2003年 6月

 
前月 幻想断片 次月

2003年 6月の幻想断片です。

曜日

気分

 

×



  6月30日− 


[買い物日和]

 整備されたレンガの路は掃除が行き届き、傾き始めた陽の輝きを受けて鈍く輝いている。洗練された印象を与え、しかも活気のあるセラーヌ町の商店街で、今日も老若男女の商人(あきんど)たちは精を出している。威勢の良い――それでいて、どこかおっとりした独特の掛け声が飛び交い、通りを賑わせていた。
 空はからっと晴れ上がり、白いちぎれ雲が流れていた。青空のまぶしさは和らぎ、清々しい風が肩の辺りをかすめて走る。
「へーえ、いろんなものを売ってるんだな……」
 呟いたのは十七歳のケレンスだ。赤や緑の野菜を並べたり、木で作った水槽に入れて川魚を売ったり、焼いた羊肉を並べて笑う太った店主の肉屋など――パンや調味料と言った食用品が主であるが、中には生活物資全般を扱う雑貨屋、気難しい鍛冶屋、何やら怪しげな魔法の書物が並ぶ古書店、擦り傷・切り傷から風邪や腹痛、食あたり、発熱に至るまで何でもござれの薬屋、仕立屋、床屋、エトセトラ――専門分野は多岐に渡る。

「おじさん。これ三つ買うから……5ガイトはどうかなぁ?」
 リンローナは小首をかしげ、口元をゆるめて上目遣いに問いかけた。大きな薄緑の瞬かせ、売り主の真意を探ろうとする。

 彼女の出身地である〈南ルデリア共和国〉は商人の国だ。そこでは値引交渉は当然であり、浅ましいなどとは思われない。むしろ交渉をしないと変に思われたり、だまされて安物を高く売りつけられたりする――それは客と売り主との真剣勝負の場。
 ただ、今二人が立ち寄っているのは実直なお国柄の〈メラロール王国〉だ。銀色の口ひげを生やした老商人は腕組みする。
「うーん……そうだのぅ」
「じゃ、これも買うから、お願い!」
 あと一押しで行けると確信した少女は追い打ちをかけた。その勢いと気迫に負けたのか、老店主はやがて相好を崩した。
「ハ、ハ、ハッ。お嬢さんにはかなわないな。よし、売ろう!」
「おじさん、ありがとう!」
 リンローナは心からの笑顔で、相手の決断に感謝を示した。

「ありがとよー」
 いつしかリンローナのペースに巻き込まれてしまった店主は、さも愉快そうに客を送り出した。リンローナも素直に手を振る。
「またねー」
 桶や固形の洗剤など数々の日用消耗品、鈴や硬い草で編んだ籠が店の前の棚に並ぶ。それらの影がしだいに長くなった。

 大きな皮袋をぶら下げ、荷物持ち役のケレンスがふと呟く。
「たまには買い物もいいもんだな」
「いつもいつもだと、大変なんだよー。あたしは好きだけどね」
 着る物には余り興味を持たないリンローナでも、食料品の買い込みとなると、がぜんやる気だ。彼女は料理が得意である。
 八百屋の売り物に、まれに蠅が行き交い、店主たちは柄の長い道具で追い払っている。値段を書き換えている魚屋がいる。

 いよいよ赤く燃え立つ夕陽の粉が通りを染めていた。今夜の宿は自炊が可能であり、道具も揃っている。久しぶりに料理の腕を存分に奮えると、期待に胸ときめかすリンローナであった。
 


  6月28日− 


[始まり]

「あんた、冒険者になるって意味、わかってんの?」
 十八歳の姉は呆れ果てて叫んだ。ここはモニモニ町のとある屋敷の居間であった。四角いテーブルを囲んで、父、長女、次女の三人が腰掛けている。テーブルの脇には若くして亡くなった美しい母の似顔絵が小さく飾られ、その場を見守っていた。

「……」
 船長の父は苦しげな表情で、下を向いて押し黙っている。
 その時、必死の形相で口を開いたのは十四歳の妹だった。
「お姉ちゃん、あたしにだって想像力はあるよ。全部は分からないし、ちっとも楽だとは思ってないけど、それでも、あたし……」
「分からず屋! いつから、あんたはそんなになったわけ?」
 姉は身を乗り出し、目を見開き、相手を脅すように言った。彼女としては、自分と恋人との旅を邪魔されたくなかったのだ。
「お父さんのこと、しっかり考えてんの? 私が出てくだけじゃなくて、あんたまで出てったら……それに学院はどーすんの?」

 姉の追及はある意味当然であったし、予想の範囲内だった。妹は一瞬たじろぐが、自らの決意に従って、体勢を立て直す。
「もちろん、お父さんのことは悪いと思ってるよ。でも、あたしの直観が、今しか無いって告げてるの! どんなに辛くても、旅に出なきゃいけないんだって……あたしのワガママ、今回は分かってもらたいんだ。悪いけど、学院は休学にしてもらって……」
「何のたわごとを言ってんのよ。これまで学院の学費、誰が払ったと思ってんの? お父さんが貿易船を率いて、世界を……」
 姉は紫色の瞳で睨み、きつく唇を結び、四つ下の妹に迫る。

 それでも、ここが正念場とばかり、妹も引かないのだった。
「分かってる。そんなのは、あたしだって分かってるよ。でも、分かんない……あたしだって分かってるし、なのに旅に出たい気持ちは止まらないんだもん。分かんないよ、分かるけど、分かんない! だって、どんな困難があろうとも、やってみたいの!」
 その気迫に押されて、姉は驚き、まじまじと妹を見つめた。いつも穏やかで、家庭的で、姉に対しても反抗することの無かった妹の初めての〈反乱〉に、どう対応すべきか戸惑っていた。

 鼓動が痛いほどの、緊張の刹那の刻が流れ……。
 次に重々しく言葉を発したのは、黙っていた父であった。彼はゆっくりと顔を上げ、次女の薄緑色の瞳と視線を合わせ、苦しげに――けれども決然とした大人の言葉遣いで応えるのだった。

「君の意志は分かったよ、リンローナ。思う存分やりなさい」
「お父さん……」
 感じやすい妹は瞳を潤ませ、憤懣やる方ない姉は怒鳴った。
「お父さん! それでいいの?」
「ああ。旅というのは私の生活と似たようなものだ。その想いとて、私の血を確かに引いたという証拠だろう。行きなさい、リンローナ。ただし、自分で決めたことを、後悔してはいけないよ」

 乾いた夜風が薄いレースのカーテンを撫でて、行き過ぎる。
「うん……あたしのワガママ、聞いてくれて、お父さん……」
 後は言葉にならなかった。妹は泣き崩れ、両眼を手で覆う。
 姉だけが一人、腕組みし、苦々しい顔で宙を見つめていた。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 ――それすら、今となっては一年も前の出来事である。
 


  6月20日○ 


[森の朝]

 とつ……ぽて……とつ……ぽて……。
 雨とは異なる、気まぐれで小さなメロディが生まれていた。
 それは朝露の群れが、三角テントの屋根側を打つ響きだ。

「……ん?」
 熟睡から醒める時に特有の、素晴らしい寝起きだった。身体の疲れは取れていて、何だか軽いし、頭は急速に冴えてくる。
「んー」
 窮屈な寝袋から這いだし、狭いテントの中で可能な限り伸びをする。足下では仲間の一人が寝息を立てているので、出来るだけ音を立てず慎重に歩き、近くに放ってあった薄手の夏物の上着を拾って羽織った。見下ろせば、三つ並んでいる寝袋のうち、彼のものだけでなく、残りの一つも既にもぬけの殻だった。

 昼間とは打って変わり、空気はひんやりと涼しく、肌を撫でるように動いている。鳥たちの高らかな挨拶があちらこちらで交わされている。それは日の出が近いことを明白に知らせていた。

