2004年 1月

 
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2004年 1月の幻想断片です。

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  1月31日− 


[卒業式]

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 生まれるもの

 去りゆくもの

 未来に希望を託し

 過去の労をねぎらう

 彼らはみな、例外なく美しい

 それが、どんなに薄汚れていても



 だが、去りゆく彼らにも

 目立たない日々があった

 数えきれぬ、日常の積み重ねがあった



 もう誰も戻らない

 戻れない、戻って来られない

 淋しさと感謝と、清々しさの入り混じる

 それは まさに卒業式



 僕は思った

 いつの日か、彼らのように――

 最後の最後の卒業式は

 誰にでも訪れるのだから


〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

惜別・桜木町駅
 


 幻想断片四周年 

 2000. 1.31.〜2004. 1.30. 

  掲載 :329日 + 969日= 1298日(88.8%)
  休載 : 36日 + 127日= 163日

 期間計:365日 + 1096日= 1461日


  1月30日− 


[時の河原で(3)]

(前回)

「うーん、そうかも知れないけど……」
 シーラは肯定とも否定とも受け取れる、曖昧な返事をした。
「けど?」
 聞き役となったミラーは相づちを打ち、先を促す。するとシーラは、寒さと長旅でこわばった口元を、冬の雲間から降り注ぐ淡い光のごとく、わずかにゆるめる。そして遙か遠くに置いてきた少女時代とは異なる、大人びた微笑みを浮かべるのだった。
「その台詞は、ミラーには合わないわよ……ふふ」

 言い終える間際に、後ろから相手の背中の荷物を軽く押す。彼女としては、猫がじゃれるのと同じような感覚だったのだが。
「おっと」
 予期せず突き出されたミラーは、背中の荷物のバランスが悪く、前につんのめった。何とか踏みとどまろうとするのだが、支えきれず、倒れそうになってしまった。彼は反射的に足を出す。
「おわっ」
 そのまま前のめりの姿勢で、ミラーは走り出す。川沿いの土手の道を踏み外さないよう下を見ながら、荷物の重みの力を借りて走るのは、気分転換にもなるし、思ったより楽な気がした。
「こりゃいいな。シーラ、先に行ってるよー」
 飄々と答え、ミラーがさらに速度を上げたとたん――。
「あ、ミラー、危ない!」
 静寂の脇街道に、シーラの甲高い叫び声が響くのであった。


  1月29日△ 


[時の河原で(2)]

(前回)

「河が不思議? 確かにね……」
 ミラーがつぶやく。彼の白い吐息は拡がり、かすんでいった。

 河の両側はうっそうとした森だが、植生的には北方の針葉樹林とは異なっている。大河ガルアの支流、ゼム河の中流は曲がりくねり、見通しはあまり良くない。鳥の視点で眺めれば、森に刻まれた荒々しい龍のごとき川の流れを見下ろせるだろう。
 中流といえども支流であるため、それほど川幅は広くはないが、清らかで水量も勢いもある。ただし、喉を潤したり顔を洗うために川原へ降りて手を浸せば、水は凍り付くほどに冷たい。

 河に沿った脇海道を進むぶんには、道に迷うこともない。川幅が狭まり、自然堤防が消えると、道は崖の上の高いところを張りつくように進む。そういう場所では、旅人たちの口数は減る。
 今はほとんど平坦で、歩きやすかった。突然出てくるかも知れない獣に注意する必要はあるが、獰猛な生き物はあらかた冬眠しているはずなので、緊張を維持する必要はなかった。両足を規則的に動かしながら、シーラは冷えた頬を動かして語る。
「水が流れてるんだから、河は変わってるはずだし、確かに変わってるんだけど……でも全体的には驚くほど変わってない」

 二人はこのままガルア河に出て、船でセンティリーバ町まで下り、短期の仕事を見つけて冬を越すことに決めていた。まれにこの辺りでも大雪が降ることもあるし、リスクは大きかった。

「変わりゆくもの、変わらないもの」
 そう言って、ミラーは斜め後ろを振り返る。
「それはきっと、僕らだって、似てるんじゃないのかな?」


  1月28日− 


[時の河原で(1)]

「河って、不思議よね……」
 シーラが言った。声が消えると、後に残った音は下草を踏む二人の靴音、森を鳴らす風の音、そして河のせせらぎだけだ。
 森と河との境目に細く長く続いている、川面を見下ろす細い脇街道を歩いているのは、若い男女の旅人である。長い黒髪と彫りの深い顔が特徴的な女性聖術師のシーラと、やや痩せている魔術師のミラーだ。ともに二十代半ばで、どこか神秘的な雰囲気を漂わせている――黒髪族で魔法を扱える者は少ない。

 空には雲がどんよりと立ちこめていたが、色は薄く、今のところ雨や雪の降り出す気配はなかった。ルデリア大陸の東部、どちらかといえば北の方に位置するポシミア連邦のキルタニア州では、雪の降った形跡は確かにあるが、ほとんど乾いていた。
 それよりも空っ風の冷たさが身に応える。シーラは毛皮のコートを羽織り、ミラーは黒い上着に身をつつんでいたが、心までもしんしんと染み渡ってくる。河は水の通り道であるのと同時に、物流の動脈でもあり、その上空は風の通り道でもあるのだ。

 二人はさらに北国からやってきたので、風に耐え、腕組みしつつ歩いていった。荷物をしょった背中はうっすらと汗ばむほどで、風さえ吹かなければ歩いている最中はそれほど寒くない。
 もともと人口の多くないキルタニア州の北部、国境のガルア河もさほど遠くない辺境である。中規模の山脈の裏側に当たるため、この辺りの冬はやや乾燥しており、気温は低くても雨雪はあまり降らない。降っても粒が細かいので積もりにくい。二人の旅人にとっては、雪が積もっていないだけでも、すばらしいと思えてくる。雪に閉ざされる北方では、移動の自由がほとんど失われるからだ。薄茶色の大きな鳥が翼を広げ、聞き覚えのない低くて不気味な鳴き声を上げながら灰色の空を滑っていた。


  1月27日− 


[目]

「日々、同じ時間、いつも違う場所で。
 日々、同じ風景、されど違う風景を。

 日ごと、全く同じ時間を移動しながら……。
 世界の暮らしぶりを眺めるのは、なかなか面白いですよ。
 雲に遮られて、見えない場所もありますが。

 赤い充血した一つ目で、見るんです。
 朝早くて眠いから、充血しているわけで。
 まあ、あっしにとっては、常に夜明けしかないけれど。

 二十四時間で一回り。
 次の日も、ほとんど同じ場所をめぐる。
 だのに、風景はそれぞれに異なっているんです。

 あと数十億年は飽きないんじゃないかな……。
 地上が滅亡して、つまらなくなるのは、御免被りたいね。

 あっし? あっしは、日の出と申します」
 


  1月26日− 


[雪の花園(12)]

(前回)

「見守ってくれてありがとう、って言ってたわ。それから……」
 今度はうって変わって、母の口調は滑らかだった。シルキアは出窓に片手をつき、大事な話を一言も聞き漏らさぬように、じっと耳を傾けている。忘れていた暖炉の炎がパチンと弾けた。
「私たちの人形……人形? を置いていくって」
 母は自分で説明しているのにも関わらず、口調は明らかに半信半疑だった。体験したと思っている出来事に戸惑っている。
「私、編み物をしながら、うつらうつらして、夢を見ていたのかしら……現実とは思えないわ。でも鉢植えはあるし、不思議ね」
 地元の木で作られた古い揺り椅子に腰掛けたまま、やや伸び上がって、母は出窓の方に視線を送った。そのまなざしは、何か目に見えない大きなものを尊敬するかのように、穏やかな光をたたえていて――そして、それはファルナも同様だった。
「ほんと、不思議なのだっ」

