2003年 9月

 
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2003年 9月の幻想断片です。

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  9月30日− 


[天音ヶ森の鳥籠(7)]

(前回)

 若い剣術士は村長代理の言っていた言葉を反芻していた。
「いつも、歌の上手い者から順繰りに、居なぐなるでさぁ……」
 夏祭りに歌い手として選ばれた者は、不思議に美しい鳥の音楽が奏でられる〈天音ヶ森〉まで、村の男たちに混じって豊穣祈願の儀式に用いる山菜を摘みに行っていた。かつて歌い手たちは、周りの者から離れて一人でいる間に消え失せてしまった。村の夏祭りが終われば帰ってくるものの、そんなことが毎年続くうち、いくら神事とはいえ、歌い手を森に動員するのは控えるようになる。それでも山菜摘みだけは続けてきたが、決まって歌の上手な者が、謎の〈鳥籠〉とやらに捕まえられてしまった。
 よって今年は〈鳥籠〉の謎の解決を託し、通りがかった五人の冒険者たちに〈山菜摘み〉の白羽の矢が立てられたのだった。彼らの背中の荷物が少なかったのは村に置いてきたからだ。

「とっとと行こうぜ。早いとこ湖を半周して、姉御と合流だ」
 山菜班の責任者のケレンスは、前を向いたまま低く語った。
「うん」
 不安そうに瞳を潤ませて、リンローナはうなずくのであった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「一緒に唄ってあげれば良かったかしら……鼻歌」
 シェリアは心細さを紛らわすため、わざと声に出して呟いた。さきほどのリンローナとのやり取りを思い出し、今さらながら悔やんでいたのだ。妹の明るく弾んだ声が、自分の投げつけた心無い言葉によって沈んでしまう瞬間が脳裏をよぎると、彼女の胸は鉄の鎖で締め付けられるような苦しみを覚えるのだった。
「だって、楽しそうなあんたたちの仲間に入りたくても、私、いつもみたいに斜に構えちゃったのよね。上手く入れなくて、羨ましくてさ、ちょっとひがんでたわよ。私って、ほんと駄目よね!」
 その口調も、歩くペースの方も、だんだん不規則に速まってくる。怒ったように素直な心情を吐露してみても、返事はない。ちょうど丈の高い水際の草が茂っている群生地に差しかかり、対岸のケレンスの姿も、リンローナの薄緑の髪も見えなくなった。
 聞こえてくるのは自分の足音と、しだいに強まる胸騒ぎの鼓動のみ。つい先刻までこの世の春を謳歌していた美しい鳥たちの音楽は、妖しい風のざわめきに取って代わられている。今や森は、獲物を狙って身を潜める獣の緊張感に充たされていた。

「リンローナも薄情よ、ケレンスは責任感まるでないわね、こんな場所に私をほっとくなんて。少しはルーグを見習って頂戴」
 外部の妙な威圧感と、内面の孤独感に押しつぶされないよう、彼女はあえて強がってみたが、その語尾は不安に彩られて弱々しかった。ルーグの忠告がにわかに頭の片隅に浮かぶ。
『一人で行動するんじゃないよ、シェリア』
「さっさと適当に山菜摘んで、あの子たちに合流するわよ!」
 自分に言い聞かせるだけでなく、森の中から彼女の一挙手一投足に注目する〈誰か〉に向かって宣言するかのように女魔術師は叫んだ。心の中に不安の雲が拡がり、足取りはさらに大股になる。脇の下は湿り、背骨の筋を嫌な汗が流れるのだった。


  9月29日○ 


[虹あそび(17)]

(前回)

「ふっほーぉ……」
 だいぶ高度を稼ぎ、棒を水平に戻してから、魔女の孫娘のナンナはさっきの呪文の名残のような大きい溜め息をつきます。
 離陸の際――特にレイベルを乗せている時――にはいつも緊張します。自分だけならば適当な乗り方でも構いませんが、大切な友達に少しでも怪我をさせるわけにはいかないからです。
 ナンナは上空で風の流れを捕まえるのは割と得意なのですが、ふだん慣れ親しんでいる大地の力から切り離されて、正反対の天空の力に身を預けるという〈離陸〉や、帰り際の〈着陸〉は難しいのです。それもそのはず、この〈飛翔魔術〉は大人の魔女だって簡単には使いこなせない、とても高度な魔法です。
 魔法には術を使う人の性格が影響します。自由きわまりない考え方を持つナンナは、風に関係した魔法はとても得意です。
 ナンナが使った〈フォーレル・ロワンナァ〉は棒状のものを浮かび上がらせると同時に、ある程度まで、それに接している者の身体まで軽くしてくれる魔法なので、お尻はほとんど痛くなりません。また風と仲良しの魔法なので、仮に体勢を崩しかけても見えない精霊が手助けしてくれますし、ナンナが術に集中している限りはレイベルも落ちるような心配はほとんどありません。
 その上位魔法にあたる〈フオンデル〉は、物の力を借りずに人の重さを無くして飛ばす最難関の魔法の一つです。さすがのナンナでも、現段階ではまともに使いこなすことは出来ません。
 そもそも十二歳のナンナが〈フォーレル・ロワンナァ〉を扱えるだけでも大したものなのですが、他はひどい失敗が多く、お母さんに奨められて受けた学院の入学試験は不合格でした。才能を見抜いていたカサラおばあさんはナンナを預かり、おばあさんの生まれ故郷である田舎のナルダ村に連れてきたのでした。

 可愛らしいちぎれ雲がいくつも並んでいる様子は、まるで天の住人のお引っ越しです。その中の一つに正面からぶつかると、刹那、視界は吹雪のような純白に染まりますが、あっという間に向こう側にたどり着いて、一段と明るい光が降り注ぎます。
 空駆ける旅人に無関心な一羽の鷹は、ナンナたちよりもずっと低い場所で緩いカーブを描き、旋回しています。その向こうにはナルダ村の様子が、手先の器用なフレイド族の作った精巧な模型のように広がっています。家の屋根は胡麻粒のようです。

 村は遠ざかりますが、村長さんの娘のレイベルの屋敷はまだ何とか判別できます。二人乗りなので速度はあまり出ません、せいぜいナンナが早歩きするくらいです。鳥に全く及ばぬ少女の空駆けは〈天のお散歩〉という表現が適当かも知れません。
 それでも上空は風が強まって髪の毛は逆立ち、身体は寒いほどです。前を向いて操縦を続ける見習い魔女の声は、後部座席のレイベルには切れ切れのかけらとなって届けられました。
「ちっちゃいよ〜、村が、あんなに☆」
「うん」
 レイベルは友達にしがみついていた腕の力を少しだけ緩めますが、普段は遠くに見える虚空に抱かれて、気を付けないと意識までが蝶々のように飛んでいってしまいそう。離陸から続いている凧糸のように張りつめた緊張感と、雲を突き抜けて空に吸い込まれる楽しさ――それは再び土の上に足を置くまで、レイベルの心の奥に燃えさかる炎のごとく葛藤し、交錯します。
 レイベルは何度かナンナの背中で空を飛んだことがありますが、なかなか景色を楽しむ余裕はありません。下を見るとすくんでしまい、めまいを覚えるので斜め上を向くようにしています。

 さて、十二歳の少女たちが乗っているのはただの木の棒ではなく、その後ろ側には固い竹で作られた房が付いていました。
 もちろんナンナがつかんでいる棒は、さっき大急ぎで取りに帰った魔女のほうきなのでした。例の〈闇だんご〉を全て使い切ってから、二人は〈空を飛んで行ってみよう〉と相談したのです。
 その行く先には、明るい日差しの中に、すっかりおめかしして不思議に七色がうつろう虹のシャボン玉が浮かんでいました。


  9月27日− 

  9月28日− 


[夕焼けに]

「今、集めていますが……は、はい。分かりました、急ぎます」
 眼鏡をかけ、痩せ気味で背の高い二十歳過ぎの青年は見えない相手に向かって頭を下げた。相互伝達魔法〈クィザロアム〉で、厳しい師匠から有無を言わさぬ指示が飛んで来たのだ。
 ややうつむいて、軽く頬を膨らました息を〈ふぅ〉と吐き出すと、彼は気持ちを切り替えて回れ右をし、客人の方に振り向いた。
 それは彼に比べると身長が半分ほどしかない小さな訪問者たちであったが、西日が奥の方まで射し込んでくる秋の爽やかな広葉樹の森の中で、その姿はとても背景に馴染んでいた。
 木々の力強い幹、どんな彫刻にも勝る繊細な枝や葉、可愛らしい赤い実まで、起伏に富む大地に繋がっているものは彩りを失って黒い影法師に変わり、空だけが浮上する。陽の町から月の村へ境界の橋を渡る黄昏時は全ての明暗がはっきりする。
 雲間に拡がった天の光の畑にも少しずつ夜の種が育ち、根を張ってゆく。朱い光が見守る中、ゆっくりとした確実な変化だ。

「残念ですが、僕はそろそろ帰らねばなりません」
 薄くても羽織るものを着ていないと肌寒くもある涼風に、整えられていない前髪を揺らし、青年――テッテは言うのだった。
「それでは森の入口までお送りしましょう」
「お兄さん、大丈夫? 怒られないの?」
 率直に訊ねたのは訪問客のうちの一人、八歳のジーナだ。太陽のかけらをまとったような金の髪を長く伸ばし、今日は頭の上で結んでいる。活発でやんちゃな瞳の奥には、清らかな気高さと芯の強さが見え隠れしている。負けず嫌いで猪突猛進な所もあるが、友達思いで情に厚く、話題も豊富な学舎の人気者だ。
「まあ、何とかなる……と思いますよ。では行きましょうか」
 客人を安心させるため青年は何事もなかったかのように微笑む。飾り気が無く、冴えない印象を与えかねぬ彼を特徴づけるのが、ささやかで暖かな冬の小春日和を思わせる〈笑顔〉だ。
「急いだ方がいいんだよね」
「慌てなくて結構ですよ。ゆっくり歩いて下さいね、リュアさん」
「でも……」
 リュアと呼ばれたもう一人の少女は不安そうに口をつぐんだ。彼女はジーナと同じ学舎に通う親友同士で、商人の娘の九歳、月の雫を絞ったような銀色の髪を肩の辺りで切り揃えている。引っ込み思案な性格であり、感情の起伏の波が大きいものの、賢い判断の出来る鋭い感性を持った心優しき少女である。
「師匠には、果物集めに時間がかかったと言っておけば問題ありませんよ。雷は落ちるでしょうが、後腐れはない方ですから」
 彼自身の気質でもあるが、テッテは決して相手を焦らせぬ。
 リュアは完全に納得したわけではないが、十五歳も年の離れたテッテの思いを何となく理解して、しっかりうなずくのだった。
「お兄さーん、リュアー、早く! 真っ赤なお日様が見えるよ」
 行動派のジーナは向こうのカーブの辺りで手を振っている。
 そして三人は一列になり、暮れなずむ森の細い小径を歩き始めた。先頭はジーナ、次がリュアで、二人に気をつけながらテッテが追う。しだいに別れが近づき、口数は減ってゆくのだった。
 空の家路をたどる鳥たちの声は、反比例して高まり――。

