2003年 8月

 
前月 幻想断片 次月

2003年 8月の幻想断片です。

曜日

気分

 

×



  8月31日− 


[弔いの契り(23)]

(前回)

「ひっ……」
 ガキは息を飲み、目を見開き、タックの顔をまじまじと見つめた。暗いので細かな表情の移り変わりは判別できねえが、きっと眉をつり上げて、恐怖に怯えきってるんだろう。ところで、やつは何を恐れてるんだ? 本当に〈俺たち〉を怖がってるのか?
 数瞬後、やつは諦めきったようにうつむく。膝にも力が入らず、その場に座り込む――それは言葉よりも雄弁な回答だった。
 秋の涼しい夜風が、俺たちのいる屋敷の壁際をかすめて通り過ぎると、庭の草が微かな音を立てる。俺は寒気がして腕と首筋に鳥肌が立ったが、それは風のせいじゃねえ。あの不快な、執事の血走ったような暗い視線、赤い眼を思い出したからだ。

「話してくれませんか。僕たちはしょせん流れ者ですから」
 タックはひどく優しい声で語りかけた。俺は内心、苦笑する。
(流れ者って言ってもなぁ。多少は関わっちまったのに)
 儀典官っていう、式典の進行役を務めていたデミルに追っかけられたし。赤い眼の謎はともかく、ただじゃ済まねえだろう。
 そういえば、あいつ、なんか捨て台詞を吐いてたっけ……。
 落ち着いて思い出すと、俺の顔から血の気が引いていった。

『当方には人質がいるのですからな。覚えておくのですぞ』

 そうだ、俺らは〈多少〉関わった程度じゃねえんだ。この事件――敢えて事件と言うぜ――にどっぷり浸かってる当事者だ。
 今となっては明白な人質である聖術師のリンを、みすみす男爵に渡してたまるか。理由は分からねえけど悪い予感がする。
「おい、なんで村に若い娘がいねえんだ。リンをどうする……」
 つい気持ちが高ぶり、声が大きくなってしまった。すかさずタックが厳しく割り込み、相変わらず冷静な口調で俺を叱責する。
「シッ! ケレンスは黙ってて。まずは聞くんです」
「ふん……」
 俺は鼻で笑い、強気の態度を装ったが、心の中には不安の根がはびこっていた。五年前からの村の急激な停滞、ダンスパーティーの参加者の妙な年齢構成、そして執事の紅の眼光。今宵の満月まで、訳の分からねえ物の怪の顔に見えてくる。

 俺は口をつぐんだ。タックも得意の弁舌をいったん休める。
 ここでは会場の楽の調べも、ダンスの足音も聞こえてこない。黙っていると、色々な種類の秋の虫の歌声が耳に入ってくる。中年の男三人が奏でていた貧相な合奏より、満天の星空の下で続く、二度とない不規則な和音の方が俺は遙かに好みだ。
 その頃になって、ようやく震えの治まった年下のガキが、重い口を開いたのだった。強い恐怖と憤りを込め、そいつは語る。
「あの眼、姉さんと同じだった」
 タックの顔が微妙に動き、瞳がきらりと光る。どうやら〈静かにしていて下さいよ〉と釘を刺しているらしい。俺は腕組みする。

 砂時計の砂が止まりそうなほど極度な緊張感の中、村の子供はかすれ声で――だが、しっかりとその言葉を喋ったのだ。
「いけにえに……」


  8月30日○ 


[ララシャ王女の近況 〜計画〜(上)]

「なんであいつら、夏の間、一回も来なかったんだろ。秋になっちゃうじゃないの。ほんと頭くるわ、ふざけんじゃないわよっ!」
 おてんばで格闘好きなミザリア国第一王女のララシャ嬢は、ここのところ警戒が厳しく、思うように居城を脱出することが出来なかった。町の自由な空気と離れ、鬱屈した思いが募り、ごく最近王女の担当になった年増の侍女に不満をぶちまけた。
 立派な椅子に座ったまま唇を噛んで地団駄を踏む王女の襟元を整えつつ、三十路過ぎのベテランのマリージュは応える。
「あいつら、と言いますと……?」

 マリージュはもともと、ララシャ王女の母親であるミネアリス王妃付きの侍女であった。何の仕事でもじっくりと確認し、焦らず地道に取り組むマリージュは、テキパキとした働き方を望むミネアリス王妃から密かに敬遠されていた。王妃は表向き、そのような素振りはほとんど見せなかったし、陰口を叩いたりすることも滅多になかったのだが、二人の性格が残念ながら合わないのは確かであり――それは良くある不幸の一事例であった。
 それでも自分を信じ、働いてきたマリージュは、王宮入りから十年目の二十五歳になって遅めの結婚を果たす。それから七年間は子育て等に翻弄されたが、次々と辞めていくララシャ王女の侍女を補うため、経験のある彼女に白羽の矢が立った。
 料理人の夫ともども王宮内に宿舎を宛われていたが、仕事の日は子供たちを侍女棟の保育部屋に預け、マリージュは三十二歳で復職した。くすんだ金の髪を持ち、眼は垂れぎみで、容姿はパッとしない中肉中背の女性であるが、穏やかな表情と語り口が印象に残る。わがままがひどいと噂され、不人気なララシャ王女の担当でも、彼女自身は全く心配していなかった。
 他の若い侍女のように物怖じせず、しかも王女への敬意を忘れぬ。話を良く聞き、決して邪魔をしない。王女が無理難題を言っても決して嫌な顔をしないで、相づちを打つ。説教臭くない。
 ミネアリス王妃とは合わなかったマリージュは、王妃よりも扱いが難しいとされたララシャ王女から、即座に信頼を得ることに成功する。誰かを頼りたかったララシャ王女と、仕事は速くないが包容力のあるマリージュ――二人の相性は抜群であった。

 王女はむっつりと下を向いてしまい、マリージュはつぶやく。
「とても大切な、お友達なのでしょうかね……分かりませんが」
 決して回答を求めたり、自らの考えを押しつけようとしないのが彼女の話し方の特徴だ。ララシャ王女は無駄な肉のない肩をぴくりと動かし、きれいな青い瞳を瞬きさせたが――その直後、椅子に腰掛けたままうなだれ、恨めしげに悔しそうに語った。
「別に、友達っていうより……まあ、千歩譲って、そういうことにしといてやってもいいわよ。向こうは単なる庶民なんだけど!」
 声を低くして喋り始めたララシャ王女だったが、最後は興奮して捲し立てた。その様子から、経験を積んだマリージュはララシャ王女の友達への思いがとても深いことを察知するのだった。


  8月29日○ 


ルデリア世界 - 幻術]

 創造神ラニモスより妖精族に与えられた三系統の魔法の一つ。ルデリア世界の源である七力(しちりき)のうち〈夢幻〉の力を背景とし、主として相手の精神や心理状態に影響を与える。
 特定の一人に幻の火を見せたりすることは比較的たやすいが、軽い暗示、睡眠、魅了、記憶喪失、心神喪失、精神支配と、段階が上がるに連れて術者の魔力が試される。相手が動物などであれば成功の確率は上昇するが、人間相手ではぐっと失敗の可能性が高まり、特に自らの精神に障壁を作ることが出来る幻術師同士ともなると、それは目に見えぬ精神戦へと展開する――負けた者は脳に異常をきたし、発狂して死亡する。
 ある程度以上の幻術は、人間の世界においては固く禁じられている。個人を、最もその個人たらしめている〈心〉が他の者に操られたら、秩序も安寧も、真実さえ消え失せてしまう。幸い、高度な幻術は人間の世界には殆ど伝播しておらず、仮に知っている者があったとしても自由に使いこなすのは至難の業だ。

 幻術は月光術に匹敵するほど、扱いの難しい魔法とされる。物質文明よりも、むしろ〈精神文明〉ともいうべき歴史を重ねてきた妖精族には相性がいいが、人間が使いこなすのは困難である。肉体が華奢で、戦闘意識も低い妖精族が自らの版図を守れるようにするため、創造神ラニモスが与えたとされている。

 幻術を司るのは〈夢幻の神者〉のファナである。百二十年を生きたとされるが、長命な妖精のメルファ族としては二十四歳程度という若く神秘的な女性で、絶海の孤島フォーニアの、亜熱帯の森林の最奥に暮らしていると言われる伝説的な人物だ。
 もともとは妖精族に与えられた月光の神者、および草木の神者は人間に強奪されて久しい。妖精族としては最後の神者になった〈夢幻の印〉を守るため、年老いた前代の〈夢幻の神者〉は、自らの死に際して後継者を辺境のファナに託したと言われる――が、それとて人間が想像力で補った一つの仮の物語に過ぎない。彼女が住むと言われる〈魔幻の塔〉の真相、そしてファナの存在すら、今もってルデリアの究極の謎の一つである。
 


  8月28日− 


[雲のかなた、波のはるか(6)]

(前回)

「はぁ、はぁ……」
 レフキルは肩で息を整え、立ちつくしている。それでもまだ彼女はいくぶん余力を残しているように思えた。額やこめかみは汗ばんでいたが、流れるほどでなかったのが何よりの証拠だ。
 目の前には、低い灰色の雲の天井を突き抜け、町で一番高い海神アゾマールの神殿の尖塔が建っている。島国のミザリアでは漁師や船乗り、海女が多い。海と嵐を司るアゾマールは畏敬と畏怖の対象であり、古来より特に強い信仰を集めている。

 地上ではそれほどでもないが、風は猛烈な勢いで分厚い雲の大陸を西から東へ飛ばしていた。海の底にいるような潮の香りは、見えない雨が降り続くように鼻腔を刺激した。まさに海神を思わせる、荒くれた、しかも不思議さと懐の深さを内包した空模様だ。呼吸は落ち着いてきたが鼓動はむしろ速まっている。
(〈ぶち〉をしまっといて良かった)
 飼っているパリョナの〈ぶち〉を小屋に繋いだことを思い出し、レフキルはほっと胸をなで下ろす。南国原産のパリョナは、猫くらいの大きさの人なつこい生き物だ。キリンに似て首が長く、背中には天空の魔力を帯びた翼を生やし、ゆっくりとではあるが自由に飛ぶことが出来る。つぶらな瞳は愛らしく、きちんとしつけられた〈飼いパリョナ〉は割と人気がある。レフキルが飼っている雄のパリョナは青い毛に黄色いまだら模様のため〈ぶち〉と名付けた。強風と海の匂い――のんきで小さな生き物が散歩ならぬ〈散飛〉を楽しむには、今日の空はいささか激しすぎる。

 その時、不規則な足音が近づき、聞き慣れた声が交じった。
「レフキルぇ、はぁ、早すぎますの……」
 頭にも首筋にもびっしょりと汗をかき、チェックのワンピースの背中を湿らせて、サンゴーンが到着した。大して気温は高くなかったが、イラッサ町の夏には珍しく、今日は湿度が高かったのだ。むろん、サンゴーンがあまり運動を得意としていないことも汗だくになった理由の一つである。細い足はふらつき、杖代わりの黒いこうもり傘で身体を支え、いくぶん前傾姿勢になる。
「あれっ? ついてきてたから大丈夫だと思ったんだけど」
 やや長いリィメル族の耳をぴくりと動かし、レフキルは深い翠の瞳を大きく瞬きして振り向いた。決して親友を置いてきたつもりはなく、はやる気持ちを抑えつつも距離が離れすぎぬよう気を遣ったつもりだったので、サンゴーンの遅れは意外であった。
「ごめんサンゴーン。何かあったの?」
 レフキルがすかさず訊ねると、友は左手で心臓の辺りを抑えつつ顔を上げ、右の人差し指で爪先を示し、弱り顔で応えた。
「最後の最後で脱落ですの。足を吊っちゃいましたわ〜」
「平気? 治った?」
 顔を曇らせるリィメル族の少女に、サンゴーンは精一杯の笑顔をふりまく。火照った身体も少しずつ落ち着きを取り戻した。
「ハイですの。今のところ、落ち着きましたわ」
「良かった。じゃ、いよいよ……」
 レフキルの視線は言葉よりも雄弁に、尖塔を見据えていた。


  8月27日− 


[天音ヶ森の鳥籠(4)]

(前回)

「鳥さんたちの歌声、とってもきれいだねー」
 歩きながら語りかけたのは、薄緑色の髪と瞳の小柄な少女、十五歳のリンローナだった。地味な服装で飾り気も色気もほとんど無いが、容姿は恵まれており、可愛らしく穏やかな顔をしている。それだけに留まらず〈清楚で賢く、芯の強い部分を持っている〉という確固たる雰囲気を内面から微かに漂わせている。
 さて、リンローナは左手に硬い草で編まれた籠を持ち、右手には長い杖を手にしていた。聖術師の彼女の魔法を多少増幅させる効果があるとともに、急斜面の続く山道を歩く際には杖が一本あるだけで、だいぶ楽になる。体力に自身のない彼女の必需品である。最悪の場合は身を守る簡素な武器にもなるはずだが、幸い、リンローナにはまだそういう機会がなかった。

「まあ、天音ヶ森っていうくらいだからな……」
 少し間を置いてから返事をしたのは、先頭を行き、得意の剣さばきで道を切り開いてゆく金髪の少年、剣術士のケレンスである。獣道を進んでいるので全くの藪の中を歩くよりは圧倒的にマシだが、伸びた木の枝が飛び出していたり立木が倒れたりしていて、場所によっては困難を伴う。蜘蛛の巣も払わなければならないが、さすがに愛剣を蜘蛛の糸まみれにするのは嫌なようで、ケレンスは腰の剣だけでなく、木の枝を一本持っている。