 寒さで縮こまっていた身体も心も、ゆるやかに溶けて広がってゆく暖かな家の中で、シルキアはしだいに眠気を覚えていた。ぼんやりしてくる意識を集め、ふと、素朴な疑問を投げかける。
「私たちの人形、って何だろうね。お花の鉢植えなのに」
 その間にも、まぶたは重く垂れ下がり、耳も遠くなってくる。

「ファルナには……」
 窓の方を見て、物思いにふけっている母に代わり、口を開いたのは姉だった。ファルナも想いを馳せて、まどろんだ瞳をしていたが、言葉はとても温かい音符となって酒場に解けてゆく。
「何となく分かったような気がするのだっ」
「え?」
 壁により掛かって聞き返したシルキアの左肩に右手を乗せ、ファルナはいたずらっぽく微笑いながら、ささやき声で語った。
「お花のお人形だったら、きっと〈造花〉だと思いますよん」
「造花ぁ?」
 いつもしゃんとしているシルキアの声は、今や、のんびり屋の姉よりも間延びして聞こえた。暖かさもさることながら、つかみどころのない夢のような話が、眠気を育てたのだろう。さっきまでの雪遊びの方が、よほど現実的に感じられる、避暑地の冬だ。外では久しぶりに光を浴びた氷柱が溶け始めている頃だろう。
「ごめん。ちょっと上でお昼寝してくるよ……ふぁーあ」
 シルキアは手で口を抑え、大あくびしながら出ていった。ファルナは送っていこうかと動きかけたが、シルキアが手を振ったので再び窓際に戻り、例の鉢植えを間近に見下ろしていた。

 鼻を近づけたファルナは、微かな香りを確かにかぎ分けた。
「造花にしては、そっくりすぎ……」
「でもこれで、サミス村の〈お花の手〉が、またつながるのね」
 母がつぶやく。村では、色々な季節に花が咲き、次々と移り変わってゆくことを、村では〈お花の手がつながる〉と表現している。長く居座る厳しい冬の間、つながった花の手が離れてしまうのはどうしようもなかったが、やはり寂しいことでもあった。
 だが、今ここに酒場の窓際で花開いた枯れない山吹色の花は、白銀の〈雪の花園〉ばかり見慣れていた人々を励まし、新鮮な気持ちと春への希望をいっそう灯らせるのに充分だった。

「春になって、百花繚乱になれば、冬の花はひっそりと枯れてゆく。だけど、彼女たちの想いは、ここに〈人形〉として残るわ」
 誰に言うわけでもなく、母は思うままを言葉に代えて表現した。冬でも元気いっぱいの、別の二輪の花を思い浮かべて。
「また思い出してね、って言ってる気がしますよん」
 ファルナの吐息が、小さな山吹色の花びらを揺らしていた。

(おわり)
 


  1月25日− 


[雪の花園(11)]

(前回)

「それ? その花? もらったのよ」
 母は編み物の手を休め、顔を上げて言った。返事を聞くのも待ち遠しい様子のシルキアは、鋭い声で矢継ぎ早に訊ねる。
「誰に?」
「どうしたの、シルキア」
 次女の焦りを落ち着けるように、母はゆっくりと首をかしげた。その頃にはファルナも、ようやく窓際の異変に気づいていた。
「あれ……」

 待ちきれなかったシルキアはカップを置いて立ち上がり、開放的に大きく拡がっている出窓に向かって歩いていった。窓は二重になっていて、結露を防ぎ、外からの寒さを防いでくれる。
「やっぱり、そっくりだ」
 見下ろしたシルキアはうつむきがちに、沈んだ声を発した。
「誰なの、お母さん。お花を抜いた人!」
 振り向きざまに母を問いつめたシルキアは、最初は沈んだ口調だったが、話すうちに怒りが込み上げてきたようで、華奢な肩は小刻みに震え、琥珀色の瞳は強い意志の光を湛えていた。

 窓際に飾られていたのは小さな鉢植えだった。暖炉からの風を受けて音もなく揺れていたのは、さっき雪の森の大きなトドマツの下で見た山吹色の花にそっくりだった。しかも二輪あり、寄り添うようにひっそりと、だが確かに咲いている姿も似ている。

「あらあら。分かった、説明するわ」
 母が答えると、シルキアはやり場のない憤りを無理矢理に胸の中へ押し込み、視線を再び出窓の鉢植えに戻すのだった。
「さっきのお花なの?」
 いつも通りののんびりした声を発し、妹とは対照的にゆっくりと腰を上げたファルナだったが、シルキアの横から鉢植えを覗き込むと、すっとんきょうな声をあげて、素早く瞬きを繰り返した。
「ありゃ」
「そういえば……誰だったかしら」
 真相を知っているはずの母までが、なぜか首をかしげている。シルキアは拍子抜けして肩の力を抜き、大きな溜め息をつく。
「お母さん、どうしたの〜。覚えてないの?」

「うーん」
 編み途中の〈何か〉を膝に載せた母は、しばらく腕組みして記憶の糸をたぐり寄せていたが、戸惑いがちに言葉を紡ぎ出す。
「そういえば、村の子じゃなかったかも知れないわ。村の子供だったら、みんな知っているはずだもの。女の子が二人で……」
「女の子が二人? どんな子だった?」
 興味を示したシルキアは身を乗り出して訊ねた。母は返事しようとしたが、どう伝えたらいいのか、心底困っている様子だ。
「それがね、不思議なことに、いくら考えても顔が思い出せないの。その子たちが良く似ていたことは、覚えているんだけどね」
「その二人は、何て言ってたのだ?」
 母に助け船を出したのは、黙って花を見つめていたファルナだった。鋭い直感で何かを察知したのだろう、口調は普段とほとんど変わらなかったが、その奥に静かな自信がこもっていた。


  1月24日− 


[雪の花園(10)]

(前回)

 お気に入りのカップをかしげると、湯気とともに温かい紅茶が流れ込んでくる。夏場に〈すずらん亭〉へ泊まった貴族が置いていった、高級な茶葉の名残だ。香ばしさが、宿の一階に作られた酒場の隅々までを充たし、空気までをも優雅に変えていた。
 舌の上で転がし、ぬるくしてから飲み込めば、猫のように喉が鳴った。やや遅れて、胃の奥深くに春の渦が染み渡ってゆく。
 雪が溶けた水は手袋に染み込み、長靴の中にも入り込んでいた。冷え切っていた手足は、部屋の暖かさでしびれていた。
「ふぅ〜」
 思わず安らぎのため息を洩らしたファルナは、まぶたも目尻も寝る前のようにトロンと落ちて、くつろいだ表情になっていた。
「寒かったでしょう」
 暖炉の前で編み物をしていた母が近くのテーブルに移動してきていた。酒造りに精を出しているのか、父の姿は見えない。
「うん。でも、そんなでもなかったよ」
 他方、シルキアの顔つきはさっぱりして活気があった。頬が赤く染まり、山奥の十四歳の村娘らしく素朴で愛らしかった。

 重いコートも〈かんじき〉も玄関に脱いで、室内用の靴と服に装いを改めたファルナとシルキアは、肩も足も楽そうだった。
 避暑地の冬は、子供たちにとっては家の仕事を手伝う必要がほとんどなくなるし、それなりに楽しさもあるが――何よりも〈けだるさ〉が先行している。いつも暖炉の炎が燃えはぜる不規則な音が響く。外と内は、まるきり別の世界のような気がする。

 ふと窓際に視線を流した妹の表情が、一瞬にして凍りつく。
「ん?」
 不思議そうに、ファルナは首をかしげた。他方、妹は姉の顔をまじまじと見つめてから、真剣な口調で母に訊ねるのだった。
「お母さん、これ……どうしたの?」


  1月23日− 


 ほォら、夜のカーテン、ちゃんと引きなよ。
 夕暮れの灯りが、まだ洩れてるから……。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