(引き続きお楽しみ下さい)
 

(9/28)

「うわぁー、すごい!」
「すてき……」
 最後の木々のアーチを抜けると、眩しい西日とともに視界が無限大にまで開けてくる。ジーナと、少し遅れたリュアは、それぞれの言葉で込み上げる胸の震えを表現した。この場所はお気に入りで、何度も夕焼けを見ているが、感動は毎回新たにやってくる。太陽の位置も、空の色も、風の流れも、前と同じことは有り得ないからだ。過ぎゆく時の重みが波間に漂っている。
 丘を縫って町へ続く一本道の向こうには海があって、その上には空が乗り、雲は不思議な記号を描いて浮かんでいる。見る者によっては〈ありきたり〉とも映るであろう風景は、今やどこもかしこも薄紅に染まっていた。少女たちの暮らしているシャムル公国のデリシ町は大海峡に臨み、メラロール市モニモニ町シャワラット町と並び、日の入りの美しい土地柄として有名だ。

「自然の染料には、どんな魔法もかないませんからね……」
 肩越しに上の方から響いてきたテッテの抑えた声が、少女たちの心の泉に染み渡る。わずかな間にも雲の衣替えは微妙に深化し、もはや〈薄紅〉と一言で表現することも出来ぬ。橙でも鴇(とき)色でもなく、赤紫でも浅黄色でさえなく、それらの暖色系の中間色同士を空色のパレットで混ぜ合わせたかのような、えもいわれぬ神秘の淡い彩りであった。特に南西の方角の森に折り重なって伸びる雲は、黄昏に染まる柔らかな山の嶺がそこに出現したかのごとく――しかも神秘の花園の気品がある。
 テッテの言う通り、あの雲を表現するのは、絵画でも魔法でも至難の業だろう。その時、その刹那にしか出逢えない風景や人々は記録に残らぬことが多いが、記憶の礎、想い出の渓谷には確実に刻まれる。羊皮紙は色褪せても魂は変わらない。

 吹きゆく涼風の河の流れが、そっと夢から醒ましてくれる。
「帰らなきゃ」
 突如、ジーナは振り向く。今まさに没しようとしている真紅の太陽を背にして立つ八歳の小柄な少女の影は、テッテの背丈を凌駕し、黒い針葉樹となって地面に枝と幹を伸ばしていた。
「リュア、帰ろ」
「うん」
 一度、承諾を得るかのように青年の顔を仰いでから、リュアは速やかに歩き出し、やがてテッテとジーナの間――森と町の間にある別れの分水嶺を越える。重心が移動したかのような一抹の淋しさをテッテが味わう刻であるが、眼鏡の奥の瞳はほとんど変わらない。ジーナとリュアでなければ気づかなかったろう。

「じゃあね、お兄さん。あたし、また来るからね」
「ええ、どうぞ。今度いらっしゃる時も羽織るものをお忘れなく」
「バイバイ」
 夕焼けに明日への想いと希(ねが)いをのせて、秋の落日にふさわしく、三人は名残惜しくも静かに別れを告げるのだった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 ついに今日の陽は海の中へ身を沈め、闇の精霊は枷を外されて飛び回り始めた。少女たちの後ろ姿が丘の小径に遠ざかってゆく。ジーナとリュアはしきりに振り向き、森の入口で見送っている〈お兄さん〉にさよならの合図を送り続けるのだった。
「風の澄む秋の夜は、空に散りばめた炎の名残がずっとくすぶっている……さあて、師匠への言い訳をどうしたものかなぁ?」
 最後に大きく手を振って、立ち去りがたい思いを断ち切り、テッテは薄暗い森の道を歩き出した。楽しい時間の余韻を味わいつつも、現実へ還るためにさまざまな独り言を繰り返しながら。

(おわり)

夕焼けに顔を火照らす雲の嶺
 


  9月26日− 


ルデリア世界 - 衣食住(1) 大陸北部の暮らし]

 ルデリア大陸は東西よりも南北に長い。各地の気候や文化に根ざした暮らしを、今回は衣食住をキーワードとして紹介する。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 遅い春が来て港の氷は溶け、北辺のカチコールの村は歓びの季節を迎える。大量の雪解け水は自然のままの河へ注ぎ、村人たちは足元まである分厚いトナカイの毛皮のコートを脱いで、黒い長靴を徐々に短いものへと履きかえる。草花は新芽を吹くものの、無造作に並ぶ黒ずんだ木造の家々に朝晩の暖炉の炎は灯り続ける。たとえ夏でも気温が下がれば暖房は必須だ。そのため薪の需要は多く、村人の多くは林業に従事している。奥地から河を使って丸太を流すのは、北国独特の風景だ。

 北海に面したカチコール村に定期船はなく、街道も整備されていない。夏場だけヘンノオ町との船が行き交い、ノーザリアン公国から派遣された二百人ほどの北方警備隊がやって来る。原野の原住民(彼らは“蛮族”と呼んでいる)や、熊や狼などの獰猛な動物に備えているが、北方将軍バラドーの率いる本隊から引き離され、精鋭揃いでも心許ない。派遣されるのが二百名と少ないのは、村が養える人数に限界があるからだ。痩せた土地でも育つ野菜が細々と栽培され、もちろん北方警備隊とともにヘンノオ町からも食料が運ばれてくるが、あまり余裕はない。そこで林業と並ぶ主力産業――漁業が重要になってくる。

 やはり木で作られた素朴な帆船に乗り、海の男たちは一本釣りや地引き網など何でもこなす。秋は鮭、冬であればアザラシを狩りに行くこともある。どの季節でも鯨が出れば村の男が総出で貴重な大型船に乗り、機械巻き上げ式の弓で仕留める。

 人々の金の髪は純度を増して美しく、長袖に隠された肌は透き通るほどに白い。それでも晴れれば射し込む光は強く、真冬でも雪焼けするほどだ。厳しい自然とともに歩む彼らは濃い蒸留酒を好み、吹雪に閉じ込められる冬場は特に量が増える。
 むき出しの土は疲れたように黒ずみ、背の低い木々は風雪に耐えかねて老婆のように背を曲げている。それでも最果てのタルロ村に比べれば木が生えるだけマシだ――タルロ村は、真夏になっても地表が苔で覆われる程度のツンドラ地帯である。

 鋭い角度で曲がった雪落としの屋根の向こうには、原始的な砕氷船をしまった倉庫と、深緑の海、果てしない空が見える。


  9月25日△ 


[青空を仕入れちゃう?(番外編)(1/3)]

(前回)

「ちわーっす」
 開きっぱなしのドアをくぐり抜け、古びた店に入って挨拶したのはサホである。奥まで差し込んでくる西日を受けて、埃がきらきらと光っている。薄暗い店内には人がすれ違う隙間もないほど、洋服のタンスに小物入れ、壺や絵画などがあふれている。
 ここはたまに掘り出し物が見つかる、ガイレフ氏の雑貨屋である。彼は地方をめぐる商人たちと翻意で、幅広い雑貨が取り引きされる。新しい品や安価な品は比較的早く売れてゆくが、骨董品は買い手がつかず、ほったらかしの場合もある。そこを狙って、いわくありげな良い商品を安く仕入れようと目論むのが、オッグレイム骨董店のしっかり者の長女、十五歳のサホなのだ。
「らっしゃい。おう、サホか」
 店の奥で熱心に何かを磨いていたガイレフが立ち上がる。頭がやや寂しくなってきた、小太りの人なつこい顔をした中年男である。奥さんは夕飯の買い物に出ているのか、姿は見えない。

「こんにちは」
 育ちのいいリュナンはドアから顔を出し、丁寧に挨拶をした。
「お、サホの友達かい?」
「そうです」
 リュナンは同意する。ガイレフは頭の上の丸眼鏡を下ろし、逆光で黒い影になっている少女に眼を細めたが、相手が躊躇していると気づくや否や、にんまりと大きな口をほころばせて促す。
「そんなとこに居ないで、入っといで」
「おやっさんが怖いのよー」
 代わりに応えたのはサホだった。ガイレフは〈いつものが始まったな〉とでも言いたげに、余裕の態度で心持ち首をかしげる。
 驚いたのはリュナンだ。瞳を広げて、誤解の払拭に務める。
「そんなことは……」
「ねむ、そこにいていいよ。おやっさん、あの子喘息持ちなの」
 サホが絶妙のタイミングで種明かしをする。得意の冗談だ。
「おお、そうかい。ここは埃っぽくていけねえよなぁ〜」
 ガイレフは腕組みをし、大きく頷いた。ほそぼそと長く続いてきた雑貨屋のせがれの眼光は、商い人にしては穏やかである。
「ねむ、表の商品を見てくれない? いいのがあったら教えて」
「うん」
 サホが的確な指示を出すと、親友は安心して諾うのだった。


  9月24日− 


[霧の白樺]

 夏は過ぎ、秋は深まる。実月(九月)の下旬ともなれば、山奥にあるサミス村の朝は冷え込みも厳しく、深い霧に覆われる。
 綿織りの長袖の上に、羊毛の手編みのセーターを羽織ったシルキアが入口のドアの前に立ち、振り返った。茶色の髪を後ろで結わえた十四歳の村娘である。少女は白い吐息で言った。
「いってきまーす」
「いってらっしゃい」
 遅れて厨房から顔を出した父の声が誰もいない酒場に響く。

白樺林のそばで

「お姉ちゃん、行こうよ」
 つま先立ちを素早く繰り返し、少しでも身体を温めようとしながらシルキアが促すと、三つ年上の姉のファルナが逆に訊ねる。
「今日はどっちに行くのだっ?」
 揃いのセーターを着て、茶色の髪も瞳も良く似ているが、妹に比べるとやや柔和な顔つきをしており、素朴な印象を受ける。
「じゃあ、あっちにしよう!」
 シルキアは右手の指先を斜め上方に伸ばし、先頭を切って歩いてゆく――それは中心街とは反対の村外れの方角だった。

