2004年 3月

 
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2004年 3月の幻想断片です。

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  3月31日− 


ミラス町からリュフル灯台へ]

「ウーン……」
 硬い獣の毛で作ったブラシの長い柄を両手で握りしめた格好のまま、甲板掃除の手を休め、金の髪を短く刈った背の高い青年は大きな伸びをした。本来は白かったのだが薄汚れてしまった船乗りの服(セイラー服)を着て、青い線の入った襟を立て、濡れた木の甲板に少し足を広げ、しばらく立ち尽くしている。
 白い帆は風を孕み、細かな波のしぶきが跳躍している。ゆうべのやや強い雨には気を揉んだ乗組員たちであったが、今日は気持ちの良い青空が広がっていた。昨日の雨が空気の中の細かい不純物を洗い流してくれたのだろう、天は冬を思い出したかのように青みがかり、風はいくぶん強かった。山脈を越えて吹きすさぶ北からの冷たい風、海を撫でて流れてくる温かい西風に押され、帆船は順調に南西の方角へと航行してゆく。
 まぶしい春の光を浴び、マストの蔭は複雑な模様となって甲板に落ちている。その先には、真っ黒に日焼けした見張りの乗組員がいる。海賊を筆頭に、衝突や座礁といった海の脅威から身を守るために、彼らの視力は鳥ほどに良いとさえ言われる。

 そして彼らは、身近な出来事をも決して見逃さない。
「オイ、新入り! なまけず働けよ!」
 豪快な笑い混じりの声で、上から怒鳴られた甲板掃除の青年は、ひょうきんに手首を回して見張り人に合図するのだった。

 中型船を五隻連ねた隊商の一群は、池に浮かぶ虫の家族のように、南東へと確実に進んでゆく。日焼けした船乗りたちの白い歯、白い帆、白いズボン。深い青緑の海、空の青が映える。夜は、晴れれば満天の星だ。雇い主の商人が眠っている間も、屈強な海の男たちは交替で番をし、急ぎの時は船を進める。

 ミラス町からミニマレス侯国に渡っての海岸線は、ルデリア大陸をほぼ南北に貫く中央山脈が一気に海へ落ちている険しい地形で、陸路は馬車の通行が困難であり、無理をすれば馬を牽いて何とか歩ける程度の厳しい曲がりくねった坂道が連続している。変幻自在の海岸線には、巨大で荘厳な岩が建ち並び――人恋しくなってくると、それが妻の横顔に見えたりもする。
 初めてこの区間に乗った商人たちは、潮風に吹かれながら物珍しい奇岩の群れを眺めるものだが、そのうちに飽きて部屋に戻り、売上金の勘定の続きを始めたりする。たいがいは南ルデリア共和国のモニモニ町を出発し、ミラス町・ポーティル町・リュフル灯台を経由して、ラット連合国のシャワラット町か、その対岸にある神秘と魅惑の古都〈エルヴィール〉を目指す船である。東廻り航路の幹線であるため区間便も多いが、中にはズィートオーブ市からテアラット市という、大陸の西と東の大都市を結んで往復する距離の長い商船団も存在している。険しい中央山脈が南北に縦断しているという特異な地形のため、陸路よりも海路の方が速く、大量かつ確実に、モノやヒトを運べるのだ。

 時折、澄みきった青緑の砂浜が現れる。海鳥の群れが空を旋回していたり、浜に二本足で立って沖の船を見ている。人の姿はほとんどなく、たまに岩場が開けたかと思うと短い平野が現れ、山から流れ出てきた河と、ひなびた漁村が現れる。黒ずんで崩れかけた掘っ建て小屋の脇にワカメを干していたり、塩田を作っている村人たちの姿が遠目にも分かる。経験の長い船乗りの中には、陸(おか)の温泉を知っている者もいて、急ぎの旅でなければ、彼らは上陸をして沖の魚と野菜とを交換したり、温泉に浸かって長旅の汗を流し、地酒で疲れを癒したりする。

 この辺りは、一応の国境は策定されていても実効的な支配は及んでおらず、自給自足の地域となっている。治安はあまり良いとは言えず、備えのない単独の船があれば海賊どもの格好の餌食になるだろう。割と遠浅の海なので、海岸の遠くを走った方が座礁の心配は少ないのだが、大切な積み荷を積んだ商船の多くは陸沿いに航行する。隊商を組み、強靱な肉体と敏捷さを兼ね備えた若い船乗りたちを雇って。それに大枚をはたいても、無事に目的地へたどり着ければ、巨万の富が得られるのだ。だから彼ら商人は、自らの命を賭して海を渡るのである。
 一応は中央山脈の分水嶺が、マホジール帝国の本国とミニマレス公国との境である。ただし同じ国の本国と属領のため、警備はあまり厳しくない。規模は小さいが、れっきとした駐留軍がおり、海賊の取り締まりも行っている。ほうほうの体で海賊に追われた商船も、ここに逃げ込むことが出来れば勝ちである。

 遙かなポーティル町を越え、リュフル灯台に近づけば、海流が絡み合う操舵の難所となる。見渡す限りの原野と寒村――まとまった集落が立ち並んでいるリュフル村はかなり大きな町に見えるほどだ。やがてシャワラットの島影がぼんやり霞んで見えるようになれば、長い船の旅も一つの折り返し地点を迎える。

(おわり)
 


  3月30日− 


[一番あったかい暖炉について(5)]

(前回)

