2004年 9月

 
前月 幻想断片 次月

2004年 9月の幻想断片です。

曜日

気分

 

×



  9月30日− 


[台風一過に寄せて(2) 〜初秋編〜]

(関連作品)

 夜中に駆け抜けた台風が、空のよごれを運び去ってくれた。
 遠くの山並みが驚くほど近くに感じられる。まだ雪を被っていない雄々しく優美な山の裾野と頂も、はっきりと見分けられた。
 まだ灰色の雲も残っているが、速い流れに乗って吹き飛ばされてゆく。晴れと曇りとが交錯しつつも、明らかに撤退しているのは雲だ。残った軍を取りまとめて、しんがりの雲たちは隊列を乱しつつも北を目指す。風だけが知っている天馬に騎乗して。
 
 澄みきった湖のように深く、汚れを知らぬ少女のように純粋で、しかも明るく輝く青をいだいた空を見ていると、眼に染みる。夏の台風一過を思い出させる陽の光はやや強いけれども汗ばむほどではなく、特に日陰は涼しくて清々しい心持ちになる。

 気まぐれな強い風が、緑と黄色の間の色に変わっている街路の木の葉を吹き飛ばしていた。コンタクトレンズの若いサラリーマンは目を抑え、女性会社員は髪を抑え、老人は白い帽子を抑え、女子高校生は衣替えした冬服のスカートの裾を抑える。
 道路にはたくさんの木の葉が間隔を空けて立ち、信号待ちの新しい車を器用に避けながら道を渡っていた。乾いた音を鳴らして流れ去る彼らは、確かに同じような方向へ流されていたが、決して〈同じ場所〉を目指しているわけではなかった。彼らの色や形や、美しい部分や繊維の通り方や、穴の開いている部分は異なり、そしてまた彼らの夢も一枚ずつ違っているはずだ。

 こんな日には立ち止まりたくなる――。
 光と影の描く刹那の模様を、ずっと眺めていたい。
 すぐに建物の影が伸びて、夕暮れが近づいて来るから。
 あるいは涼風と戯れ、背に受けて会話をしながら。
 どこまでも並木道に沿って、緩い坂道を歩きたくなる。

 揺れる照葉樹の木の葉が照らされて、繊細な枝先まではっきりと浮かんで見えた。梢の間を縫って悪戯な風が遊んでいる。
 もっと知りたくて、近づきたくて、自然と瞳を見開いた。
 気持ちが穏やかに、優しくなってゆくのが分かる。
 いつも見えなかったものが、どんどん見えてくる。
 世界と重なる部分が増えて、わたしの世界が広がってゆく。

 数日、雨が続いただけに、今日の青空はいっそう眩しい。
 木の葉の群れは、どこにたどり着くんだろう?
 ずっと見ていたいけれど――時間が来てしまう。
 続きは心の中で想像しながら、わたしは別の方に歩き出す。

 新しいビルのガラスが、空の青さで塗り替えられている。
 そこには白い雲もはっきりと映っていて、縦長に伸ばした近未来の湖のようだった。目に焼き付けて、わたしは歩き続けた。
 


  9月29日− 


[お掃除と水やり(中編)]

(前回)

 魔女のほうきで、まさに〈空の掃き掃除〉をしてきたナンナは、やがて一息つくために友のレイベルの待つ地上へ降りてきた。
 薄桃色の胡麻のようだった姿がだんだんと大きくなり、手前に近づきながら高度を下げる。これだけ広い野原ならば無理のある鋭角で急降下しなくて済むので、ナンナは多少左右に揺れながらも順調に降りてきた。高らかに、妙な叫び声をあげながら。
「ひょーお」
 最後は靴裏で草を擦り、土ぼこりをあげながら後ろに体重をかけてバランスを取り、精神力のブレーキを強めてほうきの速度をゆるめる。完全に止まる際どい瞬間、草の野原に足を着いて踏ん張り、腰を一気に持ち上げる。都会の学院の試験に合格できなかった落ちこぼれ魔女のナンナだが、とても高度な魔法である〈空を飛ぶこと〉だけは何故か職人芸の域に達する。

「ふぃー、のど乾いた」
 止まると、長い距離を全力で走り終えた時と同じように汗が噴き出してきて、薄桃色のシャツを湿らせた――長らくの精神集中のためだ。手の甲で額を撫でると、半透明の雫がこぼれた。
 少し眩暈(めまい)がしたが、ナンナはほうきを跨いで右手に持ち、杖のように地面についた。ゆっくりと辺りを見回していく。
 遠くには山々が連なり、近くには黄色や赤に衣替えを始めた北国のナルダ村の悠久の森が広がっている。馬車がやっと通れるほどの細くて頼りない街道は野原の緩い峠を越えていく。
 吹き抜ける風が、三つ編みにしたナンナの金の髪を揺らす。

 その時だった。
「ナンナちゃーん!」
 聞き覚えのある声を耳にしたとたん、ナンナの顔からは疲れが吹き飛んで頬がほころび、可愛らしいえくぼが左右に出た。
「レイっち〜! ここだよ〜」
 ナンナは右手で大切なほうきの柄を握りしめて、地面に立てかけたまま軽く寄りかかり、左手を大きく振った。視界の隅に広がる空には、幾筋もの青い線が引かれている。掃除した跡だ。

「おつかれさま。汗で風邪をひかないでね」
 レイベルは用意しておいた白い手ぬぐいを差し出した。綿の草の繊維で織られた厚手の布で、汗を拭くにはもってこいだ。
「ありがと☆」
 微笑みを浮かべて受け取ったナンナは、しばらく花の刺繍のある上品なタオルの中に顔を埋めていた。額と頬と首をこすった後、今度は秋よりも春にふさわしいような桃色の服の後ろをめくって背中の汗も上手に拭き取った。専ら黒髪族が住むこの辺りでは珍しい、金の髪を持つナンナには明るい服が良く似合う。

