが、申し訳なさそうに頭を下げたのはウピとレイナの方で、発言した張本人はあくまでも気にしていない。
「やばいよ、ルヴィルぅ」
 小声でつぶやくウピに、ルヴィルは片手を軽く振ってみせる。
「大丈夫っしょ。別にミザリア王家をけなしてる訳じゃないしさ」
「それはそうですが……」
 ララシャ王女に会ったぶん親近感が増したのか、残念そうに視線を落とすレイナを見ると、さすがのルヴィルも頭をかいた。
「ごめん、気を付けるわ」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 北の大国メラロールを統べるラディアベルク家は、この世界の中でも随一の伝統を誇る名家である。現国王クライク・ラディアベルクの大事な一人娘が、十八歳になったシルリナ王女だ。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「とにかく綺麗な人、って話だよね。可愛いより美人系らしい」
 狭い路地裏を抜けて近道し、やや人通りの少ない通りに出てから、ウピは気を取り直してシルリナ王女の話題を再開した。
「そうさね。外乗りの船の男たちも言ってたよ」
 漁師の手伝いを生業とするルヴィルもすかさず同意した。

 外国の情報などというものは、そう簡単に入ってくるものでもない。基本的に庶民の情報は口コミが主流であるルデリア世界に於いては、興味深い話を伝える流れ者たち――花粉を運ぶ蜜蜂のような存在――は各地で優遇されることが多い。冒険者しかり、旅行者しかり、吟遊詩人、傭兵、早馬乗りしかりだ。
 そこが港町であれば、最も身近な情報通は外国からの船乗りであろう。そして大陸と島、海と山とを股にかける商人たちだ。
 いつしか〈航路の始まり〉と呼ばれるに至り、たくさんの積み荷と海の男たち、貿易船で賑わうミザリア市も例外ではない。

「風になびく優しい茶色の御髪(おぐし)……憧れるよねー」
 ウピは想像力を膨らませ、決して一生まみえることの無いであろう異国の王女を頭の中に描いた。抜けるように白い肌は天に住まう羽の生えた妖精を彷彿とさせ、深く知的な輝きを湛えた双眸は静寂の湖のように澄んでいることだろう。洗練された絹のドレスにはレースが舞い、王女の清らかで麗しき笑顔と落ち着いた響きのある声は、多くの臣民を虜にしているはずだ。

「どうやら文学や歴史のお好きな方のようですね」
 レイナは街の読み売りから得た情報の一端を披露する。
「ますますララシャ王女とは正反対よねぇ」
 バツが悪そうに困った顔をして応えたのはルヴィルだ。

 わずかの時間ののちに――。
「……ララシャ様だって、いいとこあるんだから」
 口を尖らし、馴染みのおてんば姫を擁護するウピだった。


  4月20日− 


[弔いの契り(13)]

(前回)

「どうもありがとう、美しいお嬢さん」
 タックは何食わぬ顔をしてリンの細い手を取り、平然とキザな台詞を言った。聞いてるこっちが恥ずかしくなってくるほどだ。
「やだ……タック」
 リンのやつはうっすらと頬を染め、あまり背の違わない俺の悪友を見上げた――少し首をかしげて。そのつまらない仕草が、まるで本物の姫さんのようで、俺の視線はそこが風の集まる場所であるかのように吸い込まれた。といっても、姫さんとか貴婦人とかっていう上流階級の知り合いなんて全然いねえけどな。
「では、曲が変わりましたら」
 タックはリンの右手と自分の左手を組み合わせたまま、ちらりと振り向いて眼を細め、俺の方にわざと挑戦的な眼差しを送ってきやがった。俺は瞬間、燃え上がるような熱さを身体の内部に感じた。あいつの作戦にまんまとハマっちまったわけだな。
「早く行けよ」
 やり場のない怒りを露わにし、俺は低い声で怒鳴るのがやっとだった。そのとたん、嬉しそうだったリンの瞳がさっと曇り――俺は自己嫌悪に陥るという寸法だ。すまし顔のタックは、ぶん殴りたいほどに憎たらしく、俺は悔しさで秘かに歯ぎしりする。

「私たちも行きましょうよ」
 一方、シェリアがルーグを誘った。そっちの二人は面倒な形式も何も無く、戦士はいつも通り言葉少なに了承するのだった。
「そうだな」

 折しも、あの貧弱な音楽は一つの曲が終わりかけていた。
 その消えかかる和音の渦の中へ、タックとリン、ルーグとシェリアという似合いの二組は、まるでダンスホールを地上から照らす星のように、村人の注目を集めて緩やかな足取りで進む。
 彼らは出番が来るのを今か今かと待ち焦がれていた。これから真の舞台の幕が開く。やつらの横顔はいくぶん緊張感を漂わせていたが、しっかりと結ばれた口元には、とことん茶番劇を楽しんだ上で相手の尻尾をつかもうと欲する気概が溢れていた。
 リンだけが一人、突然の晴れ舞台に素直な感激を受けているようだ。あいつの直感は鈍ったんだろうか――なんか心配だ。

 そして俺は椅子に腰掛けて足を広げ――。
 ホール中央の動きを視線の隅に入れつつ、荒らされた気分と空腹を落ち着かせるため、取り皿にフォークを伸ばすのだった。


  4月19日− 


[お姫さま談義(2)]

(前回)

「あれって、ぜったい偽物だよ。ね、レイナ?」
 十八歳にしては背の低いウピは、ミザリア市の〈夢見通り〉を歩きながら横のレイナに問いかけた。さきほどの市立図書館を手始めに、絵画の常設展示場や専属の音楽家を雇った南国緑茶の草団子屋、独特な演劇場など芸術関係の建物が多い。
 銀の髪を丁寧に梳(くしけず)り、眼鏡をかけた真面目そのもののレイナは、優等生らしく王家の肖像画を分析してみせる。
「髪の毛の色やお肌の質感や、背の高さはそのままに見受けられますが、御印象……雰囲気はだいぶ異なるようですね」
「そーだよねぇ」
 ウピは腕組みし、もっともだと大きく頷いてみせる。
「なんだよー。あたしも会いたかったさ。おてんば王女様にね」
 ルヴィルは豊かな胸を張り出し、両手を腰に当てて不服そうにつぶやいた。漁の手伝いをして朝の海辺でわかめを獲ったり、魚網から貝殻を拾ったりする仕事を生業としている彼女はわざと少しボロくさい服を着ていたが、それもファッションの一つと思えるほど、彼女はセンスの良さを感じさせる人物である。

