2004年 6月

 
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2004年 6月の幻想断片です。

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  6月30日− 


[天音ヶ森の鳥籠(23)]

(前回)

 シェリアは両足を軽く開いて大地を支え、胸を広げてゆったりと息を吸い込んだ。顎をやや引き、肩や首の無駄な力を抜く。
 雑談していた精霊たちもふいに黙り、夕風さえも足を止める。
 その瞬間、天音ヶ森のすみずみまで〈休符〉が舞い降りた。

 十九歳の魔術師はここぞという機会を逃さなかった。南国伝来のメフマ茶に少しずつ黒砂糖の粒を混ぜてゆくかのように、涼しさをそっと流し込む黄昏の空気の奥底で、最初は微かに震える声で――しだいに広がりを抱きつつ歌い始めるのだった。
『真っ赤な夕焼けが』
 かつて森の奥の小さな村で、つかの間の友の詩人が作った歌の一節一節を思い出しながら、シェリアはありったけの想いを声に乗せて唄った。鳥籠の中では見えないが、精一杯の想像力を膨らませて、今日の赤い夕陽を心の懐に描いたのだった。
『あまりにもきれいで』
 精霊たちは無伴奏の独唱に聴き入っている。いや、むしろ聞き惚れている、というのが正しかったのかも知れぬ。音楽好きの彼らにとって、唄は伴奏があろうと無かろうと関係なく、重要なのは歌唱力や表現力といった純粋な音楽性であるようだ。

『さみしい帰り道、心は沈んでた』
 視界の利かない鳥籠の最下層で唄うシェリアの顔つきが変わったのは、二番になってからだった。唇がそっと緩められ、微笑みが混じり出す。それは彼女が賭けをするときの顔に似ている。期待と願望、楽しみと淡い夢とが混じった顔つきであった。
(リ・ン・ロー・ナ、気・づ・い・て)
 シェリアはついに作戦を実行に移した。唄いながら、音符と音符の隙間に、何度か秘かな魔法の伝言を籠めていた――限りなく慎重に、繊細に。この土壇場で精霊たちを出し抜くために。
(私・は、こ・こ・に・捕・ら・え・ら・れ・て・い・る・の・よ!)

『今日よ、おやすみ……』
 歌い終わって、シェリアは沈黙する。頬と胸が火照っていた。
 風がそよぎだしたが、精霊たちは歌が終わったのかどうか判断しかねていると見えて、感想を言い合うのを躊躇している。
「……終わりよ」
 溜め息混じりに言うと、上方から一斉に歓声が沸き起こる。
「なかなかじゃないか!」
「今までの〈鳥〉と比べても遜色ないな」
「へーえ。やるもんだねえ」
「明日の夏休みが楽しみだよ」

「ま、こんなもんよ」
 シェリアは立ち尽くしたまま軽口を叩いた。その一方で額に浮かぶ冷や汗の珠を手で拭いながら、精神を操るのが得意な相手に決して気取られぬよう、心の深い領域で考えるのだった。
(上手くいったかしらね……)


  6月29日△ 


 この工場では、研修を終えた新入りが六月に配属される。
「おい、あんだけ気をつけろって言ったじゃあねえか!」
「う……すんまへん」
 今日の仕事を任された新入りは萎縮して頭を下げる。今夜、客へ納品する予定の品物を、旋盤で削りすぎてしまったのだ。

 終わったことは仕方がない。今からじゃ、もう一度作るのも間に合わない。俺は作業服を脱ぎ、スーツに着替えて外に出た。
 俺は取引先に謝りに行った。この時期は、客に頭を下げるのが俺の仕事みたいなもんだ。いくら指導しても、失敗は完璧には防げない。経験のない新入りだから、仕方ねえじゃねえか。

「いつもいつも、申し訳ねえです」
 俺は取引先の、翻意にしてもらっている部長に頭を下げた。
「まぁた、あんたか。この時期、六月は、ほんとにひどいねえ」
「……」
 嫌みを言われても、俺はじっと耐えるしかない。
 すると眼鏡をかけて太っている部長は、深い溜め息をつく。
「フーッ」
 そして少し明るい口調になって、俺に問いかけるのだった。
「新人がやらかしたんだろ? まあ、しょうがねえじゃねえか」
「申し訳ねえです」
 俺はもう一度、頭を下げた。部長は面倒くさそうに手を振る。
「アー、もう分かった。来年はもう少し品質を上げてくれ、それでいいだろう。後はこっちでやるから。オーイ、雲井君いるか?」
 取引先の部長は、部下の雲井主任を呼んだ。三十代半ばだが、少し前頭部の髪が薄くなってきた、やや痩せている男だ。
「はい、天野部長」
「今夜は雨だ。雨宮にやらせとけ」
「かしこまりました」

 俺はそそくさと退散しようとする。
「では、これにて失礼……」
「くれぐれも品質向上に努めてくれたまえよ。毎年六月は、あんたんとこの月の生産の失敗で、雨ばっかりだからな。観月君」
「はっ」

 嫌な仕事を終え、俺は風に乗り、本社〈月光工房〉に戻る。三日月、半月、十六夜――満月を削るのは技術の要る仕事だ。
 で、俺は営業のサラリーマン。
 今夜は空のビールでも飲むことにしよう。
 


  6月28日△ 


「……この時期の弱い雨はいいな」
 灰色の空を見上げたのは十六歳のリュナンだ。お世辞にも健康的に見えない白い肌は、しっとりと湿る霧雨に潤っている。焦げ茶のロングスカートをはき、襟元と手首にレースの飾りの付いた白いブラウスを着て、淡い金色の髪を後ろで束ねている。ほっそりした右手で、小さくて簡素な傘の柄を握り、掲げている。
 細かな霧雨は身軽に舞い踊り、芸術的に流れ、上下に飛び交い、透き通った絵の具となって風の在りかを教えてくれる。
「まあ確かに、暑くもないし、寒くもないし」
 相づちを打ったのは同級生のサホである。天然の赤毛を持つ彼女は、半袖のシャツとズボンをはいて、通学用の鞄を無造作に肩に掛けていた。傘も持たず、霧を掻き分けて歩いてゆくと、前髪から睫毛まで、頬から瞳まで、微細な雫が付着してゆく。
「暑い日差しの代わりに、雨が唄ってると目覚めもいいの」
 安らぎに充ちた微笑みを浮かべて、リュナンがつぶやいた。

 世界最大の人口を擁するズィートオーブ市の郊外の丘陵地帯には農村が続き、雨は野菜や果物を育てて、恵みをもたらす。
「あたいは夏の方がいいけどさー」
 サホが軽い口調で言うと、リュナンは不思議そうに訊ねた。
「えっ? どうして?」
「だって服が濡れるし、乾きは悪いし」
「確かに……たくさん降ると大変だよね」
 そして二人は歩みを止めて、白と灰色に霞む空をあおいだ。

 レンガの路面が霧雨に湿り、町は夢幻の煙に溶けていった。
 


  6月27日− 


[大航海と外交界(3)]

(前回)