「どうだった?」
 待ちきれずに訊ねた村長の娘のレイベルは、ナンナの表情が曇ってゆくのに気づく。まるで、あの乾いた灰色の空のように。
「なかなか難しいねー」
 ナンナは左手を腰に当てて、息を吐き、あてもなく天を仰ぐ。魔女のほうきで掃除した雲は黒っぽくなって一箇所に固まっているが、少量で、今のところ雨の降り出すような気配はない。
「あっ、ナンナちゃん、あれ見て!」
 レイベルは急に〈いいこと〉を思い出して、人差し指を思いきり掲げて伸ばした。さっき、それにずっと見とれていたから、ナンナの出迎えが遅れてしまったのだ。レイベルは手首を回して、場所を示した。その声は快活で、しかも聡明な響きがあった。
「ほら、あそこ! えーと、ちょうどナンナちゃんの通ったあたり。ほんの少しだけ、下かな……。きっと、あのすてきな光を見れば、元気が出ると思うわ。もう少し右。うん、そう、その辺りよ」
「どれ〜? うーん……あっ!」
 空のかなたで、ナンナとレイベルの視線の焦点が重なった。


  9月28日− 


[お掃除と水やり(前編)]

 街道から少し外れた野原で、草の色は優しく色褪せ、深まる秋を静かに告げている。土も空気も乾き、薄曇りの空は所々で青空が覗いていたが、陽はヴェールの後ろで鈍く光っていた。

 レイベルは漆黒の瞳を何度も瞬きし、まばゆい空を見上げて、友達のナンナの姿を追っていた。十二歳の小さな〈魔女〉のナンナが特製の古びたほうきにまたがって飛んでゆけば、その軌跡は真昼の流れ星になる――それはあながち誇張ではない。
 
 山の幸の焼き魚に切り込みを入れるがごとく、雲が開いて青空の河が細い筋となって拡がってゆく。他方、ナンナのほうきに運ばれた雲は、うずたかく積もり、濃い灰色に近づいていった。

「えっ?」
 突如、地上のレイベルは目を見張り、口を軽く開けたまま立ち尽くした。薄紫の縁取りのついた白いロングスカートの裾は柔らかな風にたなびき、足元ではシロツメクサの花が揺れている。
 その視線の行く先は、ナンナと自分を隔てつつも、もっと大きな所からつつみこんでくれているような〈空〉に注がれていた。
「すてき……」


  9月27日− 


[天音ヶ森の鳥籠(31)]

(前回)

 日が沈み、急激に薄暗さが増していた森の道に、濃く長い三つの影が落ちている。それらは斜めに描かれた木々の影と入り交じり、追い越しながら、草を踏み分けて足早に歩いていた。

「はっ、はっ……」
 小さな身体で懸命にケレンスの背中を追い、やや荒くなっているリンローナの呼吸が強調して聞こえる。梢をそよがせる不気味な風のざわめきと、家路を急ぐ鳥の声が山々に響き渡る。
 誰も喋らなかった。夜目の利く動物たちの時間が迫ってきている。これが一本道でなく、複雑な分岐が有れば、地図を持ってしても仲間の待つ河までたどり着けなかったかも知れない。

 脇に挟んでいる山菜を入れるための籠が、今となっては少し邪魔なようでもあり、ある瞬間には誇りに思えたりもする――もう山菜を採ってくる必要はなくなったのだから。だが、肩も足も重く、残っていた光の粒が浄化されて空の星として去ってしまう森の中で、心細さは夜の大きさとともに膨らんでゆくのだった。三人集まっても、決して〈全員ではない〉不安定さは拭えない。

「きゃっ」
 足下の枝につっかかったリンローナを辛くも抱き留めたのは、再びリーダーの代役として神経を研ぎ澄ませていたケレンスだった。彼はほとんど反射神経と直感だけで振り返り、相手のぬくもりを受け止めると、いつもの飄々とした口調で付け加えた。
「よっと」
「あ、あの……ありがとう」
 ごく近いところから、リンローナのどぎまぎするような恥ずかしそうな声を聞くと、疲れて思考能力が衰えていたケレンスの頭は急に動きだし、頬には夕陽とは異なる赤みがさすのだった。
「気をつけろよ」
 そう言ってケレンスはリンローナの肩を軽く押した。先を急がなければならないと分かっているリンローナはすぐにうなずく。
「待って」
 その二人に声を掛けたのは、寡黙にしんがりを務めていたシェリアだった。涙もとうに乾いて、決然とした表情になっている。
「明かりを灯すわ」

 ケレンスとリンローナは踏み出そうとした足を留めて、シェリアの方を振り返り、改めて迫りつつある夕闇の帳の深さに気づいた。すでに天音ヶ森に特徴的だった麗しい鳥の歌声は遠く弱まり、夏の宵の口にふさわしい涼しい風が主導権を握っている。
 シェリアは瞳を閉じて集中力を高めた。精霊たちとの戦いで疲れ切っていたが、ここが正念場とばかりに魔力をかき集める。
「ЖЩЛЫЭЮ……空を照らす陽の光よ、我に力を与えたまえ! ライポール!」
 呪文の詠唱の後、シェリアの指先から生まれ出た細く鋭い煙の筋が素早く渦を巻き、しだいに寄り集まりながら光度を高める。やがて掌大の、白く輝くまばゆい光の珠が宙に浮かんだ。
「助かるぜ」
 ケレンスはシェリアに向かい、相手を元気づけようと片目をつぶって見せた。すると、精霊の夏祭りの鳥になりかけた女魔術師は硬く閉じ込めた気持ちをほのかに和らげて、息をついた。
「ふぅ……」


  9月26日△ 


[月・二編]

 だれかが
 よぞらに
 きりこみ
 いれた

/ 細(ささ)め刃で
/ 流れ血を
/ 透けて見ゆるは
/ 過ぎにし記憶や

 よぞらに
 うかぶは
 ぎんいろ
 おつきさま

/ 涼し月
/ 夜風に乗せて
/ 光散りばめ
/ 闇空廻せ

 おーつきさま
 よぞらを
 すべって
 きえた

/ 秘話の疼きや
/ 隠れ路に
/ 眠れ、真砂の
/ 紫龍の瞳
 


  9月25日− 


シルリナ王女の日記より]

 向う側の人が見渡せる
 丸い窓かグラスのような、

 他の何にも塗られていない
 透き通って透明な――

 どんな風にも染められる
《色のない時間》がほしい

 臨機応変に
 その時の気分で変えられる
 独りの自由な余暇を

 あらかじめ、赤や黄色で
 はっきりと塗りつぶされた時間が
 多すぎるから――
 


  9月24日− 


[大航海と外交界(9)]