 彼女たち三人組は学院魔術科時代の親友である。性格はかなり異なるし、卒業後の道も違えど、未だに腐れ縁が続いている。それぞれの良さを認め合える、貴重で素晴らしい仲間だ。
 その中でウピとレイナは、過日、ララシャ王女と会ったのだった。王女が王家の居城を飛び出し、町中に潜んでいたからだ。

「絶対違う。会ったから分かるよ。あれは真っ赤な嘘……」
 言論の自由はある程度認められているミザリア国とはいえ、信頼する王家を愚弄する可能性のある言葉は愛国者のウピには辛いようで――けれど真実を曲げることも出来ず、普段は元気が全面に出ている彼女の声はしだいに小さくなっていった。

 ルヴィルは機転を利かせて、話題を別な方に振る。
「他の国の王女様はどうなんだろね?」
 姉御肌のルヴィルは三人の中でもリーダー格である。
「お姿の絵やお噂でしか拝顔することは出来ませんが……」
 ウピが考え込んでいたので、控えめなレイナが意見を言う。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 ルデリア世界には長く平和な時代が続いたため、若くて勇猛な王子というのは、あまり多くないのが現状である。ことに大きな国では魔法の導入により支配層の死亡率が急激に低下し、妾制度への抵抗感もあって全体的に少子化の傾向がある。
 現在の各国の支配層は野心が少なく、現状維持を旗印とした者が大部分である。王位継承権者にも割と穏和な人物が多く、悪く言えば面白味に欠ける。ミザリア国のレゼル王子、シャムル公国のクロフ公子、ガルア公国のリグルス公子然りである。
 現代の梟雄は南ルデリア共和国のズィートスン氏であろう。

 さて、男性の支配層に比べると、いわゆる〈姫〉の方は個性に富んでおり、華麗さもあるので人々の注目の的になっている。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

シルリナ王女はたぶん可愛いよね」
 ルヴィルが人差し指を空に向けて言うと、レイナは同意する。
「ええ。お噂でしか想像できませんが清楚な印象を受けます」
「さぞかしララシャ王女が、ライバル心を燃やして怒りそう」
 ウピも話に乗ってきた。再び強い春風が町中を吹き抜ける。


  4月18日− 


[お姫さま談義(1)]

 南国の街を春の強い風が駆け抜けてゆく。気温は既にして高く、汗ばむくらいの陽気であるが、風が吹くのでしのぎやすい。

ララシャ王女って、あんなにおしとやかな感じじゃないよね」
 商人を目指して修行中の十八歳、ウピ・ナタリアルは顔をしかめ、並んで歩いている二人の親友――同級生のルヴィルレイナ――にしか聞こえないくらいの小声で、うろんそうに言った。

 白い石をふんだんに使って造られた広くて開放的な風通しの良いミザリア市立図書館の待合室で、三人は約束した。レイナが来るのを待っている間、ウピとルヴィルは入口の近くに展示してある大きな銀の額縁に飾られた王家の肖像画を見つけた。

 そこには王家の核となる人物たちが描かれていた。
 整えられた白い髭を生やし、地面に付きそうなほど長く分厚い立派なマントを羽織って中央に立っている背の低い威厳のある人物は、ミザリア国を統べる六十二歳のカルム国王である。国王の頭には金色(こんじき)の王冠が、誇らしげに輝いている。
 国王の横では、銀色の長い髪を滑らかに垂らし、灰色に似た濃い水色をした品のあるドレスを着用し、身体を斜めに向けて優しく微笑んでいる五十三歳のミネアリス王妃の姿があった。頭には、ドレスと同じ色の立派な羽つき帽子をかぶっている。
 王妃のさらに隣には世継ぎのレゼル王子が、白に近い灰色を基調とした上着とスラックス、薄い絹製のタイツ、そして黒い靴を履いていた。十七歳の王子は金の髪がまばゆく光り、深い海の瞳は知的である。表情は勇敢さを示し、引き締まっている。

 ところでレゼル王子と正反対、カルム国王の隣に立っている十五歳のララシャ王女は、長い髪を美しく結い上げて白っぽいドレスに身をつつみ、前で両手を組み、限りなく淑やかに――。
 一言で云えば純情可憐であった。


  4月17日× 


[想い遙かに]

 雨模様の街は淑やかに濡れ、通りの石畳の隙間を黒ずんだ水で充たしていった。道は左右に向かって緩やかな傾斜がつけられており、溢れた分の雨は樋に流れ込み、集められ、やがては深い穴に落ち――地下に造られた下水道へ注いでゆく。
 メラロール王国は世界で最も下水道が整備された国であり、妙な疫病や伝染病は驚くほど少なく、清潔を保ち続けている。

 下町の小さくて瀟洒な宿の二階では、簡素な木の机に頬杖をつき、反対の手には羽根ペンを握りしめたまま、リンローナが薄暗い灰色の空を映し出す窓の向こうをぼんやりと眺めていた。
 その時突然、思考の中に聞き慣れた声が紛れ込んでくる。
「何書いてんだ?」
 振り向くと、予想通りケレンスが覗き込むように立っている。
「お手紙だよ」
 草色の瞳を瞬かせ、リンローナは相手を見上げて言った。
「誰に?」
 すかざす剣術士は訊ねた。他方、少女は羽根ペンを手元に置いて懐かしそうに眼を細め、柔らかな頬を緩めて優しく微笑む。
「……お父さんに」
 万感の思いを込め、囁くように手紙の宛先を伝える。
「私のぶんの便箋も残しといてよ」
 ドアのそばの壁に寄りかかり、古本街で見つけた魔術書を読みふけっていたシェリアが、薄紫色の長い前髪を掻き上げる。
「うん。お姉ちゃん」
 妹は窓際から応えたものの、既に姉のシェリアの視線は再び魔術書の上に戻っていたので、行き場を失くした視線を再び目の前で所在無げに立ち尽くしている金の髪の少年に戻した。
「ケレンスも何か書く?」
「はぁ? お、俺が何を書くってんだ?」
 剣術士は動揺を露わにし、予想外の提案に目を丸くした。
「うん……そっか」
 リンローナはちょっとつまらなそうに視線を下ろした。

 静寂の合間、強まった風に乗って雨が窓を打つ音が響く。

「船に乗ってるんじゃなかったっけか? リンのおやじさん」
 ケレンスは雰囲気が変わったことを察知し、別の話題を引っ張り出した。功を奏し、少女は碧の髪を揺らして顔をもたげる。
「うん。でも、とりあえずモニモニ町の実家に送ろうと思って」
「そうか」
「話の途中に済まないが」
 丁寧に断りを入れたのは、リーダーのルーグである。
ナホトメにも書いておきたいのだが、いいだろうか?」
 リンローナの父の船で働く旧友の精悍な顔をまぶたの裏に浮かべ、ひそやかに――と同時に力強く、青年戦士は頼んだ。
「もちろん!」
 大きくうなずき、リンローナは喜びの表情を素直に表した。

