2004年10月

 
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2004年10月の幻想断片です。

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 10月31日△ 


[弔いの契り(37)]

(前回)

 嵐の晩に船が錨を下ろすかのように、シェリアを中心に決してはぐれないように密集し、一歩ずつ闇を切り裂いて俺たちは進んだ。さっきよりも幾分冷ややかな白い光を放って瞬く魔法の珠の、照らし出す範囲にかろうじて入っている俺たちは、シェリアの左斜め前にタック、右斜め前に俺、そして彼女の横にはルーグがついていた。広い部屋だというのに空気は濁り、息苦しさは増すばかりで、相変わらずまともな生き物の気配はない。俺はずっと剣の柄を握りしめ、四方に細心の注意を払い、いつ何が飛び出してきても対応できるようにと気を張りつめていた。

 単なるだだっ広い部屋で、奥に何か蒼い輝きがあると思われた〈地下神殿〉だが、実際には切り出した石を重ねた太い四角い柱が何本もあり、天井を支えていた。その近くを通りかかる時、シェリアは腕を掲げて光球を移動させた。黒い闇に浮かぶ柱の表面には、見たことのない奇怪な文字が刻まれている。
「呪術の聖句――冥界の言葉よ。あまり見ない方がいいわ」
 ひっそりと低い声で、シェリアは助言した。その若い女魔術師は腕を組み、隣のルーグから借りたタキシードの黒い上着をぎゅっと引き寄せ、寒気を感じたかのように小さく肩を震わせた。
「意味が、内容が分からなくてもか?」
 俺は声を出したが、それは暗黒の底でくぐもって聞こえた。

「……ええ。あの文字の形すら、悪影響のはずよ」
 余裕があり、機嫌が良ければ俺の知らない不思議な現象について詳しく説明してくれることもあるシェリアだが、今は最低限のことだけしか語らなかった。この極限状態じゃ仕方ねえ。
「わかった、ありがとな。見ないようにするぜ」
 俺は礼を言い、呪術については自分で思い出そうと決めた。
 こういう時、普段ならばリンが横に横にいてくれて、必要な知識を披露してくれるんだけどな。対策や心構えが分からないのは痛手だ。まあ対策については、魔法が扱えない俺にとってはやりようがないのかも知れねえし、深く考えるのはやめとこう。

 そういえば呪術については、あまり話を聞いたことがねえな。
 剣があることを知ってても、剣の技はほとんど知らないリンたちと同じように、魔法の存在を知っていても詳しい中身を知らなかった俺だったが、聖術や魔術、妖術といった主要な系統については事あるごとにリンやシェリアから聞いて、少しずつ中身も分かるようになってきている。だけど呪術について思い出そうとして記憶を掘り返しても、ほとんど聞いてないことに気づいた。
 そういえば、あまり話したがらなかった気がするな。きっと相当に忌むべきものだってことは、この空間で息をしていれば痛いほどに分かる。たぶん呪術ってのは、剣の世界での暗殺者みたいなもんだろう。裏の世界に属してまともな秩序に反発し、人を陥れて生死さえも弄び、野生の獣のように息をひそめて。

 バサバサッ――。
「はっ!」
 突如、頭上で〈何かを扇ぐような重々しい音〉が聞こえた。
 俺の全身に雷撃が通り抜けて鼓動が速まり、思わず身をすくませたが、次の刹那には剣を構える。仲間にも緊張が走った。
 こんなに負の魔力で澱んでいる場所で魔法の輝きを維持するだけでも大変なようだが、シェリアは文句一つ垂れず、今となっては唯一頼りの綱の灯火を素早く天井間際に浮かばせ、音がした付近を照らした。天からの光で、俺の視界は朧に広がる。
 俺らは立ち止まり、天井に一番の関心を向け――だからと言って周囲への警戒を決して緩めず、戦闘態勢を維持し続ける。
「キィィ!」
 ふいに二つの黒い固まりが魔法の珠の近くを横切り、苛立ちを含んだ鋭い声をあげて翼を広げ、闇の世界へと還ってゆく。
 その後には静寂だけが残された。
 
「どうやらコウモリのようだ」
 ルーグがぽつりと言い、俺たちがうなずくと、足元にゆらめく不気味な影も首を動かした。すぐに彼は船頭の魔術師を呼んだ。
「大丈夫だ。シェリア、先を急ごう」
「ええ」
 シェリアは腕を掲げ、精神力を振り絞って、魔法の珠を再び目の高さよりやや高い場所まで速やかに移動させた。魔術師が靴音を響かせて足早に歩き出すと、魔法に直接対抗する力を持っていない俺とルーグとタック、三人の男たちは彼女に歩調を合わせ、三方からシェリアの守りを固める。それでいて彼女が照らす光の届く範囲から離れないようにして進んでいった。
 相変わらず生命感の乏しい場所だ。そういえばこの地下に足を踏み入れてから、さっきもコウモリが初めて出会った生き物だったのかも知れねえな。蜘蛛や鼠さえ住むのを嫌がる、尋常じゃねえ空間だ。あるいは、あのコウモリは主の目となっていて、今ごろは報告でもしてるんじゃねえかと勘ぐりたくもなってくる。

 だが、そういうくだらねえ考えが次から次へと浮かんでくるのは、奥に見えている妖しげな蒼い光になかなかたどり着かないからだ。暗闇で距離感が狂っているのは確かだが、気ばかり急いてきて、俺たちの足音はしだいに不規則に乱れていた。もちろんリンの身は案じているし、心配の種が尽きることはねえ。
「落とし穴があると危険ですから、あまり慌てないで」
 俺の悪友で、諜報ギルドに所属するタックは冷静な口調でつぶやいたが、焦らずにいられるかよ。それからはコウモリに遭遇することもなく、俺らはしばらく押し黙ったまま距離を稼いだ。