アルメリアの花

 朝の空気はしっとりと湿り、宿の脇に咲いているアルメリアの桃色の花には露がおりている。小鳥たちの歌声が、角度の急な家々の屋根や空高く、さらには森の奥から、光と風とともに流れ舞い、乱反射して響き合い、新しい一日の始まりを告げる。
 サミス村はささやかな盆地にあり、山の斜面はもとより漂う雲さえ近くに見える。白樺の木が間隔を空けて生え、けがれなき清純な色がきらめいている。あちらこちらに浮かぶ曙の霧の名残は、まるでいつか河のそばで見た泥の不思議な生き物のごとく半透明の霞状になって風の幌馬車に乗り、離れていった。
 斜面にたどり着いた霧の子は薄くなりつつも登ってゆく。横に伸び、雪で作った巨大な丸太然として山腹で寝そべっている。

霧の流れ

 夕陽を受けた影のように背伸びして立ち往生し、しだいに溶けて散らばる朝靄(もや)を、ファルナは独特の感性で表現した。
「あ、雲の橋ですよん」
「ほんとだね」
 うなずいたシルキアの鼻と口から雪に似た煙が洩れる。さっきの霧のかけらは白樺の森が吐いた息だったのかも知れない。

山奥の朝

 秋の深まりとともにサミス村の気温は下がり、夏場は盛況だった避暑の観光客もぐんと減る。ファルナとシルキアの一家は村で〈すずらん亭〉という宿を営んでいるが、ゆうべは久しぶりに泊まり客がいなかったので朝食は普段より遅くても構わない。
 坂道の途中で見下ろした村と、遙かに拡がる太古の森は少しずつ赤や橙や黄に衣替えを始めている――のっぽの針葉樹は変わらぬ姿を留めているが。十月に入れば初霜、初雪、そして十一月には根雪になる。一年の半分は真っ白な世界なのだ。

 クゥーッ。
 おなかがすけば、それが帰りの合図。
「お姉ちゃん……帰ろっか?」
「うん」
 視線でお互いの気持ちを確かめると、白樺林を抜けて坂を駆け下り、朝のまぶしい光を浴びて元来た路をたどるのだった。
 


(北の大地紀行2003により休載)


  9月18日− 


[雲のかなた、波のはるか(9)]

(前回)

「う……」
 最初にレフキルが、そして後に続いたサンゴーンが、それぞれの仕草で目を覆った。活発でしっかりした商人の娘は日焼けした右腕を額にかぶせる。他方、清純でおっとりした〈草木の神者〉は思わずこうもり傘を落とし、目隠しするかのように両手を顔の上半分に乗せた。南国の夏が持っている本来のまばゆさを数日ぶりに浴び、二人の視力は麻痺してしまったのだった。
 その間にも、自然の驚異と脅威を体現するかのようなすさまじい音が絶えず鳴り、少女たちの聴力を塔の外の世界から完全に遮断していた。風の流れを想像させるほどに軽やかで、しかも湖水が深い淵の奥底で蠢くような重い響きが同居している。
 強い潮の香りが鼻をついた。町に漂っていた海の匂いの理由はここに隠されている――二人は確信した。白い砂浜にいるのと変わらぬ方法で、空気は鼻と舌と喉を刺激していたからだ。

 おそるおそるレフキルが瞳を開いてゆくと、睫毛の間から視界は順を追って拡がってゆき、輝きの模様の残像はしだいに消滅する。低い雲を突き抜ければ、そこは真夏の青空と、本物の天の頂を目指す入道雲、屈託のない光の子らがあふれていた。
 レフキルはおもむろに足の向きを変え、身体をひねって回れ右をする。彼女が腕を伸ばして、顔を覆ったまま立ち尽くしている親友の華奢な肩にそっと掌を置くと、サンゴーンは永い眠りから醒めた若く美しい王女のように、あるいは催眠作用のある幻術を解かれた者のごとく、砂がこぼれ落ちるのを彷彿とさせる自然な動作でしなやかな手を下ろし、蒼い両眼を見開いた。
「塔の外、いっしょに見よう」
 レフキルの言葉は、鳴りやまぬ激しい音の渦にかき消され、唇が動いたとしか分からない。しかしサンゴーンはゆっくりとうなずく。二人の間には神秘的な静寂の雰囲気が漂っていた。

 同じように聞こえる轟音にも、微妙なリズムがあることが分かってくる。それは意外にも心地よく、うるさいはずなのに眠気を誘われるような安らぎが生まれてくる。母の心臓の鼓動に繋がっているような、生命の躍動に充ちた原初的な音楽であった。

 レフキルは黙ったまま少しうつむいて、友が動き始めるのを冷静に待っている。サンゴーンは少し首を左右に動かしつつ、大自然の営みに感動しているような極めて敬虔な表情で、辺りの様子をじっくりと確かめた。何度か、この塔の頂上には来たことがある――頂上と言っても尖った屋根はさらに続いているが。
 中央の吹き抜けをめぐる形でささやかな回廊が設けられており、大きな窓がくりぬかれ、眺望が利くようになっている。人が登れるのはここまでだ。時折、風は二人の前髪を巻き上げる。
 見た目には塔自体に異常はない。しかしそこから見える風景は何もかもが違っていた――雲の大陸と、謎の透明な流れ。

 もっと見たい、その真相を確かめたい。
 魂の根底から湧く好奇心をそのままに、二人はどちらからと言うこともなく手を重ね、ガラスのない窓に向かって歩き出す。


  9月17日− 


[天音ヶ森の鳥籠(6)]

(前回)

「ここなら見つかりそうだね」
 リンローナはまぶしそうに額に手をかざして言った。姉ともども月光の魔力を秘めた高価な日焼け止めを薄く伸ばして塗っているが、度重なる夏の移動で頬は健康的な色に変わっていた。
「山菜なんて、どこで取っても同じような気もするけどな」
 短めに刈った金髪の頭の上で腕を組み、剣術士のケレンスがつまらなそうに愚痴ると――これまで長いこと沈黙を守っていたシェリアは、静かに募っていた鬱憤を一気にまくし立てた。艶やかな唇は曲がり、薄紫の瞳は厳しく細められる。自分で雰囲気を硬くしておきながら、ケレンスとリンローナと仲直りするどころか話に上手く参加できず、内向きの自己嫌悪が育っていた。
 シェリアはそのような類の感情の扱い方がとても不得手だ。
「あんた、聞いてなかったの? 神事に使うって言ってたじゃない。この森で摂れる山菜じゃないと駄目だから、ここまで来てるんでしょ? そうじゃなきゃ、こんな面倒な事、やらないわよ!」

「この……」
 一瞬、かっとして息を飲んだのは、当然のことながら責め立てられたケレンスであった。眉をつり上げ、自分と余り背丈の変わらぬ二つ年上の女魔術師の神秘的な深い双眸を睨みつけた。
「ケレンス、お姉ちゃん。お願い、落ち着いて!」
 聖術師のリンローナは慌てて小さい身体を滑り込ませ、精一杯に両手を伸ばし、つまらぬ喧嘩を必死に仲裁しようとする。その様子は鷹と鷲に挟まれた燕のごとく無力に見えたが、決してひるまない勇気と心からの懇願を同居させて、誇り高かった。

 何かと馬の合わない剣術士と魔術師はしばらく視線の対決をしていたが、先に逸らしたのはケレンスの方だった。彼は憮然とした表情をしつつも矛を収める。リーダーのルーグと別行動、しかも森の奥で、事が起こる場合には命に関わる。ルーグから二人の女性を託されたこともあり、ケレンスは自分を抑えた。
「確かに、こんな場所で下らねえ言い合いをしてる暇はねえな。じゃあ分かった、右側からぐるっと回って捜そうぜ。いいよな」
「うん」
 リンローナがほっと胸をなで下ろしたのもつかの間、彼女の姉は凍り付いたような声で宣言する。強情に意地を張ってしまう、という悪循環に、シェリアはすっかり捉えられてしまっていた。
「私は反対から行くわよ」
「お姉ちゃん……」
 妹の草色の瞳が、驚きと困惑、悲嘆とに彩られて大きく拡がった。唖然としたまま、信じられない様子で立ちすくんでいる。

「姿が見えるから平気でしょ? じゃあね」
 シェリアは後ろにお構いなく、早足で歩き始める。ここで一言〈冗談よ〉と茶化せば済む話だし、喉元まで出かかっているのに言い出せない。彼女は無理矢理に胸を張り、大股で遠ざかるが、その唇はきつく結ばれ、嘘をつけぬ顔はうつむいていた。

 まとわりつくような風の中、リンローナは反射的に数歩進んだが、すぐに方針を変えて立ち止まると、振り返って呼びかける。
「ねえケレンス、お姉ちゃんを追いかけようよ」
「うっせーな。置いてくぞ、リン」
 少年は重い残響を置き土産に、自分が決めた方へ踏み出したところだった。完全に板挟みになったリンローナは右と左を交互に確認していたが、どんどん小さくなる姉の後ろ姿を見るにつけ、しだいに明確な表情を失ってゆく。彼女は呆然と呟いた。
「どうして、こうなっちゃうんだろう……」
 澄んだ瞳は悔しさに熱く潤んでくるが、何とか涙はこらえる。
「早く来いよ」
 振り向きもせず少年は疲れた声で呼ぶ。リンローナは乱れる感情の渦に耐え、気丈に微笑みつつも頬を震わせて応えた。
「お姉ちゃん、歌が上手いから心配だなぁ」
「……」
 それを聞いた瞬間、にわかに少年は歩みを止めるのだった。


  9月16日△ 


[虹あそび(16)]

(前回)

「しっかり、つかまってててね☆」
 ナンナは息を弾ませたまま、首を左に半分動かして、背中のレイベルを確認しました。二人は木の棒をまたぎ、ナンナはそれをつかんでいます。そしてレイベルはナンナの腰にしがみついていました。ナンナの耳元で親友の高揚した声が響きます。
「うんっ」

 小さな魔女は両眼を固く閉じて精神を集中させ、普段はめったに見られない真剣な表情で呪文を唱え始めました。風さえ、少女たちを避けて通り過ぎるほどの緊張感が辺りの雰囲気の一粒一粒に充ちていました。ここは踏ん張りどころなのです。
「……と流れゆく空の大河よ、今こそ我が元に集いたまえ!」
 そしてナンナは肩の力をふっと抜き、青い瞳を見開きました。
「フォーレル、ロワンナァ!」
 その視線は一瞬だけ、どんなものをも見通せそうなくらい、激烈で強い輝きを帯びました。ですが、次の刹那にはいつものナンナです。木の棒の後部座席に陣取っているレイベルは、魔法の成功を祈るように、友の腰を抱きしめる腕に力を込めました。