「会の最初だけ、居て頂くだけでいいのですよ、姫様」
 マリージュと呼ばれた侍女は、困った素振りを見せることもなく、かといって軽はずみに賛同することもなく、相手の気持ちをなだめるように辛抱強く、優しく、臆することなく諭すのだった。
「もう、嫌んなっちゃう、いつもいつもで。ちょっとでも嫌なの!」
 対する主人の反応は、マリージュにとって予想以上に厳しかった。今までは仲良くなり、心を通わせて何とかなだめすかしてきたが、今日は普段以上に虫の居所が悪いらしい。ここのところ、連日のように晩餐会が重なったのがまずかったのだろう。
 中肉中背で、見た目はパッとしないマリージュであるが、既に家庭を持っていて、穏やかさと理解力と芯の強さを併せ持っている三十過ぎの女性である。皆が嫌がる姫の侍女に抜擢され、最初こそ仲間内の同情を集めたが、その後は主人に好かれて仲良くなってしまい、周囲の驚きを集めている。彼女自身、どこかしら主人と似た〈常識に対する反骨精神〉を持っており、宮廷にはびこる雑音はできるだけ聞き流すように努めている。
 姫様、そろそろ限界なのかしら――マリージュはひそかに考えていた。先延ばしにしてきたが、いつかは正面切ってこの問題と向き合わざるを得ない。それは分かりきっていたことだ。
「もう、こんな自由のない生活、ほとほと嫌なのよ!」
 蒼く澄んだ十五歳の実直な瞳を見開き、形のいい唇を歪め、若い女主人は右足を地面に叩きつけた。その衝撃で、少しだけ高くなっていた晩餐会用の靴のヒールの部分が吹っ飛び、壁にぶつかって床に落ちた。元が美しい容貌であるだけ、怒りの炎に燃えたぎる様子は凄惨であった。癇癪やわがままを頻繁に起こす主人ではあるが、お気に入りの侍女であるマリージュを困らせることは少なかった。それなのに、今日は違っていた。

 マリージュの方は衝撃を受けている暇もなかった。主人を晩餐会に連れ出すという勤めは果たさねばならぬし、しかも相手を納得させねばならない。目が垂れ下がり気味の変わり者の侍女の顔が、急に強張ってくる。ついに彼女は決心を固めた。
「ララシャ様」

 ――そう。
 マリージュの主人はむろん、ミザリア国の第一王女であり、数々の気まま・わがままを繰り返し、国政・祭事・外交には全く関心を示さず、武道の修行に精を出して道場破りまで成してしまう〈おてんば騒動〉など、何かと不名誉な噂でルデリア世界中に名を轟かせているララシャ・ミザリア王女、その人であった。


  6月26日△ 


[雲のかなた、波のはるか(25)]

(前回)

 大河が海に注ぐのに似て、天の河は雲を突き抜けて間もなく水量が豊かになり、傾斜も緩やかになっていた。当然の成り行きとして船の流れる速度が落ち、水が跳ねるという動作一つ取っても不思議な貫禄が出て、雄大になってきた。傘の小舟はこれまでにない安定感を保ちながら、数奇な運命の流れに乗り、二人の少女を支えて、臆することなくひたむきに進んでいった。
 視線を伸ばすと、潮風にたなびく空の河は最後の部分で木の根かフォークのように枝分かれし、やがては海に注いでいた。

「ミザリア島も、船も見えませんの。でも……」
 サンゴーンは口ごもった。その顔は〈心配〉よりも、むしろ〈安堵〉に満たされており、一つの懸念が消えて晴れやかだった。
「うん。あたしたち、帰ってきたんだ」
 レフキルは力強く返事をして、それから表情を引き締める。
「まだ油断は出来ないけど。でも今回の旅は、海に着いたら一区切りつくよね。あとはきっと、物語の本筋とは関係のない、後日談みたいなものになると思う。どうやって、この沖からミザリア島に帰るなんて分からないけど、きっと大丈夫だと思うよ」
 レフキルの言葉は確信に満ちていた。あてずっぽうでも、身勝手な期待でもなく、今日の経験に裏打ちされた〈予感〉だった。
「もしかしたら、そんなに沖じゃないのかも知れないし。誰かが魔法の力で入れないようにしてる……って可能性もあるから」
「そうですわね」
 サンゴーンはうなずき、汗ばんだ親友の手をそっと離した。
 レフキルははっとして驚き、相手の蒼い瞳を覗き込む。温かな遠浅の海で泳いだ後のような重い疲労感が全身にのしかかっているのだろう――サンゴーンの目や頬の辺りは疲れていたが、瞳の輝きは極めて静謐だった。胸元に輝く〈草木の神者〉のペンダントを握りしめる親友の姿を見て、レフキルはもう手を握っていなくても大丈夫なのだと分かった。それは一抹の淋しさを起こさせたが、同時に友情の新たな深まりを感じていた。

 空の河の海竜を思わせていた凄まじい轟音は遠ざかり、水を集めて膨らんだ下流はゆったりと進んでいる。灰色の雲の下なので、南国の海に特有の麗しい翡翠色は本来の鮮やかさを弱めていたが、空のトンネルの下の部分だけは細い光を浴びて、井戸の底のように、小さな鏡のように反射し、きらめいている。
 空気の流れや質感までが変わったような気がする。懐かしい海を見下ろしつつ、少女たちはようやく空の航海を素直に楽しめる心境になりつつあったが、果ては刻一刻と近づいている。
 過去である空の高みと、現在目の前に連続している透明な川面、行き着く先の眼下の海を順に眺めて、レフキルは呟いた。
「この河、どこに行き着くんだろうね……海に注いで」

 返事は、とても意外な者から――予想外の形で降ってくる。
『夕方が近いから、それぞれの場所に帰ってゆくんじゃよ』


  6月25日△ 


 夜のトンネルを抜けると

 どこか知らない町に出る

 その町に出逢う日のことを

 思いながら夢を見よう


 原野のかなたの湖

 どこまでも続く砂浜

 今度の休みに出かけてみようよ――
 


  6月24日× 


[旅汽車]

 窓を閉めないで
 その窓は、世界につながっているから
 きっと、未来にもつながっているから


 山越えのために
 ループしたり
 長いトンネルをくぐったり
 さかのぼったりもするけれど


 石炭を焚いて
 水を補給して
 汽車はうなりを上げ
 確かに峠を進んでゆく


 夢という名の駅にだって
 遠い場所でかすっているかも


 だから
 お願い
 心の窓を閉じないでいて
 


  6月23日− 


[まどろみ]


 光だけをそっと跳ね返す

 透明な鏡に囲まれた部屋に

 銀色の細い月の光が射し込んで

 ぼんやりと明るい


 その、月明かりの乱反射する部屋で

 私はまどろんでいる


 ここは月の泉だろうか?

