2003年 5月

 
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2003年 5月の幻想断片です。

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  5月31日△ 


[鏡と湖(9)]

(前回)

 おばあさんに案内されて〈一一三号室〉に着き、リュックを下ろして冷房を入れたはいいものの、奥の窓ガラスは平凡な山並みを映していた。せっかくの好立地なのに湖が見えないなんて――変な造りだと思ったけど、その時は深く考えもしなかった。

 部屋はほこりっぽく、大したものはなかった。気分としては、たった一人で修学旅行に来たような感じで、あんまり楽しくない。
(こんなはずじゃなかったのに)
 僕は心の中で呟く。口に出すのはちょっと悔しかったから。

 当てが外れてばかりだ。テレビの旅行番組のように、この紀行を通して色々な出会いと別れがあり、自分はもっと大きくなれるはずだったのに。今のところ、その兆しさえ全くなかった。地方に来てみても不便なだけで、特に得るものもない。荷物になるけど、漫画でも持ってくれば良かったな。コンピューターゲームがあれば最高の暇つぶしになるのに――ないものはない。

「やることが、ない」
 僕はクーラーの風を浴び、壁により掛かって、考えていた。
(なんで一人旅なんかに出たんだろう)
 そのまま猛烈な後悔の循環を始めそうになったんだけど。
 湖を遠くから見たいという純粋な好奇心の方が辛うじて勝利を収め、僕は溜め息をつき、重い体を起こして立ち上がったんだった。青い半透明の直方体に番号が刻まれた部屋の鍵を忘れずにズボンのポケットへ突っこみ、適当に彷徨っているうち、鏡の飾ってある例の廊下にたどり着く。しばらく何も考えず、僕は魅せられたように青い水面を眺めていたんだっけ。後ろから老婆が不気味に再登場して、ホラー映画みたいな台詞を呟くまで。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 そんなことを考えながら僕はベッドに横たわっていた。肩や足は相変わらずだるく、腰は重い。いつの間にか、うつらうつらしていたようだ。それでいて妙に頭の芯が冴えている気もする。
 腕時計を見ると、やっと午後四時だ。外はまだまだ明るい。
 この部屋からじゃ見えないけど、湖はきっと鏡のように広がって、午後の太陽に照り映えてるんだろうな。鏡――そう、鏡。

「鏡?」
 そういえば、おばあさん、なんて言ってたっけ……。
 と思った瞬間、老婆の枯れた声が僕の頭の中に響いた。

『満月の晩、日が変わる頃、ここに立ってはいけないよ』

「ひ……っ」
 ものすごい勢いで、首筋に鳥肌が立った。悪寒が背中を通り抜ける。僕の様子をよそに、呪文のような淡々とした口調で、老婆の〈声〉はおぼろげに――だけど、妙にきっぱりと言い切る。

『鏡と湖が入れ替わって、あの女に引きずり込まれるからね』

「あ、わ、わ」
 情けなく歯を鳴らし、小刻みに手を震わせつつも、枕元に置かれた〈松川荘〉の名前入りの卓上カレンダーに手を伸ばした。

『満月の晩、日が変わる頃……』

 そして何とか引き寄せると、少しずつ目線を合わせていった。
 見たくないのに、確認せずにはいられなかった。
 まるで、テレビで紹介された心霊写真を見る時の心境だ。

 カレンダーの日付の右下には小さく月の形が書いてある。
「み、みか、三日月、は、半月、じ、じゅ、じゅう、十三夜……」

 次の刹那、僕は凍りついた。
 顔から、一斉に血の気が引いていく。
 まともに動いてくれない手で携帯電話を左ポケットから取り出し、日付を確かめたけど――やはり、残念ながら間違いない。

「きょ、きょうは、満月、な、なんだ……」
『引きずり込まれるからね。引きずり込まれるよ』

「ヒャアア!」
 僕は毛布の中に潜り込み、ガタガタ震えながら丸まった。
 暗い中、細くて若い女の人の腕が血に染まり、鏡から飛び出ていた。僕は半ば失神し、いつの間にか眠ってしまった――。

(ネタ熟成のため、続きは当面見合わせ)
 


  5月30日△ 


[虹あそび(4)]

(前回)

 何度も繰り返して勢い良く振ってから、ふたを時計回しにして外し、ナンナは小ビンを傾けました。ゆっくりとこぼれた黒い粉は地面に落ちることなく、水に浮かぶように宙を漂っています。
「不思議だね……」
 レイベルは興味津々そうに、ぬばたまの瞳を大きく見開いてまばたきしました。黒い粉は溶けることもなく、じわりじわりと広がっていきます。思ったほど悪い予感はしませんでした。そうです――夜は視力を奪うから怖いけれど、一方では、まどろみと夢と静けさと仲良しです。忙しい昼間を忘れ、心の休息を与えてくれる〈闇〉もまた必要なのだと、改めて思うレイベルでした。

「ピィ、ピィ……」
 インコのピロはレイベルの肩に乗ったまま、黄色のくちばしでナンナのビンをつつこうと限界まで身を乗り出していましたが、闇だんごの素が出てくると慌てて食べようとしました。魔女の孫娘はビンと反対側の手を差しだして邪魔をし、鋭く制止します。
「食べ物じゃないよ! まずいんだからねー」
 ナンナの表情は、言葉とは裏腹に真剣そのものでした。
「おなか壊しても知らないよ。ナンナの言うこと、分かる?」
 金の髪のいたずら魔女は、顔をしかめて厳しくいさめます。
「ピュー」
 一時は騒いでいたピロでしたが、そのうち諦めて静かになりました。小鳥の美しい羽が一枚、揺れながら落ちていきます。
 ずいぶんとナンナが〈闇だんご〉の味に詳しいので、ふと気になり、村長の娘さんは半分冗談、半分本気で軽く訊ねました。
「ナンナちゃん、もしかして……昔、つまみ食いしたの?」
「うー。てへへ」
 案の定、ナンナはほっぺを朱く染め、後ろ頭をかくのでした。


  5月29日− 


[虹あそび(3)]

(前回)

「これでもない、あれでもない……あった!」
 木の台の上で背伸びをしたナンナは、高い戸棚の中をのぞき込み、黒い小さなビンを手前に引き寄せました。いかにも怪しげなそのビンには〈闇団子の素〉という札が掛けられていました。
「ナンナちゃん。おばあさんに断らなくて、いいの?」
 レイベルは心配そうに両手を組み合わせましたが、台から後ろ向きに飛び降りた魔女の孫娘はあくまでもマイペースです。
「あとで、ちゃんと言っておけば、だいじょぶだよ」
 ビンを突き出し、薄暗い台所で金の髪をさらりと揺らします。
「それより時間がないから、急ごー!」
 狭い通路を駆け抜けてドアを開け、ナンナは飛び出しました。
「あっ、ナンナちゃん、待って!」
 急な出来事にレイベルは驚きましたが、何とか冷静さを捨てずに友の後ろ姿を追います。ナンナの頭の上にいた使い魔のインコのピロは、素早く羽ばたいてレイベルの肩にとまりました。
「ぴろ、ぴろ!」
「うん。わたしたちも行きましょうね」
 レイベルはピロに微笑みかけ、裏口のドアに手をかけます。

 強い光を浴びて、雨粒の名残は月を砕いた粉薬のように透き通っています。草いきれが命と大地の匂いを風に乗せて散りばめ、立ちのぼる霧はかげろうのように揺れています。二人の少女と一羽の小鳥は、湿気と熱気に充ちた外へ出てきました。
 北国のナルダ村では、新芽の花月(四月)と、草木の緑が目にしみる雨月(六月)に挟まれた若葉の草月(五月)は、いたずらっぽい空気の流れ、甘い香り、ちょっとムラのある天気の移り変わり、さわやかな雲と明るい陽射し、限りなく広がっている空――ちょうどナンナくらいの年頃の子供と、どこか似ています。


  5月28日− 


[ひとつの中のあまた]

「ん……」

 ほっそりと痩せた白い手を額にかざし、少女は角を曲がったところで立ち止まった。光の射し込む方向が変わったので、柔らかな金の髪を朝焼けの名残のように輝かせている。顔をもたげて目を細め、彼女は少し戸惑いがちに青く強い空をあおいだ。
 ここは南ルデリア共和国の首都で、商いの盛んなズィートオーブ市の旧市街である。海にほど近い町はさわやかな潮風につつまれ、ふだん乾燥ぎみの空気は昨日の雨のお陰か、少女の肌に似て若々しく艶を秘め、しっとり湿り気を帯びている。整備された赤いレンガ造りの道は平坦で、立ち並ぶ三階建ての家々は歴史を感じさせ、なおかつ決して古びることがない。これが本当に培われた文化であることを、民は誇らしく思っている。
 二階と三階の窓辺に並べられた鉢植えたち――ルーゼリアの赤い花やミラムの紫の花、セリアの白い花、コーザニアの黄色い花――は、きたる夏を予感させて、鮮やかに清らかに咲き誇っている。南ルデリア共和国は極めて温暖で過ごしやすい。

 さて、先ほどの十六、十七歳の少女は右手に持った鞄に引っ張られるように一瞬、バランスを失い、脚に力が入らず膝もガクッと曲がり、あわや水たまりの中へまっすぐ倒れそうになった。

 ――が、タイミング良く反対側から支えられ、事なきを得た。
「ねむ! 危ない」
 突然に現れた赤毛の同級生がしっかりと抱き留める。二人は同じ学院に通う親友同士だ。倒れた方の名はリュナン・ユネール、支えた方はサホ・オッグレイムである。リュナンは居眠りがひどく、皆に〈ねむ〉〈ねむちゃん〉などと呼ばれている。しかも幼い頃から体が弱く病気がちで、今日も二日ぶりの通学だった。
「しっかりして」
 歯を食いしばって押し戻し、青いズボン姿のサホはうなった。
「ありがとう。おはよ、サホっち」
 何とか脚に力を入れて体勢を整え、リュナンは礼を言った。しかしその言葉は蝶のように軽々と虚空を舞っていた。青玉のように澄んだ瞳も、ひどくぼんやりとして焦点が定まっていない。