 しばらく何も起きません。村長の娘はごくりとつばを飲み込みます。速まった胸の鼓動が二十を数えるまでは成功か失敗か分からないのです。ナンナの魔法にだいぶ馴れてきたレイベルですが、この時ばかりは何度味わっても精神が張りつめます。

 ――気のせいでしょうか。
 わずかばかり空気が揺らいだかと思うと、頬のうぶ毛は風が生まれたことを感じ、足下の草は微かにざわめき始めました。
 もはや気のせいなどではありません。
 その間も予兆は少しずつ充実し、天からの釣り針――斜めに向かう上昇気流に育ってゆきます。ナンナの黄金の巻き毛は舞を踊り、春にふさわしい薄い桃色の厚手のブラウスの袖や襟がはためきます。レイベルの細くて美しい漆黒の前髪は簾のようになびき、お似合いの赤茶色のロングスカートの裾もパタパタと音を立てました。汗は乾きましたが服の背中は湿っています。

 ナンナとレイベルの足は少しずつ動き、雑草は倒れ、また起き上がります。二人の周りを、見えない風の輪の源が駆け回り、髪の毛は激しく逆立ちます。水の中の泡のごとく上昇しようとする棒を持ち替えて、ナンナは誇らしげに顔をもたげます。緊張と歓びの入り混じった〈いい顔〉は、まるで花のつぼみです。
 やがて、かかとが離れ、土踏まずの辺りが浮かび、つま先が地面に別れを告げます。湖で泳いでいる時、ちょっと深い淵に来て、足が着かなくなったような感覚に似ています。空泳ぎの二人はいよいよ沖を目指して、大地という岸辺を離れました。

「ぴゅーぃ」
 留守番を任された白いインコのピロは、近くに生えていた背の低い木の枝に留まって、寂しそうに甘えた声を出しましたが、ナンナたちがいなくなると羽をばたつかせながら、安全な家へと飛び去ってゆきます。冷めきった〈闇だんご〉の細かな欠片だけが、その場でいつまでも浮きつ沈みつを繰り返していました。


  9月15日△ 


[食材クエスト]

「セリカさん、あなた本当に大丈夫ですか?」
 学院の〈生活科目〉の先生に念を押されたセリカ・シルヴァナは、分かっているのかいないのか、正面を向いたまま応えた。
「たぶん大丈夫だと思っちゃってます」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「お買い物〜」
 言いながら、早歩きでもなく駆け足でもない微妙な〈小走り〉を保ちつつ、セリカはしだいに日の暮れかかる放課後のセラーヌ町を、驚くほど規則正しい速さで直線的に進んでいた。黄金色の髪を後ろに垂らし、黄緑の星の模様を散りばめた白っぽい七分袖のブラウスを着て、焦げ茶の膝下のスカートを穿き、リボンがついているお気に入りのベルトで細い腰回りを束ねている。
 メモを見つつ、一人言を呟きながら瀟洒な通りの左側を進み続けた十七歳の少女は、緩いカーブを曲がった角にある入口の広い大きな店の前で、何の前触れもなく突然に立ち止まった。
 棚ごとに整頓されて、籠の中には残りわずかになった緑や赤の野菜や、色艶の良い果実が幾分無造作に並べられている。
「らっしゃい」
 金の髪を短く刈った目つきの鋭い中年の男がぬっと現れる。
 ――そこは行きつけの八百屋であった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「野菜ばっかりだな、嬢ちゃん、野菜炒めでも作るのかい?」
 言われた品物――細長くて赤っぽい、煮込むと甘くなる野菜や、独特の苦みがある緑色のもの、この地域で採れる丸いネギなど――を袋に入れ、数年前に店を継いだ店主は訊ねる。
「はい。学院に持っていくようなのかも知れません」
 セリカは彼女独特の妙な言い回しで応えた。八百屋は言う。
「嬢ちゃん、野菜炒めの手順は完璧かい?」
 親爺は馴れた手つきで袋を手渡し、反対の手でお代を受け取った。会計はしめて六ガイト半、割合と良心的な価格設定だ。

「……で、完成だと思っちゃってます」
 セリカは簡潔に、野菜炒めの一般的な作り方を喋った。
 伝統のある八百屋を父から継いだ店主は、真剣にうなずく。
「おう。基礎は分かってるみたいだな。可もなく不可もねえが」
「確か今日、学院で習ったばかりなのかな、と思ってます」
「そーか、それで今晩さっそく作って、明日持ってくんだな」

 すると少女の眼鏡の奥の青い瞳が、にわかに激しく瞬いた。
「そう……ですか? そう、だった、ような……そうです」
 セリカが口の中でモゴモゴ言っているうちに、別の客が現れ、店主は対応に追われた。彼女は何となく釈然としないまま帰途につく。日は沈み、東の空から少しずつ闇の幕が降りてくる。
「気のせいか、大切なことを忘れてしまった気がします」
 確認するように口に出して言ってはみたものの、思い込みの激しいセリカは自力で正解にたどり着くことが出来なかった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 その翌日。
「まあ、セリカさん、貴女は私の話を聞いていましたか?」
 野菜炒めを持ってきたセリカに、先生も生徒たちも仰天した。
「昨日習った作り方で、野菜を炒めると思っちゃってますけど」
 セリカが落ち着いて自らの見解を述べると、先生は嘆いた。
「本日の調理演習でやる予定でしたのに、貴女という人は!」

「あ、調理演習……忘れてましたけど、今、思い出しました」
 彼女が無表情に言うと、場の空気はどんより曇るのだった。
 


  9月14日○ 


[青空を仕入れちゃう?(3/3)]

(前回)

「サホっちは、何でも良く分かってるよねぇ」
 リュナンはとても感心していた。サホの説明は続いている。
「遠くから来る行商の人は、たいてい重い荷物を嫌うからさぁ、相手の日程とか繁盛の状況にもよるけど、交渉次第ではいい品がかなり安く買えたりするんよね。まあ野菜売りとか薬売りとかに比べると、雑貨も扱う行商なんて、あんまりいないけどサ」
「でも、中にはそういう人もいるんだよね?」
 リュナンが訊くと、生粋の商売人の娘ははつらつと応えた。
「そうそう。例えばさ、少し田舎の土地で、古い雑貨を売ろうとするじゃない。でも、なかなか地方では買い手が見つからなくて、都市に出てくる行商人にお願いする……ってことはあるわけ」
「うん、うん」
 自分の知らない世界に触れることが出来たリュナンの方は、青い瞳を輝かせて相手の話に聞き入っている。道行く人も、周りの景色も目に入らず、ひたすら親友の語りに没頭していた。

 腕を振り上げ、赤い前髪を揺らして威勢良く歩いていたサホは、ふと立ち止まる。それから親友の顔を覗き込むのだった。
「ねむは、どんな商品だったら買う? 仕入れの参考にするよ」
「えっ? ……そうだね、うーん」
 リュナンは立ち止まり、ほっそりとした腕を組み合わせて知恵を絞った。その瞳の行き先は、ふとした瞬間、自然と上の方に向かってしまう――幼い頃より体が弱く、しばしば風邪をこじらせて喘息になり寝込んでしまう彼女は、光や海、天や雲といった開放的で広く自由なものに、生来憧れ続けているのだった。
(大空みたいに、なれたらいいな)
 訳の分からない答えかも知れないと躊躇したが、他でもないサホならばきっと〈想い〉は伝わると信じて――リュナンはまぶしそうに顔をもたげ、素直な気持ちを微風に乗せて表現する。

「あの青空みたいに素敵な売り物があれば、きっと買うよぉ」
「へっ? 青空を仕入れちゃう……ってこと?」

 サホはさすがに目を見開いて、親友の突拍子もない答えを吟味していた。低いうなり声を上げ、首をかしげて、言葉の裏側に見え隠れする友人の真意を汲み取ろうとした。青空、青空、どうすれば仕入れられるんだろう――と頭の中で呪文のように繰り返し、その夢想的な要望を具体的な形にするため知恵を絞る。
 やがてサホは白い歯を見せて、右手の指をぱちんと鳴らす。
「さすがねむ、いいこと言うねえ! 今日はその方針で行こう」
「え?」
 むしろ驚いて、あっけにとられたのはリュナンの方だった。

 その疑問を置いてけぼりにしたまま、骨董屋の娘は何やら鞄を開けて、初秋の空を仰ぎ、手探りでゴソゴソと検分し始める。
「これこれ。ちょっと違うかも知れないけどサ、こんなのどう?」
 サホが取り出したのは、身だしなみの確認に用いる茶色の枠が付いた小さな丸い手鏡だった。長い間、愛情を持って大切にされた品物に特有の、主人を慕う温かな雰囲気が漂っている。
 彼女が手首を動かすと、光の筋道が移動して、店の壁やレンガの路に明るい円の模様を刻みつける。一通り色々な方に向けてから、地面と水平に持ち、ゆっくりと親友の方に差し出す。
「さあ、覗いてみて」
 サホが促すと、リュナンの胸はいくぶん鼓動を速めた。何が起こるんだろう、という期待と畏れを抱きつつ、軽く身を乗り出す。

「あっ」
 見る角度によって強い閃光が現れ、リュナンの眼はやられてしまう。鏡の中は眩しい輝きが満ちあふれている世界だった。
 そして、しだいに目が慣れてくると――もう、はっきり見える。

 確かに映るのは、心に沁みる澄みきった青空と、白き綿雲。蒼天は遙かにして高く、時に寄せて風流れ、緩やかに色彩を変ずる。東方の紫雲は玲瓏たる趣を誇り、柔和に横臥していた。

「どんな宝石にも負けない、青玉(サファイヤ)の鏡じゃない?」
 いたずらっぽく語った友の声が、手鏡に見とれていたリュナンを夢から醒ます。彼女は少しずつ腕を上げ、空を指し示した。
「うん……特にあの辺なんて、最高の商品になりそうだよねぇ」
「うわ、ほんッとすごい色! あっという間に吸い込まれそう」
 サホも天を仰いで、前髪を掻き上げ、しばらく見とれていた。
「なんか見えるんかい?」
 不思議に思った八百屋の親父が出てきて、少女らに訊ねる。サホの答えは明快で、全く一点の曇りも淀みも無しに響いた。
「ほら。いつもは忘れてた、あんなにきれいな空が見えるよ!」