 彼の後ろから背の低い身体で懸命に追ってくるのがリンローナで、足下に注意しつつもキノコや山菜がないか調べている。
 妹に続き、しんがりを務めていたのが姉のシェリアだ。何となく不満そうな表情のまま、ろくすっぽ喋らずついてくる。魔術師であるシェリアは、ルーグとタックがいる野営場所の荷物の中に杖を置いてきた。その代わり、魔力を帯びた小さな紫水晶のペンダントをお守りとして胸元につけている。山菜摘みの籠を抱えているのは妹のリンローナと同じだが、赤い長ズボンを履き、薄茶色のつばのない帽子をかぶり、全体的に垢抜けている。

 見えない命のかぎろいを含んだ不思議な湿り気の奥深く、夏空に生い茂る碧の葉を揺らして木洩れ日の流れを堰き止め、シダ植物に挨拶をして、すがすがしい風が通り過ぎる。森の香りと、花のおしべ、そして麗しい小鳥たちの歌声を乗せて――。
 いくつもの丘や草原、山や嶺を越えて旅してきた三人の冒険者だが、確かにこの森の楽の調べは群を抜いた素晴らしさだった。今となっては村長代理が自慢げに話していたのも分かる。
「天音ヶ森には、むがし(昔)から、唄好きの鳥が集まるだよ」
 向こうから曲がさざ波のように始まったかと思うと、こちら側が掛け合いを奏する。歌い方も高さも異なる――そもそも鳥の種類が違うのだろうが、うるさくない程度のさわやかな声色が合わさり、音符は宝石のようにちりばめられる。休符さえも意味を成し、和音は融合する。森は一つの巨大な舞台となっていた。

「んんんん〜ん」
 森の中は思ったよりも坂道が少なく、普段よりも体力的な余裕があったのだろう。鼻歌を唄い出したのはリンローナだった。


  8月26日− 


[折節(おりふし)とともに]

「ふわぁー」
 足を伸ばして草の上に座っていたシルキアは、一気に力を抜いた。口を開いて思いきり息を吐き出し、上半身を倒して大地に委ねる。目の前には尽きることのない青い空が広がってゆく。
 茶色の髪の毛の上に、麻で作られた姉とお揃いの白い帽子――頭を入れる部分は焦げ茶色の模様入りの布で縁取られ、ちょっとした料理人を思わせておしゃれに膨らみ、後ろに二本の細長い布を垂らしている――をかぶっていたシルキアの後ろ頭は何の衝撃も受けることなく地面にたどり着いた。草原を埋め尽くす、ふんわり柔らかな草花たちがそっと支えてくれたのだ。
 それらは天然のじゅうたんでもあり、枕でもあり、そしてベッドでもある。さわやかで微かな、ほんのり甘い香りと、くきの生命力あふれる匂いにつつまれて、心の底から解き放たれた気分だ。ありきたりの言葉では表現できないほど居心地が良く、十四歳のシルキアの表情はこぼれ出すほどの幸せにあふれている。にやけるのではなく、素直で清らかな少女らしい笑顔だ。
「ふふふ……」

 森から飛び出してきた親鳥が、次なる季節の訪れを麗しく褒め称えながら、夏よりも明らかに天井が高くなった空にしなやかな影を描いている。降り注ぐ光の粉はだいぶ和らいでいたが、さすがにまぶしく、直接見つめると瞳を射られる。思わず目をつぶっても、太陽の形はしばらく残像として残っていたし、それが一段落しても、まぶたを閉じた世界はぼんやりと明るかった。
 汗で少し湿った衣服は、風が冷ましてくれる。今日のシルキアは、青い長袖の服を着て同じ色のズボンを履き、エプロンの前掛けを想起させる薄水色のスカート状の布を垂らし、それを腰の後ろで結わえていた。きれいな若々しいうなじを見せた開襟の首周り、肩や腕の辺りには、薄紫色の繻子の織物を掛けている。上着やマントにしては短すぎるが、小さなリボンがついており、山里の娘のシルキアをとても洗練された少女に見せている。それはサミス村に避暑に来て、シルキアの家族が経営する宿に泊まった貴族がくれた、お気に入りの飾りだったのだ。

 寝返りを打っても、草花はこうべを垂れるだけで、シルキアの身体をしっかりと健気に受け止めている。少女の方も、せっかくの素敵な敷物を傷めないように注意しているから無惨に花が散るようなことは決してないが、その代わり草まみれにはなる。
「ん?」
 蟻が顔の上を這い、思わずシルキアは身を起こして弾いた。
「ひゃあ。びっくりした!」

「気持ちいいのだっ……」
 シルキアのそばでは、姉のファルナが口を半分開け、身体の力を全部抜いて、地面の一部と化していた。白地に花柄のワンピースをまとった十七歳のファルナは、恍惚とした表情で横になり、軽く瞳を閉じている。気温は暑すぎず涼しすぎず、鳥の歌も、花の香りも――寝転がるには最高の場所と陽気であった。
 シルキアは身を乗り出し、姉の顔を覗き込んで呼びかける。
「お姉ちゃん」
「ん……」
 ファルナは既に半分以上、夢の中へ足をつっこんでいる。二人は茶色の髪も瞳も良く似ているが、姉はやや長い髪を今日は結ばずになびかせ、妹の方は肩の辺りで切り揃えている。

 風がやんだ。ふと、シルキアのいたずら心がうずき出した。
「お姉ちゃん、聞いてるの〜?」
 妹は素早く移動し、姉の脇をくすぐる。ほとんど居眠り状態だったファルナは大慌て。笑いながら身をよじり、悲鳴をあげる。
「ひゃ、やめるのだっ、シルキア!」
 花に迷惑をかけないよう、シルキアの攻撃はさほどではなく限定的なものだったが、まだ完全に目の醒めないファルナは抗戦する力もなく、うつぶせの体勢で丸まってしまう。冬の朝、ねぼすけの姉を起こす妹の攻撃が、久しぶりに復活した瞬間だ。
「参りましたよん……」
 ファルナは敗北を認めるが、しだいに可笑しさがこみあげる。
「はははっ」
「ふふ……あはは、はは」
 シルキアもつられて、朗らかな姉と向き合い、笑うのだった。

 全ての色を持つ〈フラーメ高原〉は、早くも秋の装いが始まっていた。お祭り騒ぎのように短いきらめきの季節を謳歌した夏の花の群生は、今や緑の野原になっていたが、代わって秋の花の咲く辺りが地味ながら静かに最盛期を迎えようとしている。
 不思議に薄青い、地上の蝶のごとき露草はつぼみを開いて、小さな星を思わせるリンドウは清らかな藍色の夢をかなえる。

 季節に彩られた道を踏み、衣替えを予感させてわずかに色褪せた森を抜け、家路をたどる仲良し姉妹の影が長くなる――。
 


  8月25日△ 


[虹あそび(14)]

(前回)

「どうしたの、レイっち?」
 青い目を丸く広げて、ナンナは隣の同級生に訊ねました。都会ではあまり馴染めなかった風変わりな魔女の卵が、カサラおばあさんに連れられて越してきた田舎のナルダ村では、彼女の大雑把な性格も個性の一つとして受け容れられました。友も増え、中でも心から信頼できる親友が村長の娘のレイベルです。
 その真面目な優等生は、ぬばたまの黒い前髪が落ちてくるのも気にせず軽くうつむき、感情を抑えた低い声で応えます。
「なんだか、かわいそうで……」
「かわいそう?」
 ナンナはレイベルの言葉を繰り返したきり、口をつぐみます。

 速い流れのちぎれ雲が太陽を隠しました。世界は西の方からいっせいに薄暗くなり、野原の緑はくすんだ色に変わりました。雲が地上に灰色の幕を掛けてしまったかのようです。頬をなでる風の流れや草の揺れる音さえ、少し不気味に感じてきます。
 その間にも、小さな魔女が投げた〈闇だんご〉は空のかなたにたどり着き、虹の橋を変形させました。もう原形をとどめていません。七色は鮮やかに濃くなり、鏡で乱反射させたように絡み合って、巨大なシャボン玉が天高く生まれようとしていました。
 やがて雲は駆け去り、暖かな春の光が降り注ぎます。すくった両手から水が滴り落ちている時に、その手をだんだんと広げてゆくような――最初はきらめく宝石が見え、そのうち細い直線となって、ついには大地の上に光の領域が増えていきました。

「うーん。何が、かわいそうなの? わかんないよー」
 しばらく考えていたナンナは首をかしげて腕組みし、頼りなさそうな声で、ひどく困惑して言いました。怒ってもいませんし、悲しくもありません。ただひたすら、彼女はレイベルの言葉が不思議で仕方なく、どうしても理解することが出来なかったのです。
 少女は一瞬のためらいを振り切り、勇気を出して訊ねます。
「虹あそび、つまんなかった? なら、違うことして……」

「そうじゃないの!」
 レイベルはさっと顔を上げて、相手の目を見据え、普段とは違う厳しい口調で叫びました。激しい稲妻が弾けた感覚が小さな魔女を捉え、心臓は飛びはねて、指先がぴくんと震えました。
「ひっ」
「そうじゃないの……とても楽しかったのだけど。ナンナちゃんに悪気がないことも分かっているわ。だけど、だけど、ね……」
 レイベルは思わず視線を逸らしました。笑顔の似合うナンナの表情が、さっきの鋭い一言で凍りついていたからです。レイベルの心は冷めて、あっという間に友達への申し訳ない気持ちに変わりました。悪いことをすぐ認めるのは彼女のいいところです。
「ごめんなさい。私、ナンナちゃんを怖がらせるつもりはなかったの。それに虹あそびが面白かったのも本当よ。でも一つだけ」
「うん。レイっち、気にせず話してみてね☆」
 ナンナは無理矢理に痛々しく笑顔を取り繕いました。
 息を飲み、黒い瞳を瞬きし、レイベルは大きく息を吸います。
 そしてついに思い切り、やや早口で本音を語るのでした。
「笑わないでね。わたし、虹さんが気の毒でかわいそうなの。だってあんなに背中が曲がって、だんごみたいに丸まって……」

「話してくれて、ありがとね。ナンナ安心したよー」
 レイベルの考えを決して否定せず、しっかりと受け止めてから、ナンナはまず自分の思いを語り出します。お互いの違いを認めた上で歩み寄る大切さを、村での穏やかで伸びやかな暮らしの中で彼女は知らず知らずのうちに身につけていました。
「ナンナね、さっきは確かに、虹さんは〈闇だんご〉の夜をいやがって身体をくねらせるって言ったし、確かにおばあちゃんからもそう教わったんだけど……今はちょっと違うかな、って。たぶん虹の橋だって、まんざらじゃないと思ってるような気がするよ」
「そうかしら……」
 心配性のレイベルを励まし、ナンナは天の頂を指さしました。
「だって、あんなにきれいなんだよ〜、虹のお化粧☆」


  8月24日△ 


[弔いの契り(22)]

(前回)

「どこへ行きおった……」
 暗い回廊を、靴音を立てて歩いているのはデミルのじじいに間違いねえ。ランプの光に輝く眼鏡のレンズと背の低い体格、焦った歩き方と恨みがましい低い声が本人であることを示している。タキシードの黒いズボンを履いてるから、闇の奥底に白いシャツだけが浮かび上がって見え、足のない幽鬼を思わせる。
「当方には人質がいるのですからな。覚えておくのですぞ」
 ――いや、もしかしたら本物の亡霊だったのかも知れねえ。
 デミルの血走った赤い目が、俺たち三人のとっさに隠れた茂みを見つめた時、俺の体中の血という血は凍りつき、驚愕の表情を顔に張りつけたまま息を飲んだ。呼吸が止まり、こめかみがドクンドクンと動いている。俺が冒険者で、これまで色々なものを見て来なかったら、間違いなく悲鳴をあげちまっただろう。
 が、そんな俺でも、あの朱色の深淵には度肝を抜かれた。かつて触れたことのない、身の毛もよだつ〈昏い禁忌〉を感じる。
 どうやって表現したらいいのか分からねえが、例えば単なる鉄の塊のような――温かみがまるでなく、極めて非人間的だ。

 そうだ、あれは普通の人間の眼じゃねえ。その位は分かる。
 確かに俺は剣術士で魔法のことは詳しく知らねえけど、妖精族と会ったり魔獣と闘ったりして、それなりにお近づきになる機会もあった訳だ。けど、あんな危険な代物は初めてだと思う。
 全ての感情を無理矢理に埋め込まれたために、全ての感情を失ってしまったような視線。幼い日、ミグリ町の広場の片隅で絵を描いていた画家を思い出す。パレットの上で色が重なれば重なるほど、元が何だか分からなくなり、それは不気味な黒に似た色――しかも黒ではない――に近づいていった。ずっと忘れてた、そんな昔の情景が俺の脳裏をかすめて行き過ぎる。
 たった一瞬、しかも間近ではなく少しは離れてたのに、執事の目は俺に強い印象を植え付けた。遅れて腕に鳥肌が立つ。

 澄みきった秋の夜風が心を少し落ち着かせてくれる。激しかった鼓動も徐々に安定してきた。妙に冷えると思ったら、俺は背中や額、脇の下やすねの辺りに、びっしょりと汗をかいていた。
 誰の足音も聞こえねえ。張りつめていた神経の何割かを和らげると、肩がずっしり重くなる。完全に気を緩めるのはまだだ。
「ふぅー、退こうぜ。壁際まで」
 俺は古い息を吐き出しつつも可能な限り声をひそめ、横の長年の相棒であるタックと、巻き込んじまったガキに呼びかけた。
 物わかりのいいタックは、ガキの手をつかんで促す。俺たちは周りを警戒しながら、しゃがんだまま素早く動き、丈の長い雑草に気をつけながら屋敷を囲む壁際まで撤退する。妙に明るいと思ってたら、まん丸い今宵の月が東の方角に浮かんでいた。
 満月は人の心を惑わせ、魔法の力を引き出すのよ――。
 確か、魔術師のシェリアが教えてくれたような気がする。