 靴を適当につっかけ、テントの裾をめくって開き、寝癖で乱れることもない金の短い髪を無造作に掻き上げ、彼は外に出る。
 空気は全体的に湿り気を帯び、草木と土の匂いにあふれていた。思わず背中に鳥肌が立つ――あまりの清々しさと、自然の驚異に対して。また鬱蒼と茂る森の中で、陽の光はほとんど差し込まないが、中には枝先の合間をかいくぐって届く線もある。
 うっすらと流れ漂う乳白色の霧に輪郭をぼやけさせ、細い光の道筋は短時間に驚くほど不思議で魅惑的な変化を遂げる。

「お早う。ケレンス」
 テントから出てきたケレンスのの気配を察し、向こうの焚き火の跡地――煤だらけの薪が積み重なっている――のそばに座って剣を研いでいる銀の髪の男が振り向いた。優しげな目の下にはクマができている。彼はルーグ・レンフィス、メラロール王国の騎士を志望し、この冒険者の一団のリーダーを務めている。

「早えな。シェリアは?」
 ケレンスが訊ねたのは見張りの件である。この夜はルーグとシェリアが交替で見張りをするはずだった。夜半過ぎまでがルーグ、それ以降が女魔術師のシェリアのはずだったが――。

「あの通りだ」
 ルーグは腕を掲げ、もう一つのさらに小さなテントを指さした。それはシェリアとリンローナの姉妹が休んでいるテントである。
「彼女を悪く思わないでくれ。体調の芳しくない時期なんだ」
 同郷のルーグとシェリアが前から付き合っている、というのは冒険者仲間の皆に知れ渡った暗黙の了解である。のろけ話とも受け取れたケレンスは苦笑し、真面目なルーグに忠告する。
「まー、俺が迷惑したんじゃねえから構わねえけど、あんま無理すんなよな。ルーグに倒れられちゃ、俺たち、何の決断も出来ねえんだからな。別にプレッシャーかけるわけじゃねえけどさ」
 ケレンスはその場にたたずんだまま、靴の爪先で地面をせわしなく叩く。銀の髪の戦士は少しうなだれ、間を空けて応えた。
「ああ。有り難う」

 その刹那、二人は同時に振り返った。
 別の仲間の気配を感じたからだ。
「おはよー」
 肩の辺りで切り揃えた草色の髪が良く似合っている十五歳の小柄な聖術師、リンローナが薄緑色の瞳をこすりつつ現れた。
「おはよう、リンローナ。よく眠れたか?」
 口数が少なく彫りの深い顔立ちのルーグは朴訥に訊いた。
「うん、お陰様で、ぐっすり休めたよ」
 リンローナは表情を曇らせた。彼女の隣の寝袋で、姉のシェリアは夜の見張りも務めぬまま未だに眠りを貪っていたからだ。
「リンも起きたか」
 呟いたのはケレンスだ。無表情を装うが口元は緩んでいる。
「よっしゃ、じゃあ後はリンに任せて、水汲み行こーぜ」
 しゃがんでいるルーグの肩を、ケレンスは急に引っぱたく。
「ああ、そうだな」
 ルーグは剣を鞘に収め、勢いをつけて立ち上がった。リンローナは大きく澄んだ特徴的な瞳を瞬きさせ、無邪気に微笑んだ。
「じゃあ、あたし、ここで待ってるね」

 二人の青年を押し出すかのように、爽快な風が吹き過ぎる。
「よーっしゃ、行こうぜ」
「ああ」
 ケレンスとルーグは旅用の桶を持ち、まぶしい朝の光の中で談笑しながら、足取りも軽やかに出発していった。頼れる二人の後ろ姿を、リンローナはいつまでも誇らしげに見守っていた。
 


  6月19日○ 


[お姫さま談義(7)]

(前回)

 道幅が広がり、南国の乾いた春の日差しは頭の上から照りつける。心地よい潮風が吹いているので、灼熱の真夏に比べれば過ごしやすい。いつしか〈港大通り〉には、何頭もの馬やロバを連ねた貨物車が目立つようになっている。香辛料を積み込んだ覆い付きの貨車が、左右に揺れながら石造りの道を行く。
 場所によっては白い砂浜をかすめる〈港大通り〉だが、この辺りは遊べる海岸が少なく、ミザリア国を支える大港湾地区となっている。波止場には数え切れないほどの大きな貿易船や、イラッサ町やモニモニ町への定期旅客船、小さな漁船までがひしめくように停泊し、特に出航や寄港の船は、あたかも地上に降りてきた雲のごとき真っ白な帆を堂々と誇らしげに張っている。

「うーん、そうだよね」
 穏やかな声を発し、うなずきながら言ったのはウピだ。三人の中では最も背が低く、少し見上げるような眼差しになっている。
「クリス公女の悪い噂って、あんまり聞いたことないかもねぇ」
「でしょ? たぶんいい人だよ」
 会ったことはなく、今後も会える予定は全くない遠国の姫を、ルヴィルは同じ町内に住む有名人のような気軽さで説明した。

 遠くから砂塵の飛び交う横暴な和音がしたかと思うと、にわかに強い風が大通りを駆け抜けた。粒の細かい砂埃が混沌を呼び、思わず三人は手で顔を覆って立ち止まる。くすんだ陽の色の長くもないウピの髪、月の染料で染めたようなレイナの銀の髪、後ろに垂らしたルヴィルの豊かな金髪がそれぞれに踊る。
「ひゃ!」「……っ」「うわ!」
 辺りに漂う潮の香はますます強くなっている――といっても、熱海(ねっかい)に囲まれ、数多の島々より成立するミザリア国の民にしてみれば、潮風こそが風であり、潮の匂いを帯びた空気こそが常の空気である。特にミザリアの本島で吹く強い潮風を、親しみと畏怖を込め、人は〈海の鼻息〉などと呼んでいる。
 そして海は巨大な森だ。命を生み、育て、逆に奪うことさえある。便利で自由な街道でもあり、死と隣り合わせの危険な孤独の領域でもある。最も普及したラニモス教の中で、本来はあまり位置づけの高くない〈海神アゾマール〉の信仰は、この国や、さらに南に位置する〈絶海の楽園〉フォーニア国で最も盛んだ。

「私なら……」
 大海原の欠伸だか鼻息だかが落ち着き、三人の女性が歩き出した時、ふと話の端緒を開いたのは優等生のレイナだった。
「もしもお会いできるのでしたら……ということを、想像力を駆使して考えるのが前提ですが、マホジール帝国のリリア皇女とならば、近しくお付き合いさせて頂けるのではないかと思います」


  6月18日− 


[メロウ修行場(5)]

(前回)

 それぞれの食器を小さな川沿いに作られた洗い場の近くまで運び終えると、担当の班以外は自由時間となる。ある者は食堂に残って談笑し、ある者は部屋に戻って実家に手紙を書き、またある者は黙々と軽い柔軟体操に励み、仮眠を取る者もいる。
 だいぶ人数の減った食堂のほぼ中央付近に四人の女性が腰を下ろした。セリュイーナの横はちゃっかりとユイランが陣取り、師匠の正面には〈お嬢さん〉ことメイザ先輩、その隣には俊足で有名な小柄の冷静少女、名を〈疾風(はやて)のキナ〉が座る。
 キナの鋭く細められた目つきは炎の気迫と氷の皮肉に充ち、なかなか他人に心を開かぬ。筋力は劣るものの、速さと技術で対戦相手を攪乱させるのを得意とするタイプの格闘家である。

 当番の班が洗い物を始めた水の音が爽やかに響いている。硬い草で編まれたゴザの何とも言えぬ自然の香が匂い立つ。
 荒削りで粗野な、背の低い木造の長い机に右肘をついて、セリュイーナ師匠は三人の弟子の顔を見回し、雑談を再開した。
「で、何の話だったっけ?」
 こういう朴訥で飾らぬところがセリュイーナの皆に慕われる一つの要因となっている。ユイランは思わず微笑みつつ応えた。
「ララシャ王女が強いっていう件っすけど」
「あー、はいはい」
 セリュイーナは納得してうなずき、疑問点を口に上らせる。
「ララシャ王女ねえ。有名な師匠でも付いてんの?」
 問いを受けとめたユイランは、即座に落ち着いて説明する。
「そうみたいですよ。何でも、王女の戦い癖が大変のようで」
 この島に流通している他国の噂の半数以上がメロウ氏経由という事実を考えると、本来ならばセリュイーナの方が情報通のはずだが、彼女は国際情勢に関心が薄く、特に異国の話など、興味のない限りは次々と忘却のかなたへ追いやるのだった。

