2003年10月

 
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2003年10月の幻想断片です。

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 10月31日○ 


[虹あそび(22)]

(前回) (初回)

「ス……っ、はぁ〜っ」
 ナンナは集中力を高めるため、一度大きく深呼吸をしました。
「さあ、行くよ」
「うん」
 村長さんの娘のレイベルは右腕を高く掲げて前に進みたいと強く願い、左の手のひらを友の肩に載せて気持ちを注ぎます。
「みんなもお願いね☆ もうちょっとだから!」
 小さな魔女はいつしか真剣そのものの表情で、姿は見えないけれども仲良しの風の精霊たちに呼びかけました。準備は終わり、いよいよ出発の時です――虹の橋が黒い〈闇だんご〉に丸く閉じこめられた、宝石よりも魅惑的な七色の星を目指します。

 雪深いナルダ村で冬場に用いられるそりのごとく、ほうきは空をゆっくりと滑り出しました。細く染み込んできた冷たい空気の流れを受けて、ナンナの黄金の髪もレイベルの黒髪も微妙に揺れ動きます。二人を優しくつつみ、天の寒さから守ってくれていた〈夜ふけの膜〉は、淡い春の夕暮れに溶け始めていました。
 ほうきは速度を上げ、雨の名残が紡いだ虹の珠へまっしぐらに舵を取ります。さっき二人を弾き返した球体は〈天の泉〉と呼べるほど膨らみ、鮮やかな七色の河が入れ替わり立ち替わりシャボン玉のように行き交っていて、つい見とれてしまいます。
 二人は黙ったまま喋りませんでした。けれどもレイベルが伸ばした左手を通して、お互いの思いや信頼は伝わるのです。
(最後までやろうよ、レイっち。何が起こるか分からないから。ナンナね、ちっちゃい時から何をやっても中途半端で、お母さんやお兄ちゃんたちによく叱られたけど、今なら出来る気がする!)
(うん。ちょっと怖いけど……でも、わたし、とっても楽しみだわ)

 ほうきは空を駆けます。急いでいるはずなのに、一回目とは違って虹の珠はなかなか近づかないように思えました。二人の前向きな気持ちが、距離や時間の感覚までも変えたのです。
 実際にはほんのわずかな間の出来事でした。再び風の勢いが強まり、ナンナが寒さよけのために魔法をかけた〈闇だんご〉の壁は震えて、すぐにでもはがされ、壊れてしまいそうです。
 あふれ出す嬉しさと、心の奥を締め付ける緊張感が混ざり合った横顔のナンナは、決して虹から目をそらしませんでした。他方、村長さんの娘のレイベルはしだいに瞳の中をおおう鮮やかさを恐れましたが、懸命に右腕を突き出し、素早いまばたきを繰り返して勇気を振り絞ります。二人の耳はもはや何も聞こえず、視点は一ヶ所に定まりました。虹の珠で錯綜する七色のうち、今度は〈天空の力〉を示す水色の部分が小さな魔女の狙い目のようで、ついに手が届きそうなくらいまで近づいてきます。

 突如、鉛のように重い衝撃が腕から体へと駆け抜けました。
「うっ!」
 声にならない声でうめいたのはナンナでした。二人が地上から投げた三十個ほどの〈闇だんご〉が、虹の橋をつつんで伸びた分厚いカーテンを、たった一つの団子から作り上げた〈夜の膜〉が破ろうとしています。その抵抗たるや大変なものでした。


 10月30日− 


[雲のかなた、波のはるか(14)]

(前回) (初回)

 辺りには圧倒的な〈見えない力〉の濃いエキスが蜘蛛の巣のように張り巡らされ、雰囲気は明らかに一変していた。レフキルの二の腕と背中には鳥肌が立ち、呼吸は浅くなって苦しい。威圧感や敵対する印象は受けないけれども尋常ではなかった。
 町を覆った低すぎる雲の大陸と、勢い良く天のを翔る〈塩味の河〉も確かに不思議ではあったが、今となってはそれすら日常から非日常へ誘う扉に思えた。翻って現在の二人をつつんでいる無音の空間は、世界を凌駕して永遠に広がってゆくようだった。視界はむしろ狭まって、遠くの方はぼんやりと霞んでいる。
 レフキルは緊張し、ごくりと唾を飲み込む。そのささやかな音は、狭い部屋の中にいる時のごとく聴覚へ直接に響いてくる。
 さっきの声は誰だったんだろう――レフキルは考えたものの、思い当たる節があるはずもなく、最後には想像力の助けを借りる。いつか露店の絵で見た長いローブの北国の魔女が立体的に浮かび上がってくるが、その姿は大空の蒼に解けて消える。
 心で投げかけた質問に対し、相手は素性を明かしてくれなかった。はぐらかされたが、今の段階では愚問だとも思えてくる。
 他方、サンゴーンはもう一度、率直に訊ねてみるのだった。
(あなたは……)

 しばらくの間があった。双つの耳が一斉に眠ったかのように音は聞こえないが、塔の見晴台に風は相変わらず吹き込んでいるようで、サンゴーンの着ているチェックのスカートの裾がはためき、襟元もそよいでいた。時たま前髪が目に入ったりもする。
 相手からの返事がないものと、諦めかけたのも束の間――。
『そんなのは後から説明する。まずは時間がない、急ぐんじゃ』
 何の前触れもなく、通り雨のごとく突然に、しわがれた老婆の声が殷々と頭の上から降り注いでくる。その急激な変化に、思わずサンゴーンは普通の耳を、レフキルはやや長めの耳を押さえるが、声は内側から生まれているようで小さくならなかった。
(どうすればいいの?)
 物わかりのいいレフキルは老婆の苛立ちを巧みに感じ取って先を促す。横にいたサンゴーンはふと、友の顔を見る――口に出さない言葉は天の糸を介して、きちんと伝わってゆくようだ。

『早く、船に乗るんじゃ』
 謎の老婆は一方的に言った。質問を予期し、説明を加える。
『そこにあるじゃろ。黒い、空の船じゃ……』
 寄せては返す波のように、老婆の語りの残響が遠のいていった。代わりに戻ってきたのは〈空の河〉の轟音だったが、二人は気づかず、夢から醒めた幼子に似て茫然と立ちつくしていた。

「ん?」
 やがてレフキルは、背中の方角で何かが動く物音を捉える。
 振り返った彼女の視線の焦点は――いつの間にか身体の呪縛は解けていた――塔の床のある一点に吸い込まれてゆく。
 南国の麗しい海よりも透き通った翠の瞳が、見る見るうちに期待と歓びに充ち溢れてゆく。レフキルは叫び、そして指さした。
「あれ見て!」


 10月29日△ 


[秋の味覚(5)]

(前回)

「あれ、ですか?」
 知っていて、わざとはぐらかすような悠然とした口調で、初老の婦人は反対に訊ねる。店主の夫はやや語勢を強め、顔をしかめて、分かりきったことを説明するかのように言うのだった。
「あれに決まってるだろう。例の〈秋の味覚〉だ」
「そんなに大声で言わなくとも、聞こえていますよ」
 妻は軽い微笑みを浮かべ、静かに椅子から身を起こすと、再びゆったりした足取りで調理場に向かう。他方、店の主人は自らの耳を指し示し、苦々しい表情を取り繕って愚痴るのだった。
「いい年だからさ、耳が遠くなってるんだね」

 彼の説明は、結局のところ全く実証されなかった――間髪入れずに、厨房から嬉しそうな老婦人の声が届けられたからだ。
「何か言いましたかー?」
「何でもない、何でもない!」
 どうやら奥さんの方が一枚上手だったらしい。ひげの店主は滑稽に首をすくめ、顔をしかめた。暗黙の了解の上での、軽口の応酬――もとより意志疎通は図られていたようで、二人の態度や語調に刺々しさはない。それは彼らの円満さの裏返しで、微笑ましかった。雰囲気に釣られ、僕もつい吹き出してしまう。
「ふふふっ」
「まあこんな具合ですよ、この店は、昔から」
 恥ずかしそうにうっすらと頬を朱らめ、ズボンの後ろポケットから煙草とライターを引っ張り出し、箱から一本引き抜いて口にくわえた紳士は子供のように悪戯っぽく、可愛らしくさえ見えた。
 彼は手慣れた指先の動きで瞬く間に火を点け、カウンターの隅にあった店の名入りの灰皿を引き寄せながら僕にこう問う。
「あ、煙草吸っても大丈夫?」
「お構いなく」
 僕自身は吸わないし、煙草の煙はあまり好きではないが、今は彼の機嫌を損ねたくなかったので愛想良く笑顔で同意した。

「フゥーッ……」
 店主の鼻と口から吐き出された幾筋もの白煙が、独特のきつい匂いとともに少しずつ薄まりながら天井や店の遠くの方まで拡がり、浸透してゆく。掛け時計を見ると二時半を過ぎていた。
「よいしょと」
 と、その時――老婆の声が聞こえてきた。店主は火をつけたばかりの煙草を灰皿の中でもみ消し、慌ただしくも颯爽と立ち上がる。そのまま迷わずカウンターの右奥の通路へと入った。

「もう、すぐそこじゃありませんか」
「いいから」
 軽い押し問答の末、色あせた小さな段ボール箱を抱えて最初に入ってきたのは、ひげの老紳士だ。彼の後ろから、箱のほこりを拭いて黒ずんだ雑巾を片手に持ち、婦人が続くのだった。


 10月28日− 


[天音ヶ森の鳥籠(11)]

(前回)

「う……ん」
 遠くの方から細い糸をたぐるようにして、意識が戻ってくる。
 シェリアは瞳を開き、ゆっくりと顔を上げかけた――が、予想以上に頭が重く、最後まで持ち上げることが出来なかった。体と心が乖離してしまったかのように神経や筋肉が言うことを聞かぬ。抵抗をやめて再び首を落とし、しばらく様子をうかがう。
 整えられた薄紫色に澄む後ろ髪がこぼれるが、その色は失われていた。気がついた時、彼女は赤いズボンの尻の部分が若干の湿り気を帯びていることを微かに感じつつ、土の匂いの漂うひんやりとした地面に座り込んで、軽く膝をかかえていた。
 身体が慣れてくるのを賢明にじっと待ったまま、若き魔術師は先に少しずつ回復してきた感覚を張り巡らし、ここがどこなのかを知るべく情報を集めるのだった。冒険者として旅から旅へ経験を積んできた成果が、ほとんど無意識のうちに現れていた。

 頭の重さはしだいに和らいでくる。再び、勇気と集中力を振り絞って目を開いた魔術師の、やや性格のきつさを浮き立たせた端麗な顔は、しかしながら一瞬にして失望に彩られた。強ばった唇はきつく結ばれる――視界の焦点が合うどころか、目に入るものといえば強制的に与えられた漆黒ばかりだったゆえに。
(どこ?)
 まだ出せない声に代わり、心で訊いても、返事はなかった。