 何もかも、溶けてしまって

 時と場所が無意味になってゆく


 私が少しだけ腕を動かせば

 光の道筋が遮られて

 ある部分の鏡たちは漆黒に黙する


 ――とすれば、光の取得口に立ったなら

 この部屋の明かりは、すべて消えるのだ


 一つの、揺るぎない事実がある

 それは「どこでも取得口でありうる」ということ

 だから、気をつけて歩かなければ

 すべての光を、消してしまわぬように


 その、月明かりの乱反射する部屋で

 私はまだ、まどろんでいる――

 


  6月22日△ 


[おもてなしの心]

「どこがいいかなぁ〜? 迷っちゃうね」
 いくつもの選択肢を前に、リンは困ったように笑っている。急な曲線を描く通りには肉や野菜を焼く煙が漂って、目に染みる。
「珍しく、私もリンローナと同意見よ」
 シェリアは細くしなやかな両腕を腰に当てて、鼻から長い溜め息を吹き出した。それから首をすくめ、艶やかな唇をゆるめた。

 各地をめぐっている俺たちにとって、新しい町に来ると、どんなメシを食うのかが最大の楽しみ――と言っても過言ではない。
 気候と風土と歴史に彩られた、町の〈特産品〉は話題の種になる。今の時期だけの海の幸や、山菜、穫れたての穀物や野菜、果実などの〈旬のもの〉に外れはない。でも、俺にとっちゃ、美味い地酒とつまみがあれば満足だ。そして名物のオヤジ。

 女性陣の意見を承けて、タックは穏やかな口調で提案する。
「もう一周、廻ってみましょうか?」
 もう我慢の限界の俺は、ルーグを味方に取り込もうとする。
「早いとこ決めようぜ! ハラへったんだよな。ルーグは?」
 すると、急に意見を求められたルーグは、夕陽の残滓に頬を紅くほてらせ、辺りの雰囲気を感じ、やや弾んだ声で応える。
「私は何でも構わないが。美味しくて、美味しい酒が有れば」
 そろそろ仕事を終えた男どもが町へ繰り出す時間だ。下町の通りには少しずつ活気が見え始めている。昼間は見すぼらしいが、夜の闇の中でこそ、活き活きした〈命〉をほとばしらせる。

 金には限界があるが、それ以上に、胃には入りきらない。多くの可能性から、意見を摺り合わせる過程を経て、最終的には一つの店に決める。見知らぬ町で、旅慣れた俺らがちょっとドキドキする瞬間だ。ほとんど賭け事に近い――満腹と、満足と、この町での思い出を賭けて、その店に銀貨を投じるって訳だぜ。

「ここで、異論はないな?」
「もちろんよ」
「うんっ」
「ここにしましょう」
「早く行こうぜ!」

 で、俺たちは顔を出すんだ――薄明るく、薄暗い店の中へ。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「おすすめの料理、妙な料理、粋な料理人。調理法、食材、組合せ、隠し味。湯気の立った料理でも勝負するけどね……」
 ケレンスたちが滞在している地方の町から、遙か東の山奥にあるサミスの村で、宿屋の娘である十四歳のシルキアが言う。
「一番の自慢は、私とお姉ちゃんの笑顔かな〜! なんてね」
 彼女は急に真面目な顔つきになり、遠くを見ながら呟いた。
「でも精一杯のおもてなしをしないと……村の印象まで、変わっちゃうからね。私たち、旅人にとっては村の窓口なんだから」

 そして黄昏の幕がゆっくりと引かれて――。
 彼女が働く〈すずらん亭〉は、今夜も賑わっていることだろう。
 


  6月21日− 



[草の原っぱに寝転がって]



 草の原っぱに寝転がって

 空を見下ろせば

 あんこうのように平べったく

 ぼんやりと浮かぶ白い雲が

 よく見えます



 こんな日が来るたびに、私は

 草の匂いを感じながら

 仰向けに寝転がったまま

 つい、探してしまうのです



 空に下ろした、木々の釣り竿――

 鮮やかな緑の枝に、

 雲の魚が、引っかかっていないかと



 そのうちに夕暮れが来て

 私は長い眠りから醒めるのです



 低いところを、強い風がながれていました


 


  6月20日− 


[笑顔の種(16)]

(前回)

 翌日、テッテがカーダ博士を連れてやってくると、葉っぱの位置に生まれた碧のつぼみがすでに開かれて、つぼみと同じ色の花が咲いていた。新しい変化としては、本来、花のつぼみが出来る位置に、桃色の可愛らしい葉が生まれていたことだ。
 ジーナとリュアに喜んでもらいたくて、葉のように長く咲き続ける桃色の花を咲かせる研究を始めたテッテだったが、結果としては成功しなかった。それでも彼はすっきりした声で語った。
「きれいな緑色の花です。僕としては、上出来だと思いますよ」
「フン」
 カーダ博士はいつも通り鼻で笑い、表情を変えずに告げる。
「ま、この花については来年、やり直すことじゃな。この場所は貸してやるから、夏の花で研究するなり、好きにするがいい」
「ありがとうございます、師匠」
 日焼け顔のテッテは真摯な気持ちを込めて礼を言い、姿勢を正して深く頭を下げた。それから足元を見て、小声でつぶやく。
「生き残った草と、亡くなった草にも……ありがとう」
「自分でやってみて、色々なこと――難しさや楽しさが少しは分かってきたじゃろう。体験しないと分からぬことは山ほどある」
 カーダ博士はやや遠くを見つめ、昔を振り返るような口調で語る。空には薄雲がかかり、やや蒸し暑い春の昼下がりだった。
 
〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 それから二、三日が経った。いつもの日課として〈カーダ研究農園〉で独りで仕事に没頭していると、聞き慣れた声がした。
「テッテお兄さーん」
 紛れもなく、デリシ町に住んでいて学舎に通っている八歳のジーナの甲高い声である。きっと、親友のリュアも一緒だろう。
(そういえば、今日は夢曜日……学舎はお休みですね)
 彼は手を休めて顔を上げ、膝に力を込めて立ち上がった。額から汗がこぼれ落ちる――今日も快く晴れ渡り、暖かい日だ。
「ようこそ、いらっしゃい。お久しぶりですね」
「こんちは、お兄さん! この前、来たけどいなかったよ?」
 先に着いたジーナは、小さな身体から有り余る元気を発散させている。もうすぐ誕生日が来て、彼女は九歳になるはずだ。薄い黄色の長袖を着て、焦げ茶色の長ズボンを履いている。

 森の中に、ふらふらになりながらも駆けてくるリュアの姿が見えてきた。白いブラウスに、春らしいクリーム色のスカートを合わせ、春めいている清楚な桃色のポーチを肩から下げていた。
 ジーナは間髪入れずに、遊びに来た理由と目的を説明する。
「リュアが見つけて、テッテお兄さんの仕業って言い張るから。確かめたくて、急いで来ちゃったよ。ねぇーっ、リュアーっ!」
 最後はようやく追いつけそうなリュアに向かって呼びかけた。
「えっ? 僕の仕業……ですか?」
 他方、テッテはいぶかしげに口ごもった。すぐには心当たりが見つからない。ここ数日は水を撒いたり、不要な枝を切ったりするので忙しく、何か不思議な現象を起こした憶えは特にない。

 その時、息を切らしてやってきたリュアが二人の前で立ち止まり、話は中断する。ジーナよりも身体が華奢で、やや背丈の高いリュアは、両膝に手を置いて上半身を前かがみに倒し、苦しそうに呼吸を繰り返していた。月の光で編んだかのような麗しい銀色の髪も埃まみれ、汗まみれだ。背中も汗で湿っている。
「はぁ、はぁ……」
「大丈夫ですか?」
 心配そうにテッテが訊ねると、応えたのはジーナだった。
「あんまり、大丈夫じゃないと思うよ。ちょっと休憩だね」
 するとリュアは恨めしそうに顔を上げて、苦しげに指摘する。
「まぁたジーナちゃん、森に入ってから急に走るから……」
 他方、ジーナは悪戯っぽく笑い、ぺろりと舌を出すのだった。
「へへ……」