(前回)

「おもむき? ……そうかもね」
 ウピは半分閉じかけた瞳を無理に開けず、頬杖をついたまま適当に相づちを打った。秋の涼しい潮風は優雅に流れ、白い帆は音を立ててはためき――頭の中にはまどろみの波が押し寄せる。耳はしだいに遠くなり、膝の力もだんだんと抜けてゆく。
 年を経た銀の髪の甲板員が硬くなったパンくずを投げると、装飾の多い立派な船と平行して押し寄せていた長い翼の白い海鳥たちが集い、上手に口で奪って飛び去ってゆく。悠久の大海原は、水面だけ眺めていれば変化に乏しいとさえ思えてしまうが、その実、大きな生命のうねりと躍動とに満ち溢れている。

 トン、トン……。
 背中の方に足音がした。レイナはきょとんとした様子で、ウピは眠くてだるそうに振り返ると、白い服に青い縁取りをした清潔な船員服――紺色に縁取りされた、白を基調とした長袖の上着とズボン、帽子――が良く似合う、中年の男が立っていた。
「ご令嬢がた、失礼つかまつりますが」
 船乗りの眼光は鋭かったが、今は遠く離れた娘にでも話しかけるかのようにやや緩み、金の顎髭は貫禄があって頼もしい。
 レイナはすぐに、渋い黄色の麻で編まれて桃色や橙色のラインがついている軽くて動きやすいロングスカートの裾を軽く持ち、膝を少し曲げて頭を下げた。白い絹で編まれた艶やかで高貴な長袖ブラウスが、陽の光を浴びてしっとりと品良く輝いた。
「お世話になっております」

 他方、ウピは朧気な思考を引きずったまま、甲板の周囲を見回した。船員はともかく――付近に女性の姿は見当たらない。
「は、はい? あたしたちですか?」
 驚いて相づちを打った後、ウピは自分たちが〈ご令嬢〉と呼ばれたことに気づき始めていた。恥ずかしさや、身に余る光栄さが体の中を駆けめぐって、鼓動はあっという間に駆け出し、頬と耳が熱くなった。きっと鏡を見れば真っ赤に染まっているだろう。
「御令嬢がた」
 船乗りは意志を持ってウピを見、それからレイナを見た。ウピは思わず背筋を伸ばし、手を後ろ手に組んだ姿勢で瞬きする。
「本船は揺れることもありますので、十分にご注意頂きたい」
 逆光の青空と、体格の良い船乗りの影法師が眩しかった。

 わずかの間ののちに、船が割る波の音が再び聞こえてくる。
「あ、はい、ありがとうございます」
 しどろもどろに答えたウピに対し、眼鏡を掛けて生真面目で、神経質そうにも見えるレイナの態度は堂々としたものだった。
「かしこまりました。ご厚情に深謝いたします」

「何か御座いましたら、どのような些細なことでありましても、私どもにお言付け下さい。御令嬢がたは賓客ですから。目的のリューベル町までの道のりは遠いのですが、まず最初に南ルデリア共和国のモニモニ町へご案内致します。どうぞ良い旅を」
「ええ。ありがとうございます。楽しみにしております」
 微笑みとともに言い終えたレイナは会釈した。向かい合って立つ、背が高くて屈強なミザリア国の手練れの船員も微笑む。
 ウピはレイナの仕草を横目で見つつ、少し遅れて礼をした。


  9月23日− 


[湖水怪談]

「こういう湖には、気をつけなきゃいけないのよ」
 お姉ちゃんが言った。ルーグはさっきから首っ引きだった羊皮紙の地図から顔を上げた。ケレンスとタックは聞き耳を立てた。
「怖いよ、お姉ちゃん……」
 学院で習った話をすぐ思い出したあたしは、耳をふさぐ真似をする。背中にゾクッと寒気が走った。怖い話はやだなぁ……。
「どう気を付けりゃいーんだ?」
 首の後ろで手を組み、背中の重い荷物でやや後ろに反り返りながら歩いているケレンスが、ちょっとだけ挑戦的に訊ねた。
「やめなよ、ケレンス。夜、眠れなくなるよぉ……」
 あたしは控えめに助言してみたけど、ケレンスは鼻で笑う。
「ふはっ。リンはそんなに怖えのか? ますます気になるぜ」
「じゃあ話したげるわ」
 お姉ちゃんが胸を張って言った。やだな、聞きたくないよぉ。
 でも、お姉ちゃんは話し始めちゃったんだ――。

「まぁ、よくある話だけど……澄んだ湖は鏡に例えられるわね」
 お姉ちゃんが言う。あたしは耳をふさいで、目を閉じたかったけど、それはできない。荷物を持っているし、歩いているから。
「ええ」
 応えたのはタックだった。タックまで乗り気なのかな……。
 ルーグは黙っている。お姉ちゃんは軽い口調で続けた。
「あっちの世界とこっちの世界は、ほとんどおんなじ」
「湖のこっち側と、映ってるあっち側ってことか?」
 素早くケレンスが訊ねると、お姉ちゃんは声もなくうなずく。
「やめてよぉ、お姉ちゃん」
 あたしはしだいに重くなる足を前に出しながら、少し身体をよじって嘆願した。するとお姉ちゃんは流し目でケレンスを見た。
「続けてくれ」
 ケレンスが言う。あたしは弱々しい声で、恨みがましく呟く。
「ケレンスのばかっ……」

「水面っていう薄い膜を挟んで、対峙する二つの世界」
 お姉ちゃんが言った。あたしたちの姿がぼんやり水に映る。
「気を抜くと、向こうに連れていかれるわ」
 あまり感情を籠めずにお姉ちゃんが説明した。再びあたしの背中を、わきのあたりを、首筋を、冷たくて嫌な悪寒が走った。
「やめて、やめて」
 あたしは首を振った。そこでルーグが助け船を出してくれた。
「リンローナが嫌がっている。その続きはあとにしよう」

「チェッ、つまんねーなぁ」
 ケレンスは不満そうだったけど、お姉ちゃんは同意した。
「まあ、しょうがないわね。あとでたっぷり話してあげるわよ」
「あたしのいないところでね」
 念を押したあたしだけど、実はもうすっかり思い出していた。
 学院で聞いた〈湖水怪談〉のことを――。

 ……えっ?
 湖の表で、いま何かがキラリと光った……ような気がした。
 あたしは何も見なかったふりをした。きっと陽の光だよね?