「やはりケレンスにも書いてもらったらどうですか?」
 そこで口を挟んできたのは、街の地図を眺めていたタックだ。
「ケレンスは字を書くのがたいへん上手ですからね。言葉もたくさん知っていますし。学舎でいつも怒られていたほどですよ」
「タック、このやろ……」
 昔話を暴露されたケレンスは顔を赤くして拳を握りしめ、タックの方に早歩きで向かっていく。タックは馴れた手つきで地図を折り畳んでズボンの後ろポケットに入れ、服のほこりをはたいて面倒くさそうに立ち上がり、身構える。リンローナは心配顔だ。
「あんたら、騒いだら承知しないわよ」
 明白な苛立ちを押し殺したシェリアの低い声が、ケレンスとタックの間に勃発しかけた争いをすんでの所で止めるのだった。

 外は雨が降り続いている。静かな午後であった。
 
※ルデリアの郵便事情は、また今度書かせて頂きます。


  4月16日− 


[太陽工房]

 この世界で常に最も東の場所に浮かんでいる小さな島――徒歩でも三十分程度あれば一周できてしまう――の中に、その工場はひっそりと建っている。それは洋上にあれば島であるが、昇りゆく太陽とともに誰にも気づかれることなく東へ東へと高速で移動し、陸に上がって丘にもなれば山の頂にもなる。大都会では超高層ビルの長い影に紛れ込んでしまうし、夜と朝とを分かつ最後の闇と最初の光の間に滑り込むこともあるのだ。

 島――とりあえず、そう呼ぶことにしよう――の緩やかな斜面には、狭い土地を有効利用するために段々畑が並び、そこには背の低い果樹が等間隔に植えられており、枝先にはまばゆいばかりの黄金の実がたわわになっている。大きさも色も微妙に異なるが、どれも妙に明るく、力強く、何よりも温かみがある。
 段々畑だけではない。島の中央付近には真新しいビニールハウスが円を描くように建ち並び、その汗ばんだ内側では全く同じ果樹が栽培されていた。その実は多少、小振りだったが。

 そしてそのビニールハウス群に取り囲まれるように、島のへそには灰色の鉄筋コンクリート造りの四角い平屋が異様な静けさを秘めてたたずんでいた。表札すらない、その建造物――。

 それこそが有限会社〈太陽工房〉の本社社屋である。

「エネルギー充填用意!」
 エレベータの奥深く、地の果てにある地下深くの工場で、凛とした若い男の声が響いた。椅子に腰掛けて画面や計器類を見守っていた十人ほどの社員たちに、にわかに緊張感が走る。
 壁も機器も、社員の服までもが、みな輝く銀色である。

 彼らの仕事は、一日に一度、使い捨ての実を太陽型のミサイルに積載して光量を増幅させ、西の空に向け発射することだ。
 太陽の実は言うまでもなく夏が一番の取れごろだ。太陽の樹は夜の間、本来放たれるべき光を集めて充電するが、夏場はそれが短時間で済む。だから夜が凝縮され、昼が長いのだ。

 ただ太陽を発射して終わりではなく、夕暮れが近づけば赤や紫色を強くせねばならぬ。社員の一日は極めて多忙である。
 雨や雪が降れば休暇が与えられる。逆に太陽の実の育ちが悪い時には自ら雨を降らせ、社の営業を休止することもある。
 光の弱い冬場にはビニールハウスが生きてくる。

 栽培という第一次産業、円盤生産という第二次産業、光のサービスという第三次産業を兼ねる幅広い業務を手がけている。

 環境にも優しい永久機関――。
 工場の電力はもちろん太陽光発電で決まり、だ。
 


  4月15日△ 


[眠りの網]

「ふわぁー」
 革で作られた丈夫な鞄を華奢な肩に下げ、十六歳の学院生リュナンはうなだれて歩いていた。さっきから欠伸ばかりを繰り返しているが、瞳の周りに隈はなく、睡眠不足とは思えない。
「……ねむぅい」
 紐で結んだ茶色の革靴の足取りはふらつき、青い海のように澄んだ眼を重いまぶたが隠そうとする。彼女の清楚な雰囲気によく似合う薄茶色のロングスカートは緩やかな曲線を描き、不健康に痩せた両脚を巧みに隠していた。上は白いブラウスだ。
 その隣を並んで歩く同級生のサホは、赤い髪の毛に似合う明るい黄色の半袖シャツと、黒革の長ズボンに、風通しの良い安物のサンダルを突っかけていた。古びた手提げ袋は布製だ。

 サホは、普段から居眠りばかりして〈ねむ〉という愛称をつけられてしまった親友のリュナンの様子を笑い飛ばそうとしたが、
「ねむはいつものことで……ふぁー」
 最後には、彼女自身が口を抑えて欠伸をしたのだった。

「サホっちだってぁ〜、ふぁあぁ、だよぉ」
 すかさず反論したリュナンの口調も、いつも以上に精彩を欠いていた。語尾はやはり、眠りを求める腕のように身体の奥の方から沸き起こる暖かな吐息の流れに飲み込まれてしまった。
「春だからかな。それにしても、ひどい眠気だふぉ〜あぁ」
 普段はこれほど寝起きが悪くないサホの歩き方も、しだいに妙なものとなっていた。視界が涙の中で歪み、鞄が、足取りが――何よりも自分の身体自身が重くて重くて仕方がなくなってしまう。何度か抵抗して首をもたげるが、それも長く続かない。

 少女たちは、まだ気がついていなかった。
 町の上方、神殿の尖塔と同じくらいの高さのところに、巨大な蛇と同じくらいの太さのある不気味な毒々しい紫色をした綱のようなものが、網の目のように広がっていたことを。表面はぬめぬめと鈍い光を放ち、人々の眠りを吸い込んで膨張している。

 その中央付近では――。
 猫ほどの大きさがあり、棘だらけの無数の足を生やして網を這う蜘蛛に似たおぞましい生物が、口を素早く動かしていた!
 