 俺たちは背中を石の壁に預け、いつでも逃げられるよう立て膝で待機する。ここは門からも離れてるし、もともと番人も少ない。ダンス会場や回廊からも遠いから、とりあえず大丈夫だろう。唯一の心配の種は空を昇り始めた望月の明るさだが、それは俺らの道しるべにもなるわけだな。吉と出るか凶と出るか?
 例のガキは黙ったまま視線を下ろし、小刻みに震えている。

 口火を切ったのはタックだった。やつは穏やかに訊ねる。
「あなたは、あの目……執事の目を知っていますね」


  8月23日− 


[夏の終わりに]

「広いね……とっても」
 橋の欄干(らんかん)の棒をつかんだまま、小学二年生の麻里は遙かな高みをあおいだ。横顔は健康的に日焼けして、左右に分けた三つ編みの黒髪に白い帽子が良く似合っている。
 昼の暑さを和らげ、人の心まで優しくする気持ちいい夏の終わりの夕風が、麻里の背中や頬を撫でて幾度も通り過ぎる。
 河のそばでは、町の家々から解放されて、空は楽に息を吸ったり吐いたりしている――ように、麻里は感じた。下流の河川敷は幅があり、それに比例して空は果てしなく拡がっている。
「麻里に、この空を見せたかったんだよ。お父さんは」
 傍らに立っている背の高い父が、娘に語った。彼の視線も天に向けられている。不思議な形の雲が浮かぶ夕焼け空を眺めていると、天の真ん中をフワリ旅するような開放感が得られる。

 空が、近い。そよ吹く風と、自らの鼓動がしだいに重なる。

「普段は忘れていた広さよね……それに、あの色」
 母がつぶやいた。懐かしそうに緩んだ眼差しの彼方には、雲のはざまに、自らの少女時代が見え隠れしているのだろうか。
 天の頂の辺りは、透明感と気品と清楚さを兼ね備えたおとぎ話の姫のドレスを思い起こさせる蒼で、少し薄暗くなり始めている。だんだん視線を下ろしてゆくと、西の空は明るくなって昼間のような空色に変貌を遂げるが、いくら似ていても決して同じではない。池の水かさが増すように、夜を控えた黄昏の空は深みを加えている。昼と夜がいっしょに時を紡ぐ神秘の刻限である。
 水色の下は黄色の絵の具の分量が増える。そしていよいよ橙に染まり、雲に半分姿を隠した太陽にたどり着く。何もかもを容赦なく照らしつける午後の光の押し売りは既になりを潜め、円熟した壮年の雰囲気を漂わせる。真の暖かみを持つ夕暮れの輝きをしっかりと受け止めて、麻里も、父も母も、顔は紅に染まっていた。その間にも、朱い炎は雲の海に沈んでゆくのだ。
 誰にも表現できない一瞬ごとの芸術が、時を越えて展開されている。太陽の位置、雲の形、それを見る者の心模様――。
 巨きな空の下では、小さな自分の小さな悩みは浄化される。

「今日は不思議な雲がいっぱいだね。誰かがお習字の筆を綿菓子の硯につけて、白くてフワフワの墨で描いたみたい……」
 川辺に座って水の流れに足をひたしたり、おやつを広げるのも楽しかったが、麻里は今、手の届きそうな大空に夢中だった。

 次の刹那、少女の素直な黒い瞳が、とある一点に集中する。
「あっ!」
 赤い光が、足元の影法師よりも限りなく細く長く伸びて――。
 今日の太陽は、空に散りばめた炎の名残の色を置き土産に、雲の後ろへ隠れた。まだ正確な日の入りではないが、事実上、夕方は果てた。それは絶対的で避けようのない運命の訪れでもあった。麻里はしばらく黙ったまま、神妙な表情で夕陽のいた場所を見つめていた。一段と涼しくなった風が襟元を揺らす。

 橋の上の歩道を自転車が駆け抜けた。見知らぬ人たちが犬の散歩の途中で立ち話をしている。遠くでカラスの声がする。
「そろそろ帰ろうか」
 父の言葉に母はうなずきつつも、自らの疑問を投げかけた。
「夕食はどうする? 帰ってから作ると、遅くなっちゃうけれど」
「よし。じゃあ、デパートに行ってみないか?」
 父の提案に素早く反応したのは、意外にも麻里であった。
「お子さまランチがいいな」
「ええ、じゃあ、そうしましょう」
 母も笑顔になるが、手に持っている弁当の空き箱を持ち上げ、夫の水筒とお菓子のゴミ袋を指さして、軽く肩をすくめる。
「車じゃないと、移動が大変ね。電車で、乗り換えて……」
「たまにはいいだろう。こうして空を味わえたのだからね」
 夫が何の迷いもなく、誇りに充ちて言うと、妻も賛同した。
「それもそうね、電車でも遠くはないし。麻里ちゃん、平気?」
 母は娘に訊ねた。ちょうど強い風が吹いたので、麻里はお気に入りの白い帽子を手で抑え、それから元気良くうなずいた。
「うん!」

「また来ようね、お父さん、お母さん」
 手をつないだ家族の後ろ姿が、橋の向こうに黒く小さくなる。
「バイバイ、空さん」
 麻里の囁きは、幕を開けた新しい夜に吸い込まれていった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

夏の終わりに
 


  8月22日− 


ルデリア世界 - 魔術]

 創造神ラニモスより人間族全般に与えられた魔法を指す。ルデリア世界の源をなす〈七力〉のうち、どの力を背景にしているかによって火炎魔術・大地魔術・天空魔術・魔術の四系統に分かれる。魔力を持つ者(ほんの僅かでも妖精の血を引いていることが条件)が魔法に適した精神集中の方法を身につければ、人間族への適性は高く、比較的容易に扱えるとされている。
 術者の性格により、四系統の得手・不得手がある。例えば、情熱的で直情的な者は火炎魔術を得意とし、他方、氷水魔術には長けていない。外向的な性格だと天空魔術が上手く、内に秘めた優しさや強さを持つ者は大地魔術を好む、などである。
 物理的に何かを発生させたり、組成を変えたりする術が多くを占めることも魔術の特徴である。代表的な火炎魔術である〈ドカ〉は指先から炎を発生させ、修行を重ねれば直線的に飛ばすことも出来る。抽象的ではなく具体的なもの、目に見えないものではなく目に見えるものを操作することを、魔術は得意とする。
 なお創造神ラニモスは妖精族に月光術・妖術・幻術を与えたが、こちらは精神的なものや目に見えないものの扱いを主としており、人間が得意とする魔術とは様相が大きく異なる。月光術は精霊界からの魔獣の召喚を、妖術は草木を始めとする自然の生命力を増幅させ、幻術は相手の精神に影響を与える。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 魔術は聖術に比べると、あまり実生活上では役に立たぬ技術である。そもそも魔法を体系的に教える学院は都市にしかなく、その中から大学へ進学する者はさらに一握りである。学院では専門的な技術だけでなく一般教養も幅広く教えるので、生徒の多くは商人や役人を目指す。中には、公務員の一形態である冒険者を志願する少年少女もいる。逆に魔術師を目指す者は大学に進学し、卒業後は魔術師ギルドに加入して教師や研究者になったり、店を構えて魔法薬の薬剤師になったりする。
 魔力を帯びた道具商人も人気だ。炎の魔法を固めて作った、暖炉の薪を燃えやすくする火の粉は重宝され、高値で取り引きされるし、風が無くても回る小さな風車は貴族に人気がある。

 魔術は使い方によっては非常に危険であるため、各町では魔術師ギルドが組織され、厳重に管理している。必要以上の伝播を防ぐ協同組合で、加入しないと高度な書物は読ませてもらえない。もぐりを防ぐ一方、秩序を乱す者は厳しく罰せられる。
 また、市中には魔術師ギルドの上位の者による見えない結界が張られ、いつどこで誰が魔術を使ったかを昼夜問わずに監視している。また、結界の内側では全ての魔術の効果が弱められる。例えば炎を作る〈ドカ〉は、町の内外では炎の大きさが大きく異なる――町では、せいぜいロウソク程度の炎しか灯らないのである。なお魔法学院の一部では、生徒の実技演習や勉強のため、敢えて結界が弱められている場所も存在する。
 ただ学院のない小さな山村や農村、漁村では魔術師自体がいないことも多く、そのような場所では魔術師ギルドはおろか、当然のごとく結界さえ張られていない。山間部や野辺をゆく冒険者が魔法の力を存分に発揮できるのは、このためである。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 魔術を司る〈神者〉は系統ごとに存在する。火炎(赤)はメラロール王国のメラロ国王、大地(橙)は獣人代表のトズポ氏、天空(水色)はノーザリアン公国のヘンノオ公爵、氷水(青)は南ルデリア共和国代表のズィートスン氏と、支配者層ばかりである。もともとは遙か昔、リルデン町にいる大神者(聖王)の初代が神者の印を四つとも与えられたが、政争の具や交渉に用いられて次第に散逸し、今ではただの人になってしまった。獣人族と和解し、ラニモス教に改宗させるため、当時のメラロールの国王が獣人の代表に〈大地の神者〉を譲渡した話も有名である。
 


  8月21日− 


[雲のかなた、波のはるか(5)]

(前回)

「そうですわ。十年前……六歳?」
 サンゴーンは我に返って、ぽつりと独りごちた。レフキルはその微かな言葉をリィメル族のやや長い耳で捉えたが、一瞬、相手の言葉を聞き間違えたかと思い、軽い疑問形で復唱する。
「六歳?」
 だが、口に出すことでレフキルは意外な事実に気がついた。彼女は顎にこぶしを当て、昔の記憶の糸を深くたぐり寄せる。
「そういえば六歳頃かも知れない。前、同じように感じたとき」
「十年経ったんですわ」
 万感の思いを込めて――しかもさらりとサンゴーンは語った。彼女の育ての親であり、イラッサ町の町長、そして前代の〈草木の神者〉を務めた祖母のサンローンは一昨年に儚くなった。

「……」
 理解して納得したわけではないが、レフキルは相手の話を遮らず、黙って聞いている。良い語り手はまず良い聞き手であると言われるが、彼女はまさにそのような人物の代表格であろう。
「あの雲の向こうに行く道が、あるはずですの」
 不思議な力に少し目覚めたのだろうか、サンゴーンは顔を上げて辺りを見回した。鋭い感覚、そして何より大らかで優しい気持ちは〈草木の神者〉を継承して身についたのではなく、もともと彼女自身の中にあったものだと、レフキルは固く信じている。
「十年経てば分かるって、おばあさま、言ってましたわ」
 サンゴーンの語調は弱まって、一抹のさみしさに彩られる。
「考えよう、サンゴーン。一生懸命に考えれば、きっと答えは出てくるよ。十六歳になったあたしたちの、今の知恵を絞って!」
「ハイですの……ありがとうですわ。サンゴーンも考えますの」
 友の温かい励ましに胸を打たれ、少女は神妙にうなずいた。

 二人は曇り空の遠くに眼差しを向けた。普通の道は地面の起伏に合わせつつも基本的には横に続くが、雲に繋がる通路ならば縦に伸びるはずだ。それを念頭に、視線を彷徨わせる――。
「ありましたわ」
 あっけなく答えが分かった驚き、見つかって良かったという安堵にサンゴーンは充たされた。レフキルの目の焦点も同じだ。
「間違いないと思うよ」

 町の真ん中に古くからある、石造りの神殿の尖塔。
 そこだけが唯一、雲の手前と向こう側とに触れている。
 薄い灰色の塔の頭は、濃い灰色の雲の中に隠されていた。

 二人は顔を見合わせ、目で同意した。瞳の放つ光は真剣そのものだが、まじめ腐っているわけではなく、これから起こるであろう出来事に期待している部分が大きかった。凛々しく結ばれた口元の片隅がちょっと緩んでいるのが、その証左である。
 必要以上の言葉は要らぬ。駆け出したレフキルを追って、サンゴーンは右手に黒いこうもり傘を持ったまま疾駆する。さっきよりも、風に溶けた潮の香はわずかに強まっているようだった。


  8月20日− 


[天音ヶ森の鳥籠(3)]

(前回)

「では、ここで落ち合おう。ケレンス、すまんがよろしく頼む」
 銀貨を飛ばし、その裏表で二つの班に分けた後、居残り組のルーグが言った。彼とタックが川辺で魚を釣ったり、枝を集めて湯を沸かしたりと野営の準備をし、残る三人――ケレンス、シェリア、リンローナは再び森に分け入って、果物や食用のキノコ、山菜などを可能な限り集めてくる。長旅ともなれば、この作業に五人全員で取りかかる必要もあるが、今朝は村でいくばくかの薫製の肉や川魚の干物など、簡単な保存食を譲り受けてきたため血眼になって探すことはない。食料の無償提供は、依頼を受ける際、冒険者側が村長代理に示した条件の一つだった。
 リーダーのルーグは、いかに剣術士のケレンスが一緒だとはいえ、女性の二人とも森の採集に行かせることを一瞬ためらったが、結局その迷いを表に表すことはなかった。五人を三人と二人に分けるのならば、絶対に安心できる組合せなど存在しない。それに、この辺りの森には奇妙な出来事が起きるゆえか、獰猛な動物は寄りつかないと村人は太鼓判を押していた。人間よりもはるかに鋭い動物の直感を、村の衆は信奉している。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

(常に快い鳥の唄が流れ、訪れたもんを落ち着かせるンじゃ)
 問題の〈鳥籠〉の底にうずくまり、必死に打開策を練っていたシェリアの脳裏に、方言混じりの村長代理の声がふと甦った。