 でも。

 でもね。
 この胸騒ぎは、一体、何だろう――?



知床五湖の「一湖」(2004/09/19)
 


 幻想断片1500回 

 2000. 1.31.〜2004. 9.22. 

 開始より1697日目
 


  9月22日− 


[霧のお届け物(7)]

(前回)

 細かく散らばって斑(むら)ができた霧は、粒の一つ一つまでが見えるようになっていた。微かにたなびき、移動する霧の群れを眺めていれば、細かい風の流れを詳しく追うことができる。
 姉妹は再び歩き始めていた。木の葉がお辞儀して朝露が首筋にこぼれ落ちれば、驚きと楽しさの混じった悲鳴をあげる。
「ひゃあ!」
 所々ぬかるんでいる場所もあるが、木こりが通る道なので踏み固められており、背の高い雑草も少なく比較的歩きやすい。
 今や、霧の白さが透けて見えるようになった森は、しっとりと湿っていた。十一月の新しい雪をシャーベット状に溶かして、森という大きな器に沈めておいたかのようにつややかで、絹織物のように品があり、軽く飲み込めばさっぱりした味わいがする。

「あっ」
 突如、先頭を歩くシルキアは斜め上を仰ぎ、小さく叫んだ。
 その琥珀色の瞳は驚きに彩られ、早く知らせたい、姉は喜ぶだろうか、という慌ただしくも純粋な気持ちで充たされていた。
「お姉ちゃん、空が開いたよ!」
「すごい、のだっ……」
 二歩、一歩、半歩――ファルナはその場に立ち止まった。
 霧はまるで生き物のように、あるいは過ぎゆく嵐が連れてゆく雲の群れを思わせて、どんどん遠ざかってゆく。春になって水と風が緩み、凍てついた池の氷が朝日に溶けてゆき、澄んだ青空が映るのを、とても速く見せられているようにも感じられた。

「うーん、どういう仕組みなんだろう?」
 首をひねり、霧を入れた瓶を持ったまま腕組みして考える妹のシルキアの後ろで、ファルナは少し瞳を潤ませていた。ついに本当の朝が来て、誰かがそっと開けている森を覆う白い〈霧のカーテン〉の不思議さに、姉はうっとりと心を奪われていた。
「あっという間なのだっ……」

「そろそろかな……」
 やがて姉妹は、斜めの光が枝先を照らして繊細な模様を土に描く森の小径を歩き出す。ほどなくして、先頭を切って進んでいたシルキアが、丸太で作られた憶えのある頑丈で質素な一軒家を木々の間に垣間見て、思わず嬉しそうに叫ぶのだった。
「あったぁ!」
「さあ、着きましたよん」
 ファルナが優しく声をかけた。家はもう、目と鼻の先である。



[旅の途の小さな断片集U 2004-09]


9/16(木)

 辺りの漆黒が深ければ深いほど
 星の明かりは、はっきりとする

 真の闇こそが、真の星を――
 天球の姿を浮かび上がらせてくれる

 そして私は
 ぼんやり霞む天の河の夢に
 普段は見えなかったものの存在を知る

 私の中に眠っていた――

 それは、優しさ?
 それとも、ゆとり?


9/17(金)

「空が広いところだとさぁ……」
 鋭利な刃のように先のとがった細い月を指差し、微かに濃い橙の夕暮れが残る藍色の空を見上げて、シーラは隣で歩いているミラーに呼びかけた。
「ん?」
 背中の荷物が重く、疲れて瞳が重たそうなミラーは、恋人のシーラの長い黒髪が風に揺れているのをぼんやりと見つつ、相づちを打った。

 他方、シーラは口を開き、かなり急激に涼しくなりつつある夜の始まりの空気を軽く肺まで吸い込んで、続きを語り出した。
「心まで広くなったような気がしない?」
「確かに、余裕が出てくる感じがするね」
 そう言ったミラーは少しだけ古い息を吐き出し、胸を張った。

 遠くに細かな鋭角の波を描く山の稜線が黒々と続いて見える。今夜泊まるべき町の明かりも見えている。
 空で星たちが天の川とともに姿を現す頃までには、二人は酒場の椅子に腰掛け、熱い料理と美味い酒を待っているだろう。
「さあ、あと少しだ」
「ええ……もう町に入るわね」
 応えたシーラの声は、草のざわめきとともに、弱まってゆく昼間の気配に溶けて消えていった。

 まもなく、安らぎの夜がやってくる――。


9/18(土)

「すごい……」
 ウピは夜の潮風に金の髪を軽くたなびかせつつ、甲板に立ち、船上の夜空を仰いだ。
 故郷のミザリア島は星の綺麗な島であるが、それよりも遥かに多くの銀の輝きが、どんなに立派な王にも決して持てない天然の宝石箱として頭上に広がっている。家々の明かりのない洋上の星は見事で、色や明るさの違いまでもが見分けられた。
「多すぎて、何が何だか分かりませんね」
 そう呟いて、隣のレイナも小さな感嘆の息をついた。

 潮の香を含む夜風は前髪を揺らし、速やかに流れていった。


9/19(日)

「ここで終わりか……」

 街道の尽きる場所で、
 旅人は何を見、
 そして何を思ったのか。

 道は途切れても、巨大な模様の如き雲の谷に夕陽は輝き、
 汐は凪いで、やや涼しげな風は祈り歌のように唄われる。

 はまなすの赤い実らが、誰にも告げずに熟れている。
 とんぼは交尾をし、すすきの穂は首を垂れて――。

「ここから、始まる」

 街道の始まる場所で、
 旅人は何を感じ、
 そして何を考えたのか。

 ――言葉では、説明しきれない物事がある。

 それは、旅人のみぞ知るのだ。

野付半島・竜神崎付近にて(2004/09/18)


9/20(月)

 (休載)


9/21(火)

 (休載)
 


  9月15日○ 


[雲隠れした望月について(補遺)]

(本編)

 ――あの上品な金色の手鏡は

 いったい誰が使っているのかなぁ?



 それとも、あれは素敵な丸い窓で、

 明日の陽の光が洩れているようにも思えるし――。



 もしかしたら、黄金で作られたお盆なのかも知れないね。

 でも、そうだとしたら、あたしはお盆を見下ろしているの?