 辺りはとても薄暗くて、何があるのかさえ良く分からない。幾筋もの細い隙間から森の木洩れ日のように光が忍び入るが、中を照らすほどではなかった。空が厚い雲に覆われた嵐の夕刻、家でじっとしているのに似ている。息を潜めるかのごとく奇妙な静寂は続いており、聴覚は大した音を捉えることができないが、まれに風のざわめきが聞こえる。それは純粋に屋外の鳴り方とは異なるが、かといって密閉された住居とも異なる。耳を澄ますと、しだいに不安げに速まる自分の胸の鼓動の合間に、獣の遠吠えが響いた。まだ森にいることは間違いないようだ。
 深い泉のように神秘的で、宝石のように少し冷たいシェリアの双眸は、時間をかけて暗さに順応してゆく。それでも目に見える範囲の景色全体に闇が降り積もっていることは変わりない。細い光の筋や風の鳴り方、その他もろもろの条件から事態を総合すると、狭い場所に閉じこめられた可能性が濃厚であった。

(私、どうしてこんなとこに居るのかしら……あっ)
 シェリアの頭の奥底で、しばらく失われていた記憶が甦る。
「蔓草が、蜘蛛の足みたいに吹き出してきて、間に合わない」
 喉の調子を確かめることも意図しつつ、シェリアは口に出して考えを呟く。その声はやや嗄れ気味で、いつもより低かった。
 徐々に当時の様子を思い出してくる。今になって冷静に考えれば、あの黄金の山菜はシェリアを捕まえるための餌だったとしか思えない。もしかしたら池のほとりを漂っていた紫の霧は、ルデリア世界の源とされる〈七力〉の一つ、夢幻の元素によって作られた幻術の魔法だったのではなかろうか。シェリアはこれまで直接見たことはなかったが、高度な幻術には相手の精神を混濁させたり錯乱させる魔法も存在すると伝えられるからだ。恐怖や怒りよりも、魔術師として故郷の学院で修行を積んだのにも関わらず、まんまと不意を衝かれた悔しさが込み上げる。

 と、その時であった――。
 辺りの空気が変わりつつあるのをシェリアは的確に感じた。
「ふふっ……」
「誰!」
 子供のような甲高い声を聞いた刹那、魔術師は叫んでいた。


 10月27日− 


[虹あそび(21)]

(前回)

 のども乾燥して、つばを飲み込んだら張り付くような感じがしました。ナンナは手の甲で口をふき、ほうきの後ろの席に座っている友達の方に向き直って、とぎれとぎれに言うのでした。
「本当の夜にならないうちに……帰ることも考えれば、ナンナの体力は限界だし……これがほんとに、最後のチャンスだよ〜」
 いつも元気いっぱいのナンナにしては、珍しく疲れた声です。得意な〈天空魔術〉だとは言っても、実際、十二歳の駆け出し魔女のナンナには空を飛ぶだけでも大変な負担なのでした。
「レイっち……やる?」
 学舎の勉強よりも遊びにこそ真剣に燃える魔女の孫娘は、親友に訊ねました。都会から引っ越してきたばかりの、かつての自分勝手なナンナであれば一人で暴走してしまったところかも知れませんが、今はまず友達の気持ちを大切にしています。
 二人を囲んでいる〈闇だんご〉の膜は、さっきよりも夜の色が少し薄くなってきたように思えました。長い暗闇の峠を越え、辺りは黎明の時刻がやって来たかのようにぼんやりと明るくなり、舞踏会の人々が着飾っている装飾品の宝石のごとく数え切れないほど出ていた無数の星も、いつの間にか減っていました。

「やるっ。やろうよ」
 レイベルは決意に満ちて、鋭く応えました。何が起こるか分からないという怖さは残りますが、もはや声にも表情にも迷いはなく、不安をかき消すほどの好奇心と勇気が膨らんでいました。
「やってみなくちゃ、わからないものね!」
「うん、そうだ☆」
 ナンナはそう言って前を向きました。横顔にはまだ疲れの色が見えましたが、レイベルの返事を聞いた瞬間、うれしくて弾け飛びそうなくらいでした。心の動きにとても敏感な魔法の力は、ぐんぐん上昇していきます――あの空をただよう雲よりも高く。

「じゃあ、左手をナンナの肩にのっけて、右手を伸ばして〜!」
「こうかしら?」
 レイベルは素早い動作で、言われた通りにしました。鳥も追いつけないほど、猛烈に吹きすさぶ風が〈闇だんご〉にぶつかり、うなっている天の真ん中で、金の髪の小さな魔女には、友達の手の平の温もりが何よりも確かなものに感じられるのでした。
「うん、へーき。で、ナンナに力を注ぎ込むって、強く念じるの」
「そうすれば、魔法を使えない私でも、手助けになるのよね。魔力は融通できる……ナンナちゃんのおばあちゃんに聞いたわ」
 友達の話を最後まで聞き、ナンナは興奮気味に叫びました。
「さぁーっすがレイっち、話が早い」
 そして左手でほうきの柄を支えながら、右手の人差し指を斜め上の方に思いきり伸ばし、堂々と出発宣言をするのでした。
「さ、今日の一番の魔法、ふたりで行くよ〜!」
 指で示した場所には、彩りが飛び交う神秘の珠、鏡に閉じ込めた大きな光のかけら、七つの河をかき混ぜた虹が見えます。友の肩をつかむ手に、レイベルはちょっと力を込めるのでした。
「うんっ」


 10月26日− 


[花のかんざし(前編)]

「あっ」
 琥珀色のロングスカートに、灰白色のセーターを合わせていたリンローナはふと歩みを止める。ここはメラロール市の郊外、中流階級の人々が主に住んでいる文教地区の一角にある、煉瓦で舗装された街路である。三階建ての同じ高さの家々が整然と建ち並び、それぞれから煙突が突き出ている。窓やドアは装飾がなされ、長年積み重ねられた文化の彩りを深く感じる。
「きれいなお花……」
 十五歳の冒険者の聖術師、草色の髪を肩の辺りで切り揃えたリンローナが立ち止まったのは、可憐な生花店の前だった。

「いらっしゃい、お嬢ちゃん」
 赤や黄色、橙や紫をした数々の花や、緑のくきの間から顔を出したのは、髪を真っ白にした七十過ぎの老婆である。彼女は眼鏡をかけ、口調はゆったりとしていたし腰も少しだけ曲がっていたが、表情は穏やかに澄んで、店主としては現役のようだ。
 青空からこぼれ落ちてきた風が通りを流れ、広葉樹の並木の葉を見えない絵の具で塗り替えてゆく、爽やかな季節である。
「こんにちは。このお花、なんて言うんですか?」
 リンローナは顔を上げ、大きく特徴的な瞳を嬉しそうに見開いて、屈託のない少女の素直な微笑みを老婆に贈るのだった。
「これかい。これはねえ……」
 老婦人は一言一言を大切にしながら、快く説明してくれた。
「この辺りでは、アミレシア、って言うんですよ」


 10月25日− 


 懐かしい場所に楽の調べ

  違和感を覚えぬ自分に 違和感は無し

   うつろう他人と時代の中で

    大切にできる刻があり

     帰ってゆける故郷がある

      信じられる誰かがいて

       残していける何かがある

        もう 明日が来るのを 恐れることはないよ

         わたし は わたし

          きっと

           ずっと、ね
 


 10月24日○ 


[秋の味覚(4)]

(前回)

「Kからです」
 僕が返事すると、店主は一瞬、複雑な表情をした。格別の思い出はなく、親戚や知人が住んでいるのでもない――それ以上話題を続けることが出来なかったのだろう。よくあることだ。
「へぇ。観光?」
 サンドイッチを頬張っている僕を見下ろし、親しみを込めて店主は言う。僕は顎を動かしながら、どう応えるか思案していた。
 口髭を生やし、それなりに良い品であろう薄茶色のチェックのセーターを着ている初老の紳士は、プレッシャーをかけるわけでもなく静かに待っている。僕は紅茶のカップを傾け、充分に喉を潤してから、この町に来た理由を自然体で説明するのだった。
「天気が良くて、ちょっと遠出をしたくなったもので、ぶらりと出ましてね。雰囲気が気に入ったんで、そこの駅で降りたんです」
「ほう……ところでお宅、おかわりは?」
 いつの間にか、カップの紅茶はほとんどなくなっていた。僕が頼むと、喫茶店の主人は年季の入った職人風の手さばきで脇のティーポットを持ち上げ、温かな音を立てつつ酌んでくれた。一見すると気難しそうだったが、話好きの気さくな人物だった。
「まあ観光するにしても、大したものはないですよ、この町は」
「うん、そうかも知れませんが……ただ、大したものと出会えるかどうかは、受け取る側の気持ち次第かな、と思いますけど」
 その回答を彼はいたく気に入った様子で、しばらくの間、僕は聞き手となる。主人は淡々とした口調で名所を教えてくれた。
「そこに温泉センターがあってね、三百円で入れるんだよ」

 主人と話し込んでいるうち、彼の妻である初老の婦人が、先ほどと同じカウンターの右奥の通路から現れ、椅子にかけた。
 その間、紳士は僕が出かけた理由を簡潔にまとめてくれる。
「ちょっと遠出して新鮮な秋に出会えればいい。そんな感じ?」
「まぁ、そうですね」
 僕が軽くうなずくと、男はすぐに妻の方へ向き直るのだった。
「おい、あれ、作れるか?」


 10月23日− 


[雲のかなた、波のはるか(13)]

(前回)

「海……ですの?」
 自分の耳を疑い、瞳を瞬きながら驚いて訊き返したサンゴーンに対し、レフキルは穏やかな口調で確かな証拠を提示する。
「だってさっきの、海にしか住まない魚だよ」
「そうなんですの?」
 祖母から引き継いだ若き〈草木の神者〉は、さきほど空の河から魚が飛び跳ねたことを思い出した。一瞬だったので種類までは分からなかったが、親友は冷静に分析していたのだった。
「レフキル、すごいですわ〜」
「そんなことないけどさ、とにかく、ますます分かんないよね」
 つぶやいたレフキルは腕組みして考え込み、すぐ下を流れる激しい大河を眺めていた。国の守護神として深い信仰を集める水龍――海神アゾマールのように空の果てから現れ、塔を取り巻いて彼方へと流れ去る白波の嵐の勢いは衰えを知らない。
 その塔を廻る螺旋部分は、普通の河で言うならば緩やかに蛇行して土砂が堆積するような場所を想像させる。尖塔の前後に続く瀬の速さと比べれば、いくぶん緩やかに思えるのだった。
「天を駈ける河が、海だったなんて……本当に不思議ですわ」
 サンゴーンの方はより素直に畏敬の念を抱いている。ほっそりした両手をチェックのワンピースの胸の前で組み合わせ、南国の遠浅の蒼い波間に眠る真珠のようなを輝かせている。