「ねむ、大丈夫? あたいがちょうど通りかかったから良かったけどさ、なんか不安だね、脚もフラフラだし。風邪は治した?」
 サホは相手の顔を覗き込み、わざと少しきつい口調で問う。
「うん、治ったんだけどねぇ……」
 緑の草と春の花の刺繍の入った長いスカートが良く似合う清楚なリュナンはぎこちなく口を動かし、首を曲げて言葉を濁す。
「町の光が明るすぎて、まだ馴れないのかな。この二日間、風邪をしっかり治そうと思って、ずっと薄暗い部屋に寝てたの。だから、世界と混じり合うのに、まだ時間がかかるみたい……」
 腰に手を当て、胸を張り、サホはあっさりと言ってのけた。
「なんだ、そんなこと」
 そして素早く腕を伸ばし、リュナンの鞄を奪い取ったのだ。

「何? どうしたの、サホっち」
 穏やかで、少し現実離れした人形のような微笑みを浮かべるリュナンに、サホは人差し指を突き出して、生気を吹き込む。
「じゃあ、荷物はあたいが預かるよ。世界と馴れるまでね」
 言い終わると、サホはさっさと学院を目指して歩き始める。

 リュナンは首を振ろうとしたが、友の優しさに負けて心臓の辺りをブラウスの上から抑え、精一杯の気持ちを言葉に乗せる。
「サホっち、ありがとう。世界と馴れるまで、ね」
「そうそう。世界となじむまで」
 両手に鞄を持ったまま、振り返らずにサホは応えた。それから得意の口笛を歌い始める。その高らかな音程が白い雲に届き、ぐんぐん気温の上がる初夏のズィートオーブ市の朝であった。
 


  5月27日△ 


(休載)
 


  5月26日△ 


[鏡と湖(8)]

(前回)

 なぜ、この宿――〈松川荘〉を選んだかというと。
 そんな大した理由はない。まずは、この付近で数少ない宿だったこと。スケジュールの都合上、湖の周辺か隣町で一泊はしなくちゃいけないと思い、場所を絞って考えた時にガイドブックで見つけたのだった。写真を見た限りでは、メチャクチャに古そうな建物ではなかったし。かといって新しくもなかったけど。湖のほとりに立っているという景色の良さも選択の材料になった。そして何と言っても最大の決め手は、値段が手頃だったこと。

 緊張して震える指先で番号を途中まで押し、やっぱりやめて受話器を置き、溜め息をつく。それを三回繰り返してから、僕は意を決して〈松川荘〉に電話した。中年くらいのおかみさんが出て、ちょっと早口の大声で受け答えをしてくれた。日程を伝えて予約の旨を告げると、秋は紅葉見物、冬はスキー客でそれなりの賑わいを見せるけれども、夏場はお客さんが少なくて静かだよ、と教えてくれた。時間帯によれば、大浴場が貸し切り状態になるんだって! 僕はここに決めて良かったと感動し、おかみさんに丁寧にお礼を言って興奮気味に電話を切ったのだった。

 実際に到着して、この目で見た〈松川荘〉は、中途半端なコンセプトのさびれた旅館だった。観光資源は少ないのに都会からは遠い。横を通る県道はそれなりに重要な道だから、昔は街道沿いの宿場として栄えたのかも知れないけど、今はみんな自家用車を持っているから、もっと山奥の温泉街に泊まるんだろう。

 というわけで、早く来すぎたとはいえ、予想よりもはるかに人気(ひとけ)がなくて妙な雰囲気の宿だった。静かは静かだけど、強いて言えば人工的な静かさ――って感じなのかな。開きっぱなしのドアを恐る恐る通って受付を見たけど、誰もいない。
「予約したんですけど……誰か、誰かいませんか?」
 声をかけ、備え付けの鈴を鳴らして待つ。まだ入れてもらえないのかと不安になっている矢先、背後に何かの気配を感じた。
 振り向くと、白い脳天がまず目に入った。生気のなく、しわだらけで、腰の曲がっている宿屋の受付係のおばあさんだった。


  5月25日○ 


[弔いの契り(16)]

(前回)

 別に表情がゆがんでいるわけではないし、下品な〈にやけ笑い〉でもない。あくまでも顔は端正なまま、彫りの深さも相変わらず。なのに、男爵の笑みがゆがんで見えるのは何故だろう。
 心の底に不吉で邪悪なものを孕んでいる、とでも言えばいいのか。待ちに待った暗い企みがついに完成するかのような、そういう類の不健康さを感じる。普通じゃない――そう、異常だ。
 村人たちの変化は明らかで、明るい雰囲気はどんよりと垂れ込める曇り空のごとく沈み込んでいた。重苦しさの精霊ってのがいるのなら、今まさにこの場所へ降りてきたんだろう。隠し事が下手なやつらだなぁと、俺は密かに思わざるを得なかった。

 俺が猛烈に睨んでいると、男爵は俺を見下すようにちらりと一瞥をくれた。俺の身体を一瞬のうちに炎が突き抜け、腹は煮えくりかえり、耳は熱くなった。相手が貴族様じゃなかったら、思わず首根っこをつかんで押し問答したくなるような、失礼な仕草だ。まあ、俺も向こうのことを言えるような態度じゃねえけどな。
 こっちはただ、食事付きで泊めてもらってる旅の冒険者に過ぎねえし、身分もあまりに違う。しかもここは男爵の領地なんだ。本来は睨むことさえ犯罪になる場合もあるんだろう。もしも万が一、濡れ衣を着せられて逮捕命令でも出されれば、最悪、村人全員を敵に回すんだし――圧倒的にこっちが不利なわけだぜ。
 五年ほど前からの村の急激な寂れ方、死んだように冴えない顔の領民たち、姿を消した年頃の娘、仕組まれたような夜会。
 それらの奇妙な点には間違いなく男爵が絡んでると、俺の直感が告げている。けど、それがいくら明白な事実に限りなく近くても、こっちとしては動かぬ証拠を握るまではうかつに糾弾できないことくらい、さすがに俺だって分かってるさ。悔しいけどな。

 俺としては異例の物思いにふけっていたが、とりあえず歯ぎしりしつつ、どうにか自分を抑えて男爵から目を逸らすのだった。

 そういえば〈海には海の暮らしあり(郷に入りては郷に従え)〉という諺もある。誰かに依頼されたのでもないし、本来は俺たちみたいな部外者が、こういう田舎に深く関わるのは良くないんだよな。民衆のやりたがらない、面倒だったり危険だったりする仕事を手がけることにより、身分を手厚く保障されてる俺たち冒険者――ひとたび誰かに依頼されれば断りにくいんだけど、今のところ、この村に来てから訴えも聞かないしな。着いてすぐ、男爵の屋敷に呼ばれたからだ。普通は庶民の宿屋や酒場や露店街に立ち寄って、町の情報収集としゃれ込むんだけどさ。
「……ん?」
 俺は腕組みした。そうか、そこまで考えて男爵が俺たちを屋敷に閉じ込めたなら、かなりのやり手で、しかも計画的だぜ。

 ルーグたちは四人で素早く耳打ちし、静まり返ったホールの中央を突っ切って、次の曲の前奏が終わるまでに小走りでテーブルに戻ってきた。スカート姿の姉妹は裾を抑え、早歩き程度だったけどな。顔を火照らしたシェリアの姉御が来ると、きつい香水の匂いがする。知恵者のタックは鋭く目を光らせていた。
 こう言う時は仲間と相談をするのが一番だ。俺がいくら考えてみても埒があかねえ。ちょっと安心して、軽く溜め息をついた。


  5月24日○ 


[夜半過ぎ(13)]

(前回)

 父はいきなりシチューの鍋を開けたわけではなかった。まずは鍋のふたに載せてある、厚い布で作った妻の手製の〈鍋つかみ〉を取り、左手にはめた。右手は木のお玉を持ち上げる。
 ファルナは高まる期待をどうにか抑えていた。食べてもいないのに、胃のあたりがほんのり温まってきたような気さえする。
 その間に母のスザーヌは素晴らしい連携能力を発揮し、洗い台にひっくり返してあった底の深い小さくて円い皿を用意した。

 身を切るような寒さは続いており、気合いを抜けば一斉に鳥肌が立つ。けれど身体を動かしていれば気が紛れるし、何より厨房の片隅で炎の子を散らしている暖炉が徐々に効果を発揮していた。明るさと温かさ――両者を兼ね備えた暖炉は、闇と冷気の下で一つの重要な拠り所になっていた。もっとも彼女らの心は、常に家族愛という名の暖炉に照らされていたのだが。

 滞りなく準備の整った父のソルディは、一瞬だけ振り向く。
 父娘(おやこ)の瞳が、言葉を使わずに意思の疎通を図る。
 おぼろな影が壁に映し出され、炎の踊りに合わせて妖しげに揺れ動いていた。それは真夜中にふさわしい一つの神秘だ。

 ソルディはためらわず、右手を鉄の鍋のふたに差し出した。
 取っ手をつかみ、力を籠めて一気に持ち上げる。

 ふたのふちが高く鳴り、わずかな隙間が生まれて。
 良く煮込んだ栄養満点のシチューが再び姿を現すのだった。
 我慢できず、娘は思いきり鼻から息を吸ってみたのだが――その瞳は失望に彩られる。湯気の名残も、強い香りもしない。

 だが、変化は突然にやってきた。
 なま暖かい風が遅れて届き、宿屋の娘の嗅覚を刺激した。

「あっ!」
 茶色の前髪が目にかかるのも気にせず、ファルナは叫んだ。
 芋や冬野菜や羊肉、雪の間に見つけた貴重なきのこや山菜などの森の幸を混ぜ合わせ、丁寧に溶かした食欲をそそる匂いが最高潮に達した。口の中に沸き起こった唾液を飲み込む。

 父は冷静に鍋のふたを台に置き、お玉を中に差し入れる。具を混ぜ合わせる豊かな音をトポッと響かせ――彼はついに掬い上げた。待ちきれずにファルナが皿を手渡すと、父は表情を緩めて〈すずらん亭〉の自慢のシチューをたっぷり注ぐのだった。


  5月23日○ 


[鏡と湖(7)]

(前回)

○松川湖
 松川の上流にある山あいの静かな湖。周囲は徒歩三十分。

 バスは定刻通り運行し、一時二十分過ぎに〈松川湖〉という名前の停留所に着いた。ドキドキしながら整理券を出して運賃を支払い、ステップを降りると、目と鼻の先に湖が広がっていた。