  4月14日△ 


 半透明のもやのヴェールがかかる朝まだきの空の淵には、海鳥の啼き声がクェー、クェーと多重的に、情緒深く響いていた。
 波は引き潮であった。妖しき下弦の月は西の山に沈んだ。

「はっ……はっ……はっ」

 風の静寂と鳥の和音の入れ替わる、何かを予感させる神聖な時間の奥底に新しい動きが生まれる。羽を広げて天駆ける海鳥の挨拶には比するに値しない微細な音量だが、規則正しく時を刻む息づかいだ。足元では浜辺の砂が爽やかに崩れる。

 東の海は先ほど姿を現したばかりの汚れなき太陽の黄金に輝き渡り、遠浅の海は全体が波の揺り籠となり、光の蝶の羽ばたきのように生き生きとしていた。流れ雲は薄紅に染まる。

「ふっ、はっ」

 眩しさに手をかざし、細める視線の片隅で、岬の突端と一隻の船影とが交錯した。純白の帆を膨らまし、港湾地区から朝一番の定期船がミザリア市に向けて出発したものか。それとも漁船が仕事を終えて帰ってきたのだろうか。麗しのミラス町は深い碧に澄むエメラリア海岸に沿って続く横に長い都市であり、この場所では船は遠く霞んでいるのみだ。寄港か船出かは判断しかねるが、今後、船影がどちらに向かうかで分かるだろう。

(どちらかと言えば、船出が似合う朝)

 その間も両足の靴裏で乾いた砂を蹴り、彼は感慨深く思う。

(日の出が早くなったなぁ。それに、だいぶ暖かい)

 冬場と同じ格好で走っていると、すぐに汗をかく。ただし止まった時には上着が欲しい――それが避暑地の春の朝だった。

(潮風も優しくなった)

 ふと目を凝らすと、岬と例の船影が微妙にずれている。どうやら期待通り、船はミラス港を発ったばかりの旅客便のようだ。

 立派で瀟洒な貴族の別荘の地区が見えてくれば、朝の日課である〈軽走〉もそろそろ佳境である。彼は少しずつ速度を落とし、ついには立ち止まって腕と胸を広げ、思いきり深呼吸する。

「ふー……はー」

 彼はにわかに素直な微笑みを浮かべる。空へ還ってゆく〈もや〉と一緒に、朝と境目がなくなる身体と心は最高の感覚だ。
 まさに海を離れたばかりの光で編んだような美しい金の前髪を後ろになびかせ、十五歳の少年は大きく一歩を踏み出した。
 灰色にたたずむ海鳥の群れと、彼の他には何も見当たらぬ砂浜であるが、ひとたび目を閉じれば――豪奢な椅子や陽射しを防ぐ傘、魚料理、夏の潮の香までが甦るような心持ちがする。

 ここからは気楽な散歩となる。少しずつ砂浜を離れて丘陵を目指し、息を整えながら自宅の屋敷まで、緩やかな登り坂だ。

 振り返れば、朝もやの幻影は人々の目覚めを暗喩しているかのように、ひっそりと消えかかっていた。最後に残った西の空の星も既に光は枯れ、青く広がる空の中で閉じられてゆく宝石箱のようだった。夜と朝が完全に入れ替わると凪が終わり、風も潮(うしお)も緊張の呪縛が解けて自由気ままに流れ始める。

 彼の自宅――貴族の別荘は、もう目と鼻の先である。
 シャン・クリオスのとある一日は、こうして幕を開けた。
 


  4月13日△ 


[商人(あきんど)の町]

 それほど広くない石畳の通りの左右には所狭しと使い古した天幕が並び、商人は老いも若きも男も女も筵(むしろ)を敷いて商売に精を出している。ズィートオーブ市の東側は大森林に至るまで肥沃な草原地帯が続いている。内陸経由でパルチ町を目指す脇街道沿いに農村が点在し、小麦やトウモロコシ、ブドウその他の柑橘類など、南ルデリア共和国を支える穀倉地帯となっている。そこでは筵に最適の質の良い草が採れるのだ。
 それでも同国南部のリンドライズ平野の収穫量には負けるというのだから、この国の豊かさの程度はかなりものであろう。

 余剰生産物が売られ、商人や職人が集まり――それらの人を養うため耕地はさらに広げられる。南ルデリア共和国自体、大商人の合議制で国政を決める新興国家であり、首都のズィートオーブ市は世界最大の人口を擁する〈あきんどの町〉だ。

「こんにちは」
 布製の手提げ袋を肩にかけて、十四、五歳の小柄な少女がひょいと顔を出した。民族衣装風の長いスカートと、金の髪を留める茶色の髪留めがよく似合っており可愛らしい。だが青く澄む瞳は知的な光を浮かべ、その年齢よりも遙かに落ち着いていた。全体的な物腰や雰囲気は洗練された穏和な印象である。

 髪を短く刈った八百屋のおやじは歯を見せて陽気に笑った。
「おう、メルちゃん。らっしゃい。今日は何だい?」
「そうですね……旬のお野菜があれば、お願いしたいな」
「ああ、じゃあこれがお薦めだ。初ものだし、身体にいいぜ」
 八百屋の店主は、あぐらを組んでいる足元の新鮮なレタスを右手でつかんだ。小さな虫食い跡は味の良さを証明している。
「水分たっぷりで美味しそう。じゃあ、それを頂きますね。あと、そこのアスパラガスも一束、お願いします。はい、それです」
 メルは近くの学院に通う優等生で、この地区では有名だ。
「美味しいものを食べないと、頭も働きませんから」
 えくぼを出してメルが朗らかに微笑むと、八百屋はうなずく。
「そうさな。ありがとな。よっしゃ、これはオマケだ」
 代金を受け取ってからレタスを渡す前に、小さなブロッコリーを二、三個、手近の皿から取り出してメルの手の平に載せる。
「売り物になんねぇ、ちんけな品だけど、味は保証するぜ」
「ありがとう、八百屋のおやじさん。それじゃね」
 メルは胸の前で可愛らしく手を振った。ちっとも嫌みがない素直な仕草で、それはメルに似合っているのだった。彼女は重くなった布袋を肩にかけ、八百屋の天幕を立ち去って歩き出す。
「また来いよー!」
 その背中に、威勢のいい店主の声が届けられた。
 夕食の材料を買い求める町の人々と、ひっきりなしの声が行き交う活気のある通りは続いている。自分よりは少し年上の、やはり学生風のなりをした赤毛と金の髪の少女二人が買い物する脇を通り抜け、あちこちのなじみのお店の誘いを笑顔と丁寧な言葉で断りつつ、メルは黄昏れゆく家路を辿るのだった。
 


  4月12日− 


[春待つ日々(6)]

(前回)

 陽が翳(かげ)り、白妙の砂浜が波に洗われるように整然とした動作と速さで、見渡す限りの色彩がさあっと失われてゆく。
 見下ろす海の青も灰色のヴェールを帯びた。緑がかった銀の前髪を海風に煽られ、それを右手で抑えつつレフキルは言う。
「じゃあさ、サンゴーンの出来るところからやってみたら、どうかな? 別に町長とかいう難しい立場じゃなくて、一町民として」
「一町民として……ですの?」
 サンゴーンは少し戸惑うように応えた。いつしか町長の仕事を〈自分には到底取り組めない至高のもの〉と考え、気張っていたため、親友レフキルの提案をひどく新鮮に感じたのだった。