「それなら、いい森じゃない。なんか問題あるの?」
 話の中身が理解できず、彼女は相手を問いつめたのだった。
「それがなァ、とんでもねぇんだ」
 祭りの実務の担当者なのだろう、村長代理は必死の形相で反論した。確かに彼の話は飛び飛びで、事実の断片が並んでいるだけだったが、それでも冒険者としては現状を一つずつ理解し、地道に、時には大胆に謎を紐解いてゆかねばならない。
「まあまあシェリアさん、まずは最後までお聞きしましょう」
 交渉役筆頭のタックは、シェリアを注意しようと口を開きかけたルーグをやんわり手で制し、怒りっぽい女魔術師をなるべく責めない言い方で注意深く釘を刺した。シェリアは口を尖らす。
「分かったわよ。続けて頂戴」

「鳥籠にいた気分だ、と被害者はしきりに語っておるンじゃが」
 タックを始めとする五人は、適度に相づちを打ちながら、壮年の村長代理の分かりづらい語りに精一杯、耳を澄ましている。
「鳥籠って何さ? 聞いても〈分がらね〉と……被害者はなァ」
「ええ」
 うなずいたタックの頭の中では、色々な情報が猛烈に駆け巡っているのだろう。他方、村長代理はマイペースに補足する。
「夏祭りが終わると、ひょっこり現れるンさよ。天音ヶ森からな」


  8月19日− 


[夜半過ぎ(21)]

(前回)

 ファルナはぼんやりと瞳を開けた。朝の新鮮な空気を縫って、輝かしい鳥の唄は窓ガラスに染み込み、微かに響いている。
 真夜中の寒さに身をよじり、頭まですっぽりと毛布の海に沈めていたが、遠い明るさを感じて無意識に顔だけを出してみると――カーテンの隙間が白い縦線になり、まばゆく光っている。
「ん……」
 遅い時間に動き回った割には眠気はそれほどでもなく、むしろすっきりしている。毛布の中は体温で暖まっているが、息をすれば鼻や喉は冷え切り、耳は痛い。雪がくれた適度な湿り気のお陰もあり、十七歳の彼女の肌は若く自然で瑞々しかった。

 整えられていない髪の毛も気にせず、ファルナは再び毛布の中に潜ってしなやかな身体を丸めた。そして大きく伸びをする。
「んーっ、朝なのだっ」
 寝る頃には冷え切っていた両脚は、今や程良く血が通っていて、まどろみの世界へいざなう。彼女はこの柔らかな眠りが大好きだ。抵抗せず心を任せて、気持ち良く二度寝をしてしまう。
(どうせシルキアが起こしてくれますよん)
 意識の奥で考えていた彼女は、まもなく浅い夢に舞い戻る。
 ――と思いきや。
(シルキア?)
 墜落する、すんでのところで妹が病気だと思い出した宿屋の長女は、勢い良く上半身の厚い毛布を両腕で跳ね飛ばした。
「シルキア!」

 夜とは違った意味での緊張感が部屋の中を充たしていた。冷え切った空気は鋭い刃物のごとく身体を切り刻もうとするが、凝縮したつぼみの開花前を思わせる神聖で厳かな期待に覆われている。地元の良質の木で作られた焦げ茶のタンスや戸棚さえ、生まれ変わったように真新しい影となってたたずんでいる。
 曇りや雪で始まる数日が続いた後に訪れた、久しぶりの晴れた朝だ。耳を澄ませば、軒下から腕を伸ばした氷柱(つらら)が緩やかに溶けて、こぼれ落ちる雫の爽やかな音楽も拾える。

 起き上がったファルナは、珍しく躊躇せずに毛布を払いのけ、右足を床に下ろした。ゆうべから靴下は履きっぱなしである。
「うー。寒いのだっ」
 あわてて上着を羽織り、腕組みして震えながら扉を開ける。
 木の匂いのする廊下は光にあふれ、一瞬だけ眼が眩んだ。

 ファルナは目的の場所に着くと、冷え切ったドアノブに触れ、息を飲んで注意深く右に回し、音を立てぬように引いていく。寝息も咳も聞こえない。その時――誰かのひそやかな話し声が流れてきて、彼女はドアを半分開けた状態で静止してしまう。

「おはよう。ファルナ?」
 すかさず問いかけたのは、まごう方なき母の声だった。
 茶色の髪の看板娘は安心し、一気にドアを開けて顔を出す。
「おはようですよん」
 娘が冴えた目のまま、母の影響で覚えた中途半端な敬語で挨拶すると、ベッドの傍らの椅子に腰掛けた相手は微笑んだ。
「ねぼすけのファルナが自分で早起きするなんて珍しいわね」
「うん。あの、シルキアの具合はどうなのだっ?」
 風邪をひいた妹を起こさぬよう、娘はささやくように訊ねる。

 直後、返事は思わぬ場所からやって来た――。
「おはよう、お姉ちゃん」
 喉を悪くして、少しかすれた声になってはいるが、応えたのは確かに三つ年下のシルキアだ。病み上がりの妹は毛布の中で反転し、姉と似ている茶色の前髪を左右に分けて顔を見せる。

 表情を歓びに爆発させ、ファルナは妹のベッドに駆け寄った。
「シルキア! 気分はどうなのだっ?」
「うん、なんかもう、すっきりしてるよ。身体はだるいけどね」
「良かったですよん……」
 ファルナは大きく息を吐き出した。肩が軽くなった気がする。
「この薬が効いたみたいだよ」
 妹は空っぽになったシチューのお皿を指さした。ゆうべ厨房にいた時、両親が捉えた二階の物音はやはりシルキアだった。

「さあ、カーテンを開けましょうね」
 窓辺に着いた母が厚いカーテンを引くと、光の洪水が部屋の奥の方まで射し込んでくる。外は一面の銀世界で、待ち侘びた陽をたっぷり受けて白い海のように果てしなく広がっていた。針葉樹の上にも新雪がきらきらと輝いていて、枝は重みに耐えきれなくなると首を垂れ、雪の固まりがドサリと落ちる音が響く。

 それは長い冬のうち、最大の険しい峠を乗り越えたと感じられた朝であった。いまだに冷え込みは厳しいけれども、二月の〈すずらん亭〉は揺らぐことのない温かな優しさにつつまれている。

「シルキアが元気になったら、また外で、雪の塔を作るのだっ」
「うん……ありがとう、お姉ちゃん」

(おわり)
 


  8月18日× 


[虹あそび(13)]

(前回)

「ふしぎ……」
 いつしかレイベルは空のかなたに見とれていました。虹の橋の下側にたどり着いた〈闇だんご〉はささやかなホクロのようでしたが、それは突然、シャボン玉のように――しかも、さっきのナンナのとは微妙に違う見え方で――弾けました。そして凛と張った漆黒の翼の幕を辺りに広げ、しだいに消えてゆきます。
 虹に対する効果は絶大でした。腰をくねらせ、伸びようとするのですが、すでに上の方には先ほどナンナが仕掛けた見えない夜の網がかかっています。遠いので詳しく判別できませんが、きっと〈闇だんご〉は風に溶けて散らばっているのでしょう。
 熱いゴアホープ茶に溶かした砂糖は見えなくなりますが、味は甘くなります。そして全ての色を塗りつぶす闇は、あらゆる色を持つ虹の正反対です。弾けた〈闇だんご〉が散りばめた一瞬の宵の中、昼の明るさに邪魔されていた星が垣間見えます。

 大陸の北東部から出たことのないナンナとレイベルは知りませんでしたが、光と闇がせめぎ合う美しさと面白さは、山の向こうにあるお隣りの国のメラロールで祭りの夜空に明るく映える、魔術師が操る〈花火〉と呼ばれる色の付いた炎と、どことなく似ていました。なお、この〈闇だんご〉の破裂は〈花火〉よりもかなり小さいので、空の彼方に目を凝らしていないとなかなか気がつきません。虹の橋が身をよじるのは分かりやすいのですが。
 そもそも〈花火〉は暗い空にあまたの光の模様を描きますが、二人の少女がこねた〈闇だんご〉は昼間に現れた夜のひとひらで、七色の虹の橋を驚かせます。弾けた〈闇だんご〉は、昼と夜が入れ替わっている〈花火〉、いわば〈逆さ花火〉なのでした。

「えへー」
 ナンナは鼻の頭を得意そうに人差し指の関節でなでました。はにかんだ微笑みを浮かべて、金の前髪を風になびかせたまま立っていましたが、やがて恥ずかしさを吹き飛ばす勢いで軽やかに腕を差し出し、目の前をふわふわと浮き沈みしている新しい泥の固まりを手に入れて、前に突き出すように放ちます。

 その頃、ナンナの投げた二つの〈闇だんご〉が虹にたどり着きました。黒い靄(もや)となって薄く広がり、消えかかる虹のたもと、左と右の出口をふさぎます。虹は上にも下にも伸びきれなくて、中央部へぎゅっと圧縮されます。七色の糸は鮮やかさを取り戻しつつ混じり合い、しだいに虹は横に長い、いびつな楕円形へと変化を遂げてゆきました――石鹸で出来た泡のように。

「レイっちも投げれ……どうしたの?」
 ナンナは青い瞳を見開き、あわてて親友に声をかけます。
 レイベルの表情は、いつの間にか曇っていたのでした。


  8月17日○ 


[洗練と優美の午後(4/4)]

(前回)

 最も姫君らしい姫君、姫君の中の姫君とも呼ばれるシルリナ王女の美貌と、優しい性格に関する噂は、やや尾ひれを付けて世界中を駆けめぐる。美しいものの、可憐というよりは凛々しさの目立つクリス公女(シャムル公国)、地味な印象が否めぬリリア皇女(マホジール帝国)、それなりに可愛らしいのだが性格や趣味嗜好の独特さにかき消されているララシャ王女(ミザリア国)に比べて、清楚なシルリナ王女の名は天下に轟いている。
 確かにシルリナ王女は立派な人物であろうが、この世に完璧な人間がいようはずもなく、王女自身がしたたかに情報を良い方向に動かして理想の人物像を作り上げていた面も否定できない。シルリナ王女もやはり人の子、たまには機嫌の悪い日があったり、悩みを一人で溜め込んで体調を崩すことがあるのを側近の者のごく一部は知っていたが、王国上層部により硬く箝口令を敷かれていた。そういう人心掌握や情報操作の点で、やはりメラロール王国は〈知の国〉という異名に相応しいだろう。

「さあ、わたくしの話はおしまいです。おやつにしましょう」
 シルリナ王女は手を叩いた。ほっそりと指の長い、雪のように白い華奢な手だ。侍女たちは夢から醒めきらぬ微睡みの眼差しで、自らの仕える美しく麗しい主人をうっとりと見つめていた。
「さっき頂いたけど、そのリンゴパイ、ほんっと美味しいよ〜」
 朗らかな笑顔でレリザ公女がお菓子の話を展開すると、皆は急速に現実へと引き戻される。侍女の一人が深く頭を下げた。
「光栄ですわ、レリザ様。またお作りいたしますわ」
「ありがとう! ぜひ、作りに来てねぇ」
 軽く同意した公女は、言いながらテーブルに右手を伸ばす。
「また、もらっちゃうね。頂きまーす」
 一口サイズに切られたパイをフォークで口に運び、レリザ公女は幸せそうに頬張った。今日の歓迎会の参加者は、基本的にシルリナ王女仕えの侍女のうちの主要な者であるため、レリザ公女とは普段、直接に関わる機会はあまり多くないのである。

「そうだ、いいことを思いつきました。レリザ?」
 思慮深い瞳を、シルリナ王女は仲の良い従姉妹に向けた。
「ん?」
 公女はやや細い茶色の眼で不思議そうに相手を見上げる。
 いつもの給仕服を脱ぎ、個性を生かす形でそれぞれに違った色やデザインの社交用ドレスを着用し、飾り立てた侍女たちの視線も興味津々そうに、自然とシルリナ王女へ集約してゆく。
「今度は、私たちがリンゴパイを焼きませんか?」
「ええっ? 私とシルリナで?」
 寝耳に水のレリザ公女は驚いて問うた。そして、実はもう一人、シルリナ王女自身による〈料理宣言〉に驚いた者がいる。
「シルリナ様が?」
「そうよ、エレーヌ」
 耳を疑って聞き返した新人のエレーヌに、王女は説明する。
「例えば貴婦人の方々とお話しする時、お料理は良い話題になります。何でも経験した分、世界は拡がるのですよ。それに、たまには手や身体を使うことも、素敵な気分転換になるのです」
 歴史書や文学書、辞書が大好きなシルリナ王女は、忙しい社交の合間の空き時間、ついつい読みふけってしまう癖がある。
 エレーヌは新鮮な驚きに充たされ、青い瞳をまばたきした。
「まあ、まあ、まあ……」
「レリザ様。わたくしどもも必要とあらば喜んでお手伝い致しますわ。誠に僭越ながら申し上げますけれど、ご自分で愛情を込めてお作りになれば、お味はもっと美味しくなると思いますわ」
 そう言ったのはシルリナ王女びいきの筆頭、ルヴァだった。
 一方、レリザ公女は狼狽し、右手を顔の前で激しく動かす。
「えーと、あの、その。わたし、あんまり得意じゃないし、ちょっと、ほんのちょっと面倒かなって、思ってしまったりする……」
 その声が次第に小さくなり、終わりの方は消え入りそうになった。シルリナ王女と侍女たちは互いに顔を見合わせ、微笑む。
「せっかくですから予定を開けてやってみましょうよ、レリザ」
「まあ、シルリナが言うんなら、しょうがないよね……」
 王女が優しく促すと、うなだれていた従姉妹は肩を落とした。
 だが立ち直りの早いレリザ公女は自分に都合良く解釈する。
「そうだ、じゃあ、その代わり勉強はお休みにしてもらおうね」
「ええ、わたしからも頼んでみますね」
 シルリナ王女は快く請け負った。そして今度は侍女に語る。
「それでは近々、都合をつけましょう。今週は難しいけれど、来週の初めなら、どうにか大丈夫だと思います。その時はぜひ秘伝を教えてね。テレミザ先生、ルヴァ先生……他のみんなも」
「まあ、姫様ったら。先生だなんて、恐縮ですわ」
 リンゴパイ作りの名人、侍女のテレミザは頬を赤らめる。