 ――その時であった。
 全く油断し、魂を解放していた二人に〈変化〉が襲いかかる。
(何、これ……)
 レフキルの鋭い直感も間に合わず、景色が微妙にゆがんだ。

 次に視界が微妙に狭まるような印象を受け、そのわずかの後には、突如として少女らの聴覚の最奥で高い音が耳鳴りした。それはしだいに残響を置き土産に失われてゆく。塔の壁に沿って駆け抜ける水音はなりを潜めており、絶対の静寂が訪れる。
 それは有無を言わせずに押しつけるような類のものではなかったが、意図が分からないうちは不自然とも思える。身体は頭の頂から足の指の先端までもこわばり、歩くことはおろか動くことすらままならず、一気に弛緩してへたり込むことも出来ない。
(どなたですの)
 優しげに膨らんだ唇を閉じて、サンゴーンは微動だにせず立ち尽くし、心の中で見えない相手に向かって訊ねる。襟元に結んだペンダント、彼女が〈草木の神者〉の後継者であることを証す世にも美しい小振りの宝玉は、辺りに散らばる巨きな魔法の力を感知し、集めて、夜空の星のごとく淡い翠色にきらめいた。それは体温ほどの熱を持ち、人の鼓動のように明度を変ずる。
(あの空の河はやっぱり海? あなたは知ってるんだよね?)
 他方、レフキルも無音の世界で身動きできないまま、彼女の長年の親友よりも一段と具体的な質問を投げかけるのだった。

 すると一時的にせよ、あらゆる響きという響きが閉めきった真冬の部屋のように弔われた中で、誰かの声が明瞭に応えた。
『その通りじゃ。妖精族の血を引く娘よ』


 10月22日− 


[秋の味覚(3)]

(前回)

 雰囲気作りのボサノヴァは主張しすぎず、かといって静かすぎることもなく、適度に響いている。カウンターの木の椅子は脚が高かったが、四角い座板は広く作ってあり、長い時間いても疲れないように思えた。背もたれは少しひんやりして心が安らぐ。
 手持ちぶさたになった僕は首を動かし、店内を見回してみる。まず天井に目を移すと、幾つか並んだ黄色の白熱灯が暖かな色を一つの空間にちりばめている。そのまま視線を下ろしてゆくとガラス張りの窓際のテーブル席が見える。ビニールの素材を用いたソファー式の腰掛けは並べず、あくまで木の椅子とテーブルを使っているのは、店のこだわりなのだろうと察せられた。
 入ってくる時は気にしなかったが、窓の隅に置いてある小さな可愛らしい、紐付きの白い鉢植えが目についた。木目の美しいタイル張りの床は良く磨かれ、鈍い光を返している。店名となっている〈カフェ 四季彩〉という和風なイメージとは異なり、どちらかといえば西欧風のアンティークな調度品が持ち味のようだ。
 部屋の隅の棚の上には、おそらく素人が作ったのだと思われる焼き物の壷が置いてあり、壁には手編みのテーブルクロスが貼ってある。細長い色紙に何か書いてあるが、判読できない。

 やがて上質の紅茶が持つ独特の深い香りがどこからともなく漂ってきた。足音が聞こえ、僕が座っているカウンター席の右奥、厨房に繋がる通路から人の近づいてくる気配がある。ほどなく現れたのは、さっきの男の妻だろう――六十歳ほどの丸顔の小柄な女性で、落ち着いた穏やかな表情を浮かべていた。
「いらっしゃいませ。お紅茶のミルクで?」
「ええ」
 白い髪の混じっている初老の婦人は丁寧に盆からカップを下ろし、取っ手が僕の右側になるように回転させた。カタリ、と木のカウンターが重みのある音を立てる。薫り豊かな煎れたての紅茶は盛んに湯気を立て、近くに寄ると鼻に水滴がつきそうなくらいだった。彼女はおかわり用の洒落たティーポットを脇に置き、先が緩やかに曲がったミルク入りの器を次にバランス良く配した。最後は銀に輝く一点の汚れもない清潔なスプーンで、それを下ろすと、用意されたお盆は実に風だけを乗せていた。
「ごゆっくり、どうぞ」
 雰囲気を無粋に破らないほどの静かな、だが確かな声で言った店主の妻は、来た時と同じくカウンターの裏側の右隅へ立ち去った。先ほど店主が姿を消したキャッシャーの背後の通路とは異なる。向こうには薄水色のカーテンが掛かっており、物を運ぶのには邪魔なので、専ら受付や会計の際に使うのだろう。
 それからしばらく、僕はいつもの五倍ほどの時間をかけ、ゆったりとした心持ちで熱い紅茶を啜っていた。見知らぬ街で乾いた唇を潤し、空腹の胃に沁みる少し高級な紅茶は、僕が現在進行形で続けている〈遠出〉の趣旨にぴたりと合致していた。

 注文したツナのサンドイッチを、予想通りカーテンがない方の通路から運んできた髭の店主は、カウンター越しに僕の向かいに立つ。そうして遅い昼食にありついた僕に訊ねるのだった。
「お客さん、どちらから?」


 10月21日− 


[天音ヶ森の鳥籠(10)]

(前回)

「な……何よこれ」
 不審そうな口調とは裏腹に、シェリアの瞳は正直で、足下の地面に釘付けとなっていた。視線が吸い込まれたかのようだ。
 思わず目をこすっても、その輝かしい姿が消えることはない。
 そこには確かに、黄金色の山菜が生えていたのだった。まるで純金で作られた繊細な彫刻を思わせる天然の草は、太陽の光を濾過して集めたような、まばゆい衣をまとっている。木々の幹の間を縫い、浮かび漂う薄紫の霧の中で、むしろその存在は夢幻的な協奏として調和していた。本来ならば、静かな森の奥の池のほとりとは不釣り合いなはずだが――割と現実主義者であるシェリアは不思議なことに何の違和感も抱かなかった。

 魔術師はごくりとつばを飲み込み、軽く首を振る。疑問を感じたからというよりも、むしろ真実の現象と認めたとたんに蒸発してしまうことを恐れるような、そういう類の〈自己抑制〉だった。
「きっと色が面白いだけだわ……でも、これが例の山菜? 夏祭りの神事とやらに使うのかしら? ねぇ、あんたどう思う?」
 視線を動かす――が、四つ年下の背の低い妹の姿はない。

「……って、リンローナはいないのよね」
 小さな溜め息をつき、姉のシェリアは左腕を腰に当てて胸を張った。何となく、あの山菜を見ているうちにぼんやり霞んできた頭の奥底が急速に冴えてくるような感覚がある。それはちょうど、暑い夏のさなか、夕刻に爽やかな風が流れ始めたごとく。
(早く合流しなくちゃ駄目だわ)
 はぐれた子供に特有の心細さと、上手く説明できないが直感的で根元的な不安がつのり、考えを改めて歩き出そうとした。

 まさにその矢先、図ったかのような変化が起きたのである。
「うそっ?」
 さっきまでは見えなかった別の黄金色の山菜の群れが、脇道の方に続いている。仲間内では会計係を務めるタックから、金遣いの荒いことで警戒されている女魔術師は身を乗り出したかと思うと、次の瞬間には何の疑いもなく脇道に向かっていた。
「これ、神事に関係なくても高く売れるんじゃないかしら?」
 思わず本心を呟くと、今まで見たこともない黄金の山菜は呼応して、輝きを強めたように思えた。その妖しげな眩しい光の領域が瞳の中に拡がり、支配するうち、シェリアの体は重くなる。
 腕の力が抜けて、山菜摘みに持ってきた籠を落としてしまう。それは脇道の緩い下り坂を転がり、池の端で止まるのだった。

 歌の上手な女魔術師の、赤いズボンを履いた膝が右、左と順繰りに折れ曲がり、ゆっくりと上体は前に倒れていった。次の刹那、ほっそりした――ただし必要な肉は付いている健康的な脚のすねを地面に打ちつけて正座の体勢になったものの、もはやシェリアの瞳は雨が降る間際の鉛色の空よりも虚ろであった。
「うわぁー、これえ、たしかに、たべう、おあ、おっ、あ、い……」
 太陽のきらめきを持つ大量の山の幸を前にして、彼女は夢見心地につぶやく。本当は〈食べるのがもったいないわね〉と言いたかったのだが、しだいに顎までが重くなり、全部喋り終わらないうちに面倒になってしまった。ここに至り、さすがに魔術師として学院での厳しい精神修養に耐えたシェリアは罠にかかってしまったことを遠く自覚し始めていたが、散らばった意識をかき集めても、元通りに立て直すことは困難な段階に突入していた。

 そして山菜でもない単なる雑草は、いつしかシェリアの瞳には積まれた黄金に映っていた――彼女が完全に敗れた瞬間だ。
 シェリアが座ったまま不動の等身大の人形となり果てると、ついに物理的な変化が起こり始める。足元の蔓草(つるくさ)が一斉に腕を伸ばし、彼女をつつみ込む緑の繭を形作ろうとする。
「はっ」
 不意に呪縛の解けたシェリアは、とっさに危険を感じて逃げようと立ち上がりかけたが、草の伸びる方がわずかに速かった。
「ああ!」


 10月20日△ 


[虹あそび(20)]

(前回)

「いけぇ〜っ!」
 ナンナは口を大きく開いて、あらん限りの声を張り上げ、ほうきの速度と自分の思いにさらなる勢いをつけました。虹の球が割れたらどうなるのか、さすがの魔女もちょっとは怖かったのですが、今となっては好奇心の方が圧倒的に勝っています。何が起こるんだろう、と期待がつのる頭の中は、まさに目の前の七色の珠と同じくらい――いやそれ以上に膨らんでいたのです。
「きゃあ、ナンナちゃん、無茶よ!」
 丸い虹が近づくにつれ、不安定な揺れがひどくなってきた〈闇だんご〉の内側で、レイベルは悲痛な叫びをあげます。鋭い風が、二人を守る夜の膜にぶつかっては弾け飛んでゆきました。
 ナンナの、ナンナらしい返事は切れ切れに聞こえてきます。
「何が起こるか、分からない……きっと、一番おもしろいよ☆」
 いい加減な言葉とは裏腹に、十二歳の小さな魔女の横顔はりりしくなっていました。うれしさと勇気とに彩られた表情です。

 視界に映るのは、家よりも大きな〈虹の橋のかたまり〉だけです。赤や橙、青や紫など、鮮やかな色が複雑に入り混じっている様子も一目瞭然です。それらの流れは河のように雄大で、しかも煙のように身軽でした。やや黒っぽいのは、ナンナが言った通り、薄くのびた〈闇だんご〉におおわれているからでしょう。
「やめてー!」
 村長さんの一人娘、優等生のレイベルは悲鳴をあげ、涙で濡れた瞳を閉じ、ほうきの柄を両手で握りしめて身を伏せました。
「さあ、突っ込むよ☆」
 ナンナは上体を低くし、やけになって右の腕を高く掲げます。
 紅の炎の谷や、冷たく光る蒼い氷の筋をさけて、さっきまで遊んでいた春の野原のような明るい碧の一帯に舵を取りました。