「……んっ」
 リュナンは喉を鳴らした。噛み砕いたパンのかけらを、飲み物無しに何とか飲み込むと、胃の辺りに軽く右手のこぶしを重ねた。苦しかったのだろうか――うっすらと涙を浮かべているが、それでも朝食の礼はきちんと親友のサホに伝えるのだった。
「ごちそうさま」
「お粗末様。じゃあ、少し落ち着いたら、薪を燃やすからサぁ」
 お腹いっぱいという訳にはいかなかったが、当座の食欲が充たされたサホは満足そうに語った。授業が終わって帰宅してから、家業や家事の手伝い、弟たちの面倒で忙しい彼女にとり、食べ物は身体だけでなく心をも満足させてくれる元気の源だ。
「ふーん」
 半信半疑なのだろう、リュナンはあまり気のない返事をした。学院では主に聖術と妖術を専門に勉強し、詩を好み花を愛でる十六歳の少女は、割と素直に物事を受け容れる性格である。
 ところが自分の持病である喘息や、身体の弱さに関する小言や助言には、何故だか無性に反発したくなるのだった。それは両親に対してはもちろん、たとえ親友のサホであっても、その類の反抗心を抑えられない。相手が自分のことを心配してくれているからだと痛いほど分かっていても、なかなか実践する気にはなれないのだ。長年に渡って調子を崩してきた彼女は、丈夫な身体になるという点について――淡い夢を取り越してほとんど諦めていたし、健康に関して斜に構えている部分もあった。

「どいた、どいたー」
「今日の講義、すげー憂鬱なんだよな、俺。だってさ……」
「そうなんさ。最近、あっちの方じゃ大漁続きでよォ」
「ええ。葉が落ちてからは、掃除もだいぶ楽になりましたわ」

 ズィートオーブ市の旧市街は、かつてはロンゼ町と呼ばれていた商業で賑わう由緒のある町だ。たいがいの建物は三階建てで、一階が店になっており、その上が住まいで、倉庫代わりの屋根裏部屋と煙突があった。各地の文化を貿易商が運んできたからか、木造の家、石の家、煉瓦の家と、種類は豊富だ。
 下水口の隙間から洩れてくる嫌な臭いに息を止め、冬の陽光に手をかざす。朝から馬車の行き交っている表通りからしばし離れ、近道となっている短い坂にさしかかると、急に閑散としてサホとリュナンの靴音は高らかに響いた。見上げると空に続いているような小径に、表通りのような並木はないが、道の両脇にささやかな花壇がしつらえられ、春の種が埋められている。
「早く、町が温かくなって欲しいな」
 リュナンは相変わらず寒そうに、首をすぼめて小さく首を振った。防寒具を身につけた姿は重そうで、本当は痩せているのに着膨れし、隣の健康的な赤毛の少女よりも体格が良く見える。

 そのサホはいよいよ話題を引き戻し、一気に核心へと迫る。
「自分の暖炉で、すぐあったかくなるよ。ねむさぁ、本物の暖炉を想像して欲しいんだけど……思い切り燃す時、どーする?」
「……油を注ぐか、風を吹き込むか」
 と、やや不機嫌そうに答えた友達を指さして、サホは叫ぶ。
「そーそー、風。風さァ!」


  3月29日− 


[天音ヶ森の鳥籠(16)]

(前回)

「ふーん」
 わざと興味のない態度を装い、見えない相手へ相づちを打つふりをしながら、シェリアは自慢の薄紫の長い髪を何度も掻き上げ、目まぐるしく頭を回転させ、必死に考えていたのだった。
(村人に思い込ませるなんて、大した魔法だわ。やっぱりあいつら、森の精霊なのね。心を操作する〈幻術〉がすごく得意な)
 彼女は口をつぐみ、次はどう出ようかと知恵を絞る。急に黙ったのが気になったのか、妙な間のあとで、一人が声を発した。
「おしゃべりな鳥だなあ。早く歌を唄ってよ。小鳥なんだから」
「そうそう。少しずつ姿が変わって、尾が伸びて羽が生えて……朝には小鳥になってるよ。夏祭りで毎年唄ってもらってるけど、今年の歌姫はお姉さんってわけだからさぁ、光栄に思いなよ」

「お姉さん、なんて気安く呼ばないで頂戴」
 怒りというよりも、おかしみや呆れを感じて、気楽に応えたシェリアだったが――頭の中で〈お姉ちゃん〉と呼ぶ声が聞こえ、妹のリンローナの心配そうな顔が浮かんでくると、急に頬の辺りが硬くなり、表情が引きつってくるのが分かった。淋しさも募り、夜が来る不安もある。近くにいるはずのケレンスとリンローナは何をしているのだろうか? ルーグには迷惑をかけたくない。
(早く助けに来て……)
 思わず口の奥の方で呟きながら、ふと紫の髪と眼、赤い足の鳥になった自分の姿が脳裏をよぎった。森の涼しい風が、地面に近い場所を通り過ぎ、シェリアは思わず身震いした。本当に寒いと言うよりも、寒気を感じたのだ。鳥肌――シェリアの故郷では〈海の泡〉という――が背中と腕に広がるのが分かる。鳥籠の中は暗くて見えないけれど、それが鳥の肌に似ていたことを思い出し、シェリアは幻影を振り払うために軽く首を振った。