夜のカーテンに月の模様
 


  1月22日○ 


[最後のボタン]

 俺は椅子にふんぞり返り、モニターを凝視していた。
 次々に映像を切り替える。

 ――なんだこりゃ。
 どこを見ても、本当に、くだらねえ奴らばかりだな!
 あんな奴ら、俺に消されて当然の資格があるだろう。

 そう。奴らの命運は、この俺が握ってる。
 俺が心を決め、最後のボタンを押せば――。
 奴らなんか一瞬で消えちまう。跡形もなく。
 もちろん俺には何の被害もないという寸法だ。

 俺は今日、機嫌が悪い。
 やつらの存在は、もはや風前の灯火だ。

 最後のボタンに指を乗せ、しばらく弄んでから――。
 絶妙のタイミング、すんでの所で指を離す。

 モニターには引き続き、奴らの映像が映し出されている。
 やつらは何も知らず、街を歩いたりサッカーしたりしている。
 何やら難しい議論をしてる奴ら。客で埋まった演奏会場。

 消しちまうか――どうするか。
 指を最後のボタンの突起に乗せたまま、悶々と悩む。
 非情な俺だって、ちょっとは後ろ髪を引かれるんだよな。

 だが、もういい。お遊びはここまでだ。
 せいぜい、消える瞬間まで、楽しむことだな。
 ついに奴らを消し去ることを、俺は決定したんだ。

 消えろ、消え失せろ、みんなまとめて消えちまえ。

「……消えろ!」

 俺は低い声で叫んだ。
 最後のボタンに力を込める。ボタンがへこんでいく。
 次の刹那、モニターの映像は途切れた――。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「何が消えろ、よ。くだらない。早く寝なさい」
 母親がぶつくさ言った――俺からリモコンを取りあげて。
 


  1月21日− 


[今日はいっしょに(2)]

(前回)

「一時間目は授業ないけど、自習しようと思ってんだ」
 あたしは正直に答えた。お姉ちゃんは拍子抜けした感じだ。
「なんだ、まだまだ遅くても良かったわけね」
 お姉ちゃんはちょっと不満そうだ。そしてぽつりとつぶやく。
「なんなら、もっと寝てれば良かったわ」
「ごめんね」
 空気と足取りが、微妙に重くなる。さっきまでは聞こえなかった足音が響き始める。それからしばらく無言で歩いた。あたしは本当に、お姉ちゃんに申し訳ないなと思っていた。無表情を装ったお姉ちゃんの横顔を覗き込んでも、許してくれたのかどうか、真意は分からなかった。いろんなことを話したかったけど、きっかけもつかめない。あたしはもどかしく思って、空をあおいだ。

 照葉樹の葉はあたしの髪の毛みたいな明るい緑に光り、小鳥たちが枝から枝へ身軽に飛び移りながら唄っている。だいたい西の方角へ向かって歩いてるから、陽のあたる背中が暖かい。歴史の重みを感じさせる石畳に、二本の影が映っている。
 ゆるい曲がり道の途中になじみのお菓子屋さんが見えたが、まだ開いていない。準備中という木の札が、入り口のドアに掛けられている。あたしはお姉ちゃんとお喋りしたかったから、お店を指さして、いつもよりもほんのちょっとだけ早口で言った。

「ここのお菓子、ほら、よく買ってくる……」
「知ってるわよ」
 お姉ちゃんは面倒くさそうに言って、後ろ髪をちょっと掻いた。
 


  1月20日− 


[今日はいっしょに(1)]

 まだ、あたしが学院に通っていた頃のお話。
 季節は秋で、新学期――九月末だったと思う。

 あたしは朝食を作り、朝日のあたる部屋で一人で食べて、後片づけをした。船長のお父さんは航海に出ていたので、あたしが食事担当だった。片づけが終わるころ、薄紫色の長い髪を寝癖でくしゃくしゃにして、お姉ちゃんが寝ぼけ眼で降りてきた。朝に弱いお姉ちゃんを起こすのは食事当番より大変だけど、その朝は割とすんなり起きてきてくれた。あたしは声をかけた。
「おはよー」
「……」
 無造作に椅子を引いて腰を落とし、ややうつむきがちに温かいカカオ茶を前に呆然としているお姉ちゃんは、ほとんど顔を動かさず、あたしの方を一瞥して力なくうなずいた。朝は猛烈に不機嫌で、普段はパンと野菜を少し食べて、あたしよりもずいぶん遅く出かける。町内の同じ学院に通っているけど、お姉ちゃんとあたしは学科が違うし、学年も違うから始業時間は合わない。
 あたしはもう着替えも済んでるから、あとはちょっと髪を直せば、いつでも出かけられる。あたしの薄緑色の髪はお姉ちゃんみたいに長くないし、髪型のこだわりもないから、すぐに準備は終わるはずだ。井戸水ですすいだ食器を裏返し、ふと考える。
(あのこと、忘れてるだろうな……お姉ちゃん)

 少しゆっくりめに、くしで髪をすいていたあたしは、近づいてくるお姉ちゃんの顔を鏡の中に見た。瞳はさっきより開いてる。
「時間ないの? 近道教えて欲しいんでしょ?」
 こう言う時、聞き返してはだめ。野暮なあたしだって分かる。
「まだ大丈夫だよ」
 嬉しさに声がうわずった。きっとお姉ちゃんにも、あたしの気持ちはバレちゃったはずだけど、お姉ちゃんは知らんぷりして立ってる。だからあたしも余計なことは言わず、清潔さが感じられるように髪を下ろし終えると、すぐさま大急ぎで鏡の前を開ける。
「終わったよ!」
 お姉ちゃんは何も言わずに近づいてきて、あたしと入れ替わる。立ち去ろうとしたあたしに、素っ気なく声をかけてくれる。
「もうちょい待ってちょうだい」
「うん」
 あたしは前を向いたまま、頬が緩んでくるのを抑えることができなかった。だって、お姉ちゃんと一緒に通学できるなんて、ほんと久しぶりだったんだもん。それに、ゆうべの話をちゃんと覚えてくれてたのも嬉しかった。やっぱりお姉ちゃんだって思う。
 二階の部屋に上がって、鞄を居間に下ろして、お姉ちゃんの食べた後の食器を軽くすすいだ。お姉ちゃんはほとんど食事に手を着けてなかった。あんまり食べてもらえなくて残念だけど、眠かったのかな、とか、調子が悪いのかな、とか――あたしの通学時間に合わせてくれようとしてるのかな、って、色々と考えちゃった。考え過ぎかなと思って、まぶしい朝の光に目を凝らしてみる。小鳥たちの歌が聞こえ、かすかな潮風も薫っていた。

 鞄の中身を三回ばかり見直し終えると、準備の終わったお姉ちゃんがドアから顔を出した。まだ微妙に髪のおかしいところがあるけど、断念したみたい。すらりと背が高くて、膝下の制服のスカートが良く似合ってる。お姉ちゃん自身は、スカートよりもズボンが好きって言うけれど。ズボンだと足の長さが良く分かる。
「あんた、そんなにのんびりしてて、間に合うわけ?」
 ちょっときつめの目を細めて、お姉ちゃんは問うた。あたしが答えを言う前に、ドアを閉めて歩き出しちゃうから、あたしは鞄を持ち上げて小走りする。玄関の辺りで追いついて、外に出る。
「さあ、行くわよ」
 お姉ちゃんの声はちょっと弾んでた。あたしの半歩前を歩いてるから、表情は見えない。頭一つ分くらい背が違うし、歩幅も違うから、追いつくのは大変だ。あたしはついつい早足になる。
「待ってよ、お姉ちゃーん」
「もう、しょうがないわねぇ……」
 お姉ちゃんは速度を落としてくれた。それからあたしたちは並んで歩いた。涼しい朝の空気の底を、初秋の風とともに――。