 石造りの冷たい床は平坦だったし、シェリアの灯りがあったのは救いだったが、もし急に階段でもあったら転倒しちまっただろうな。身体は芯まで疲れている――村に着いてから、男爵の屋敷に招かれ、馴れないダンスパーティーに参加した。執事から逃げ出し、フォルの話を聞いて、この施設の入口ではごろつきどもと戦った。時間はかなり夜更けのはずだが、今はまだ睡魔に身を委ねるわけにはいかねえ。ここからが最大の山場だぜ。
 やや高い場所に灯っている奥の不吉な輝きは、少しずつ確実に近づいてきているようだ。遙か彼方に見えるが、それは錯覚の可能性もある。闇の中をずっと歩いているが、平衡感覚はなかなか馴れないし、頭上の魔法の光を直接見ちまうとあまりの明るさに残像が目に焼き付くので、とにかく前を睨み据える。
 じっと耳をすましているが、用心棒が出てきそうな気配は受けない。この先に男爵はいるんだろうか。リンや、フォルの姉貴のサーシャは。それ以外の、村の十人の乙女は無事だろうか?
 無事であってくれ、どうか間に合ってくれ――そう願った俺の脳裏を、今宵の秋の夜空にかかる冴えた望月の姿がよぎる。

「それにしても立派な神殿です。ここまで奥ですと、相手の戦い易い場所に誘導されているという疑問が拭い切れませんが」
 周囲に気を張り巡らし、口をつぐんでいたタックが、敢えて懸念をつぶやいた。それからまた四人の足音だけが響き渡る。
「それでも行くしかないんだ。我々の選択肢は」
 低い声で、確信を持って言ったのはリーダーのルーグだ。
「そうですね」
「……だな」
「ええ。リンローナが捕らえられている限りは」
 タック、俺、シェリアはうなずいた。
 来た時からほとんど燃えつきていた左右の壁に連なるランプは、最後の一かけらのような明かりが灯るだけとなっている。
 畜生、見えない敵ってのは疲れるぜ。やつらの核心に迫っているのは間違いないはずだが、相手方の動きが少なすぎる。

「ん?」
 その時だ――俺の鼻が、微かな変化を嗅ぎ分けた。
「……なんか、匂わねえか?」
 蒼い魔光はかなり近くなってきている。どうやらそこは一段高い祭壇のような所で、その奥は壁――つまり、このだだっ広い地下神殿の終わりだと言うことが、おおよそ判ってきていた。
「香草の匂いがするわ」
 少し経ってから魔術師の回答があった。彼女は付け加える。
「邪悪な魔力は、どんどん強くなってるわ。気を抜かないで」
「……」
「ああ……え?」
 何か、シェリアの言葉と俺の返事の間に、とても低い声の連なりが響いたように聞こえた。空耳、それとも耳鳴りだろうか?
「……」
 ――いや、誰かの声だ。男がブツブツと、何を言ってんだ?
「おいタック、何か喋ってるのか?」
「……」
「いえ。何も」
 タックは不愉快そうに返事をしたが、その合間にも声がある。
「シッ、呪術の呪文よ。真剣に聞いちゃだめッ」
 シェリアが鋭く言った。横に長い祭壇が、その上の何かの立像が、いよいよ不気味な光を受けてぼんやりと浮かび上がる。
 香草の匂いも相当鼻につき、その源が遠くないことを感じる。
「……ξσψι」
 響く声も、誰かが呪文を唱えているのだと、はっきり分かる。
 リン、お前もこんな暗い道を、自分の意志で通ったのか? それとも呪術とやらで気を失い、無理矢理運ばれてきたのか?
 だいぶ遅れちまったけど、待ってろよ――もうすぐだからな。


 10月30日− 


[黄昏の階段(2)]

(前回)

 広場を横切って階段を下り、ちょっとした橋を渡って、犬の散歩をしている壮年の婦人とすれ違い、僕は迷わず歩いていった。今度は右手の方向に赤い太陽と川面に映る輝きを見、左側に小山を眺めながら。夕暮れのろ紙を通った澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込む時、鼻の内側にも空気の涼しさを感じる。

2004/10/02

 気持ちは急いていて、早歩きで緩い曲線を曲がり、再び木々が間近に迫る幅の狭い砂利の一本道へ出る。汗はかかない。
 まばゆかった西の空は光が少しずつ弱まるとともに赤みが強まって、全てのものの影が長くなり、足元の世界は音もなく拡がってゆく。安らかな風はかすかにそよぎ、耳元を通り過ぎる。
 あのベレー帽の少女は――いったい何を見ていたのだろう。
 例の階段が近づくにつれて、ふいに疑問が再燃し、頭の中で色々な想像が駆けめぐった。茜色に染まっていた瞳、何か見えないものを見つめているかのような遠いまなざし、しっかりと結ばれて少しだけ気難しそうな唇、お洒落で大人びていた服装、ポケットに入れていた手。どれも僕の記憶に刻印されている。

(あっ)
 僕はその瞬間、思わず反射的に足を止めた。
 左側のやや高い場所に、誰かがいるのに気づいたからだ。
 物思いに沈んでいた僕にとって、その場所は急に現れた。