 鳥になること自体はあまり怖くはないし、実を言うと好奇心がないわけでもないのだが、あの我が侭な精霊たちのために唄うのはお断りだ。何より、姿の見えない子供じみた精霊たちに見下されている今の状況が、彼女には不愉快極まりなかった。
「逃げたいかい? ちなみにねぇ、魔法で風を起こしてもいいけど、鳥籠は頑丈だし、お姉ちゃんが吹き飛ばされるよ。壁にぶつかるのかな、天井にぶつかるのかな、それとも地面に……」
 意地の悪い挑発に、今度は本物の怒りが再び押し寄せてきた。十九歳の女魔術師は半ばヤケになって、声を張り上げる。
「じゃあ、私の美声を聞かせてあげてもいいけど、あんたら姿見せてよ。どこに向かって唄えばいいのか分かんないじゃない」


  3月28日○ 


[弔いの契り(29)]

(前回)

「まずい、逃げましょう!」
 闇の中、タックが悲痛な声をあげて素早く立ち上がる。熱くなり、混乱もしていた俺の頭は急速に醒めてゆく。緊急事態に対応するため、全身が反射神経のようになって自然と動き出す。
 俺はとっさの事態に備えられるよう、身を起こしつつも低い姿勢を保った。ほとんど無意識のうちに腰の剣入れを探るが――俺の硬い指先が触れるのは古びたタキシードの生地だけだ。
「畜生!」
 俺は唇を噛む。そういえばダンスパーティーに来る以前、剣は屋敷の部屋に置いてきていた。社交界の戦場であるパーティーで武器を使うことになると考えるやつは、滅多にいねえだろう。

 ところがどっこい、俺らは冒険者だ。人を信用しねえわけじゃないが、自らの身を守るために、最低限の備えは欠かさない。
 俺は筋肉質の両腕に力を込め、勢い良く左右に引っ張った。すぐにタキシードのボタンが吹っ飛び、軽い音とともに黒い地面に散らばる。俺は露わになったシャツの内側に下から手を突っこみ、その内側に鞘ごと張りつけてあった護身用の短いナイフを引っぺがし、抜いた鞘を左手でズボンのポケットに突っこみながら、右手でナイフを構えた。手練れの剣術士が短いナイフとは格好がつかねえが、今は仕方ないよな。無いよりマシだぜ。
 タックのやつも背中を城壁につけたまま、敵の集まり方をつぶさに監視しつつ、脱出路を頭の中で計算し、しかも何やら俺と同じように服の中をまさぐっているのが、満月の明かりの下でぼんやりと見分けられる。イタズラばかりしてたガキの頃から、俺らはともに行動してきた。緊急の際には最も頼れる相棒だ。

 その間にも、数人の追っ手の足音と、やつらが手にしている明かりとが近づいていた。フォルと村人、男爵に対するさっきまでの怒りもすっかり忘れ、俺は獣みたいに冷静に判断する――敵の居場所は丸見えだ、と。気分は緊張し、絶対に失敗しないぞと気を引き締めつつも、何故か心の高揚感を覚えてしまう。
 ランプの光は繰り返し数えても四つだった。勝機はある。気を抜いて失敗しなければ、俺とタックなら、まず切り抜けられる。あの不気味だった望月の、淡い糸のような瞬きの調べも、俺たちの足元を照らしてくれる必要不可欠のな武器の一つになる。
 問題はフォルだ。こいつを人質に取るか、どうするか。

「けほっ」
 俺に胸ぐらを捕まれた後遺症か、まだ咽せていたフォルの肩を左手でひっつかみ、俺はとりあえず相手を立たせた。恐怖のためか、やつは震えている。その様子が、ふと昔のリンを思い出させて、俺の心臓はにわかに苦しくなった。
 果たしてあいつは無事なのか? 頼む、無事でいてくれ!
 俺の集中力が途切れそうになった時だ――作戦を練り上げた幼なじみが的確な指示を出し始めて、俺は何とか我に返った。
「フォルさん。生け贄が集められた場所は?」
「あの、あ……」
 ひるんだフォルに対し、タックは畳みかけるようにして問うた。
「とりあえず右か、左か。どっちです?」
「あ……む、向こうの、たぶん地下の」
 タックは〈もう充分です〉とでも言いたげに、斜めにうなずくと、腕を突き出して掌を開いた。そこに乗っていた幾つかの小さな紙の包みを、主にフォルに見せながら、早口で方針を語った。
「左ですね。ケレンス、フォルさんの手を引いて、走って。まずはギリギリまでおびき寄せて、僕が〈ガミンの目薬〉を投げます。掛け声とともに、三人で左の方へ逃げるんです、いいですね」
 暗いし、掌の白い包み紙はほとんど見分けられねえが、俺はやつが手を伸ばした瞬間に、その中身とやつの作戦の予想があらかたついていた。目薬は相棒の常套手段だったからな。

 そして間もなく、俺たちは四人の警備兵に包囲されたんだ。
「出てこい!」
「逃げられないぞ!」
 おあいにく様だ。俺たちはもう準備万端、整ったんだからな。


  3月27日◎ 


[アマージュの坂(2)]

(前回)

 丹念に町を見下ろしていた視線を解放して、ぼんやりと斜め上方を眺める。私は坂の上に立ち、シラカシの木の脇で、優しい木洩れ日を浴びながら柵に寄りかかり、頬杖をついていた。
 身体の力が抜けて、心臓の鼓動がゆったりした一定の速さに落ち着き、普段の私に取り憑いた幾重の薄皮が風に剥がされて、単純な〈私〉、戻るべき所に還ってゆくのが感じられる。胸に残っていた昔の息を、一抹の不安とともに自然と吐き出した。
「ふぅー」
 そして吐き出した後は、もちろん新しい風を吸い込むのだ。
「……」