 ――と、その刹那であった。

 ゴォーン、オーォー。
  ゴォーン、オーォー。
   ゴォーン、オーォー、ォーォー、ォー……。

 塔の鐘が重々しく誇らしげに響いた。王女の顔が少し翳る。
「あら、もう午後の三刻ですか。楽しい時間はあっという間ね」
「まこと、おっしゃる通りですわ」
 大柄のワリエラはうなずくと、機敏に立ち上がり、王女の話の邪魔にならぬよう細心の注意を払いつつグラスの後片づけを始める。多忙なシルリナ王女は、今日も予定でいっぱいなのだ。
 部屋の空気は急に慌ただしくなった。ゆったり浅瀬に滞っていた時の流れが再び動き出す。いつの間にか光の射し込み方も変わっていたし、通り抜ける夏の風も若干、涼しくなっている。

「じゃあエレーヌ、これからもよろしくね。何か不明な点や不満な所があったら、どんな些細なことでも相談して下さい。残念なことに、わたしはいつも時間が取れるわけではないけれど……その分、侍女の仲間たちも親身に考えてくれると思いますよ」
 言いながら、シルリナ王女はスカートの裾を抑えつつ優雅な仕草で立ち上がった。エレーヌは感動の面もちで起立する。
「シルリナ様、本日は新入りの私めのためにこのような立派な会を開いてくださり、本当にありがとうございました! わたくしエレーヌ、つたなき田舎者ではございますが、今後は身を粉にして、精一杯、シルリナ王女様のお役に立つことを誓います」
「ありがとう。それではお開きにしましょう」
 王女は穏やかな口調で――だが非常な冷静さを保ちつつ会の幕引きを宣言した。その瞬間、侍女たちは束の間の休暇を終えて、いつものようにテキパキと有能に働き始めるのだった。
「姫様。次のご予定は、ミグリ町のロシ町長率いる陳情団とのご会談でございます。学院施設の援助金についての件です」
「ええ」
「シルリナ様、お召し替えを。隣の間に用意させてあります」
「ただ今、参ります。レリザ、それではお夕食の席で」
 王女はやや足早に歩き始める。レリザは手を振った。
「また後でね。がんばってね〜」

 残った侍女は、テーブルや椅子、部屋の片づけで忙しい。
 シルリナ王女が退出した後、今度はレリザの侍女が現れる。
「レリザ様、お迎えに上がりました。次のご予定は図書館で補習授業でございます。お召し物は、そのままで結構ですわ」
「うわぁ……最悪よぉん」
 レリザ公女は思いきり顔をしかめ、そばにいたエレーヌに目配せした。先輩の見よう見まねでテーブルを拭いたり、余ったお菓子を片づけていた十四歳の新入り侍女は、温かく声をかける。
「レリザ様、いってらっしゃいませ。ご健闘をお祈りしますわ!
 エレーヌは胸元でこぶしを握りしめ、年上の公女を元気に励ます。公女は侍女に背中を押されるようにして嫌々歩き出した。
「とほほ。じゃあ、行って来るよ……」

 レリザ公女を見送り、エレーヌはしばし胸を張る。良い職場、良い仲間たち、そして何よりも素晴らしい主人に巡り会えた幸せをかみしめながら。先輩に名を呼ばれて我に返るまで、少女はレリザ公女の背中にシルリナ王女の後ろ姿を重ねていた。
「エレーヌ! さあ、次は姫様の寝室のベッドを直しますよ」
「はい。只今!」
 彼女の王宮生活は、今まさに始まったばかりなのだ――。

(おわり)
 


  8月16日− 


[洗練と優美の午後(3/4)]

(前回)

「わたくしこそ、世界で最も幸せな王女だと思います」
 深窓の姫君は決然と――だが、あくまでも落ち着いて言う。
「けれど一つだけ皆に念を押したいことがあります。その人の身分と、その人の心の価値とは何の関わりもないと思うの。どんなに身分が高くても、お金を持っていても……精神が貧しい者とは、わたくしは決して交流を持ちたいとは思わないでしょう」
 いつもの地味な仕事から解放され、今だけはシルリナ王女とレリザ公女の賓客となった侍女たちは、主人の言葉を一言も洩らすまいと身体の全てを耳にするつもりで真剣に聞いていた。
 午後の光は何の翳りもなく〈木洩れ日の間〉に注ぎ込んでいる。テーブルの上にある手作りのリンゴパイが微かに揺れる。

 いつしか王女の言葉に引き込まれていた新入りのエレーヌは静かな感銘を受けていたが、次の瞬間にはっと気づいた。今さらながらレリザに紅茶の給仕すべきか、このまま姫の話を聞くべきか、戸惑いの視線を浮かべたのだった。下級貴族の娘であるエレーヌは、礼儀作法については徹底的に仕込まれたが、実践の経験は不足していた。まだ十四歳で、やむを得ない。
 シルリナ王女はすぐに気づいて、的確な指示を飛ばした。
「エレーヌ、まずはお座りなさい、貴女の歓迎会なのですからね。ワリエラ、悪いけれどレリザにお茶のおかわりをお願い」
「かしこまりました。気が利かなくて申し訳ございません」
 姫仕えの長いワリエラはテキパキと行動する。初々しいエレーヌは、これ以上王女の気を煩わせてはと、慌てて腰掛けた。
 氷の魔法を浮かべた最高級の冷たい紅茶をティーポットから注ぎ、二十二歳のやや大柄なワリエラはレリザ公女に深く礼をした。お茶の微かな香りが、若い女性たちの間を微かに漂う。
「ありがとうねぇ!」
 レリザ公女は指を伸ばし、彼女らしく朗らかに思いを述べた。
「どういたしまして、レリザ様。……姫様は?」
 ワリエラのにこやかな問いに、シルリナ王女も笑顔で返す。
「ありがとう、私はまだいいわ。さあ、貴女も席についてね」
「こちらこそ有り難うございます、姫様。ではお言葉に甘えて」

 おめかししたワリエラが椅子に座るのを確かめてから、皆の注目を感じつつ、シルリナ王女は従姉妹のレリザ公女を呼ぶ。
「ねえレリザ」
「ん、なによん?」
「私たちは友達だし、ここにいる皆も大切な友達ですよね?」
 そう言って、シルリナ王女は美しい瞳で全員の顔を見渡す。

 王宮の中にはシルリナ王女をねたみ、憎む者も確実にいただろうが、それは驚くほど一握りであった。賢明な王女は必要以上に出しゃばらず、なるべく無意味な反感を買わぬように気をつけていたからである。が、努力した上でも分かり合えぬ者がいることを、王女自身は否定しない。人の性格は千差万別で、合う合わないは仕方のないことだと割り切っていたからである。

「そうそう、友達だよねぇ!」
 ガルア公国生まれのレリザ公女は都会に擦れていない無邪気さで応える。すると即座に侍女たちの表情は緩むのだった。
 姫は右から左、左から右へと視線を移しながら全員に言う。
「皆さん、今は対等な友達だと思って下さいね。ここには他に誰もいませんし、私もレリザも皆さんと歳の近い若い娘であることには違いありませんから……もちろん、しかるべき所ではしかるべき態度を取ってもらわないと、周りの目もあるから困るのだけれど、わたくしは皆さんのことは友達として信用しています」
 シルリナ王女が言葉を句切ると、侍女のルヴァは待ってましたとばかり、ドレスの膝に置いたこぶしを握りしめるのだった。
「もちろんです! 決してご迷惑をかけぬよう、お務め致します。ご友人と呼んで頂けるなんて、本当にこの上ない幸せですわ」
「ありがとう。これからも身の回りのことをよろしくね、ルヴァ、ワリエラ、みんな。それからエレーヌ、早くなじめるといいですね」
「あ、あの、わたくし、頑張ります、シルリナ様のために!」
 新人のエレーヌも、すっかりシルリナ王女の虜となっていた。


  8月15日○ 


[洗練と優美の午後(2/4)]

(前回)

「あまり気を遣わないでね。今日は貴女の歓迎会なのだから」
 レリザ公女のため急いでお茶を用意しようと立ち上がった幼さの残る少女に、優しく声をかけたのはシルリナ王女であった。
 メラロ国王とシザミル王妃の、目下のところ一人娘として大切に育てられたのがシルリナ・ラディアベルク王女である。子供のころから可愛らしく利発そうな容貌で臣民の忠誠を受けてきたが、少女から大人の女性へと成長を遂げていく中で本来の美しさは深みと彩りを増し、十八歳の今となっては匂い立つ華麗な花のように咲き誇っている。期待された以上の成熟であった。
 ノーン族に特徴的な茶色の眼と、細く滑らかな御髪(おぐし)は、同い年の従姉妹のレリザ公女と似ていなくもないが――瞳の輝きは全く異なっていた。清楚さと知的さ、そして厳しい決断の際に顕れる酷薄と言えるほどの冷徹さのため、年齢よりも上に見られることが多い。血の気の通って柔らかそうな唇は艶めかしいというよりも清純な印象を与え、今日はやはりレリザ公女と同様に薄い色の口紅をつけていた。頬は淡雪のごとく白い。
 体つきは華奢で、激しい運動は不得手だが、至って健康である。知の国と評されるメラロールの王女らしく勉強熱心で、昨年には国際の外交の舞台でデビューを飾った。古株の外交官をも唸らせる粘り強くしたたかな交渉で、王女の名声は高まった。

 周りの者よりも少しだけ豪華な椅子に腰掛け、王女としては限りなく庶民的な白と薄茶色を基調としたチェックのロングドレスを身にまとって、周りから浮き出さないように気をつけている。出来るだけ簡素な銀のネックレスを掛けており、服の胸元には魔除けの水晶が光っていた。細い腕輪は金だった。髪はお気に入りの三つ編みに結わえさせ、黄玉の髪飾りをつけている。
 今日は新入りの侍女を歓迎するため、多忙なシルリナ王女自身が企画し、予定を空けて実現に漕ぎ着けた会である。着替えの際、可能な限り目立たないようにと侍女に命じたのだが、本来の高貴さを拭うことは出来ぬ。結局、美しい女性の特権として何を着ても似合うのだし、自然と会の中心になるのだった。

「え、あの、シルリナ王女様……」
 今回増員されることとなった若い侍女は、かつて雲の上の人と思っていた王女の心遣いにいたく感激し、頬を紅潮させた。
「エレーヌはまだ、シルリナ様を理解しきれていないのですわ。戸惑うのも当然だと思います……私も最初はそうでしたもの」
 王女付きの長い侍女の一人が淑やかな王宮言葉で語ると、周りの数人の侍女たちはほぼ一斉に深くうなずいたのである。
「まあ、わたくし、どんな風に思われていたのかしら……?」
 シルリナ王女は少し首をかしげ、天使の微笑みを浮かべる。
 すると今度は別の侍女が、身を乗り出して喋るのだった。
「姫様の素晴らしいお噂の数々は、恐れながらかねがね耳にしておりましたルヴァでございますが……まさかここまでお心の広いお方とは、誠に失礼ながら仰天いたしましたことを、まるで昨日のように思い出します次第でございますわ。本当に……」
 ルヴァは少し興奮し、勢いは止まらなかった。新入りのエレーヌもいつしか思わず手を休めて、先輩の話に聴き入っている。
 彼女は想いのたけを熱い尊敬の念として言葉に乗せた。
「わたくしどものような位の低い者にも、姫様は高貴なお心を傾けて下さって。主だった侍女の入れ替わりがある度に、可能な限り歓迎会や送別会を開いて下さるなんて……わたくしどもはルデリア広しと言えども、確実に、一番幸せな侍女ですわ!」

 涼しい風が吹き抜け、白いカーテンを揺らして流れ去る。
 王女は愛おしそうに眼を細め、果てしなく穏やかに応える。
「まあ。私を買いかぶりすぎだけど……お世辞でも嬉しいわ」
「本当のことですわ。あゝメラロール、いつまでも永遠に」
 ルヴァは国歌の一節を語った。遅れて、皆の唱和が重なる。
「あゝメラロール、いつまでも永遠に!」


  8月14日△ 


[洗練と優美の午後(1/4)]

 それはとても天井の高い、開放的な一室であった。部屋と言っても庶民の家全体より確実に広いくらいだが、それでいて無闇やたらと広すぎない。焦げ茶の木で作られた食器棚や暖炉などの調度品は部屋の雰囲気に合っていたし、人の背丈ほどもある観葉植物の緑は優しく、幾つもの立派な焼き物の花瓶には赤や桃色、紫や黄色、白や水色――様々の新鮮な花が活けられ、しつこくない程度の微かな甘い香りを漂わせていた。
 奥に続く長方形の部屋の正面には品の良い彫刻を施された大きな出窓が見える。向かって左側、高価で頑丈な石造りの壁には、細やかな刺繍入りの布が石の冷たさを隠すかのように天井近くから吊されていた。その中央には、メラロール王国を表すラディアベルク家の紋章が金糸で縫われ、誇らしげに光る。
 右側は瀟洒なテラスが続いており、横滑りのドアは全て開け放たれていたので、部屋は非常に明るかった。強度を保つための円柱は重厚で、歴史と文化の重みを感じさせるが、決して部屋の景観の邪魔にならぬよう的確に配置されている。夏の午後、北国といえども陽射しは強いが、風が通り抜けるので涼しく快適だ。白い清潔なレースのカーテンは西海の波のごとく揺れて、爽やかな音を立てる。カーテンは陽射しも和らげてくれた。