「うん、うん」
「……」
 メイザは二人の会話を遮ることなく、たまに相づちを打っている。隣ではキナがやや下を向き、口をつぐんでじっとしていた。


  6月17日○ 


(休載)
 


  6月16日− 


[虹あそび(7)]

(前回)

 ナンナの言うとおり、しだいに〈闇のもと〉は水蒸気をあげて、固焼きした米菓子のように焦げた匂いを漂わせています。そのうち風に含まれた雨粒をいっぱいに吸い込んだ黒い粉は、泥を思わせるごとく溶け、大きなあぶくをいくつか膨らませました。
 やがて、それも静まってゆきます。
 首筋や頬をなで、髪を揺らして通り過ぎる涼しい風を感じながら、二人と一羽は背の低い草の生い茂るナルダ村の道から少し外れた家のそばの原っぱで、大いなる生命の誕生さえ思わせる魔法の泥の不思議に面白い移ろいを見守っていました。

「そろそろかな〜?」
 八歳のナンナは少し背伸びをし、人差し指を伸ばします。
 そして恐る恐る〈闇のもと〉に触れ、すぐに引っ込めました。
「どうかな?」
 この辺りの村では珍しい、金色の髪を戴く魔女の孫娘は、再び指先で温度を確かめます。今度は長く触れていましたが、にわかに半分だけ振り向き、いたずらっぽい笑顔で言いました。
「レイっち、もう触っても大丈夫。こねこね時間だよ☆」

「こねこね時間?」
 レイベルは目を丸くして聞き返しました。肩に座っている使い魔のピロも、可愛らしく小首をかしげ、つぶらな瞳を瞬きます。
「うん。冷めないうちに、お団子作らなきゃ!」
 虹のくっきりと現れ出た空高く、ナンナは右腕を掲げました。
「いよいよ〈闇だんご〉が出来るのね……」
 村長の娘のレイベルは、胸に秘めた大きな期待を声に乗せてつぶやきました。それから準備のためにブラウスを腕まくりして気合いを入れ、こぶしを握りしめ、優雅に口元を引き締めます。
 雨上がりに特有な潤いの風が吹き過ぎ、色とりどりの緑の草はいっせいに爽やかな音を立て、波のように揺れるのでした。


  6月15日△ 


  のように不安でも

 まずは に踏み出してみる

  みたいな話はないけど

 ちいさな に似た 優しさはある

 心の中にゆらめいている情熱の

  は見ていてくれる

 なんとかなるよ、と が笑った
 


  6月14日− 


[旅先にて]

「この時間でお店が閉まってるなんて。ほんと田舎だわ」
 ベッドの縁に腰掛けていた二十五歳のシーラは、そのまま上半身の力を抜き、後ろへ勢い良く倒れかかった。長い黒髪が一瞬だけ生き物のように広がり、すぐに収束する。古いベッドの脚はきしみ、ほこりの白っぽい霧が薄暗い室内に舞い上がった。
「ふぁーあぁ」
 それから深い溜め息をつき、彼女は虚ろな瞳を軽く閉じる。

 旅人のシーラはかなり辺鄙な地域に来ている。どうにかして夜になるまでにこの宿場町へ着くため、強行軍で朝から晩まで歩き通したせいか、足が熱を持って、しかも重たく沈んでいる。
「それに、お酒の飲めない夜なんて……」
「そんなこともあろうかと思ってね」
 ランプの下で、何やら荷物をガサゴソと探っていた旅の連れのミラーが思わせぶりな口調で言った。二人は同年齢である。
 彼は穏やかな表情の落ち着いた青年であり、この国では珍しい魔術を会得している。背丈は普通だが、女性にしてはかなり背の高い恋人のシーラと並ぶと若干低く見えてしまう。普段はのん気に構えているが、ここぞという時に踏ん張れる性格だ。
 シーラの方も、これまたガルア公国には数の多くない聖術師だった。お酒とお金が大好きという困った性格ではあるものの、手入れの行き届いた肌や髪は瑞々しく、脚はすらりと長い。腐れ縁のミラーを振り回すこともあるけれど、曲がったことが大嫌いで、鋭い洞察力と判断力を持つ有能な大人の女性である。

「え?」
 現金なシーラは、疲れを即座に忘れて素早く身を起こした。中毒まではいかないけれど、晩酌が習慣となっている。黒い瞳を期待に爛々と輝かせ、魔術師を見下ろして次なる台詞を待つ。
「これなんか、どうかな?」
 ミラーが取り出したのは手のひらに載るほどのひどく小さなビンだ。振ると、水の揺れ動く微かな音が静寂の客室に響いた。

「素敵! 最高! ミラーさん、さすが気がきくわ〜」
 シーラは有頂天だ。揉み手で駆け寄り、猫なで声をあげた。
「この際、何のお酒でもいいし、少しでも我慢するわ」
「じゃ、はい」
 他方、ミラーは妙に冷静な口調で、機械的にビンを相手に差し出した。シーラの酒と浪費癖を心配している彼としては、まず彼の方から薦めることはない。にも関わらず素直にビンを手渡す、という時点でシーラは本来、もっと警戒すべきだったのだ。

「るんるん♪」
 さて、シーラが鼻歌交じりにフタを回すと――。

 ポンッ!
 火にかけていた卵が破裂するような軽い爆発音が響いて。
 蛇のごとき白い煙が吹き出した。

「きゃっ!」
 短い悲鳴をあげて反射的に後ずさりし、シーラは目を見開き、その小さな妖しいビンを投げ捨てた。明らかに魔法の品物だ。
 呆然としている彼女の目の前で白い煙は煙草のように流れ、しだいに黒髪族の間で使われている幾つかの文字を形作る。




た ま に は 休 肝 日




「はぁ?」
 シーラがその意味を理解し、肩の力が抜けたとたん、煙は夜の空気の中に溶けていった。残ったのは空っぽのビンだけだ。

「なかなか面白いだろう? 前の町で見つけたんだよ」
 仕掛け人の魔術師はここへ至ってようやく相好を崩し、勝ち誇って語り出す。シーラは当然、煮えたぎるような不愉快さが募っていて、文句の一つどころか引っぱたいてやりたい気持ちだ。
 しかし歩き続けた疲れが一気に舞い戻り、夢から覚めきれなくて何も言えないでいるかのような、寝ぼけ眼に似た焦点の定まらぬ濁った視線で――それでも精一杯、相手をねめつけた。

 そこでミラーはとどめをさす。
「お酒とは言ってないからね、僕は」
「バカバカしい……私、寝るわ」
 今度こそ本当に脱力し、怒る気も失せたシーラは、全ての感情を忘れたかのような能面になる。襲い来る夜の重力に抗うこともなくベッドに寝転がり、毛布を頭からかぶって黙り込んだ。

「君の健康を気遣ってのことだからね。おやすみ」
 恋人の様子に少し良心の痛んだミラーは、低い声で言い訳をつぶやいた。それから起き上がってそっと魔法の空きビンを拾い上げ、消えかかったランプの炎を一息で吹き消すのだった。
 


  6月13日− 


[妖しの晩]

 望月の晩であった。
 木々の梢がざわめき、ちぎれ雲は疾風のごとく飛び去った。
 大いなる魔のかぎろい、あるいは闇の陽炎は遊離し続けた。

 月の光は金の糸となり、空気の流れに乗って音もなく永遠にこぼれ落ちていた。それはゆっくりと――限りなく、しかも砂時計の砂のように一定の速さで、斜めに極細の脈を描いていた。

 たゆたう漆黒に彩られた湖のごとく、ひときわ暗く淀んだ森の広場があった。そこには真夜中色のマントを羽織って闇の中から溶け出すように現れた、背の高い痩せた女性がいた。黄金の薄ぼんやり輝く豊かな髪は、夢の名残のように揺らいでいた。

