2004年 8月

 
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2004年 8月の幻想断片です。

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  8月31日− 


[天翔ける視点へ]

 荷物を運ぶ馬もなく、長い道のりを越えてきた若き旅人たちが湖畔に連なる町に着いたのは、昨日の午後遅くのことだった。
 その翌朝――食事を終え、彼らの部屋での出来事である。

「行ってみようぜ、見晴し台!」
 ケレンスは金の髪を掻き上げ、青い瞳を輝かせて友のタックに呼びかけた。ゆうべ、酒場の親父に見晴台のことを聞いてから、そのことが頭を離れなくなっていたのだ。しばらく旅が続いたので、今日は特に何の予定のない〈休業日〉となっている。
 通常はあまり出歩かずにゆっくりと体を休め、午前中に溜め込んだ洗濯をし、午後は雑貨屋を廻ったりし、夕方になればちょっとした金の足しになる短期の仕事を斡旋してもらいに〈冒険者ギルド〉を訊ねたり、夜は酒場で周辺の情報を集めたりする。

「よく行く気になるわねぇ。せっかくの休みなのに……」
 魔術師のシェリアはあきれたように言い、首を右に動かしてボキッと鳴らした。顔は日に焼けて黒っぽく、胸元が開き気味の旅人らしからぬ垢抜けた服装がむしろ良く似合っていて、魅力的である。蚊の多い森やぬかるんだ道も歩くので、さすがに長袖の薄手の上着を羽織り、長ズボンを穿いているが、ただのズボンには終わらせず麻織りの民族風の巻きスカートを着用している。女性にしては背が高く、足も長いので、見栄えがした。
「どう過ごそうと自由だが、怪我には気をつけて欲しい」
 リーダーのルーグは否定も肯定もせず、軽く注意するに留めた。一方、同郷の幼なじみで、昔から悪友だった〈相棒〉のケレンスに話を振られ、巻き込まれた形のタックはと言えば――。
 レンズの抜け落ちた伊達眼鏡を掛け直し、彼は腕組みする。
「うーむ……」
 それなりに大きな湖が望める、狭い街道に沿った僅かな高台にある静かな湖岸の宿だ。窓に顔を寄せ、薄曇りの空に霞む湖の対岸の山並みを仰ぎ、驚きの声を洩らしたのはシェリアの妹のリンローナだ。姉と異なり、背が低く地味な服装で目立たないが、草色の瞳と髪はきらきらと光り、素朴で可愛らしい。
「うわ〜ぁ、あれはきついね」
「見晴台って、だいたい高いところにあるから、大変よねぇ」
 既に他人事のシェリアは、ベッドの脇に座って足を組んだ。

「分かりましたよ、でも洗濯はどうするんです?」
 溜め息混じりに――だが笑みを浮かべながら、タックは〈わざわざ折れた〉ふりをした。腐れ縁の親友同士は、体力も好奇心も有り余っており、怖い者知らずの十七歳だ。ケレンスは少しばつが悪そうに下を向き、窓際に立つ年下の少女に頼み込む。
「あのさあ、リン、悪いけどやっといてくれねえか?」
「えーっ?」
 当然断ると思われたリンローナの第二声は、意外であった。
「あたしも行ってみたいと思ってたんだけど、駄目かなぁ?」

 結局、ケレンスとタックとリンローナの若い三人は、さっさと湖水を汲んで洗濯を済ませてから出かけることになった。冒険者たちの休日に、また一つ〈小さな冒険〉が始まろうとしていた。
 


  8月30日− 


[霧のお届け物(3)]

(前回)

ドロネイルさんを思い出すの……」
 ずいぶん前に出会った不思議な泥の生き物のことを頭に思い浮かべて、ファルナはつぶやいた。その間も霧は濃さを増して、しだいに視界は狭まってゆく。細かな水の雫で作られた、柔らかで冷えている乳白色の扉が閉じてゆくようにも感じられる。
「そうだね〜。ドロちゃん、元気にしてるかな?」
 妹も懐かしそうに答える。それから二人はしばらくの間、黙ったまま足下に気をつけながら、ゆったりとした足取りで霧の海原に沈みかかる森の小道を歩いていった。時折、シルキアは立ち止まり、空の方に向かって熊除けの鈴を高らかに鳴らした。
 ちりーん、ちりーん……。
 その清々しい音色は朝の空気にふさわしく、木の葉を震わせて伝わり、淡い光に溶けて響き合い、風に乗って遙か遠く運ばれていった。もしかしたらその掛け合いに、姿の見えない可愛らしい小妖精たちの魔法の唄さえ混じっていたのかも知れない。

「〈切り株広場〉で、いったん休もうよ」
 先陣を切って堂々と身軽に歩いているシルキアが半分だけ振り向いて呼びかけると、背中の方角から姉の返事が聞こえる。
「うん」
 姉の姿はまだ見えるが、いよいよ霧は深まり、森は夢と幻の世界へと変わってゆく。白樺の樹が明るい霧の湖に浸かって、枝や幹が見え隠れする様子は、この世のものとは思えない。
「すてきなのだっ……」
 ファルナの焦げ茶色の瞳はとろんと落ち、雪空のごとき天を仰ぎ、しだいに歩くのは遅れていった。秀麗で繊細で、しかも適度に不規則で不安定な霧の芸術に目も心も奪われていたのだ。
 しかもずっと同じではなく、霧の流れによって見える部分が異なってゆく。山に住んでいる二人は海を見たことがないが、メラロール湾を知る者が見れば、今朝の〈もや〉は緩やかな潮の満ち引きにも感じられたことだろう。あるいは大地に降りた雲だ。
「ふう〜っ」
 詩人の心を持つ穏和な姉は、思いきり霧を吸い込んだ。吸っても吸っても、霧はなくならない。気持ちのいい、おいしい風を飲み込めば、眠さは吹っ飛んで頭はスッキリするし、この森がもっと好きになり、ここに生まれることができたことに対する感謝、そして歓びへと上昇してゆく。自然と素直な微笑みが溢れた。
 そのうち吸い過ぎで息が苦しくなって、彼女はむせてしまう。
「けほっ、けほっ……」
「お姉ちゃーん、何してんのー? 早くぅ〜」
 厚くなった霧の幕の、辛うじて手前に見えるシルキアがやや苛立ち気味に――他方、ほんの少しだけ不安そうに呼んだ。
「いま行くのだっ」
 ファルナは足元よりも、左右や斜め上の景色に見とれながら、あくまでもマイペースに、霧と戯れる朝の散歩を楽しんでいた。


  8月29日− 


「ねむは、ほんとにこの道が好きなんだね」
 感心半分、あきれ半分でサホが言うと、居眠りばかりしていて〈ねむ〉というあだ名をつけられてしまったリュナンが応えた。
「だって、この道の家々って、お花を飾ってるところが多いんだよ。気温よりも、お花を見ると、季節の移り変わりを感じるよ」

 そして二人は、白や紫の秋桜(コスモス)の咲く通りへ吸い込まれていった――空が蒼く、遠く澄んだ、夏の終わりの日に。
 


  8月28日− 


[次の章]