 色々な思いが、あたしの頭の中を駆けめぐっていた。



 ――あたしは髪を乾かしながら、しばらく上の方を見てた。

 夜の空に浮かんでいる、まん丸のお月様のことを。
 


  9月14日− 


[初秋の調べ(1)]

《この曲、聞こえてる……?》

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 向こうの草の影から、主旋律にふさわしい、良く響く高らかな音が聞こえてくる。かと思えば、情緒あふれる渋い震え声が、別の方から流れてきた。ある音の主は空を飛びつつ右から左へ、またある音は断続的に流れてきた。同じような間隔で強まる音や、淡々と続く音、思い出したように再開する音もあった。

「よいしょと」
 テッテは座り込み、あぐらを組んで、そして木の幹に寄りかかった。下草の間にいた虫が大きく飛び跳ねる。空を隠して森の木の葉はざわざわと揺れ、歓迎しているのか警戒しているのか――。丘の向こうにある広大な森は闇に溶けて、涼しい風がさやかに駆けめぐり、生き物たちの活発な気配が充ちている。
 足下に置いたランプの炎を絞れば瞬く星の数が増えてくる。
 そして耳を澄ませば――。


  9月13日△ 


[雲隠れした望月について]

「あっ」
 宿の下窓を開けて、夜空を覗いていたリンローナは、小さく声を上げる。そして誰かに話したくて、薄暗い室内を振り返った。
 ランプのゆらめく光に照らし出された姉のシェリアは、背が高くて細身の黒い影法師になっている。宿で出してくれた、裾が長くて肩口と袖のゆったりとした厚手の麻の衣を羽織っている。
 シェリアは何も問いかけなかったが、代わりに小首を傾げる。
 それを一つの返事と受け取った妹のリンローナは、再び漆黒に塗られた遙かな〈夜〉へ視線を送り、軽い声でつぶやいた。
「満月が……灰色の雲が出てきて、隠れちゃった」
「涼しいから、あちらさんも一枚羽織ったのよ」
 シェリアはごく平然と言い放った。暗くて表情は分からない。

 リンローナが開けている窓から、森を越えてやって来た初秋の涼しい夜風が速やかに入り込んできて、頬の産毛を撫でる。見下ろせば、街道に沿って連なる湯治場の集落と、わずかに洩れている灯りが見える。それは昼間に残してきた夢のかけらが光の蝶となって、夜の波に浮きつ沈みつしているようにも感じられた。嗅覚に響く、独特の硫黄の匂いが微かに漂っている。
「汗が冷やされて、気持ちいいね」
 リンローナの額に浮かんでいた大粒の汗はもう消えて、背中や腋の下の辺りの熱気もだいぶ治まっていた。さっき時間をかけて浸かったお湯の温かさが染みこみ、眠気の素と溶け合う。
「湯冷めするわよ。そろそろ閉めましょ、私たちも」
 湯治場として小さな町を形成している集落は昼でも夜でも活気があるが、一日の終わりに収束の刻を迎えようとしていた。

「うん」
 リンローナは少しだけ名残惜しそうに、大きな深緑の眼を最大限に上に持ってゆき、雲隠れした望月を捜したが、やがて諦めて窓をぱたんと下ろした。どこかで子供がはしゃぐ声も急に遠ざかって、旅人は現実と切り離され、疲れとあくびが湧き出した。
「ふぁーあ」
 振り向いたリンローナに、シェリアは立ったまま呼びかける。
「さあ、満月みたいに」
 風の流れが止まり、まどろみと安らぎが満ち潮のように近づいてくる。肩の辺りで切りそろえたリンローナの髪はほとんど乾いていたが、シェリアの長い豊かな髪はまだほんの少しだけ湿っていた。温泉で火照った身体は乾いていたが、身体の奥の方には何とも言えない、気持ちの良いぬくもりが残っていた。

「お姉ちゃん、おやすみ……」
 ベッドに潜り込み、顔だけを出して、リンローナが言った。
「おやすみ」
 すでに横になっていたシェリアが、微かな声で返事をした。


  9月12日− 


[伝言板]

「孫娘は、いったいどこへ行ったんじゃろうか……」
 魔女のカサラおばあさんは、困惑気味の顔で空を見上げた。

 目に染みるような澄んだ青空に、一筋の白雲が流れている。
 鼻と口から飲み込む微かな風は心地よく、頭が冴えてきた。

 何とはなしに翠の森の遙か上に続く空の端から端へ視線を送っていたカサラおばあさんは、孫娘・ナンナの痕跡を見つけた。
「ふうむ……」
 軽い驚きとともにうなずいた、おばあさんの口元がほころぶ。

『あの峠、越えて、北の湖まで。夕方には戻るよ。ナンナ』
 伝言と署名は雲の絵の具の魔法で、大空に記されていた。
 


  9月11日− 


[シル子とケン坊(中編)]

(前回)

 おいらは気恥ずかしくなり、耳たぶが熱くなっていくのを感じて――それを誤魔化すため、おもむろに背中の荷物を下ろした。
 サックを開けて中の肉を取り出している間、シル子は何も言わないまま立っている。おいらの立てる物音だけが、他に誰もいない酒場に虚しく響き、妙に耳についた。焦りたくなってくるけどシル子の前じゃ失敗するわけにもいかず、おいらはなるべく慎重に指を動かしたが、緊張のせいか手元が狂ってしまう。
 シル子が次に発したのは、まともな言葉でなくあくびだった。
「ふぁーあ。眠っ……」

 誰もいない酒場は暖炉も焚かれてなくて、寒いくらいだ。山奥のサミス村では、たとえ夏場でも日によっては暖炉を焚くことがある。春先ではなおさらだが、今朝は厚着すれば辛うじて耐えられる。重い荷物を背負って歩いてきたおいらは暑いほどだ。
 おいらは額の汗を拭い、手を休めることなくシル子に訊ねる。
「お客さん、来たんだって?」
「そうそう。久しぶりにね」
 やっとまともな反応が返ってきて、おいらの頬は思わずほころんだ。春になって、都会の商品を運んできた商人がやって来て〈すずらん亭〉に泊まった――ってのはうちの親父から聞いた。
 