 若い女性は袖を伸ばし、月の光をほっそりとした指先に巻き取って、自らの髪の毛に混ぜてしまった。それはしばらく淡い光を放っていたが、そのうち他の髪と同化して分からなくなった。
 女魔術師は懐から瓶を取り出し、ふたを開けて傾けた。黒い霧が湧き出したかと思うと、彼女の身体は少しずつ穴だらけになり、それが少しずつ膨らんで、元の暗がりへと帰していった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 それぞれの都市に成立している〈魔術師ギルド〉は、大きな魔法が働かぬよう精神的な網を張り、心の目で監視している。かつて滅びた古代魔導帝国の轍を踏まぬための対策であった。
 町中では小さな炎程度の役にしか立たぬ火炎魔法でも、野原で冒険者たちの魔法が威力を発揮するのは、このためだ。

 魔力は月の満ち欠けの影響を受ける。満月に近づくに連れて増幅され、欠けてゆけば抑制される。月の光は、月光術に限らず全ての魔法に影響を与える、異界への通路の触媒なのだ。

 降りそそぐ金の糸はギルドの魔力の網を惑わせる。望月の夜は、数々の妖しの術が織りなす摩訶不思議の刻である――。
 


  6月12日△ 


[お姫さま談義(6)]

(前回)

「頼むよ、な、もう一声!」
「うーん。そう言われても、正直、粗利ギリギリだしなぁ」
「俺がどんだけ、あんたの店に貢献したか分かるだろ。な?」
「……良し、分かった。じゃ、これをおまけで、こんでどうだ?」
「よっしゃ、買った!」
「よォーし! しめて五ガイト五〇レックだ」

 いつしか〈夢見通り〉にも行き交う人が増え、ついには〈港大通り〉に合流する。ざわめきと貨幣の音、威勢のいい声、値引き交渉が華やかだ。香辛料貿易を中心に潤うミザリア市の活況を目に見える形で伝えている。島国なので全体的に道はあまり広くなく、熱を避けるため白っぽい砂利が多く用いられている。

「あたしは、クリス公女となら仲良くできるかもなー」
 頭の後ろで両手を組み、ルヴィルはけろっとした顔で言った。安物ではあるが開放的な、丈の短い民俗風のスカートの裾が風にはためく。色も明るく、センスの良い彼女に似合っている。
「海が好きで、船に乗るって話だし。あたしとは気が合うはず」

 さすがにもう人が多いので、いかな怖いもの知らずのルヴィルといえども、カルム王やミネアリス王妃、レゼル王子、ララシャ王女を始めとするミザリア王家の悪口を言うことはない。もともと彼女だって自分の国の王家を信頼しているし、尊敬の対象でもある。いつしか際どい冗談はなりを潜め、意外と常識的な彼女は、せいぜい他の国の姫を褒める程度にしておくのだった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 さっぱりとした性格の健康的美人であるシャムル公国のクリス公女は、シャムル公国だけでなく世界中に名の広まっている姫の一人である。常識を重んじ、かといって固定観念に囚われぬ新しい女性像は、若者の支持を集めている。彼女の前では、次代シャムル公爵が確定しているクロフ公子は霞んでしまう。
 当然ながらメラロール王国のシルリナ王女と異なる方向性の美しさをクリス公女は誇る。シルリナ王女が知的で清楚な印象だとすれば、クリス姫は活発さと健やかさと華麗とを体現する。
 ミザリアのララシャ王女に似た無軌道のワガママもなく、それでいて身体は敏捷、手先は器用だ。やや八方美人的な印象は否めぬが、貴族の枠の中で叶えられる最大限の自由――航海や旅を基礎とする人と自然との触れ合い――を心から愛する。


  6月11日− 


[メロウ修行場(4)]

(前回)

「へー」
 セリュイーナは無機質な声で相づちを打ち、口を尖らせて顎をなでる。何らかの不満がある、または反論したい時の仕草だ。
 ユイランが黙って師匠の顔を見つめると、案の定、相手は空いた皿の脇に頬杖をついて気にくわぬ点を率直にぶちまける。
「王女様だか何だか知らないけどサ、武術を貴族の暇つぶしにやって欲しくないね、こっちは生活かかってんのに。貴族は大会だけ開いてくれりゃ、それでいいってもんじゃない。違う?」
「うーん、そーかも知れないっすねえ」
 あさっての方向に視線を送り、ユイランが曖昧に応える。そろそろ周りの者たちも食事を終え、しばしの雑談を始めていた。当然ながら修行中は厳しく私語が禁じられるものの、休憩時間までは介入されない。けじめのある集中と、調和の取れた弛緩が健全な心技体を作る。それが〈メロウ修行場〉の方針なのだ。

 セリュイーナはちょっと肩をすくめ、呆れたように手を広げる。
「どっちだい、あんたの意見は。はっきりしなよ」
「基本的には師匠の意見に賛成なんだけど……」
 弟子は桃色の果実の余りを手に取り、勢い良く食いついた。
「モゴモゴ、んくっ……ララシャ王女に関しては例外かな、と」
「どうせ周りの連中が手加減してやってるんだろうね」
 なおもセリュイーナは突っかかった。もとより負けず嫌いの努力家である。そういう人物でなければ、種族から年齢から目的から様々である闘術の修行者たちを束ねるのは困難だろう。

 愛弟子のユイランは彼女らしい飄々とした口調で補足する。
「それがなかなか、手強いみたいっすよ。騎士を鎧ごと投げ飛ばしたり……その話、大師匠から聞かなかったんですか?」
 大師匠とは、島の所有者であるメロウ氏のことである。

 刹那、セリュイーナは背後に気配を感じて素早く顔を上げた。彼女は、ちょうど後ろを通りかかった若い男の弟子に訊ねる。
「ヤシ。食器洗い当番は?」
「五班です」
「了解。私は入ってないわね。じゃ、号令にしましょ」
 ここの自給自足の暮らしでは、洗濯物も食事の用意も皿洗いも水汲みも、何もかもが厳密な当番制になっている。師匠のセリュイーナとて例外ではなく、班の一つに組み込まれている。

「とりあえず、続きはメシをいったん締めてからね」
 漆黒の片目をつぶり、セリュイーナは弟子に合図を送った。
「了解っす」
 ユイランは軽くうなずき、そのついでに肩を上下運動した。無駄な肉の全くついていない、強靱な肩のラインが強調される。

「礼!」
 間もなく号令係の凛々しい声が食堂に響き、皆で唱和する。
「ごちそうさまでした!」


  6月10日− 


[夜半過ぎ(14)]

(前回)

 輪郭の霞んだランプの光の底で、幽霊のように白くぼんやりと立ちのぼって見えるのは微かな湯気だ。作りたての頃の熱はすでに失せていたけれど、凍えるほどの冬につつみ込まれて、むしろ温かな生命の証をたぎらせていた。真夜中の陽炎――細雪に似たヴェールの後ろに、父と母の姿が揺らいで見える。

「さあ、おがなりなさい」
 夜の冷たさに肩を怒らせ、父のソルディが言った。こういう時に〈体が温まったら寝るんだよ〉などと決して焦らせることなく、娘の行動を辛抱強く待つ両親の態度が、天真爛漫で素朴なファルナの性格形成に影響を与えたのは疑うべくもないだろう。
「ゆっくり、頂くのよ」
 動きをやめると再び寒さが襲いかかってきたのか、母のスザーヌはきつく腕を組み、小刻みに歯を鳴らし、かすれ声でつぶやいた。風邪引きのシルキアの二の舞になるのを心配した夫がそっと寄り添い、妻の華奢な左肩を守るように筋肉質の腕を当てる。相手は安心して腰の力を緩め、瞳を伏せるのだった。

 一方、ファルナは鍋の中身のことで頭がいっぱいだった。濃密な闇の版図でひときわ明るく見える、シチューの白い池の奇跡――具の匂いの渦はいっそう膨らみ、厨房を充たしてゆく。彼女には小さな鍋が世界の隅々までを温めるように感じられた。