 ここはとても空に近い場所だ。眼下にはアマージュの町の屋根が見え、鳥になったかのよう。目の前には青い空が拡がり、まるで天上界の入口にでも来たかのような気分を味わえる。
 悠久の河に浮かぶ雲の流れで時間の流れを計れば、私という個人の思いはぼんやりとして、風との境目が徐々に薄まり、私は砂糖のひとつぶになって溶けてしまう。まぶたを閉じてさえ、移りゆく空と変わらない空が重なって、立体的に現れる。
 柔らかな風が頬の産毛を微かに撫でてくれる。もう、寒くはない――そういう季節が来たのだ、という実感の大波小波が、同心円上に押し寄せてくる。心の奥の方にある、上手く表現できない〈嬉しさの雷〉が飛び出して、身体中を走り抜け、背中や腕に鳥肌を立てた。感覚が研ぎ澄まされてゆき、今ならきっと、舞い踊る木洩れ日や、可愛らしい花びらと、耳には聞こえない言葉で語り合えそうだ――お互い、世界に溶けた砂糖同士で。

 いくぶん強く吹いた風に春物のブラウスの襟がはためくので、重たい腕を上げてしっかりと握りしめ、私は瞳を開いていった。
 僅かな陶酔は幕を閉じ、深い眠りから醒めたような、ひどく心地の良い感じが残っている。東の空に浮かぶ黄金の陽は、低すぎず高すぎず、朝の喧噪が終わった静かな刻を見下ろしている。冬とは異なる強い光で、町を温め、肌に日焼けをもたらし、草花を起こすのだ。おそらく私も、彼に起こされた一人だろう。

 坂の下の方から背の高い白髪の男性が登ってきたのが視界の隅に入って、私の魂は我に返った。彼は一歩一歩、地面を感じ取る足取りで、時折足を休めては空を仰ぎ、町を眺望する。
 ふいに私と彼の目が合って、どちらからという事もなく会釈をする。この季節と、この町のすがすがしさに彩られた私たちは、自然な微笑みを交わすのだった。しばらく見ていると、彼は静かに最後の坂を登り切り、立ち止まって疲れた息を吐き出す。
「ふぅー」

 彼はズボンのポケットから布を取り出し、額の汗の珠を拭う。やがて私の方に顔を向け、少しだけ掠れた声で、こう語った。
「結構な、陽気で」
「ええ、本当に」
 はにかんだ笑みを自然に浮かべ、私は応えた。細い目をさらに細めて、老人は再び軽く会釈をすると、背中を向けて立ち去った。骨格のしっかりした後ろ姿を、私はずっと見つめていた。

 太陽は天頂を目指し、閑静な丘にも子供たちのざわめきが、切れ切れになって届けられる。じきに乗合馬車が来る頃だ。
 私も行こう。天からの坂道を降りて、風とともに舞い降りよう。

 こうして私は、初めて訪れたアマージュの丘に立っていた。
 そしていつかこの町に住みたいと、強く記憶に刻むのだった。

(おわり)
 

・アマージュの町
 ルデリア大陸ラーヌ公国メラロール連合王国)の中部、ラブール町の北東にある町。人口は四千五百人程度。古くからの町で、付近の農村から農作物や畜産物が集まり、ラブール河の中流の魚介類も交えて、大きな朝市が開かれる。毛織物が発展している。水が良く、有数の葡萄酒の産地でもある。
 


  3月26日− 


[時の河、春の風]

 春を迎えつつある森の中は、静かで厳かな蠢動に満ちあふれている。土の中でつくしの子が地面を突き破る日を待ち遠しそうにしていたり、草が少しずつ青々と茂ってくる細かな変化が、小さな希望の輪となって、目には見えない所から湧き上がっている――速やかに、逞しく。留まることを知らぬ時の河に乗って。まろやかで艶やか、甘い香水をつけた春の風に乗って。

「ここ、滑るよ」
 泥の付いた靴のつま先で地面をトントン打ち、一段高い場所から友達に呼びかけたのは、金の髪を後ろで束ねたジーナだ。蒼い海のかけらを思わせる瞳は、強い意志の光を放っている。
「うん」
 話しかけられた同級生のリュアはうなずき、おずおずと右足を差し出した。顔を上げ、手を掲げて近くの枝をつかんでバランスを取りつつ、今度は左足を持ち上げるのだが、踏み出したままの右の靴がぬかるみにはまり、抜き出すのに難儀している。
 銀色の髪を揺らし、半べそをかいて、九歳のリュアは唸った。
「んー」
「ほらっ、リュア」
 登り坂を歩いてきて、うっすらと額に汗をかいたジーナが、身を乗り出して手を貸した。左の靴まで地面に取られてしまい、引っ張っても靴だけ持って行かれそうになるほどの力で泥につかまれ、困り果てていたリュアは、倒れないように気をつけながらも友の手を取って、ズボンの右膝を思いきり持ち上げた――。
 



(お休み)
 
3/21 西伊豆



  3月18日− 


[アマージュの坂(1)]