「ふふふっ。お変わりありませんね」
 テッテが言う。太陽が薄雲に隠れて、全ての彩りが一歩ずつ後退した。小鳥たちは今日も、高らかに楽しげに唄っている。辺りには陽の匂いと、森の匂い――木の幹や枝や、草や花や、虫たちや蝶の匂いが混ざっている――が、微かに漂っている。
「でも、リュア、あれを良く見つけたよね? ゆっくり歩くと、あんな発見があるなんて驚いたよ。あたしには絶対、無理だもん」
「ジーナちゃんが『すぐ行こう』って言わなかったら、リュアだけじゃ、テッテお兄さんに教える勇気が出なかったかも知れない」
 落ち着いてきたリュアは、親友のジーナを見つめて言った。
「まぁ、そうかもね」
 はにかんだジーナは、鼻の頭を人差し指でこするのだった。
「そうでしたか。リュアさんだからこそ見つけられて、ジーナさんの行動力で、ここまでいらっしゃったわけですね。お二人が見つけて、届けてくれたもの……それは一体、何なのでしょう?」
 テッテは好奇心にかられて、微笑みながら訊ねた。もしも、その品物が自分と関係ないと分かると、ジーナとリュアが落胆するのではないか、とほんの少しだけ不安な思いを抱きながら。

「リュア、早く見せてあげなよ」
 ジーナに促され、リュアは肩から提げていた桃色のポーチの入口を開けて中身を探り、すぐに一冊の茶色の本を取り出す。
「本ですか?」
 あまりに意外だったのでテッテが訊ねると、相手は軽く首を振った。リュアは不器用な手つきで、おもむろにページを繰り始める――せっかく見つけ出した〈宝物〉を壊さないよう、慎重に。
 テッテは時間の流れ方が遅くなったように感じていた。胸が高鳴って、どんなものを見せてくれるだろうと期待が膨らむ。たくさんの想像が頭の隅をよぎっては、次々と流れ去っていった。
 何故か無性に心臓の辺りが苦しくなってきた。まばたきの間隔が速くなり――テッテは無意識のうちにその回数を数えた。

「一二、三、四、五、六……七……」
 その間、リュアの手の動きは緩慢になり、ついに止まった。

 彼女はページの間に挟まっている〈もの〉を、華奢な人差し指と親指で注意深くつかむ。それを、そろりそろりと持ち上げる。
「これなの」
 リュアは腕を伸ばして、テッテの目の前にまで運んでゆく。

 一瞬ののちに。

 まるで新しい大地が、鮮やかな空が、生まれたかのように。
 どこかで見覚えのある色が、突如、彼の前に拡がった。

 自分の心臓の鼓動が、ずっと遠くに聞こえていた。
 表情が止まり、息さえもできない。
 彼はつばを飲み込んだ。
 眼を見開いたままで。

「これ、テッテお兄さんのお花……葉っぱ?」

 自信なさそうに、困ったように訊ねるリュアの無垢な言葉が、呆然と立ち尽くすテッテの魂へ直に響き――時が動き出す。

「え、ええ……僕の花です、確かに、これは、僕の〈花〉です」
 青年は途切れ途切れに、そう返事をするのがやっとだった。
 それを聞いたリュアは、まずはほっと胸をなで下ろしてから、やや頬を膨らませて親友のジーナの方に向き合うのだった。
「ほぉら、ジーナちゃん。やっぱり」
「でも、行こうって言ったのはあたしだから、二人の成果だよ」
 瞬間的にたじろいだジーナだったが、機転を利かせて調子よく誤魔化す。リュアは肩の力を抜いて、安らいだ顔になった。
「うん。でも良かった、本当にテッテお兄さんのお花で!」
「桃色の葉っぱなんて、不思議だよね。すごくきれいだし」
 ジーナが大はしゃぎする。リュアも顔を上げて、感想を言う。
「桃色の葉っぱ、本当に素敵だと思うよ。葉っぱがリュアを呼んだのかな? 風さんがちゃんと運んでくれて、すごく嬉しい!」

(これで良かったんですよね……)
 ――ありがとう。ジーナとリュアに対して。師匠に対して。風と太陽と水。そして何より〈話を聞いてくれた〉草に対して――。
 テッテはもう、他のことは何も考えられなかった。
 ありがとう、ありがとう。本当にありがとう。
 彼は自分を取り巻くもの全てに感謝して、立ち尽くしていた。

 研究は失敗したけれど、一つの小さな夢はこうして叶った。
 熱い銀色の涙の珠があふれ、揺れてかすむ視界の中には、待ち望んでいたジーナとリュアの弾けるような笑顔があった。

(おわり)
 


  6月19日− 


[笑顔の種(15)]

(前回)

「やっとこれで普段の研究に戻れるわい。とんだ無駄じゃ。この分と薬代は、給料から引いておくぞ。全く、この忙しい時節に」
 看病せざるを得なかったカーダ博士は、自分の仕事が倍以上になってしまったため、テッテが元気になるに従ってさんざん文句を言った。衝撃的な雨の出来事から数日後、晴れた日の朝に、テッテはようやく農場管理の仕事に復帰することとなった。
「すみません。では行って来ます」

 病み上がりの狂った感覚では、世界と混じり合うのに時間がかかる。いつもと違って新鮮ないつもの道を踏みしめてゆき、坂のきつさに汗をかいた。太陽は斜め上から照らし、森の木洩れ日の記号は様相を変えている。草の表面には朝露のかけらが残り、地面は乾いていた。鳥たちはのどかに春を唄っている。
「残念ですが、仕方ありません」
 木の根をまたぎ、独りごちたテッテの横顔は晴れ晴れとしていた。揺れる世界の向こう側に彼は新しい夢を見つけていた。
「あの花で研究するなら、また来年……」

 気持ちを切り替えたテッテだったが、数日見なかったうちに懐かしささえ覚える森の広場に来ると、再び目を見張ったのだ。
「おや?」
 風が舞い、わずかな土埃を手で掻き分けて彼が向かった先は、小さいけれどもとても大切な、自分に与えられた区画だ。
 近づくに連れて、疑念は期待と変わり、確信へと昇華する。
「信じられない」
 彼の震える声は最初、予想外の驚きに彩られていた。泣き笑いのような表情を浮かべて、無意識のうちに腕を差し伸べる。
「生きていたとは……まだ生きていたのか!」

 荒れくるう自然を体現していた先日の豪雨で奇跡的に生き残った一本の草は、他の草に比べるとかなり遅かったし見栄えもパッとしなかったが、それでも背丈を伸ばし、根を張り、くきを太らせて成長していた。草なりに、生命の炎をほとばしらせ、適応していこうと必死だったのだろう。もう風が吹いても大丈夫だ。
 むろん、ちょっとやそっとの雨が降っても――。

 そしてテッテを最も驚かせたのは、本来ならば緑の葉が茂るはずの場所に、碧色のつぼみが出来ていたことだった。可憐で美しく、繊細で淑やか、しかも力強さを内に秘めたつぼみだ。
 テッテの目頭は熱くなったが、もう泪が流れ出ることはない。
「僕はもう一喜一憂しません。そりゃあもちろん、このつぼみが開いた時に薄桃色の花が咲けば、どんなにか嬉しいだろう!」
 くきを握り、相手の首を起こしながら、彼は優しく呼びかける。自分が表現出来る限りの想いを、一つ一つの言葉に乗せて。
「でも、あなたはあなたらしく、花を咲かせていいんです」
 甘い香りを含んだ、穏やかな春風が森を縫って通り過ぎてゆく。テッテの耳からは、いつの間にか鳥の歌声は消えていて、不思議な静寂の世界につぼみと二人だけで向き合っていた。
「そのための協力は、僕は惜しまないつもりですよ」
 そうして彼は誇らしげに胸を張り、素直に口元を緩ませるのだった。満開の春が、いま、この場所から拡がってゆく気がした。