「ひゃっ」
 丸椅子のあまりの冷たさに十七歳の看板娘は驚き、一度は手を引っ込めたが、はやる気持ちを抑えきれずに手前へ運び出した。椅子の脚と床が擦れ合い、静寂の内側でギギッと響く。
 普段は料理を載せる木の台の上に、父がよそってくれたシチューの深い皿が置かれ、横に銀のスプーンも添えられている。

 いつの間にか、口の中は水っぽい唾液にあふれている。
(食べていいんだよね……いよいよなのだっ)
 ファルナの胸は苦しくなり、鼓動はにわかに速まるのだった。


  6月 9日○ 


[虹あそび(6)]

(前回)

 さて、しばらく様子を眺めていると〈闇のもと〉から香ばしい匂いがふつふつと生まれ出てきました。光と闇がせめぎ合い、うっすら一筋の湯気が立ちのぼって、鼻を刺激します。図らずも舌の周りにあふれる唾を、レイベルはごくりと飲み込みました。

「ピュー、ピィー!」
 お菓子の匂いと勘違いしたのか、ナンナの肩に乗っていたピロはその場で思いきり羽ばたきました。小さな空気の流れが起こって白く澄んだ一枚の羽が抜け落ち、舞い降りてゆきます。
「だめだめ、危ないんだから」
 ナンナは人差し指を伸ばし、自分の使い魔のピロをなだめようとしましたが、逆に黄色のくちばしで耳を噛まれてしまいます。
「ひゃあ、ひどい!」
 たまらずに首をすぼめると、ピロは素早く飛び上がり、横にいたレイベルの肩に上手いこと着地しました。黒い髪の似合う村長の娘さんは白いインコのまん丸の瞳を覗き込んで、穏やかに微笑みかけます。そして優しい口調で辛抱強く頼むのでした。
「ピロちゃん、あとで美味しいものをあげるから、今は我慢よ」
「フゥーン……」
 首をかしげて甘え声で鳴くと、ピロは毛づくろいを始めます。
「もー。飼い主はナンナなのに」
 不満を口にのぼらせつつも、十二歳のいたずら魔女はどこかしょんぼりしていました。遊び終わって家に帰ったら、きっとピロの好きな緑の野菜をあげようと心の中で反省していたのです。

「ナンナちゃん。やっぱり、これ、熱いのかしら?」
 少し沈んだ考えを止めてくれたのは友だちのレイベルでした。彼女は空中でくすぶっている〈闇のもと〉を興味津々そうに見つめています。その向こうには今や七色の虹がくっきりと、ひび割れた雲から垣間見える水色の空の河原に優雅で雄大な橋を架けていました。辺りの湿気と草の匂いはいよいよ鮮やかです。

 ナンナはすぐに気を取り直し、おしゃべりの本性を現します。
「うん、ゼッタイに手を出さないでね。やけどするよー。もうちょっとだけ煮込んだら、自然と水が混ざって、冷めて行くからね☆」
「お水?」
 レイベルは再び鴉(からす)色の瞳を見開きました。地方の村娘のレイベルは魔法の知識に乏しく、都会っ子のナンナの言葉に惹かれていきます。さっきの光のスープのこともあったので、楽しげな想像は膨らみ、心臓は速い鼓動を打ち鳴らしました。

 続くナンナの返事は、親友の素直な期待を裏切りません。
「雨の後の風さんには、水分がいっぱい含まれてるからね☆」

 レイベルは一瞬、静止して、相手の言葉を深く味わいます。
 それから両手を組み、新鮮な驚きに充たされて叫びました。
「まあ、すごいわ。ナンナちゃん、すてきね!」
「ぴろ、ぴろ、ぴろ」
 ピロは諦めたのか、レイベルの肩の上で静かにしています。
「てへへ……まーね。魔女におまかせだよ☆」
 少女は得意げに、やや恥ずかしそうに鼻の頭をなでました。


  6月 8日− 


[スカーフを買いに(3)]

(前回)

 店のスカーフは色鮮やかで、縫い込まれた模様も様々だ。雨の残像を彷彿とさせる斜線では、等間隔に丸い点が打ってあったり、波線だったり、星形のアクセントがあったり――作り手の遊び心でちょっとした工夫が凝らしてあるため、見ているだけでも楽しくなる。昨日の帰り道、並木の枝に引っかかり、穴が開いて駄目になった青い花柄のスカーフに似ている品物もあった。

「これ可愛いなー」
 ハンカチのように四角く折り畳まれた卓上のネッカチーフを眺めていたレフキルは、その中の一つを手に取った。光沢のある生地には、太陽の光を刻んだかのような橙色の格子縞の模様が入っている。微かに緑色を帯びたレフキルの銀の髪に合わせようとすると、例えば赤一色のネッカチーフでは派手すぎ、桃色では子供じみ、紫だと何となく彼女の雰囲気にそぐわない。それよりは、半透明や白を基調とした生地に、何らかの模様が入っているくらいの方が彼女の神秘的な髪を活かせそうだった。
 その点、レフキルが選んだスカーフは、大地の力を示す橙色の細い二本線が縦に延び、それより少し太い一本線が横へ延び、格子状に交わって幾つもの正方形を形作っている。必要以上の装飾のない単純なデザインだったが、程良い明るさと洗練された感じ、引き締まった色がレフキルの好みに合ったのだ。

 服飾品は視覚の次に触覚へ訴えてくる。上品な手触りがし、もっと味わいたくてレフキルは指先を動かした。商人の卵という誇りのある彼女だから、商品の選定眼には自信を持っている。
「とても似合ってますわ〜」
 横で見ていたサンゴーンは特徴的な青い瞳を瞬かせ、額にネッカチーフを当てて振り向いた同い年の親友に微笑みかけた。

「ありがとう。物はいいよね。あとは……」
 レフキルは裏に張ってある値札を見た。やや高めなのは確かだが、手が出なくもない。頭の中では大雑把な計算式が走り出す。あれをちょっと節約すれば――奮発して買っちゃおうかな。
「すいません、これ……」
 言いかけて、レフキルははっと息を飲み、両眼を見開いた。

 周りの店に群がる人々のざわめきが消え、一瞬のうちに全てを静寂が覆ったような感じだった――彼女がそのように気づいたのは、実際にはずっと後のことだったのだが。その時は聴覚だけでなく視覚も薄暗く狭まり、世界は自分とサンゴーンと、それから視界の中央にまっすぐ入ってきた一枚の布だけになる。

 空色のネッカチーフ。
 一言で語るならば、そのような表現になるのだろうか。

 南国のまぶしい青空は、そう遠くない夕暮れを感じさせて黄色に色づき始めている。ミザリア国の照葉樹に北国の紅葉はないけれど、晴れていれば空全体が刻々と光のヴェールを脱ぎ、昼間から夕暮れを経て夜の始まりへと移り変わってゆくのだ。
 レフキルが目にしたスカーフは、その空を絵の具に溶いて写し取ったかのような色をしていた。水色から白、黄色への微妙なグラデーションは夢のごとく、なおかつ非常に現実的でもある。
 あいにく今日は薄曇りで、空全体としては石造りの家のように灰色っぽい。さっきまでに比べると、だんだんと雲が割れてきて光がこぼれ、夕焼けを期待させる驚くほどの涼しさを含んだ西風も吹き始めていたが、依然として本来の空は隠されている。

 だが、もしもあの雲を突き抜けて、天を覗けるのならば。
(このスカーフと同じ色、同じ模様をしてるはずだよ、きっと)
 レフキルは自分の直観を信じた。どこまでも続く虚空を仰ぎ見た時の、吸い込まれるような爽快さと、心の糸が解かれる感覚――それが、目の前の〈空色のネッカチーフ〉にもあったのだ。

 隣のサンゴーンもいつしか黙り込んでいた。
 レフキルはごくりと唾を飲み込む。耳の奥がキーンと鳴り、ゆっくりと周りの喧噪が戻ってくるのを、ただ呆然と待っていた。
 どこからか地上にも風の精霊が舞い降り、二人の少女のそれぞれの銀色の髪を微かに揺らせば、さらさらと砂浜の白い星がこぼれる音がする。不思議な時間は永遠に止まったかに思えた。折り畳まれた布に魅せられた、情熱のひとときが過ぎる。