  1月19日− 


[冬の交通 〜ラーヌ地域〜]

 メラロール市は湾の奥にある港町で、ラーヌ河の河口にある。ルデリア大陸の中西部のやや北側に位置するが、暖流の影響を受けているため、また平野部であるため、冬場の雪はそれほど多くない。港は不凍港で、常に多数の貿易船が行き来する。
 流れが緩やかで川幅の広いラーヌ河も、夏場以上に重要な幹線となる。メラロール市を中心とするラーヌ地域には幾つかの主要都市があるが、ラブール町は海上から行き来できるし、セラーヌ町はラーヌ河を遡れば着く。陸上交通が雪で寸断されても主要都市が陸の孤島にならないのは、王国の強みである。

 町や街道に積もった雪は、人通りが多いため、ほとんど踏まれて消えてしまう。雪は道の隅に掘られた側溝に捨てられるが、冬が深化すると、うずたかく積み重なる。市街地での除雪は、基本的には各自が家や店の前を責任持って雪かきする。
 まれにドカ雪が降ると、市街地はともかく、郊外の街道が寸断される。海が荒れない限り船の離発着は可能なので貿易には困らないが、近場の物資や人の移動に支障を来す。遂に騎士団や兵団が投入され、手作業での雪かき作戦が展開される。

 メラロール市の場合、雪が降っている間や積もった後よりも、溶けてきた頃が一番危険だ。海沿いの平野部だが、王宮付近は小高い丘になっているので坂はある。馬車の車輪が滑ったことによる事故が毎年起きているものの、抜本的な対策はない。
 


  1月18日△ 


[雪の花園(9)]

(前回)

「お姉ちゃん、前!」
 突然、シルキアの鋭い指示が飛び、ファルナは前を向いた。
「ふぇ?」
 と、そのとたん、見えない翼で羽ばたいたかのように身体がフワリと浮き上がった。新雪の表面を削って疾走してきた、銀の大海原をゆく小舟――そりの音が消え、見晴らしが良くなる。
「ひゃあ!」
「ひゃっほー」
 姉と妹の良く似た悲鳴が重なり、サミス地区の盆地に響く。
 大地から離れるという不安定さを味わった次の刹那には、早くも落ちてゆく感覚が始まる。瞬きするたびに、ゆっくりと確実に近づいて、ついに着地の衝撃が走った。ひときわ雪煙が舞う。
 顔にぶつかる雪の粉は鼻の内側にまで入ってきたし、頬は凍りつくほどに冷たいが、遊びに夢中であまり気にならなかった。
「小さな、コブを飛び越えたんだよ」
 正面を向いたまま説明したシルキアは、徐々に身体を傾け、重心を左側に寄せていく。ファルナはそりのふちをつかんだまま、少しだけ腰を浮かせ、やはり左側に体重をかけた――スキーと同じ原理だ。林を抜ける道は緩やかに右へ曲がっている。
「わぁー!」
 姉妹の歓びの声が重なった。視界が開けて、大きな瞳に白と青が映る。大地と、冴え渡った冬の空がぐんぐん拡がってくる。
 最後の急な坂を一息に下れば、銀色に塗り替えられた牧草地だ。開拓のために木が切られた場所で、何かにぶつかる心配もない。もうここはサミス村の入口で、木造の家々も見える。
 シルキアがそりの綱をしっかり引っ張ると、たちまち速度が上がり始めた。仮に転んでも、新雪のじゅうたんが守ってくれる。
 冬場が移動が大変になり、行けなくなる場所が圧倒的に増える。その反面、雪や氷が新しい地面になったことで湖の上だって歩けるし、切り株が埋まっていてもお構いなく、そりは走る。

「おーい!」
 頬を真っ赤にし、村外れで遊んでいた子供たちの集団が、雪合戦の手を休めて姉妹に手を振った。下は五、六歳から、上は十歳くらいまでだ。ファルナやシルキアの年頃になると、みんな家の仕事を手伝うようになるので、なかなか都合が合わない。
「おー!」
 シルキアはそりの綱を握りしめたまま、威勢良く右腕を掲げた。ファルナも満面の笑顔で、大きく片手を降り返すのだった。

 坂は尽きて、村のメインストリートに繋がる道へ出る。体を前後に動かすと、雪がこすれる音を立てて進んでいたそりも、ついに動かなくなってしまう。ファルナは立ち上がり、木のそりをまたいで、久しぶりに地面へ足を下ろす。身体はふらついている。
「雪が重く感じるのだっ」
「止まっちゃった」
 一人分の体重になって軽くなったそりを走らせようと、最後まで身体を揺らしていたシルキアも、やがて諦めて立ち上がる。
 姉妹の実家、宿屋〈すずらん亭〉の、雪を落とすために傾斜が急な赤屋根が見えてきた。そりを引き、二人は歩いていった。


  1月17日− 


[黄昏の海]

 海に続く道から右に折れると、山肌にへばりつくようにして家々が建ち並んでいる。まるで段々畑を思わせる狭い土地に、庶民的な家々が建ち並び、窓からは談笑の声が洩れてくる。
 野良猫だか飼い猫だか分からないが、太った三毛猫が低いブロック塀の上であくびをした。陽はだいぶ傾いてきていた。

 車の通れない細い道は左右に分かれた。右には坂のどん詰まりに家がある。左に行けば短い階段があり、さらに上の階層へと進んでゆく。僕は迷わず左へと舵を取った。
 ますます土地は狭くなり、道は左右に分岐していた。右側はだんだん勾配がきつくなり、先は見えない。どうやらこちらが正解のようだった。潮の香りは消え去り、辺りは山登りの雰囲気を呈してくる。トンビだろうか、時折、哀しげな鳴き声が響いた。

 かなり先の方を、地元のおばさんが二人、馴れた様子で歩いている。坂に差しかかると、家の敷地から黒猫がいる。また猫だ、と思うと、玄関の脇にもう一匹、薄茶のが寝転がっていた。
 立ち話を始めた地元のおばさんに追いつき、追い越す。彼女らの注目が僕に移り、話が一瞬だけ途切れた。こんな所を歩く観光客は滅多にいないのだろう。普通は自家用車で山の反対側の斜面を登るはずだが、僕は電車とバスを乗り継いで来ていた。主要な道路は車で混み合い、バスの時刻は狂っていた。

 坂がしだいに緩やかになり、突然、視界が開けた。下の方の窮屈な家々とは明らかに異なる、天上の高級住宅地だ。一軒一軒の庭が広く、庭だけでも坂の途中の家と同じくらいの敷地面積がありそうだった。猫はおらず、犬を連れた散歩の住人とすれ違った。遮るものが無く、空が近づいている。雲が美しい。
 間もなく、目的の場所を示す案内板を見つける。再び坂が急になったかと思うと、そこが公園の入口だった。僕の前には五人くらいの若者たちが、談笑しながら登っている。知る人ぞ知る名所なのだろう。僕は一歩一歩噛みしめるように登ってゆく。

 左側の傾斜地は芝生になっている。まだ続く登り坂の右手、遙か眼下に、さっき歩いていた海に続く道が俯瞰できた。信じられない高さに驚く。ちょっとした山登りをした気分だ。バブルの頃に立てられたのだろう、辺りの風景に馴染まない異常なリゾート施設群が見え、その向こうに江ノ島が浮かび、背景には白い冠を頂く冬の富士が見える。改めて、富士山の高さに圧倒され、取り出したカメラのシャッターを切る。地元の方なのだろう、通りすがりの初老の男性が、よそ者の僕に声をかけてくれた。
「いい写真を撮ってくださいね」
「ありがとうございます」
 僕は驚いて振り返り、礼を述べた。彼は穏やかな笑みを浮かべて坂を下ってゆく。日帰りの小さな旅とはいえ、旅先の親切、温かな言葉は心に沁みた。冬の寒さが和らいだように思える。