 水色の風も混じる虹の珠の一点が、眼の中で拡がり――。
 離れていた距離が、限界まで狭まって。
 その刹那、激しかった風もやみ。
 ナンナもついに目を閉じます。

 ギギギギ……。
 壁がきしむような、いやな音が響きました。
 ナンナは腕の先に重い手応えを感じました。
 おそるおそる、小さな魔女がまぶたを開くと、二人をつつんでいる〈闇だんご〉は風船を押しつけたようにゆがんでいました。

 次の瞬間、息つく暇もない出来事です。
「ひゃあ〜!」「助けて!」
 ナンナは驚いて叫び、レイベルは完全に涙声でした。
 天と地がひっくり返りました。そのまま回転しながら、二人の乗った〈闇だんご〉のシャボン玉は後ろの方へ弾き飛ばされました。虹にぶつかる時の勢いが足りなかったのでしょうか? 魔法で体重が軽くなっていることも影響したのかも知れません。
「魔女に、おまかせだよっ!」
 正念場のナンナは金の髪を振り乱し、歯を食いしばって、得意の台詞を言いました。それから集中して、風をつかみます。
 ゆっくりとですが確実に、ほうきは水平を取り戻してゆきます。夜を映す不思議な黒い膜の動きもようやく止まりました。レイベルは心臓を抑えて、ぼう然と〈七色の球〉を見つめていました。
「……」
「はぁ、はぁ、ほぉ、はぁ」
 そしてかなり無理をした魔女の孫娘――落ちこぼれのナンナは、額にびっしょり汗をかき、苦しげに肩で息を繰り返します。


 10月19日− 


[弔いの契り(26)]

(前回)

 夜の空気は鉛を凌駕して重くなり、俺の身体も心もその中に溶かし込まれて固められ、動けなくなってしまったかのようだ。息をしたり、身じろぎ一つするのにも、ものすごい労力が要る。
 弔いの、契り――。
 生と死を冒涜する不吉な言葉が、繰り返し頭の中で響いた。
「タックさん、何故、知っている、の……」
 消え入りそうな声で絶え絶えに応えたのは農民の息子のフォルだ。タックの推理はかなりの部分が図星だったようで、愕然としているらしい。俺は口の動きを試しながら、代わりに応えた。
「こいつは、何も知ってるわけじゃねえ。ただ、細かい証拠を地道に集めて、そこに思いきり想像力を働かせてるだけなんだ」
「お褒めに預かり、恐悦至極に存じますよ。ケレンス殿」
 貴族が好むような言い回しをわざと用いて、タックのやつは俺の補足を茶化した。それにより、場の雰囲気がわずかに和む。
「フォルさん。もう少しだけ、お話を伺ってもよろしいですか?」
 幼なじみの悪友の丁寧な問いに対し、望月の月明かりの下で暗い影法師になっている十三歳の少年はうなずくのだった。

「貴方のお姉さん――サーシャさんでしたか――が、いけにえに選ばれたのも、男爵夫人が亡くなられたあとのことですね」
 タックは順を追い、若干いつもより早口で訊ねる。俺の方は忌まわしい約束の衝撃から落ち着いてきて、今度は当面の問題が心配になっていた。男爵と踊ったリンを筆頭に、村人たちばかりのダンスホールに置いてきたルーグとシェリアの安否が。
 脳裏をよぎるのは目の前のフォルが明かした驚くべき真相の数々だ。思い出して嬉しくなるような材料はひとかけらもない。
『あの眼、姉さんと同じだった』
『いけにえに……』
『十二人が揃うまでは、命を奪われることはないって……』
 そして最後に行き着くのは、やはりデミルの脅し文句だった。
『当方には人質がいるのですからな。覚えておくのですぞ』
 焦りを隠せず、座ったまま右足首を上下に動かし始めた俺をよそに、フォルは全てを委ねる覚悟の声で同意するのだった。
「はい」

 秋の夜更け、風は〈涼しい〉と〈寒い〉との境界線上を保ちつつ流れ、俺らが潜んでいる屋敷の壁際の雑草が不気味に鳴る。
 タックは相変わらず立て膝のまま、腕組みして考えていた。
「ふむ……でも、どうして男爵のしわざだと分かったのですか」
「それは、ある満月の晩、姉さんが出歩くところを見たんです」
 そこまで話すと、フォルは思い出したくないとでも言うかのように瞳を閉じ、ひとしきり激しく首を振った。暗い中でも、あいつが悪寒を覚え、過去と格闘しているのが痛いほど伝わってくる。
 その十三歳の農民の息子は勇気を振り絞って語り続けた。
「どこに行くのと聞いても、肩を揺すっても、僕が見えていないようで……眼が赤くて。その時に姉さんは言った、月に一度、この晩に、髪の毛を一本届けるだけって、うつろな声で。八歳だった僕は何も分からなくて、ただ怖かった。立ちすくんだまま後ろ姿を見送ることしかできなかった。それは明るい満月の夜だった」
 今までずっと抑えてきた感情――怒りや哀しみ、悔しさや反発、諦めや恐れ、無力さや無念さ――のこんがらがった渦を少しずつ迸(ほとばし)らせ、フォルは震える口調でつぶやいた。
 タックも俺も心を引き込まれて、身じろぎせずに聞いていた。
「でも、それからすぐ、村におかしな噂が流れ始めたんだ……」
 タックは興味を抱き、わずかに身を乗り出す。フォルはごくりと唾を飲み込み、ためらいの素振りを見せたが、やがて喋った。
「十二人の純潔な乙女が揃い、月満ちて、闇の命が誕生する」


 10月18日△ 


[秋の味覚(2)]

(前回)

 朝は適当に済ませたので、さすがに小腹が空き始めていた。ハンバーガーや牛丼――自己主張の激しい匂いが僕を手招きするが、ここまで来てファストフード店に入るのもつまらない。普段よりもゆったりした速さで歩き、意識を持って〈見よう〉とする気持ちを高めれば、その裏に潜む事象まで見えてくるものだ。
 例えば古びた文房具店の入口の前に置いてある鉢植えで、人知れず枯れゆく季節外れの薄紫の朝顔に気づけば、すなわち秋の深まりという〈見えないもの〉が見えてくるという寸法だ。
 それなりに繁盛している商店街の床はタイル張りで、きれいに清掃されている。二つ目の曲がり角で自然と立ち止まった。

 角の花屋の横に『カフェ 四季彩』という喫茶店が見えた。それほど大きくない、こぢんまりしたガラス張りの店内はがらんとしている。色彩に〈四季彩〉という字を当てるとは、まるで避暑地のホテルにでも好まれそうな使い古された名称だが、この町の雰囲気を凝縮したかのように外見はこざっぱりしている。特別に垢抜けているわけではないが、安っぽさはなく誇らしげだった。
 僕の心はそれを見た瞬間に決まっていた、と言っても大げさではない。天然の木で作られた重厚なドアをためらうことなく押し開けると、カウベルに似た大きな鈴が頭の上で快く響いた。

 知らない町の知らない通りで、知らない店に入る時につきものの、独特の緊張感と高揚感がよぎる。通りの賑やかさから一転し、けだるいボサノヴァが流れる静けさの中で、僕は挨拶した。
「こんにちは」
 土曜日の昼時は緩やかに去り、それほど広くもない店内はがらんとしていた。腕時計を覗くと、細い針は二時を回っている。
 入ってすぐの右手がキャッシャー、正面にカウンターの席が十ばかり、左奥には通路を挟んでガラスの窓際と壁沿いにテーブル席がいくつかあって、その奥に化粧室の目印があった。テーブル席の一つには温かい紅茶を啜る若い男女の姿が見えた。

「お一人様で?」
 キャッシャーの後ろのカーテンが持ち上がり、見渡していた方とは異なる場所から男の声が聞こえた。そちらに視線を送る。
「ええ」
 人差し指を立てて同意する。心地よい叙情曲は続いている。
 六十歳ほどだろうか――口の上に灰色のひげを生やした店の主人と目が合う。彼は黒い瞳で微笑み、穏やかに言った。
「いらっしゃい」

 僕が手持ち無沙汰に立っていると、彼は軽い口調で言った。
「あ、空いてますんで、どこでもどうぞ」
「じゃ、カウンターに」
 僕が腰掛けるのと、向こうのテーブル席の男女が立つのがほぼ同時だった。店主はまず僕の前にグラスのお冷やとメニューを置き、それから彼らの会計を済ませた。客は僕一人になる。

「ありがとうございました」
 再びカウベルが鳴る。やがて男はカウンターの向こうに入る。
「ご注文はお決まりで?」
「ええ、サンドイッチセットのツナを。飲み物は温かい紅茶で」
「紅茶は、ミルクとレモンがございますが」
「じゃ、ミルクで」
「お食事の前にお持ちしますか?」
「そうですね」
「以上で?」
「以上で」
「それでは、ご注文を確認させて貰います」
 男はそらで繰り返す。客への軽い尊敬を込めて会釈し、メニューを回収すると、カーテンを押し上げて奥の厨房に姿を消した。


 10月17日− 


[秋の味覚(1)]

 六十歳ほどだろうか――口の上に灰色のひげを生やした店の主人と目が合う。彼は黒い瞳で微笑み、穏やかに言った。
「いらっしゃい」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 とある秋晴れの土曜日、透き通るような青空に誘われて。
 黒いポシェット一つを肩に掛け、履き慣れたジーンズとスニーカーをつっかける。夕方に羽織る薄手のベージュの上着を片腕に、僕は日帰りの旅へ飛び出した。本当の所は〈旅〉と呼ぶのもおこがましいほどで、目的がなければ予定もない。あるのは、たっぷりの時間と、当面の予算だけという気ままな〈遠出〉だ。
 都会に向かうのと反対のホームから、何気なく普段乗らない電車に揺られていた。最初は目のやり場に困って文庫本を読みふけっていたが、しだいに反対側の長椅子の乗客は減り、車窓の住宅も減って、空が本来の割合を取り戻してゆく。駅間距離が広がり、電車でさえ開放的な気分となるのだろう、遺憾なく高速性能を発揮している。レールの継ぎ目をなくす都市部の工事で失われた〈ガタンゴトン〉という懐かしいリズムが自然に残っている。そしてまた家が増え、電車のブレーキがかかる。
 小さくもなければ大きすぎることもない、特急が停車する中規模の町だった。座席に腰掛けていた僕は、各駅停車のドアが閉まる瞬間に飛び降りた。目に見えぬ何者かが僕を呼んだのだろうか――いや、単にそろそろ町を歩きたくなっていた頃合いだったのかも知れない。ともかく僕は乗ってきた電車を見送り、ペンキは塗り替えられているけれど古びた跨線橋に向かった。
 家には夜に戻れればいい。明日の日曜日は寝て過ごそう。
 時間と場所の制約から解放されることに馴れていない僕は、つい先のことを考えてしまう。せっかくだから不安定を楽しもう。

 改札を出て、周辺の地図を無造作に眺めてから、橋上駅舎のコンクリートの階段を、町が栄えていると思われる方に下りる。
 小さなロータリーの隅にはタクシーが二、三台並び、暇そうな運転手たちが談笑しつつ煙草を吹かしている。その脇は商店街の入口になっていて、アーチ型の看板に名前が記されていた。所構わず自転車が置かれているのには閉口したが、どこの駅前にも必ずと言っていいほど存在し、雑草みたいに生えているパチンコ屋の姿を見かけないのは、大いに僕の気に入った。
 既に昼時を過ぎている。主婦や高齢者の姿が目についた。