「もう読んだから、めくるわよ」



 ぺらっ――。




「待てよォ、まだ途中なんだから!」



 ――ぺらっ。




「早く〜」
「読むのが早ぇんだよ」
「無駄口叩かずに、読む!」
「……」



「ねえ、まだー? ちょっとめくらせてよ」
「待てっつーの!」
「早く、次の章に行こう」
「あー、やっと読んだぜ。じっくりと内容を噛みしめてな」
「じゃあ、次の章に行くわよ」



 ぺらっ――。




夏から秋に向かうのは、
本のページをめくるよう。
 


  8月27日− 


[霧のお届け物(2)]

(前回)

「やっぱり、霧か……何度見ても面白いね」
 シルキアは目をこすって、不思議そうに眺めている。家の窓から――あるいは朝の道すがら、数えきれないほど見てきたはずなのに、それでもなお今朝の霧も新鮮に感じられるのだった。
 空気は冷えていて、音は良く響いた。視界が狭まる分、聴覚が研ぎ澄まされているのかも知れない。深まる霧で空を飛べずにいる鳥のさえずりや、風で枝先がこすれ合ったり、雫が葉裏にこぼれ落ちる音など、森の生命の息吹が直に伝わってくる。

 その白さは厳冬期の吹雪を思い出させるが、あの荒くれた凶暴と冷酷とは正反対の、穏やかな静謐(せいひつ)さとともにある。高原のお茶に細く注いだ羊のミルクのように奇妙な模様と軽さを伴い、低く降りてきた半透明の雲のごとく拡がってゆく。
 腕を伸ばした霧に、だんだん抱きしめられているようにも感じる。爽やかで、視界を遮る様子はいたずらっぽくもあり、悪い気はしない。妹は腕を掲げて、高らかに熊除けの鈴を鳴らした。
「気をつけないとね」
 霧の森では熊と鉢合わせる危険性が高まる。見通しが良ければ、基本的には熊の方から人を避けてくれるが、森の木々と霧という悪条件では注意する必要があるからだ。熊はもともと目はあまり良くないが、耳は敏感なため、鈴で知らせるのだ。
「ゆっくり行くのだっ」
 細長い小さな樽に土産の葡萄酒を入れてふたを閉じ、それを紐で左手に結びつけて、二人の少女たちは見知った森の道を注意深く歩いていった。霧はすでに森の隅々にまで浸透しているが、足元が見えなくなったり、歩けなくなるほど濃くはない。
「ここ、ドロドロだよ」
 先頭をゆくシルキアが、後ろからついてくる姉に呼びかけた。木の根やゆうべの雨でぬかるんだ土に足を取られそうになる。


  8月26日− 


[雲のかなた、波のはるか(30)]

(前回)

 ほどなくして、川は海に注ぐだろう――。
 黒い〈こうもり傘〉の小舟はかすかに左右に揺れながら、少しずつ少しずつ河の流れに運ばれてゆく。この世の終わりを思わせるほどに赤々と燃えさかっている夕陽の光を受けて、薄く柔らかそうな雲が漂う大空の下、頬を橙に染めて額に手をかざしているレフキルは、斜め上を仰いで最後の問いを投げかけた。

「最後に一つだけ、教えて下さい」
 そこで彼女は息を飲む。水の流れは、かつての若かりし〈空の河〉の轟音とは異なり、海の波と似ているタプンタプンという豊かで味のある響きへと変わっていた。旅の終着は遠くない。
 改めてレフキルは気持ちを振り絞り、老婆の核心に迫った。
「あなたは……」

 潮風が耳を撫で、何度も吹いては止んだ。
 銀の鱗の魚が身体を思いきりひねり、水面から跳ね上がる。
 重い時間が流れた。実際には一瞬のことだったのかも知れないが、待っていたサンゴーンとレフキルにはひどく長く感じた。
 やがて頭の奥底に、淀みない速やかないらえが返ってきた。
『わしのことは〈掃除人〉とでも呼んでもらえば結構』
「掃除……人?」
 サンゴーンとレフキルは同時に、とても慎重な言い方で繰り返した。色々な想像が頭の中を駆けめぐるが、答えは袋小路だ。
 もはや老婆はためらわず、別れ際の置き土産として自らの秘密を――生涯をかけた不思議な仕事を、とつとつと説明した。
『さよう。深い海に生きる魚も、たまには明るい空を泳ぎたいじゃろう。海を這う波だって、たまには雲の気分を味わいたいじゃろう。だからわしは世界中を回っておる。十年に一度、この辺りにやってくるのじゃ。深いところは流れがよどむのでな……』
「……」
 聞き手である十六歳の少女たちの集中力は極度に高まり、身体中が聴覚の固まりになってゆく。しだいに老婆の声を除いた全ての音は消えていったが、そのことに気づかぬまま、二人は雲間に浮かぶ小さな影法師をまぶしそうに見つめていた。
 相手の低い声は、躊躇することなく速やかに続いていった。
『魚にとっての空は、鳥にとっての海なのじゃから。どうしても越えられない向こう側を突き抜けて、水の橋を架けてやるんじゃ』


  8月25日△ 


[大航海と外交界(7)]

(前回)

 いつの間にか肩の力が抜け、楽な気持ちになっていた侍女は、いたずらを考え出した子供のような目で姫に語りかけた。
「姫様にご都合のよろしいことを申し上げますと、移動中は晩餐会も何もございませんし、船上では美味しい出来たての料理が食べられるでしょう。警備の船などはたくさん付くでしょうが……外交デビューと言うことですから、姫様が主導権を握る必要はないと思います。手練れの外交官が代表になると思いますよ」
「確かに、ますます好都合ね!」
 ついつい声の大きくなるララシャ王女と斜めに顔を向かい合わせ、マリージュは人差し指を自分の唇に当てて声を落とした。
「しつこいようですが、これはわたくしたちだけの秘密ですよ」
「もっちろん。とにかく、あたし、やってみるわ!」
 ララシャ王女はめったに見せぬ感激の面もちで、単純に有頂天になり、南国の晴れ渡った空を思わせる美しき蒼い瞳を見開いた。両手を差し出して相手のこぶしを握りしめ、力を込める。

 さて一介の侍女に過ぎぬマリージュと、一国の王女であるララシャ殿下が二人だけでいられる時間など、多いわけがない。切羽詰まった別の侍女が、恐る恐る部屋のドアをノックした。
「ら、ララシャ様、そろそろ晩餐会のお時間でございますが!」
「いま行くわよっ。ほんっとに楽しみだわ!」
 勢いに乗った金の髪のおてんば姫は、軽快なステップでスカートの裾を揺らしつつ部屋を横切り、マリージュに手を振った。
「じゃ、晩餐会に行って来るわ、私。お父様と話しに!」
「行ってらっしゃいませ」
 マリージュはわざと仰々しく膝を折り、礼をした。ララシャ王女は呼びに来た侍女の脇を駆け抜け、嵐のごとく消え去った。
 一陣の風が湧き起こって、微かな芳香が遠ざかっていった。