 心臓を高鳴らせて、僕は呼吸を整えつつ、僕はゆっくりと首と身体を左側の方に曲げていった。両側に木の手すりのついた階段の全景が眼前に広がり、四段目、五段目、六段目――。
 下から数えて七段目に、あの少女が立っていたのだった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 黄昏の光を真っ直ぐに浴びて、少女はほとんど正面を向き、わずかにうつむいている。たまに瞳をまばたきさせているので、彫像ではないのだと分かる。その視線は睨みつけるわけではなく、ぼんやりと上の空で眺めているわけでもないようだ。また一心不乱に何かを凝視しているわけでもなく、かといって興味がなく暇つぶしという風ではない――意志は感じられるのだ。
 僕はしばらくその場に立ち尽くしたまま、階段の中程にいる少女を仰いでいた。やはり相手は僕に気づく様子もなく、左手をベージュの長ズボンのポケットに入れ、右手で手すりを握り、ただ自然体でしだいに色の濃くなりつつある西に目を向けている。
 後ろで足音がして、幅の狭い砂利の小径を人が横切る際、僕は階段の一段目に右足を乗せて避けた。その勢いで左足も乗せてみる。相手との距離が近づくが、相変わらず反応はない。

 ――通りかかる人は、僕の行動を怪しむだろうか?
 人が来たからだろうか。つまらぬ考えが首をもたげ、それに翻弄された僕は少女から目を逸らし、階段の一段目でたじろぐ。
 独りよがりの想像を進めた僕は、次の一瞬で気持ちは急激に萎えてしまい、このまま帰ろうかと思い詰め、横を向きかけた。

 まさにその刹那、少女に初めて明確な変化が起こった。
 足元を見ずに正面を向いたまま、十歳くらいと思われる彼女は手すりを握る右手に力を込め、右膝を曲げて持ち上げ、体重を掛けて身体を傾け、そのまま足を一段上にずらして再び地面に置いた。連続した動作で左足を持ち上げ、八段目に立った。
 いつの間にか、木々に囲まれた階段には深い影が降りてきていた。空はますます唐紅(からくれない)に燃え上がって目に染みるほどだ。広葉樹に限らず、背の高い針葉樹やそれに絡まる蔦や、地に息づく色褪せた草や幹の表面を多う苔や、細かい模様の沢山ある蛾や足元の白い可憐な花や、砂利道の小石や階段の土や、見晴るかす河の流れや電車の鉄橋や――それから僕の掌までも、分け隔てなく紅葉させてくれていた。


 10月29日- 


[初秋の調べ(4)]

(前回)

 むろんその後もテッテも演奏者の一人として、音楽の海に一つの波紋を投じていた。出しゃばらずに互いを尊重し、全体の流れを邪魔しないようにする。しかも気を遣いすぎることなく、自分らしく素直な気持ちを抱いて、自由な心をこそ彼は奏でた。
 彼の想いを写し取り、共鳴し、銀の鈴は一振りごとに驚くほど違った音色で唄った。また周りの虫たちと〈音楽〉という共通の言語で素朴な会話をしつつ、テッテ自身も新たな試みを模索することを怠らなかった――鳴らす間隔を狭めたり、小刻みに震わせたり、長い休符を取って他の〈楽器〉に耳を傾けたりした。
 時には虫たちの静かな音楽祭に別の彩りが加わることもある。山から響いてきた獣の甲高い遠吠えが間奏の主旋律を奪って混じったり、みみずくは奇妙な感嘆の声をあげ、いくつもの夜風の音符は硬い木の葉をかすめて乾いた音を立てていた。
 空は果てしない奥行きの天井となり、森の舞台は冴えた輝きを保ちつつ瞬いている白や赤や蒼の星たちとつながっている。

 ぼんやりとした明かりに照らし出された森の片隅で、幹や枝や草が地面に描く灰色の薄い影はほんの少しずつ丈が短くなり、その光源である十六夜月が昇ってきていることがわかる。
 あまり日焼けしていない白い細面の、華奢な少女の横顔をどこか彷彿とさせる小さくて明るい月が、山脈の遙かに手の届かぬところ、空のやや斜め上にかかっていた。右側だけがやや欠けているが、それでも空全体にうっすらとした淡い白銀の網を投げかけている。それは温めた牛乳の表面に張った幕を、夜を充たす闇という名の液体で限りなく薄めたような代物であった。
 言語を越えたところでの深い交感に、テッテはしばし言葉を忘れ、黙ったまま鈴を鳴らし、あるいは手を休め、耳をすました。

 ちりん、ちりりりん――。
 テッテは腕が疲れたら反対の掌に移し、何曲か演奏したが、しだいに腕を持ち上がる筋肉に力が入らなくなってきた。疲れたというよりも、魂が音楽の一部になってゆき、まるで巫女が神懸かりの状態になるかのように意識が混濁してきたのだった。
 音は遠ざかり――あるいは自らの内側から聞こえ、体の温かさは増して頭の奥に霞みが拡がり、まぶたが重くなってくる。
 かつてデリシ町の海で溺れかけた時に見た、海流に乗って泳ぐ無数の色とりどりのきらびやかな小魚たちと、ゆがんで粉々に砕けた水の下から覗いた太陽を、いま鮮やかに思い出す。
 その太陽は、今宵は十六夜(いざよい)月の光だった。

 鈴虫や松虫の断片的な歌声が、頭の隅で快く鳴っている。
 朦朧とした意識の中で、頭がひっつるような感じがしていたテッテは、このまま寝てしまっては風邪をひき、同居者に迷惑を掛けると強く思い――夢への陥落の一歩手前で踏みとどまり、散らばりかけた意識の糸をたぐり寄せ、辛うじて繋ぎ止めた。
 ふいに彼は重いまぶたを何とか引き上げて、向こうの木の高い枝を見つめる。そこに何か息づくものを見つけたからだった。

 大きな樹の枝の分かれ目に、小さな黒い人影が腰掛けて、背中を幹に預けている。下ろした両脚は細く、服はどうやら落ち葉を張り合わせたような見慣れないものを着ている。遠くて表情までは分からないが、顔は色白でぼんやり輝いて見え、人間ならば少年か少女、そうでなければ妖精の類と思われた。
 さっきまではほとんど眠りの淵にさしかかっていたテッテだったが、その謎めいた人物を見つけると覚醒が加速して、身体を起こす。彼は銀の鈴を持っていた腕を膝の上に置き、久しぶりに喋るので唾の溜まったかすれた声で、感慨深げに呟いた。
 そのまなざしは限りなく和らぎ、一箇所に注がれていた。
「あぁ、指揮者は、あなたでしたか……」