 10月16日△ 


[雲のかなた、波のはるか(12)]

(前回)

「レフキル……?」
 横から覗き見ている、親友サンゴーンの不安をよそに――。
 妖精の血が混じっていることを想像させる、やや長い耳を立てたリィメル族のレフキルは目を見開いて、感覚を研ぎ澄ませた。口の中では、天河から掬い取った透明な液体を味わっている。
 その視線が速やかに持ち上がる。絡まり合う秘密の輪がようやく一つほぐれた、と言わんばかりの納得と安堵の面もちだ。
「やっぱりね」
 うなずいてから振り向き、レフキルは後ろの友に話しかける。
「サンゴーン、こうやって両手を出して」
「えっ?」
 チェックのワンピース姿の若き〈草木の神者〉はためらいつつも、見よう見まねで両手を組み合わせ、水を保てるようにする。
「せっかくだし、サンゴーンにも空の河を味わってもらいたくて」
 と言い残したレフキルは、再び身軽に窓から身を乗り出して、不思議きわまりない空の河に手を浸し、汲み上げるのだった。

 そして指の隙間から全ての液体がこぼれないうちに、サンゴーンの手のひらで作った肌色の〈ひしゃく〉へと注げば、ささやかで爽やかな音が響き、小さな虹が出来る。サンゴーンは神妙な表情だった――不思議な雰囲気が、自然とそうさせたのだ。
 他方、いくぶん現実的な性格のレフキルは優しく忠告をした。
「さっと飲んでみて」
「ハイですの」
 サンゴーンは彼女なりに急いで、どうしても水が漏れ出す両手の〈ひしゃく〉を持ち上げ、ほとんど中身が滴り落ちてしまった空の河のわずかな残りを口の内部に染み込ませるのだった。

 風に乗って飛翔する天河の轟音を遠くに聞きながら、彼女は海色に澄んだ瞳を閉じ、しばらくの間は味覚に集中していた。
 やがて眉をひそめ、可愛らしく顔をしかめて、感想を述べる。
「しょっぱい、ですわ」
「そう……この味に憶えがない?」
 レフキルは嬉しくてたまらない様子で表情をほころばせ、いつ果てるとも知れぬ激しい空の水蛇を背に言葉を継ぐのだった。
「たぶん、これ、海なんだと思うよ!」


 10月15日○ 


[天音ヶ森の鳥籠(9)]

(前回)

「んんんん〜」
 独りぼっちになった長い髪の姉は、自らの気持ちを鼓舞するつもりで何小節か鼻歌を唄った。妖しの霧のさなか――妹たちに居場所を知らせる役に立つのではないかという算段もある。
 妹のリンローナと違って、シェリアは音感が良く、リズム感も抜群だ。口の悪いケレンスならば〈いつ聞いても、意外に可愛い声だよなぁ〉とでも評したであろう美しく素直な音のかけらは、さっきまで森を潤していた鳥の調べを思い出させ、高く響いた。
 歌が似合う森だ。仲間のいない孤独はさておき、何かが決定的に足りないと感じていたシェリアは、一定の充足感を得た。

「ん〜ん……ん?」
 ところが不意に音楽を寸断し、立ち止まって周囲を見回した。
 相変わらず辺りはしんと静まりかえり、彼女の紫色の髪を薄めたような霧があふれていて、森の立ち木と池が垣間見える。
 見た目には何も変わらないのだが、シェリアが得意の音感で鼻歌を唄いだして以来、雰囲気には劇的な変化が生じていた。もともと集中力と感性を鍛えてきた魔術師のシェリアには、身体を押さえつけていた空気が軽くなるほどの違いを覚える。この薄紫の霧に心があるのだとすれば、これまでの敵意――というのが言い過ぎならば、くまなく調べるような〈警戒感〉が、いつしか仲間意識、あるいは歓迎の様相を呈してきたように思えた。
「何なのかしらね、この森」
 皺の付いた赤い長ズボンは彼女の脚の長さとスタイルの良さを際立たせる。靴の裏で交互に地面を踏みしめながら、思わず彼女は独りごちた。瞬きを繰り返すと繊細な睫毛が時を刻み、胸元の紫水晶のペンダントは微かに揺れる。小脇に抱えた山菜摘みの籠は、目下の所、無用の長物と成り下がっていた。
 改めて〈天音ヶ森〉という名前が脳裏をよぎる。夜風を浴びて、広場を囲み――澄んだ声には気を付けな――という、村の子供たちが唄っていたフレーズも、何故かはっきり思い浮かぶ。

 押し殺した気配を感じないわけでもない。薄気味悪いが、シェリアは怒るよりも心細さが膨らみ、先を急いだ。霧は特に濃くなるでも薄くなる訳でもなく、眠気が染み込むように自然と漂う。
「んん〜」
 やけくそ気味に、若い魔術師は鼻歌を再開するのであった。

 道の目印となる池は霧の中でも辛うじて判別できる。景色や光の具合から、いよいよ池を半周する頃になると、ケレンスとリンローナに早く合流しなきゃ、という切なる思いとは裏腹に――やや気持ちが緩んだのだろうか、普段の〈見栄〉が戻ってくる。
(手ぶらじゃまずいわよね)
 右腕と脇腹に挟んだ山菜摘みの籠を見下ろす。恐がりと思われるのはしゃくだと考えて、いつしか鼻歌も小さくなっていた。不思議なことに、霧からは再び白けた感情が発散されている。
(どうせ山菜なら、黄金の山菜でも出てくればいいのに)

 それはおそらく、この池のほとりでシェリアが考えた最初の物欲と言っても過言ではなかった。つまらぬ喧嘩を反省したり、仲間との再開を願うのとは、明らかに異なる種類の望みである。
「ほっ」
 突如、何かの草が靴に引っかかり、つんのめりそうになった。反射的に逆の足を出して体勢を整え、やむを得ず立ち止まる。
「何よ」
 文句を呟いた次の刹那、双つの瞳は足元に釘付けとなった。
「えっ?」


 10月14日− 


[作戦のゆくえ]

 港とも言えないような簡素きわまりない島の入口の船着き場で、大師匠のメロウ氏の船を見送った帰り道のことであった。
 空は薄曇りで、通り過ぎる風は肌寒い。ここは大陸北東のメロウ島で、まもなく初雪が降ってもおかしくはない季節である。
「……師匠」
 師匠を呼んだのは無口な弟子――眼光の鋭いキナである。
「ん?」
 声をかけられた武術のセリュイーナ師匠は、薄手の革のジャケットを羽織っていた。寒さに強くなることも心身を鍛える一環なのだ。短い黒髪は艶やかで、髪よりはやや色褪せた闇色の動きやすいズボンを履き、背は高く、筋肉質の二十七歳である。
 斜め後ろを歩いていたキナは突拍子もないことを言い出す。
「大師匠と師匠は、どういう関係……?」
「はぁ?」
 セリュイーナは自分の耳を疑って思わず立ち止まり、即座に大声で聞き返す。キナが珍しく話し始めたと思った矢先の、突然の意味不明な質問に、腹立たしいというより落胆していた。
 しかし次なるキナの畳みかけには、さすがは肝の据わったセリュイーナといえども、目を丸くしないわけにはいかなかった。
「愛人の、関係?」

「馬鹿いってんじゃないよ!」
 セリュイーナは珍しくも取り乱して声を荒げ、一瞬、頬を赤くさせる。普段、弟子たちを指導し、叱咤激励するのとは明らかに違う――その様子は、やはり動揺という一語が相応しかった。
「師弟関係に決まってるだろう!」
 皆の注目を浴びたことを感じたセリュイーナは、続く二言目は声の調子を落とした。島の所有者である中年紳士のメロウ大師匠から修行場を任されるだけあり、彼女は自分を律する訓練を長く重ねているので、以後は素早く冷静さを取り戻していった。

 その時であった。二人から少し後ろの方で、筆頭の弟子のユイランと、やはり愛弟子の〈お嬢〉ことメイザが何やら耳打ちし合っているのを、目ざといセリュイーナは見逃すはずがなかった。
「ははーん」
 師匠が振り向くと、ユイランとメイザはびくっと驚いて止まる。
「なんすか、師匠……」
 十九歳のユイランは、何故か目線を合わせようとしなかった。

「黒幕、見ぃつけたー」
 どんよりと低く這うような声と、思いきり引きつった微笑み。
 我を忘れて怒り狂うのもそれはそれで怖いのだが――実は、今のように妙な穏やかさの仮面をかぶっているセリュイーナが真に最も恐ろしいことを、ユイランもメイザも良く承知していた。

「し、師匠、黒幕とは何のことで……何ぞや」
 上目遣いにそっと師匠の顔色を伺っているのは、筆頭の弟子のユイランであるが、肝心の師匠も発端のキナも沈黙を守る。
「あ、あの、私は何も……全部、ユイちゃんが悪いんですよー」
 言い訳を始めたのは育ちの良い〈お嬢さん〉ことメイザだった。後輩のユイランは、現在の置かれた状況を忘れて大慌てだ。
「お嬢さん、ずっるーい、裏切るなんて」

「醜い争いはやめーっ!」
 張りつめた注意が飛ぶと、弟子たちの動きは魔法のようにピタリと止まった。師匠は続けて頭の中の判決文を読み上げる。
「キナをたぶらかした罪で、ユイとお嬢には特別メニューを与える。これから島を五周。夕食までに終わらせること。いいね!」
「ええーっ!」「あぁ……」
 次の瞬間、ユイランの驚愕とメイザの絶望が重なって響く。

 普段は交流が許されていない男の弟子たちが笑う中を縫って、二人の女流格闘家はほうほうの体で駆け出すのだった。
「作戦失敗しちゃったね」
 メイザは汗を拭いながら感想を洩らし、ユイランもめげない。
「次なる手を考えなきゃ……っすね!」
 厳しい格闘術修行の息抜きの、ちょっとした楽しみなのだ。

 ユイランは駆け足足踏みをして、遙か向こうの師匠に問う。
「で、本当のところはどうなんすかー?」
「さっさと行きなぁ!」
 大げさに空振りの蹴りをしたセリュイーナ師匠の表情は、今度は遠目にもはっきり分かるほど屈託のない明るい笑顔だった。

(おわり)
 


 10月13日− 


[虹あそび(19)]

(前回)

「……ん?」
 レイベルがまぶたを開いた時、そこは真っ暗な世界でした。
「あ……れ?」
 周りを見渡しても、いつもの自分の部屋の景色ではありませんし、何だか長い夢を見ていたような気がします。頭の中はまだ、ぼんやりしていましたが、徐々に現実感が戻ってきます。
 レイベルは座っている姿勢でした。魔女のほうきの上です。
「えっ、どうしたの? 夜が来たの?」
 村長さんの娘の優等生はびっくりして、すかさず、背中が黒い影になって見える親友――十二歳のナンナに訊ねたのです。