「どうなすったのかしら、ララシャ様……」
 唖然とした声でつぶやき、引きつった顔をして、目鼻立ちのはっきりした南国の若い侍女はドアから首を出して廊下を眺めた。見違えるような笑顔になって、スカートを振り乱しながら全速力で駆けていったララシャ王女の、慌ただしい足音が小さくなる。
「そういえば、御髪をお直しするのを忘れていましたわ」
 マリージュが平然と言うと、やってきた侍女は顔を青くした。
「まあ大変。あとで王妃陛下に叱られますわ」
「まずはララシャ様が、叱られるわ。でも、追いつけませんよ」
 ひりひりと痛む手を撫でながら、マリージュは一つの物語が怒濤のごとく動き出したのを、胸に染み込む喜ばしい感慨と一握りの不安とともに考えていた。きっと――誰にも止められない。


  8月24日− 


[天音ヶ森の鳥籠(29)]

(前回)

「希望はきっと叶うよ!」
 リンローナの日焼けした額にはあっという間に大粒の汗の珠が浮かび、一筋の流れが頬を伝った。必死の攻勢を維持するため、瞳はきつく閉じられ、眉間には小さくて深い皺が寄っていたが、ケレンスの位置から見える少女の横顔の一部は、心なしかほんの少しずつ和やかになってゆく印象を受けるのだった。
 彼女の唄は、音程こそやや不安定ではあったが、まさに〈望みを捨てない〉と言う強い意思がまっすぐに込められていた。

 耐えられない苦痛にもがくかのように、広場の木々はうごめいていた。細い幹を絡ませ、くねらせ、きしませながら、花のつぼみが速やかに開くかのように外側へと身体を反らせていった。
 魔法の修行を積んでいないケレンスには何も聞こえなかったが、精神が研ぎ澄まされているシェリアとリンローナの姉妹に、天音ヶ森の精霊たちの悲痛な叫びははっきりと届いていた。
『もう支えきれない、決壊だ!』
『保て、守れ! ウワァァ!』
『やめてくれぇ……』
 だが、それを気に留めず、姉妹はなおも朗々と歌っていた。
「この旅路の果てで、誰かが、待ってる!」

 外界とを隔てていた〈鳥籠〉の屋根が開いて、細い紅の光が差し込んでくる。それはあたかも新しい夜明けのようであった。
 ぴったりと硬い枝に閉ざされていた横の壁の部分にも、あちらこちらに隙間ができていて、籠の全体がしおれてゆく様子だ。
「きっと待ってる、ずっと待っている」
「シェリア!」
 今やケレンスの耳にも、シェリアの唄が聞こえ始めていた。


  8月23日− 


[霧のお届け物(1)]

「お姉ちゃーん!」
 妹に呼ばれても、姉はしばらくの間、口を半開きにして心地よい空気を吸い込みつつ、雫のしたたる木々の梢を仰いでいた。
 夜半過ぎに雨はやんで、森はしっとりと湿っていた。朝早い鳥たちがあちらこちらで新しい日の挨拶を高らかに唄い交わし、つい立ち止まりたくなる。夏の終わりの高原の朝は、長袖を二枚着て、薄手の上着を羽織って、ちょうどいいくらいの涼しさだ。
 まばらに生える白樺の木立も、その幹も、葉も、なだらかにずっと続いている歩きやすい林の小道も、つややかに濡れていた。水をおいしそうに飲む草木や大地の息吹が伝わってくる。

「あれっ? さっきまで、すっごくきれいな青空だったのに」
 足元のぬかるみと木の根に注意しながら歩いていた妹のシルキアは、ふとつぶやいた。見ているだけで心が広がってくるような澄んだ蒼い空に、どこからか現れた白い膜が幾重にもかぶさって――辺りの風景は急激に乳白色へと溶けていった。
「曇り……じゃないよね?」
「ものすごい霧なのだっ」
 再び立ち止まり、改めて純白に沈んでゆく空を見上げ、三つ年下のシルキアの問いに答えたのは、姉のファルナだった。


  8月22日− 


 夜の海は星影を映して

 渚は涼やかに凪いでいる

 ……

 あの黒い波の狭間に

 銀のきらめきを置けたなら

 ……

 それを映す空の鏡にも

 新しい「☆」が

 生まれるといいな
 


  8月21日○ 


 空が蒼々と澄んでいるとき
 遠くの山並みが近くに見える

 心が軽々と澄んでいるとき
 昔の出来事が懐かしく浮かぶ

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

お台場(2004/08/21)
 


  8月20日− 


[母の帰郷(3)]

(前回)

 ふいに、どこからか香ばしい匂いが漂ってきました。湧き出す水っぽいつばを飲み込めば、麻里のおなかは軽く鳴りました。
(きゅう……)
 匂いの源を求めて振り向れば、縁側から続く畳敷きの広い和室はいつの間にかだいぶ暗くなっていました。その間も食欲をそそる香ばしさは、次々とたゆむことなく流れてきます。正体が何であるのか、もう麻里にもおおよその見当がついています。
「お魚だ!」
 町の魚屋さんで買ってきた新鮮な魚をたんねんに焼くと、真っ白に膨らんだ炊きたてのご飯に良く合います。そうすれば納豆も欲しくなりますし、みそ汁と卵焼きがつけば、おじいちゃんとおばあちゃんが好んで食べている和食がほぼ出来上がります。

 その時、廊下のきしむ音がかすかに聞こえてきました。しだいに近づいてきたので、麻里は振り向いたまま、じっと耳を傾けています。やがて足音は止まり、静寂が耳の奥に響いて――。
 部屋の反対側のふすまに隙間ができて、ゆっくりと右に動き出しました。オレンジの西日を受けて、人影が立っています。
「おじいちゃん」
 麻里がつぶやくと、白い髪で眼鏡をかけていて、腰が少し曲がっているおじいちゃんは、なまりのある声で言うのでした。
「麻里ちゃん、ゆうげ(夕食)だよ」
 すると麻里はすぐに立ち上がって、笑顔でうなずくのでした。
「うん!」

 家の中からは、紅く染まった雲と空の切れ端しか見えませんが、日は沈もうとしています。遠い空には色とりどりの星が明るいものから順に飾りつけられて、もうすぐ晩餐会が始まります。

(おわり)
 


  8月19日− 


[母の帰郷(2)]

(前回)

「ふぅーっ……」
 いったん息を吐き出してから、胸を開いて大きく吸い込めば、透明な空気が口からのどを通って肺にまでたどり着き、体の裏側、頭の奥の方へとしみこんできます。山川の水と同じように、澄みきった風には味も色もなく、それでいておいしいのです。

 母の実家の、古びてはいるけれどもよく手入れされた木の縁側に座って、二年生の麻里は両脚をぶらぶらさせていました。手を後ろについて、上体を少し反らせ、軒に切り取られた暮れゆく天の一部分を眺めています。かすれた雲がいくつもの斜めの筋となって一面に広がっています。それはきっと、空が今日のために作った、一日だけの不思議な模様の衣なのでしょう。