 山間部にあるこの町は、郷土資料館のあった市に比べれば少しは観光色が強まっている。けど、ガイドブックを読んで目が留まるまで、こんな町の名前はついぞ聞いたことがなかった。
 秋の紅葉は地元の隠れた名所と言われ、冬はスキー場に向かう車で県道は賑わうようだけど、夏場はひっそりと静まり返る〈松川湖〉だった。山と山に囲まれた位置にあるため、地形の関係上、遊歩道は八割くらいしか整備されていないから一周することは出来ない。適度に岩場があって流れも爽やかな川の方がまだ楽しそうだけど、今日は月曜日だし、川辺でバーベキューをする家族連れは皆無だった。水は透き通っているのに釣り人もいない。もっと山奥に行けば、いい釣り場があるんだろう。

 観光案内に〈静かな湖〉とあったから僕はここを選んだ。都会の喧噪から離れたかったし、修学旅行で行くような観光地化された場所は興ざめだったから。だけど渋すぎた選択のようだ。
 自然の雄大さは確かに素晴らしいけど、あまり楽しい感じはしてこない。湖自体があまり栄えていないためか、乗り物の白鳥が浮いているわけではなく、せいぜいボートが脇の方に並んでいる程度だった。しかも乗り場の受付は錠で閉鎖されていた。
 見たこともない茶色の鳥が翼をはためかせ、空を渡ってゆく。

 案内書には〈徒歩三十分〉とあったから、余裕を持って一時間くらいと考えていたんだけど――木の板を踏みしめ、落ちないように気を付けながらゆっくり歩いたつもりでも、特に変わった物もない湖だから三十五分弱で遊歩道を探索し尽くしてしまった。

 午後二時ジャスト。
 松川湖のほとりに残る唯一の宿であり、今回の旅の記念すべき一泊目を飾る民宿〈松川荘〉の入口に、僕は立っていた。


  5月22日− 


[鏡と湖(6)]

(前回)

 独特の臭気――油の匂いと、タバコのヤニがしみついたような――が漂うバスの中は、それでも天国だった。クーラーの風に汗が冷やされてゆく。今度は新型車のようで、正面の展望ガラスは大きいし、赤紫色のシートもきれいに整備されていた。
 バスが涼しいのはもう一つ理由がある。僕の他に、お客さんが誰もいなかったからだ。中年の運転手は風を運んでいた。

 貸し切りの路線バスは単調に走り続けた。片側一車線の県道はいよいよ峠を目指して勾配がきつくなり、左へ右へと緩やかなカーブを描いている。景色は相変わらずの雑木林でつまらなかった。この辺りは人家もほとんど無く、次の停留所は隣町に入ってからのようだ。運転手がアクセルを踏み下ろすたびにバスのエンジンは苦しげな轟音を立ててうなり、床はぶるぶると震え、整理券を握りしめる僕の手も小刻みに動くのだった。

 突然、坂が平坦になる。
 次の町の名を記した青い案内板が現れ、通り過ぎた。
 ――と思う間もなく、左側の車窓が開ける。

 眼下には緑の生い茂る山肌と崖が続き、その遙か下の方で河が銀色に光っていた。その流れに沿って集落が形成されている。家が密集している辺りには町の役場があるのだろうか。
 そして次の目的地が垣間見え、僕ははっとして息を飲んだ。

 高い場所から眺めると、ひと掬いの単なる水たまりに過ぎず、それほど大きい訳ではない。ゾウリムシに似た楕円形に広がっており、深い蒼に澄んで、ほとりには一軒の宿が建っている。

 直後、下りに差しかかった県道は再び森に入った。自家用車やトラックとすれ違い、バスは速度を調整しながら進んでゆく。
 僕の頭の中では、さっきの湖がこびりついて離れなかった。


  5月21日◎ 


[鏡と湖(5)]

(前回)

「はい、ちょうどお預かり」
「どうも」
 高校生料金の二百円を払って、僕は郷土資料館に入った。

 戦国時代の土豪の伝説や、昭和初期の農家の暮らしにまつわる展示物、町おこしの特産品の紹介などを適当に見ながら歩いていると、あっけなく出口にたどり着いてしまった。ガイドブックの扱いが小さかった理由を今さらながら思い知らされた感じ。
 お目当ての物がなかったので、適度に冷房の効いたコンクリートの廊下を順路の矢印と逆向きに引き返すと、中二階に上る妙な階段があった。案内は何も書いていないが、かと言って立入禁止の文字もない。僕は首を反らし、妙に高い天井を仰ぐ。
 どうも落ち着かなくて周囲を見回したけど、誰もいない。

 唾を飲み込むと耳の奥が鳴った。鼓動が速まり、身が固くなる。僕は大きく息を吸い、吐き出し、肩を何度か上げ下げした。
「ちょっと見てみますよ?」
 返事はなかった。僕はこぶしを握りしめ、階段に踏み出す。

 数段を真っ直ぐ登り切ると踊り場とも言えない踊り場があり、突き当たりで階段はさらに九十度、右へ折れ曲がっていた。空調設備が働いているはずなのに、何となく澱んだ空気がたむろしている。手すりはほこりっぽく、窓は雑巾で拭いた跡がある。
 中二階はちょっと薄暗く、窮屈な空間だった。壁には、かつての現役時代の鉄道を撮った白黒の写真パネルが数枚、飾られていた。中央のガラスケースには古びた駅名板や使い古しの切符が展示され、開通から廃止までの簡単な年表があった。

 資料館の出口の向こうはささやかな物産販売コーナーになっていた。町の名前を書いたキーホルダーや提灯(ちょうちん)、漬け物や山菜パック、それからごく普通のアメやガムやジュースやスナック菓子などが売られていた。四十過ぎの太ったおばさんがレジの前の丸椅子に腰掛けて文庫本を読みふけっていたが、僕が通りかかると顔を半分上げて最低限の挨拶をした。
「いらっしゃい」
 でも、言い終わる前に、おばさんの目は本に戻っていた。
 試しに県の銘菓の箱を手に取ってみると、賞味期限は昨日で切れていた。それを元に戻し、僕は物産販売コーナーを出た。

 時計を何度見返しても十一時半だった。展示物は何となく煮えきらないものばかりだし、予定よりも早く見終わり、僕はやることが無くなってしまった。せっかくだから、もっとすごい名所を旅すれば良かったなぁ。せめて自然の美しいところとか――。

「はぁ……」
 溜め息をついてみても仕方がなかった。ここは単なる農村で、しかも町の中心から離れている山の中腹を切り開いた場所だから、周りは鬱蒼とした雑木林になっている。峠に続く坂道のバス通りと、バス停、資料館の広い駐車場、つぶれたソバ屋の名残の建物があるくらいで、あとは本当に山林地帯だった。交通量は結構あるのに、人は全然見かけない。太陽は真上に近づいて日陰は少なくなるし、ヤブ蚊がブンブン飛び回っている。
 コンビニは駅に行かなきゃ無いし、お昼を食べる施設も見当たらない。僕はやむを得ず、再び物産売場に行って、イチゴジャムの菓子パンと鮭のおにぎりを買ってきた。自販機で良く冷えたウーロン茶のペットボトルを購入し、何故か真新しい銀色の水道で手を洗い、バス停のベンチに腰掛けてリュックを下ろした。

 味気ないおにぎりをほおばる。テレビの旅行番組とは雲泥の差のお昼御飯はひもじくて、さすがに虚しかった。バス停には雨避けの屋根が延びていたから直接に陽の光は当たらなかったし、たまに通りかかる風は気持ちいいけど、盆地だからやたら気温は高い。まだ正午過ぎだから、暑さはもっとひどくなりそうで、うんざりだった。やっぱり帽子を持ってくれば良かったな。

 本当は二時くらいのバスに乗る予定だったのに、あまりにやることがなかったので、僕は一本前のバスに乗ってしまった。
 安物のデジタル腕時計の盤面は〈12:46〉と表示していた。


  5月20日− 


[鏡と湖(4)]

(前回)

 高校二年の夏休み。科学部に所属している僕は大した活動があるわけでもなく、クーラーの利いた部屋に寝転がり、テレビを見たりゲームをしながら、だらけきった毎日を過ごしていた。
 両親に愚痴を言われ続ける毎日だったけど、そんな僕にもたった一つだけ楽しみがあった。何ヶ月も貯めたお小遣いで一人旅に出ることだ。泊まりがけで、自分の力だけで何もかもをやる。それを乗り切れば、僕は大きく生まれ変われる気がした。

 金銭的な余裕があるわけじゃないから、二泊三日に決めた。時刻表とガイドブックを買ってきて、あまり夏場でも混みそうもないマイナーで渋めの観光地を選ぶ。東京から新幹線で四つ目くらいの中途半端な位置で降り、さらに在来線へ乗り換え、着いた駅からペンキの剥げかけた古バスに三十分ほど揺られた。
 地元の郷土資料館が僕の第一目的地だった。ここにはかつて、ひなびた鉄道が通っていて、往時は二両のガソリンカーが走っていたらしい。僕の生まれるとっくの昔――昭和四十二年――に廃止されたんだけど、資料館には展示物があるという。

 まだ朝の十時過ぎだったが、気温はうなぎ登りに上がってゆく八月のとある月曜日のことだった。一日に五往復しかないバスの中では、二人のおばあさんが一番前の席に陣取り、良く聞き取れない方言で世間話をしていた。床が木で出来ている旧式のバスが十分ほど走ると、町は尽きて田園地帯になった。歩道も街灯もなくなり、正面の山並みが大きくなってくる。くすんだ窓ガラスを通して射し込んでくる直射日光はかなり暑かった。

 僕は妙にドキドキしながら回転字幕式の料金表示を見つめていた。鉄道の駅は時刻表を読めば簡単に調べられるが、地方の乗り合いバスの停留所は分からない。もちろん降りる所はメモして置いたが、いくつ目か予想できなかったから不安だった。景色もあまり目に入らず、リュックを膝の上に乗せ、目的のバス停のアナウンスが流れるのを今か今かと待ち焦がれていた。
 だからテープの女性の声が期待していた名前を呼び上げたとたん、僕は即座に〈降車〉ボタンを押すことが出来た。整理券っていうものを取り忘れてたから、運賃を支払う時に運転手ともめたけど、まあそれでも何とか順調に目的地へ着いたのだった。

 山を切り開いた中腹の、妙に広々とした――逆に言えば閑散として物寂しいバス転回場の片隅に、瓦葺きの郷土資料館はたたずんでいた。ガラガラに空いている駐車場が旅愁を誘う。

 僕は受付を覗いたが、もぬけの殻だった。不用心だなぁ。
 入口のドアは開いていて、掃除機の音が洩れ出してくる。営業日のプレートを確認すると定休日は火曜日で、事前に調べておいた通りだ。今日は月曜日だから、やっているはずだった。