 大きな町のような学舎がなく、それぞれ家の手伝いをしているサミス村の子供たちが全員集まる機会は、お祭りくらいのもんだ。何人かでつるんで森や河へ遊びに行き、夏は魚釣り、冬は雪の上を板滑りする時もあるけど、たいがいはこうしておつかいに出された先で会ったり、道ですれ違ったりする程度なんだ。

 ずっしりと重みのある、薄い樹皮でつつんだ羊肉を取り出す。すごく冷たくて、樹皮は湿っている。酒場の玄関に生々しい匂いが広がった。サミス村の長い冬から春先にかけては、夜に解体して外に出しておけばそのまま凍りつくので、保存は楽だ。
 あと半月もすれば、気温が上がって凍らなくなり、肉の保存が大変になってくる。しかも避暑地の書き入れ時は夏なんだよなぁ。新鮮さを保つためには、直前に解体しないといけなくなる。おいらの運ぶ機会が増え、村中を忙しく走り回るってわけさ。
「ほい、大丈夫か?」
 おいらは重い肉を両腕で支え、相手に手渡しながら訊いた。
「うん、平気」
 とは言うものの、やはり辛かったらしく、シル子はゆっくりとしゃがんで生肉を床に置いた。匂いが染みつかなきゃいいけど。

 春が進んで、だいぶ確固たる力を持ってきた朝の光が酒場の窓から注ぎ込んでくる。その向こう側は村を貫く主要な道だ。雪を冠する遠い山並み、そして青空と白い雲が覗いている。扉の隙間からは小鳥の唄が迷いこんでくる。いい日になりそうだ。

 相手が手をはたいて立ち上がる間際、おいらは話しかける。
「シル子、父ちゃんは?」
「お料理中だよ。受け取るの、あたしでいいでしょう?」
 茶色の髪を揺らして立ち上がったシル子は、おいらと目を合わせず軽く応えたが、口調には少しだけ不満さを孕んでいた。
 おいらみたいな同年代の男が子供扱いすると、とたんにつむじを曲げちゃうんだよなぁ。難しいなぁ、女の子っていうのは。
 特にこの村には夏に貴族の方々がたくさんやって来て、都会の文化が入ってくる。田舎の割には意外と垢抜けてるところがある――町も人も。もちろん、全員が全員、そういうわけじゃないし、結局は都会にはかなわない。逆に素朴な人だっている。

 二階の方から階段を一段ずつ、ゆっくりと不規則に、とてもだるそうに降りてくる音が響いてきて、シル子は振り返った。おいらも正面の階段に注目する。意志を持って降りるというよりは、手すりに寄りかかって〈落ちて〉〈足を引きずる〉ような音だな。
 ドン……ツー……。ドン……ツー。
 やがて踊り場を曲がって姿を現したのは、長い琥珀色の髪の寝癖が整えられていない、シル子の姉のファルナさんだった。

(続く?)
 


  9月10日− 


[霧のお届け物(6)]

(前回)

 二人が持ってきていたのは、姉のファルナが運ぶ特製の葡萄酒入りの小さな樽と、妹のシルキアが手にしている空っぽの瓶(かめ)だった。中身のない瓶は、帰り道に森の泉に立ち寄り、透き通って美味しい清水を汲んで家に持ち帰るためのものだ。
「よいしょ、と」
 おもむろに立ち上がると、シルキアはその瓶を肩の高さほどに持ち上げた。落として割らないように握りしめたまま、彼女は右へ左へと振り回す――兵士や船員が旗を振る時のように。
「お入り〜」
 シルキアの声と動きは、ぼんやり霞みにつつまれた木々の幹や枝を背景に、静けさの奥底で、不思議に浮き出して見えた。

「こんなんで、ちゃんと汲めたのかな?」
 切り株の上へ注意深く瓶を置いたシルキアは、腕組みして少し斜に構え、琥珀色の瞳を細めて、思いきり息を吐き出した。
「ふぅーっ」
「う〜ん」
 姉のファルナが横の切り株に座ったまま身を乗り出すようにして覗いてみても、瓶にはきちんと霧が収められたのかどうか分からない。遅ればせながら彼女も立ち上がり、数歩進んだ。
「どう、見える?」
 シルキアが嬉しそうに声を弾ませて訊ねた。一方、ファルナはゆっくりと身を屈めて瓶の口に瞳を寄せ、反対の目を閉じたが、淡い光の漂う霧の森の中ではますます見分けられなかった。
 瓶を手で抑えて何度も瞬きしていたファルナだったが、やがて瞳を離して首を持ち上げ、困惑したような憮然とした顔で語る。
「わからないのだっ」

「お姉ちゃ〜ん。無理矢理、注いじゃえば?」
 一歩後ろから見ていたシルキアが言った。霧の層がやや薄くなり、あちこちから発せられていた鳥たちのさえずりが高まる。
「む〜」
 ファルナは首をかしげて考えてから、軽くうなずくと、掌を扇のように素早くはためかせて瓶の入り口に霧の風を送り込んだ。
「どんどん入って欲しいのだっ!」
「どうだろう。上手く掬えてるといいけどね」
 無邪気で夢見がちなファルナと比べると、次女のシルキアは遙かに現実的だ。それでも感性は似ており、姉妹仲は良い。
「お姉ちゃん、代わろうか?」
「うん。お願い」
 そして、今度はシルキアがひとしきり瓶に向けて風を送った。

 一仕事終えた後、二人は顔を寄せ合って白い歯を見せ、笑い合った。どうやら秘密の意見交換が合意に達したようだった。
「お姉ちゃん、これもおみやげにしちゃおうよ」
「いい考えですよんっ!」
 気温が上がり始め、霧は溶け出して微細な水蒸気に変わり始めようとしていた。シルキアは霧を入れた瓶にふたをした。


  9月 9日− 


[雲のかなた、波のはるか(31)]

(前回)

 フォークの先端か、あるいは背の高い南国のザルカの樹のように枝分かれした末広がりの大河に浮かぶ一葉となって、サンゴーンの祖母の形見である魔力を帯びた黒い〈こうもり傘〉は、ほとんど止まりそうなゆったりとした速さで流れ落ちていった。
『十年に一度のこの日……白波と白雲とともに、空を駆ける』
 老婆が喋り終えた頃、風と波は自然と凪ぎ、空と海は向かい合った果てしない一対の鏡となってお互いを覗き込んだ――優しい色の夕陽を浴びて、ほんのりと頬を赤らめ、はにかんで。