 都会ではなかなか味わえない、とても静かなひとときです。
 たまに地元の子供たちの歓声が聞こえたり、自転車のベルの音が聞こえたりしますが、曲がりくねった丘の道で、車のエンジン音はめったに聞こえません。それでもひっそりしているわけではなく、虫たちの唄や風鈴の涼やかな音色はかすかに高らかに続いていて、遠くないはずの次の季節を予感させました。
「静かだねー」
 独り言をつぶやくと、麻里は少しだけ頬を赤らめ、背筋を伸ばして縁側に座り直しました。それでもまた、すぐに後ろ手をつき、眼を見開いて、暮れゆく空の片隅を飽きることもなく眺めるのでした。風は黒い前髪を揺らして、腕のうぶげをなでました。
 身体の疲れが、夜の訪れとともに静かに蒸発してゆくような、まろやかでゆったりした安らぎの感覚が舞い降りてきました。


  8月18日− 


[母の帰郷(1)]

「風……」
 そのありかを追い求めるように、麻里はゆったりと首を傾げ、庭の左から右へと瞳を向けました。都会とは違って、川を渡り、林を抜けて、丘を登ってきた風は驚くほど涼しかったのです。
 七分袖の服の袖口を軽く揺らし、風は通り過ぎていきます。

 西向きの縁側には、昼間に比べるとずいぶん優しく、おとなしくなった紅い日差しが、部屋の奥の方まで入り込んでいます。
「お日様も、おうちに帰る時間なのかな」
 そう言った後、麻里は夏服のへその辺りを手で抑えました。
「おなかへった……」
 ずいぶん食べたはずのお昼ご飯のそうめんには羽が生えて、おなかの向こう側にある別な世界へと飛び去ってゆきました。
 夕食には少しだけ早いのですが、空腹感は強まっています。日は落ちかかっていますが、外にはまだ明るさが残っています。今から出かけるには遅いけれど、犬の散歩をしている人たちを見かけます。昼と夜とが力比べをして、顔は真っ赤です。

 目の前には垣根があって、細い道の様子がうかがえました。庭の隅には柿の木が育っていて、緑色の葉が淡く輝きます。
 家々が立ち並ぶ丘の中腹ですが、すぐ下には林が残っていて、風鈴の音と、蝉の声、そして秋の虫も混じっていました。
 遠く、ふもとの小駅を出発した汽笛の音と、列車が立てるレールの切れ目を打つ音も、丘全体に微かに響き渡っています。
 その澄んだ音色の数々が、この町で迎える一つの夏の夕暮れを静かに、時には熱っぽく、ささやいてくれているようです。
 柿の木の影は伸びて、庭の雑草もほんのり紅く染まります。


  8月17日− 


[絶海の楽園(下)]

(前回)

 ルデリア世界を旅する者の間では、フォーニア国は一生に一度は行っておきたい場所として語り草になっている。マホジール帝国のミラス町は保養地として有名だが、貴族向けの感が強い。フォーニア国は亜熱帯の島全体が天然の保養地となっている。熱い陽射しと赤い太陽、白い砂浜と碧色の珊瑚の海、高床式の家々と陽気な漁師たち――。あまりの居心地の良さに、そのまま居着いてしまい、帰ってこない旅人も多いという。

 遠いところに行くほど話に尾ひれがついて、北国のメラロール辺りでは天上世界(天国)のような印象さえ持たれているフォーニア国だが――不定期船が出ているシャワラット町や、その対岸のエルヴィール町では、もっと現実に近い話が流れている。

 その噂話を蒐集してみよう。なお、みな瞳を輝かせて懐かしい想い出を語りだし、話が止まらなかったことを付け加えておく。
「白い砂浜に、赤や黄色のド派手な花が咲いてるんだ」
「熱い太陽が照りつけてるし、汗はかくけど、カラっとしてるわ」
「伯爵の居城だって、石をほとんど使わず、開放的なもんさ」
「銀色の鱗の、魚の美味いこと美味いこと!」
「シャワラットの三日月湾もきれいだけど、フォーニアはそんなもんじゃないわね。波が驚くほど穏やかで、遠浅の神秘の海よ」
「すっげぇ薄着のべっぴんさんが、いっぱいいたぜ!」

 町の中央部にのみ、マホジール帝国から伝播された石の家がわずかに建ち並ぶが、それ以外は高床式の家々が並んでいる。つい最近まではマホジール帝国の属領、オレオニア辺境国だったのだ。しかし帝国の衰えとともに実効支配はほとんど及んでおらず、オレオン伯爵に大幅な自治権が与えられていた。
 そのためフォーニア国としての独立の道を選んだ際も、特に大きな混乱はなかった。マホジール帝国の関係者は一時的に幽閉されたが、すぐに解放され、彼らは組織的な抵抗を見せず島を去るか、これまでの身分を捨ててオレオン伯爵に仕官した。

 一年中温かく、季節感に乏しいが、雨季と乾季がある。
 気温は高いものの、湿度は低く、爽やかで心地よい。
 銀色の魚が珊瑚の海を駆けめぐり、美味である。必要なだけの魚を獲って、甘い果物と果実酒、わずかな穀物を作り、音楽好きの人々はのんびりと穏やかに日々の営みを続けている。

 地上の天国という、遠国の噂は言い過ぎではあるが――。
 ここは、まさに〈絶海の楽園〉である。

(おわり)
 



[旅の途の小さな断片集]


8/10(火)

 小川に沿って歩く
 雲が流れ、池を過ぎて
 そして――
 この胸が充たされる


8/11(水)

 カメラは風景を鮮明に残す
 心は印象をあいまいに写す
 どちらもどちらの良さがある

 だけど心は気持ちのカメラ
 思いによって色合いを変え
 意識によって解像度が変わる
 ズームもマクロも自由自在

 ただし調子が悪ければ
 気分が乗らないときならば
 モノクロにもモザイクにもなる

 わたしの元気な腕前で
 すてきな《写心》を残したい

 今日も素敵な一日を
 忘れられない思い出を


8/12(木)

 星を追いかけてゆこう
 夢とうつつのはざまで

 いつか、追いつける日が
 きっとくるから


8/13(金)

 一日の終わりに
 暮れゆく時分に
 虫たちの声と、静けさを――

 それが、何よりの贈り物


8/14(土)

 場所は違っても
 海はつながっているんだ

 あの夕陽を浴びた陰影の濃い岩山は
 遠い北の浜で見たものに
 どこか面影がある

 南東側の海とは様相を異にする
 北西の海は今日も蒼く、荒々しい

 日本海
 どこまで行っても日本海



8/15(日)

 心に余裕をもつこと
 あの森のように
 懐を深くして

 それで
 どんな状況の中からも
 ひとつぶの楽しみを見いだしたい


8/16(月)

 旅の前、地図は手の中に
 旅の間、地図は鞄の中に
 旅の後、地図は頭の中に
 


  8月 9日− 


[絶海の楽園(上)]