 時間さえもその歩みを緩めるような、洗練された優美な午後のひとときである。陶器の可憐なティーポットは冷たい水出し茶のほのかな匂いを辺りに振りまき、注がれるのを待っていた。
 ここはメラロール市の丘にそびえる白王宮の建物の一つ、希望を司るアルミス宮殿の二階にある〈木洩れ日の間〉である。

「うふふ」
「まあ……」
 若い女性たちは気品のある微笑みを交わした。選りすぐりの職人による刺繍入りの麻のテーブルクロス――それを掛けた大きめの丸い食事机を囲んで、彼女たちはそれぞれの椅子に腰掛けている。その数は十人ほどで、みな美しく着飾っていた。
 その瞬間に話が途切れると、参加者の中で最も外見の幼い十四歳ほどの少女が、おどおどしながら隣の女性に訊ねた。
「あの、レリザ様。お茶のお代わりはいかがでしょうか?」
「あ、うん、ありがと! よろしくぅ〜」
 いくぶん肩の辺りがゆったりとしている、私的な時間用の青く染めた絹のドレスを着こなしているのは、両側のえくぼが特徴的な、愛嬌のある顔つきのレリザ公女である。正直なところ高い知性はあまり感じられぬが、ガルア公国の第一公女で、人当たりが良く庶民的だ。言葉遣いや態度物腰が砕けており、位の高い貴族や貴婦人には〈ラディアベルク家に相応しからぬ田舎者〉と陰口をたたかれている。他方、侍女や小姓、護衛の騎士といった者からすれば親しみやすく、評判はすこぶる良い。
 もともと貴族社会の暗い部分には鈍感な面があったレリザ公女は、従姉妹であるシルリナ王女の周到な根回しもあり、この白王宮に留学してから特に性格を矯正されることもなく、伸びやかに健やかに成長してきた。今日のレリザ公女は明るい茶色の髪を簡素に後ろで結わえ、唇にはうっすらと紅を塗っている。


  8月13日− 


[天音ヶ森の鳥籠(2)]

(前回)

「何なのかしらねぇ、鳥籠って……」
 岩に腰掛けて靴を脱ぎ、細くて長い脚の力を抜いてブラブラさせ、健康的な日焼け顔で呟いたのはシェリアである。山道を歩いてきたので腿や膝は重く、足はむくんでいた。冒険者生活で山歩きは慣れっこだが、それでもやはり疲れるものは疲れる。
「手がかりを掴めると良いのだが」
 言葉を返したのは、彫りの深い端正な顔の青年、戦士のルーグであった。筋肉質の肩幅は広く、包容力がある。いつもに比べると軽装な仲間たちの中で唯一、硬い革の鎧を着用していたのは、事が起こった時は矢面に立つのだという彼の責任感の表れであろう。ゆくゆくはメラロール王国の騎士になりたいと思っているが、騎士団の定員の問題、および彼が他国から来たという理由で直ぐの採用は見送られた。雑兵か傭兵としての登用、あるいは冒険者としてメラロール王国内で実績を積み上げることを王国から提案されたルーグは熟慮の末、後者を選ぶ。
 個性的な仲間たちの中では目立たないが、冷静な目と的確な判断力、抜群の調整力を持つ皆の信頼の厚いリーダーだ。
 先ほど澄みきって冷たい河の水を飲んだあと、銀色の前髪のかかる額に汗の粒が浮かんだが、それもすでに乾いていた。

 彼らがたたずんでいるのは森と森の切れ目で、水かさの少ない河の源流が岩場を縫って走っている。今のところ天気は良く、増水する恐れもない。川幅は決して広くはないが、左右の見通しは利くので、ルーグはここを今夜の野営の地に定めた。
 岩を重ねて作られた天然の階段は河の方へ低くなりながら続いている。小鳥の唄う美しい旋律と爽やかな水のせせらぎは、しばしば若い歓声にかき消される。陽の光の下、ケレンスとタックとリンローナの三人が水際で無邪気に遊んでいるのだった。
「きゃっ。やったなー! ケレンス、待ってよ!」
「リンには掴まらねぇよーだ……あ、このやろ!」
「はい、ケレンスはこの通りです。リンローナさん、反撃どうぞ」
「この野郎、タック、離せよ、親友を裏切るのかよ!」
「タックありがとう! さあ、お返しだよ。えいっ、それっ」
「くおっ、畜生……」

「一人で行動するんじゃないよ、シェリア」
 ルーグは心配そうに青い瞳を瞬きさせ、隣に座っている恋人のシェリアの、神秘的で艶めかしい薄紫の眼を強く見つめた。
「え?」
 物思いにふけっていたシェリアが一呼吸遅れて聞き返すと――ルーグは嫌な想念を振り払うかのように、力なく首を振った。
「……いや、すまん。何でもない。私の気のせいだろう」
「変なルーグ」
 赤いズボンの足を上げて、シェリアは不思議そうに応えた。


  8月12日− 


[夜半過ぎ(20)]

(前回)

 父の背中が遠ざかり、暖炉の手前で黒い影になっている。ファルナは馴れた厨房を後ずさりし、木の壁にそっと寄りかかった。眠気がひどくて、やや平衡感覚がおかしくなっている上、膝に力が入らないのだ。落ちてくるまぶたを繰り返し持ち上げる。
 暖炉の消火に水を使うと、ものすごい湯気が煤けた匂いと一緒に立ちのぼり、やり方が悪ければ燃えていない薪までも湿ってしまう。燃えつきるまで待つ、という自然消火が基本だが、空気の取り入れ口を絞ることで消火時間を早めることは出来る。
 闇は再び満ち潮のように音もなく忍び寄り、じわりじわりと版図を広げつつある。それのゆっくりとした変化が凍えるような冬の夜を思い出させるのか、ファルナは小さく背中を震わせた。
「大丈夫?」
 そっと近づき、心配そうに声をかけたのは母のスザーヌである。すると娘は安らいだ微笑みを浮かべて、うなずくのだった。
「うん、お母さん」
 油が染みついて、少し黄ばんでいる厨房の窓は、外と中の温度差のために結露している。雫は合わさって流れるが、朝まだきの頃には動きをやめるだろう――白い氷の球と姿を変えて。

 父が戻ってくると、彼の掲げる消えかかったランプを道しるべに、三人の家族は厨房を後にしてもと来た道をたどり始める。暖炉の光と温もりの届く範囲を離れると、いよいよ手探り足探りの闇泳ぎとなり、寒さもしだいに身体の芯へ染み込むがごとく厳しくなってくる。ファルナたちは無意識のうちに歩く感覚を詰めていた。先頭をゆく父の上着の腰の辺りをファルナがつかみ、彼女を守るようにしんがりの母が続いている。ドアを開け、床が鳴るのを感じながら廊下を歩き、手すりに掴まって階段を登る。
 二階に来る頃には、三人の吐息は真っ白に染まっていた。それが夢と現実との境を示す薄い膜のように漂い、橙色のランプと、微妙に位置を変えた限りなく細い銀の月明かりが織りなす幻想的な木の道が、おぼろげに続いている。あれほどファルナの食欲をそそったシチューの匂いもいつしか溶け去っていた。

「部屋まで送ろう」
 父のソルディは前を向いたまま子音を立てて呟く。両親の寝室は一階だが、ランプを持たぬ娘のため、ここまで来たのだ。
 ちょうど、そこには妹のシルキアの療養している部屋のドアがあった。もともとは姉妹で使っていたが、今は両親の忠告を聞き入れ、風邪が移らぬようにファルナが出ていく形となっている。
 ふいに彼女は立ち止まり、壁に手を当てた。それから眠気の入り混じった声で、ゆっくりと精一杯の願いをかけるのだった。
「早く元気になって欲しいですよん、シルキア……」
「大丈夫だよ。朝になれば良くなっているさ」
 父が娘の不安を解きほぐすように語った。
「ええ」
 母も力強く同意した。

「おやすみ」
 ――。
 ファルナが眠い目をこすりながらドアを閉めるのを見届け、廊下を歩き始めてから、母のスザーヌはぽつりと想いを洩らす。
「あの子は、やっぱり〈お姉ちゃん〉なのね……」


  8月11日△ 


[虹あそび(12)]

(前回)

「そう、そうやって……で、思い切り投げるんだよ☆」
 ナンナは投げるふりをして、友達のレイベルを促しました。
「うん。やってみるわ」
 たくさんの好奇心に少しの緊張を混ぜ合わせ、レイベルは最初の〈闇だんご〉を選びました。足元に気を付けながら小股で後ずさりすると、腕を上げたまま軽く助走をつけて、まだ温もりの残る〈それ〉に勢いをつけ――振り下ろす途中に放ちました。
「えいっ!」
 レイベルのこぶしを出発した魔法の球は順調に進みます。
「がんばれー」

 学舎の勉強の方もしっかりやっていますが、もともと田舎のナルダ村で生まれ育ったレイベルは、こういう新しい遊びが大好きです。特に、魔法の力を秘めた〈闇だんご〉で虹の橋を変えることが出来るなんて、背中に羽が生えて蝶になり、南風に乗って飛んでしまいそうなくらい最高の気分でした。もうすっかり心配の消えた心からの無垢な笑顔が、それを証明しています。
(レイっち、すごく楽しそう。よかった!)
 魔法が成功したのもさることながら、仲良しのレイベルに喜んでもらえたのが一番うれしかった、小さな魔女のナンナでした。

「そーれ!」
 レイベルの飛ばした球がたどり着く前に、ナンナは二つ目の〈闇だんご〉を投げ込みました。雨上がりの空はまぶしく、思わず左手を額に添えました。その間も、妙な形に曲がった虹の橋は色褪せてゆきます。辺りは蒸し暑くなり、草いきれが限りなく広い半透明のカーテンとなって、天の方へ引き寄せられます。
「よおっ」
 ナンナは続けて三個目を、思いきり放ったのですが――。
 残念ながらタイミングを誤り、すっぽ抜けてしまいます。
「ありゃあ? ダメかなー」

 天に届かず、力無く落ちそうになる黒い闇の固まりはひどく哀れに見えました。もう一押しがあれば、とナンナは考えました。
「ピュィー? ギィ!」
 主人の願いが通じたのでしょうか? ナンナの肩を離れ、真っ白の翼を大慌てでばたつかせ、夜のだんごを猛烈に追いかけたのはピロです。黄色のくちばしを伸ばして、自分の身体よりも少し小さい獲物に狙いを定め、斜め下の方から回り込みます。
 ピロは〈闇だんご〉をくちばしで押すと、器用に急速旋回してナンナの元を目指します。主人が差し出した泥だらけの手には見向きもせず、きれい好きのインコは再び肩に止まるのでした。
 確かに勢いを取り戻した黒い球は空高く浮かんでゆきます。
「ピロ、賢いね。ありがと!」
 小さな魔女に褒められると、一仕事終えたピロはつぶらな瞳を見開き、何事もなかったかのようにクチャクチャと喋りました。
「ピロチャン、カワイイ……」

 と、その時です。
「あっ!」 
 じっと自分の投げた軌跡を夢見がちの視線で追っていたレイベルは、思わず右足を踏みおろし、驚きの叫びを上げました。


  8月10日− 


[弔いの契り(21)]

(前回)

 視界が急速に狭まる。俺の目の中には、端正な顔の影で何かの昏い思惑を隠しているに違いねえ若い男爵と、そいつにダンスを申し込まれた相手――薄緑の髪を肩の辺りで切りそろえた聖術師、可憐な白いドレスを小柄な身体にまとった清らかな少女の姿だけが、夜空の満月のように明るく浮かんで見えた。

「リン……」
 俺は絶句した。
 確かに予想できたことだったが、俺はきっと、その予想をかたくなに拒んでいたんだな。それがこうして現実のものになると、やはり衝撃だった。嫌な予感も続いていたが、何故か無性に悔しさがこみ上げてきて、俺は密かに歯を食いしばるのだった。
 俺の呟きが届いたのだろうか、リンがこっちの方をちらりと見て、刻のひとしずく、視線が交錯する。いつしか音楽も果て、秋の夜長の冷涼さが染み込んでくるホールは空気までも張りつめていた。場の全員が固唾を飲み、男爵とリンを見つめている。
 リンのまっすぐな瞳は気品に溢れ、素直な喜びと、ほんの少しの困惑とに彩られているように、俺には感じられた。こんな時にも関わらず、俺はあいつの瞳の光に射抜かれ、不覚にも硬直してしまう――こっちは入口の辺りで、向こうは奥の方にいるから、だいぶ距離は離れてるんだけどな。リンの初雪みたいな白いドレスはお似合いで〈やっぱり褒めておけば良かった〉と今さらながら考えた。元はと言えば、俺がドレスを褒めちまったばっかりにギクシャクし始めたんだよな。そろそろ仲直りしてえぜ。

 ところが次の刹那、さっと目を逸らしたのはリンの方だった。礼儀正しい貴婦人らしい緩やかな仕草で男爵の方に向き直ると、ほっそりした右手を差し伸べてゆく。俺の身体はずっしりと重くなり、胸に鋭い痛みが走る。失望とか落胆、不安、怒り、邪魔したい気持ちが俺の内部で千々に入り乱れた。畜生、なんで俺がこんな風にならなきゃいけねえんだ。関係ねえじゃんか!
 そうだ。庶民の俺と違い、リンは男爵の方が似合ってるさ。
 俺は無理矢理、自分を納得させた――つもりだったし、心の準備は怠らなかった。けど、リンが男爵の手を取った時、俺は思わず目を背けた。他方、やつは相手を尊敬する口調で言う。
「わたくしなどでよろしければ……喜んでお受け致します」
「ありがとう、お嬢さん」
 と、良く響き渡るのは男爵の声だ。前の曲で踊っていた冴えない村人たちは互いに顔を見合わせ、目配せをし、波が引いてゆくかのようにそそくさと退散する。舞台の三人組は、主旋律の横笛、通奏低音の弦楽器、卓上の鉄琴で次の序奏を始めた。