 確かに夜でした。顔を上げると赤や青、銀色の星がきらきら見えます。ルデリア世界の星座や天の川もはっきり分かります。
 そんなに長く空の上で寝ていたのでしょうか。それとも天の上昇気流に乗って、神様の住む天上界に着いたのでしょうか?
 レイベルは目を白黒させています。そういえば、いつの間にか寒さも和らいでいました。ナンナのほうきは飛び続けているようですが、激しい空気の流れはやんでいました。風の音は聞こえるものの、耳に何かを詰めた時のように、くぐもって響きます。
 ナンナはちょっと振り向いて、いたずらっぽく微笑みました。
「違うよ。膨らました〈闇だんご〉の中に入っちゃったんだよ!」
「お団子の中に、入っちゃった……の?」
 あ然として、レイベルは繰り返しました。今日は不思議な事が次々と起こりすぎて、頭の奥の神経が麻痺(まひ)しています。
「だいじょ〜ぶだよ、レイっち。誰も食べたりしないからねっ☆」
 けろりと言いのけたナンナは前に向き直って、人差し指を斜め上に伸ばします。夜空の行く先に、まばゆく光る一つ星――。
「ほら見て!」
「あっ!」
 レイベルは思わず歓声をあげました。大きく膨らんだ七色の満月にも見える〈虹の星〉は、もうすぐそこまで近づいていました。

 その半透明に近い球の表面では、速やかに色とりどりの河が舞い、光を散りばめ――思いのままに踊り、きらめいています。いつの間にか、ほとんど触れることが出来るくらい、そばに寄っていた丸い虹は、夜の中でも鮮やかな彩りがあります。他の全ての星が持っている色を集め、しかも、そのどれとも違います。
 赤い炎の線が、星の中の流れ星のように、または激しい稲光のごとく素早く直線的に進みます。水と氷の力は青く、表面に現れたり内側に引っ込んだりしながら虹をめぐり、潤します。月の輝きを示す黄色はぼんやりと全体的に広がり、人間の呼吸に似て、強まったり弱まったりを繰り返しています。草木の緑色は優しく、木の枝や根が伸びるように、他の色が空いた透き間に腕を伸ばします。その緑色を温かくつつみ込むのが大地の橙色で、縁の下の力持ちとなって静かに確かにうごめきます。風を示す空色は自由気ままに吹いて他の色と交わり、命の種を届けます。夢と幻の紫は、時にははかなく、時には力強く満ちあふれ、決して消えずに〈虹の星〉を育てる大切な肥料です。

 ふとレイベルは、ナンナのおばあさん――本物の魔女――から聞いた〈魔源界〉のことを思い出していました。異次元にある〈魔源界〉は、世界を構成する七つの力が激しく交錯していると言われています。魔法を使える人たちは、秘密の呪文の残響と訓練した集中力で、地上界から〈魔源界〉へのトンネルを開いて魔法の素を取り出し、それを組み合わせて魔法にするのです。
 今、目の前にある虹の星は、まさに小さな〈魔源界〉でした。

「あれは……あの薄い、黒っぽい膜は、もしかして……」
 レイベルは眼を細めて訊ねました。鮮やかでしかも淡い星になった〈かつての虹の橋〉は、良く見ると周りに限りなく薄い膜が張っています。二人の少女たちの投げた〈闇だんご〉が破裂して、出てきた黒い液に行き先をふさがれてしまったのです。
「そう、あれは〈闇だんご〉の液だよ☆」
 ナンナはさも嬉しそうに、うわずった声で応えました。二人が〈闇だんご〉の中に入った結果、夜の装いを見せる地上の景色は闇の中に沈み、どこにナルダ村があるのかも分かりません。頭のはるか向こうに星が見え、それが上下を教えてくれます。

「こっちもあっちも同じ膜だから、突き破れるよ〜」
 見習い魔女はまた、とんでもないことを言い出しました。すでに目の前の視界は追い続けてきた〈虹の星〉でいっぱいです。村の中では一番大きい、村長さんの屋敷よりも大きいのです。
 神秘的な虹に見とれていたレイベルは、素直に問いました。
「突き破ると、どうなるの?」
「わかんないよ〜」
 というのが、ナンナの答えでした。レイベルは現実感が舞い戻り、慌てて聞き返しました。もうまもなく、虹にぶつかるのです。
「ええっ? ナンナちゃん、危なくないの?」
「やってみなくちゃ、わかんないよぉ☆」
 ナンナの声色は、言葉とは裏腹に真剣さを帯びています。レイベルが一緒だという心配もありますが、魔女の好奇心はそれを上回っていました。やり遂げたい、という思いがつのります。
「そんな……あっ」
 にわかに風の流れが変わって、村長さんの娘、黒髪のレイベルは悲鳴をあげました。二人の女の子は、ナンナが膨らませた最後の〈闇だんご〉の内側にいるので寒さや風圧を感じることはありませんが、明らかに〈虹の星〉の影響は強まっていました。
「レイっち、勇気を出して。行くよ〜!」
「きゃあ!」
 レイベルは思わず身を縮め、ほうきの棒にしがみつき、両手で頭を押さえます。こうして二人は、丸い虹に迫ってゆきました。


 10月12日− 


[弔いの契り(25)]

(前回)

 しばらくの間、俺たちは重い沈黙につつまれていた。フォルは疲れたように指を下ろしてゆく。その幼さの残る横顔は言葉よりも雄弁に語っていた――悪夢の満月の晩がやって来たことを。
 タックはフォルが話し始めるのをじっと待っている。俺も話の邪魔をする気にはなれなかった。余所者が立ち入ってはいけねえんだろうか、と思えてしまうほど、おぞましい秘密が確かに隠されている。リンが狙われている、という当事者意識がなかったら、赤い眼だの生け贄だの、出来ることなら関わりたくもねえ。

「五年ほど前……男爵の結婚式がありました」
 フォルはしんみりと言葉を継いだ。冒頭の〈五年〉という言葉に俺の背中がぴくりと反応する。やっぱり事件の種は五年前か。
「その頃、僕はまだ八つで、姉は十五になったばかりでした」
 農民の息子は、今まで長い年月に渡って溜め込んできたものを、堰を切ったように喋り出していた。興奮も激昂もしていない――ただ、その話しぶりは深い諦観に彩られていたのだった。
「村中総出で祝った、幸せな結婚式でした。みんなはいつもの農作業を忘れて正装し、村中が歓びに沸き返りました。その時は村中が飾り付けられて、とても華やかだったんです。今では見る影もないですが。みんな落ち込んで、活気が無くて……」
 フォルはその日の様子を想像してか、ややうつむいて目を閉じた。きっと、やつには村人の歓声まで聞こえているのだろう。
『ご結婚、おめでとうございます!』
『男爵様ぁ! 男爵夫人様ぁ!』
『これで村も安泰じゃなァ……』

 身に沁みる冷ややかな秋風が吹けば、現実が舞い戻った。
「だが、それから二ヶ月ほどのことでした」
 そこまで言うとフォルは口を閉ざした。暗い中で表情は読み取れねえが、やつの肩は微かに震えていた。何かを畏れてるのか、哀しみを堪えてるのか、それとも絶望感に浸ってるのか?
 俺たちに残された時間は貴重で、それすらも刻一刻と流れ去ってゆく。暗闇の中、俺がタックに手で合図すると、その悪友は頃合いを見計らって事件の発端、核心に触れる推論を示した。

「結婚後まもなく、男爵夫人は亡くなられた。そうですね?」
 ――フォルはうなだれたまま眼を固く閉じ、こぶしを握った。
 それが何よりも明らかな答えだ。

 論理的な思考を得意とするタックは話の断片を組み合わせ、嵌め込み、補って、一枚の不気味な絵を作り上げようとする。
「すべての始まりは、男爵夫人が亡くなられたことですね。これは僕の想像ですが、さぞかし美しい方だったのでしょう……ともかく男爵の果てしない悲嘆と喪失感は察するに余りあります」
 さも自分が体験したかのように推論をぶつのはタックの得意技だぜ。やつが話すと真実みを帯びてくるから不思議なんだ。
「……」
 フォルは聞く番とわきまえて黙っている。年の割には苦労を重ねてきて、なかなかしっかりしたガキみてえだ。シェリアがこの場にいれば、十中八九〈ケレンスと比べると、どうのこうの〉って言うだろう。――なんて雑念はタックの真剣な話で途切れる。

「寿命が尽きて遙かな天上世界に昇り、もはや還らないことが分かっていてさえ、亡くなった人に還ってきて欲しい……と願うのは、ごく一般的な遺族の感情です。だが、男爵は、失われた夫人を〈本気で〉生き返らせたいと思い詰めたのでしょうね。どんな悪魔と契約してでも、どのような尊い犠牲を支払ってでも」
 この国の出来事らしからぬ男爵の異常な思い込みに、俺の背筋には冷たい虫酸が走った。腐れ縁の悪友は淡々と語る。
「あるいは夫人の死に際に〈約束〉したのかも知れませんね」
 タックの話は飛躍していたが、あながち嘘だとも思えねえ。

 悪友は一呼吸置いてから、さらにもう一段、声を潜めて言う。
「『貴女が亡くなっても、必ずや生き返らせてあげますからね』」
 鳴り響く不吉な夜風のざわめきに、やつの言葉が重なった。
「人の子が約束してはならない、忌まわしき〈弔いの契り〉を」


 10月11日○ 


[秋の散歩道]

「ほら。これなんて、ずいぶん赤いのだっ」
 姉のファルナが取りあげた葉は楓だった。民族風の素朴な模様の刺繍が入った薄茶色と白を基調とした長いスカートを履き、彼女が手にしている楓の色に似たセーターを羽織っている。茶色の髪はいつものごとく後ろで犬の尻尾のように縛っていた。
 森の中の空気は澄み切っている。梢から覗く青空は高い。
「あー、お姉ちゃんいいなぁ!」
 負けず嫌いの妹のシルキアは、さっそく視線を落として土の地面に注目し始めた。落ち葉の絨毯になるにはまだ早いが、広葉樹の足元を通ると、赤や黄色、虫食いの茶色の葉が微かな風に揺れ動いている。今日のシルキアは動きやすい焦げ茶色の長ズボンを履き、白いチェックのブラウスの上に黄土色の薄手のジャケットを着用し、髪を左右に分けて結んでいる。それでも瞳の髪と色、顔の輪郭などは三つ年上の姉に良く似ている。

「とっても、きれいですよん……」
 ファルナは後ろ手に組み、軽いステップを踏み、木の根に気をつけながら空を見上げた。やや遠くに見える針葉樹の群生は夏の彩りを残す翠色で、背の高い男性に見える。他方、間近な広葉樹の着替えは都会に住むおしゃれな女性のようだ。それらは小鳥の唄のように響きあい、重層的な風景を作り出している。
「あの雲、ケーキに載せたら美味しそうなのだっ」
 口の中に湧いてくる唾液をそのままに、ファルナはうっとりした表情で枝の間から垣間見える白い綿雲を飽かず仰いでいた。