「というわけで、とりあえず、うちの店に並べても問題ない古い鏡でも仕入れに行こっか。ガイレフのおっさんとこにするかな」
「うん!」
 仲良しの同級生は、陽の傾き始めたズィートオーブ市の通りを並んで歩いてゆく。まだ見ぬ素敵な鏡を思い浮かべて――。

(おわり)
(番外編)
 


  9月13日− 


[ララシャ王女の近況 〜計画〜(下)]

(前回)

 侍女は王女の髪型を器用に直しつつ、ごく自然に説明する。
「庶民の側から、王族を訊ねることは、なかなか難しいですよ」
「何でよ?」
 家庭教師のように高圧的に諭すのではなく、他の若い侍女のごとくビクビクしているわけでもない。人として対等の関係に立ち、相手をゆっくり理解していこうとするマリージュの言葉と態度と気持ちで、ララシャ王女は心の戸棚を一つずつ開いていった。マリージュにはもともと、そのような素地があったが、二人の息子と一人の娘の子育てを経ることで円熟味を増していたのだ。
 彼女は、ララシャ王女の豊かで健康的で素晴らしい花のような金の髪を両手で丁寧に結わえ、落ち着いて理由を述べる。
「残念ですけれど、連絡する手段がありませんし……私のような者は特別に、姫様のお側仕えを許されていますけれど、庶民はそうも行きません。たとえララシャ王女のお友達と主張しても、証拠がなければ、おそらく門番に止められてしまいますよ」
「じゃあ、じゃあ……どーすればいいのよ? 住所も、名字さえ分からないのよ。この大都市ミザリアで、見つかりっこないわ」
 ララシャ王女の口調はいつしか穏やかになっていたが、その中には哀しみや諦めと言った感情が確かに混じっていた。勝ち気な場面しか見たことのない者にとっては信じがたい光景だ。

 マリージュは、なおもゆったりとした語り口で話に踏み込む。
「お友達の年齢や学校名、職場は分かりませんでしょうか?」
「二人とも働いてる。一人は商人見習いで、もう一人は……」
 王女は知らず知らずのうち、とても素直に喋っていた。年増の侍女は指先だけを動かし、相手が語り終えるのをじっと待つ。
「……」
「何だっけ。そうだ、確か〈王立研究所〉って言ってたと思うわ」
 その言葉を聞いたマリージュは、情報を一度頭の中で整理し、しばらく懸命に考えた上で自分なりの助言をするのだった。
「そうですか。では視察に行かれるのはいかがでしょうか?」

 蜂蜜が舌の上でとろけ、頭までぼんやりするような――。
 マリージュの言葉が、ララシャ王女にはひどく甘美に響いた。
 だが、その幻想を振り払うように首を振り、王女はつぶやく。
「でも、あたしが行くなんて変よ。馬鹿にされるに決まってる」
「気にすることはありませんよ。姫様が国の研究機関を視察するのは自然ですし、馬鹿にする方が馬鹿なんだと思いますよ」
 マリージュは胸を張り、何の迷いもなく笑顔で返事をした。大地に根を下ろす説得力を感じて、ララシャ王女は目を見張る。
「ほんとに……そう思うの? マリージュ」
「ええ。会えずとも、きっと手がかりは掴めると思いますよ。いっそのこと、視察の際にお友達をお呼びになり、理由をつけて表彰し、王宮への通行手形を渡してしまうのはどうでしょうか?」
「それ、面白いわ!」
 ついつい乗ってしまった王女は我に返り、うつむく。それから口を開いたり、つぐんだり、何かを言おうと躊躇している様子が見受けられたが――やがて勇気を出し、ささやき声で言った。
「ありがと。考えとくわ」
 言い終えると、王女は顔を火照らし、小さな溜め息をついた。
「どういたしまして。きっと国王陛下もお悦びになりますわ」
 マリージュは手を休めて、目の前の鏡の中を覗き込んだ。他の侍女に比べると、ずいぶん作業時間はかかったが、ララシャ王女に良く似合う華やかな髪型が完成していた。黄金の前髪を今日は大胆なアップにし、頭上で力強く颯爽と結ばれている。

「あんたって変な侍女ね」
 ララシャ王女はくすっと笑った。こうしていると、どこにでもいるごく普通の十五歳の少女と何ら変わらない。マリージュは左右に顔を移動させて、鏡に押し込まれた〈飾られた王女〉の髪型を確認しながら、表情をほころばせて、わざと大げさに礼をする。
「光栄ですわ。……さあ、ご用意が出来ましたよ」
 コン、コン――。
 ちょうどドアがノックされ、別の侍女が呼びに来た。王女の気持ちをほぐしながら、出来るだけ丁寧に――とは言っても、必ず時間だけは厳守する。かつて十年間、侍女の経験があるマリージュの職人芸だ。ララシャ王女は機嫌を直して立ち上がる。
「次のくだらない会が終わったら、さっそくお父様に頼んでみるわ。あたしが視察したいなんて言ったら、お父様もお母様もどんな顔するかしら! でも、きっとお兄様は分かってくださるわ」
「ええ。では〈くだらない会〉とやらに参りましょうか」
 マリージュは小声で促し、いたずらっぽく片目をつぶった。

 ドレス姿のララシャ王女は廊下を大股で歩きながら、心の中で沸騰する期待を膨らませ、不敵な笑みを浮かべるのだった。
(レイナ! 王立研究所で、首を洗って待ってなさい!)

(おわり)
 


  9月12日− 


ルデリア世界 - フレイド族の概況]

 やや濁ったカイソル河の下流は湖と見まごうばかりに幅広く、対岸の町は黄色みを含んだ若干の砂煙に霞んでいた。木を組み合わせて作った丸みを帯びている簡素な小舟は、頑丈でしかも美しく、無数に浮かんでは悠久の流れに身を任せている。
 河の岸辺には丈の高い良質の葦が伸びている。時折、細長い葦刈りの船がやってきて、茶色に近い肌を持つフレイド族の小太りの女が器用に櫂で小舟を操作し、立派な髭を生やした男どもが、細かな刃のたくさん付いているノコギリに似た道具で素早く切り落とし、手際よく引き倒してあっという間に満載する。川面を駈ける風は湿気を含み、照りつける陽の光に汗が吹く。
 もう少し上流の農村を訪れれば、水稲、あるいは二期作の稲田も見られるだろう。秋になると、実りを迎えた稲穂がいっせいになびき、豊かな大地のみ恵みを直に感じ取ることが出来る。

 ラット連合国の中で特にフレイド族の多い南北カイソル州は、農業が盛んな土地柄である。夏から秋にかけて雨が多い温暖で湿潤な気候が、稲作に適している。時に河川が氾濫したり、日照りや凶作が来ることもあるが、全般的に気候は穏やかで土壌も良く、野菜類の収穫量も多い。自然とは〈共生するもの〉であって、決して支配するものではない――という考え方が、民族の血の中に深く根付いている。ラニモス教とは異なる独自の信仰を持ち、自然崇拝の素朴な多神教が伝えられている。
 妖精族とは太古の昔より馬が合わず、フレイド族は全般的に魔法は極めて不得手であり、文化として取り入れる気はさらさらない。平均寿命は人間よりも短く、子供を大勢産むという、多産多死型の社会だ。たとえ基幹産業の農業でも、決して魔法に頼らず、道具や肥料の試行錯誤で増産を目指す。やや意固地で、堅物ではあるが、筋が通っている――それが典型的なフレイド族だ。なお彼らの実に九割以上が農業に従事している。

 手先が器用、勤勉で集中力のあるフレイド族は、都市に出ると良質の職人になる。人間ではそう簡単には作れない珠玉の木工品、刀鍛冶、金属加工、各種装飾品の店が、カイソル河の河口付近にある〈商工業都市〉テアラットに雑然と建ち並ぶ。道は舗装されておらず土がむきだしである。 簡素な石積みの家が多いが、土を塗り固めただけの地方の貧しい農家よりは遙かに立派に見えた。テアラット市はラット連合の誇る首府でもある。
 カイソル河からは農作物、海からは海産物、市内からは工業製品、そして他の州や異国からは色々な品が集まるテアラット市では貿易も非常に盛んである。ルデリア大陸の東岸では最も人口が多く、いわゆる東廻り航路に沿う〈環大海峡〉地域の中心地として繁栄を謳歌している。魅惑の都エルヴィール町を始め、湖畔のアリアン町、穏やかな波のシャワラット町――他国ではシャムル公国のデリシ町、ポシミア連邦のポシミア町、ベリテンク町、遠くはガルア公国のセンティリーバ町からも商人が集まり、品目ごとに分かれた活気のある市場で売買をする。

 兵士も強い。体力は人間とさほど変わらず、背が低いため不利に思われがちだが、一人一人のしぶとさが違う。かつてマホジール帝国のエリートであった魔術師軍団を、リュフリアとミニマレスの国境をなす峻険な雪積もる中央山脈で全滅させた〈フレイド独立戦争〉はあまりにも有名である。この勝利で彼らはゴアホープ公国の搾取から解き放たれ、念願の独立を叶えた。
 もう少し北に位置するポシミア連邦やハーフィル自由国の版図の大半が土漠か山岳地帯であることを考慮すれば、南北カイソル州は非常に豊かである。彼らは鍬で田畑を耕し、血と汗を流して大地とともに生き、あるいは都市のささやかな家で芸術的な工業製品を作り続ける。昨日も今日も――そして明日も。
 


  9月11日○ 


[雲のかなた、波のはるか(8)]

(前回)

 塔の中は思ったよりも明るかった。どうやら天井近くの窓から光がこぼれ落ちているようで、狭い吹き抜けから降りそそぎ、上の方が神々しく輝いて見える。サンゴーンとレフキル、十六歳の二人の少女らの胸に宿る期待の炎は一段と勢いを強めた。
「足下に気を付けて。慌てる必要はないから」
 レフキルは振り返って、友に呼びかけた。入口付近の薄暗がりの中で、やや長い耳が特徴的なシルエットとなり、ぼんやり夢幻的に浮かんでいる。それから彼女は決然とした表情で機敏に前を向き、何歩か進むと、いよいよ鉄の手すりをつかんだ。正確な色は判別としないが、赤錆びた感覚が指先に伝わる。

「ハイですの……」
 応えたサンゴーンの声はほんの少しだけ震えていた。恐怖ではなく、もっと深く清らかで根本的な〈畏れ〉が、感じやすい彼女の心を捉えていたのだった。レフキルから数歩遅れてついてくる草木の神者の、石作りの床を打つ靴音は、細長い塔――縦のトンネル――の中で奇妙に反射し、何度も屈折して響いた。
 その音でさえ、左巻きの螺旋階段を駆けあがり、塔の最上層に辿り着けば、吹きすさぶ風の叫び声にかき消されてしまう。