 若干、西の空に雲が出てきたが、空の色と雲の混じり方が美しい。僕は構図を変え、夢中で写真を撮った。さらに坂を上ってゆくと、新たな芝生のベンチに、眼鏡をかけて難しい顔をした老人が座っていた。二本の足の前には三脚と一眼レフのカメラが設置されており、彼の視線の行く先は刻一刻と海に近づいてゆく夕陽だった。富士と江ノ島も遠くたたずむ絶好のポイントだ。
 間近な空を、トンビらしき大きな焦げ茶色の鳥が羽を広げて周回している。郷愁を誘う鳴き声を町に降らせて、一羽から二羽、そしてまた一羽になる。彼らは上昇気流をつかみ、器用に空を滑っていた。こんなに近くでトンビを見たのは今日が初めてだ。
 水色とも青とも言えない、純度の高い〈空色〉に、白いすじ雲が流れている。冬の空が澄んでいる証で、とても好きな色だ。
 トンビと空を映すため、何度も上に向かってシャッターを切る。

 そして道は尽きた。
 黄金の太陽と、夕凪の海上を走る光の筋の街道、暮れかかる空が見え――雑草の群れは、ひっそりと力強く生きていた。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

黄昏の海(2004-01-11)
 


  1月16日− 


[雪の花園(8)]

(前回)

「ひゃっほーっ!」
 シルキアは開放感のあまり、甲高い叫び声を張り上げた。琥珀色の瞳は怖いもの無しに大きく見開かれ、柔らかな頬はスリル混じりの笑顔に弾けていた。喉は素直な気持ちを乗せて声を発し、手袋をはめた右手はしっかりと、そりの綱を握っていた。
「ひゃぁ!」
 妹に前を譲った姉のファルナは、後ろ側で片膝をつき、両手で左右のそりのふちをつかんでいた。慣れていても、ちょっと怖いくらいの速度なので、伏し目がちに周りの様子を眺めている。
 景色の方から、ぐんぐん近づいてくるような錯覚さえ感じる。木が走り、迫り、すれ違い、次の木も迫り、すれ違い、走る――。いつか誰かから聞いた、メラロール城の回廊を思い浮かべた。

 行きはそれほど傾斜がきつくない坂を、時間をかけて登ってきたが、帰りはあっという間に駆け下りる。普段は木こりが材木を村へ転がすのに使う、急な道だ。左右には針葉樹林が拡がっているが、道幅はそこそこあり、しかも見通しの利く緩い曲線が多い。スキーやそり遊びをするには、もってこいの場所だった。
 舞い飛ぶ白い霧、冷たい幕、風のかけら――雪煙に目を細めながらも、南東から降り注ぐ陽の光を照り返して夏よりも明るく映える雪の坂道を、手作りの木のそりは快走する。今夜、お湯で顔を洗えば、日焼け・雪焼け・霜焼けで頬が痛むことだろう。

「ふぇー」
 そりのふちにしがみつき、姿勢を低くしていたファルナは、少し余裕が出てきたのか、ふと後ろを向いた。何度やっても、完全には怖さが抜けないけれど、普段以上に大自然と溶け合える感覚は驚異に満ち、そり遊びをするたび鳥肌が立つのだった。
 そりの走った跡が馬車のわだちのように、長く続いている。伸びてきた雪煙は昼間のほうき星となり、白い尾を引いていた。


  1月15日− 


[雪の花園(7)]

(前回)

「かわいいお花だよね」
 言いながらシルキアが顔を寄せると、吐息がかかり、山吹色の花びらが手を振ってでもいるかのように、かすかに揺れ動く。水を含んだ幹とは明らかに違う、ささやかな甘い香りがする。
「うん」
 ファルナはすぐに小さな冬の植物のとりことなり、夢見るまなざしを花の上にとどめたまま、妹のとなりにそっと腰を下ろす。
 鳴きながら飛び去ってゆく風の高い声は、耳当てをしていると、くぐもって聞こえる。枝先の残雪や溶け始めの水滴が、光の粒となって一斉にこぼれ落ち、空の底、地中の天井を目指す。

 色が弔われた大地で、遠い春を予感させる淑やかな冬の花は、そこだけ鮮やかに浮き出して見えた。周りの木々と比べてしまえば、とても弱く、小さくはかない二輪の花であるが――。
「……」
 それでも間近い場所から、花びらの数をかぞえたり、葉の裏側をめくってみたり、めしべの状態をじっくりと眺めていたシルキアは、決して〈弱々しくはない〉ということに気づき始めていた。
 くきは細いけれども、細すぎることはない。森の中、木々の足下という悪条件――朝だけしか受け取ることのできない、斜めの細い光を浴びて。雪解けの水を吸い、少しずつ育ってきた。
 いくつもの季節を乗り越え、彼女たちなりにしっかりと根を張って、二輪の花は支え合いながら雪晴れの朝に花を開いた。北風が通り過ぎてもくきが揺れるだけで、しっかりと立っている。

「こんな小さいのに、こんな場所で、咲いたのだっ」
 ファルナの声はわずかながら震えていた。滑らかな頬に赤みが射し、胸の前で両手を組む。空気は冷たいけれど、寒ければ寒いほど、おごそかで単純な生命の神秘がはっきりしてくる。
「雪の野原でね……」
 ほとんど無意識のうちに呟きながら、シルキアは軽くまぶたを閉じた。花の姿を心に刻めたと納得できるまで、琥珀色の瞳を何度も開いたり閉じたり、繰り返していた。甘い眼差しで、遠くを見るような視線で眺めていた姉とは、良くも悪くも対照的だ。

 シルキアは〈雪の野原〉という表現を用いた。ところで一面に降り積もった天の贈り物を、純白の花が咲き誇る〈雪の花園〉と見立てれば、二輪の山吹色は最大のアクセントになっている。
 真新しいキャンバスをも思わせる明るい舞台で、二輪の花はひときわ誇らしげに咲き、仲良く支え合いながら輝いていた。
 ファルナとシルキアはふと向き合い、優しく微笑むのだった。


  1月14日○ 


[冬ぞ来たりて]

 良く晴れた朝が続いていた。空は蒼いセロファン、淡いすじ雲は水に溶かしたオブラート、たまに通りかかる飛行機雲はクレヨンで引いた白線だ。同じ日は二度と訪れない、という単純明快な真理――新しい気持ちを持てば、違いが見えてくる。その朝は、西の空に白い下弦の月が浮かび、ちょっと幻想的だった。

 コートの襟を立てて、人々は足早に朝の公園を抜けてゆく。スニーカー履きで、駅に向かう流れと逆の方に歩いていた僕は、ふと立ち止まって噴水を見た。きらりと、何かが光ったからだ。
 反射的に腕時計の針を覗く。少し早く出たので、時間に余裕はある。僕はあっという間に〈その場所〉へ距離を詰めてゆく。

 子供たちが遊びに来るまで深い眠りを貪る噴水の周りは、人工的に作られた小さな池になっており、水が貯まっている。さきほど太陽の光を受けて輝いたのは、池に薄く張った氷だった。
 見下ろしてみれば、風と触れている上の方は確かに凍っているが、奥は水だ。今朝の寒さでは変わりきれなかったらしい。
 今シーズン初めて見た、街の片隅に現れた久しぶりの天然の氷は繊細な硝子となり、蒼く澄んだ空をおぼろげに映した。

 小学生の頃、恐れずに手を突っこんで割ってみた後で、徐々に手袋に水が染みてくる感覚が、今となってはとてつもなく懐かしい。公園にランドセルの姿はなかった。雪や氷や霜柱が都会に出現する日数は明らかに減ったし、小学生の数も減った。