 10月28日○ 


[霧のお届け物(11)]

(前回)

「朝ごはん、まだでしょう? 取れ立ての木の実入りのパンを暖めます。ちょうど昨日拾って、試しに焼いたばかりなんですよ」
 オーヴェルが呼びかけると、ファルナは心底うれしそうに微笑み、温かな風に花が咲き乱れる春のような笑顔をふりまいた。
「やったー! もう、おなかがペッコペコなのだっ」
「いいの?」
 シルキアは恐る恐る訊ねた様子を装ったが、瞳を何度もしばたたき、言葉や表情には隠し切れない期待が含まれていた。
「もちろん。大勢で食べるほうが美味しいから、ぜひ一緒に食べましょう。ちょうど朝食にしようと思っていたところでしたし……」
 姉妹が気兼ねなく食事を摂れるよう、オーヴェルは上手に返事をした。宿屋で貴族の客を迎えるうちに礼儀作法や気遣いを身につけてきたシルキアだったが、オーヴェルの前ではしだいに力みが抜け、本来の素朴な村娘の顔が現れて、はにかむ。
「うん、ありがとう。何か手伝おうか?」
「大丈夫。お客様は、休んでいていいのですよ」
 立ち止まったオーヴェルが優しく相手の目を見て応えると、シルキアは浮かせかけた腰を下ろして椅子に座り、うなずいた。
「わかった。実はあたしもね……」
 シルキアは横目でちらりと姉のファルナを見て、うつむく。
 その続きは、彼女のおなかの時計が教えてくれた。
 グウゥ――。

 東の窓から入り込む幾筋もの朝の光は柔らかく、かなり奥まで射し込み、部屋を明るくしてくれる。ゆうべのランプはすっかり消え、夜の忘れ形見として趣のある古びた置物と化している。
「それに、こんな遠くまで、朝早くに届けてくれたのだし……」
 木のテーブルを乾いた布きれで軽く拭く間、その上に立ててある特製の葡萄酒が入った携帯用の小さな樽をちらりと見て、若き賢者は補足した。それは確かに彼女がかつて注文しておいた品で、酒場の姉妹が顔見せがてら配達してくれたのだ。
 そして彼女の瞳の焦点は、とある別の一点に集約される。
「これは、何かしら?」
 空っぽに見える瓶(かめ)を見て、オーヴェルは訊ねた。
 それこそはまさに、早朝の霧を溜め込んだ瓶であった。

 村からやって来た仲良し姉妹は、はっとして顔を見合わせたが、次の刹那――妹は素早く姉に目配せして同意を求めた。
「食事の後のお楽しみだよ。ね、お姉ちゃん?」
 すると姉は、特にボロを出すことなく肯(がえ)んじる。
「そうなのだっ、オーヴェルさん」
「まあ、楽しみね」
 テーブルの乾拭きを終えた賢者は顔を上げて、頬を緩めた。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「シチューは残り物だけれど、山の幸がいっぱいです」
 パンの準備に部屋の隅を動き回りながら、オーヴェルは説明する。強い反応を示したのは、またしても姉のファルナだった。
大好物なのだ〜っ!」
 こげ茶色の瞳を大きく広げて、ファルナは屈託なく叫んだ。十七歳にしてはやや幼さを残す姉は、久しぶりのシチューという事実を受け入れ、見えない中身をあれこれと想像した。一見すると眠たいかのように、瞳は夢見がちに半分閉じられ、少し開いた口には水っぽい唾液があふれてくる。それを飲みこんでから、彼女は適当なふしをつけて甘くあやふやな唄を口ずさむ。
「シチュー、シチュー、シチュー♪」

 一年を通して冷涼なサミス村とはいえ、夏場はさすがにシチューを食べる機会は減る。秋が来て、ファルナにとっては久しぶりに味わう好物だった。辺りに漂うのは母が作るシチューの匂いとは異なるが、それでも温かくて良い香りには変わりない。
「お姉ちゃん、はしゃぎ過ぎ〜。でもよかったね」
 シルキアも嬉しそうに言う。ファルナの笑顔は周りの人たちに幸せを運ぶ、不思議で魅惑的な魔法の力を持っているのだ。

 暖炉の薪はパチパチと燃えはぜ、食べ物を温めるが、夜のしじまに響いていた時の透明感のある響きは色褪せた。かりそめの太陽である炎は、本物が沈んでから輝きを増す。真新しい朝の空気とまばゆさの中では、小鳥の囁きや微風のざわめき、足音や物音や話し声に混じってしまって、ほとんど聞こえない。
「これから冬になれば、寒いけど、いいこともあるのだっ」
 繊細な模様が刻み込まれた銀色のスプーンを見下ろし、ファルナは実感のこもった低い声でささやかに呟く。部屋にはパンを焼く香ばしさが拡がり、シチューの湯気と相まって素敵な雰囲気を醸し出している。待ち遠しい朝餉(あさげ)を胸に描き、望みを膨らませて我慢する刻は、独特の厳粛さをも帯び始める。
 シルキアはわざと身を乗り出し、やや斜に構えて訊ねた。
「お姉ちゃんにとっては、シチューばっかりぃ?」
 
 その時、丸太の家の調理場で、トポトポッ――という重みのある音が響いた。姉妹は思わず言葉を失い、そちらに注目する。
 オーヴェルがお玉で、温まった鍋のシチューを掬い、深皿に映していたのだ。具とルウが溶け合って響き合う、独特の音だ。
 白い流れが、三つの深皿へゆっくりと丁寧に注がれてゆく。その様子にファルナはすっかり魅了され、心を奪われていた。我に返り、話の続きを再開したのは、しっかり者のシルキアだ。
「ほらー、シチューに見とれてる」