 この尖塔はいま、雲の世界に繋がっている唯一の正しい道であった。海神アゾマールの乱気流で生まれた背の高い竜巻から〈激しい生命力〉だけを抜き取ったような威厳と品格がある。
 その、いわば薄暗い〈龍の腹の底〉から、蒼天を睨み据える光の双眸を目指して、南国の少女たちは階段に足をかけた。

 もはや言葉は必要なかった。しだいに高まる風の轟音は、自らの鼓動の錯覚だろうか――同じ段差と同じ角度で続く〈縦の道〉では、それさえ貴重な度量衡の単位になる。回りながら登るうち、方位はあっという間に意味を失い、時間のねじを逆に巻くような非日常の新鮮な感覚が、軽い目眩とともに襲ってくる。

 もはや永遠に続くとさえ思えた旅路を、どこまで登ったろう。
 足音の乱れののち、突然の弱い悲鳴と、膝をつく音がする。
「ひゃっ」
「サンゴーン!」
 レフキルは振り返り、つんのめってしゃがみ込んだサンゴーンにすかさず手を差し伸べる。ところがバランス感覚には自信のあったリィメル族の彼女でさえ、ふらついて壁に寄りかかった。
 頭が、周りの景色がグルグルと廻り、思考が螺旋を描いた。
 上の方にしか窓のない尖塔は予想以上に若い二人の五感を狂わせていた。ふと見た床の方は、もう闇に沈んでしまっている。そして天からは柔らかな光の渦、風の合唱曲が聞こえる。

 そう――いつしか辺りはだいぶ明るくなっていた。東の空が白んでくるような、連続的で微量の変化に気づかなかったのだ。

「もう大丈夫? ゆっくり行こうよ」
「ありがとうですの、レフキル」
 少女たちは手を取り、手をつなぎ、再び立ち上がって峠を目指した。掌から伝わる互いの体温が気持ちを落ち着けてくれる。

 塔の半径がほんの僅かずつ狭くなったかと思うと、しだいに外壁を打ちつける轟音が高まった。二人は一瞬だけ顔を見合わせると、あとは勇気を持って躊躇せず最後のカーブを曲がる。
 堤防を越え、眩しい光の奔流がにわかに溢れ出して――。


  9月10日− 


[青空を仕入れちゃう?(2/3)]

(前回)

「骨董品なんて、なかなか無いでしょ? 売りに来る人もいるけどサ、待ってても埒があかないから、こっちから捜しに行くの」
 サホは右手に鞄を持ったまま、しなやかな腕を大げさに広げて、空に突き出した。中型の馬車が行き違える程度の幅がある旧市街の街路は、大勢の人が行き交っていた。特に八百屋や肉屋、魚屋には多くの婦人がたむろし、夕食のおかずを考えながら店主との値引き交渉を楽しんでいる。どこもかしこも色々な種類の商店で賑わっており、この町で揃わない物はまずない。西廻り航路の重要な中継点に位置しているため、南からの香辛料もあれば、北国の毛織物もある。西海は近いし河も流れ、郊外の広い農村からは新鮮な旬の野菜や果物が届けられる。
「サホっちらしいね」
 うなずいたリュナンに、骨董屋のしっかり娘は格闘家の真似をして片目をつぶり、左右の拳を順ぐりに鋭く差し出すのだった。
「先手必勝だわなぁ。ほっ、ほっ」
「違うぜー、こうだぞ!」
 通りの反対からやって来た数人の七、八歳くらいの男児たちがサホの動きに反応し、てんでに格好をつけて拳で空を切る。
「だっさいわねー。こうよ!」
 サホはさも楽しそうに笑いながら、立ち止まって腰を低く構え、豪快に蹴りをかます。しばらくの後、熱い拍手が起こった。
「すげぇすげぇ」
「姉ちゃん、かっこいいなー」
 足の長いサホが白いズボンで蹴り上げると、素人ながら様になっていた。中にはさっそく〈教えてくれよ〉と駆け寄ってくる子供もいる。よもやま話をしていた商店街のおやじや、下町のおばさんたちはサホに注目する。日傘の中で顔をしかめた通りがかりの大商人の婦人だけが、その場に不釣り合いであった。
「今日は無理、忙しいんだからサ。さーあ、行った、行った!」
 サホは子供たちを適当にあしらった。その人気ぶりを、リュナンは嬉しそうに、そして少しだけ羨ましそうに眺めるのだった。

「商品の値段なんて、要はみんなが欲しがる度合で決まるんよね。特に骨董品なんてのは、結局ガラクタなんだからサ、どれだけ〈いわくつき〉か、貴重かってのを多少誇張しつつ、嘘にならない程度に客に説明できる話術が何よりも大事なのよねー」
 自分の家の商いについて、それから自分の役割について良く理解しているサホだった。彼女は学院で劣等生扱いされていたが、遅刻や居眠りが多いのは仕事の忙しさで多少はやむを得ない面があったし、そもそも学院での勉強全般にあまり興味を持てず、やる気が出ないのだった。時には赤っぽい髪の色まで陰口を叩かれることもあるが、地毛だし、サホは無視している。
 居眠りが縁で翻意になったリュナンはおっとりした性格で、いっしょにいると心が安まる。決して外見で人を判断せず、相手の話を良く聞くところもサホは好きである。趣味も性格もまるきり違う二人だが、学院にいまいち適応できていない点など、ひそかな共通点は多い。今ではお互い全幅の信頼を置ける〈かけがえのない親友〉であり、一生の付き合いになる確信がある。


  9月 9日− 


 育ちの良い十五歳の少年らしく澄んだシャン・クリオスの青い瞳は、今や真剣に細められ、独特の緊張感がみなぎっている。彼の左手は相手をしっかりとつかみ、刃物の握りを持つ右手に力が込められた。標的の真横をねらい、ゆっくりと武器を引く。
 学院で剣術を専攻する彼は、腕の構えも様になっている。
「……」
 そして無言のまま、右手を素早く動かし、非情に薙ぎ払う。
 シャンの腕と武器は一陣の風となり、相手の足首を狙った。

 標的は次々と倒れた。その断末魔の弱々しい叫びも一瞬でついえ、辺りは静寂につつまれる。その中に、シャンの溜息。
「ふぅ……」
 だがすぐに気持ちを切り替えると、彼は骸を機械的に左手でつかみ、それを引きずりながら歩き始めた――単なる一つの作業ででもあるかのように。やがて累々と積み重なる弔いの場所にたどり着くと、土にまみれた新しい骸を小山の上に投げる。ようやく彼は落ち着き、金の髪の間に浮かぶ大粒の汗を拭った。

 ――といっても、これは戦でもなければ決闘でもない。

「お父さーん、お兄ちゃーん、ちょっとお休みしよう!」
 向こうから明るい少女の声が聞こえ、シャンは顔を上げる。
「お母さんとおじいちゃんが冷たいお水を持ってきてくれたよ」
 それは二つ年下の妹で、屋敷の掃除をしていたレイヴァだ。
「わかった。今いくよ!」
 シャンは軍手を庭の石の上に置き、蒸れた手でもう一度、額と頬の汗を拭う。緑色の長い骸――だいぶ伸びていた庭の雑草の山――を踏み越え、テラスの白いテーブルに鎌を置いて、シャンは奥の日陰に向かった。大柄な父もテラスに顔を出す。
「休憩かい?」
「うん。行こう」

 日除けの帽子を脱ぎ、歩き始めた父と息子の背中の辺りをひそかに流れるのは、温暖な町のさわやかな風と、広い庭の高い木々から流れてくる鳥たちの歌声だった。すねに張りつく長ズボンや汗まみれの背中、脇の下が冷やされて気持ちいい。
 初秋とはいえ、暮れゆく夏の意地か、だいぶ気温の上昇した午後――シャンは父と二人で庭の草取りに余念がなかった。
 ルデリア世界で最も有名な保養地であるミラスの町は、最大の賑わいの時期を終えて、束の間の静けさを取り戻しているかに見えた。それでもシャンやレイヴァたち、別荘の管理者の家族は日常整備を決して怠らず、貴族の訪れを待ち続けている。

「はい、お兄ちゃん。お疲れさま」
 レイヴァの差し出したグラスの中の氷結魔法が、軽く鳴った。
 


  9月 8日△ 


[虹あそび(15)]

(前回)

「虹の、お化粧……」
 レイベルはにわかに強い衝撃を受けて、心や夢みたいに果てしなく広がっている天をあおぎました。眼差しの行く先には七色の満月が浮かんでいます。どんな属性をも越えた幻の魔法を風のゼラチンで固めたような、綿雲よりも大きいシャボン玉です。

 地面から顔を出した芽が急速に背伸びするように、花の白いつぼみが開くように――子供らしい遊び心がよみがえります。虹さえ嫌がっていないのなら、レイベルだって本当は今すぐでも遊びたいとウズウズしていたのです。村長の娘の誇りか、真面目な子を演じていた部分も、多少はあったのかも知れません。
「そうよね。虹さんもたまにはおめかししたいよね、きっと」
 レイベルはいたく感動し、ほんの少し震える声で言いました。
 他方、よく喋る小さな魔女はたいそう調子よく説明しました。
「んー。ナンナね、虹さんは嫌がってるよりも、恥ずかしがってるのかなって思うんだよ。あの〈闇だんご〉って、あんなに真っ黒で泥だらけだけど、もしかしたらお化粧の宝石なのかもねー」
 すぐにレイベルは黒い瞳を瞬かせてしっかりとうなずきます。
「うん。きっと、ね!」

 二人の視線は自然と空の高みから下がり、いつしか手の届く場所に戻ってきました。カカオ豆のクッキーみたいに固くひび割れたお手製の〈闇だんご〉は風に揺られ、宙を漂っています。
「さあ、おだんごが冷めちゃった。思いきり投げよ☆」
「いっしょに投げよう、ナンナちゃん!」
 村娘たちは、思い思いの黒い魔法のだんごを手にしました。形は良くないけれど、気持ちの籠もっている不思議なお菓子には、ほんのちょっとだけ芯にぬくもりが残っているようでした。
 それから二人は球を持ったまま、思い切り振りかぶり――。
「届け、虹のお化粧玉!」
 声を合わせて同時に投げると、額から汗の雫がこぼれ、明るい光にきらきらと輝いて、雨あがりの水蒸気が漂う草の中に落ちてゆきました。黒い夜の切れ端が、さかさまの流れ星を思わせて、真昼の空にゆっくりと浮かんでいきます。目指す行き先は、空の彼方にある虹の顔です。まもなく第二陣、第三陣の球が元気に続きます。少女たちの心も最高潮を迎えていました。