『お嬢さん、これが見えるのかね』

 ひどく突然、かすれた声が発せられ、二つの小さな耳と、もう二つの少し長い耳に響いた。むしろ心に届いたのかも知れぬ。
「あ!」
「あらら?」
 レフキルとサンゴーンは思わず顔を見合わせた。狭いテントの薄暗い場所から、ひどく年老いて青ざめた顔の男が顔を出したのだ。店があって、商人がいないということは有り得ないのだが、そんな簡単なことさえ少女たちは何故か忘れていた。今、この瞬間になって初めて、店の主人に気がついたのであった。

 その皺だらけの顔が近づいてくる感覚があった。正確に言うなら、パンが膨らむかのように〈顔が拡大する〉印象を受けた。
 意識の中に割り込んでくるような、嫌な感じはない。長く白い前髪は目元を完全に隠し、口元には深い皺が刻まれていて、八十歳や九十歳――それどころか何千年も生きているかのようにさえ思われた。手入れのされていない無精髭も真っ白だったが、特に不潔さは感じられず、柔らかな綿菓子のようで貫禄があった。上下のつながった粗末な灰色っぽい服を着ている。
 穏やかそうな顔の老人だったが、癇癪癖を持っているのではないかとレフキルは思った。その〈思う〉という行為を、どこか遠くでしているような、極めて夢幻的な感覚に陥りながら。彼女がそう〈思った〉のは、老人の右手に黄色の杖が握られていたからである。まるで雷をでも起こしそうな、警戒すべき色だった。
 それさえ除けば、どこにでもいて、なじみ深いけれども普段は気がつかないような、存在自体に透明感のある老人であった。

「お目が高い」
 老人は再びかすれた声で語った。彼が喋ると辺りの空気はほんの少しばかり湿り気を帯びる。顔色は相変わらず青ざめていたが、不健康そうには見えなかった。顔の左側には、西の雲間からこぼれだした光がわずかに当たり、血色良く見せている。
「触ってみてくだされ。この店の自慢の一品ですじゃ」
 はっきりと老人は促した。その声の中に浜風のうなり声が小さく混じっているのを、草木の神者のサンゴーンは聞き取った。

 レフキルは無意識にサンゴーンの方を振り向いた。
 左右に結わえた銀の髪が揺れる。二人は心臓を高鳴らせたまま緊張した面もちで向かい合い、視線で語り合う。レフキルを躊躇させたのは恐怖でも不安でもなく、言うなれば〈畏怖〉だ。
 優しい親友は瞳を潤ませながら、力強くうなずいた。
 それでレフキルの気持ちも定まった。もう迷いはない。

 レフキルは毅然とした態度を崩さぬまま、老人の方に向き直り、深々と礼をした。一呼吸遅れて、サンゴーンもそれに習う。
 三つ数えて二人が顔を上げると、老人は思慮深い口元を軽く緩めていた。相手は〈無用じゃ〉とでも言いたげに、ほとんど動くか動かないか程度に首を振って、皺だらけの手を差しのべる。

 レフキルは自分の両手足がしびれたような重い感覚を味わいつつ、一歩だけ歩み寄り、のろのろと腕を目的の物に伸ばしてゆく。ひどく〈まだるっこしい〉作業であったが、必要な過程だ。
 青く澄む〈空色のネッカチーフ〉が少しずつ近づいてきて。
 近づいてきて――近づいて――指先に触れ。

 彼女はついに〈空〉をつかんだのであった!

 その刹那、レフキルの目の内側には、確かによぎった。
 青い風の流れと、白い雲の海、そして黄色や赤に染まりつつある南国の夕暮れの、どこまでも果てない空と海の広がりが。

「これください。お値段はいくらですか?」
 我に返って、レフキルは肌触りの良い神秘的なスカーフを大切に握りしめ、店主に訪ねる。今を逃したら機会は永遠に失われる、という強い決断を伴って。サンゴーンも思わず華奢な手を組み合わせ、親友のために祈った。どんな法外な値段でも二人は驚きはしなかったろう。それほどの価値がある品物なのだ。

 男のいらえは短く、簡単で簡潔で、しかも無駄がなかった。
「さっきの、橙色のスカーフと同じ値段で構わんよ」
「ありがとう」
 レフキルはむしろ値段が安すぎることに驚くのだったが、自然と感謝の言葉が口をついて出た。彼女は夢の中を彷徨うかのごとく、おぼろな気持ちで銀貨を何枚か手渡し、支払いを済ませる。それから二人の少女は再び礼をし、静かに店を離れる。

 商人の卵のレフキルは〈空色のネッカチーフ〉が自分の物になったことをまだ信じられない様子だったが、それを胸の中にぎゅっと抱きしめると、テントの奥の方に向かって素早く左右に手を振った。その表情は懐かしさにあふれており、一抹の淋しさをも秘めていたが、彼女の行動はきっぱりと清々しかった。別れだけど、別れじゃない――上手く言えないし、正確な理由も説明できないけれど、彼女は確かに魂で〈理解して〉いたのだった。
「さよなら、おじいさん。きっと大切にするから」
「お安くしてくれて、ありがとうですの」
 サンゴーンも名残惜しそうに首を垂れ、うっすらと涙ぐむ。

 少女たちのの言葉を受け止めた老人は、また口元で笑った。
「元気でな。いつも見てるよ、レフキルにサンゴーンや……」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 イラッサの町は少しずつ夕暮れを迎えていた。熱海(ねっかい)に浮かべた遠い舟影は黒く凝(こご)り、光の幕は下りる。その代わりに夜空を潤す星たちの饗宴が始まるのだろう。風は凪ぎ、いつしか雲はかなり晴れて、橙の光が洩れだしている。

 しばらく何も喋らず、ぼんやりと肩の疲労を覚えながら歩いていた二人だったが、商店街を出ると急激に意識が戻ってくる。

「そういえば、あんなお店、あったっけかな?」
 首を動かして関節をボキッと鳴らし、レフキルは言った。さっそく頭にかぶった〈空色のネッカチーフ〉が髪と一緒に揺れ動く。
「たぶん、明日に行っても、ありませんわ」
 サンゴーンはきっぱりと断言した。レフキルはひどく残念に思ったが、実のところサンゴーンと同じ意見だったので黙り込む。
「でも、ホントはあるはずだよね。見えないだけで、さ」
 レフキルはすんなりと今の気持ちを言葉に乗せた。声の郵便に対する返信なのか、日中は蒸し暑かった空気も黄昏れて涼やかに流れ、舞い上がる白い蝶の繊細な羽ばたきを妨げた。

「あの人は……」
 サンゴーンは震える声で呟くが、最後まで言えなかった。それが全ての神秘を壊してしまうのではないかと恐れるように。

 少女の足音だけが、通りの石畳をリズミカルに響かせる。とっくに商店街は抜け、二人の住んでいる地域に近づいていた。海は遠からず、ほのかに潮の香りがする。人通りの少ない坂道の両側に、ミザリア国らしい白い石で作られた二階建ての家が建ち並んでいる。食欲をそそる焼き魚の匂いも漂い始めていた。

 レフキルは少し濡れた柔らかな桃色の唇を開いていった。
「うん。あの人は、空の神様か精霊か……だったんだよね」
 彼女は言い終わると口を結んだ。太陽が水平線にかかり、長い紅の光の帯が海の上に描かれた。やがてその姿は消える。
「そうだと思いますわ。たぶん……いえ、きっと、間違いなく」
 サンゴーンはそう呟いてから、清らかな笑顔で天を仰いだ。大空は真っ赤な花びら然と咲き誇り、血の通った印象を与えた。
 二人は立ち止まった。そこが別れる場所だったのだ。

 立ち去りがたく、二人は向き合っていた。心の中は新鮮な思いであふれている。あまりにも不思議な〈空の者〉との邂逅。
「橙色のスカーフも捨てがたかったけど、これの比較にならないよ。だって、空そのものを切り取った布みたいだからね、これ」
 レフキルはこみ上げる情熱に任せて、今度は饒舌に語る。頭にかぶった〈空色のネッカチーフ〉を愛おしそうに撫でながら。