「ようやく一歩……いや、半歩くらい、進んだようじゃな」
 木陰から様子を伺っていた師匠が、目尻を下げるのだった。


  6月18日△ 


[笑顔の種(14)]

(前回)

 次なる刹那、博士の弟子は雷にも似た速さで素早くその場にしゃがみ込んだ。双眸は、とある一点に釘付けにされている。
「これは……」
 自然と、溜め息のような声が洩れる。いくら首を動かしてみても、目の錯覚ではない――それが消えることはなかったから。
 ほんの小さな先端が露わになっただけであるが、ゼロが一になったのだ。その間には言葉以上の〈違い〉が存在している。
 大地という厚い殻を破り、確実に芽が生まれ出ていたのだ。
「やった」
 テッテはかすれた声で呟いた。それから感情のままに腕を振り上げ、遅れてやって来た〈実感〉の波に、しばし酔いしれる。
「やった、やったぞォ!」

 その一カ所にとどまらず、数日のうちに芽は幾つも現れた。
 しかしこれはまだ、ほんの第一段階に過ぎなかったのだ。
「ここから先がどうなるか、じゃな」
 芽を見たカーダ博士は至って冷徹に、そう評したのだった。

 最初こそ成功に喜び、芽が増えるたびに頬を紅潮させ、自信を取り戻していったテッテではあったが、カーダ師匠の言葉の意味が重くのしかかってくるまで、さほど時間を要しなかった。
「これも駄目ですか……」
 そもそも芽が出ないものが多かったが、種に魔法のエキスを染み込ませてある花は芽が出てもくきが細くて、そのまま枯れたものもあった。その都度、彼は調合の割合の一覧を記したメモ用紙に二重線を引いていく。いつもの筆が、ひどく重かった。
「やりきれないな」
 テッテは毎朝、自分の区画に寄るのをためらうようになった。見たいような、見たくないような気がしたからだ。それでも結局は見ずにいることができなくて、横目で覗き込み、近づいて見下ろして、堅く瞳を閉じ、頬を強張らせ、溜め息を漏らすのだ。
 全体的に弱々しく、風が吹くと倒れそうなくらいに揺れる。すぐ近くにあるカーダ氏の農園では、同じ花がすくすくと成長しているので、場所や日当たりや土質や肥料のせいではなかった。
「まあ、焦らぬことじゃな。草には悪いがな」
 カーダ博士の励ましの言葉は、いつになく優しくなっていた。

 夢の遠くに、テッテは滝の流れるような音を朧に聞いていた。それは激しく叩きつけるように大地を打つ、水の力であった。
 それらは時に勢いを弱め、盛り返しながら、一斉に降り注いでいた。あまたの透明で大きな粒が、冷たさと潤いとをもたらす。
「ん……」
 木で作られた狭くて硬い箱に布団を乗せただけの簡素なベッドで寝返りを打ち、薄明かりの中で夢うつつを彷徨うテッテは、未だに続く滝の音を聴いていた。目を半分だけ開き、農作業の筋肉痛と眠気に顔を歪め、もう一眠りしようかと思った矢先だ。
「……水?」
 彼はゆっくり上半身を起こし、カーテンの裾を持ち上げて外を眺めた。涼しさの天使が舞い降りたかのように、ひんやりとした空気がさざ波のように寄せてくる。野は灰色にけぶっていた。
 早朝の気まぐれな春雨が、明け方の丘に降り続いている。全てを湿らせ、命を育てる水であり、と同時に、奪う水でもある。
「は、花が!」
 テッテは飛び起きて、上着を貪るように羽織り、寝室を駆け抜け、ドアを開けるのももどかしく思いながら、外に飛び出した。
「何じゃ、騒々しい……」
 カーダ氏の不満げな愚痴は、やがて寝息へと変わってゆく。

 冷ややかに、機械的に降り続く雨には優しさがなく、痛いほどだった。髪の毛は一瞬にして濡れそぼり、頬を幾筋もの水の河が止むことなく流れ続けた。服は重みを増し、ズボンは色が変わるほどで、肌にへばりついて気持ちが悪かったが、彼は野を疾駆した。何度も滑り、泥だらけになるが、彼は走りに走った。
 森に入ると、直接的にぶつかる雨粒は減ったが、針葉樹の木の葉や広葉樹の花を、相変わらずの強さで空からの水の使者が打ちつけていた。それらは奇妙な楽器と化して、せせら笑うがごとくに響き渡る。跳躍する驟雨は霧を呼び、風を呼んだ。

「あぁ……」
 目的の場所に着いた時、テッテは畦道に両膝をついた。泥が跳ねて、ズボンが茶色く汚れる。息が上がり、肩は激しく上下し、胸の鼓動は乱れ、服の中は熱気と湿気で蒸している。曇った眼鏡には水が滴り、髪は千々に乱れていた。むろん、心も。
 彼にはなすすべがなかった。雲がぶちまけた春雨は、広場の中で下流に位置していたテッテの小さな区画に濁流となって注ぎ、細くても懸命に生きていた魔法の花々を根こそぎ流した。
 のろのろと起きあがり、近づいてみると、水の流れから微妙に離れて芽吹いていた一種類だけが奇跡的に生き残っていた。

 雨はまだ止みそうにない。彼の瞳から熱い涙が溢れたが、それは雨に溶けて地面にこぼれ落ち、どこかへ消えてしまった。
「僕が、研究を始めたばっかりに……」
 それから数日、テッテは高い熱を出して寝込んだ。遊びに来たジーナとリュアは、彼の姿を見いだすことが出来なかった。


  6月17日− 


[草木の町]

 背の高い白樺の林を縫って、心地よい風が流れてゆく。風は木々の葉をかすめて流れ、波のようにざわめきが立ち、きらびやかな木洩れ日は刻々と姿を変える。それはどんな魔法でも見ることができない、不思議な安らぎに充ちた素敵な景色だ。
「ふぅーっ」
 宿屋の次女の十四歳、中肉中背のシルキアは立ち止まって胸を開き、口を開けて思いきり深呼吸した。右手には、さっきまでかぶっていた白い帽子を持っている。その帽子は彼女の汗で少し湿り、琥珀色の髪の毛が一本だけ付いていた。白を基調とした七分袖の夏物のワンピースは、襟元に小さなレースの付いている可愛らしい服で、シルキアはきれいなうなじを露わにし、泥が付いているやや使い古しの焦げ茶の革靴を履いていた。
「気持ちいいのだっ……」
 姉のファルナは額に手を当てて、森の木々を見上げた。麦わら帽子をかぶり、今日は汚れてもいいような長袖の青と白の格子柄のブラウスと、紺色のズボンを履き、靴は妹とお揃いだった。ファルナは妹と三歳離れていて、背丈は頭一つぶん高い。