 その坂道の勾配は、決してきついわけではなかった。その代わり、曲がる角度はかなり急で、上から降りてゆくとまずは左に大きく振れ、それから右の方に旋回していた。どうやら勾配を緩くするための苦肉の策らしい。白っぽい石で作られた中央の階段は、人々の靴裏と歳月に削られ、角が取れて丸みを帯びていた。階段を挟んで、両側は幅の狭い坂になっている。丘を廻る若い野菜売りたちが、毎朝、小さな車を押して上がる道だ。
 硬めの革靴で歩けば、私の歩く速さの曲が生まれる。リズムだけのはずなのに、古びた石は、音程を適度に変えてくれる。
 左右の家の広い庭からせり出した木の枝は、絡み合うかのように不思議な模様を形作っている。枝先で茶色の羽を休めているのは――あれは百舌鳥(もず)だろうか、小首を傾げている。
 吹き抜ける風は心地よい。濁りがなく澄んでいて、美味しい。
 太陽のかけらのような黄金の花を、縦の波のごとく垂らしたギンヨウアカシアは散り始め、向日葵色の星へと移ろっていた。
 私の背丈よりも少しだけ高い、古びて黒ずんだ煉瓦の壁が、家と坂とを隔てている。壁の横に立っても庭の様子は伺えないが、坂の上ならば俯瞰できる。庭は、坂の中腹にしては広く、横長だった。その奥に、線対称の二階建ての家屋が据わっている。屋根の角度はやや鋭く、上下や斜めに走って屋根を支える木の柱や、白い壁の調和は麗しい。木の大きさから察すれば、かなりの年月を経た建物のようだが、庭の草の状態といい、庭を蛇行する石を敷き詰めた道、あるいは褪せた朱色の屋根瓦、煙突、何枚かのガラス窓に至るまで、必要なだけの手入れが行き届いている。この町では、家はとても大切にされている――むろん、その延長として、家が有機的に組み合わさった町全体も――そこに住まい、日々の糧を得、暮らしを営む人々の心にも、新興の町とは異なる落ち着いた余裕が感じられた。


  3月17日− 


[天地の河]

 橋の光は橙で、地を行く河を浮かばせる。

 夜なのに、空は遠かりし都会の洩らす明かりに照り映える。

 風は吹きすさび、今や澪標(みおつくし)は解き放たれた。

 遮るものは、何もない。寂しい立ち木さえ、その意味を失う。

 県境の荒野は、ヘッドライトの間の〈闇より深い闇〉に沈む。


 あの空と融合したがっている背伸びした紅、血潮の川面は。

 とにかく危険だ――彼と目を合わせてはいけない。

 それは甘美な世界への誘いだ。最後の旅路への幻惑だ。

 身を任せれば、河はあっという間に、元の大地に戻って。

 曲がりくねって長く続いた、漆黒の口に変ずるだろう。

 しょせん、彼は天を駆逐された、まがいものの天の川だ。


 あの橙色は、空ではない。溶岩の〈マントル〉の透かし絵だ。

 もう一度言おう。決して、彼と目を合わせてはいけない――。
 


  3月16日− 


[春の朝・U]

 小さい鳥は高らかに、大きな鳥は深い響きを保ちつつ――。
 鳥たちがあちらこちらで呼び掛け合っているが、首が痛くなるほど見上げても、針葉樹の緑の懐に姿は見られない。時折、枝が揺れ、翼の羽ばたきが聞こえた。葉裏を伝い、こぼれ落ちてきた透き通る朝の雫は、斜めに注がれる光の帯を駆け抜けた瞬間に、虹色の宝石へと変わって、額の上で弾けるのだった。
「ひゃっ……」
 思わず彼女は首を左右に動かした。水のかけらが、しっとりと濡れた森の下草に吸い込まれてゆく。辺りはまだ薄暗かった。
「びっくりしたー」
 鼓動のやや乱れた胸の辺りにこぶしを置いて、溜まっていた昨夜(ゆうべ)の息を深く吐き出したなら、白い息が薄い朝もやに溶けてゆく。難しいことは何もかも忘れて、ゆっくり安らかに吸い込めば、口から肺の奥、身体のすみずみに――しまいには心や魂までが、新しい一日のひそかな希望に染められてゆく。

 彼女は雑草の生い茂る地面に左膝をつき、ほっそりとした腕をしなやかに伸ばした。薄手の、春物のベージュの服は彼女にはやや長く、袖の先を折り返してある。焦げ茶色のチェックの長ズボンは厚みがあって暖かそうだったが、内側の生地は汗を吸い取りやすいものが使われていた。いくぶん履き慣れ過ぎた感のある茶色の革靴は、ほとんど装飾といえるものが無かったが、その分、しっかりと実用的に、長旅にふさわしく堅実に作られていた。辺りに雪はなく、かんじきを使う季節は遠ざかった。

 柔らかそうで血色のいい薄桃色の唇を少しすぼめ、指先で相手をしっかりと支えながら、彼女は顔を寄せていった。貴婦人の面紗(ヴェール)のごとく、霧は優雅にささやかに流れきたる。
 少しずつ、確実に彼女と相手を隔てていた顔の距離が近づき、むせるような甘い匂いはいよいよ高まり、とろけてしまいそうな不思議な感覚に、彼女は薄緑色の瞳を軽く閉じて――。

 不確実な期待の高まりの中で、彼女の口先に突如、紛れもない触感が走った。相手に到達したのだ。彼女はさらに自らの口を沈ませ、唇を軽く開いたかと思うと、夢心地にまぶたを開いて、唇の方は再び、すぼめてゆくのだった。そして、彼女は。
 迷いを捨て、吸い込んだ。