「うー」
 しっかり指摘されてしまったファルナは、名残惜しそうにオーヴェルの作業から目を離して、ややしどろもどろに説明する。
「そ、そんなことはないのだっ。そりとか、雪遊びとか……」
「あとはー?」
 シルキアが立て続けに訊くと、ファルナは返事に窮する。
「うーん、温かい食べ物と、飲み物と……」

 ファルナの言葉は途中で消え――あとは高い歓声となった。
「やったー! やっぱりシチューが一番なのだっ」
「うふふ、お待ち遠様。はい、できました」
 シチューの皿を乗せたお盆をテーブルに置きながら、オーヴェルは弾む声で言った。古くなった厚手の雑巾を流用した〈鍋つかみ〉で深皿を両側から支え持ち、まずは一番歳の若いシルキアに、次はファルナに、それから最後に自分の場所へ移した。
「パンもこんがり焼けています。待っててね」
 オーヴェルは早足に、簡素な調理場の方へ歩いていった。


 10月27日− 


[黄昏の階段(1)]

 細かに入り組んだ木々の梢を仰ぎ、木洩れ日に目を細めながら、僕は高台にある公園の小道を歩いていた。道幅は狭く、右側は小山になっていて幹が間近に見える。左側は緩やかな崖になって落ち窪み、道の向こうを流れている幅の広い河を見渡せる。その川面には太陽が映っていて、強い光を返していた。
 足の裏で大地を感じながらゆっくりと歩き、空気の匂いと美味しさを味わい、流れる刻の砂を心で計る。公園の奥の方へ来るとすれ違う人も減って、森や風や光や空と落ち着いて語らうことができるようになる。蒼く澄みきっていた空はしだいに紅葉を始めて、土曜日の午後は緩やかに夕暮れへと移ろっていった。
 見通せる範囲の前には誰もいないし、ちょっと後ろを振り返ってみても散歩する人の姿は見えない。僕はここぞとばかり思いきり顔を上げ、枝で分けられた空のステンドグラスの切れ端が、高い部分は勿忘草色や白群(びゃくぐん)で、降りるに従って白さが増し、限りなく薄い露草色やトルコ石のような彩りになる。太陽に近づけば黄色のパレットから光が拡がり、明るい黄檗色、卵色――薄い山吹色や向日葵色に変化を遂げてゆく。

 頭の中に懐かしい唄の旋律が流れ、足取りも、心までもが軽くなる。思わずハミングしようかと思った、その矢先のことだ。
 急に人の気配を感じ、僕は驚いて視線を右の方に向けた。
 およそ百五十度の緩やかなカーブを曲がりきるまで気づかなかったが、右の方へ小山を縫って続く分かれ道が現れた。その始まりの十数段の階段の、三段目か四段目に、背の低い人影が見える。それは一人で立っていて、子供で――少女だった。
 止まることはせず、僕は歩きながら瞳を見開き、相手を眺めた。おしゃれな灰色のベレー帽を少し曲げてかぶり、焦げ茶の薄手の上着を羽織って、ベージュの長ズボンを穿き、ポケットに片手を突っこんでいる。外見は小学校高学年くらいだろうか。

2004/10/02 黄昏の階段

 ずっと見ていると悪いので、僕はほとんど反射的に前を向いて、歩みを速める。そして、あっという間に通り過ぎてしまった。

 刹那に刻まれた印象を紐解き、情報を整理しながら、僕は歩き続けた。あの少女は限りなく遠い目をしていたように思える。
 公園にかかる橋を越え、階段を昇りながら、僕は後悔の念を憶えていた。あの少女と言葉を交わしておけば良かった、と。
 階段の脇にある木の手すりを後ろ手につかんで軽く寄りかかり、ベレー帽の少女は確かに沈みゆく太陽の方角をじっと眺めていた。僕が歩いている間、あの子の視線は全くぶれなかったと思うので、僕の存在に気づいたかどうかも疑わしいところだ。
 やや細められていたあの子の目は、杏色の空を映していた。

 物思いにふけって歩いてゆくと、いつの間にやら視界は開けて辺りは広場となり、隅の方にいくつかの遊具が置かれている。子供たちはそろそろ帰り支度を始め、僅かに揺れの残るブランコには誰も乗っておらず、芝生に影を落としている。幼き日にはあんなに立派に見えた滑り台は、今や小さく滑稽になり、過ぎ去った年月を思わせる。懐かしさと郷愁で心が温まった。
 シーソーは片側に傾いた状態で停まっている。
 あれは、きっと僕が動かそうと思いさえすれば、動くのだ。
 そう頭で理解していても、今日は行動に移すつもりはない。
 太陽は少しずつ傾き、あらゆる影を細く長く変えてゆく。
 遙かに遠い西の山脈に太陽は近づき、河は柿色に染まる。

 僕はふいに立ち止まり、腕組みした。
 何かがしっくり来ない。
 僕の奥底でわだかまり、ぎくしゃくしている。
 こんなに素晴らしい夕暮れが迫っているのに。

 そうだ、こんなに素晴らしい夕暮れが迫っているんだ――。
 僕のどこかで、何かが弾けた。
 それはとても小さな変化だったけれど。
 風が気まぐれに運んだ種は芽吹き、新たな命を育むのだ。

 陽の光に後押しされ、僕は普段はやらない〈行動に移すこと〉を、一つだけ子供のように無邪気にやってみようかと考えた。
 思いのほか、その考えは僕を愉快にさせ、目尻が下がる。