 ルデリア世界の北の果ては、実際の所、よく分かっていない。大都市の宮殿や大学にある世界地図は、たいがい北西のヘンノオ町から北東のマツケ町を結ぶラインまでしか描かれていない。まれにその北について描かれているものがあっても、地図によって海岸線や山脈の位置が異なり、信憑性が低い。
 ヘンノオ町のはるか北にはカチコール村があり、マツケ町のさらに内陸には獣人族ヒシカ村があるとされているが、行き来する者は少なく、大都市の住民からすればほとんど伝説に近い場所だ。その向こうは住む者が僅かで過酷な寒冷地で、横断した者はいないため、果てがあるのかは不明だ。大規模な森林と荒れた大地がひたすら続いて、人々を寄せ付けないでいる。

 その点、ルデリア世界の人々の知識が及ぶ現在の南端は、ほぼはっきりしている。ラット連合国シャワラット町から唯一の不定期船が出ている、南海のかなたのフォーニア国である。


  8月 8日− 


[夏の街角]

 角を曲がり
 公園の緑の屋根が見えるころ
 突然、雨足が強まってきた

 近づけば近づくほど
 猛烈に雨は降り注ぎ
 雨音は耳の奥にまで突き刺さる

 あちらで雨が降り
 こちらでも降り注ぐ

 こちらで雨を降らせ
 あちらも応える

 それは雨であり、雨ではない
 声の雷雨だ
 不器用で懸命な
 蝉たちの〈蝉時雨〉だ

 地上での生涯を賭して謡う
 短い命の雨なのだ

 いずれ歌い手は倒れるだろう
 それでも彼らは
 乾いた雨を降らせ続ける

 あの雨が止むときに――
 夏は静かに終わるのだ
 


  8月 6日− 

  8月 7日− 


[雨の日のちょっと優雅な楽しみ方 〜サミス村編〜]

 西の方から灰色の雲が近づいてきて、夏の野山はすっかり覆われ、辺りは薄暗くなった。最初の雨粒は錯覚か幻のように舞い降りたが、次の粒、その次の粒が続いて、やがてその間隔は狭まり、太鼓を打つかのように厳然とした行進が始まった。
 目にも留まらないほどの速さで、長い線を描いて落下してくる大きな丸い水滴たちは、角度の急な赤屋根を打ち、樋を流れて一度合わさった。かと思えば、再び飛び出して風に乗り、地面に弾け、やがて大地を濡らし――その懐深く染み込んでゆく。
 それが短い間に数えきれないほど果てしなく繰り返され、土や草木が飲みきれない分は凝り固まって水たまりを形作った。
 まばゆい稲光は輝かず、重々しい雷鳴はとどろかないが、居座る雨は当分やみそうになかった。まだ長い午後の真ん中くらいなのに、家の中は秋の夕暮れのように明度が下がり、ランプをつけるかどうか迷うほどだった。風雅な窓やドアの隙間から、湿り気と涼しさが迷い込んでくる。村の景色はぼんやりと霞み、通りを往来する人々の姿もほとんど絶えた。農作業の人たちはとっくに雨の匂いに気がついて雨宿りの体制を整え、今ごろは森の入口の傘の下、弁当の残りを手に休んでいることだろう。

 一階の酒場に並べてある木の椅子に腰掛けて、シルキアは首を左右に動かしていた。ある程度肩がほぐれると、今度はじっと窓を流れる雨の滴を追っていた。目の前のテーブルに置いてあるカップに手を出し、少し温くなった紅茶の残りをすする。
「落ち着いちゃったねー」
 シルキアは宿屋と酒場を兼業している〈すずらん亭〉の娘だ。朝早く起きて食事の用意を手伝い、午前中に酒場を掃除してベッドのシーツを取り替え、昼過ぎにいくぶん早めの食事を摂ってしまうと、一日の中で最も緩やかに過ぎゆく息抜きの時がやってくる。宿の客は出かけているし、酒場はまだ開いていない。
 母と一緒に外へ買い物に出かけたり、姉のファルナや近所の子らと遊んだり、父のワインづくりの手伝いをしたり、若き賢者オーヴェルのもとを訪れて世界についての話を聞いたりする。
 今日は急ぎの買い物はないし、雨の中、わざわざ出かける用事もない。客用のシーツや、自分たちの服の洗濯もできない。
「ねえ、おねえちゃん……ん?」
 隣のテーブルに腰掛け、ぼんやりとうつろな目で座っていた三歳年上の姉のファルナに話しかけたシルキアは、とたんに苦笑する。相手はいつの間にか前後に頭を揺らして舟を漕ぎ、気持ちの良いまどろみの世界へといざなわれていたからだった。


 外の雨を見ながら、珍しく物憂げな様子だった姉は、単に眠かっただけなのだろう。酒場と宿の仕事は朝早く夜遅いのだ。
「お姉ちゃん、寝てるよ」
 ほんの少しだけあきれたような調子を籠めてシルキアが呟くと、返事は全く別の方から届けられた。それは母の声だった。
「疲れているのよ。シルキアは眠くないの?」
 娘は視線を右の方に動かし、薄暗い中、窓の方を向けた大きな椅子に腰掛けて裁縫を続けている母の横顔を見つめ、言う。
「うーん、ちょっとは眠いけど……でもつまんないな」
 活動的な次女は、まだ十四歳の育ち盛りである。野山には命の恵みを注ぎ込み、村の大人には安らぎをもたらす雨も、元気が有り余っている若い彼女にとってはいまいち腑に落ちない代物だった。冬の雪ならば、それはそれで楽しめるが、夏場の雨は服から靴から髪の毛まで濡れてしまうし、土の道では泥だらけにもなる。特に大雨の間は、何もできないのが悔しかった。

「いつも忙しいのだから、たまには休むのもいいわよ」
 母は少し手を休めて、シルキアに呼びかけた。その声が終わったのを合図に、再び外の雨足は強まり、水玉が窓を打った。
 街道の果て、辺境の山奥にサミスの集落は位置している。
 何度か目をしばたたき、目をこすった母は、編みかけの服を膝の上に置いて軽く伸びをした。酒場の空気は涼しくなっていて、秋の始まりを予感させる。次の季節が来れば、日によってはぐっと冷え込んで、朝晩は暖炉に火を入れることもいとわない。
 母は編み物の道具類をテーブルに乗せておもむろに立ち上がると、部屋の隅に歩いてゆく。上下に離れて並んだ丸い木の突起の一つに掛けたベージュのカーディガンを取ると、今度は居眠りするファルナの所へ歩いてゆき、優しく背中に重ねた。

 シルキアがカップを斜めに傾けると、底にわずかに残る紅茶は窓の向こうの景色をおぼろに映して、少し灰色に染まった。
「うーん、そうだね。虹が出るまで、あたしも寝てようかな」
 顔を上げて、彼女が結論を出した――まさに、その直後だ。
 日課である厨房の掃除を終えて出てきた、がっしりとした体つきの父がドアを開けて顔を出し、酒場を見回した。最初に妻と目を合わせ、ついで娘のシルキアと視線を交錯させた彼は、最後にファルナが寝ていることに気がつき、声量を抑えつつ喋った。
「シルキア、時間は空いているかな?」
「うん、お父さん」
 いつしか動くのがだるくなり始めていたシルキアは、椅子に座ったまま軽く応じた。すると父は突然、ある一つの提案をした。
「せっかくだから、一緒にケーキでも焼くかい?」