「悔しいな〜。なかなか赤い葉っぱ、ないよ」
 他方、シルキアの視線は大地に向かっている。二人は村でも評判の仲良し姉妹であるが、当然ながら考え方には異なる部分もある。時々、シルキアは姉をライバル視することがあり、対抗意識を燃やす――ファルナの方は一向に無頓着なのだが。
「そのうち見つかりますよん」
 穏やかな顔立ちは姉のファルナの方で、妹のシルキアは割と目鼻立ちがくっきりしている。敢えて表現をすれば、可愛い系はファルナ、美人系はシルキアと言うことになろう。二人の実家は〈すずらん亭〉という酒場・兼・宿屋を切り盛りしており、年上のファルナが看板娘を務めている。客としてやってくる男たちの間では姉妹の人気も二分しているが、若干、姉が優勢のようだ。
 女性はもっと厳しく、ファルナを〈しゃべり方が変〉〈手際が悪い〉だとか、シルキアを〈妙に背伸びしている〉〈打算的だ〉と評価する者もいるが、そのように低く見る者はたいがい余所から来た都会出身の旅人や貴族である。山奥の村で育った姉妹の素朴さをどこかで馬鹿にしつつ、皮肉にも嫉妬しているからだ。
 村の女性たちは、相当温厚である。特にファルナやシルキアの年代の子供は数があまり多くないため、可愛がられている。

「ん?」
 目の前を何かが横切り、妹は思わず反射的に右手を出す。
 その掌に、錐もみ飛行をして、秋の切れ端が落ちてきた。
「やった!」
 シルキアの顔がぱっと明るくなる。紅に染まった木の葉だ。
「ねえ、お姉ちゃん、ほら見て!」
 勢い良く呼びかけたシルキアの方を、ファルナは振り返った。ちょうど姉はしゃがんでいた体勢から起き上がるところだった。
「どうしたのだっ?」
「ほらァ、赤いよ!」
 シルキアはさも嬉しそうに、天の贈り物を差し出す。姉は〈素敵ですよん〉と褒めてから、拾ったばかりの次なる葉を見せる。
「ファルナは黄色ですよん」
 理屈よりも感性で動くファルナは、どこも破れていない黄土色の完全な木の葉を指先で掲げて、はにかんだ笑顔を添えた。
「黄色もいいなぁー」

「シルキアは、どっちを担当したいのだっ?」
 姉らしいところを見せてファルナが訊ねると、妹が即答した。
「でも、やっぱり秋っぽいから、赤がいいな」
「じゃあ、これはあげますよん」
 大らかなファルナは先ほどの赤い葉を惜しげもなく妹に渡す。
「お姉ちゃん、ありがとう!」
 シルキアは特徴的な茶色の瞳を大きく広げて感謝する。

 すでに〈清純という言葉の蒸留水を固めたような朝露〉は溶け、儚くなっていた。霧も途絶え、息の白さも薄らいでいる。樹から降りてきたリスの親は警戒し、茂みの奥に隠れてしまう。
 秋の始まりの紫や青の花が色を失いつつある小径に、シダや苔の緑色は鮮やかだ。陽の光は森の奥の方にまで射し込む。
 それぞれの分担した落ち葉をかかえた姉妹の後ろ姿と長い影が、坂道の向こうに見えなくなる。父と母に頼まれた、お店に飾るための〈季節を感じさせるもの〉をしっかりと集めた姉妹は、時折向き合って談笑しながら、村への道をたどるのであった。
 


 10月10日− 


[秘められた想い]

(公爵は、どのように思われるだろうか)
 既に落葉の始まっている、北辺のヘンノオ町は暮れかかっていた。広葉樹の並木道を歩きながら、ムーナメイズ・トルディンは薄手の黒いロングコートに身をつつみ、ひとり彷徨っている。
 涼しいと言うよりも寒いくらいの北風が通り過ぎる。人々は薄手のコートに身をつつみ、足早に歩き去ってゆく。日は傾き、細い雲間から黄色の夕焼けが覗いていた、秋の黄昏時である。
 風は吹きすぎるのみ――求める答えを教えてはくれない。

 ムーナメイズは二十一歳の男で、眼鏡を掛けている。学者のかぶる三角帽子の間から金の前髪がこぼれており、その帽子も革靴も闇色だ。長い上着も含め、気の早い夜の一部分が浮かび上がってきたかのように見える。全体的な風貌は魔術師に近く、やや厳しい瞳は、その一方で知的な光をも湛えている。
 年齢よりもかなり老成した雰囲気を漂わせるものの、一見すると大きな特徴もない普通の魔術師と思われることの多い彼は、世界的に重要な七つの力のうちの一つ、精霊界との道を開く月光の力を司る〈月光の神者〉(げっこうのしんじゃ)を継承している。普段は隠されている黄色のペンダントがその証左だ。
 彼の出自は色々な憶測が飛び交っているが、本人はヘンノオ町に来るまでの記憶を失っており、深い謎に包まれている。一説には、霊場として名を馳せる世界最高峰の〈クル山〉からやって来たとも言われているが、結局のところ真相は定かでない。
 彼は二十歳になるならぬの二年ほど前、忽然とヘンノオ町に姿を現した。領主のヘンノオ公爵自身が〈天空の神者〉ということもあり、公爵はムーナメイズ氏を庇護し、厚遇を与えてきた。

(なぜ私が後継者に選ばれたのだろう)
 魔法や世界に関する知識は保っているのだが――自分が何者で、どのような経緯から〈月光の神者〉に選ばれ、この町へ派遣されたのか、すっぽりと抜け落ちている。周囲の町人たちからは〈沈黙を守る〉〈はぐらかしている〉と思われているが、実際は彼自身が自分の存在について最も気にかかっているのだ。
 そして、その疑問を考える際、彼の脳裏には一つの殺伐とした図が浮かぶ。普段は正しい知識を追い求めて心の平静を保っている彼も、時々はこの重い思索に分け入らざるを得ない。

 月光の神者には血塗られた歴史がある。元々は妖精族に与えられた〈月光〉〈草木〉〈夢幻〉の三つの神者のうち、前の二つは人間が強引に奪っい、政治の駆け引きの道具に使われてしまった。今では妖精族に残るのは〈夢幻〉の神者のみである。

(公爵は、私の考えを聞いたら、どう答えるだろう)
 ムーナメイズは密かに心の奥底で思っていることがあった。それは常に深い場所で彼の通奏低音となり、ヘンノオ町に現れてから年を追うごと、しだいに強まっている――それは人間が〈勝ちとった〉とも言われている月光の神者を妖精族に返すことだ。

 同じく、妖精族から受け継いだ〈草木の神者〉を務めるサンゴーン・グラニアは、十六歳の少女と伝えられている。ムーナメイズが住む北のノーザリアン公国と、サンゴーンが住む南のミザリアには相当の距離の隔たりがあり、情報は不確かだ。誰にも知られず密書を送ることも厳しい。仮に話が洩れれば民衆や国家レベルで相当の反対・妨害があることを覚悟せねばならぬ。
 まずは天空の神者でもあるヘンノオ公がどう思うかだ。ムーナメイズを庇護し、相談相手として破格の待遇を約束している公爵が反対すれば、ムーナメイズは国から出ることすら困難だ。

 西の空には傾いた三日月が浮かぶ。蜜月はまだ遠かった。
(まだ封印しておいた方が良いだろう)
 秘められた想いは、機会が来るまで育てられるのだ――。
 


 10月 9日− 


[雲のかなた、波のはるか(11)]

(前回)

 支え棒に絡まる朝顔の蔓(つる)を拡大したかのように、不思議な河は尖塔に巻き付いて昇り、勢いをつけて再び遠い場所を目指した。二人の少女たちが覗いている尖塔の窓からほんの少し下側を、塔をめぐる流れの最上層が勢い良く翔(かけ)ている。その幅は大河ほどではないが、地方の主要な河の中流くらいのたくましさを誇っている。南洋に浮かぶ小さなミザリア島を潤す生活用水の河や溜め池に比べると、雲の大陸の背中に隠され、透明な水を讃えた潮の香りの漂う河は偉大さがあった。
「あらあぁ?」
 サンゴーンは目を丸くして、ゆっくりと後ずさり、尻餅をつく。見下ろしていた空の河から、銀の鱗の魚が飛び跳ねたからだ。
「大丈夫?」
 冷静だったレフキルはすかさず振り向き、親友に手を貸した。やや鈍くさいところのあるサンゴーンは礼を言って立ち上がる。
「ありがとうですわ」
 激流の轟きは相変わらず、衰えることなく続き、聴覚を遮る。

 レフキルは神妙な顔で腕組みし、再び窓から顔を出して下を覗き込んだ。碧色を帯びた銀の前髪があっという間に逆立つ。
 他方、草木の神者のサンゴーンは黙ったまま両手を組み、一歩引いた場所で相手の邪魔をせず控えめに待っている――と、妖精族の血を受け継ぐレフキルは決意に満ちて顔をもたげた。
「今ので分かったかも知れない。もしかして……」
「何が分かったんですの?」
 素直に聞き返したサンゴーンは、ごくりと唾を飲み込む。いよいよ核心に迫っている予感が胸の奥で時めいていたからだ。

「この河の正体だよ」
 レフキルは事も無げに言い切り、体の向きを変えて窓から腕を伸ばした。届かないので、結局は身を乗り出す格好になる。
「どうしたんですの?」
 サンゴーンは相手の意図を酌み取れなくて呆然とし、何をすれば親友の手助けになるのか分からず、ひどく戸惑っていた。

 かつて〈怪盗〉と揶揄されたほど敏捷で身軽なレフキルは、策を練る際にはじっくり腰を据えるものの、いざ事が動き始めれば〈突き進む大胆さ〉と〈退く勇気〉を両輪にして、持てる能力を活用できる女性だ。サンゴーンが強く惹かれ、自分に欠けている部分だと尊敬するのも、まさにレフキルのそのような点である。

 レフキルは限界まで身を乗り出し、右腕を下へ伸ばした。
 次に彼女が起き上がった時、掌は濡れ、滴がしたたり落ちていた。その中には一掬いの〈空の河〉が確かに存在している。
 すると突然。レフキルは何を思ったものか――皿のスープを飲む猫のように、手を口へ近づけると、赤い舌で舐めたのだった。


 10月 8日○ 


[天音ヶ森の鳥籠(8)]

(前回)

 ひんやりと撫でるような風が地面の低いところを吹き、背中がぞくっとする。シェリアの髪の毛の色素を水で溶いたような薄紫の霧が湖面を僅かに漂っている。森の中に比べると明るかったはずの、池のほとりの周回路はいつしか薄暗くなっていた。反対側にはリンローナとケレンスがいるはずだが、丈の高い草と、しだいに増え始めた妖しの霧により、巧みに隠されている。
 意志を持っているかのような粘っこい風は、シェリアの華奢で魅力的な身体を検分するかのように、頭から足先までを興味津々そうに撫でながら行き過ぎる。魔術師は無性に苛ついて、赤いズボンの腿の辺りを何度もせわしなく指で弾くのだった。