 ――折り返してみよう。
 まだ間に合うかも知れない。
 あのベレー帽の少女がいた場所へ。

 僕はやや大股で、それでもこの夕暮れを感じないのはあまりに勿体ないので四方八方を眺めつつ、来た道をたどり始めた。


 10月26日△ 


[初秋の調べ(3)]

(前回)

《この曲、届いてる?》

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 テッテは上半身を起こして座ったまま、両脚を重厚で硬い幹の上に乗せて伸ばし、鈴を持つ右腕を掲げた姿勢のまま次の休符を待った。新しい楽章が始まれば、新しい楽器が増えても素直に溶け込める。テッテは慌てずに時が充ちるのを待った。
 虫たちの声はあちらこちらから生まれている。歌の波は近づいたり遠ざかったりしながら、音で編んだ揺り籠を紡いでゆく。
 とっぷりと暮れて闇に沈んだ森に、淡い月の光の粒子が少しずつ混じってゆき、夜の底はどこかほのかに薄明るい。簡素で自由な舞台、清明な演奏会場となった草の広場は、月と星の奏でる限りなく透き通った銀色がうっすら積もり、漂っているわずかばかりの緊張感とともに、秋の芸術祭にふさわしかった。
 その間にも、リリリリリ――、あるいはリィーンリィーンといった音が、通り雨のように強まり、急に途切れ、再び始まってゆく。
 夏場では考えられなかったくらいの涼しい風が流れると、テッテは軽く瞳を閉じて、ここで歌っているかもしれない姿の見えない妖精たちのことを夢想し――心をほぐし、そうすることによって身体が硬くならないよう準備をしていた。その間に神経は研ぎ澄まされ、あるいは角が取れてまろやかになり、周りとの境界がなくなって森の懐に抱かれ、世界との調和が図られる。テッテは出番が来るのを気長に、そして楽しみに待ち続けていた。

 しっとりと染み渡るのような深い歌声が、逸脱せずに合わさっていて、しかもそれぞれの特徴のある音色を聞き分けられる。
 やがて音は収束を始め、急激に失われていった。見えない楽譜の音符は次々と休符に代わり、静寂の領域が増えてゆく。
 誰か一人が、リリリンという高い声でまだ歌い続けていた。
 突如、それも終わりが来る。

 拡がる闇に、休符の精霊が舞い降りた。
 楽譜のページはめくられ、次の即興曲が産声を上げる。

 テッテはさらに頭の中で、もう一拍数えた。
 それは自分の心臓のリズムと、ちょうど重なる。
 次の楽章が始まろうとしていた瞬間、息を飲んで――。
 迷わずに、テッテは腕を振り下ろした。

 ちりん、りん……。

 微かだけれども秋の夜長にふさわしい、とても良く澄んだ音が青年の掌から生まれた。それは草に呼びかけ、花のつぼみに想いを伝え、土の奥に沁みてゆく。あまたの葉を撫でて、木々の梢を越え、森を渡って町を過ぎ、空を遠く飛翔して海に届く。
 その音は〈夜のかけら〉とでも呼ぶのが適当なようなくらい、今宵に相応しい調べだった。あるいは姿の見えない〈夜のかけら〉が、鈴という喉を借りて歌っていたのだろうか。透明度が高くて水底まで見通せる、森の小さな碧色の池を彷彿とさせる。
 その音の行き先を夢みて、若者はしばし想いを馳せていた。

 テッテの鈴の音を手がかりとして、草の中から、あるいは枝先で、虫たちは唄いだした。重なり合い、響き合う輪唱の音楽の会話は尽きることなく交わされ、膨らみ、流れ移ろっていった。
 秋草は首を垂れ、半ば土に埋もれた小さな硬い種は子守唄を聞いて安らかに眠る。夜更けの明るい月が薄雲に隠れると、森の色合いだけでなく虫たちの奏でる音楽にまで微細な影を落とすが、彼女が再び現れ出ると組曲はひとしきり盛り上がった。


 10月25日△ 


[大航海と外交界(13)]

(前回)

「どうも」
 二人はどちらからということもなく、ほとんど時を同じくして挨拶した。ウピは会釈をし、相手のリィメル族の少女は軽く右手を上げて。後ろにいた侍女風の女性も丁寧に頭を下げ、その脇できょとんとしていた銀の髪の少女が最後に深々と頭を下げた。
 そのやりとりを横目で見たララシャ王女は、ウピとじゃれ合っているうちは忘れていた三人の存在を思い出し、振り返った。
 待ち望んでいたまぶしい太陽が瞳を射て、王女の蒼い瞳は宝石となり、船員服の清潔な白い袖が海渡る風にはためいた。
 姫は相変わらず機嫌が良く、主催者として話を進めてゆく。
「あ、紹介するの忘れてたわね」
 ララシャ王女はそう言って、右手でリィメル族の少女を示す。
「こっちがイラッサ町レフキル。長くなるから説明は省くけど、まあ、言ってみればあたしの、とも……。な、仲間の一人よ」
 海に出て、文字通り〈水を得た〉かのようなおてんば王女だったが、今回は珍しく言葉に詰まりながら説明した。久しぶりに会う庶民の知人を、友達と呼んでもいいのか迷っている様子だ。
「友達でしょ? ララシャ王女?」
 すかさずレフキルが助け船を出した。堅苦しくなく、あまりの絶妙な気遣いにウピやレイナは驚いて、次に顔をほころばせる。
「ま、まあ、そういうことにしてやってもいいわよ」
 やせ我慢のように奇妙に胸を張り、姫はしどろもどろに言う。その優雅な口元には抑えきれない喜びが弾け、緩んでいた。
 立ったまま膝の辺りに当てている手の、親指を軽く立てて、レフキルはウピに合図を送る。ウピは満面の笑みでうなずいた。
 レフキルとは何となく波長が合いそうな――仲良くなれそうな予感がして、ウピは身体が舞い上がりそうな嬉しさを感じる。
 そしてレフキルはというと、レイナに一瞥をくれて、その横のウピの瞳を見つめ、再びレイナに視線を向けながら、同年代の同じ国の少女たちに堂々と呼びかけるのだった。彼女が首を動かすと、リィメル族の特徴であるやや長い耳も一緒に動くようだ。
「あたし、レフキル・ナップル。よろしく!」