 僕は恐る恐る訊ねた。
「すいませんが?」

 キュオーン。掃除機が吸い込む音。

 少し大声で僕は呼んだ。
「誰かいませんかー?」

 プフー。掃除機が何かを詰まらせる音。

 二、三回呼んでも、返事はなかった。
 諦めて帰ろうとすると、掃除機が鳴りやんだ。

 振り向くと、眼鏡をかけた背の低い老人が僕を見ていた。
 そして不思議そうにつぶやくのだった。
「あれま、お客さんかい?」


  5月19日− 


[虹あそび(2)]

(前回)

「やみ、だんご?」
 レイベルは耳を疑い、目を白黒させ、すぐに聞き返しました。
「そう。闇のお団子、闇団子だよ☆」
 都会っ子らしく片目をつぶったのは小さな魔女のナンナです。華奢(きゃしゃ)な肩の上で、インコのピロは首をかしげました。
「ぴぃー」
「闇って、大丈夫かしら……」
 レイベルは不安そうにうつむきました。魔女のカサラおばあさんのもとで修行中のナンナの魔法はけっこう無茶苦茶で、しかも無謀で、無鉄砲の物も多かったのです。見習い中だから失敗は仕方ないけれど、何よりも親友のナンナが危険な目に遭うことが、レイベルは気がかりでした。それでも出来るだけナンナを信頼したい気持ちもあり、心は千々の悩み事でいっぱいです。

 窓の向こうでは灰色の雲がほぐれ、思ったよりも強い春の光が降り注ぎます。レイベルのぬばたまの髪の毛は神秘的に輝きました。林の緑が鮮やかになり、水たまりは空を映します。

「光のスープに、闇のもとを溶かし込んで、ぐつぐつ煮るの。で、よーくこねて、力いっぱい固めれば、闇団子は出来上がりっ」
 考えに沈んでいるレイベルをよそに、ナンナは大きく動作をつけて説明しました。親友の不思議な話とあどけない笑顔は、いつもレイベルの興味をかき立てます。楽しい想像力を膨らませると、さっきまでの不安もどこへやら、続きを聞きたくなります。
「ナンナちゃん。闇団子は食べられるの?」

 黄金の髪の小柄な魔女は、すかさず左右に首を振りました。
「ううん、だめだめ。めちゃマズイよ」
「なーんだ」
 レイベルが残念そうに言うと、ナンナはしゃがみ込んで何やら手を組み合わせ、素早く立ち上がって投げる真似をしました。
「雪合戦みたいに、闇団子を思いっきり投げるわけ。そしたら、光の子たちは闇が嫌いだから、避けて曲がっちゃうの。上手く光を集めれば、かなり見やすい虹の橋が出来やすくなるよ☆」

「お団子を投げるなんて、良くないわ。食べ物ですもの」
 あくまでも真面目な村長さんの娘は驚いて目を丸くし、あわてて反論しました。ナンナは一瞬ひるみましたが、負けていません。どうしたら相手に分かってもらえるか、首をひねり、低くうなりながら一生懸命に考えました。やがてポンと手を打ちます。
「闇団子は食べ物じゃないよ! そう……泥の固まりみたいなものかな。ほんとにおいしくないし、誰も食べようとしないよー」
「ナンナちゃん……危なくないの?」
 一つ目の疑問は解決し、少しは気持ちも和らぎましたが、レイベルはなお慎重に訊ねました。ナンナの話は面白いのですが、今までが今までだったので、全ての不安は消えていません。
「レイっち、だいじょーぶだよ。今回はちゃんとした道具を使うから、いくらナンナの魔力が低くても、ぜんっぜん危なくないよ」
 ナンナは言い終わってから、くちびるを噛みました。自分が半人前だと認めるのは、我慢が出来ないほど悔しかったのです。
「それに、早くしないとチャンスが終わっちゃうよ。さあ行こ!」
「うん。わたし、ナンナちゃんを信じるわ!」
 決心したレイベルの顔は、明るく晴れ晴れとしています。
「……ありがと、レイっち」
 かすれた声で恥ずかしそうに、ナンナはささやくのでした。


  5月18日− 


[弔いの契り(15)]

(前回)

 大きな赤い花と小さな白い花は音楽という風の調べに乗って揺れ動き、黒い蜜蜂が花びらをくすぐる。手をつないで寄り添い、離れ、また近づく。曲の拍子に合わせて前進し、後ろに退き、靴を鳴らして右回りに左回り――そして清らかな微笑み。
 俺はいつしか仲間たちのダンスに見とれていた。一時は執事の申し出を断ったのを強烈に後悔したんだが、俺はすぐに踊りが苦手だったことを思い出し、これで良かったんだと納得するしかなかった。それでも何となく腑に落ちなくて、俺だけ部外者のようで不安だった。一曲の時間が果てしなく感じ、焦っていた。

 リンたちの全身の動きが緩やかになってゆく。
 二組の男女は右手をつないだまま見つめ合った。やがて女は左手をゆっくり横に持ち上げてゆく――まるで鳥の羽のように。

 森を抜け、明るい草原に出たような変化が俺を襲った。
 曲の最後の残り香が、ホールの天井にふわり舞い上がる。
 その次に一瞬だけ響き渡ったのは、静寂という名の音符だ。

 花から鳥へと華麗に生まれ変わったリンとシェリアの姉妹は丁寧な仕草でしなやかに左腕を下ろし、腰を少し落とし、スカートの裾を軽く持って挨拶した。タックとルーグはダンスの相手の右手を握りしめたまま紳士的に首を曲げ、返礼の会釈をする。

「ワァァ!」「オオ!」
 村人からどっと歓声が沸いた。さっきまで曇り空のように沈んでいた暗い参加者たちは、俺の仲間のダンスで目を醒ましたかのように、打って変わった明るい瞳と暖かな雰囲気で拍手喝采を送った。何だよ、こういう雰囲気だって出せるんじゃねえか。
 で、その渦の中心には――。
 顔を紅潮させて立ち尽くすのはルーグの大将だ。シェリアは堂々と胸を張って艶やかな美貌を見せつけ、タックはすました顔をし、リンは喜びにあふれ、はにかんだ微笑みを浮かべる。

 台の上の演奏者がまで拍手してるから次の曲は始まらない。その間に村人たちの何人かは二人組を作り、少し恥ずかしそうにホールの真ん中へ駆けだした。元々の参加者が偏ってる影響で〈若すぎる男と年増の女〉っていうペアが多かったけどな。

 その時。
 後ろの方からパン、パン、という乾いた音がした。
 刹那、華やかな雰囲気に水を差すどころか、雷のように急激な緊張感が辺りに突き刺さった。誰の拍手かは分かっている。

 振り向いた先にあったのは、男爵のゆがんだ笑い顔だった。


  5月17日△ 


[始まりの空に] 『♪』

 人はなぜ 夢を求めて
 争い 傷つけあう?
 ほんとの自分らしく
 いま 新しい日へ――
 


  5月16日− 


[虹あそび(1)]

「雨があがったわ」
 カーテンを開け、村長さんの娘で十二歳のレイベルは黒い瞳を輝かせ、窓の外を指さしました。北国のナルダ村では、草月(五月)半ばになっても朝方や夕暮れは冷えるのですが、さすがに雪は溶けて消え、美しい花と緑の季節がやって来ました。
 灰色の雲が割れて、その間からまばゆい光があふれます。
「よーっし、チャンス到来だね☆」
 ナルダ村の質のいい木で作った椅子に腰掛け、レイベルのお母さん――つまり村長夫人――がふかしてくれた熱い〈おいも〉をほおばっていたナンナは、腕をかかげて立ち上がりました。
 ここはレイベルの家、二人は学舎の同級生で大の仲良しなのです。転校生のナンナは背が低めで、可愛らしく下ろした豊かな金の巻き毛は太陽の糸で編んだかのような明るさでした。
 ナンナの着ている厚手の長袖ブラウスは春らしい桜色です。その右肩にちょこんと乗っているのは、淡雪のなごりではありません。真っ白い毛を持つ小さな賢いインコ、使い魔のピロです。
「ぴろ、ぴろ」
 ナンナが急に立ち上がったので、ピロは驚いて鳴きました。

「いったい、何のチャンスなの、ナンナちゃん?」
 窓のそばで振り向き、レイベルは軽い気持ちで訊ねました。
 すると、ナンナは満面の笑みを浮かべ、自信たっぷりです。
「レイっち、知ってる? こういう時、虹の橋が出やすいの☆」
「うん、知っているわ」
 博識なレイベルは興味深そうにうなずきました。さすがは村長さんの娘です――気品があり、とても落ち着いています。嫌みがなく、ひかえ目な性格で、ナルダ村の学舎の人気者です。レイベルは黒い髪をきれいに梳(くしけず)り、今日は後ろで結わえていました。赤茶色のロングスカートが良く似合っています。

「だから、虹の橋といっしょに遊べるチャンスだよ。えへへっ」
 ナンナは得意げに、そしてちょっと恥ずかしそうに、鼻の頭を指先でなぞりました。使い魔のピロは高らかな声で叫びます。
「ぴろちゃん、かわいい!」
「ピロは黙ってて。話がややこしくなるから」
 ナンナがほおを膨らませると、レイベルはなだめます。
「まあまあ、ナンナちゃん。ピロも悪気はないのよ、きっと」
 それから想像力を胸の中で膨らませ、本題に入ります。
「虹の橋と遊ぶって、どういうことなの?」

「ふっふっふっふっ、えっへっへっへっ……」
 うつむいたナンナは、ひどく妖しげに笑い始めました。
「ナンナちゃん、怖いわ」
 レイベルはのけぞって窓に寄りかかり、苦笑いをします。

 いたずらっ子のナンナは、ゆっくりと顔を上げてゆき――。
 人差し指をまっすぐに突き出して、決め台詞を言いました。
「魔女におまかせっ☆」

 そうです。ナンナは魔女の卵で、魔法が使えるのです!