 一瞬だけ時間が止まり、激しい雨音も聞こえなくなった。
 次の刹那、話を理解したシルキアは真っ先に手を挙げた。
「賛成! ケーキ焼こうよ」
「しーっ……」
 母が口元に人差し指を当てた。シルキアははっと気がつき、さっきから夢の世界をさまよっているファルナの様子を眺めた。
 父と母と妹が固唾を呑んで見守る中、テーブルに突っ伏していた姉に変化が起こった。せっかく背中に掛けてもらったカーディガンが滑り落ちるのも気がつかずに、首をさも重そうに持ち上げる。寝癖のついた茶色の前髪を気にせず、口を開いて――。

「ふわぁ? ケーキ、食べきれないのだっ……」
 ほとんど開いていない細い目をこすりながら、ファルナは不明瞭に喋ると、そのまま再びテーブルに突っ伏した。彼女らしい穏やかな寝言に、家族からは温かな笑い声が起きたのだった。
「じゃあ、作ろうか。何にしよう」
 父の先導で、シルキアと母は厨房に向かう。酒場に残されたファルナの背中には、薄手の上着がきちんと乗せられていた。
 雨はまだ降り続いていたが、西の空は少し明るくなってきていた。やがて雲が割れて光が注ぎ、虹の橋が架かるだろう。
 家族はケーキを食べながら、その空を見上げるはずだ――。
 


  8月 5日− 


[雲のかなた、波のはるか(29)]

(前回)

 背中合わせの友の言葉にサンゴーンはうなずいたが、その仕草では相手に伝わらないと思い直し、改めて同意の意思を告げた。黄昏の淡い光に横顔を照らされて、草木の神者は言った。
「はい、ですの」
「大丈夫。サンゴーンがうなずいたの、わかってるよ」
 レフキルの補足ははっきりとした明快な口調ですぐに行われた――あふれるほどの温かな気持ちを込めて。サンゴーンは、今度は何も言わずに腕を伸ばして、友の手を再び握りしめた。
 旅の涯て、という印象を強く感じずにはいられない大海原の水面はかなり近づいており、蒼翠の海の模様を思わせる白波の群れも、さっきよりも詳しく見分けられる。空の河も、行き着くべき所はやはり海に注いでいるのだ。全てのものが帰るべき場所へ帰ってゆく、と語った老婆の言葉が二人の脳裏をよぎる。
 潮の香りは一段と強まり、空のさわやかさはほんの少しずつではあるが遠ざかっていった。空の底と海の天井をかすめながら、ゆったりと進む潮水の大河に運ばれてゆく古の傘の舟人たちは、気高い風と慈悲深い波とを同時に感じることができた。

 やや日に焼けたサンゴーンは、もう泣かなかった。常につきまとっていた心配や悩み事が一時的にせよ昇華したかのような、とても安らいだ顔をしている。助けてくれた風と、亡くなった祖母の声の関連について、空から見守ってくれている祖母の存在――最も真相に近づきたかった話を老婆から聞くことが叶い、過ぎ去った出来事に一つの〈確信〉が持てるようになっていた。
 もっとも、その件について謎めいた老婆からさらに深く聞き出せるようには思えなかった。夕陽に染まった赤い縁の薄桃色の柔らかな雲を背景に、黒い影となっている浮かんでいる老いた女性の、その周囲に漂っている見えない空気の層から察するに、すでにサンゴーンの祖母についての質問の可能性は閉じられていたように思えた。そうでなくとも、サンゴーンとレフキルには相手へ伝えるべきことや訊ねたいことが山ほどあったのだ。

 最後の緩やかな曲線を曲がり、海に注ぐ河口が見えている。随分と酷使した黒いこうもり傘は、今のところ壊れる素振りを見せないで、ほとんど音を立てず健気に水を滑り降りてゆく。大河をゆく一枚の葉と変わらず、船の進度はますます落ちて、名残を惜しむかのように、きわめて遅くなり――それと比較して、たゆまずに動き続ける時間の流れは速く、非情に感じられた。

 この不思議な旅と、老婆との別れが近づいている。
 それは予感でも何でもなく、極めて重い〈現実〉だった。

 相当の勇気を振り絞ったのだろう、サンゴーンは眩しさに目を細めつつもしっかりと顔を上げて、老婆の姿を瞳の中に捉えた。握りしめたままのレフキルの手に軽く力を込め、傘に腰掛けたままの姿勢で、驚くほど朗々と響き渡る澄んだ声で語り出す。
「もしもあなたが、風に頼んだ人に連絡を取れるならば……」
『……』
 太陽が薄雲に隠れ、黄昏の彩度が下がり、老婆の表情をほんの一瞬だけ垣間見ることができた――ような錯覚があった。
 すぐに雲を抜けて現れた強い光をきちんと受け止めて、サンゴーンは精一杯の想いのたけを言葉に載せて、夕風に託した。
「私とレフキルからの〈ありがとう〉を、伝えてくださいの」
『もしも会えるのならば、伝えておこう』
 貴重な時間を知っているのだろう、老婆のいらえは迅速で無駄がなかった。サンゴーンほっと胸をなで下ろし、頬を緩めた。
 しばらくの間、黙って成り行きを見守っていたレフキルは、熱く高貴な望みを焚いて、ここぞとばかりに切なる頼みを告げた。
「あたしからもお願いします」
「そして〈ありがとう〉ですわ。こちらは、あなたに贈りますの」
 素直で飾り気がなく、これ以上ないくらいの最高の笑顔で、サンゴーンは言った。額と脇の下には、緊張で汗をかいていた。


  8月 4日− 


[大航海と外交界(6)]

(前回)

「はぁ? 何それ」
 というのが、侍女のマリージュが必死で考え抜いた〈秘策〉を聞いた時の、ララシャ王女が示した最初の素直な反応だった。
「あたしが外交デビュー? お門違いでしょ?」
 世界に冠たるおてんば姫は、信頼を寄せていた数少ない侍女のとんでもない提案に驚きを隠せないでいたが、次の瞬間には早くも明らかな不満と反発とがくすぶっている様子であった。
「それって、本当はもっと不自由になるんじゃないの?」
「順を追って説明しますので、どうか……」
 マリージュは決して相手に〈指示〉するのではなく、あわてずに声を落として注意深く頼んだ。対する国王の長女は右足のつま先をせわしなく縦に動かして貧乏揺すりを始めながらも、何とか自分を抑えて腕組みし、ややトゲのある口調で言い放った。
「分かったわよ。じゃあ、早く説明しなさい」