  9月 7日− 


[弔いの契り(24)]

(前回)

「いけ……にえ」
 俺はガキの言葉を繰り返し、そして絶句した。肩や腕、首や背中がずっしりと重くなり、身動き一つすることすら難しくなる。
 生け贄、生け贄――頭の中で〈生け贄〉という単語が生々しく反芻された。日常とかけ離れた不気味な世界の存在に、俺は戦慄さえ覚えた。内側へ向かう負の力を感じ、もともと魔法や儀式に関する知識の乏しい俺の血は凍りつくかのようだった。
 そんな禁忌が、少なくとも文明の発達した国として知られているメラロールの小さな村で行われているなんて信じられねえ。

「あの、大変失礼ですが、お姉さまはお亡くなりに?」
 タックはさらに声をひそめたが、言い方はあくまでも冷静そのもので、俺みたいに衝撃を受けているようには思えなかった。
 姉を生け贄にされたという農家の息子の返答は素早かった。
「いいえ、存命です。今でもいつも通りに暮らしています」
「それじゃ、生け贄とは言わな……」
「ケレンス。まずは説明を聞きましょう、って言いましたよね?」
 タックに遮られ、不服ながらも俺は追及の手を緩める。微妙な緊張感が走る――確かに、あのガキは俺が話し出すと怖がり、タックが喋ると安心するようだ。俺って、そんなに〈ならず者〉に見えるのか? でも、もしもシェリアがこの場にいたら〈普段の行いが悪いのよ。自業自得でしょ〉とでも言いのけるだろうな。

 冗談はさておき。タックは丁寧に、順を追って質問を始める。
「僕はミグリ町出身の冒険者で、諜報関係を主に担当していますタック・パルミアと申します。こっちは剣術士のケレンス・セイル。まずは今さらながら、お名前を伺ってもよろしいですか?」
「あの……フォル、十三歳です。六つ上の姉はサーシャです」
 屋敷の壁際は相変わらずしんとしている。常に辺りの気配、特に廊下にランプを持った追っ手が来ないかは気をつけているが、今のところ主だった変化はない。秋の虫は屋敷の出来事には無関心で、それぞれの楽の調べを地道に奏で続けている。

「ありがとうございます、ではフォルさんにお訊ねします。お姉さまはご存命なのにも関わらず生け贄である、と伺いましたが」
「タックさん。絶対に、誰にも言わないって約束できる? 僕が教えたと知れたら、僕は……姉さんは大変なことになるかも」
 すがるような目で盗賊を見上げ、フォルは念を押した。おそらく男爵か、デミルか、それに近い人物に脅迫されてるんだろう。
「ええ、誓って約束します。この件を無事に決着させるまでは」

「十二人が揃うまでは、命を奪われることはないって……」
 生真面目に応えたタックに、フォルは少しだけ心の扉を開いたのか、語り始める。とても微かな囁き声なので、それを聞き逃さないため身体中を耳のようにそばだて、聴力を研ぎ澄ます――俺はその場に腰を下ろした体勢、旧友タックは立て膝のまま。
「姉さんは、ある特定の夜以外はそれまでと全く変わらず、働き者で優しかった。けど、その晩だけ乗っ取られ、赤い眼……」
 俺は視線を遙か高みに持ち上げてゆく。フォルのマメだらけの指の彼方には、今宵の望月が無表情に佇んでいたのだった。


  9月 6日− 


[青空を仕入れちゃう?(1/3)]

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「あの青空みたいに素敵な売り物があれば、きっと買うよぉ」
「へっ? 青空を仕入れちゃう……ってこと?」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「ねむ。これから、空いてる?」
 学院の帰り道、十五歳のサホ・オッグレイムは、同級生の〈ねむ〉ことリュナン・ユネールに訊ねた。ルデリア大陸の中では南西部に当たるズィートオーブ市の午後の陽射しは夏の厳しさを残して縦に降りそそぐけれど、空の天井は日ごとに高くなり、夕暮れは明らかに早まっている。海も遠くない旧市街ロンゼの整備されたレンガ作りの環状道路には、爽やかな風が通り抜け、サホが着ている七分袖の赤いシャツの袖口をはためかすのだった。時折、おなかの布も舞い上がり、白くて長いズボンを止める洒落た茶色のベルトと、可愛らしいおへそが覗くのだった。

「うん。何もないよぉ」
 応えたリュナンの方はやや色の白い痩せ気味の少女で、物の良い薄紫色のブラウスに、微かな桃色のロングスカートを合わせている。身体が弱く居眠りの多い彼女は、いつしか〈ねむ〉と呼ばれるに至った。自分自身も〈ねむちゃん〉と言っている。
 二人とも妖精の血が幾星霜を経て人間に深く混じったウエスタル族である。この民族に特徴的なのは、身体の造りが華奢で比較的運動には不向き、魔法が得意、それから髪の色がバラバラだということである。リュナンはむしろこの国では珍しく普通の金髪だが、後ろで束ねたサホの髪は赤っぽい色をしている。
 彼女たちが通っている学院に指定の制服はない。それぞれ革の手提げ鞄を持っているが、必要のない書物は校舎に置きっぱなしにしてあるのだろう、少なくとも重たそうではなかった。

 目の前を何かが横切り、サホは素早く身をかがめる。飛び去る姿を追えば、それは今年一番早く見かけたトンボであった。
 少し微笑んで、何事もなかったかのように体勢を立て直したサホは、建物の日陰を選びつつ隣を歩く親友に呼びかけた。
「ならさー、ちょっと付き合わない? あたい、これから、うちの商品の仕入れに行こうと思ってるんだけど。何軒か回るんサ」
 サホの実家は〈オッグレイム骨董店〉という商店を経営している。父が亡き後、母が切り盛りしているが、放課後や学院が休みの日は長女のサホも手伝っている。店番や倉庫の片づけにとどまらず、仕入れや情報収集、果ては幼い弟や妹の面倒を見るのも大事な仕事だ。リュナンは興味津々そうに問い返す。
「面白そうだね……。ねむちゃんも行っていいの?」
「もちろん!」


  9月 5日− 


ルデリア世界 - 冒険者と旅人の違い]

 ルデリア世界で、町を越えて移動する者は、移動しない者に比べるとほんの一握りである。その中では商人が最も多く、旅客・貨物船の船員、早馬や定期乗合馬車の御者などがいる。
 以上のように、ある程度決まった地域を移動する職種とは趣を異にするのが冒険者や旅人、吟遊詩人などである。彼らは地域という枠に縛られず、原野を越え山脈をまたぎ、川を渡り海に漕ぎ出し、国さえ凌駕して花の花粉のごとく自由に飛び回る。
 古の唄から流行歌まで幅広くカヴァーし、類い希なる歌唱力で観客を魅了し、小銭を得つつ世界をめぐる吟遊詩人は独特だが、比較的混同される冒険者と旅人について考察してみる。

 冒険者という名称からは、竜を退治して英雄になったり洞窟の奥から姫君を救出したりという派手な印象がつきまとうが、実際は意外と地味な存在である。彼らは冒険者ギルドに登録を済ませ、独特の呼称である〈冒険者職種〉(剣術士、戦士、聖術師、盗賊など)を名乗り、仕事を求めつつ各地を転々とする。
 未発達な警察組織や役所に代わり、こまごまとした用事をこなす〈何でも屋〉で、頼まれたからには出来る限り引き受けることが、冒険者憲章に謳われている。山賊や獣の危険がある隊商の護衛や、季節労働者的な仕事の斡旋を受けたり、お祭りの警備、物の運搬、果ては街道や広場の清掃まで、その内容は極めて幅広い。流れ者なのにも関わらず立場的には公務員に近く、外の新奇な情報をもたらしてくれるので、都会よりも中規模な町の方が好まれる。ただし、あまりに辺境へ行くと余所者は嫌悪される傾向があり、縄張りを張るのは意外と難しい。

 冒険者ギルドは低金利での融資をしてくれるが、基本的にギルド側から給料が支払われることはなく、生活の糧は依頼者からの報奨金である。簡単に仕事が見つかれば良いが、見つからなければジリ貧で、生活は楽ではない。一攫千金の確率は他の職業とたいして変わらず、やはり実力と努力と運による。
 貴族の爵位を継げない次男坊や、学院で剣技や魔法を学んだ若者が経験のため、あるいは自由な暮らしのために志願する例が多い。たいていの町にある冒険者ギルドの支部で仕事の斡旋を受け、情報を集め、仲間がいないものは仲間を集める。

 旅人の方も、やはり行った先で仕事を探すのは冒険者と似ているが、協同組合には所属しておらず非常に自由な存在である。他方、身分的には保証されていないので、実行する者は極少である。例えば文化がやや遅れているガルア公国で、魔法が使えると言うことと読み書き計算が堪能だというメリットは非常に大きく、ミラーシーラのように特殊な専門的の仕事にありつくことが出来て、かなり割のいい報酬が約束される。そのため彼らはのん気に旅を続けてゆくことが可能となるのである。

 なお、ルデリア世界はこのところ戦争は少なく、傭兵は職業としてほとんど成り立たなくなっている。傭兵予備軍は、正規兵に志願するか、身をやつして山賊になるか、ごく普通の農民や商人、職人になったりするが、ケレンスの父親のように剣術道場を営むことで剣の道と関わり続ける者も一部に存在している。
 
 


  9月 4日△ 


[雲のかなた、波のはるか(7)]

(前回)

 通りの人々は雨の前触れと思って、洗濯物を取り込んだり、子供の手を引いて足早に家路をたどっていた。露店も早々と店じまいに取りかかり、普通のお店もお客が少なくて暇を持て余しているのが、さっき駆け抜けてきたイラッサ町の現状だった。
 しかし、レフキルとサンゴーンの二人は直感で分かっていた。雨は降らない――少なくとも、どしゃ降りにはならないことを。

 尖塔の扉は外側にもあるが、通常は施錠されている。他方、神殿の内部から繋がっている扉からは自由に行き来できたように、サンゴーンは記憶していた。海の向こうから敵国が攻めてきた場合は物見の塔にもなるはずだが、この塔が出来て以来、そのような使われ方をしたのは幸いなことに一度もない。雲の様子を眺めたり、子供が登って町を見下ろしたり、せいぜい火事が起こった際に指示を出すのに利用したりする程度である。
 年を経てやや灰色にくすんだ石造りの神殿の、両開きの入口は大きく開かれ、風が〈ひゅう〉とうなり声を上げて通り抜けた。