  5月15日− 


[鏡と湖(3)]

(前回)

 スリッパを拾うと、僕はさっきまでの恐怖を忘れてひたすら徒労感を覚え、うつむきがちの姿勢で歩いていった。足は重たく、息は苦しい。肩は激しく上下し、顔の筋肉はひきつっていた。
 ズボンのポケットから取り出したルームキーをガチャガチャ回していると、ちょうど五往復目にドアを押せた。僕は出来るだけ細く開いて隙間に滑り込むと、振り向きざま内側から鍵をかけた。慎重に、というよりも〈やっつけ仕事〉だ。そしてノブを右に回し、左に回し、ドアを引いても決して開かないことを確認する。
 ――どうにか大丈夫みたいだ。

「はぁー」
 溜め息をつく――っていうより、魂が抜けていく感じだった。
 身体が一気に脱力し、僕は前傾姿勢で進んだ。最後には柔らかなベッドに倒れかかり、身を預ける。うつぶせのまま目を閉じ、しばらく息を殺していたが、耐えきれなくなって肺の空気を思いきり吐き出す。口の周りのシーツがじっとり湿っぽくなる。

「ふー」
 僕はベッドの上へ完全に這い上がり、仰向けに寝転がった。脇の下や額には汗をかいたんで気持ち悪いけど、どうにか人心地ついた気がする。すると今度は喉の乾きが気になり始める。
 横になったばっかりだったのに起きるのは嫌だったから、思いきり腕を伸ばしてナップサックを引き寄せ、ペットボトルのウーロン茶を取り出すことに成功した。買ってから時間が経ち、かなりぬるくなってるけど、何もないよりはましだと思うしかない。僕は結局、上半身だけ起こして、ウーロン茶の残りを飲み干した。

 縦に長く、何の飾りっけもない一人部屋を適当に眺める。左隅には小さなテーブルが設置され、お茶のパックとポットと湯飲みが備え付けられている。床は木張りだった。数世代前の、リモコンがなくチャンネルを回す方式の十四インチのテレビが置かれているが、お金を入れないと動かないようだった。僕が座っているベッドの脇には銀色のタオル掛けが立ち、枕元にはフロントへ通じる電話がある。向こうのハンガー掛けには幾つかの黒いハンガーがぶら下がっている。調度品と呼べるのは本当にその位で、小型冷蔵庫すらない。しかも湖のそばなのに、窓から見えないなんて変な造りだ。さすが安いだけのことはあるな。

 なぜ部屋から湖が見えないんだろう?
 ちなみに、隠された理由を僕はずっと後で知ることになるんだけど、当然ながらその時の僕には予想すら出来なかった――。


  5月14日− 


[鏡と湖(2)]

(前回)

 廊下の曲がり角の柱につかまってコンパスのように左へ回転し、片側に客室の並ぶ南向きの廊下に出ても、なりふり構わず僕は走り続けた。外の光はまだまだ明るいはずなのに、湖は低い嶺に囲まれた盆地にあり、日が陰るのは早かった。見かけだけ大きくて立派だけど、近づいてみると長い年月を経て糸がほつれるように時代遅れとなった宿は、その湖のほとりに建っている。たしかチェックインしたのは二時五十分だった――時間が中途半端すぎるのか、相変わらず人っ子一人見かけない。

 本当に恐ろしい話だった。お婆さんも不気味極まりなかったなぁ。ここには両親もいないし、頼れるのは誰もいない。この旅を決めたこと、この宿に決めたこと――あまりに色んな後悔が沸き起こったせいか、老婆の語った怪談を一時でも忘れられた。

 気ばかり焦っても身体はついて来ないから、何度もつんのめった。本当はそんなに長い廊下じゃないのに、壁は遙か遠く思えた。だめだ、こんな時だからこそ落ち着かなくちゃ、初めての一人旅を絶対に成功させるんだから――僕は自分に言い聞かせ、もつれる足を動かしつつ、少しだけ冷静さを取り戻した頭で次に何をすべきか考えた。そうだ、まずは部屋に帰らなきゃ。

 僕は湖から目を背け、部屋のプレートを食い入るように見つめながら、自分の番号を思い出していた。確か一一三号室だ。
「一一四……一一五……行き過ぎた?」
 慌てて急ブレーキをかける。反射的に手を前へ突き出し、廊下の果てに立ちはだかる非常口の赤い扉に身体ごとぶつからずに済んだ。唯一の犠牲となった手の平は痛かったけれど、膝を打ったり、鼻の頭をぶつけるよりは良かったはずだ。それに、誰も見てないけど、これ以上の醜態を防ぐことが出来たんだ!

 近くでセミの鳴き声が聞こえる。僕はほっと息をつく。
 そして反対向きに歩き始めたとたん、違和感に襲われた。
 足の裏が何故かベタベタして、妙に歩きやすい。さっき、急停止できたのは、そのお陰だろうか? 変なものを踏んだかな?
 僕は目線を下げていく。両脚は素足だった。
 そのまま焦点を元来た道に合わせる――。
 かなり向こうの方に、二足のスリッパがひっくり返っていた。


  5月13日− 


[お姫さま談義(4)]
 
(前回)

 ウピを不憫に思った――わけではないが、ルヴィルは歩きながら右手の拳をあごに乗せて、あっさりと話題を切り替えた。
「そういや、あの人……誰だっけ? 名前、ど忘れした」
「誰のこと?」
 友人のルヴィルよりも頭一つ分低いウピは、少しくすんだ色合いの金の前髪を揺らし、うろんそうに目を細めて相手を仰ぎ見た。ララシャを悪く言われたことが、未だ納得いかないようだ。
 ルヴィルは遠い記憶の隅を探ろうとして首をかしげたが、すぐには分かりそうにないと即断即決し、視線をレイナに向けた。
「あのさぁ、シルリナ王女の従姉妹か何かで、確か同い年よ」
「エトワゼル侯女……? ではないですよね?」
 問いかけられた眼鏡の少女は半信半疑の口調で応えた。いかに博識のレイナでも、外国の姫はさすがに専門外なのだ。彼女の知識は町の読み売りや図書館の資料など、いわゆる〈文献〉を元にしている。シルリナ王女などの重要人物であれば情報も入りやすいが、さすがに大貴族程度になると限界である。
「あの、何だっけ。ガルア公国だよ?」
 じれったそうに付け加えたルヴィルの一言が、レイナの表情をぱっと明るく変えた。彼女はおもむろに顔を上げ、返事をする。
「もしかして、レリザ公女でしょうか?」
 確かにレリザ公女はシルリナ王女の従姉妹に当たる人物であるが、むしろガルア公国第一公女として名を知られている。
「それそれ! さぁーっすがレイナ!」
 ルヴィルは指を鳴らして喝采したが、レイナの方は再び冷静な表情に戻り、しばらくは自らの考えに深く沈み込んでしまう。

「レリザ公女は、なんかバカっぽいよねぇ」
 突如、毒舌のルヴィルは身もフタもないことを言ってのけた。
「ぷっ」
 思わず吹き出したのは、珍しく沈黙しがちだったウピである。


  5月12日− 


[鏡と湖(1)]
 
昼の湖

「気に入ったかね」
「ヒッ!」
 僕は思わず飛び上がりそうになった。木の床を張り巡らした長く冷え切った廊下に響いたのは、しわがれた老婆の声だ。さっきまで、後ろに人がいる気配なんて全然なかったはずなのに。

 慌てて振り向く。
 幅の狭い廊下を隔てて、目の前に何かが浮かんでいる。
 頬の筋肉を強ばらせ、恐怖に顔をゆがめ、不健康な隈で縁取りされた黒い瞳を見開き、後ずさりしつつ僕の視線から逃げるべく目を逸らそうとする、十六、七歳ほどの臆病そうな男――。

 それは、鏡に映った、僕の、僕自身の、顔だった!

「ワァ!」
 僕は、今度は叫び声をあげて飛び退いた。お尻が壁にぶつかり、ずっしりと重い痛みが加わると、僕は突然の驚愕の連続に耐えきれず、すっかり身体の力が抜けてしまった。壁に寄り掛かるようにして情けなく腰を抜かし、口を開けたまま仰ぎ見る。
「わぁ……ゎぁ……ぁ……」
 僕の声の残響は、人気(ひとけ)がなく物寂しい廊下の奥の方まで殷々と響いていったが――突如、邪悪な生き物にでも食われたかのように天井へ吸い込まれ、あとは全く静まり返ってしまった。背中と首筋と腕に悪寒が走り、一斉に鳥肌が立つ。

 そこに立っていたのは、目が限りなく細い白髪のお婆さんであった。そういえば僕を部屋まで案内してくれた人じゃないか。
 高鳴る心臓を抑え、僕は少し落ち着きを取り戻して両脚に力を込めた。後ろの壁を支えに、少しよろめきながら立ち上がる。

「満月の晩、日が変わる頃、ここに立ってはいけないよ」
 老婆は何の前触れもなく、ひどく無機質な声で忠告した。あまり急に言われたもので意味をすぐに理解できなかったが、言葉の中身よりも先に、僕は瞬間的に再び嫌な寒気を感じていた。
「あ、あの……」
 僕は弱々しく腕を差し伸べた。

 すると小柄な老婆はニッと笑み、真似して腕を伸ばした。
 それから顎をしゃくり、彼女の上にある鏡を示した。さっき僕の顔が映し出された、複雑な彫刻のある古ぼけた楕円の鏡だ。
 今は穏やかに、窓の外の蒼い湖面を映している。

 老婆はぎこちなく手を下ろすと、僕に背を向けて歩き出した。
 それから数歩進んだところで、相手はゆっくりと振り返る。
 白い髪の毛が糸ミミズのように動き、皺とシミだらけの顔が現れる。両眼はやはり細い。どこにあるのか分からないくらいだ。

「鏡と湖が入れ替わって、あの女に引きずり込まれるからね」

「……っ」
 僕は思わず唾を飲み込んだ。腰の曲がった老婆はそれだけ言うと僕に興味を失くし、薄暗い廊下の果てに消えていった。

 長い廊下にはくすんだガラスをはめた和風の窓が並び、それほど大きくない湖を見渡せた。僕はさっきまで窓にかじりつき、頬杖をついて、何とはなしに呆然と湖を眺めていたのだった。

 風が吹き、窓の向こうに広がる湖の水面が波立った。射し込んでくる昼間の光がゆらいで、意思があるかのように乱れる。

「ウ……ワッ!」
 身体が硬直しそうになる刹那、僕はその場を逃げ出した。
 走ると、宿のスリッパがパタンパタンと虚しい音を響かせた。


  5月11日− 


[夜半過ぎ(12)]

(前回)