 その時であった。
 薄い雲間から再び空の炎が姿を見せた刹那――。
 今日のこれまでで一番強い風が地の底から沸き起こった。

 森の木や下草の葉を爽やかな音色の楽器にし、小鳥の進路を狂わせ、水に模様を刻んだ。人には畏怖の念を抱かせる。
 サンゴーンはいつもの癖でスカートを抑えようとしたが、今日は茶色のズボンなので問題なかった。レフキルは得意の反射神経で額に手を乗せ、細かに散る砂塵から目を守ろうとした。

 突如、その場に居合わせた二人の少女らは目を見張った。
 祖母の墓に手向けた白い花束が、まるで何かの意志を受けたかのように〈ふわり〉舞い上がり、宙に浮いて止まったのだ。

 レフキルが慌てて腕を差し伸ばしたが、僅かに間に合わず。
 二十輪ほどの痩せた花は月の香をふりまきながら、風に後押しされて彼女らを束ねる紙を飛び出し、一人ずつに分かれた。

 降り注ぐ太陽の光に、彼女らは誇り高く、しかも素直にまばゆく輝いた。そして一瞬の後、いと麗しき絵画を中空に描いた。
 印象的な風景にサンゴーンとレフキルが見とれるのに挨拶をするかのように、南国の雪の花びらは風を受けて高く昇った
 空気の流れが止まり――そのまま彼女らは緩やかに坂道を下り始め、最後にキラリ光ると、崖の向こう側に墜ちていった。

 気がつくと何の汚れもない純白の花びらは消え失せ、彼女らの親代わりだった包み紙のみが所在なく微かに動いていた。

「魔法……ですの?」
 魅せられて、サンゴーンは無意識のうちに感想を洩らす。
 やはり心の高揚を感じながら、レフキルは思わず叫んだ。
「風の魔法だ……いや違う、きっとサンローンお婆さんだよ!」


  4月11日− 


[光の中に(3)]

(前回)

 男爵の息子として生まれた〈彼〉は、実家の領土であるミレーユ町――デリシ町からシャムル町へ向かう途中にある――で育った。幼き頃より好奇心が人並み外れて旺盛だったという。

 男爵の父は旅の行商人から小さな三角柱の置物を購入し、息子の彼に贈った。海を隔てたラット連合に多く住む手先の器用なフレイド族によって作られたと推測される取るに足らない小さな道具だが――これがまさに少年の生涯を決めてしまった。

 最初は飾りとして何の気なしに窓辺に立てたのだが、うららかな春の午後、彼は衝撃的な事実に直面して全ての思考が止まり、目を見張った。無色のガラスの三角柱を、やはり透明な光が通過すると、驚くべきことに七色の筋が現れていたのだ。

 雨の後の空に架かって、自然現象の中でも最も美しく、不思議で、しかも適度に身近な部類に属する七色の橋が、いつも手元に見えるのだ。それはルデリア世界の元素として名高い七力の存在を雄弁に語っていた。以来、彼は七力の虜となった。

 研究は困難を極める。若い頃から失敗続きで、延べ数千人を超える助手たちは次々と彼の元を去った。信念で突き進む彼でさえ、これでいいのだろうかと自問自答する時、分光器はいつも無言のうちに励ましてくれた。目に見える研究の原石となり、鮮やかな彩りを放ち、行く先を指し示してくれた。結果として男爵家の潤沢な資金を食いつぶしたが、彼は後悔していない。

「一生、ひと仕事を貫かん」
 彼は万感の思いを込め、むしろ無機質な声色で呟いた。
「研究の成果、太陽の光は魔力を持っておらんことに気づいた。火炎、大地、月光、草木、天空、氷水、夢幻の七つ……七力のそれぞれは個性豊かで魅力的だが、全て合わさると、有能で無害だが、長所も欠点も面白みもない透明な光になり果てる」

 底のない沼地のような深い考え事に陥ろうとした矢先、彼の頭の中に聞き慣れた若者の声が響いた。それは短距離相互通信魔法〈クィザロアム〉によって届けられた弟子の報告だった。
『師匠、実験の準備が整いました』
「遅すぎるわい! 日が暮れるぞ」
 彼は声を張り上げ、勢い良く怒鳴った。相手がひるみ、ごくりと唾を飲み込む音までが、伝達魔法により耳元で直に鳴った。
「もうよい。さっさと始めるんじゃ」
 彼が少し調子を抑えると、若者はおっかなびっくり同意した。
『は、はい。開始します』

 魔法通信が切れたのを確認してから、白髪の彼は再び窓辺の分光器に視線を落とし、限りなく優しい口調で独りごちた。
「テッテ。お前、つまらん光になるのではないぞ……絶対にな」

 彼は七力研究所の所長、名をカーダという。

(おわり)
 


  4月10日− 


[光の中に(2)]

(前回)

 辛うじて元の白さを留めている食器棚には、おぼろげで幻想的な虹の模様が映し出されていた。時間を計るかのように、ほんの少しずつ、だが確実に位置も色合いも移り変わってゆく。
 赤、橙、黄、緑、水色、青、紫――光の軌跡の源泉をたどれば、個性的な色はしだいに手を携えて彩りを喪失し、例の窓辺に置かれている小さなガラスの三角柱に吸い込まれてゆく。それを自らで充たし、輝き続けているのは天のかぎろいだった。

 使い古され、角が取れて丸みを帯びた三角柱は、いわゆる〈分光器〉であった。透明な光を凝視し、内側に潜む幾つかの真実を見破って整理し、誰の目にも明らかなように放つのだ。

 最初から〈分光器〉として作られたのではなかった。名も知らぬフレイド族の職人が売りに出した単なる美しい置物は、海の向こうで〈彼〉と出逢ったことにより新たな意味を与えられた。

 木の床の軋みと足音が低く響いて近づいて来、中途半端に開いていた書斎のドアがゆっくりと動き、皺だらけの手よりも白髪頭よりも分厚い老眼鏡よりも先に右足の革靴が出て――。
 そして〈彼〉が現れた。

 書斎から出てきたのは、壮年も終わりにさしかかり老境に入りつつある五十過ぎの男であった。顎の周りに残っている無精髭は溶けかかる頃の雪を彷彿とさせるがごとく少し薄汚れており、額には切り立った山脈のように深い峡谷が刻まれている。
 身なりはあまり良いとは言えず、くすんだ黄土色のセーターに焦げ茶のコールテンのズボンを履いていた。眼鏡の奥の両眼は尽きぬ情熱と意志の強さを示し、辺りに厳しい視線を送る。