 俺はさっと回れ右をし、恐れを顔に貼り付けたまま呆然と佇んでいるガキの肩に手を乗せた。悲鳴を上げそうになった相手の耳元で、むしゃくしゃしていた俺は脅しめいた言葉を浴びせる。
「便所まで付き合えよ。黙ってりゃあ、何もしねえからさ……」
 そして相手の回答を待つまでもなく、剣の修行で鍛えた筋力を発揮し、酔っ払いを介抱するかのように肩をつかんだまま引きずるように歩き始める。ガキの口から弱々しい嘆きが洩れた。
「や、やめて下さい」
「その者をどうなさるおつもりで?」
 執事――今は儀典官だっけか――のデミルが声を荒げる。
 俺はとっさに、隣で冷静に様子見していた相棒に叫んだ。
「タック、走れ!」
 指示が飛ぶと村人の席の辺りが騒然としたが、そんな事には構っちゃいらんねえ。物分かりのいい親友は即座に実行する。
「了解」
「お前も走れ!」
 俺はガキに厳しく命令し、タックの背中を追って駆け出す。
「待て! 待ちたまえ、止まるんですじゃ」
 デミルの静止を振り切り、俺たちは夜の懐を目指した――。


  8月 9日○ 


[遙かなる想い]

 風が吹き抜けて行く。
 梢を鳴らし、葉を揺らし、翠の樹海の深く分け入って。

 風は吹き抜けて行く。
 颯爽と吹く青年の風や、軽やかに進む少女の風。
 いたずら好きの子供たち、思索にふける年老いた風。
 それらが複雑に絡み合って、悠久の序曲を奏でる――。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 川の上流が透き通っているのに似て、ここの空気は汚れなく純粋だ。そう、ここは風のはじまり。妖精族も暮らすほどに美しい〈風の森〉なのだから――茶色の長い髪を後ろで束ね、しなやかな体つきの十九歳の女性、狩人のシフィルはふと思った。
「気持ちいい……」
 前髪と睫毛がかすかに揺れ動くのを感じつつ、少し顔を上げ、溢れんばかりの生命力を宿した古の樹の幹に背中を預ける。

 小高い丘に連なり立つ樹の高みから眺めると、遮る物とて何もなく、陽の光を受けて夏色に照り輝く碧の絨毯が拡がっている。その果ては緩やかな曲線を描いて霞み、綿雲の漂う蒼い空とつながっている。南に目を移せば、森を縫って走る麗しのリース河の源流も見分けられるし、日の沈む方角に視線を送れば深い森の彼方に西海らしき青い帯が横たわっている。東はマホル高原がそびえ、その向こうは〈世界の屋根〉中央山脈だ。
 剣の切っ先のごとく視力も聴力も研ぎ澄まされている狩人のシフィルは、ここから眺めているだけで、たいがいの異変には気づくことができる。煙が上がっていれば侵入者がいる証拠だし、河の水が濁っていれば山間部で大雨が降ったことを予想させる。それらは悪意のある人間を貴重な資源に近づけず、さらに奥に住む妖精族――森の妖精・メルファ族、風の妖精・セルファ族――の安寧を守るのに必要な〈森の番人〉としての能力だ。

 シフィルは右手を額に当て、遙か遠くまで飽かず見渡した。
 この森は彼女の想いを映す。嬉しい時も、また哀しい時も。
「ここが、私の世界……」
 樹の上には木造の粗末な寝床があるけれど、彼女の心はそこに留まらぬ。空を駆ける風のようにつかみ所がなく、自由だ。
 森に尽くし、森から必要なだけの糧を得る。森とともに生き、森の循環に入る――獰猛な野生の動物から三人の家族を守り、身代わりとなって死んだ亡き父も大地に還った。シフィルたちが流した涙もシダ植物の養分となったろう。力強く光を集める夏の木の葉の匂いの中、彼女は鮮やかな父の存在を感じた。

 首にかけていた短い横笛を手に取って、唇に近づける。
 シフィルがまぶたを閉じてゆくと、安らかな闇が開いた。
 彼女は息を送った。想いを奏で、澄んだ楽の調べに乗せる。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 風が吹き抜けて行く。
 何も飾らず、本当の己のままで。

 風は――。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「姉さーん」
 双子の弟、ロレスが下で呼ぶ声が聞こえると、シフィルは細い指を横笛から離して顔をもたげた。森の巡回に行く頃合いだ。
「いま行くわ」

 シフィルは十分に注意しつつも、枝を飛び渡る小動物を思わせる軽やかな身のこなしで、まずは樹の中程の寝床に向かう。そこには丹念に調整がなされた弓と矢筒が置いてあるのだ。
 洗濯物を避けて愛用の弓をつかむと、彼女の横顔が引き締まった。無駄な贅肉が全くない鍛えられた腕の、茶色の産毛がかすかに揺れ動いている。狩人としては彼女よりも実力のある弟のロレスと、母のシレフィスの待つ大地を目指し、シフィルは速度を上げた。枝と幹が少しずつ太くなり、湿り気が増してゆく。
 間もなく三人は新しい風となり、森を駆け抜けるだろう――。
 


  8月 8日− 


[雲のかなた、波のはるか(4)]

(前回)

「実は、そうなんだよね」
 レフキルは驚いた顔もせず、腕組みして空を仰いだ。南国の遠浅の海に似た深緑の瞳に、低く垂れ込めた灰色の雲が映っている。つられてサンゴーンも上を向き、思いきり首を後ろに倒した。天は一続きの雲の河となって流れ出すように見え、自分の身体の平衡感覚はだんだん麻痺してゆくように思われた。軽い目眩を覚えたサンゴーンが思わず黒い傘を突き立てて地面を支えると、チェックのワンピースの裾が風にはためくのだった。

 レフキルはしっかりと両眼を見開いたまま、正面に向き直る。
「何だか潮の匂いはするし、変な雰囲気だからサンゴーンに聞こうと思ったんだ。これ、たぶん……普通の雲じゃないよね?」
 妖精族の血を引くレフキルは勘の鋭い方ではあるが、魔法には詳しくない。そもそもこの町には魔法学院がなく、誰かに弟子入りするか王都のミザリア市に行かぬ限り、魔法に関する専門知識も技術も身につけられない。科学のはびこる世界に置き換えるなら、魔法とはすなわち〈医学〉の位置づけに近いだろう。

 魔法に関する知識で言えばレフキルもサンゴーンも大差はない。ただ、世界を形作る〈七力〉の一つ――自然と生命を司る〈草木の神者〉のサンゴーンは、まれに不思議な直感を発揮する。それは彼女自身を驚かすほどの計り知れぬ神秘の力だ。

 焼魚の骨が喉の奥に引っかかっているような、どうも腑に落ちない顔でたたずむレフキルは、鼻の穴を動かしながら呟いた。
「そういえば、気のせいかも知れないけど……ずっと前にも、こんなことがあったような気がするんだよね。海の香りと低い雲」
「ずっと前、ですの?」
 親友の言葉が、サンゴーンの中に眠っていた遠い記憶の断片を甦らせる。懐かしい情景はおぼろに組み合わさってゆく。
 しばしの間、彼女は心の底に沈み、物思いに耽るのだった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「おばあさま。あの雲、なんですの?」

「サンゴーンや。あれが何か分かるのかい?」

「ううん。わかんないけど、へんな感じがするの」

「そうか……気になるのかい?」

「うん」

「……今は無理じゃろが、大きくなったら、行ってみるといい」

「おっきくなったら? あの雲のむこうにいけるんですの?」

「ああ。サンゴーンなら、きっと行けるじゃろう」

「うん、おばあさま。サンゴーン、いけるといいですわね」

「行けるさ。あと十年経てば、な……」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜


  8月 7日− 


[四季折々]

「かぁー。やっぱり夏は麦酒に限るわね〜」
 肉の焼く匂いと煙が充満している騒々しい大衆酒場で、二十五歳の旅人、聖術師のシーラは泡の立っている大きなガラスのジョッキをテーブルに置いた。黄金の水面がたぷんと跳ねる。
 彼女はぬばたまの黒髪を後ろに垂らし、ちょっとした焦げ茶の髪留めで一本に束ねている。役人を辞め、旅から旅へのその日暮らしの生活を始めてから五年が経つ割には――まめに手入れをしているせいだろうか、肌の艶は年齢よりも若く見えた。

「いつだってお酒は飲むだろうに……」
 シーラの向かいに座っているのは、やや痩せた同い年の恋人、魔術師のミラーである。やはり黒髪で、顎や唇の周りには無精髭が点々と生えているが、旅を生業とする者としてはこざっぱりしている方だろう。普段は気楽に構えているが、やる時には底力を発揮する性格だ。シーラの浪費ぶりには辟易しているが、彼女のわがままには弱く、いつも言いくるめられてしまう。

「そりゃあ、いつだって飲むかも知れないけど」
 シーラはそこで話をやめた。再び口をジョッキに付けたのだ。
 少し斜めに倒し、唇の周りを泡で真っ白にして顔をもたげる。
「かも知れない……じゃなくて、飲むでしょ。断定すべきだよ」
 毎晩の事ながらミラーは呆れ、頬杖をついて溜め息をついた。せっかく町で短期の仕事にありつき、昼間に働いて稼いでも、その大半は酒と肴に消えてしまうのが現状だ。しかしながら、彼は言うほど怒ってはいない。これも日課の一つだと、ある部分では割り切り、楽しんでさえいるが――何よりもシーラの身体を気遣い、心配し、愚痴をこぼさずにはいられないのだった。

 まだ料理は来ていない。店の中のランプはそれほど多いわけではないが、狭く古ぼけた木のテーブルがぎっしりと人で埋まり、会話が弾んでいると明るく感じられる。特に仕事の後の男や兵士たちのいる場所は酒も料理も消費が激しく、豪快な笑い声が響き、時々は野卑な冗談で盛り上がっている 。北国に住む黒髪族は一般的に酒の耐性が強く、米に似た植物から作った度数の高い〈濁り酒〉は、通年に渡り老若男女に親しまれる。

「……ってぇ訳さ。こっちも黙っちゃいらんねえだろ?」
「当ったりめぇだ。で、おめぇ、どうしたんだ?」

 周囲の騒がしさを理由に、わざとミラーの話を聞き流そうかとも考えたシーラだったが――あまり必要以上に相手を怒らせては気の毒だし、あとあと面倒だと思い直して大胆に方針を転換する。むしろ自分の方こそ不満そうなふりをし、口を尖らせた。
「ミラーはそう言うけど、いつも同じものばっかりは飲んでないわよ、私。四季折々、時節柄に応じて微妙に変えてるんだから」
「微妙に、ねぇ……」
 対する魔術師は、騙されてはなるものかと不審さを装う。しかし話の流れをこそ〈微妙に〉ずらされていることには気づかぬ。

 世渡り上手のシーラは酒場の低い天井を見上げ、つぶやく。
「春はシャムル風の爽やかなカクテル、夏はメラロール風の弾ける麦酒、秋はウエスタル風の葡萄酒、そして冬になればガルア名物の温めた濁り酒。美味しいおつまみがあれば完璧ね」

 二人は歌の上手い吟遊詩人でも、目的を持った冒険者でもなく、諸国を漫遊しつつ適当に金を稼ぐ自由気ままな旅人である。普通ならば仕事にありつくのに苦労するはずだが――ともに魔法が扱え、読み書きも完璧なため、識字率が低く文化の発展が遅れがちのガルア公国内では割と美味しい仕事にありつける機会が多いのだ。なお、二人のごとき〈純粋な旅人〉は、そのうち年を経るとともに移動距離が短くなり、三十路前には好みの町を見つけて落ち着いてしまう者がほとんどであった。

「山脈の向こうのサミス村って知ってる? いい所らしいわよ」
 シーラは調子に乗り、河の船着き場で仕入れたとっておきの情報を披露した。ミラーは微笑みつつも、わざと意地悪く問う。
「おいしい酒があるんでしょう?」
「う……」
 全くの図星だったシーラは目を白黒させ、ジョッキに手を添えつつ言葉に詰まってしまう。その様子を上目遣いに眺めていたミラーは今度こそ勝ち誇り、心から朗らかな笑みを浮かべた。

「はい、お待たせ!」
 その時だ。油に汚れたエプロンを着用した中年の太めの女性が、湯気を上げる豚肉料理の皿を運んできて、無造作に置く。
「ありがと。まー、ぱーっとやりましょ、明日も仕事なんだし!」
 シーラはここぞとばかりに先ほどの話題をうやむやにさせる。
「じゃ、ミラー、どんどん好きな料理注文してね。割り勘だから」
「はいはい。じゃあ適当に注文するよ……あれ?」
 ミラーは後ろを振り向いたが、もうおばさんの姿は見えぬ。

「こういう時はね……」
 目の前の肉に食欲を刺激されたシーラは、口に手を当てる。
 それから大きく息を吸い込み――。
「ウェイトレスのお姉さーん! 注文お願い!」
 と、甲高い声で叫んだのだった。

 やがて向こうから、おばさんの威勢の良い声が響いた。
「あいよぉ!」

「いやはや、さすがだね。はは……」
 ミラーは苦笑しつつも、小さく拍手するのだった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 ガルア河の河口に栄える公都センティリーバの、ここは入り組んだ下町だ。長い夏の夜は、始まったばかりである――。
 


  8月 6日− 


[天音ヶ森の鳥籠(1)]