「森も、あたしたちと似てるのかも知れないね。お姉ちゃん」
 急にシルキアがつぶやいたので、心を解放してぼんやり白樺の梢を仰ぎ見ていたファルナは、はっとして聞き返すのだった。
「えっ?」
「だって、この風って、きっと森の息づかいだよ」

 空気には適度な湿り気があって、木々の根元には緑色の苔が生えている。山菜をはぐくみ、地味で花びらは小さいけれども赤く色づいた山の花が足元に寄り添うように咲いている。鳥たちは枝を渡りながら重層的に歌声を響かせ合い、小さな羽虫が飛び交う。地を這う足の多い虫たち、シダ植物、きのこ――。
 急な坂道や滑りやすい道、細い道や迷い道、そして最も危険な熊など、気を付けないと危ないことはあるけれど、姉妹の顔は森の中で晴れ晴れとしていた。楽しい想像は膨らんでゆく。

 冷たく透明な湧き水のせせらぎを指さして、シルキアが言う。
「ほら、水を飲んで大きくなるし」
 すると姉は少し考えてから、落ち着いた口調で返事をする。
「ファルナは、オーヴェルさんから聞いたセラーヌ町のことを考えてたんですよん。セラーヌ町は、ラーヌ河の中流にあるから」
「うん、知ってる」
 妹は呟き、それからお気に入りのワンピースの裾が汚れないように注意しながらしゃがみ込んで、帽子を脇の下に挟み、両手を合わせて下へ差し出した。清々しい音を立てて小さな流れの水を掬い、指の隙間から少しずつこぼしつつも持ち上げて、口に注ぎ、喉を潤した。純粋な水が身体に染み込んでいった。

「河の水を飲んで、落ち葉を食べて。森だって、あたしたちと同じなのかなぁ。春に目覚めて、冬に眠って……熊と似てる?」
 再び立ち上がったシルキアは、手の水を払いながら語った。
 一方、姉は草や木に話しかけるような穏やかな口調で言う。
「小鳥さんは、森の喉? 木々の葉は髪の毛、それとも帽子? 背骨は……樹の根? 土はたぶん、身体だと思いますよん」
「こわーい熊は、森の眼なのかも知れないしね!」
 シルキアはほとんど明るく――ほんの少しだけ自嘲気味に笑った。彼女の琥珀色の瞳は悪戯っぽい光を浮かべ、瞳と似た色をした艶やかな前髪が折からの爽やかな風に揺れ動いた。

「花も木も、それぞれ頑張って咲いたり、伸びたりしてる。草や木も、人も、森も、町も……みんな、仲良しになれるかな?」
 いつになく神妙に訊ねた妹に対し、姉は明快な答えを出す。
「ファルナたちは、もうとっくに、森さんと友達なのだっ」
 次の瞬間、シルキアは姉の屈託のない笑顔を見つめて、まばたきをする。それからほっと息を吐き出し、素直に聞き入れた。
「そうだよね……きっと」
 その言葉に姉はしっかりとうなずき、一言だけ忠告をする。
「シルキア。せっかく新しい服を作ってもらったのは分かるけど、森に来る時は動きやすい格好の方がいいのだっ……お母さんも言ってたけど。よそ行きじゃない方が、友達らしいですよん」
 さっそく、森の〈友達〉談義をダシに、ファルナは注意した。
 するとシルキアは素早く白い帽子をかぶり、ほっそりした白い腕を高く掲げて、森じゅうに大きな声で呼びかけるのだった。
「友達だからこそ、お気に入りのお洋服を見せたいんだよ〜」

 その声に反応したのか、いくぶん強い風が通り抜けて、木々の枝と葉を揺らし、ざわめいた。鳥たちの合唱は盛り上がる。
 ファルナは感激に充ちた声で、静かに言葉を紡ぐのだった。
「ここは、草木の家が立ち、動物や虫が住む町ですよん……」
 


  6月16日− 


[風の河など]

 水を流すのだけが河ではない。
 ルデリア大陸の奥には、大地を流れる風の河があるという。
 相反する元素である土と風の融合――まことに興味深い。

 支流を集めて、大きくなり、下流に向かうのも河と同じだ。
 小石の混じった砂煙が立っており、溺れると怪我をする。
 もしくは、ゆったりと煙がめぐっている、とする説もある。
 どちらにせよ、風に閉じ込められた砂塵では息ができない。

 昔は水を流していた普通の河だったのだが――。
 水を吹き飛ばして、風が流れ出した、と伝えられる。
 その時、何が起こったのかは、目下のところ研究中である。

 現地で〈風溜まり〉と呼ばれている〈風の湖〉には近づけぬ。
 嵐の夜、風の河は氾濫し、付近の家を押し流すこともある。

 風の河の上を、川舟も行き交っている。
 ただ、小石がぶつかるので、消耗が激しいのではないか?

 そもそも水が無くなって、生きていけないのではなかろうか。
 だが、もしも風と共に生きる民であれば、全て合点がいく。

 風と共に生きる民よりも、さらに風に近いのが〈風の民〉だ。
 前者は曲がりなりにも大地に住むが、後者は天に住む。
 風の民にとっての風は我々にとっての地面のようなものだ。
 途切れずに続いているし、上を歩けるし、支えてくれる。
 彼らは、風を〈掘る〉こともできるらしい。

 風が途切れる場所は、深い穴になっている。
 それは風の淵と呼ばれ、風の民から恐れられているそうだ。

 ――魔術師ナブレグ
 


  6月15日− 


[時を刻む]

 いまだ年月を経ておらず、背の低い子供の樫の樹と寄り添うように立っている少年は、空を見、白い雲の数を数えていた。
「一つ、二つ……たくさん」
 その樹は海を見下ろす小さな岬の断崖に立っていた。空は青く、海は深緑で、砂浜は狭く岩場が続いていた。季節と季節の合間の、どの季節にも属さない円やかな日の出来事だった。
 
〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 一人の青年が、育ち盛りの樫の樹の枝に腰掛けて、海を見、沖の方で陽炎のようにゆらめいている船の数を数えていた。
「一隻、二隻……五隻、全部で五隻」
 潮の香りを含んだ風に煽られて、青年の黒い前髪が揺れる。遠い汐の音は心地よいリズムを繰り返し、陽の光は波の上でちらちらと輝いていた。それはあたかも夜空の星を思わせた。
 
〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 杖をつき、皺だらけになった老人が、大きく育って幾千もの葉を茂らせている樫の樹を、飽きることなく仰ぎ見ていた。彼は葉の数を数える必要はなかった――思い出すだけで良かった。
 老人は満ち足りた表情で樫の樹を愛おしそうに眺めていた。いつしか黄昏が迫り、後ろ姿が影法師のように溶けていった。
 安らぎの夕闇の中へ。
 
〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 ――そして、夜が来た。
 
〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜
〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜
〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜
〜 ・ 〜 ・ 〜
〜 ・ 〜


 悠久の海の時間で計ると、こうなるのだ。


 それでも海は、朧気ながら記憶に留めていた。


 もう、いなくなった〈かれ〉のことを――。

 


  6月14日− 


[新たな蠢動]

 マホジール帝国の深窓の姫君、十五歳のリリア皇女は今日もとりとめのない重い物思いに耽っていた。古びた宮殿の窓辺を清々しい風が吹いているが、それさえも見下ろしている灰色の町の空気に淀んでしまったかのように貴人には感じられた。