 蒸し暑さの残る南国の午後は、少しずつ暮れようとしている。
「姫様が表立って外交をする必要はございませんよ。建前は外交と言うことにしておいて、実際には旅行をしてしまうのです」
 分かり易い言葉を選びながら、ベテランの侍女は語りかける。その内容は、確かに他に聞かれてはまずいほど大胆だった。
「旅行?」
 ララシャ王女は少し心が動かされた様子で、貧乏揺すりをやめて上体を前に動かしかけたのだが――それは束の間の出来事であった。淡い幻想よ、とでも言いたげに笑 顔がひきつり、幻滅した表情になった王女は、小声で本音をつぶやくのだった。
「そんなの、頑固者の父上と母上が許されると思う?」
「ですから……」
 マリージュは珍しく額にうっすらと汗をかいており、緊張で喉が渇いたのか、つばを飲み込んだ。彼女には、それほどに重大なことを喋っているという認識があった。最悪の場合、王女をたぶらかした、そそのかしたという罪で捕らえられ、処刑されるかも知れない。覚悟をした上の賭けであったし、言葉や仕草の細部にも〈後悔はしない〉という強い意志が感じられたが、責任という名の見えない岩は彼女の両肩に重くのしかかっていた。
「ですから、きっと国王陛下も王妃陛下も納得して下さるであろう、外交デビューという理由を前面に押し出してしまうのです」
「信じてもらえないに決まってる。あんたも疑われるわ」
 ララシャ王女はひときわ声を抑えて言った。彼女はわがままで気ままでおてんばではあったが、感受性は豊かであった。

 侍女は顔を紅潮させ、震える声で、しかしはっきりと言った。
「姫様が心から自由を望まれているのは以前より気づいていました。そのためのお手伝いができるのであれば、どんな恐怖も厭いません。それがお仕えするということだと考えています」
 ララシャ王女はいつの間にかうなだれて、侍女の語りを聞いていた。黄金のように豊かな前髪が軽くこぼれ、宝石が光る。

 マリージュの緊張は、むしろ話せば話すほど、ほぐれていった。ふっと息を吐き、マリージュは明るい表情になって続けた。
「ただし、実のところ姫様には〈お仕えするという印象を持つことは少なくて、とても大切な友達や親友のように感じるのです。たいへん僭越な考えで、不敬罪に相当するかも知れませんが」
「そういうのは不敬罪とは言わないのよ」
 ぱっと顔を上げたララシャ王女からは、まるで反射神経のように素早く、舌鋒鋭く、言葉と気持ちがしなやかに流れ出した。
「そういうのは、不敬罪とは関係ないわ」
 繰り返してつぶやいた時、姫の横顔は全く変化していた。気が張っているところや背伸びしている部分が溶けて、ごく普通の十五歳の少女と何ら変わらぬ穏やかで優しい笑顔だった。


  8月 3日− 


[天音ヶ森の鳥籠(28)]

(前回)

「シェリアっ!」
 明白なケレンスの叫び声が〈鳥籠〉の中にいるシェリアにも伝わってきた。ややくぐもった声だったが、錯覚とは思えない。その声には現実に根を下ろす、何らかの証を含んでいたからだ。
 頭の中には強烈な痛みが駆けめぐっていたし、歯を食いしばって歌い続けていたシェリアだったが、魔法の力を帯びていないはずのケレンスの呼びかけは不思議と内側に届いていた。
 むろん、妹のリンローナのつたない歌声は言うに及ばない。少し疲れているが充実感にあふれている、草木の匂いを絡めた夏の夕暮れの空気を震わせて、まっすぐに響いてくる。やや音は外れているが、少女の高い声は必死に放たれていた。

 ケレンスとリンローナの呼びかけに、シェリアは言葉で返事をすることはなかった。彼女が選んだ最も明快で賢明な回答は、集中力を保ちながら、流れを壊さずに歌い続けることだった。
「知らない町まで、歩いてゆこう」
 それは正式な名前のない、一つの魔法であった。

 姉妹から発せられた見えない音の渦が、蚕の繭のように絡まり合って唄の竜巻を形作り、精霊たちの閉じた世界を打ち破ろうとする。事実、シェリアは〈鳥籠〉の中を突風が駆けめぐって髪が一斉に持ち上がるのを感じていた。それは嵐の晩に家の戸が飛ばされ、風が直接吹き込んでくるような状態を思わせた。
『まずい、まずい』
『頭が痛いよ!』
『立て直さなきゃ……』
『どうすればいいんだい!』
 唄を信奉する精霊たちは、ある意味では人の鼓膜を彷彿とさせる〈鳥籠〉の壁を守ろうとしていた。しかし皮肉なことに、気持ちの通じ合った唄が持つことのできる根元的で奇跡的な刹那の芸術を、彼らは知らなかったのだった。外見は立派だが中身の思想は薄っぺらな〈鳥籠〉は内外の〈唄〉にさらされてきしみ始め、自らは生み出さずに批評することが生き甲斐であった精霊たちは一挙に浮き足立ち、動揺から恐慌へ陥ちていった。

「幸せさがしに」
 互いの姿は見えずとも心の奥底に同じ伴奏を共有しているかのように、リンローナとシェリアの呼吸はピタリと合っていた。
「希望はきっと」「叶うよ!」
「この旅路の果てで」

「あっ!」
 鋭い声をあげ、思わず〈それ〉を凝視したのはケレンスだ。
 嘘ではなく、夢でもない――森の広場の中央で絡まり合っていた謎めいた木々の枝が、まさに蛇を思わせるように身をよじらせたのだ。それは脱皮の際に昆虫が皮を剥ぐのに似て、あるいは花のつぼみのごとく上側が少しだけ開き、光が差し込んだ。
「もう少しだ。リン、負けんなよ!」
 あの奇妙な〈鳥籠〉に駆け寄って剣を振るい、無理矢理にこじ開けてシェリアを救出するかどうかの浅はかな迷いは振り切った。ケレンスは二人の唄を邪魔せず、励ますことに決めて、リンローナの華奢な肩を下から支えている腰と腕とに力を込めた。


  8月 2日△ 


[新しい世界へ]

「見ろよ、どこまでも続く、あの白い砂浜を!」
 筋肉質の太い腕を掲げ、体格の大きな若い男は大きな野太い声で言った。染み込んだ汗でやや臭っている皮の胸当てを着用し、腰には長剣を帯びている。顔や手は日焼けして浅黒い。
「はー。何を言ってるんですかー」
 心からあきれたように言ったのは、全体的に小洒落た服装をしている十代後半の少女であった。首周りにレースの飾りが付いた薄桃色の半袖の肌着に、白のカーディガンを羽織り、黒の長ズボンを穿いて、両手を後ろ手に組んで立っている。背は高くも低くもなかったが、痩せ気味の体格で、横の戦士風の男性と並んでいると彼女は半分ほどの大きさにしか見えなかった。

 甲板を駆ける潮風は涼しかった。二人の髪は揺れ、乱れた。
「なんて美しい景色なんだ……」
 蒼く澄んだ深い海と、遠ざかる港町、浜辺の姿を一心に眺めていた頑強な男は、いつの間にやら瞳にうっすらと涙の珠を浮かべていた。感極まれり――とでも表現すべき状態であった。
「信じらんない。また泣いてる……」
 他方、斜め後ろにいた年下の少女の方は、ますます冷淡になっていた。他の乗客と比べて、二人の反応は両極端だった。