 天音ヶ森(あまねがもり)の精霊は
  素敵な唄がとってもお好き
   気に入られちゃあ かなわない
    澄んだ声には気を付けな

     夜風を浴びて 広場を囲み
      小鳥となって夏祭り――ったら夏祭り

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 木の枝の香りに充ちた薄暗い〈鳥籠〉の内側にしゃがみ込んだ彼女は、ふもとの村で聞いた子供らの唄を思い出していた。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 それから半刻前のことである。
 夏の森を分け入り、五人の若者たちが歩いていた。
「やっぱり暑いわねぇ、動くと」
 浅くかぶっていた薄茶色のつばのない帽子を取りあげると、夢のように透き通る紫色の髪が露わになる。その帽子をはためかせて頭に風を送ったのは、刺繍がたくさん入っている赤い長ズボンを履いた、足のすらりと長い女性であった。うっすらと日焼けした頬は旅慣れているように見えるが、背中の荷物は思ったよりも少なく、軽装である。年の頃は二十歳くらいだろうか。
 彼女の名はシェリア・ラサラ、冒険者の魔術師である。ルデリア世界の冒険者とは公務員のようなもので、未発達の警察組織の代替を果たしている。難事件の解決や怪物退治などという大がかりな依頼は滅多になく、隊商の警備や災害の復旧、果ては引越の手伝い、街道の掃除まで頼まれれば何でもやる。

「うん。風は……涼しいのにね」
 シェリアの後ろについて歩いていた、彼女の妹のリンローナが息も絶え絶えに相づちを打った。草色の髪を肩の辺りで切りそろえた、小柄な少女である。着ているものも装飾も、派手好きの姉に比べると遙かに地味であった。体力的にきついのだろうか――ブラウスの背中にはじっとりと汗の模様が滲んでいる。
 シェリアとリンローナの姉妹を前後に挟んで進む三人の青年たちも、言わずもがな冒険者仲間だ。先頭は盗賊のタック、続いてリーダーで戦士のルーグ、次が魔術師のシェリアで、聖術師のリンローナ、しんがりは剣術士のケレンスという順である。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 さて今回の発端は、とある村人によるものであった。村長代理という地位についている髪の薄い壮年の男は、集落を訪れた五人の冒険者を歓迎した夕べ、秘密裏に調査の依頼をした。
「よくぞ、この時節に来てくだすった。実は毎年、夏祭りに近くなると、我々の手に負えない奇っ怪な出来事が起こるンですが」
 彼は、このように切り出したのだった――。


  8月 5日− 


[夜半過ぎ(19)]

(前回)

「ふぁー」
 ファルナは口を大きく開け、時間をかけて生あくびをした。涙の泉がじわりと湧き、ランプの光が潤んでにじむ。空腹が充たされて身体の内側から暖まると、今度は眠気が堰を切ったように襲ってくる。丸椅子に腰掛けているとはいえ、腰や足先に力が入らず、視界が霞んで耳が遠くなってゆくのをおぼろげに感じる。
「ふぁっ」
 母のスザーヌは娘につられ、自分の内部から沸き出してくる眠気をかみ殺す。父だけが、じっとその場にたたずんでいる。茶色のひげをかすかに光らせ、母と背中を合わせたままの姿で。
 彼が掲げているランプの油は、いつしかだいぶ減っていた。

 大陸の中西部、内陸の山奥に位置するサミス村の冬の夜はすでに半ばを過ぎたが、闇はいよいよ深く、しんと冷え切っている。これから曙、黎明、そして早朝へと移りゆく中、氷柱は最も硬度を増し、束の間の宝石となって透明感を誇るのであろう。
 なんとか足の筋肉を張り、ファルナが立ちあがると、木の板は微かに鳴り響く。今まで足を置いていた場所から離れると、靴下を通して寒さが足の裏に染み込んでくるような感覚がする。
 暖炉の炎は魔女の奇怪な手のようにうごめき、三人の親娘(おやこ)の影法師はもてあそばれて、ゆらりと踊る。物の形が定まらぬ闇と光の輪舞は、どんな絵にも残せぬほど印象的で、しかも次の瞬間には人の心のごとく様相を変じるのだった。息を飲み込むと鼻と喉がハッカのように凍み、ようやく我に返る。

「食器は流しに置いておきなさい。朝に洗うからね」
 父はランプを反対の手に持ち替え、囁き声で喋りかけた。

「うん、なのだっ」
 ファルナはいつも以上に緩慢な動作で腕を伸ばし、スプーンを入れたままの空っぽのお皿を両手で持ち上げた。酒場の給仕で馴れている背と腰を伸ばす良い姿勢を保ちつつ、眠気でよろけそうになりながらも一歩ずつ床を踏みしめ、流しに向かった。
 石を重ねて作られた洗い場と、燃えはぜる暖炉の間には、幾つかの樽が置いてある。もともとの中身は新雪だったが、部屋の空気で溶け、冷たい飲み水となっている。ファルナはシチューの器を左手で支え、空いた右手で樽のふたを開けてずらし、小さな桶で水をわずかに掬い、お皿の表面に掛けて軽くすすぐ。
 茶色の髪が似合っている十七歳の看板娘、彼女の手袋は少し湿っていた。器を洗い場に置くと、かたんという接触音が夜の内側に響き、静寂の底へと染み込んでゆく――風のない池に垂らした雫が同心円状に広がるかのように。家の中に置いている樽の水が凍ってしまう晩もあるほど、何もかも無駄なものが削がれて生と死の彩りがはっきりする、寒い冬の盛りである。
 両親はファルナの後かたづけが終わるのを、ただ黙って見守っているのだった。それが済み、娘が顔を上げると、父は言う。
「暖炉を消してくる」


  8月 4日− 


[虹あそび(11)]

(前回)

 墜落するかに見えた〈闇だんご〉は、しかし決して落ちませんでした。しなやかに蝶が舞うほどの速さを保ったまま、見えない天の坂道を風に揺られ、ほぼ同じ角度で駆け昇ってゆきます。
「どこまで行くのかしら……」
 見上げていたレイベルはすっかり〈闇だんご〉の黒い流星の軌跡に見とれていました。時々、その中でチカチカと銀色にきらめく神秘の瞬きは、陽の光に隠されていた夜の星なのでしょう。
 闇の幕を塗り固めたような魔法の黒い固まりはしだいに遠ざかり、指先くらいの大きさになったかと思うと、やがて胡麻粒に変わります。そのうち一つの点へと縮み、最後には七色の虹の橋のちょうど膨らんだ真上の辺りへ吸い込まれてゆきました。
「これからが本番だよ☆」
 ナンナは嬉しそうに鼻の頭を人差し指でこすります。灰の雲の底が重さを失ってちぎれ飛び、綿雲となって青空が顔を見せる中、彼女の細い金の前髪が湿った強い風になびいています。

 その時です――にわかに空の果てで何かが動きました。
「あらっ?」
 突然の出来事に、レイベルは自分の目を疑い、黒い瞳を素早くしばたたきます。それは注意していないと気づかぬほどの小さな変化でしたが、明らかな〈始まり〉の予兆を秘めています。
 だいたいの場所は、虹の橋の最も高い部分でした。絵の具を垂らしたかのように黒いシミが生まれ、ゆっくりとシャボン玉のように丸く膨みます。服のボタンくらいの直径に達すると、今度はしだいに闇色を流して、しまいには天に溶けて消えました。
「あれは〈闇だんご〉のしわざなのかしら?」
 食い入るように空を仰いでいたレイベルは、突如、叫びます。
「あっ!」

 それは世にも不思議な光景でした。
 弾けた〈闇だんご〉の色を嫌がるかのように――。
 光と雨から生まれた夢の架け橋、天に渡した大きな∩型の弓は、真ん中がくぼんでm型になります。ぎゅっと寄せ集められたぶん、幅は細くなりますが、色はわずかに濃くなっていました。

「こんなの初めて見るわ!」
 普段は穏やかな村長の娘が興奮して背伸びし、真っ黒に〈闇のもと〉で汚れた固く両手を握り合わせるほど、それは神秘的で素敵な出来事でした。同じく不思議な予感を感じたのでしょうか、ピロは落ち着かない様子で、白い羽をばたつかせました。
「ぴろ、ぴろ」

 相変わらず宙を漂う〈闇だんご〉の一つをつかんだナンナは、魔法が成功したことに、いくぶんほっとしている様子でした。
「さあ、レイっち。じゃんじゃん投げちゃおう☆」
 友の可愛らしい笑顔と白い歯に引き寄せられて、レイベルは最高の歓びに頬を紅潮させ、元気たっぷりにうなずきました。
「うんっ!」


  8月 3日− 


[弔いの契り(20)]

(前回)

 コツ、コツ、コツ。
 消えかかる音の糸の中で、男爵の黒い靴音は良く響いた。

「うっ……」
 突如、やつはうめき、不敵な笑みは崩れる。若い精悍な顔は深い苦悩にゆがみ、頭痛に耐えるかのように額とこめかみを右手で抑える。歯はきつく噛み合わされ、罪悪感とでも必死に闘っているかのごとく――今までの男爵の自信たっぷりの様子とは裏腹の、憂いと迷いで焼け焦げる〈人間的〉な表情だった。
(何だ?)
 俺は注意深く男爵を見つめた。息は苦しく、時間が止まったように感じる。だからといって別に恋をしたわけじゃねえからな!

 男爵の雰囲気が一変したのは、実際には胸の鼓動を五つ数えるくらいの、ごく短い間のことだった。まとわりつく後悔を振り払うように激しく首を振り、元の不敵さを取り戻して闊歩する。
 その視線の行き先はどう見ても俺たちの仲間の方だ。さらに限定するならば、薄緑の髪の聖術師、リンのような気がする。

「とにかく、少しお付き合いして頂くわけにはいきませんか?」
 我に返ったタックが、例の臆病なガキに早口で声をかけた。
「あの……」
 相手は怖じ気づき、青白い唇を震わせ、瞳を潤ませている。
 そいつと、男爵とを交互に観察していた俺だったが――後ろから近づいてくる新たな気配に、舌打ちしながら振り向いた。
「チッ。この忙しい時に……ん?」

 即座に俺の顔の筋肉は強ばった。追っ手が来やがったぜ。
「その者をいかがされるおつもりで?」
 大げさな抑揚のある嗄れた老人の声だ。特徴的だし、何度も聞いたから耳に憶えがある。古ぼけたタキシードに身をつつみ、眼鏡をかけ、神経質そうな顔で俺を冷ややかに見上げた。
「執事?」
 俺が無意識に呟くと、相手は気を悪くしてすぐに言い換える。
「今は儀典官とお呼び下さいませ。ケレンス殿」
「この……」
 俺がむっとして口答えしようとすると、タックが出で制する。
 盗賊の友は俺の怒りを引き受け、笑顔で老人を迎え撃った。
「これはこれは儀典官のデミル殿。どのようなご用件で?」
「それは当方がお訊ね致したい件にて、まずはタック殿から答えられよ。よもや、この者を幽閉するのではありますないな?」
 爺さんは軽く受け流し、訳の分からん言い回しでやり返す。
「御手洗いの場所をお訊ねしようと思いましてね」
 タックは当初の理由を応え、俺の方をちらりと見て面倒くさそうに顔をしかめる。ガキはうつむいて黙ったままだ。男爵は?

 まさに、その刹那の出来事だった。
「お嬢さん」
 発言が響いた瞬間に、俺の全神経は痺れ、虫酸が走った。鳥肌が立ち、動悸は激しく、身体は不安と焦燥とで熱を持つ。

「私と踊って頂けますか」
 急いで声の主を捜す。それが誰かは良く分かっている。

 いつしか音の消えていたホールの中、全員の注目を浴びて。
 若い男爵がひざまずいて踊りを申し込んだ相手は――。


  8月 2日− 


[雲のかなた、波のはるか(3)]

(前回)

 レンガ作りの道の両脇には石造りの白い二階建ての家が連なって建ち、そこでは町の人たちがいつも通りに世間話をしている。最も多いのは中年から壮年にかけての女性で、何人かずつ集まり、天を仰いで指さししては口々に言い合っている。
「珍しい天気よねぇ」
「いつも晴ればかりだから、たまには良かろうて」
 そして子供たちも、不思議そうに空を見上げるのだった。
「久しぶりに蒸してる」
「あの雲の上は、意外とカンカン照りなんじゃない?」

(何かが変ですわ。不吉な感じはしませんけれど)
 ミザリア国の夏は乾いているのに、今日はやはり湿り気が多い。風に混じっている豊富な水分、這うように飛び交う低い雲、そして消えない潮の香り――サンゴーンの悩みはつきないが、はやる気持ちを抑え、今は地道に両足を踏み下ろすのだった。

 やがて別れ道を過ぎ、見知った界隈に出る。
 ――と、向こうで耳のやや長いリィメル族の娘が手を挙げた。
「サンゴーン!」
「レフキル! いま行きますの〜」
 彼女は快く応じ、同い年の親友の元へと足早に歩いてゆく。

 レフキルはサンゴーンよりもほんの少し背が低い。妖精族の血を引くリィメル族で、お気に入りの青いスパッツが良く似合っている。髪は碧がかった銀色で、左右に分けて結んでいる。華奢な身体つきだが、サンゴーンのようにほっそりした印象は受けない。むしろ必要な筋肉が引き締まっているように見えた。
「こんにちはですわ。待っててくれたんですの?」
「サンゴーンに相談したいことがあったんだよ」
 レフキルは真面目な顔で言う――相手はすぐにうなずいた。
「もしかして、この空のことですの?」


  8月 1日○ 


[晩夏]

 背伸びをするヒマワリは太陽の子供たち

 蒼海はいよいよ澄み、風は紅に燃ゆる

 八つ目の月は入道雲と、すいかの種とともに――

 防砂林の蝉しぐれ、忘れられた貝殻を求め彷徨う

 時満ちて、夜空には華麗な炎の模様が咲き誇り

 手元の線香花火が消え、夏が背中を向けた

 






前月 幻想断片 次月