 それがふっと和らいで、優しい目つきになり――。

 彼は一歩ずつ、魅せられたように窓際へ近づいていった。
 細い腕を伸ばしたあと、一瞬ためらうが、すぐに心を決める。
 卵をつかむような細心の注意を払い、震える手つきでそっと分光器に触れると、堅い感触を確かめつつ愛おしそうに撫でた。

「そう、わしは……」
 彼は七色の光を見つめ、懐かしむ口調で一人ごちた。
「これを手に入れた時から、全てが始まったのじゃ」


  4月 9日− 


[光の中に(1)]

 窓は開け放たれていた。心地よい微風が小さくて簡素な建物の中に迷い入り、袋小路の出口を求めて彷徨っていた。窓の両側には、もとは純白だったはずの年代物の黄ばんだカーテンが左右に引かれていた。カーテンの下側は無造作に切り取られ、丘の上に建つ一軒家に合うべく縮小されてはいたが、本来はかなりの大きさであるらしかった。部屋の中は使い古した木目の美しい重厚なテーブルと、それに釣り合わぬ二脚の丸椅子が配置されており、どうやら食事場所らしかった。ドアの隙間からは、向こうの書斎にぎっしりと詰まった丈の高い本棚が覗く。

 壷も花瓶もなく殺風景で、少しほこりっぽい窓辺では、不思議な雰囲気を漂わせる透明な三角柱が優雅な時を紡いでいた。
 窓は南に面していた。というわけで、晴れた日ならば朝早くから山の端に入り日が沈むまで、三角柱は輝きを食べていた。

 手の平に収まってしまう程度の、ごくささやかなガラスの三角柱である。最低限の調度品――食器や鍋、その他良く分からない調味料や薬瓶など――しか見受けられぬ生活感の薄い部屋の中で、三角柱は幻の扉のごとく構え、異彩を放っていた。

 カーテンは微かに爽やかな音を立て、麗しき春の昼下がりを吹き抜ける若く新鮮な風に揺られ、裾が持ち上がっては緩やかに流れ、浮かんでは落ち、さながら寄せては返す白浜のさざ波であった。緑に萌ゆる広々とした野原を四角に区切り、この部屋もまた世界の一部であることを無言のうちに語っている窓。
 空の海はどこまでも青く澄み渡り、白い雲の大陸は形を変えながら自由に漂っている。陽の光は昨日に増して力強かった。虫たちは窓辺で羽を休め、あまたの種類の混じり合った草の匂いが絶えず部屋に注ぎ、隅々にまで散らばってゆくのだった。


  4月 8日− 


[中央山脈]

 ルデリア大陸の地形上の大きな特徴として、南北を縦断する極めて峻険な〈中央山脈〉があげられる。これにより西側と東側に世界は二分されている――と言っても言い過ぎではない。
 雲は高き嶺を乗り越えられず、冷やされて雨となる。大雑把な説明ではあるが、大陸の西側には湿潤な地域、東側には乾燥した地域が多い理由の一つは、こうした地形に起因する。

 切り立った峰が南北に延々と続いており、東西の幅もある中央山脈において、峠は僅少である。有名なのはメラロールとガルアをつなぐクリーズ峠であるが、それさえ道が狭く嶮しいため貿易に向いているとは言えない。メラロールとガルアの通商の要は、山脈が途切れているガルア湖経由が主流である。これもメラロールがガルアを領土とした後にようやく整備されてきた。

 各国は常に港町を中心として発達し、海運に力を入れてきた歴史がある。今でも内陸の開拓はおざなりになり、危険な動物が徘徊し、商人にとってはリスクが伴う。そういう未知の内陸にこそ冒険者のような流れ者の活躍できる場所があるのだが。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 ところで中央山脈は北の方や南の方ではやや低くなってはいるものの、北部では針葉樹林地帯暗黒の湿原に阻まれ、そのうえ住む者も少なく、現時点では貿易の必要性が皆無だ。

 もしも大陸中部、帝都マホジールからポシミア連邦やラット連合へ抜ける峠が開拓され、主要な街道が通れば重要なルートとして活躍するに違いないが、その可能性を真っ向から否定するかのように、中央山脈はこの辺りで最も険しさを増している。

 マホル高原からミニマレスまでは死の砂漠や枯木の森、サーレアステップと接しており、これまた交易ルートになり得ない。

 ミザリア海へ落ち込む最南部では、中央山脈とミニマレス山脈とに分かれる。それは自然の要害となって大きく腕を広げ、小国ミニマレスの最大の守護神となって両側にそびえている。
 フレイド独立戦争の折には激戦地ともなり、独立を求めて立ち上がったフレイド族と、マホジール帝国精鋭の魔術師軍が冬山の戦いを繰り広げた。ここでは身体の強いフレイド軍が最終的に地滑り的な勝利を収め、自由と自治権を確実なものにした。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 なお、中央山脈からは少し離れるが、ルデリア世界で最も高いのは、伝説のリーマ仙人が住むと言われるクル山である。
 


  4月 7日− 


[夜半過ぎ(10)]

(前回)

「あっ」
 すぐに二度目の音の波がやってきて、ファルナはへその辺りを慌てて抑えた。空腹の合図はより長く、より高く響き――失くした音を求めて彷徨う廊下の闇の粒子に吸い込まれてゆく。
「あらあら」
 母は相好を崩した。ほころぶ口元に白い歯が鈍く光った。
「ファルナまでお腹が減ったのかい?」
 夕食からはだいぶ時間が経っている。フード付きのコートに身をつつんだ父親のソルディは明かりを手に密やかに訊ねた。宿が混み合う書き入れ時の夏場、家族の夕食は交替で、しかも夜遅いことが多いのだが、今は冬のトンネルの最深部である。

「う゛〜」
 看板娘は小さな唸り声をあげて困ったように首を横に曲げたが、結局のところ、はにかんだ笑みを浮かべて素直に応える。
「はい、なのだっ」
「まだシチュー、残ってるわよ。下に行けば」
 さも寒そうに軽くつま先立ちして、母のスザーヌはささやく。
「やっぱりシチューだったんですよん!」
 喜びに満ちあふれて思わずファルナが声量を高めると、父親は寝ているシルキアに気を遣って指を唇に当て、注意を促す。
「ファルナ、静かにね」
「はっ……うん」
 息を吸い込んでうなずくと、喉が凍みる。両親と話している間には忘れていた冬が、再びその版図を広げようと動き出した。

 硬質な月の光に照らされる淡雪の名残は氷の霞となって夜空に散りばめられ、その遠くには星たちが永遠の瞬きを繰り返している。再び家のきしむ音が響き、ランプの炎は天井に溶けゆく白い吐息を映し出す曲面鏡となって右に左に揺らめいた。
 靴下と靴を履いていても体温は少しずつ逃げてゆく。