 その時、親友のサンゴーンは思いがけない指摘をした。
「あの、レフキル」
 夕陽の名残を映し、赤い光と青い瞳の色が合わさって紫に澄み渡る親友の両眼が喜びに膨らむのを即座に感じ取り、レフキルは限りなく優しい口調で、焦らず気取らず、穏和に訪ねる。
「ん? どうしたの?」

「レフキルのスカーフ……きれいなオレンジ色ですわ!」
 サンゴーンは細い指先で、まっすぐに相手の頭を指さした。

 雷に打たれたように、レフキルの体中に刺激が走った。
 慌てて手鏡を取り出し、首をかしげて、頭を覗き込む――。

 夕陽が沈んだ後の、ほんの少しの時間だけに見られる、太陽の絵の具を雲と空の間に流し込んだ、二度と見られない力作。
 所々に気の早い星たちを配置して、赤々と暗くよどみ、しかも明るく光る。東の空からひそやかに混じり来るのは夜の藍色。

 レフキルが買った〈空色のネッカチーフ〉も、それと全く同じだ。作り物のスカーフの橙色より、天然の布ははるかに気高く美しかった。そして刻々と、きらめく星の模様を増やし始めていた。

 二人の仲の良い親友たちは近々の再会を約束し、足取りも軽く各々の家路をたどった。間もなく本格的な夜が訪れ、レフキルの新しいスカーフが闇の色に変わるまでに、二人は家に着けるだろう。空の星が瞬き、光の音楽を奏で出す、その前に――。

(おわり)
 


  6月 7日○ 


[スカーフを買いに(2)]

(前回)

「行きましょうの」
 サンゴーンはほっそりと白い腕を差し伸べ、先を示した。
「いいのが見つかるといいですわ、レフキルの新しいスカーフ」
「悪いね、付き合わせちゃって。欲しいもの、特にないの?」
 相手の顔を見つめいていたレフキルは急激に緊張感をほどいて顔を上げ、鼻の頭を右手の人差し指でなで、反対に訊ねた。

 それに対するサンゴーンのいらえは単純かつ簡潔であった。
「今、これといって欲しいものはありませんわ」
「強制しないけどさ、たまにはおめかしするのも楽しいと思うよ」
 レフキルが少し残念そうに言うと、草木の神者は同意する。
「考えてみますわ」
「きっと見違えるようになるよ。元がいいんだからさぁ」
 レフキルが褒めると、サンゴーンは顔を火照らしてうつむく。
「そんなことありませんわ。何だか恥ずかしいですの……」

「あっ! 待って」
 レフキルが叫んだ。そんなこんなのうち、イラッサ町の露店街でも特に繁盛する、服飾雑貨の地区に差しかかったのだった。
 流行の形をしたキュロットスカート、シャツにズボンに髪飾り、大人びたブラウスから香水、指輪、下着、古来の民俗衣装、雨用の上着まで、ありとあらゆる商品がここに来れば揃うのだ。
 女性たちが群がり、あれやこれやと商品を手にして自分の身体に当てている。中には彼氏連れで買い物を愉しんでいる恋人もいた。高い声がこだまし、全体的に浮ついた空気が流れる。

「らっしゃーい」
「安いっすよー」
 やはり同世代で同年代の方が売れ行きがいいのだろう――この一角は若い女性の商人が多く、華やいだ雰囲気である。

「あった!」
 レフキルは器用な指先を機敏に動かし、その露店を示した。
 そこでは多種多様のスカーフが売られていたのだった。生地の材質は滑らかなものからザラザラしたものまで、無地の品はルデリア世界の虹の七色を完備し、その他にも白や黒を用意してあった。それぞれの色で椰子の木や花の模様入りがある。
 南国のイラッサ町では陽射しが強く、いくら日焼け止めを塗ろうとも高が知れているし、とかく経済効率が悪い。それよりは日傘やスカーフで保護するのが庶民の一般的な防衛法なのだ。


  6月 6日○ 


[スカーフを買いに(1)]

 イラッサ町の露店街は行く人並みと返す人並みで混み合っていた。さまざまな店がテントの下に商品を並べ、そこらじゅうで客引きの声が飛び交い、商品の説明や値下げの交渉が行われている。さまざまな商品が売れ、銀貨や銅貨が高く鳴った。

「ただの買い物でも、市場調査を兼ねてるんだよね……一応」
 はずむ口調で熱心に喋っているのは、商人の卵のレフキルである。緑がかった銀の髪を左右に分けて垂らし、青いキュロットスカートが似合っている。瑞々しい木の葉と似た深い色の瞳は明るく輝き、その一方で相手を見定める鋭さを秘める。表情は豊かで、人なつっこい笑顔は周囲の人々を元気にする。肌はうっすらと日焼けしており、動作は機敏、至って健康的である。彼女の耳はやや長く、それは妖精の血を引くリィメル族の証だ。
 あふれんばかりの数々の夢を抱いている商人の卵でもある。

「さすが賑わってますわ〜」
 のんびりと語ったのは、レフキルと同い年で大親友のサンゴーンであった。言ったとたん、夕食のおかずを袋に詰め込んだ中年女性と正面衝突しそうになり、呆然と立ち止まってしまう。
「ごめんなさいですの」
 艶があって硬く、腐りにくい植物で編んだ籠を右肩にかけたサンゴーンは丁寧に頭を下げ、自らの非礼を詫びた。相手の女性は南国の民らしく、朗らかに口元を緩ませ、過ぎ去っていった。
「気にしないってことよ、草木の神者さん」
「ありがとうですの」
 サンゴーンはほっと胸をなで下ろす。

 ルデリア世界を形作る七つの源のうち、草木の力を表す〈草木の神者〉を継承したサンゴーンは、ここイラッサ町の名目上の町長でもあり、地元ではそれなりに顔の知れた人物であった。
 銀の髪は南国の空を思わせるように青みがかり、けがれや疑うことを知らぬ大きな瞳は深海のごとく澄みきった透明な宝石である。今日は花の模様が入ったお気に入りの白っぽいロングスカートをはいており、それは清純な彼女に良く似合っていた。

「そうそう。気にしないってことよ。ね?」
 レフキルは素早くサンゴーンの顔を下から覗き込み、通りがかりの主婦の言葉を真似して念を押す。乾燥した薄曇りの暑い空気の底で、草木の神者は顔をほころばせ、軽くうなずいた。
「ハイですの!」


  6月 5日− 


[メロウ修行場(3)]

(前回)

 さっぱりと短めに切った黒い前髪を無造作に掻き上げ、使い古した安物の箸を片手に、セリュイーナ女史は感想を述べる。
「武術大会はいいけどさ、あまりにも遠すぎるでしょ。それに向こうとこっちじゃ、北方流と南方流って風に流儀も違うらしいし」

 一番弟子のユイランは湯飲みを傾け、深緑色に濁った渋い冷茶を飲み干す。妙な味も身体造りのためとあっては仕方ない。
「ミザリアっすか。賞金より旅費の方が高くつきそう……」
 言い終えると、彼女はおもむろにフォークを持ち上げ、目の前の皿に並んだ水分の豊富な桃色の果物に突き刺すのだった。

「この前みたいに、有り余る力でお皿を割らないようにね」
 ユイランから向かって斜め左の席で静かに食事を摂っていた小柄な女性が、さも可笑しそうにつぶやき、やがて吹き出す。
「ぷぷっ……くっくっくっ」
「蒸し返さないで下さいよー、お嬢さん」

 十九歳のユイランが三つ年上のメイザ先輩を〈お嬢さん〉――正確に記すのならば〈お嬢〉さん――と呼ぶのには訳がある。
 武術の腕は確かであるし、心に火がついた時の集中力はものすごいのだが、普段は性格がおっとりしているメイザを、セリュイーナ女史は親しみを込めて〈お嬢〉と呼んだ。それが後輩にも広がり、敬称の〈さん〉を後ろに付けて〈お嬢さん〉になった。