 父が右に回すと、ドアの取っ手は軽く鳴った。あまりに冷え切り、むしろ奇妙な熱っぽさを感じさせる耳が、その音を捉えた。
 手前に引くと、独特の〈ぎぃーっ〉という声を発して木のドアが挨拶をする。昼なら気にならないのに、夜の静けさは微かな囁きを増幅させる。とても不気味に響いたのでファルナは少し身を強ばらせた――が、やがて驚きに充ちた小さな叫びをあげる。
「あっ」
 ランプに照らされて、ドアの細い隙間が広がってゆくと、ひそやかに高まりつつあるシチューの香りは明確に膨らんだ。ドアのこちら側も向こう側も真っ暗闇で、まだ何も見えない。微妙に澱んでいる空気には煤の匂いも入り混じり、調理の際の暖が残っているのか、ほんの少しだけ冷気が緩んだように感じる。
 風が通り抜けた。父親が歩き出したのでファルナも後を追う。

 窓辺の調理台の上へ逆さに置いてある鉄製の小鍋が、ランプの光を受けて鈍い輝きを反射した。反対側の壁に沿って黒く続いている四角い塊は、ファルナの腰ほどの高さしかない頑丈な木の台だ。普段は両親が調理した料理の大皿や鍋を並べ、ファルナやシルキアが受け取って客席まで運ぶのだが、閑散期の冬場はあまり活躍する機会がない。台の下には低い丸椅子が数脚置かれ、それを引っ張り出せばセレニア家の面々が仕事の合間にちょっとした腹ごしらえを出来るようになっていた。

「暖炉に火を入れてくるわ」
 母のスザーヌはファルナの横をすり抜け、前に歩み出た。父は手際よく妻にランプを渡す。眩しい光の珠が遠ざかってゆく。
「ファルナはここで待っていなさい」
 父が静かに語りかけると、茶色の瞳の愛娘はうなずいた。
「うん」

 何かをこすり合わせる音が、しんと静まりかえる夜更けの厨房にこだました。暖炉のそばで母が火打ち金を摺っているようだ。やがて火花が散ると、馴れた手つきで火口(ほくち)箱に掬い取る。油を染み込ませた大鋸屑(おがくず)や、粉末状にした炭を混ぜ合わせ、火炎の魔力を帯びた高価な赤い粒をまぶしたもの――そこに火が移り、ほむらが立ちのぼって揺らめく。
 独特の焦げ臭さがファルナの嗅覚を刺激する頃、母の方は暖炉の薪の内側に火口箱を近づけていた。赤くなった木はやがて限界に達し、パチパチと鳴りながら最初は穏やかに、しだいに周りを巻き込みながら激しく燃え盛るのだろう。母は火口箱の小さな炎を吹き消してフタを閉めると、暖炉の近くにある台の上に置き、忘れずにランプを手にし、夫と娘の元へと引き返した。

 本格的に暖炉が稼働したわけではないが、それでも部屋の中はぼんやりと薄明るくなった。父のソルディがいよいよシチューの入った鍋に手を伸ばすと、ファルナの喉はごくりと鳴った。


  5月10日○ 


[春風に誘われて(7)]

(前回)

 いつしか洒落た飲食店は減り、街並みには立派な構えを持つ木造の問屋や倉庫が増え始める。荷馬車が行き交い、独特の動物臭さが漂っているが、レンガ作りの道は出来る限り綺麗に清掃されていた。青く澄む草原の空がしだいに拡がってくる。
 気のせいか、圧倒的な水の量がゆったりと流れる雅やかな、しかも新鮮で爽快な音が、微かに奏でられ始めた――白い雲を背景に天を滑る渡り鳥の、次の季節を告げる歌声と混じり合って。そよ吹く風は頬の産毛をくすぐり、心を解き放ってくれる。
「気持ちいいねー」
 内側から溢れ出す気持ちを、リンローナは言葉に乗せた。
「そうだな」
 ケレンスは適度に顔を引き締め、精悍な笑みを浮かべる。

 往来する商人で賑やかな表通りを離れ、細いけれども文化の薫り高き裏路地を、二人は歩いていた。道端や、白を基調とした家々の窓辺の鉢植えには春を謳歌する花たちが咲き誇っている。二十過ぎの女性を思わせる背の高い大柄の赤い花は演劇の主役のように華麗で力強く、白い花びらの中央に黄色の花粉を光らせて数株が寄り添うように咲いているのは可憐な少女、鮮やかな黄金は活発で明るく行動的な女性を思わせ、薄紫に銀の縁取りの花は艶やかで気高い貴婦人を想起させた。
 空気が動くと、彼女らは挨拶をするかのように首を垂れた。多種多様な形をした葉裏には油虫が這う。そして蝶はしなやかに舞い、蜜蜂の郵便屋はまめに花粉を運んだ。地面には蟻の行列と幾つもの巣穴が見える。気温は暖かく、甘い香りが漂う。

 T字路に差し掛かり、直進する道は尽きた。目の前に立ちはだかる草の生い茂る自然の土手を指さし、ケレンスは訊いた。
「昇ってみるか?」
「うん」
 リンローナはうなずいた。額はうっすらと汗ばんでいる。

 彼女がケレンスに手を引かれて急な斜面を登りきると、左側に流れてゆく〈母なる大河〉ラーヌ河の中流の豊かな川面が見えた。見えない雨のように降りそそぐ太陽の光は、終わりを知らぬ永遠の揺りかご――河の流れ――に捉えられ、弄ばれ、ちらちらと瞬いていた。深い蒼の川面は澄み、目を凝らせば魚まで覗けそうな気がする。さっきまでの町中と違って、視界は感動的なまでに広がり、遙か遠くまで見晴るかすことが出来た。
 滑らかな弧を描く石橋の下を小舟が通り過ぎる。流れの緩いラーヌ河は貨物を中心に船便も多く、定期の旅客船までも運行されている。海の船に比べれば子供のようなものだが、大量の輸送力は重宝されている。特に中流のセラーヌ町から河口の王都メラロールへ赴くには、馬車よりも速いし楽だ。それらの比較的見栄えのする船の合間を縫って、川釣りの小舟が行く。
 振り向けば、侯爵の居城に建つ石造りの尖塔が見える。ラーヌ河から引いた幾つもの用水路は苔むして歴史を感じさせ、その上に張り出すようにして大きさも形も様々な水車が並んでいる。水車の街、と異名を持つセラーヌを特徴づける眺めだった。
 河の向こうは彼方に続く草原で、青々と霞んでいる。視線の行き着く先は、未だに雪の冠をかぶった遠い山並みであった。

 その時。
 にわかに現れたすがすがしい風の一群れが背中を押し、リンローナの薄緑色の髪を逆立たせ、ワンピースの裾をはためかせた。散歩する二人の横を、彼らは脇目もふらずに留まることなく駆け抜けた。目的地を指してまっしぐら――とでも言いたげに、何の迷いもなく、誇りに充ちて。彼らの残り香を思いきり吸い込めば、この季節が秘めた生命力が直に身体へ注ぎ込まれる。

 彼らの背中を夢見るような視線で追っていたリンローナはふいに顔を上げ、いたずらっぽく微笑んでケレンスに声をかけた。
「思い切り走ったら、春風さんに追いつけるかな?」

「……やるかぁ?」
 ケレンスはその発言を馬鹿にするどころか、ニヤリと笑い、白い歯を見せた。リンローナの顔はさらに明るく元気に弾ける。
「うんっ」

 折しも、土手に茂る草のざわめきが聞こえてきた――確実に後ろの方から。ケレンスは振り向かず、正面を見据えて叫ぶ。
「行くぜッ!」
 聖術師の華奢な肩を軽くはたき、彼は威勢良く地を蹴った。
「あたしも!」
 リンローナも負けじと腕を振り、足を前へ前へと差し出す。

「はぁ、はぁ……」
 風景が迫り来る。息は苦しいが、鼓動のどよめきさえ快い。
 そろそろ夕暮れを感じさせる涼やかさの中、無駄なものが取り払われて透き通っていくような感じを味わいつつ、若い二人は走れなくなる限界まで走り続けるのだった。格好に囚われず、とにかく風に追いつこうという一念で、頭の中を空っぽにして。
 やがては疲れ果て、膝に手をついて休み、息が落ち着けば元来た道を辿るのだろう。宿へ戻って仲間と合流し、旬の野菜や川魚をふんだんに用いた地元の夕食に舌鼓を打つのだろう。
 だが、それはまだまだ先のことだ。

 春風をつかまえて、春風に乗って――春風に誘われて。
 暮れゆく川沿いの道を、全力で駆け抜ける二人だった。

(おわり)
 


  5月 9日− 


[春風に誘われて(6)]

(前回)

 針金の芯を隠すほど重層的に蔦(つた)が絡み合い、長い年月をかけて作り上げた弓形の緑門(アーチ)は、一つの国に根付く奥深い文化の象徴でもある。それを見上げつつ、金の髪を短く刈った少年が何となく手持ち無沙汰な様子で姿を現した。
 緑門の横にたたずんでいた小柄な少女は、連れのケレンスが支払いを終えて出てきたので、顔をもたげて口元を緩めた。
 その当人、十七歳のケレンスは顎をしゃくって先を促し、目で合図を送り、通りを大股で歩き始めた。リンローナも後を追う。

 ケレンスの服装は彼の性格を端的に示すが如く、かなり大雑把であった。少し汗臭さの残る綿製の橙色の開襟半袖シャツに、きつくも緩くもない焦げ茶色のズボンを履いている。本来は着るものにうるさいケレンスであるが、冒険者として旅の連続ともなるとそうもいかない。水分を吸収しやすく、それでいて乾きやすいもの、万が一の際には森や地面にカムフラージュできる色――背中の背負い袋の容量を考えれば、贅沢は言えない。
 それでも半袖の派手目の服は、彼にとっては町中を歩く時に使える、いわば〈晴れ着〉であった。旅の途中では、意外と半袖を着る機会がない。暑い時に肌を露出すれば日焼けがひどく、夜になると熱を持って水をかけただけでも滲みる始末なのだ。

 リンローナの方はズボンよりもスカートが似合う少女である。しかも丈が長いものを気に入っていた。それによって背の低さが隠されると信じているのではなかろうか――傍目にはそう思えるほど、彼女はロングスカートを割合と好んで着用していた。
 今日も、ワンピースと言ってしまってはあまりに地味な薄茶色の服を着て、せめて首周りに濃い碧のスカーフを巻いていた。肩の辺りで切りそろえた草色の髪の毛は丁寧に梳いてはいるが、特に髪飾りをつけるわけでもなく、そのまま下ろしている。
 派手好きな姉のシェリアと比較され、ケレンスには事あるごとに〈もっとオシャレに気を遣えよ〉と言われ続けている彼女であるが、あまり召かし込む必要性を感じないのだった。もともと清楚な可愛らしい容貌を持ち、肌は滑らかで化粧することもない。二十代後半以降の女性からすれば、うらやむべき若さである。