 薄暗く神秘的な神殿は、この街の建物では随一の威容を誇り、奥に向かって長く続いている。両側の柱には、海神アゾマールの姿を模した尾の長い青緑の龍の象嵌が彫り込まれていた。人の気配はなく、しんと静まり返っているが、水の流れる音が微かに響いている。丘の方から引いた湧水を使って、アゾマールが好むとされる水を取り入れているのだ。それは石の管を伝って、やはり龍の首の形をした置物の口からこぼれ、再び神殿の内側の溝を流れて、最後には元の大地に還るのだった。

「こんにちはー」
 わ、わぁ、ぁ……。レフキルの語尾は厚い壁に反響した。
 少ししてから、かなり遠くの方で、男性のいらえがあった。
「いらっしゃい。雨宿りですか?」
 相手は穏やかな語り口で言ったが、その言葉も不思議な響きを帯びていた。本来は南国の神殿らしく、もっと明るいのだが、今日の曇り空では仕方ない。かなり距離を置いて話す神官の姿は黒い影法師となって、服装も年齢も良く分からなかった。
「ううん、雨宿りじゃないんだけど……」
 レフキルはどう説明していいものか、正直戸惑った。低い雲の上が気になって塔に登りたい――考えてみれば妙な理由だ。
「あの、神官様。サンゴーンたち、塔の上に行きたいんですの」
 飾り方を知らない草木の神者は、持ち前の率直さで訊ねる。すると神官は驚くこともなく、何もかも分かっているというような淡々と落ち着いた口調で、あっさりと願いを聞き届けてくれた。
「ええ、分かりました。風が強いので、お気をつけて下さい」
「ありがとうですわ」
 サンゴーンはほっと胸をなで下ろし、すぐに礼を言った。以前にも同じ状況を体験したのではないかと思えるほど、あまりに悠然とした神官の対応にレフキルは拍子抜けし、念を押した。
「いいんですか?」
「理由は何であれ、神殿は誰の訪れも拒みませんよ」
 神官の答えは明瞭だ。彼女はうなずいて、気持ちを伝える。
「ありがとう、神官様」

 左側の廊下に入るとさらに光は遠ざかった。二人並んで歩いていたが、やがて行き止まりになる。左右、そして正面に三枚の扉があるものの、暗い中で目を凝らしてみると、正面の扉に〈塔の入口〉という文字の彫られた木の板が掛けられていた。
 サンゴーンとレフキルは顔を見合わせ、眼差しで心をつなぐ。
 ドアを引くと、狭くて急な螺旋階段が現れた。レフキルは緊張の面もちでごくりとつばを飲み込み、新たな一足を踏み出した。


  9月 3日− 


[天音ヶ森の鳥籠(5)]

(前回)

「やめてくれよな、それよぉ……」
 ケレンスは半分振り返り、思い切り顔をしかめた。リンローナの鼻歌はお世辞にも音程が合っているとは言い難く、聴いている方の音感が狂ってきそうなほどだ。気持ち良さそうだった十五歳の聖術師は、痛烈に冷や水を浴びせられて現実に還る。
「だって、せっかくこんなに素敵な歌があふれてるから、あたしも仲間に入りたいと思ったんだけど。やっぱり駄目かなぁ?」
 音程を取るのが不得意なリンローナは諦めずに同意を求めたが、それは少年のため息と愚痴とに一刀両断されるのだった。
「はあぁ。せっかくの鳥の声が台無しだぜ。なあシェリア?」
「まーね……」
 リンローナの後ろからついてくる姉のシェリアは気のない返事をする。年下の二人の会話にはあまり関心がないようである。
 微妙な空気を感じたリンローナは、姉に話題を振ってみた。路は緩やかな下り坂に差しかかり、足元の木の根と段差にさえ注意すれば、背が低く体力の劣る彼女でも大して疲れない。

「そうだ、鼻歌のお手本を聴きたいな……お姉ちゃん、とっても上手なんだもん。天音ヶ森の鳥さんにも混じれるよ、きっと!」
「リンと違ってな」
 少し意地悪く言ったケレンスを無視して、妹は呼びかける。
「良ければ、一緒に唄おうよ! ちっちゃな頃みたいに……」
「嫌よ。いつまでも、何を子供みたいなこと言ってんの?」
 最後尾のシェリアは眉を寄せ、苛立たしげに早口で喋った。ケレンスとリンローナの楽しそうな会話に上手く参加できず、若干嫉妬していたのかも知れない。獣道は再び短い登りになる。
 リンローナは前を向いたまま、ちょっと寂しそうな声で謝った。
「そうだよね……ごめん」
「とりあえず、あんまり話ばっかりしないで、気を付けて歩いて頂戴。私の方に倒れかかってきても、思いっきり避けるわよ」
「おー、怖い姉貴さんだぜぇ」
 ケレンスが大げさに茶化すと、シェリアは薄紫の瞳を一瞬怒りに燃やしたが、やがて疲れたような顔で口をつぐんでしまう。リンローナの息が上がり、三人の会話は途絶えた。彼らの足音の合間に風が吹き――きれいで、しかも特徴的な声の鳥たちが紡ぎ続ける珠玉の唄は、盛り上がりと収束を交えつつも終わりはない。演奏する方も、それを聴く方も飽きることを知らぬ。

 やがて木々の間隔が開き、光があふれ、細長い自然の池が見えてきた。湖と呼ぶには小さかったが、例えば王家の庭にありそうなほどには広い。水面は鏡のように静かで、幻の絵のような樹の影、青空と適度な雲、傾いてきた太陽を映していた。
 誰からと言うこともなく、三人は時を同じくして足を休めた。
 シェリアの頭の中には、再び村長代理の言葉が反芻する。
「湿った水際に、夏祭りで献上する山菜があるンだとよ……」


  9月 2日− 


[お掃除]

 霧が溶け始めていた。
 野原を、長い緩やかな坂道を、その先の十字路を、橙の屋根を、角の魚屋を、レンガの路を、道端の花壇の赤い花びらを、雑貨屋の果物ナイフを、屋根からこぼれ落ちる雨の名残を、学舎の建物を、神殿の尖塔を、もちろん道行く人々も――白髪の老人も、気取った若い娘も、長靴を履いた子供も、赤ん坊を背負う母親も、中年の商人も、若い聖術師も――そして馬車の幌も、猫の目も、港への大通りも、波止場も、帆船も、使い古した帆も、碇も、海も、空も――うっすらと覆っていた乳白色の霧が、まさに温めた牛乳の濃い膜を剥ぐように、さらには牛乳に真水を足してゆくかのように、しなやかに、確実に溶け始めていた。
 近いところから、遠い場所へ。自分の視力が、自分の存在が、心とともに拡がってゆく感じがする。しっとりと湿り気を帯びた風は驚くほど涼しく、二人の幼い少女の金と銀の髪を優しく撫でると、各々の信じた目的地を目指し、羽ばたいていった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「あたし、雷って怖いけど……たぶん嫌いじゃないよ」
 鮮烈な眩しい閃光の合間に、襲い来る自然の圧倒的な奔流に身体を固くしながらも、八歳のジーナは両眼を爛々と輝かせていた。次の瞬間、彼方の天で生まれた雷鳴の轟きが、少女たちのすぐそばを龍の速度と地を這うような咆吼で疾駆する。
「きゃあっ。ジーナちゃん、助けて!」
 ジーナの同級生、九歳のリュアは、汗と雨で濡れた服を気にする余裕もないまま、きつくまぶたを閉じてジーナの肩にしがみついた。いつ頭上の樹に狙いを定めるか分からない雷の恐ろしさに取り憑かれ、涙さえ出るのも忘れて小刻みに震えている。
 他方、ジーナは恍惚とした表情で、空のキャンバスを仰ぐ。
「リュア、大丈夫。ほら、あの線、光の文字……ひゃっ!」
 これまでよりも一層、近づいている。巨きな低い音が天と地を揺らし、さすがのジーナも驚いて叫んだ。リュアは銀色の髪の乱れをそのままに、耳をふさいで子猫のように丸まっている。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 がむしゃらに叩きつける激しい雨の線は、広葉樹の大らかで繊細に編まれた傘の下、たくさんの不規則な水滴の音符に分解される。その淑やかな音楽は、雨がやんでも細く長く続いていた。どっしりと構える幹に背中を預ければ、気持ちが和む。
 西から近づいてきた雲が腕を伸ばし、デリシの町外れの峠に突っかかって雨と雷を降らせ、大股で東の方に抜けていった。
 暗かった空が薄くなり、地上には霧の粉が湧き出していた。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 そしていつしか、霧はほとんど晴れていた。
 大海峡に面して横長に伸びるデリシの町が遠く見渡せる。遥か向こうにはルデリア大陸がぼんやりと浮かび上がる。雑草が生えている野原では虫たちが初秋の調べを奏で始めている。
「帰ろっか、リュア」
 ジーナは言いながら立ち上がり、ズボンのお尻を無造作にはたいて、速やかに手を差し伸べた。青い瞳は神秘的に瞬き、若い金の前髪を夕風になびかせ、少しだけはにかんだ笑顔で。
「うん」
 右手を友と重ねて、握りしめ、リュアは遅れて立ち上がった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 濡れた草を踏みしめ、水たまりを跳躍し、二人は手を繋いで丘を下ってゆく。目の前に拡がる空と海は、そう遠くない森の衣替えを予感させ、紅と橙と黄色に染まっていた。目を通して、心の奥底まで染み込んでくるように感じられる澄みきった色だ。
 ジーナは高く腕を振り上げて歩き、誇らしげに言うのだった。
「さっきの雲の親分が、他の雲を追い払ってくれたみたい!」
「雷さんと霧さんが、空のお掃除をしてくれたんだね……」
 リュアがぽつりと呟いた。後ろ姿は小さくなってゆく。二人の影は去年の今ごろよりも、昨日の今ごろよりも若干伸びていた。日が短くなるとともに、影は背伸びをし続ける季節である。
 町の入口の十字路まで来ると微かな潮の香りがした――。
 


  9月 1日− 


[初秋]

 風はなおも涼しく透き通り

 青空は遥か遠く冴え渡る

 過ぎた季節の忘れ形見を捜しても

 色褪せた波がただ音もなく響くのみ

 九つめの月はひそやかに染み入る

 幻の泡を咲かせ、清らな花を育んで
 






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