 近年はメラロール王国に大きく水を開けられてしまったとはいえ、帝国は魔法の研究と実践の分野で、かつては最先端の知識と技術を誇っていた。魔術師によって編成された魔法兵団は、強力な魔法を駆使し、情報を活かし、世界最強と恐れられたのである。その後、世界的な魔力の低下とともに少しずつ弱体化し、フレイド独立戦争の際の厳しい雪原での戦で全滅し、今でこそ近衛兵団にわずかに残るばかりとなってしまったが。

 それでも退廃の都マホジールでは、現在でも魔法や世界の研究が盛んに行われている。論理的に攻めてゆくメラロール流の健全な研究と相反し、マホジール流は神秘主義に近く、妖しげな衣装や儀式を伴うこともある。そんなお国柄だからこそ、皇女は何かの折りに耳にして、識っていたのだ――そのことを。

(このままでは、いつか魔法が使えなくなるでしょう)

 仲間割れと巨大な魔法の暴走とされる古代都市の滅亡で、豊かな大森林が半分近く忽然と消え〈死の砂漠〉が生まれた。
 ここ数十年は、本来は妖精族に与えられた月光と草木の〈神者の印〉が強奪され、森の守護者である妖精族の力が少しずつ弱まってきた。大陸の中で最も豊かな自然を謳歌していた〈大森林〉のうち、古代魔法都市の災厄から生き残った場所にも少しずつ〈死の砂漠〉の影が近づき、浸食されている。魔法が弱まっており、魔源界の魔源物質が減っているとも噂される。
 マホジール帝国を繋いでいた属領への魔法通信は途絶え、次々と独立されて版図は狭まる。辛うじてマホジール帝国の本国として統治が行き届いている土地のうち、中央部分は灼熱の〈死の砂漠〉だらけになり、実質上は分断されてしまったのだ。

 リリア皇女にとって、四囲の国際情勢も厳しいが、南の〈死の砂漠〉からも、喉元に刃を当てられているような気がする。魔法イコール国力であった帝国にとって、砂漠の拡大と魔力の低下は常につきまとって離れない、頭の痛い問題の一つである。
 しかし最も不幸なのは、ラーン帝を頂点とする帝国宮廷が、リリア皇女を除き、この問題に対して全く無関心でいることだ。

(草木と月光の神者の、妖精族への返却――)
 リリア皇女の脳裏を一瞬だけそんな考えがよぎったが、彼女は頬を強張らせたまま薄く微笑んで左右に首を振る。未来を諦めきったような、それでいて最後の一縷の希望を託してみたいかのような、ひどく老成した複雑な表情を唇の隅に浮かべて。
 
〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 前代の草木の神者であるサンローン・グラニアが、生涯を掛けて一つの下地を作ったことを、リリア皇女はまだ知らない。
 


  6月13日△ 


[想(3)]

 光は身体を育て、

 闇は心を育てます。

 どちらも大切なもの。


 自分は自分、他人は他人。

 決定的に違うのだけれど、

 妥協し合い、認め合うことで、互いの地図が交換されます。

 世界が、劇的に拡がるのです。


 他人なのだから、意見の違いは当たり前。

 要は、どう擦り寄るかが、大切なのですね。

 ファルナさんシルキアちゃんを見ていると、そう感じます。

 そういうことに気づくのは、時に本の研究より大事だと――。


 明日も、幸多き日になりますように。
 


  6月12日− 


[想(2)]

 無理でも何でも、足を動かすしかないだろ?

 歩かなきゃァ、進まないんだぜ。

 次の街には、な――。
 


  6月11日− 


[季節の雨]


夏――

 強い光が雷雨のごとく、たえず降り注ぎ


秋――

 こぼれ落ちる銀色の月明かりは、霧雨を思い出させる


秋から冬へ――

 赤や黄や茶色の落ち葉は、小夜時雨のごとく気まぐれに


冬――

 星は永久の刻を越えて瞬き、宇宙の慈雨、流星の雨となる


春――

 桜の花びらが、軽やかな霧雨のように舞い踊り


春から夏へ――

 梅雨空にさしたアジサイの傘が

 しぼんで散ってしまうと

 夏がやってくる


雨――

 色々な雨があるけれど、

 いつでも、木陰の傘に入れば守ってくれる

 そして――

 そういう木陰になりたい
 


  6月10日− 


[夢の始まりへ]

「私は……まずは馬だな」
 ルーグが、欲しい物のことを語るなんて珍しいことだった。
 タックと三人、地方の宿の男部屋で話していた時のことだ。
 
〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 騎士になりたくて――それも、異国メラロールの由緒ある騎士団に入りたくて、モニモニ町での学院時代に馬術と剣技の修行を積んだルーグだった。せっかくメラロールに来たものの、異国籍の人向けの登用試験がかなり先と言うことと経験不足を理由にいったん断られ、冒険者になってからは、かなり馬と縁遠くなってしまっていた。もちろん、駆け出しの冒険者だった俺たちには、金銭的な余裕がなかったからだ。シェリアとリンの親父さんはメラロールとモニモニ町を結ぶ商船の船長で、冒険者になると決めた時に申し出れば援助してくれたと思うが、ルーグだけでなくシェリアやリンも自分たちの力でやっていく方を選んだ。

 騎士と馬は一心同体、切っても切り離せない関係にある。馬を駆り、重い鎧を着て鉄の長槍を持ち、主君の恩に報いるために、愛する国と人々を守るために隊列を組んで突撃する騎士は戦の華だ。特にメラロールの騎士団は精鋭揃いで、世界最強の誉れ高く、他の国からも名誉と領地を求めて集まってくる。
「荷馬が一頭いるだけでも、だいぶ楽になると思うのだが。むろん今すぐは無理だが。ゆくゆくは……という希望は持っている」

 街道を歩けば冒険者連中ともすれ違うが、経験の長いやつらは馬を持ってる。馬に荷物を預けられれば体力が温存できるし、何か急に必要なものがある時は、隣町までひとっ走り行ってもらうことも出来る。リンが調子を壊しても、乗せてやれる。

 ただ、山奥や峠道になると道が悪いので、馬があると余計に大変になったりすることもある。俺たちみたいな〈徒歩組〉の冒険者は、むしろ、そういう辺鄙な場所を狙うことになる。山奥にあるサミス村ジャミラの町、深い森の中にあるアネッサ村、名前は忘れちまったが天音ヶ森のある田舎町とか、諸々――。

「確かにエサ代もかかるしなぁ」
 ベッドに寝転がって俺が言うと、ベッドの縁に腰掛けたルーグは低い声で唸り、腕組みして首を少し傾け、応えるのだった。
「草原をゆくなら、無料なのだが……」

 旅の途中、草原はあまり好まない。身を隠す場所がなく、夏は日が暑い上に、一番困るのは雨に降られた時だ。特に強い雷雨のとき、食料まで水浸しになると困ってしまう。身体が濡れると風邪をひく。水を弾く材質の服を羽織ったり、テントを張れば、一応雨が直接に服に染み込むのはしのげるが、限界はある。できれば適度に木が生えている街道を行くのが望ましい。
 
〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 俺はその後、天敵とも言えるシェリアと話し合って、ルーグの夢の実現のため、ひそかに少しずつ貯金を始めることにした。
 


  6月 9日△ 


[霧の彫刻家]