 白い砂浜は熱く燃え、蒼い海と渚には柔らかな波が立ち、中規模の川の河口には灰色の海鳥たちが憩っている。旅客用の帆船は陸からつかず離れずの距離を保ちつつ、微かな追い風を受けて帆を膨らませ、清らかで塩辛い海原を滑っていった。
 雲から再び光がさすと、夏の太陽は見えない炎のかけらを散らす。細い少女は困惑気味に顔をしかめて、額に手を当てた。
「あたし、部屋に帰ってるんでー!」
「ああ。俺は海を見ている。その向こうに懐かしい町を重ねて」
 男は震える声で語り、少女は手を挙げて降参の仕草をした。
「もー、ほんと付き合いきれないよ」

 運命のいたずらで組まざるを得なくなった、格式に生きる古風で頭の固い涙もろい戦士と、冷静で自由を愛する少女が織りなす物語の中で――これはまだほんの序章の一つに過ぎない。
 新しい世界が、今まさに二人の目の前に広がっている――。
 


  8月 1日− 


[四ヶ国会議の背景]

 マホジール帝国に属しているリース公国は、西海に面した小さくも豊かな農業国家と思われがちである。しかしながら、かの国は複雑な歴史を経ていた。年月がめぐり、時は満ちて、いま再びルデリア世界の近隣諸国から熱い視線を注がれている。

[歴史]
 自国内の内乱に破れてメラロールの都を追われた、かつての〈メラロール帝国〉の皇帝は、残った軍を何とか取りまとめて自らの版図の南端であったリース町へ撤退した。だがそこで、彼は以前から冷ややかな関係にあったマホジール帝国と、新生のメラロール王国とに南と北から挟まれる形となってしまった。
 そこで皇帝と側近は考えに考え、ぎりぎりの議論を重ねて、誇りを捨てて異国マホジールの軍門に下ることで命脈を保とうとした。あとはマホジール側がそのような無謀な提案を受け容れるかどうかだったが、結果的は成功する。マホジール帝国領のリース公国が誕生するに至り、美しき風車の町リースは戦火から免れた。新生メラロールと、マホジール・リース連合の両軍はオニスニ河畔で向かい合ったが、矛先を交えず共に退いた。
 マホジール帝国は理解に苦しむ外交施策が多い。かつて広すぎる版図を持ち、もはやそれに匹敵する力も意志もなく、支配者から民衆までに蔓延する〈諦め〉によって、属国の離反と国家の縮小を繰り返してきた。頽廃の国家と言われるが、属国であったミザリアやシャムル、南ルデリア共和国のの独立時に軍事的行動を起こさず、しかも頑なに新国家を認めようとしない。

[民族]
 現在のリース公国は、もともとメラロール系の国家の一部であったことは[歴史]の説明の際に触れた。そのためリース公国の民族構成は、メラロール王国と同じく北方民ノーン族となっている。親国家マホジールはウエスタル族が主であり、異なる。

[内部事情]
 前代のリース公爵が五十代半ばで急死した後(これについては未だに暗殺説が絶えない)、リース公国の指導部は混乱した。公爵の直系の子供は、二十歳のリィナ公女しかいなかったからである。傍系の男性公爵を後釜に立てる話もあったが、争いを避けるために当面は公爵の座を空席とし、リィナ公女が公女の地位のままで公爵代行を務めるという形に落ち着いた。
 リース公国は、政治的な中心地であり農村に影響力を持つリース町の他、西廻り航路上にあって貿易の中継点となっている港町リューベルが都市としての力をつけてきている。リューベル町の新興商人たちの考えは、南ルデリア共和国と相通ずるものがあり、それらの勢力は決して無視できなくなりつつある。

[周囲の思惑]
 豊かな恵まれた土地を持ち、文化も秀でているリース公国を虎視眈々と狙っているのは、今や世界最大の国家となったメラロール王国と、誕生して間もないが波に乗っている南ルデリア共和国である。両国は、隙や機会があればリース公国をマホジールから引きはがし、自国の傘下に加えたいと欲している。現状はまだ露骨な交渉はせず、互いに牽制し合っているような状態で、両者はリース公国への尊敬と対等な関係を強調する。

 メラロール王国としては、もともと同じラディアベルク王家の血を分けたリース王家には親近感を抱いており、しかも住民もメラロールと同じノーン族が主である。かつて内戦で争った両者であるが、勝者のメラロール側は今やほとんど気にしておらず、秘かにノーン民族とラディアベルク王家の統合を目指し、外交官が暗躍している。他方、敗者のリース側の思惑は複雑だろう。

 リース公国の南に位置する南ルデリア共和国には膨張指向があり、南東はミラス、そして北西はリースが狙われている。
 南ルデリア共和国はマホジール帝国と同じウエスタル族が多く、たとえリース公国が南ルデリアの属国となったとしても、民族的な問題での大きな混乱はないだろうと踏んでいる。また南ルデリアの支配層が本当に欲しがっているのは、内陸のミラス町よりもむしろ港のあるリューベル町であり、リューベルの商人と結託しようという動きも見られる。彼らの多くは紳士的だが、中にはリース公国の東西分割も辞さないという強硬論もある。

 これまで、遠国の属国の独立には黙認的態度を取ってきたマホジール帝国であるが、帝都マホジールから自国領のみを通って海に出られるのは目下のところリューベル町しかなく、リース公国の動向はお膝元の死活問題である。近年、属国のウエスタリア自治領が南ルデリア共和国として独立した際にも煮え切らない態度を取り続けたマホジール帝国が、喉元に槍を突きつけられた時にどのような反応を見せるのかは、注目に値する。

 そこに絡もうとしているのが平和を標榜する南国のミザリアである。他国の内政干渉を良しとしない島国のミザリアであるが、このままリース公国が食われて国家力学のバランスが崩れれば、いつか良くない結果が現れることを非常に懸念している。
 ミザリア国に、リース公国に関する直接の利害関係はなく、もちろんのこと妙な野望もない。これまではリースとミザリアはそれほど中が良い国家というわけではなかった。だが、ミザリアの経済を支える香辛料貿易では南ルデリア共和国を通ってメラロールに至る西回り航路が最重要のため、何とか国家の枠組みは現状維持を保ち、戦を極力回避したいのが本音である。

[四ヶ国会議]
 ミザリアが提唱し、これらの当事者を集めてリューベル町で開催しようとしているのが、通称〈四ヶ国会議〉である。当事者のリース公国はマホジールの属国であるため数に含めず、マホジール帝国、メラロール王国、南ルデリア共和国とミザリア国の各国の精鋭外交官が集う。表向きは〈リース公国の次期公爵に関する提言〉と、今後の助力等について意見調整をするのが目的だが、いかに自国に都合の良い同意を引き出せるか、各国の思惑が絡み合っての複雑な駆け引きが懸念されている。
 




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