 妖精族の血を引くレフキルはやや長い耳を伸ばし、口を半分ほど開きかけたが、思い直して閉じる。だが彼女は意を決したのか、改めて上下の唇を離し、驚嘆と尊敬の念を籠めて語る。
「雲のかなた、波のはるかに、一つの真実がある……」
 不思議な出来事の種明かしに心を奪われていた彼女は、微かにつぶやいた。その言葉を背中で聞いたサンゴーンは、友の素直な感想を噛みしめるようにして、丁寧にうなずくのだった。
「本当に、そうですの」
 穏やかで深みのある沖の波の上を、夜空の星を思わせる光の宝石たちが元気良く無邪気に飛び跳ねていた。明るく拡がっている夏空も、魚や植物の森となっている遠浅の海も、久方ぶりの〈掃除〉を終えたのち、晴れやかで新鮮な印象を受けた。
 むろんサンゴーンとレフキル自身も――。二人は何とも言えない充実感と誇りと、程良い疲れとを顔に漂わせていた。口元は軽く緩み、瞳は潤っているが、頬は硬く重たくなってきている。
 一呼吸置くと、小舟は左側に、次に右側へと大きく傾いた。

 そして、止まった。

 意外とあっけない。
 強い前触れはなかった。
 動も静も、同じ一つの延長線上にあった。

 神殿の尖塔を出てから、決して休むことなく前へ前へと走り続けていた黒い〈こうもり傘〉は、この場所でついに一つの旅を終えたのだ。波を受けて、後ろに揺られたり、前に動いたりする。
 あまりにも広い空と海の懐に抱かれ、涼しい潮風につつまれて、少女たちの心は開放感に充たされていた。むしろ〈開放感〉という概念さえも越えた、何の縛りも懸念も不自由もない、日常を飛躍したうえで日常を見直すような、限りなく幸福な瞬間だ。
「……」
 二人は言葉もなく、お互いに腕を伸ばしてそっと掌を重ねた。

 やがて微風がそよぎ出すと、止まっていた見えない砂時計が逆さになって、再び時を刻み始める。ふっと、サンゴーンの横顔に寂しさの影がよぎった。祖母から受け継いだ、胸元に輝いている〈草木の神者〉の緑色のペンダントを、彼女は握りしめる。
『さあ、着いた。空と海との交点じゃ』
 同じであって同じではない、老婆の語りが頭の奥に殷々と響いてくる。温かい充実と色褪せる感覚が夕暮れを編んでいる。
 逆光を受けて闇色となっている老婆の姿は、いつの間にかさっきよりもかなり遠ざかっていた。低い声もかすれ始めている。
「はい」
 レフキルは思わず背筋を伸ばし、相づちを打った。相手から発せられる次なる言葉が、ほとんど予想できていたからだった。

『ここから先は行けぬものでな。袂を分かつ時が来たようじゃ』
 それは細かい言い回しの差こそあれ、レフキルの考えの範囲内だった。彼女は老婆の浮かぶ宙を仰ぎ、サンゴーンも倣う。


  9月 8日− 


[大航海と外交界(8)]

(前回)

 障害物のない波間を越えて吹いてくる潮風はやや強く、頬を撫で、前髪を掻き上げて通り過ぎる。眩しいほどの蒼と碧の海原が一面に広がり、揺れる波間にきらきらと太陽のかけらが踊る。王家の紋章が入った白い帆が高く誇らしく張られ、折からの温かい南風を孕み、帆船は順調に〈海の街道〉を滑っていた。

「う〜ん。いいねぇ」
 軽くつま先立ちして白く塗られた柵に頬杖をつき、とろんと重たそうに細めた空色の瞳で遠くを見るともなく見ながら息を吐き出したのは、年頃の少女であった。背丈はどちらかといえば低め、落ち着き気味の金色の髪を後ろで二つに分けて縛っている。肩の部分のない無地の白いシャツの上に、日焼け防止のために風通しのいい麻で編まれた黄色と茶色の模様の入った薄手の長袖の上着を羽織り、ベージュのズボンをはいている。

「旅という感じがしてきますね」
 隣にいた同じくらいの年の少女がうなずいた。やや痩せていて背丈は普通だ。髪の毛は月の光を集めたような淡い銀色で、耳は隠れるが束ねるほどはない長さだった。その髪が流れ来る潮風を浴びて、肩の辺りで小刻みに揺れ動いている。最も特徴的なのは眼鏡を掛けていることで、生真面目そうに見える。
 彼女は、いつぞや〈王立研究所〉の門前で近衛騎士団に名前を呼ばれたレイナだった。あれから幾日かが経ち、彼女ははや船上の人となっていた。どこまでも拡がっている空は明るく、珊瑚の海は何とも表現しがたい妖精の翠色のまだらの絨毯だ。
「趣があると思いませんか、ウピ?」
 レイナが語りかけた相手――柵に頬杖をついている銀髪の少女――は、学院魔術科時代の同級生であり、別々の進路に進んだ今でも最も大事な親友の一人であるウピ・ナタリアルだ。


  9月 7日△ 


[霧のお届け物(5)]

(前回)

「だって、霧には色がついてるから、見分けられるよ」
 得意がるわけでもなく、シルキアはごく当然のことのように語った。彼女は座ったまま腕を伸ばし、乳白色の流れを撫でた。
「確かに、霧は白く塗られてるのだっ。風は見えないけど……」
 姉のファルナは納得して、ゆっくりと深くうなずいた。そのまま視線をやや下ろして、静かな朝方の物思いにふけっていった。
「でも、手じゃつかめないけど」
 前に突き出した掌を大きく開き、池にきらめく陽の光のかけらのようにパッと散らしたシルキアは薄紅の唇を動かし続けながら、足下に置いてある陶器の細長い瓶(かめ)を持ち上げた。
「これに汲んじゃえば、持っていけるかもね?」
 おしゃまな妹は説明を終えてから素早く右目を閉じて、姉に合図をした。すっかり感心しきったファルナは〈目から鱗〉とでも言いたげに、琥珀色の瞳をまん丸く見開き、無邪気に拍手した。
「シルキア〜っ、頭いいのだっ!」
「チチッ、チチッ」
 突然の手を叩く音に驚いた枝先の小鳥は、つたない飛び方で一目散に霧の海原へ飛びだしてゆく。他方、姉に褒められたシルキアは口元をほころばせ、少し照れくさそうに笑うのだった。
「えへへっ」