 その森の奥には《霧の彫刻家が一家で住んでいる》と伝えられています。霧と雨の多い季節、ちょっと覗いてみましょうか。

 彫刻家の父は、霧を彫って芸術作品を生み出すそうです。
 母は、霧を集めて作った白い糸で編み物をしています。
 子供は二人いて、二十歳の姉は特製の霧料理を作り、十六歳の弟は器用に椅子を作ります。作るのが好きな一家です。

 ただ、彼らはいつも霧の後ろに隠れているということです。
 せっかくの芸術作品を、残念ながら見ることが出来ません。

 いつか霧で作った眼鏡を掛けて、覗いてみたいと思います。
 


  6月 8日− 


[水時計]

 水車よまわれ
 ゆっくりと時をまわして

 掌からこぼれ落ちる雫と
 水面にきらめいている強い光を
 しっかりとつかまえて――

 水車よまわれ
 時の重さを計りながら
 


  6月 7日△ 



 雲の層が薄くなり、裂けて切り開かれる



 雨上がりの森はしっとりと濡れて

 草木の匂いにつつまれている



 木洩れ日が輝き、蒸気が立ちのぼり、

 水と光の溶け合った〈輝きの粒〉が

 枝先からこぼれ落ちてくる



 見上げれば、梢の間に白いきらめきが息づき

 雫の精霊は透き通った七色に姿を変ずる

 あちらこちらで、つかの間の宝石が生まれ――

 着飾った森を、涼やかな風が通り抜ける

 


  6月 6日△ 


[朝との散歩(2/2)]

(前回)

 丘の上の見晴台で白み始めてきた空は、予想通りいつもよりも青色がはっきりしていた――真冬の頃のように。紅い夕日の時の海もすごく綺麗だけど、厳粛で神聖な儀式に立ち会っているかのような朝焼けは、どんな贅沢よりも贅沢な時間だ。保養に来る貴族の方々にも、せっかくだから見てもらいたいけれど、遅くまでの晩餐会で疲れて眠っているから決して見られない。

 緩やかな弧を描いてエメラリア海岸の白い砂浜が拡がり、海沿いの緑の草原を縫って、レンガ作りの街道が細く長く伸びている。そちらは街の西側に当たるが、日の出を目前に控えた頃なので、かなり遠くまで見渡すことが出来る。空は藍色で、遠浅の海は普段より深くたたずんでいる。
 隣に立っている十三歳のレイヴァの金色の前髪が、ささやかな風にたなびいている。軽く眼を細め、はるか遠くを見ている。

 正面は町の中心部だ。神殿の尖塔は目立ち、港には舟が停泊しているのも分かる。幅の広い道の左右には、大きくて立派な貴族の別荘や宿泊施設が整然と並んでおり、薄まってきた闇の中で背伸びしようとしているかのように見える。それぞれの家にある広い庭には木々が植えられており、街の歴史を感じさせる。郊外に行くと家が小さくなり、道が細くなって、やがて畑と草原になる。その向こう側には果てしない海が続いている。

 左側は東の空で、最も明るい。碧の海は淀みない艶やかな身体を横たえ、連なる空は橙色に染まっている。その上は黄色の帯が続き、最後は青い世界が覆いかぶさっている。今までに見たことがなく、これからも決して見ないだろう〈今日だけの雲〉が浮かび、漂っている。天をも焦がす橙色の期待は爆発寸前にまで高まって、顔を覗かせる瞬間を今や遅しと待つばかりだ。
 ところで僕は橙色と感じたが、妹のレイヴァは紅と言った。見る人や、気分によって、この風景は無限に姿を変えるはずだ。

 ともかく――。
 まもなく陽が昇る。邪神ロイドの統べる夜から、聖守護神ユニラーダ様のかわたれ時を経て、創造神ラニモス様のしろしめす朝がやって来る。光が満ち、凪いでいた風や波は方々へ駆け出し、人々は動き始める。僕らが主役の舞台の幕が開くんだ。

 宝石よりも強い輝きが、ついに海の向こうから現れて、僕とレイヴァは小さく鋭く叫んだ。この移り変わりは、どんなに優れた画家だって描けないだろう。描いたとしても、別物に過ぎない。
 空の懐に比べて、キャンバスはあまりにも小さすぎるから。

 二度と訪れない、真新しい一日が、今ここに産声をあげた。

(おわり)
 


  6月 5日− 


[妖精の舞台]

 公園に、幾つもの【妖精の舞台】が出来上がっていました。

 誰もいない夜の間に、せっせと建設を進めていたようです。

 どんな演目で、どんな妖精たちが、劇を演じるのでしょう?

 私は、招待状が来るのを気長に、楽しみに待っています。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

2004/06/05 妖精の舞台
 


  6月 4日− 


[朝との散歩(1/2)]

 眠る街の、夜の扉をくぐり抜けて、妹のレイヴァと一緒に丘へ登った。東の空はうっすらと藍色に溶け始めていたが、西はまだ漆黒の世界で、星たちは輝きを失っていなかった。空気はひんやりとして、しっとりと冷たく、夜露をたっぷりと含んでいる。

 町はずれになると、道は馬車一台がやっと通れるくらいに細くなり、石畳は尽きて土と変わり、傾斜はやや急になる。この辺りには、昼間でもあまり貴族の方々はやって来ない。しかも時間が時間だから、早起きの農家の人たちとすれ違うくらいで、ほとんど誰とも会わなかった。ミラスの街は東西に長く伸びていて、南の海沿いが貴族の方々の保養地として栄えている。僕らが向かった北の方は、しだいに小さな峠に差しかかってゆく。
 その間も留まらずに進んでゆく刻は、光の粒を空に投げかける。森が深まって、視界は途切れ――木々の間から海が見え隠れする。妹のレイヴァの息が上がってきたので、路傍の石に腰掛けてひと休みする。見上げた空は生まれたての青色で、心が軽く震えた。身体も魂も朝につつまれていく。古い息を吐き出して新しい風を吸えば、胸の中のつまらないわだかまりは紅茶に注ぐ砂糖のように、海の泡のように、快く浄化されてゆく。
 しばらくして僕らは再び歩き出す。その場所はもう遠くない。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 僕がふと自分の部屋で目を醒ますと、昨夜(ゆうべ)の雨はやんでいた。長袖の服を羽織って屋敷の廊下に出て、扉を閉めて歩き出すと、背中の方で別の扉が開く音が聞こえた。立ち止まって振り向くと、僕の隣の部屋からレイヴァが顔を出して――そして僕らの眼は冴えていた。朝との散歩は、こうして始まった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 雨は空の汚れを洗い流してくれる。空が澄んでいると、いつにも増して朝焼けがきれいなはずだ。今日は貴族の方が泊まっていないので、仕事らしい仕事もない。久しぶりのチャンスだ。



(休載)
 
2004/06/02



  6月 1日○ 


[想(1)]

 アジサイのお花って、透き通った雨で染まるんだよね?
 桜よりもピンク色に、藤の花より紫に、海よりも青く……。

 だから雨が降っても、麻里は怒らないよ。
 どんどんアジサイのお花が、きれいになるんだから!

 黄色のお花が少なくなるから、麻里の長靴は黄色にしたよ。
 赤いお花も減っちゃうから、麻里の傘は赤と茶色のチェック。

 梅雨に入ると、いろんなものが鮮やかじゃなくなるけど……。
 灰色の空の下で、アジサイの群れはとても不思議だった。

 ――立花 麻里
 




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