 チュッ、という軽い音が響いた。しっとりと甘い味わい、長旅では久しぶりの甘さ――春の甘さと瑞々しさが口の中に広がってゆく。目の前に見えるのは、天使が羽を広げたかのような、つぼみを開いたばかりの、白い可憐な花の群れている茂みだ。
 小川の近くでは、森の木の匂いよりも、背の高い草の匂いが勝っている。しかし、この一角だけは、清らかな花の香りが甘美で繊細な空間を作り上げていた。若い光沢を帯びた彼女の優しげな草色の髪の毛は、その中に紛れ込んでも違和感がない。
 満たされた彼女は、やがて優雅に、丁寧に余韻を味わうかのように唇を離してゆく。舌の上にはまだ蜜の味が残っていた。

 天使の口づけを終えた少女は、木々の梢を縫って辿り着いたひとしずくの光に目を細め、さっき自分の額で弾けた虹色の泡沫を思い出しながら、仲間の呼ぶ声に顔をもたげるのだった。
「……リンローナさぁん、食事の準備を始めませんかぁ?」
 リンローナは頬をほころばせたが、すぐには返事をしない。ポケットから取り出した布きれで軽く口を拭い、もう一度呼ばれるのを待つ。二つ年上のタックの声は、やや近づいて聞こえた。
「リンローナさ……」
「ここだよ! いま行くね」
 茂みと別れて、リンローナは朝の空気に駆け出すのだった。

(おわり)
 


  3月15日○ 


[山野辺の春霞]

 窓の向こう側は、羊の乳の色で染められていた。吹雪に特有の突風や、それに伴う柱の軋み、隙間風の高い叫び声、凶器となって窓を叩きつける雪の音はなかった。何よりも、冬の間の厳しすぎる寒さが明らかに緩んでいる。とてもまともな寒さだ。
 そして静かな朝まだきである。か細い光の筋が広がるに連れて、遠くの方から鳥の歌声が、音符の橋となって乱反射する。
「あれっ?」
 半ば以上、霧を予感していたシルキアではあったが、ドアを開けて――だいぶ雪は減ってきていたので、ドアはすんなり開いた――そう、一階の重くてしっかりした造りのドアを押し開けて、身体を挟み、その間から顔を出して辺りの様子を伺った。
 
濃霧

「ふぅ〜っ」
 シルキアの吐く息は、すぐに霧と混じり合って、境目が分からなくなった。雪解けの頃の湿り気を含んだ朝の空気が、滑らかで若い、色白の十四歳の肌を撫でて漂っている。細かい雨のように、肌に触れては溶け去ってゆく。夜と朝の気温差が殊のほか大きくなるこの季節、曇りでも雨でも、雪でも晴れでもない、れっきとした霧の天候が、山奥のサミス村に立ちこめるのだ。

 厚手のコートを羽織ったまま、しばらく肩をすぼめて腕組みし、シルキアは霧のゆくえを眺めていた。やはり羊の乳を風に溶かして、地上に降りてきた雲をまぶしたような、不思議な感覚がある。木々のシルエットだけがぼんやりと見え、遠ざかれば遠ざかるほど、世界は白い器の中へ沈んでゆく。シルキアは何度も茶色の瞳をまばたきしながら、すっかり冴えてしまった両眼で、春を予感させ、しかも春を隠すかのような、不思議な景色にすっかり心を奪われていた。形のいい唇が、僅かに開かれている。
 時折、霧が薄くなると、乳白色のカーテンの向こうにある本物の青空が姿を現す。太陽もまぶしい光を放ち始める。――かと思うと、またもや魔法のごとくに霞が湧き出して、辺りを覆ってしまう。太陽は上品な薄紅の染料となり、まあるく散りばめられる。曇り空よりは明るくて、太陽がどこにいるのか、どの山の頂にいるのかは分かるのだが、その光はまだ届かない。雨のように水の精霊が軽やかに舞い飛び、雪の色を醸造する。移り気だが、好奇心が旺盛で、何か先の楽しさを予感させる。薄い着物をまとった美しく若い女性が、一枚ずつ剥いでゆくかのように――少しずつ霧は薄まって、鮮やかな朝の色が急激に強まり、やがて気がつくと目に染みる深い蒼が、空いっぱいに広がる。
 
霧が晴れたら


 そうだ、この霧って。何かに似てると思ったら。
 これって、きっと、春の映し身なんだね――。


 シルキアが心で感じ、頬が感動で少し硬くなった時。
 背中の方で、酒場兼宿屋を運営する父の声が聞こえた。
「おはよう。早いね」
「おはよう、お父さん」
 シルキアは振り返り、琥珀色の髪を揺らして、はにかんだ微笑みを浮かべた。もう、雪残る野原を駆ける小ウサギの姿も見分けられるだろう。いきなり熊に襲われる心配もない。村人が待ちに待った春の始まりの朝が、今、ここに現れたのである。

(おわり)
 



(お休み)
 