 しばらく考えていた父は、娘をおぼろに見つめ、語りかける。
「冷えた身体を暖めるのは悪くないかも知れないね」
「なのだっ」
 ファルナはいたずらっぽく微笑み、今度は声量を抑えて慎重に返事をした。妹の部屋からは相変わらず何の物音もしない。食欲をそそる美味しそうな匂いはさっきよりも弱まっていた。

 ランプを持つ父を先頭に、三人は闇の奥底を歩き始める。


  4月 6日− 


[ちょっとした俺の自慢話を聞いてくれ(7)]

(前回)

 うつむいたまま少女が何もしないでいると、兵士たちはゆっくりと警戒を解いて手を下ろし、まずは馬上の俺の方を見た。
 俺は微動だにせず、じっと待った。
 再び風がそよぎ、草花を撫でて通り過ぎる。蜜蜂の羽音が響き、噴水の水は明るい陽の光を浴びてキラキラと輝いている。

 その時だった。
 少女はぽつりと――だがはっきりした声で――こう言った。
「あたし、ほんとに、普通の女性兵に見えた?」
「もちろんです」
 俺は即答した。言葉遣いはいつの間にか丁寧になっている。相手の中に潜む気高さが、自然とそうさせてしまったんだな。
 いつの間にか兵士たちも神妙な顔つきで黙っている。

 黄金の前髪を揺らし、彼女は少しずつ首を起こしてゆく。
 整った鼻と柔らかそうな唇、それから南国の青い海に似た情熱の瞳が露わになったけれど、今は何ものをも捉えていない。

 彼女は聞こえるか聞こえないかくらいの声で、ぽつりと呟く。
「なれるもんなら、普通の女性兵になりたかったわ……」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 俺の身体を重い衝撃が通り抜ける。頭は石のようになり、指先は軽く痙攣した。肩は地面に引き寄せられ、心は沈殿する。
 いくら背伸びをしても叶わぬ夢が、きっと彼女にはあるのだろう。詳しい理由は知らずとも、それが痛いほどに伝わってくる。

 兵士たちも固まっていた。彼女は結局、腕一本使うことなしに、俺たちを打ちのめして――ぶっ飛ばしてしまったのだった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「ふん、私らしくなかったわね。おい、お前たち、行くわよ!」
 次の瞬間、彼女は何事もなかったかのように視線の鋭さを取り戻すと、勢い良く地面を蹴って駆け出した。刹那に覗いた健康的に日焼けした横顔は、何故か微笑んでいるように見えた。
 三人の兵はあっけにとられていたが、はっと気がついた一人が慌てて叫び声をあげる。それは俺の予想通りの答えだった。
「ララシャ様!」

 世界的に名を轟かす、おてんばで武術好きなお姫様。
 賢明なレゼル王子の妹で、ミザリア国の第一王女。
 彼女こそ、まさしくララシャ王女その人だったのだ。

 青い繻子の後ろ姿がぐんぐん遠ざかる。
 だいぶ離れた所で、王女は一度だけ俺を見た。
 俺が親しげに手を振ると、フンっとそっぽを向いてしまう。

「ララシャ様ぁ〜」
「お待ち下さい!」
 兵士たちの苦しげな呻きと懇願が響いている。

(ララシャ王女は、ララシャ王女らしく生きてくれよ)
 俺は馬の手綱を引き、心の全てで応援しつつ――彼女が建物の影に隠れてしまうまで、力強く美しい走りを眺めていた。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 後から聞いた話だが、将来を嘱望される若手の騎士は、ここ数年ララシャ王女の護衛につけられることが多いらしい。身体が鍛えられ、忍耐も備わり、自然と精鋭の軍人になるそうだ。

 あの日、ララシャ王女は朝のランニングの途中であり、三人の兵たちは護衛だったということになる。男どもは鎧を着て、王女に負けじと走っていたのだから、さぞかし持久力がつくだろう。
 それはいつしかミザリア王宮の朝の風物詩となり、宮廷の貴族や侍女たちは〈王女杯・競走大会〉などと呼んでいるらしい。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「というわけだ。滅多に出来る経験じゃないぜ」
 羨ましげに見つめる商人仲間に、俺は決め台詞を浴びせる。
「な、ちょっとした自慢話だろっ?」

(おわり)
 


  4月 5日− 


 やんだのは、ゆうべの雨だ。

 いま降っているのは別の雨だ。

 舞い降りてくるのは桃色だ。間隔を空けて、戯れに。

 積もれば華麗に見える――無粋なアスファルトさえ。

 言わずもがな、桜の雨だ。春の真ん中に降り積もり――。
 


  4月 4日△ 


[諜報ギルド(8)]

(前回)

「何か質問はありますでしょうか?」
 タックは声の調子を親しげに変えて、仲間たちを促した。
「ふーん」
 腕組みたまま、シェリアは首を動かさず、声だけで相づちを打った。直後、しなやかな脚を組み替え、思いきり伸びをする。
「んーっ!」
「……」
 彼女の妹のリンローナはタックの話を全般的に回想しながら、物思いに耽っていた。盗賊団の血で血を洗う抗争を頭の中に描き、寒気がするかのように一瞬だけ身を震わせたが、すぐに手を組み合わせて口元に近づけ、犠牲者のために祈りを捧げる。
「ふむ」
 重々しくうなずいたのはリーダーのルーグだ。
「じゃあ、騎士になるっていうルーグの夢に影響はしないってわけね。むしろ、メラロール王国側ってわけ……ふぁーあぁ」
 確認するように呟いたシェリアは、そのまま大あくびをする。

「リンローナさん」
 突然、タックに声をかけられ、少女ははっと気がついた。緑色の澄んだ瞳を素早くしばたたき、不思議そうに首をかしげる。
「うん? なあに?」
「そこのお水を頂けませんでしょうか」
「あ、これ……わかった!」
 ぬるくなってしまったが美味しい井戸水が半分ほど入っている縦長のガラスのビンを両手で慎重に支えて引き寄せ、少しずつ傾けてタックのグラスに注ぐ。部屋には清々しい音が響いた。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
 リンローナから受け取ったグラスの中身を舌の上で転がし、喉に染み渡らせ、タックは長きに渡って喋り続けた渇きを癒した。
 わずかの後、彼はせっかくの水を吐き出しそうになった。
「じゃあ、タックは〈いい泥棒さん〉なんだよね?」
 もちろんリンローナの台詞であった。