 その聖術師は歩幅が狭いので大股気味に、早歩きするケレンスの斜め左後ろで彼に追いつこうと懸命に足を出していた。
「待ってよ、ケレンス。さっきの請求の件だけど、あたしの方がケーキを注文したんだし、三ガイトくらい払えばいいかなぁ?」
 銀貨を三枚、手の平に載せて前に差し出そうとするリンローナを振り返りもせず、前を向いたまま少年はぶっきらぼうに言う。
「とっとけよ」
「え?」
 予想だにしない相手の応えに、リンローナは耳を疑った。

「でも……悪いよ」
 しばらく間を置いてから、真剣に意見を述べたのだが――。
「要らねえって言ってんだろが」
 タックの忠告をまともに受けたわけではなかったが、ケレンスは今さら請求するつもりはなかった。わざと低い声で威圧するように呟いたが、もしかしたらリンローナを不安にさせたかも知れないと即座に反省し、今度はなるべく感情を籠めずに語った。
「どうせ大した金額じゃあねえんだ」

 そうまで言われるとリンローナに敢えて反論する理由はなかった。ここはケレンスの顔を立てようと決め、話を受け容れる。
「ありがとう、ケレンス。あたし、おごってもらうのって初めてだよ! もちろん、お父さんとお母さんと親戚の人を除けばね」
「シェリアの姉御はケチだもんなぁ。ルーグは?」
 ケレンスは相変わらず前を向いて歩くに任せたまま、魔術師シェリアのしかめ面を思い描き、朗らかに笑いながら訊ねた。

 ところが、リンローナのいらえは予想だにせず曖昧であった。
「あ、ルーグなら、あるかも……」
「こいつめ。初めてじゃねえだろ!」
 ケレンスがようやく足を止め、振り返りざまにリンローナの額をこづくと、スカートの似合う小柄な少女はぺろりと舌を出した。
「えへ。ごめん……でも、ありがとう。ごちそうさまでした!」

 言われた剣術士の方は、歯痒いような、気恥ずかしいような――それでいて満足感を味わっており、軽くうなずくのだった。
「んンむ」


  5月 8日△ 


[春風に誘われて(5)]

(前回)

「お勘定、頼むぜ!」
「はい、ただいま」
 ケレンスが手を挙げると、入口の近くに立っていた若い女給仕が気付いて、小走りに駆けてきた。金の髪を結わえ、白と薄茶で統一された清潔感のあるブラウスとスカートを着ている。
 彼女は背が高く、ほっそりとして色白、しかも彫りの深い顔立ちというノーン族の特徴を見事に体現していた。手際良くケーキの皿と空いたグラスを確認すると、リンローナを視界の片隅に置きつつ、主にケレンスの様子を伺いながら請求額を告げる。
「しめて四ガイト五十レックになります」

 ケレンスはズボンの後ろポケットに手を伸ばして使い古した革の小銭入れを引っ張り出し、中身を改めた。指で円を描くように動かせば、一ガイト銀貨と十レック銅貨がジャラジャラと鳴る。

「ん?」
 突如、剣術士は目を光らせ、不審そうに財布の奥を覗いた。
「何だこりゃ」
 正確に四つ折りされた紙のようなものが、銅貨の間に垣間見える。全く覚えが無いため、彼は急いでつまみ上げ、開いた。
 その横ではリンローナが丁寧な口調で給仕に頼んでいる。
「別々のお会計、お願いできますか?」
「承りまして御座います」

 一方、文面を目にしたケレンスの顔は愕然とした驚きと、あっさり行動を予想された悔しさ、そして他人の財布を勝手にいじられた怒りによって、あっという間にしかめ面を火照らせていた。
「あんにゃろ……」


『君が紳士ならば、
 年下のお嬢さんには
 おごるべきですよ』


 ――それが小さな紙に記された文面の全てであった。
 細やかな筆致は、幼なじみの腐れ縁、タックに間違いない。

「どうしたの?」
 聞き慣れた声で我に返ると、澄みきった翠玉を思わせる草色の瞳が不思議そうにケレンスを見上げていた。その横では、勘定に来た給仕が盆を持ったまま所在なげに立ちすくんでいる。
 ケレンスはとっさに紙を丸め、無造作に財布へ押し込んだ。

 それから勢いに任せ、背の低い聖術師に言うのだった。
「リン、先に行ってろ。まとめて払っとくから」
「え? ……うん、わかった。入口で待ってるね」
 リンローナは話をややこしくしないため、敢えて突っかかったりせず、賢くも健気に同意した。簡単に盗まれないよう、肩紐だけがやたらと太く頑丈な造りになっている実用的な布の鞄――安物にしては長持ちする――を肩にかけ、聖術師は歩き出した。

「ご一緒でよろしいですか?」
 給仕の女性が訊ねる。ケレンスは財布から四枚の銀貨と五枚の銅貨を取り出すと、テーブルに並べ、口に出して数えた。
「……三、四、五。合ってるだろ?」
「ちょうどお預かりいたします。ありがとうございました!」
 盆を抱えたまま、ノーン族の女給仕は頭を下げるのだった。


  5月 7日○ 


[春風に誘われて(4)]

(前回)

「そん時、やっこさんが飛び出してきてな……悪ガキめーって怒鳴って、わめいて、腕を振り回してさ。あんまし怒ったもんだから前しか見えてねえ。で、俺が横から飛び出してって、ちょいと足をかけたわけ。したら、あっけなくつんのめってズデーン! だ」
「ふふふっ。ひどいんだからぁ。ふふっ」
 言葉とは裏腹に、リンローナのお腹は小刻みに痙攣している。普段は清楚な微笑みを心がける彼女でも、そろそろ湧き上がる可笑しさに耐えきれなくなっていた。襲いかかる渦に対抗しようにも想像は止まらず、頬は緩みきり、整った顔は崩れる。
 ケレンスはもっともらしく腕組みし、さらに追い打ちをかけた。
「あの情けない姿ったらないぜ、見せてやりたかったなぁ」
「うぷ、あは、あはははっ……ひー」
 しまいにはリンローナは背中を丸めてうつむき、ひとしきり彼女の周りにいちだんと明るく華やかな空気を振りまいていた。

 ケレンスは誇らしげに十五歳の異国の少女を見守っている。彼は昔話を適当に脚色し、物語のような筋をつけて話すことが得意だった。幼なじみのタックは交渉事を得意とするが、それとはまた別の方向性の話術であろう。幸い、ケレンスの母国語のノーン語と、リンローナの母国語のウエスタル語は言語学上で見ても非常に近しい関係にあり、文法はもちろんのこと、似たような単語も多いため、日常会話程度ならば特に不自由しない。

「あー苦しい!」
 残っていた僅かな水煎れ紅茶を飲み干して、そのぬるさに気づき、リンローナは時間が経ったことを悟った。心臓はまだ高鳴っているが、霧が晴れてゆくように、頭の中は急速に冷静さを取り戻していった。薄緑の瞳の少女はゆっくりとグラスを置く。
 そして、やや名残惜しそうに、落ち着いた声で呟くのだった。
「ずいぶん、光の具合が変わったね」

 話は尽きぬ。楽しい夢が醒めるのに似た物足りなさを味わいつつ、ケレンスはきょとんとした顔でカフェのテラスを見回した。
 午前中は陽射しが直接射し込む喫茶店の庭だったけれども、いつしか光源は移動し、今は大きなニレの樹の日陰に入っていた。夕方にはまだまだ早いけれど、一日の中で最も暑い頃は終わりかけ、北国の春の風は爽やかに吹き抜ける。テラスの客はほとんど入れ替わっており――二人の飲み物も尽きた。

「んー」
 今さらながら喋り疲れたのか、ケレンスは大きく伸びをする。
 それから相手の雰囲気を感じ取って、やむを得ず訊ねる。
「そろそろ……行くか?」
「うん」
 リンローナが同意すると、ケレンスは動くのが億劫だという自分勝手なワガママを内にしまい、一気に立ち上がるのだった。
「ずいぶん話したもんな。よし、行こうぜ」


  5月 6日− 


[春風に誘われて(3)]

(前回)

「そうだ。ケレンスも食べる?」
 とろーりとろけるような甘い蜂蜜のケーキは、貴婦人の気品さえ漂わせる。そのひとかけにフォークを添え、藍色の花の模様入りの白い皿を両側から支えて、リンローナは真向かいの若い剣術士に示した。疑いを知らぬ、とびっきりの笑顔と一緒に。
「おいしいよ! 無理には薦めないけどね」
 彼女が手を引っ込めようとしたとたん、ケレンスは持ち前の反射神経を遺憾なく発揮して、相手の皿をひょいと横に奪った。
「んじゃ、もらっとく」
 彼としては珍しく、ケレンスは少しうつむきがちに応えた。頭の中では、何となくこの場に居づらいような気恥ずかしさと、それでいて話を続けたい矛盾した感情に加え、カッコいいところを主張したいという見栄が交錯する。そんな彼から発せられる普段と違う妙な雰囲気を捉えて、リンローナは何か言おうとしたが結局は口をつぐむ。十五歳の少女は〈ケレンス、馴れないカフェで緊張してるのかなぁ〉という都合の良い解釈に至ったのだ。

 その間にケレンスの方はフォークを握り、有り余る力で突き刺し、やや崩れかけたケーキの切れ端を恐る恐る持ち上げた。
 かけらを上目遣いに仰いで顎を下げ、勢い良く放り込む。多少がさつなケレンスの行動に、リンローナはもはや慣れっこになっているので、一瞬だけ驚きの表情を浮かべただけだ。それより今は、お薦めのケーキが相手に認められるかを知りたかった。

「んぐ……んぐ」
 頬と歯を動かすや否や、ケレンスの舌の内側には真っ先に独特の蜜の甘さが拡がっていく。少し遅れて、ケーキに垂らした月光実(レモン)の酸っぱさが味覚を刺激し、唾液が溢れる。

「どう、かな?」
 草色の瞳を見開き、リンローナが両手の間に顔を挟んで頬杖をつき、期待に満ちた問いを投げかける。わざと眼差しを合わせないよう、十七歳の剣術士はまぶしそうに目を細めて斜め上に視線を送っていたが、ケーキのひとかけを飲み込んで彼の手には似合わぬ小さなフォークを口から出し、皿ごとリンローナに差し出しながら、反対の手で鼻の頭をこすりつつ感想を洩らす。
「まあまあじゃねえか」
「よかった。ケレンスもこういうの、嫌いじゃないんだね」
 聖術師は安心して呟いた。それを見ていたケレンスの方は何やら腕組みしていたが、やがて不器用な口調で付け加える。
「たぶん」
「たぶん?」
「たぶん、リンのケーキの方が、おそらく……うめえと思うぜ」