 僕も年を取った。
 噴水に背中を向けて歩き始めた僕の心には、煮え切らない小さな後悔の念がまとわりついてくる。あの頃は、氷をつかんだ後、手の冷たさに後悔した。今は、氷をつかまなかったことに引っかかる自分がいる。世の中には変わらぬものもあるらしい。
 何はともあれ、やはり寒い冬の朝に、年をむやみに重ねた図体の大きな小学生がここにいる――言うまでもなく、僕のこと。

(あの薄い氷を割ると、一緒に、空まで砕けるんじゃないだろうか。そんでもって驚いて、おっかなびっくり、あわてて水を入れて、誤魔化してさ……でも、窓硝子を割れば持ち主にさんざん怒られるが、あの氷ってやつぁ、いくら割ってもタダなんだぜ)

 もう、公園には戻れない時間だ。
 けれども僕の目の前には見慣れた道がある。
 休みの日が来れば、公園で落ち着く暇もあるだろうが――。
 今は進もう、先に行こう。銀色の息を一吹き、吐き出して。

 流線型の新型新幹線が、橋の向こうに遠ざかっていった。
 


  1月13日○ 


[雪の花園(6)]

(前回)

「ほんと?」
 ファルナは琥珀色の瞳を大きく見開き、うわずった歓声をあげた。焼いている途中のケーキのように、どんどん膨らんでくる好奇心を抑えられず、シルキアの肩に手をかけて身を乗り出す。
「しーっ」
 眠っている赤ん坊と同じ部屋にいる時のように、唇に人差し指を当てて歯の間から息を吹き出し、シルキアは顔をしかめた。
 そのまま彼女は注意深く膝を曲げ、腰を落とし、太い木の根に浅く座った。堅くてしっかりした天然の木の椅子だ。ぽつん、と大粒の雫が落ちてきたので少し左側に座り直してから、上半身を前に傾け、小さな炎を守るかのようにそっと両手をかざす。
 その姿勢のまま、首だけを後ろに曲げ、シルキアはささやく。
「ほぅら、お姉ちゃん」

「……」
 妹に促されたファルナはやや冷静さを取り戻し、声を出さずに深くうなずいた。膝に両手をついて重心を低くし、慎重に近づいてゆく――神官が儀式を行うのに似た種類の、静かで力強い尊敬を込めた真面目さを顔に浮かべて。午前の光を浴びたファルナの若い頬、時たま覗く健康な白い歯、艶やかに濡れた唇、栗色の睫毛の先までも、清らかで汚れを知らず、美しかった。

「あっ」
 ファルナの瞳に、久しく見なかった鮮やかな山吹色が飛び込んでくる。瞬時に惹きつけられ、とりこになった。斜めに傾いて降り注ぐ、細くて限りなく優しい森の日溜まりの奥底で――。
 木の根の間に、冬の花が二輪、寄り添うように咲いていた。

「三日前は、まだつぼみだったのに」
 シルキアが感慨深げにつぶやく。偶然、散歩の途中に花のつぼみを見つけた後、おとといと昨日は厳しい吹雪だった。だが、花たちは大きな木の陰でしたたかにやり過ごしたようだった。
「心配しましたよん。でも良かったのだっ」
 真っ白な吐息に熱い想いを乗せたファルナの目頭は、わずかに緩んだ。松の木の枝先に光る水滴たちは、光の唄を奏でる虹の音符となって、夜空の星のようにちらちらと瞬いていた。


  1月12日− 


[雪の花園(5)]

(前回)

「着いた〜」
 シルキアは肩の力を抜いて、白く染まる息を思いきり吐き出した。大した距離ではないけれども、急に吹雪になることもなく目的地に着けて安心する。ファルナはまぶたを閉じ、森の神様に感謝を捧げた。彼女の上着のポケットには、鷲をかたどった彫り物――先祖から伝わる森のお守りが入っている。シルキアも真似をして、いくぶん神妙な面もちになり、帰りの無事を祈った。
「……」

 感受性の豊かなファルナは、尊敬の気持ちを言葉に乗せる。
「いつ見ても、大きいのだっ」
 それは長い長い年月を生きてきたトドマツの木だった。幹に沿って姉妹が二人がかりで腕を伸ばしても、手が届くことはないという太さだ。村の友達と遊ぶ時には木登りだって平気でこなすシルキアでも、このトドマツを始めとする何本かの木には決して登らない。そういう木は必ず静かな威厳や貫禄に充ちていた。
 根は複雑に伸びて、年老いた木の杖代わりとなり、腰を支えている。その木の足下に、雪はほとんど積もっていなかった。ぬかるんだ地面と、しわだらけの松の根があらわになっている。

「行きますよん」
 期待と緊張感が入り混じっている顔つきで、ファルナは半分だけ振り返り、妹に目で合図する。シルキアは無言でうなずき、そりの綱を離す。道は平坦なので、そりが滑り出す心配はない。

 姉妹はおもむろに歩き出した。二人とも真剣な顔つきで、木の幹に沿って半周する。やはりここでも雪解け水は絶えず降り続いている。ファルナはシルキアを先に行かせてやり、自分は後ろから遅れてついてゆく。鼓動が高鳴り、一歩が待ち遠しい。

 それは今の雫と次の雫が落ちる間の、刹那の出来事――。
 シルキアの目が徐々に見開かれ、抑えた歓声が上がった。
「咲いてる! ……お姉ちゃん、咲いてるよ!」


  1月11日− 


[雪の花園(4)]

(前回)

「お姉ちゃん。横から引っ張ろうか?」
 シルキアが声をかけると、姉のファルナは喜んで返事をした。
「助かるのだっ」
 重いそりを引いて坂を上ってきたから、内心、そろそろ代わって欲しいと思っていた。代わらぬまでも、手伝ってもらえば楽になる。かんじきを履いた足で後ろから押すのは難しいから、妹はそりの横に立ち、ふちをつかんで前に引っ張ると申し出た。
「もう少しの辛抱で、帰りは楽……」
 自分自身に言い聞かせるようにして呟いたファルナは、疲れてきた腕に力を込めた。確かにそりはいくぶん軽くなっている。

 だが、その状況は長続きしなかった。不思議なことに、そりは急に元の重みを取り戻したかと重うと、今度はさらに重くなったのだ。森の中は緩い登り坂か平坦な道なので引っ張れないことはないが、ファルナは琥珀色の瞳を白黒させてとまどった。
「むむむっ、重いのだっ」
 雪解け水と光が交錯する幻想的な風景も、もはや気休めにならないほど余裕が無くなってくる。疲れたからだろうか、と思ったファルナは、そり引きの役を妹に代わってもらおうと振り返る。
「あ……」
 ファルナの顔はあ然として固まり、開いた口がふさがらない。そりを引く綱を手袋の右手から離し、思わず立ちつくしていた。
「お姉ちゃん、気づくの遅いよ〜」
 いたずらっぽく、少し後ろめたそうに、はにかんだ微笑んでいる妹のシルキアは、そりの上にちゃっかり乗っていた。姉のファルナは怒るよりもあきれて、その場にへたり込んでしまった。
「シルキアぁ……」

 今度はシルキアが前に立って、元気にそりを引っ張ってゆく。何か黒い影が素早く動いたので、二人で息をひそめて待つと、やがて向こうの木陰から顔を出したのは山に住む白ウサギだった。ぴぃんと耳を立てた野生の白ウサギは、緊張感に充ちて姉妹を見つめると、次の瞬間に、いずこかへと駆け去っていった。
 姉妹は顔を見合わせ、また歩き出す。それから間もなく、見覚えのあるひときわ大きな松の木の下にたどり着いたのだった。


  1月10日− 


[雪の花園(3)]

(前回)