 ガサッ――。
 その時、突然。足下の草の間で〈何か〉が音を立てた。
 知らず知らずのうち、かなり神経質になっていたシェリアは反射的に後ずさりした。さすが冒険者らしく、馴れたところを見せて悲鳴こそ上げなかったものの、心臓の鼓動は速まっている。
 胸が押されているように苦しく、重い沈黙の刻が流れた。相手を正確に見極めるため、しばらく同じ位置で息を潜めていた彼女であったが、おそるおそる足をのばして草を蹴ってみる。
 再び小さなものが慌てて動き出す音がした。やや落ち着きを取り戻した彼女は、魔法で鍛えた集中力を高めて目を凝らす。
 ――と、瞳に映ったのは、しっぽの長い茶色のトカゲだった。

「何よ」
 シェリアはほっと胸をなで下ろし、溜め息混じりにつぶやく。
「私、どうかしてたみたいね。こんなの全部、気のせいよ!」
 気分を紛らわすため、わざと声に出して言ったのだが――。
 喋っているうちに娘の語気は強まり、言葉の響きもあっという間に、怒りと畏れ、憤慨と反発とに塗り替えられていた。一時の安堵は去って表情はこわばり、その口調は暗く淀んでいた。
 彼女の頭の中で、魔術師の直感が絶えず警告を告げていたからだ。辺りはしんと静まりかえり、シェリアの息づかいの他には何も聞こえず、全ての音から隔離されてしまった。さっきのトカゲは見る影もなく、今や懐かしささえ覚える。誰かが故意に作り上げた不安定な夢の入口に紛れ込んでしまったのだろうか。

(ルーグ、助けて……)
 乾いた唇をきつくかみしめ、その場に立ち尽くす。普段は勝ち気にふるまうシェリアも、結局のところは十九歳の若者である。経験が少ない分、一人になった場合はもろい。森を漂う限りなく白に近い薄紫の妖艶な霧はさらに深くなり、戸惑いのかけらのごとく、または精霊の置き土産のように浮遊している。それらは手を結び、しだいに繋がって視界を遮り、彼女を孤立させる。
(ケレンス、リンローナ!)
 普段は表に出さない気弱な部分が魔術師の心の中に根を張っていた。硬く目を閉じて、近くにいるはずの仲間の名を呼ぶ。心配して待っているはずの、可愛い妹の顔が脳裏をよぎった。

(結局、進むしかないじゃないの)
 人恋しさが頂点に達したシェリアは、雑念を振り払うように激しく左右へ首を振った。それから髪の毛を軽く整えると、気丈にも勇気を出して歩き始める。これ以上、霧が濃くならないうちに早く妹たちに合流することが肝要だと、現実的に考えたのだ。
「そうよ、今度こそ、リンローナにちゃんと教えてやらなきゃ」
 妖しい雰囲気に気圧されていたのと、早歩きの息苦しさで絶え絶えになりつつも、しっかりした音程で〈鼻歌〉を唄い出す。


 10月 7日○ 


[虹あそび(18)]

(前回)

「とっても大きいね」
 レイベルは上目遣いに虹の球体を見上げて言いました。近づけば近づくほど、その並はずれた巨きさが実感できます。目的の場所ばかり見ていると、距離が迫っているのではなく、虹の球自体がシャボン玉のごとく膨張しているように思えました。
「虹の橋を丸め込んじゃったんだからね〜☆」
 喋りながらも、ナンナは決して気を緩めません。大自然の厳しさと穏やかな人々の中で、失敗ばかりだった落ちこぼれの見習い魔女は〈魔法を無理矢理に使いこなす〉のではなく〈魔法と呼吸を合わせる〉コツを、ちょっとずつ掴み始めているようでした。

 空気はだんだん冷たくなり、凍えるほどです。寒さに慣れている北国の子供たちでも、風を切って飛ぶ空のかなたは大変です。レイベルの赤茶色のロングスカートの裾がパタパタと音を立てて揺れています。当然、髪型はメチャメチャになっています。
「くしゅん」
 先に可愛らしいくしゃみをしたのは、ナンナの方でした。弾みで魔女のほうきが揺れ、集中が途切れたので少し傾きます。
「ナンナちゃん、大丈夫? 寒くない?」
 後部座席のレイベルは怖さに身をすくませながらも、勇気を出し、大切な友達を気遣って声をかけました。鋭い風の切れ端たちは、高い音程の歌を唄いながら二人の耳元を通り過ぎます。
 小さな魔女は前を向いたまま軽くうなずき、返事をしました。
「へーきだよ! 今から揺れるから、しっかりつかまってて☆」

 突然、ナンナは魔法への集中をやめたのです。ほうきは魔法の綱から解き放たれ、気流で編んだ急な坂を駈け登りました。
「ひゃあ」
 レイベルは思わず目をつぶり、しっかりと魔女のほうきの柄をつかんで上体を屈めました。上昇感で耳がおかしくなります。

 その間に、薄桃色の長袖ブラウスの胸ポケットから黒い小さな石を取り出し、見習いの魔女は謎めいた呪文を唱えました。
「月の光よ、闇の素よ。夜を透かして見せておくれ。ラエル!」
「え……あ!」
 次の刹那です。レイベルは絶望的な短い悲鳴をあげました。
 ほうきが大きく傾き、二人の身体は左側に倒れかかります。
 ほんの一瞬、温かい誰かの腕につつみ込まれる感覚がありましたが――景色はゆがんでレイベルは意識を失いました。


 10月 6日− 


[小休止]

「ミラー、今夜はどうする?」
 ――問うたのは、長い黒髪の女性、聖術師のシーラである。
「今から出れば、次の町に着けるんじゃない?」
 小さな村の入口に佇む二人の上から、やや傾いた陽の光が照らしている。隣に立っていた魔術師のミラーは返事をした。
「……うーん。ここにもう一泊するのはどうかな?」
「えー、この村に?」
 いつもと違う反応に驚いたのはシーラだ。驚いて聞き返す。

 透明な秋の風が通り過ぎる。ミラーの答えは単純だった。
「たまには立ち止まるのもいいんじゃないかな?」
「そうかー……そうね。ずいぶん歩いてきたものね」
 道は、シーラたちの前にも後ろにも遙かに長く続いている。

 そして二人は村に一泊し、のんびりと疲れを癒したのだった。
 


(1200回達成。数日間、お休みさせて頂きます)
 
日光「龍頭の瀧」の紅葉(10/4)


 10月 3日− 


ルデリア世界 - 衣食住(2) 大陸中西部の暮らし]

(前回)

 大陸中西部のメラロール王国は夏が冷涼で冬は温暖と、非常に過ごしやすい。王国の海の玄関口であるラブールは、その名もラブール河の河口にある港町で、古くから貿易で栄えてきた。穏やかな波の漂う港湾には大型の船がひしめいている。
 この地域では、冬になれば雪は積もるが、冷え込みはそれほどでもない。商人や職人の居住する下町は、黄土色や薄緑色に塗られた瀟洒な家々が立ち並んでいる。火事が起これば大変な騒ぎになるため、地区ごとに消防団が組織されている。
 古の時代より、遙か長い刻を重ねてきた歴史的建造物――神殿など――は石造りのものが多く、市庁舎を始めとする公的な建物や港湾地区の倉庫は煉瓦造りのものが目立っている。

 服装の趣味は、流行の発信地の一つであるメラロール市に近いため全体的に洗練されているが、それでもラブール町は庶民の都市であり、服やちょっとした飾りからは質実剛健でこざっぱりした印象を受ける。綿を中心とした肌着やズボンが出回り、職人の革靴が売られ――冬になれば毛皮のコートも登場する。

 食べ物は、西海の新鮮な魚介類やラブール河の川魚料理は言わずもがな、穀倉地帯でもあるため小麦や大麦の値段が安く、主食のパン屋が盛んだ。南部のオニスニ町の辺りはやや乾燥気味で、小麦やとうもろこし、芋の畑に混じって葡萄やオリーブも栽培されており、それらの品物もラブールに集まってくる。
 飲み物は紅茶が老若男女の支持を得、老舗のカフェが建ち並ぶのはメラロール市と同じ傾向である。紅茶は多様な種類があるが、南国伝来のココア茶(コーヒー)はあまり飲まれない。
 アルコール類では、麦酒と葡萄酒が人気を二分している。

 野菜は豊かで、肉やソーセージ、チーズも人気がある。ラブール町の南部や東部には農村地帯が広がっており、牧畜も行われている。また、北部のミグリ町の方からは大豆も入ってくる。

(続く?)
 


 10月 2日− 


[雲のかなた、波のはるか(10)]

(前回)

 窓に近づく一歩ごと、視界は――空は劇的に拡がってゆく。まるで息を吹き込んだシャボン玉が大きく膨らむかのように。
「あぁ……」
 まぶしそうに遠くを眺めていたレフキルは立ち止まると、窓に腕を乗せ、感嘆の溜め息をついた。サンゴーンも立ち尽くす。
「すごい、ですの」

 雲の海が大陸だとすれば、その上を蛇行しつつも絶えることなく左から右へと進む透明な謎の流れは河に見える。白く霞む水源を離れ、見えない峻険な谷を駆け下りて激流となった神秘の天河は、横に流れる滝にも見える。轟音の主はそれだった。
 流れは尖塔へ寄り添うように近づき、塔を取り巻いて二、三周の螺旋を描いているようだった。最上層は、二人の少女たちが覗いている窓のすぐ下を横切り、尖塔の頂上を目指して勾配を駈けている。しだいに離れてゆく河の行き先――空の海――は、二人が居る窓からは死角になっており、眼で追うことは出来ない。不思議なことに、水しぶきがかかるほどの近さであるのにも関わらず、決して塔の壁に奔流がぶつかることはない。
 どこまでも続く低い灰色の雲と、それを縫って走る空の河、塔を取り巻いて登る激流、そして青空。まさに別天地であった。

 風が一時的に収束へ向かうと、サンゴーンの月光色の前髪はさらりとこぼれ落ちた。一方、レフキルは嗅覚を研ぎ澄ます。
「……潮の香りだ」
 青空から降り注ぐ明るい光に照らし出された雲の河は、海とほとんど同じ匂いがしている。どうやら今日の全ての奇妙な出来事の原因は、この巨大で透明な流れに帰結しているようだ。
「低すぎる雲さえ、あの河を隠すために現れたみたいですの」
 サンゴーンが耳元でささやくと、レフキルはすぐに同意した。
「うん、あたしもそう思う」


 10月 1日− 


[清らかな刻]

 森羅万象が丸みを帯びて穏やかになる

 水面は澄み渡り、陽の光はゆらぎ、星影はやさしく

 十番目の月は子を孕む母に似た豊穣を司り

 涼風の刻印は魂の岸辺まで深く沁みる

 道行く人も、街路樹もしだいに服装が替わって

 そのものが〈そのもの自身〉に近づける、清らかな刻
 






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