  9月 6日− 


[天音ヶ森の鳥籠(30)]

(前回)

「踏み出すこの一歩が」
 向こうとこちらから湧き上がった姉妹の声は、溶け合わさって攪拌する。見えない唄の渦は透明で清明な波となって、崖の近くにある森の広場を飲み込んでゆく。草がざわめき、地面が張りつめ、靴の裏が微かに震えるのがケレンスにも感じられた。
「すげえ」
 だがそれで気が緩むと、後ろから腕を入れて支えているリンローナの膝がにわかにふらついたので、我に返ったケレンスは肩に力を込めた。通り過ぎる夕風が二人の額の汗を拭った。

『ワァァ!』
 劣勢になり、四方八方からの唄攻めに堪えていた精霊たちの苦悩の金切り声は強まったが、その叫びは猛烈に高まったのち、急激に弱まっていった。それとともに、あちらこちらで壁のように立ちはだかって〈鳥籠〉を形成していた丈の高い古びた枝の群れは、頭を下げるかのようにしなびて垂れ下がってきた。
『う……』
 ひからびるかのように枝はしおれてゆき、かすれた声は途切れがちになり、ざわめきはやがて消えていった。見た目としては枯れたわけではないが、少なくとも〈気絶〉したようだった。
 花の〈がく〉のように拡がった枝の間から、短い下草が生えた円形の空間が覗いている。その真ん中に細身の人影が立っていた。女性としてはやや背が高く、赤いズボンを履いている。

「幸せな明日へ……続くと、信じて……」
 リンローナは涙声になっていたが、最後の盛り上がる部分を唄いきり――そしてその後は、言葉や歌を超えた叫びとなる。
「お姉ちゃーん!」
 歓び、安堵――数えきれない気持ちが小さな身体の奥底で爆発し、あっという間に外側の世界に向かってほとばしった。

(ふたが、開いた)
 他方、シェリアは立ち尽くしたまま、漠然と考えていた。その薄紫色の瞳は、ケレンスの肩から腕を外して駈けだし、不器用ながらも枝の固まりを乗り越えて近づいてきた妹の姿を捉えていた。姉は自然と腕を左右に広げて、妹を心から受け容れた。
 吹き込んでくる風は生暖かくはなく、空気が澄んでいた。
 今や小鳥は、自由の身になった。

「お姉ちゃん、捜したんだよ!」
 腕の中で泣きじゃくるやつれた表情の妹を抱きしめて、シェリアはぽつりと呟く。その瞳から、一筋だけ銀色の河が伝った。
「ごめんね、リンローナ……」

 抱きしめ合う若き姉妹を、射し込む赤い夕陽が暖かく照らし出していた。少し離れた所で、ケレンスは軽く鼻をすすっていた。


  9月 5日− 


[あの海]

 晴れた日の海は、空を映して蒼色に

 曇りの日の海は、空を真似して灰色に

 雨の日は、いくつもの波紋を投げかける

 雪の日の海は凍りつき――

 風の日は、波が恐ろしく背伸びをする

 もう一度、別の日に訪れたい、あの海――

 彼女が着こなす、違う服が見たいから
 


  9月 4日○ 


(休載)
 
茨城交通線の一風景(阿字ヶ浦→磯崎)


  9月 3日− 


[霧のお届け物(4)]

(前回)

 やがて木がまばらになり、開けたところに出る。そこにはかつて一人の木こりが住んでいたが、ずいぶん前にその場所を見捨てていた。村からはだいぶ奥まっており、苦労したからだ。
 雪の重みでつぶれた廃屋の残骸が残っていて、ちょっと薄気味が悪いが、開拓の名残で切り株がたくさんあり、休むにはちょうどいい。付近の再生のために置き土産として植えられた苗木をまたぎ、棒で切り株の毒キノコを払い落として、腰掛ける。
 ここが二人の言うところの、通称〈切り株広場〉だ。

濃霧の朝日(2004/03/13)

 太陽がどこにいるのかははっきりと分かり、大きな白いお盆のごとく光が洩れ広がっている。雲の後ろだと陽は隠れてしまうが、霧は雲よりも薄いのだ。流れ来て濃くなったり、風に剥がされたりしつつも、星の光を砕いてゆっくり風に溶かし込んだ色褪せた砂のように、細かな水のかけらたちは自在に宙を舞う。
「ふー」
 幾重にも吹き付けられ、層が厚くなってきた森の霧は、一時よりもかなり濃くなってきていた。しばらくは歩けそうにないので、切り株に座ったままシルキアは口を尖らせ、足を前後に振る。
「あの曇り空の向こうに……青空が、ほんとにあるのかな?」

「ふぁー」
 他方、ファルナは琥珀色の純粋な瞳をぼんやりとさせて、唇を少し開き、悠久の流れに身を任せた雫の粒の大河を飽きることなく下から覗いていた。透明すぎる森の湧き水に比べれば、はっきりとした存在感がある霧のミルクに思わず手を浸してみても、決して触れることはできない。握れば固まる新雪とも違う。
「つかまえてみたいのだっ」
 ファルナがゆっくりと瞬きしながら夢見心地にぽつりと洩らすと、隣の切り株から割と冷静な声で思わぬ応えが返ってきた。
「たぶん、霧は……よりは簡単じゃないかな?」
 もちろん、しっかり者の妹だ。ファルナは驚きを隠せない。
「えっ?」


  9月 2日− 


[夜の砂浜]

 涼しい夜の砂浜に寝転がれば

 遙か遠くには銀の宝石がまたたき

 耳元では星の砂がこぼれた


 向こうもここも、同じ銀河のほとりだから――
 


  9月 1日− 


[晩夏と初秋が入り混じり]

 晩夏と初秋が入り混じり
 昼間に近づく夕暮れに
 一群れの、風に感ずる涼しさに――

〈爽やかな季節〉の萌芽が見え隠れする

 まぶしく強い光にも
 深まる慈悲が溶け合って

 空高く
 雲、繊細に
 電信柱の影、長く――
 




前月 幻想断片 次月