 笑いの発作が止まらなくなり、左右に可愛らしいえくぼを浮かべた口元を手で隠し、メイザは小刻みに痙攣していた。その一風変わった弟子をよそに、師匠は半信半疑の口調で呟いた。
「ミザリアの王女が闘技大会を主催、ねえ……」
「おてんばとわがままで有名なララシャ王女は、大の格闘好きだそうで。見るだけじゃなく、自分でもやっちゃうみたいっすよ」


  6月 4日− 


[お姫さま談義(5)]

(前回)

 王侯貴族がどのような政治的業績を残したか、などという地味で真面目腐った話題は、知識層でもないごく普通の民衆にとってそれほど関心が高いとは言えない。自国の支配者ならまだしも、特に他国の貴族の場合はなおさらである。そういう情報には〈噂を運ぶ蜜蜂〉と呼ばれる船乗りや旅人や冒険者もあまり飛びつかないため、広がりに乏しい。結果として、具体的な挿話を伴わず、各人の総合的な印象だけが先行する形となる。
 しかしながら、その逆――たとえば、どの王族が結婚したとか、世継ぎの子供は何人いるとか、どの公爵が武勇を誇っているのか、貴族の剣術大会では誰々が優勝した、賢く政治力のある王族の名、自国を脅かす野望の持ち主、美しい姫に太めの王女、凛々しい王子、家督争い――民衆の興味を惹くような話題は、いかに他国の事情であっても自然と浸透してゆく。何でもかんでもというわけではなく、おのずと限界はあるのだが。

レリザ公女って、かなり変わってるみたいだよ」
 もともと穏やかで前向きな性格のウピは一気に明るさを取り戻した。ルヴィルは〈上手くいったわな〉と、レイナに軽く目配せする。レイナはウピに気付かれぬよう、視線だけで返事をした。
「変わってるっていうか、単にバカっぽいし」
 やがてルヴィルは何食わぬ顔のまま、相変わらずの単純明快な口調で、遙か遠い国の同い年の公女をバッサリと切り捨てた。もしも本人のレリザ嬢がこの場に居合わせたとしたら、自らの話題が遠く離れた南の国で噂になっていることに仰天し、歯に衣を着せぬ物言いには開いた口がふさがらなかっただろう。

 ゴシップネタや名高い騎士の活躍などは、いくらか誇張されて広がってゆくのが世の常である。レリザ公女の性格は、確かに多少は世間からズレていることは否めなかったものの、伝播するうちに尾ひれが付き、とんでもない人物へ仕立てられた。
「新年の談話は有名よねー」
 ルヴィルは得意そうに言った。レイナは無表情で補足する。
「今年も美味しい魚がたくさん摂れればいい……でしたっけ」
「そんなん、あたいみたいな漁師と何も変わらないわよねぇ」
 今さら笑うよりも、ルヴィルはむしろ呆れた様子で言い、歩きながら大げさに天を仰いで息を吐き出す。そんな公女が自分の国の支配者でなくて良かった、という気持ちがありありだった。

「あたし、もしかしたら、レリザ公女なら仲良くできるかも」
 おもむろにウピが呟くと、ルヴィルは素っ頓狂な声をあげる。
「えー? あんたララシャ王女のファンじゃなかったっけ?」


  6月 3日○ 


[虹あそび(5)]

(前回)

「うーん……うーんと……」
 ナンナは素早くつま先立ちを繰り返し、待ちきれない気持ちを表していました。それでも、ふだんは落ち着きの足りない魔女の孫娘としては珍しく手を後ろに組み、瞳を輝かせ、目線の高さにこぼした〈闇のもと〉の様子を一生懸命に見守っています。

 レイベルは予期しなかった親友の変化に少し驚きましたが、興味深そうにまばたきを繰り返しつつ、ナンナの一歩後ろから〈闇のもと〉がじわじわ広がってゆくのに目を凝らしていました。

 その時、彼女はふと、親友の事前の説明を思い出します。
『光のスープに、闇のもとを溶かし込んで、ぐつぐつ煮るの。で、よーくこねて、力いっぱい固めれば、闇団子は出来上がりっ』

 小さな魔女は確かにそう言ったはずでしたが、今までのところ〈溶かし込んだ〉り〈ぐつぐつ煮る〉ようには見えませんでした。
(もし、ナンナちゃんが作業を勘違いしていたら……)
 おせっかいとは思いつつもレイベルは不安でした。魔法は良く分かりませんが、何よりも心配なのは〈ナンナが怪我をするかも知れない〉ということです。加えて、優等生のレイベルは、村長のお父さんとお母さんに迷惑がかかることを恐れていました。

 ですから、ごくりと唾を飲み、勇気を出して訊ねます。
「ナンナちゃん。闇の素を、光のスープで煮なくて、いいの?」

 すると訊ねられた金の髪のいたずら魔女は不思議そうに首をひねりましたが、急に何かを理解して顔じゅうに喜びをあふれさせると、迷わず右腕を掲げ、人差し指を天高く突き出しました。
「いま煮てるよー。ほら、レイっち、あれだよ、光のスープ☆」
「えっ?」
 ナンナの指さした先を見たレイベルは意味が分からず、最初は空の彼方を見回しましたが、やがて彼女も深く納得します。
「……うん、見えるわ!」
 雲の切れ間からあふれ、こぼれ落ちてくる繊細な日差しは、お鍋のスープを別の器に移し替える時を連想させるのでした。


  6月 2日− 


[山の恵みのもとで]

「オィー」
「ウォィー」
 頑強なフレイド族の船頭たちが独特のかけ声で挨拶をする。朝まだきの白い靄の底、声が澪を示し、警告の合図ともなる。
 川辺に茂る背の高い葦の楽隊は、頭を醒ます風の涼しいリズムに乗って身体を斜めに反らし、再び波のように起き上がる。
 漕ぎ出した船から見ると蜃気楼のように、うたかたの夢のように浮かんでいる川沿いに続く堅牢で質素な家々――その灰色のシルエットは時間の経過とともに減り始め、舳先が水を掻き分ける重い音が規則的に、時にはひどく不規則に響いている。
 陸のどこかの鶏小屋で、鬨(とき)の声が発せられた。

 コルベリア河は右へ左へ蛇行しつつ流れてゆく。世界的に有名な、いわゆる〈大河〉と比べれば規模や雄大さには劣るが、ラット連合のゴアホープ州には欠かせず、古来より地域の重要な交通路・通商路として栄えてきた。場所によっては、かつての流れを示す三日月湖が残っている。岩はほとんど無く、傾斜も勢いも緩やかで、幅もそれなりにある水運に向いた河である。

 河の最奥にたたずむアリアン町は、小さいながらも歴史の古い町で、豊かなコルベリア山脈の恵みを享受してきた。鉄分の多い水はどこよりも澄み、ここで作られた〈アリアン蒸留酒〉のコクの深さは天下一品とされる。山の懐に抱かれた、清らかな少女を思わせる〈センティアリア湖〉は観光名所として知られる。

 首都のテアラット市に向かうのだろう――フレイド族の船乗りは太い毛むくじゃらの腕に汗を光らせ、しだいに強まる陽射しに黒い髭をきらめかせた。無骨な容姿とは裏腹に、人間よりも優れた器用さを発揮する。甲板に立つ彼は誇らしく胸を張った。
 楕円形の形をした底の浅い川船は、ようやく霞の溶けつつある青く冷めた空に帆を張り、朝日を受けて軽やかに水の上を滑っている。その姿はどこか厳かでもあった。西風と河の流れに乗れる下りは速やかだ。ほどなく河口が見えてくることだろう。

 山の里から母なる海へ――。
 コルベリア河の短い旅景色は、何度訪れても新鮮である。
 


  6月 1日○ 


[梅雨]

 紫陽花の夢を染めるのは

 さすらう雨に刻印された

 海の追憶――六つ目の月

 遠き日暮れの汐の音を

 贈り届けた都の園に

 傘のつぼみも咲き誇る

紫陽花
 






前月 幻想断片 次月