 わずかの後に――。
「ほんと?」
 無邪気で無防備な笑みが目の前で弾ける。彼女は言った。
「ありがとう! あたしので良ければ、また今度、作るね。道具がないから、なかなか難しいけど、宿の人に借りられたらね」
「ああ、頼むぜ」
 ケレンスの方も、今度はちょっとだけ素直にうなずいた。


  5月 5日− 


[天空機関車]四コマ漫画

(起)
 連休もあっという間に終わりの五月五日、暑い初夏の休日でした。カーテンを開き、窓を網戸にしても、全く風がありません。せっかくの端午の節句なのに、鯉のぼりは沈んだままです。

(承)
 小学二年生の達弥は、窓際に寝そべって電車の本を読んでいました。開いたページには、重い貨物列車を引っ張る電気機関車の写真が載っています。やがて、達弥はひらめきました。
「これだ!」

(転)
 達弥は弟と一緒にお願いして、駅前のデパートに連れて行ってもらいました。連休の最終日とあって、一階の入口は大混雑です。宣伝用の赤いアドバルーンが屋上に浮かんでいます。

(結)
 その夜のことです。
 近所の家の鯉のぼりは落ちているのに、達弥の家の鯉のぼりだけは身体を伸ばし、高らかと天を目指して泳いでいます。
 達弥は声を弾ませ、窓から顔を出して言いました。
「天空機関車、大成功だ!」

 鯉のぼりの先端には二つの風船がくっつき、空の魚を釣り上げています。もちろんデパートの名前入りの、赤い風船でした。
 

《絵コンテ》
(起)五月五日の字。太陽光に射られ、風無く、沈む鯉のぼり。
(承)達弥の後ろ頭と、本の電気機関車のアップ。「これだ!」
(転)混雑するデパート全景。屋上にはアドバルーン。
(結)辺りは夜。窓から顔を出し、瞳を輝かせて「天空機関車、大成功だ!」と叫ぶ達弥、そして弟。二つの風船が鯉のぼりの頭を牽引し、空へ持ち上げる図。風船はデパートの名前入り。
 


  5月 4日△ 


[春風に誘われて(2)]

(前回)

 つまらぬ雑用の仕事が片づき、今日は冒険者の休日だ。宿屋で朝食を摂ったあと、庭の花を見ていたリンローナが部屋に戻ると、姉のシェリアの姿はなかった。男部屋にいるのかと思って軽くノックをすると、面倒くさそうなケレンスの返事があった。
「入れよ」
 ドアを開けたリンローナは部屋を見回し、拍子抜けする。
「あれ、ケレンス……だけ?」
 シェリアはおろか、リーダーのルーグもタックも居ない。

「俺だけじゃ不満かよ。悪かったな」
 ケレンスが口を尖らすと、リンローナは自分の非を認める。
「ごめんね、言い方が悪かった。別にそういう意味じゃないよ。お姉ちゃん、どこに行ったのかと思って探してたんだけど……」
 横になっていたベッドから身を起こし、ケレンスは応える。
「シェリアの姉御なら、ルーグと出かけたぜ」
「そうなんだ……タックは?」
 リンローナは普通に訊いたが、相手の返事には棘があった。
「いつもの、定例報告だとさ」
 王国諜報員のタックは、町に着くと定期的に指定の酒場へ顔を出し、密かに情報交換する。その間の彼の行動を追及するのは仲間内でも一種の禁忌になっている。誰にでも秘密はある。

「ふーん。そっかぁ」
 間を置いて、リンローナはうなずく。そのまま何となく立ち去りがたい様子でその場に立っていたが、春の爽やかな風が窓の方に吹き抜けると、一歩前に歩み出て後ろ手にドアを閉めた。
 壁際とケレンスの上に視線を彷徨わせ、彼女は訊ねる。
「邪魔しないから、ここにいても、いい?」
 ケレンスは蒼い瞳を細めて、ベッドの淵に腰掛けたまま、上目遣いに背の低い少女を見上げた。それから腕組みし、応える。
「どーぞ、御勝手に」
「ありがとう。ちょっと本を取ってくるね」
 ほっとしたような口調で胸をなで下ろすリンローナは、再びドアを開けて廊下に出る。間隔の短い足音が遠ざかっていった。

「失礼しまーす」
 丁寧なリンローナは、もう一度、ノックをして部屋に入った。
 片隅の木の床にちょこんと腰を下ろし、壁に寄りかかってワンピースの両膝を横に曲げ、十五の少女らしく〈横座り〉をした。
 そうして古びた聖術の書物のページを繰るリンローナに、朝の光を背景に窓辺でたたずむケレンスが不器用に呼びかける。
「おいリン。暇なら……散歩にでも行くか?」
「えっ?」
 急に話しかけられて驚いたリンローナは、本を開いたまま顔を上げた。ケレンスの金の前髪が輝き、春の風にそよいでいる。
「お散歩? うん、いいよ」
 少女はぱたんと書物を閉じ、腕をついて立ち上がった。
 ケレンスは平静さを装った顔をし、大股でドアの方に歩き始める。その口元は嬉しさにほころび、本当の意思を顕していた。
「じゃあ、行こうぜ」


  5月 3日○ 


[春風に誘われて(1)]

「なんで女っつーのは、甘い物が好きなんだろうな」
 頬杖をつき、ケレンスは蜂蜜のケーキを見つめてかったるそうに言った。溜め息混じりの口調は諦めているようにも思える。
「だって、美味しいんだもん……いっただきまーす!」
 向かいの席のリンローナは略式の祈りを済ませ、いよいよフォークを持ち上げた。緑色の澄んだ瞳が期待に満ちて拡がった。
「あいあい。どーぞ召し上がれ」
 ケレンスの方は短い金髪の後ろ頭で手を組み、白く塗られたおしゃれな木の椅子の背もたれに体重をかけた。いかにもリンローナに興味がなさそうな態度を取り、眩しい青空をあおぐ。

 低い垣根を挟んで、レンガの通りを人々が行き過ぎる。ここはラーヌ三大候都の一つ、草原のセラーヌ町のカフェであった。
 ケレンスの前には冷えた〈月光水〉が置かれていた。月光実(レモン)の薄切りを浮かべた微炭酸の飲み物で、さっぱりとした味わいはいつの時代でも若者に人気のある、定番商品だ。
「そんなもん食ったら、豚みたいに太るぜ」
 わざと相手を挑発するようなことをケレンスは言った――と同時に自分の発言を後悔する。もしかしたらリンローナの興味がケーキに注がれていることに妬いているのかも知れなかった。

 リンローナは滅多なことでは怒らない。器用な手つきで蜂蜜のケーキを小分けにし、清楚に口へ運んでいたが、小さな手提げ鞄から布を取り出して口元を拭き、冷静に応えるのだった。
「大丈夫だよ。あたしの家系、みんな痩せてるから」
 草色の髪の毛は肩の辺りで切り揃えている。薄茶色の半袖の花柄ワンピースの上に、七分袖の焦げ茶の春物の上着を羽織っているのは確かに地味ではあったが、品質自体は良い物を選んでいるリンローナだった。若い肌は艶々と輝いている。
 彼女の前には、ケーキ皿の他に、水煎れ紅茶のグラスも置かれていた。砂糖一かけ、ミルク少々を入れるのが好みである。


  5月 2日− 


[メロウ修行場(2)]

(前回)

「モゴ、モゴ……」
 セリュイーナの横で食事を摂っていた別の女性が、師匠の方を向いて苦しげに顔をしかめ、素早い動作で口元を抑えた。その頬は膨らみきって、今にも破裂しそうである。彼女は目下のところセリュイーナ師匠の一番弟子、十九のユイランである。
 師匠の方はあきれ顔で、率直な忠告を与えた。
「あんた、めし食ってから喋んなよ……」

 対するユイランの瞳は白黒し、後ろで簡単に束ねた闇色の艶やかな髪は前後に揺れ動いている――彼女が胸板を激しく叩いたからだ。それから目を閉じ、一気に食べ物を飲み込んだ。
「ごくっ」
 喉が鳴り、周りの女弟子からもユイランに注目が集まった。その当人は一瞬うつむくが、すぐ好奇心に負けて師匠に訊ねる。
「その情報を持ってきたのは、誰なんすか?」
 率直な言い方で訊くと、セリュイーナもあっさりと応える。
「もちろん、おやっさんよ」

 この修行場で〈おやっさん〉と言えばメロウ氏のことだ。
 氏は地元の有力者でもあり、軍事力が弱い辺境のトズピアン公国から重宝されている。マツケ町で異変が起きた場合、麾下の武術家たちを治安維持のため出動させる密約の代わりに、メロウ島への干渉の排除と、公国主導による報奨金付きの闘技大会の開催を要請している。異民族支配によるトズピアン公国が成立する前から島を守ってきたメロウ家の末裔であり、したたかな政治的手腕もある人物だが、それも全ては武道家たちが修行しやすく実力を発揮できる環境を作り上げるためである。
 利用できる物は利用する。ただし公国側からの爵位授与の話は断り続け、権力には属さない――セリュイーナが安心して後進の育成に励むことが出来るのも、影となり日なたとなって面倒な調整を一手に担う〈おやっさん〉の努力のお陰であった。

 最近のメロウ氏は、公都マツケ町に長く詰める機会が増え、トズピアン公国上層部と武術大会などの打ち合わせを行うことが多い。辺鄙で国力が低いとは言うものの、支配者層ともなるとそれなりに他国の情報も入ってくる。正確かどうかはともかく。
 一般的に民衆の情報網は弱く、他国の情報どころか、自分の国の動静さえ詳しく分からないのが現状である。特に大陸の北東に位置するトズピアン公国だから尚更だ。それなのにセリュイーナやユイランという辺鄙な上にも離島に居住する若者たちが、遙か遠い南国ミザリアの王女や武術大会の内容を知り得たのは、ひとえに〈おやっさん〉の情報収集力の賜物であろう。


  5月 1日− 


[初夏]

 花の季節に別れを告げて

 碧の野原を疾駆する

 若き駿馬はたてがみ凛々し

 乾いた風になびかせて

 命たゆたう光と影の

 颯爽と往く五つ目の月
 






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