「げほっ、げほっ。ま……まあ、そうである、とも言えますね」
 タックはむせてしまい、肺のあたりを叩きながら苦しげに応えた。シェリアはぷっと吹き出し、真面目なルーグも頬を緩める。
 一方、リンローナは勢いに乗って素朴な疑問をぶつける。
「うーん。悪い泥棒さんに狙われたりしないのかなぁ?」
「冒険者として地方に赴けば、盗賊自体の絶対数が少なくなります。確かに、都の盗賊の中には地方に落ち延びて山賊や海賊になったものも若干います。そのかわり僕の仲間の諜報部員も各地にいますから、何かあった時には守ってくれますよ」
「そっか……」
 リンローナが納得した時、シェリアが再びあくびをする。
「ふぁ〜らぁ。私、そろそろ限界だわ」
「あたしも眠くなっちゃった」
 リンローナも瞳をとろんとさせ、睡魔に半分やられている。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「この話は、くれぐれもご内密にお願いしますね。脅かすわけではありませんが、面倒な揉め事になるのは避けたいですし」
「ああ。約束しよう」
 タックの念押しに、ルーグは右手を差し出した。二人は固い握手をする。シェリアは目で同意し、彼女の妹は無言でうなずく。
「あと一つ。町に着くと酒場で情報交換をしますが、そういう時はそういうものだと考えて、ほったらかしてもらえれば嬉しいです。有力な情報があれば入手しますが、地方の面倒な話に深入りしたり、皆さんの損になるようなことはしません。絶対に」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「それじゃね」
「おやすみなさい」
 シェリアとリンローナは姉妹連れだって自分たちの部屋へ戻っていった。タックは軽く寝床を整え、ランプを消す準備をする。

 ケレンスは寝息を立てており、ルーグは彼に毛布を掛ける。
 メラロール市の夜はこうして平和に更けてゆくのだった。

(おわり)
 


  4月 3日− 


[ちょっとした俺の自慢話を聞いてくれ(6)]

(前回)

「ふ……ふざけんじゃないわよっ」

 突然の低い怒鳴り声に、俺の身体は情けなくも固まってしまった。声の主は分かりきっている。怒らせてしまったろうか?
 はっきり言って恐ろしいほどの緊張感が漂っている。なのに、相手がどんな顔をしているのか気になって仕方がなかった。
 俺はゆっくりと振り向き、目線を下げてゆく――。

「どうか穏便に」
「落ち着いて下さい」
 三人の兵たちは慌てふためき、俺と少女との間に割って入り、何とか押しとどめようとしている。その後ろで、俺の予想に反し、少女は下を向いていた。燃え盛るほど怒り心頭なのか、うなだれているのか、衝撃を受けているのか、はたまた泣いているのか――どうとでも受け取れる様子で、当然ながら表情は分からない。大きな耳のような金の髪の団子が目立っている。

 腕を下ろして両拳に力を込め、わずかに肩を震わせ、武術着の少女はうつむいたまま立ち尽くしていた。俺はというと、魅せられたように呆然と彼女を眺めていた。それは一筋の昇りゆく真紅の炎だった。彼女の周りは通り過ぎる風までもが精悍な印象を与えた。スキがなく、ただ者ではないことを改めて思い知らされ――しかも持って生まれた育ちの良さが垣間見えるのだ。

「今のうちにお逃げ下さい! 勝負を挑まれますよ」
「このお方を怒らせては危険です」
「何をしている、早く行くんだ!」
 兵士たちは重心を下げて肘を前に突き出し、驚くことに少女から身を守る姿勢を取った。そして少女の動きに細心の注意を払いつつ、青ざめた必死の形相で俺に向かって口々に叫んだ。

 彼らの忠告が遠くに霞んでいる。俺はいつでも撤退できるよう、ほとんど無意識のうちに重たい手を動かして馬の手綱を握りしめ――心の中では疑問と好奇の果実が膨らんでいった。

 やがて、爆発する時が訪れる。
 かすれた声で、俺はつぶやくように訪ねた。
「あなたは……いったい、何者なんです?」


  4月 2日− 


[雨音やさしく]

 雨音やさしく、
  樋を駆け降りる。

   聞こえたろうか、
    屋根に脚着く音が。

(春の「♪」を受け持つ)

     寄り集まって、手を取り合って、
      脇目も振らずに飛び込んでゆく。

(水たまり)

       見えるだろうか、
        あの透明なしずくたちを。

         一粒の中に、世界を全てを含み、
          差し込む光に生き生きと輝いて。

(すてきな楽器のひとしずく)

           彼らはもう、冬のように凍りはしない。
            時間は動き出し――そして流れ続ける。
 


  4月 1日− 


[ちょっとした俺の自慢話を聞いてくれ(5)]

(前回)

 俺は馬上から、武術着姿の女性と三人の兵隊たちのやりとりを興味深く傍観していた。護衛? お父様? 何のことだろう。
 女性の高笑いが収束してきたスキを狙い、俺はまず関係のない話題から、相手の心の懐に少しずつ潜り込もうと画策した。
「あ、そうそう、向こうの赤い建物が倉庫なんだろう?」

 三人の護衛兵は滑稽なほど一斉に顔を上げ、信じられないようなものを見るような目つきで俺を凝視した。それがだんだん哀れみに充ちてゆく。知らぬものは幸せだ、とでも言いたげに。
 彼らの荒い息づかいは既に落ち着いており、さすが軍人だと思わせる。女性兵にはさんざんな言葉をぶつけられたものの、それなりに重量のある鎧や靴を着用し、おそらく長い距離を走っていたのだから、彼らだって相当の体力があるはずなのだ。

 振り向いた女性兵は俺の方に一歩だけ近づき、睨んだ。
「倉庫? そんなもん、見りゃ分かるでしょ。それより、あんた、言葉に気をつけなさい。ぶっ飛ばして、不尊罪で訴えるわよ」
「ぐっ」
 相手の恐ろしいほどの気迫に押され、たちまち続く言葉を飲み込んでしまった。彼女は触ると爆発しそうな、くすぶっている炎のような人だ。普段、聞いたことのない〈フケーザイ〉という単語にも関心はあったが、俺はひとまず頭をかいて非を認めた。
「はは、こりゃ失礼しました。礼儀を知らぬ田舎者なもので」

 すると男の兵の一人が血相を変えて駆け寄って来た。両手を口に当て、俺の耳に近づようと背伸びする。俺が上半身を右に傾けると、男は厳しい表情のまま、周りに洩れぬ声量で囁く。
「異国の商人か。ご迷惑をおかけして、誠に申し訳ない。この場は我々に任せて、大事に至らぬうちに早いところ行くが良い」

 俺は身体を起こし、腕組みした。
 そして例の少女を指さし、その場の全員に大声で訪ねた。
「あの子、王宮の女性兵じゃないのかい?」






前月 幻想断片 次月