「こちらこそ。あたしはウピ・ナタリアル、ウピって呼んでね」
 この中ではおそらく一番背が低いウピは、半歩進んで後ろ手に組み、王女や侍女がいることもあり、ちょっとすまして自己紹介した。肩の辺りに掛かるくらいの淡い金色の髪の毛は優しく光を帯び、健康的で素直で人の好い微笑みを浮かべている。
「よろしく!」
 良く響く声で、レフキルは快活に応えた。侍女はつつましげに礼をして顔を上げ、ララシャ王女は新たな交流に満足そうだ。
「よろしくお願いしますわ〜」
 レフキルの傍らにいる少女はひどくのんびりとした口調で話し、レイナはやや慎重な足取りで踏み出す。五人それぞれだ。

 相変わらず海上の潮風は遮るものがなく自由だ。座礁しない程度の距離を開けて、立派な船が小さな岩だらけの無人島の近くを通ると、あまたの海鳥の物悲しい啼き声が聞こえてくる。
 波は泡と飛沫を散らし、帆は風を孕み、力強く膨らんでいた。
 さすがは海洋国家ミザリアの、王家の船を預かるだけのことはあり、船員たちは世界で最も優秀と言っても過言ではない水準だ。指示と返事、行動と報告とを一つ一つ重ねて行き、老いも若きもテキパキと甲板を動き回っている。慌ただしかったり、無駄に走り回ったり、気が急いていたりする者はほとんどなく、男たちは互いを信頼し、冷静に的確に仕事をこなしていった。
 では真面目一辺倒かというと、決してそういうわけではない。南国の船乗りは基本的に陽気であり、仕事も楽しげである。
「おやっさーん、そこの取ってもらえませんか?」
「オウ。……おー、これか?」
「そうでーす。下に投げてもらえますかー?」
「おい若いの、絶対取れよ」
「あいよーっ」

 他方――賓客の貴婦人たちの自己紹介は続いている。
「わたくしですが、ウピの友人のレイナと申します」
 生真面目に定型的な挨拶を始めたのはレイナだ。その場の全員と、独自のローテーションで少しずつ視線を合わせて、眼鏡の奥の瞳を光らせる。学院で習った礼儀作法の実践編だ。
「学院魔術科を修了後、現在、王立研究所に職を得ています」
「近衛騎士団が迎えに行った時は、驚いたでしょ?」
 ララシャ王女が得意そうに訊ねると、レイナは頭の中を礼儀作法の応用編に切り替え、相手の話を承けて丁寧に返事する。
「はい。晴天の霹靂……いえ、難しい言葉は抜きにして、とにかく驚きました。私、何か悪いことをしたのかと思って……」
 そう言って顔を曇らせたレイナの、彼女としては精一杯の冗談を聞いたウピとレフキルは、腹を震わして吹き出すのだった。
「ははっ」
「ふふっ」


 10月24日△ 


[弔いの契り(36)]

(前回)

 俺は背中に寒気が走り、一斉に鳥肌が立った。
 空気が物理的に冷たかったわけじゃねえ。心理的に――とでも言ったらいいんだろうか。何とも表現しようがない。邪悪と言えば邪悪な感じも混じっているが、それよりも血の流れが凍りつくような、何かが根本的に倒錯した近づきがたい雰囲気だ。
 かなり奥の方のやや高い場所に、ぼんやりと青白い灯りが浮かんでいる。それはこの世のものとは思えない、霊的で、神聖さを踏みにじり、救いようがなく沈鬱で、邪念が凝り固まって蒸発したかのような、見たことのない蒼く霞んだ丸い灯火だった。
 俺はほとんど無意識のうちに左手で喉元を抑え、肘で心臓を防御していた。次に吸い込む空気が見つからないような息苦しさを覚え、鼓動はますます速まりつつある。風通しの悪い地下と言うだけでなく――この場の雰囲気が俺の魂を蝕んでいる。
 時折、微弱な風が流れる。それは普通の流れではなく、ほとんど恨むことを諦めたかのような、それでいて恨むことをやめられないという矛盾をかかえた、若くして亡くなった者の怨念のように感じられた。現実を受け容れず、天上界へも冥界へ行くことを拒んでいる、地上界に縛られた少年や少女の怨念のごとく。

 目が慣れてくると、霧の背後に隠れた太陽を思わせるぼやけた蒼い光の、その周囲だけが微かに見分けられる。不吉な輝きは宙に浮いているわけではなく、どうやらかなり奥の方に台座だか舞台だか分からねえがとにかく高くなっている場所があり、そこに乗せられていることが辛うじて分かってくる。もちろん淡い光の届かない場所は何の区別もつかねえ深い漆黒の領土で――その他に確認できるのは、さっきまでの長い廊下と同様、離れた左右の壁際に等間隔に並ぶランプの列くらいだ。
 じっと見ているうちに、身も心も石になってしまうような気がしてくる。俺は本能的な危険を察知し、淡い光から目を逸らした。

 俺たちは一歩も動けず、身を固くして、その場に立っていた。
 ずっと見ていると、ほとんど消えかかったランプが真夜中の星のごとくにちらちら瞬いている左右の壁はとても遠く、相当に幅と奥行きがある部屋だということが分かってくる。何のために、この辺鄙な村に、こんな訳のわからねえ巨大な施設が――。
 だが、きっと全ての元凶、事件の〈核〉がこの先に待っているということは、魔法に疎い俺にだって言われなくとも分かる。精神力を鍛え、その手の感受性を鍛えた魔術師のシェリアなら、もっと色々なものが見えているだろう。俺は凍りついたかのような首を動かすことが出来ず、眼球だけを彼女の方に向けた。