3/13 脇野田駅付近



  3月 5日△ 


 早春は、一筋縄ではいかない、なかなかのくせ者だ。

 熱波とスコールを使い分ける気性の荒い真夏や、いじけ気味の梅雨、徐々に涼しさを増してゆく大人びた秋、やや精神的に不安定な晩秋、厳しくも堂々と枯れ野に根を張る冬と違って――早春はかなり計画的に欺いてくるから、性質(たち)が悪い。
 三寒四温、なんてのはまだマシな方で、二寒四温の六拍子、三寒五温の八拍子はザラだし、三温三寒七音の三三七拍子まで自由自在に使い分ける。真っ青に透き通った冬空を見せ、北風を浴びせかけたかと思えば、一転して河の水を緩ませ、花のつぼみをノックする。コートをしまえば、とたんに必要になる。春物の洋服を出せば、とたんにいらなくなる。そんな毎日が続く。

 それでも、波の上下を平均して斜めに線を引けば、確かに本当の春には近づいていくわけだが――暖かい日の後の寒さは身体に応える。今度はだまされないと、暖かい服を重ね着すれば、背中や脇がうっすらと汗ばむ。早春のやつめ、あらゆる手段で、皆に風邪を引かせたいと思っているのではなかろうか。
 早春に気をつけて、心の準備をするようになると、本当の春がやってくるって寸法だな。悔しいが、まさに早春の思い通りだ。
 極めつけには、恒例の花粉症ときたもんだ。こりゃたまらん。

 それでも、やつはなかなかにロマンチストで、何だか余計に腹が立つ。桜と梅に挟まれ、早春は今年も希望に満ちて美しい。

 というわけで――。
 やはり早春は、一筋縄ではいかない、なかなかのくせ者だ。
 


  3月 4日− 


[雲のかなた、波のはるか(19)]

(前回)

 遠心力が強まり、非情にもサンゴーンの姿は遠ざかっていった。町の尖塔をめぐって一気に駈けのぼる、海の水で作られた三重の螺旋階段は、いよいよ終わりに近づいていたのだ。風はさらに荒れくるい、レフキルは何度も塩水を飲み、髪の毛から足先までびしょ濡れになったが、そんなことは気にも留まらないほど必死だった。いよいよ追いつめられた妖精族の血を引く身軽な娘は、状況を打開するため、一か八かの厳しい賭けに出る。
「うっ……」
 こうもり傘の柄をつかんでいた足の指の角度を変えると、あっという間に吊ってしまい、苦痛に顔をゆがめる。傘がたくさん風を食べて膨らむようにし、折からの勢いを利用して、サンゴーンの元へ一気に近寄ろうとする。離れる一方だった親友の頭が、みるみる近づいてくる。冷えて、吊って痛む足の指先へ懸命に力を加え、緊急時の尋常でないほどの集中力で微妙に、繊細に舵を取る。こうもり傘の帆船は、まさに天の野原の命綱だ。
「サンゴーン、つかんで!」
 レフキルはここぞとばかり、声を限りに張り上げた。渦の崖っぷちを流されるサンゴーンは、レフキルの励ましに呼応して生命の灯火を燃やし、荒くれた波に飲まれながらも細い腕を差し出した。訳が分からない混乱の極みで、水と雲の入り混じる灰の世界が入れ替わり立ち替わり展開されるが、身体を横にして顔だけを持ち上げているレフキルの必死の形相と長い耳、緑がかった銀の髪だけは、サンゴーンの瞳の中で拡大していった。

 視線は動かさずに足を動かし、左手で水を掻いて――嵐の子らを伴い、圧倒的に寄せてくる〈空の龍〉に抵抗する。右腕を斜め上に掲げて、サンゴーンは最後の希望をもぎ取ろうとする。
 互いのまなざしが留まり、顔と顔が近づき、指先が何度かレフキルの服をかすった。激しい水と風の音は不意に何も聞こえなくなり、二人は呼吸を合わせていく。再び命綱が迫り――。
 そしてようやく、レフキルが脱いで伸ばし、今や絞った雑巾のように濡れそぼった服を、サンゴーンがしっかりと、確実につかんだのであった。実際、それらはほんのわずかな出来事の連続だったが、瞬きの間に広がった一つ一つの閃光のような状景が、魂をえぐって刻印するがごとく、鮮明に脳裏に焼き付いた。

 まだ二人に、休むいとまは許されなかった。上空の冷たい水と風で体温が奪われるのも気にせず、レフキルは素早く上体を起こし、サンゴーンの腕をつかんで精一杯引き寄せる。サンゴーンは寒さと恐怖と安堵と限界で、ほとんど身体に力が入らなくなっていたが、それでも懐かしい祖母の形見のこうもり傘に何とか身体を預け、レフキルの助けもあって不器用に体重移動を繰り返し、浮き輪に乗るような体勢にまでやっと安定してきた。
 しかしながらレフキルは突然、瞳を見開き、疲れ切った枯れ気味の声で、襲いかかる運命にため息を洩らしたのだった――。
「ああ……」


  3月 3日− 


[一番あったかい暖炉について(4)]

(前回)

 指がやや短く、あまり形が良いとは言えない手を動かし、リュナンはガサゴソと音を立てながら袋の口を広げた。抱きかかえるようにして中身を改めると、見えない霧になってあふれ出す香ばしさとともに、横長の大きなパンが垣間見えた。嗅覚の刺激を受け、サホは湧き上がる唾液に耐えきれず、説明を始める。
「ここのパン、あたいの小遣いで頻繁に買えるくらい安いけど、腹持ちがいいし、重宝してんだ。味はまあ、普通だけどサぁ」
「美味しそう」
 と洩らしたリュナンの声は、言葉とは裏腹に堅く、それほど感銘した様子は見られない。まぶたが落ちかかり、顔色が冴えなくて眠そうなのはいつも通り――せっかくのパンに食欲をそそられるわけでもなく、それどころか茶色の袋を抱きかかえたまま、ほっそりした色白の腕を伸ばし、さっそく親友に返そうとする。