 冬空がかけた氷の魔法は、ささやかで暖かな木洩れ日が解いてゆく。木々の枝先からこぼれ落ちた雪解けの雫は、白銀の地面に穴を開けてゆく。勤勉な村人のごとく地道に、丹念に。
「今日も妖精のおうち、いっぱいだね」
 手を後ろで組み、シルキアは弾む声で言った。二人は、レンコンにも似た雪の穴を〈妖精のおうち〉と呼んでいる。春の妖精が雪を溶かして水を弾き、不思議なリズムを奏でながら雪に穴を掘っている――そんな気がしていたから。空は晴れ渡っているのに、雪国の森はいつでも、ほど良い湿気に充ちた雨降りだ。
「うん」
 所々に露わになっている、どっしりと張った木の根に気をつけながら、ファルナはそりを引き、少し遅れてついてゆく。それでも森の中があまりにきらびやかなので、ふと立ち止まって視線を上げた。妹と瓜二つの琥珀色の瞳に、背の高い針葉樹の姿が映った。下枝は枯れているが、緑の葉っぱの屋根は健在だ。

 純粋な水と繊細な光が混じり、降り注ぎ、溶け合い、交叉し、また離れ、出逢い、きら星のごとくに輝く。不思議に伸びる木々の細い枝を背景に冬が織りなす、夢や幻よりも美しい舞台だ。
 しかも姉妹が瞬きするたびに、姿を変えてゆく。向こうから次の水滴が落ちたかと思うと、太陽は一本の細い枝を乗り越え、別の隙間から粉々に砕かれた光を散らす。寒ければ寒いほど、より純粋に、より美しく磨かれる、またとない未完成の芸術だ。
 小さい頃から見慣れているはずの冬の景色だが、実物は絵や記憶を遙かに越えていて、新たな魂の震えが湧き起こった。
「はぁ……すごい」
 白い吐息に感銘を乗せて、ファルナは足を休め、しばし見とれた。頭の中がからっぽになり、気持ちはとても穏やかになる。

「お姉ちゃーん」
 ファルナがすっかり景色に魅せられてしまったので、シルキアは両腕を水平に伸ばした姿勢でバランスを取りながら戻ってきた。体重を分散させるため綱が楕円に張られ、新雪にずっしりとはまらぬように底が広くなっている〈かんじき〉での歩き方も馴れたものだ。ただし靴としては重いので、足や足首が疲れる。
 感性豊かな姉のファルナは、光と雫の描く風景にどっぷりと心を溶かし、呆然と眺めている。他方、しっかり者のシルキアはこの景色を心に焼き付けようと意識を持ち、目を凝らすのだった。

 ピョォー、ヒョーオォー。
 北風が吹き、雫の歌は突然の佳境に入った。枝葉が徐々に揺れ始めたかと思うと、あちこちから雪の固まりが落ちてくる。
「ひゃー、顔がさむーい」
 冷え切った空気の踊りに、思わずシルキアは目を閉じた。
 ちょうどその時、頭の帽子の上に雪がドサッと降り積もる。
「きゃあ!」
 シルキアは驚いたが、すぐに頬を膨らませて雪を振り払う。
「もう。ひどいなぁ!」
「あははっ、シルキア、モミの木と同じなのだっ!」
 頭から雪をかぶった妹は、緑の葉が白髪みたいに隠されたモミの木と、確かにどこか似ていた。我に返った姉は笑いを抑えられなかったが、左手を伸ばして妹の雪を落とすのを手伝った。
 だが今度は、ファルナに大きな雪のおみやげが届けられる。
「わあ、お姉ちゃんもモミの木だね!」
「ファルナも同じですよん、はっ、ははっ」
 雪まみれになった姉妹は、しばらく朗らかに笑いあっていた。


  1月 9日− 


[雪の花園(2)]

(前回)

「やっと追いついたのだっ……」
 ファルナは妹よりも髪を伸ばしているため、防寒用の帽子から後ろ髪を垂らしていた。毛糸の帽子の所々に光る小さな宝石のような粒は、森の木々が落とした雪解けの雫で、光を浴びると七色にきらめいていた。そう――あちらこちらの枝は重そうに首を曲げ、溶けてゆく雪の雫を不規則に落とすのだった。森には、その清らかで純粋な天気雨が終わることなく降り続いている。
 白い吐息を吐き出しながら、ファルナはやや放心した面もちで立ちつくしていた。手袋の右手は、太いひもをしっかりと握りしめている。その先には父の手作りの木のそりが縛りつけてあった。見た目は無骨なそりだが、頑丈そうで、二人が充分に乗れるほど大きい。表面は丁寧にヤスリ掛けされ、木目が美しい。

「ふーう」
 ファルナは頬を膨らませ、思いきり息を吐き出した。身体は汗をかいているのに口の中は乾燥している。左手で右手の手袋を脱げば、蒸れた空気が消え失せて気持ちがいい。皿洗いしてあかぎれになった手で、額にうっすらと浮かんだ汗をぬぐった。
 真新しい新雪の上には、集落から始まる緩やかな登り坂を引きずった、そりの跡が残っていた。姉妹で交替しながら運んだが、村と森との境目の最後の急な坂はファルナの担当だった。

「お姉ちゃん、お疲れさまー!」
 呼びかけて手を振るシルキアに、ファルナは微笑みかけた。
「疲れたけど、いい気分ですよんっ」
 素朴な村娘らしく、独特の方言のアクセントで喋ったファルナには天性の人なつこさがある。すぐに妹は元気に言葉を返す。
「ほんと、今日は久しぶりに冴え渡った天気だよね!」
 梢から覗く青空のかけらは、見るだけでも心と身体に力が湧いてくるかのような、混じりけのない澄みきった色をしていた。
「さあ、行こう」
 妹が先頭に立ち、前を向いたまま振り返って、姉を促した。
「うん」
 呼吸を整えたファルナはうなずき――そして二人は歩き始めた。雪の上を歩くのに履いた、かんじきの大きな足跡が一つ二つと増えてゆくが、そのスタンプをそりの軌跡が消していった。


  1月 8日− 


[雪の花園(1)]

「うわぁー、気持ちいい!」
 若くしなやかな両腕を左右に大きく掲げ、心から湧き出るように叫んだのは、山奥のサミス村に住む十四歳――栗色の髪を肩の辺りまで伸ばしたシルキアだ。避暑地の冬は厳しく、寒さから耳まで隠す毛糸の帽子の中に縛った髪をしまい込み、手袋にロングコートにと重装備だ。服装は動きにくそうだが、強い意志の光を放つ琥珀色の瞳は機敏で健康的な印象を与える。時折、世渡り上手な一面も垣間見えるが、それを差し引いたとしても充分に活発で愛らしく、将来の成長が楽しみな少女だ。

 森に入ると、雪の量は目に見えて少なくなった。木々の枝が森の上に手を伸ばして作った緑の屋根は、大地に積もりすぎるのを防いでいる。それぞれが雪化粧して芸術品となり、白樺はきれいなお嬢さん、モミの木は優しい母親、力強いトドマツは父親を思わせる。ちらちらと舞い飛ぶ雪と氷と滴で着飾り、いっそうみずみずしくなった木々は、動物たちが息をひそめて春を待つ白い季節のまっただ中で、生命の神秘に満ちあふれていた。
 渡り鳥は去り、この森に残されたわずかな鳥の啼き声は高らかに寂しげに響いている。青い空よりもはるかに遠く、いくら飛んでもたどり着けない芽生えの春を待ち望むかのようだった。

「ふぉーっ」
 シルキアの斜め後ろで、顔を火照らせたまま立ちすくんでいるのは、彼女の三歳年上の姉――酒場の看板娘のファルナだ。


  1月 7日○ 


[雲の戯れ(3/3)]

(前回)