 サホの顔は少し曇ったが、新たな希望を灯らせ、提案する。
「半分こにして食べよ。半分なら入るっしょ?」
「うん……たぶん」
 リュナンは友の厚意をむげに断る気にはなれず、観念してうなずいた。手袋を外して四分の一ほど千切り、残りをサホに渡したのだが、相手は〈少ないよ、もっと食べなよ〉と反発した。軽い押し問答の末、リュナンの分担は三分の一ほどに落ち着く。

「むぐ、むぐ……んー、んまい」
 サホはもう夢中でかじり付き、顎と舌を動かしている。歩きながら食べれば、細かいくずが道端に落ちる。それはきっと、街の小鳥たちが掃除してくれるだろう。冬の朝日は低く、空はどの季節よりも青く澄んでいた。温暖なズィートオーブ市はめったに雪は降らず、それどころか冬は空っ風に見舞われ、晴れた日が多い。踵の高い洒落た靴を規則的に鳴らし、背の高い若い女性が通りを横切っていく。学舎へ向かう子供たちもいる。賑やかで穏やか、しかも秩序のある旧市街だ。一日の始まりに特有の、期待感が街のあちらこちらに薄い靄となって漂っている。霜はほとんど下りず、郊外では冬野菜も盛んに栽培されている。

「……」
 リュナンは浅黄色の瞳を瞬きし、正面を見据えたまま、何度も何度も繰り返しパンを噛んでいる。それを飲み込むと、ようやく次の秘匿に取りかかる、という段取りで、そうこうするうちにサホのパンはリュナンのと同じくらいの小ささに収縮していった。
 最後のかけらを口に放り込んでから、唇をぐるりと舐め、袖で拭き――当座の腹が充たされたサホは自信たっぷりに語る。
「で、これで暖炉に薪をくべたことになるから!」


  3月 2日△ 


[いつの日か(7)]

(前回)

「御飯よ」
 艶めかしい唇を微かに動かして、シェリアは言う。視線は目の前にいるケレンスとリンローナを遙かに通り越し、日の入り直後の夕映えに向かっていた。木々や山脈の陰影は恐ろしいほど深い。現(うつつ)と黄泉路とがつながる、混沌と魅惑の刻だ。

 ほんの短い時間、三人は瞬きを繰り返すだけで、空気は止まっていた。清々しく冷たい夜の印を肌に刻んで風が流れると、一番先に我を取り戻したのはシェリアで、今度はややためらいがちに告げた。雰囲気を察しており、無駄なことは言わない。
「御飯にするわよ」

 何とはなしに、リンローナとケレンスは向き合い、目で合図する。次の瞬間、リンローナは後ろ手に組み、歩き始めていた。
「今日のお夕飯、何だろう? タックと、ルーグと、お姉ちゃん」
 リンローナは妙に明るい声を発し、仲間たちの名前を指折り数えた。ためらいを振り落とすかのごとく、弾むように歩いても――背の低い彼女のものとは思えぬ長い影法師は、重く地面に寄りかかっていた。翼の折れた小鳥然とした痛々しい姿に気づいていたが、シェリアもケレンスも、そのことには触れなかった。リンローナの〈もがき〉、それは自らの姿でもあったからだ。

「ふぅ」
 ケレンスとシェリアは小さな溜め息をついたが、そのことを互いに気づいてしまい、まなざしを交錯させて、困ったような諦めたような微笑みを浮かべた。それでも次の刹那、しっかりと前を向けば、温かで凛々しい笑顔がゆっくりと浮かび始めていた。

 風は通り抜ける。
 風は通り抜けるのみだ。
 シェリアの、薄紫の長い後ろ髪も。
 リンローナの、さらさらの草色の前髪も。
 ケレンスの、やや痛んでいる金の髪も。
 等しく、分け隔てなく揺らして――。
 やがて全ては、夜の色に塗り替えられるだろう。

「後かたづけ、あたしたちでやるから」
 音痴な鼻歌を唄いながら先頭を歩いていたリンローナが振り向き、ちょっと背伸びをして言う。姉のシェリアは吹き出した。
「ぷっ」
 ケレンスはしかめっ面を装い、呆れ声で提案者を追及する。
「おいおい、勝手な約束すんなよなァ、リン」
「当然よ」
 シェリアはうなずく。いつしか三人の空気は和みだしていた。ルーグとタックの待つ野営場はすぐそこだ。煙が立っている。
 空では二番星どころか、無数のきらめきの競演が今宵の幕を開いていた。あのどれかが自分の母親なのだろうと、三人は胸の奥で固く信じている――いつの日か、再び出会える時まで。

(おわり)
 


  3月 1日△ 


[ほ]

 ほしの あかりが よわまれば
 ほたるの きらめき かりてくる

 ほしが たくさん みえるなら
 ほたるを きっと かえしてあげる

 ほっとする ぎんいろのともしびを
 ほかの ひかりは まねできない

 ほらふきじゃない
 ほんのなかの おはなしじゃないよ
 ほんとの ほんとの おはなしです

 ほっとかないで

 ほんきだよ

 ほらね
 ほうきぼし ながれた
 






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