「ん?」
 ジーナは石畳の坂道を靴の先で蹴りながら歩いていましたが、隣のリュアの声と様子の変化に気づき、天を仰ぎました。
「あっ!」
 目に染みるほど蒼く澄んだ空の高みには、まるで絵筆で描いたかのようなすじ雲が、気持ちよさそうに羽ばたいています。
「お兄さん? きっとテッテお兄さんだ!」
 深い海を思わせる紺瑠璃色の瞳を喜びに広げ、光の道筋みたいな黄金の髪を活発に揺らして大はしゃぎしたのはジーナでした。口を開いて風を飲み、後ろに倒れてしまいそうなほど首を持ち上げると、吹雪のかけらみたいに真っ白な吐息が遙かな雲と混じり合います。どこまでも続いてゆく世界の天井は、冷たい空気にすっかり磨き上げられたガラス窓です。そのままの姿勢で歩くジーナは、少しずつ進む速度が緩やかになっています。
 落ち葉を踏み、右へ左へとフラフラ歩いていた八歳の少女がついに歩みを止めれば、学舎の生徒に抜かされていきます。
 街路樹は道沿いに続き、細かな影が地面に映っていました。

 第一発見者のリュアは困ったように首をかしげ、言いました。
「そうかなぁ、リュアはどっちか分からないな。テッテお兄さんが作ったのか、空が作ったのか……ジーナちゃん、行こうよぉ」
 語尾は自信なさそうに小さくしぼませながら、リュアは呟きました。本来はジーナよりも夢見がちな性格ですし、雲を見たり想いを膨らませたいのは山々なのですが、迫り来る学舎の時間を前にどうにか自制心が働いていました。朝風を受けて繊細な銀色の後ろ髪は砂浜のような音を鳴らし、微かに揺れています。

 退屈な毎日に飽き飽きしているジーナは、青空に模様を描く薄い雲を都合の良い方に解釈して、興奮気味に叫びました。
「学舎なんて行ってる場合じゃないよ! もしかしたらテッテお兄さんが、あたしたちを緊急に呼んでるのかも知れないよね」
 頬に赤みがさしたのは、風が冷たい影響だけでなく、気持ちが高ぶってきた証拠です。特に瞳は大きく見開かれています。

 今にも腕をつかんで走り出しそうなジーナを前に、リュアは腕組みして難しい顔をしました。しばらくの間、期待に覆われたジーナのまなざしと、透明に近い空の雲、そして学舎の塔を見比べていましたが、最後にはごくまっとうな応えを編み出します。
「お兄さんなら、たぶん、こんな時間に雲を流さないと思うよ」

 以前、テッテという青年が放課後にデリシの町へ向け、妙な形の魔法の雲を飛ばしました。それを追った二人はとても不思議な経験をし、今では〈お兄さん〉と言えばテッテのことです。
 リュアは普段よりもいくぶん堂々とした口調で説得しました。
「ジーナちゃん、学舎が終わるまで待ってみようよ。やっぱり同じような雲があればお兄さんだし、なかったら雲の戯れだし」
「ええー、でも……」
 不満げに口を尖らせたジーナでしたが――。

 グゥォーン。
  グゥォーン。

 聞き覚えのある鐘が鳴り始めると、反射的に坂の上に向かって走り出しました。今回は学舎をさぼることについての後ろめたさやためらいもあったのでしょうが、ジーナの行動はいつも突然で予測不能、しかも決めてしまえば迷わずに突き進むのです。
「ま、待ってよぉ!」
 リュアはいつも慌てて追いかける役です。校舎と古めかしい石の門がぐんぐん大きくなります。こうして二人は予鈴が鳴り終わる前に、どうにか遅刻せず学舎の敷地内を歩いていました。

 校舎に入る直前、まだ速いままの心臓を感じ、こめかみの汗を手で拭いながら、ジーナは名残惜しそうに天を仰ぎました。
「待っててよ、雲さん!」
「待っててね……」
 隣のリュアも、弾む息に切なる願いを託すのでした。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 放課後、彼女たちはどんな雲を観るのでしょうか。
 それはまた別の機会に――。

(おわり)
 


  1月 6日○ 


[天音ヶ森の鳥籠(14)]

(前回)

 必死に声を荒げた十九歳のシェリアだったが、それが終えるとともに、見えない〈探りの糸〉を四方八方へ発散させていた。魔術師として長い訓練を積み重ねてきた彼女にとり、精神を研ぎ澄ませて集中力を高めるのはそれほど難しいことではない。
 相手は何も喋らなくなった。それでも〈鳥籠〉の内側で蜘蛛の巣のように張り巡らした魔力の編み物は、目に見えぬ不思議な連中が囁き合いながら相談しているのを、確かに聞きつけた。
 言葉は聞き取れないし、正確な意味は分からないが、雰囲気を感じ取ることはできる。どうやら向こうは困惑しているらしい。
(間違いない、きっと精霊なんだわ。天音ヶ森のね)

 紫の髪と瞳を持つ若く妖艶な女魔術師は少しだけ自信を深め、正体のつかめない相手に悟られぬよう、魂の水底で安堵した。しかし心のさざ波の表面では、ここぞとばかり一つの賭けに出る。相づちを打つ間もないほどの早口で、挑発に出たのだ。
「だいたい〈鳥〉って何なのよ。確かに私、歌と容姿には割と自信あるわよ。でも、この私のどこが鳥に見えるわけ? あんたらの目は節穴なんじゃないの。まあ、姿も見えないんだから、節穴でも仕方ないんでしょ。頭だって、きっと空っぽなのよね!」
 わざと怒りを買うように、いつも以上に身振り手振りを駆使し、暗闇の果てを睨み据える。唾が飛ぶのも気にせず、滑舌良く。

「そんなこと言える立場なの?」
 相変わらずの子供じみた声で、いくぶん鋭く割り込みが入った時、シェリアは〈賭けに勝った〉と秘かに拍手喝采していた。
 だが周到な罠を張ったのは精霊たちだ。さすがに敵は一枚上手であることを、間もなく彼女は思い知る結果となってしまう。
「それに、こんなもの」
 まさに心の琴線と呼ぶにふさわしい、シェリアが張り巡らした魔法の糸が弾かれ、殷々と共鳴する。頭が割れそうに痛む。
 発狂するほどではないが、重いものが頭を抑えつけているかのような鈍い苦しみが襲いかかり、息さえもきつくなってくる。
「ウ……」
 のたうち回れるのならば、まだ楽な気がする。筋肉は石のように固まり、思考は千々に乱された。額に脂汗が浮かんでくる。
 彼女は精神力では全く歯が立たないことを突きつけられた。
「籠ごと、潰しちゃってもいいんだよ」
 子供の声色は、残酷な遊びを楽しむかのように彩られていた。シェリアは辛うじて両手で頭を抱え、耐えるしかなかった。
 言い過ぎたかも知れないが、後悔はしていない。妹にきつい言葉を投げかけて、後から猛烈に反省したりすることもある十九歳の長女だが、今さっきの判断には自信を持っていた。何も反応がないよりは、例え苦痛でも状況は前進していると思う。

「やめなよ。挑発に乗ったら駄目だ」
 他の〈誰か〉の精霊が口出しし、シェリアの呪縛は解ける。急に頭痛がしたり、治ったりと慌ただしいが、本当にそうなのだ。
「はぁ、はぁ……」
 シェリアはしばらく、大きく肩を動かして呼吸を繰り返した。服の背中は冷たい汗でびっしょり濡れている。せっかく張った心の糸は壊れた蜘蛛の巣のようになり、放棄せざるを得なかった。
「何が、望みなの?」
 彼女は赤いズボンの膝を抱え、上目遣いに天井を仰いだ。


  1月 5日◎ 


[睦月]

 終わりと始まりの間は陸続き

 大晦日への秒読みが新たに脈打つ――幕開けの月

 数多の諦めに、一握りの期待と希望が入り混じる

 しばしの眠りはついえた

 時間は止まらないから

 風を掻き分けて走り出すしかないんだ
 






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