 そのとたん――。
「うっ」
 突如、低いうめき声をあげたのは当のシェリアだった。口元を抑えてがっくりと片膝をつく。その若く優秀な女魔術師が創り出した、俺たちの周りを照らす明るい魔法の光が大きくゆらぎ、湖の水面に映っていた満月がさざ波を受けたみたいに形が崩れた。光量も不規則になり、明滅を繰り返し、時に消えかかる。
「大丈夫か」
 それで金縛りが解けたかのように、ルーグは恋人のシェリアのもとに駆けつけて、素早く肩を支えた。彼の足音と声が残響となり、他に音のない広漠とした空間で不気味にこだまする。
 これで〈やつら〉は訪問者が来たことを間違いなく認識しただろう。もしかしたら、とっくに気づかれていたかも知れねえが。

 シェリアは上半身を曲げて、少し嘔吐した。
 やや落ち着くと、邪気を捨て去るかのように、何度も床に唾を吐く。ルーグは黙ってタキシードのポケットから布きれを出し、相手に手渡す。シェリアはうなずき、素直にそれを受け取って、やや雑に口の周りを拭う。それからまた憎らしそうに唾を吐いた。
「ごめんなさい」
 抑えた声で魔術師は言い、布きれを反対に折ってルーグに返した。受け取った年長の戦士は相手を気遣い、冷静に呟いた。
「謝る必要はない」
 彼女の出した聖なる光の珠は、再び安定を取り戻している。
 俺とタックは辺りの様子に気を配りつつ、シェリアとルーグの立ち位置からは微妙に離れた場所で、見守っていた。青い光の最初の衝撃から解放され、肩を上下させてほぐしたりした。
「あの光、あまり見るべきではありませんよ」
 闇を乗り越えて俺のそばに寄り、悪友タックが耳打ちする。
「ああ、そうだな」
 俺はまだ左手で喉と心臓を抑えたまま、真面目に応えた。

「忌まわしき、呪術……」
 その時、感情を抑えた声で急に喋り出したのはシェリアだった。剣術士の俺、諜報ギルドのタック、戦士のルーグにとって、訳の分からない現象については彼女だけが頼りの綱だった。
 靴音がカツカツと冷たい床を打ち、次々と壁に反響していく。
 シェリアは数歩前進し、毅然とした様子で前を睨みつけた。
「嫌な感覚の正体は、これだったのね」
 相変わらず、この閉鎖空間をどこから生まれてどこにゆくのか分からない風が通り過ぎてゆく。闇の湖の底では、息を充分に吸い込むことが出来ず、浅い呼吸になる。方向感覚や平衡感覚は弱まり、心臓とこめかみはさっきから激しく脈打っている。
 俺たちは黙って、魔術師の説明が始まるのを待っていた。

 タキシードの上着を羽織ったままの格好で、やや前の方に一人で立つリンの姉貴は、さっと振り向いてルーグを見つめた。
「やっと納得したわ」
「……」
 ルーグはあえて喋らず、腕組みして軽くうなずいただけだ。
 シェリアは話を続けた。
「ここは、おそらく呪術の地下神殿よ!」
 名を呼ぶことすら汚(けが)らわしい、というような言い方で、シェリアは一段と声量を落とし、そのぶん語気を荒くした。言い終わるや否や、強い寒気を感じた様子で、大きく身を震わせる。
 それでも彼女は再び前を向き――決然と蒼い光を指さした。
「行きましょう。リンローナを救うために」
「そうだよな、行くしかねえんだ」
 右手で剣の柄を握りしめて、俺は言った。タックも同意する。
「行きましょう」
 俺とタックは宣言した後で、傍らにいるルーグの、闇に浮かび上がる厳しい表情の横顔を見つめた。リーダーは決断を下す。
「……行こう。今すぐに」

 だだっ広い呪術の地下神殿を、俺らは纏まって歩き出した。


 10月23日− 


[雲のかなた、波のはるか(35)]

(前回) (初回)

 西の空には夕陽の赤い残照がかかっているが、東の空には夜の帳が降りて、星の輝きがひとつ、またひとつ増えてゆく。
 ここ数日は雲が空の出来事を隠していたため、久しぶりに現れた今日の夕焼け空に、家路をたどる子供たちの歓声と歌声がどこか遠くの方で響いていた。向こうの岬はしだいに闇の先端と同化し、人々には心地よい疲れと安らぎとが舞い降りる。
 二人は遠ざかる潮騒を背中で聞きながら、砂浜を歩いていった。足元で崩れる白い砂は、流れ落ちる刻の粒を思わせる。砂は踏まれ、風に飛ばされ、波に洗われて入れ替わってゆくが、その先に海原が拡がっているということは変わらないはずだ。
 天を駈けた〈海の河〉の名残か、沖にはほとんど幻のごとくうっすらと虹の橋が架かり、夕闇に淡く溶けてゆこうとしていた。
 二人は振り返り、星たちの浮かぶ薄闇の空を見上げて、それからまた前を向き、緩やかな坂道を並んで歩き出すのだった。

「きゃっ」
 足に上手く力が入らず、サンゴーンは倒れそうになる。そのほっそりした華奢な肩を、とっさに腕を伸ばしてレフキルが力強く支えた。彼女の掌には友の重みと温かさが直に伝わってくる。
「ありがとうですの」
 口元を緩めて礼を言ったサンゴーンは、一生懸命に膝と腿(もも)の辺りに力を込めて、身体の体勢を立て直した。レフキルはうなずいてそっと手を外し、澄んだ瞳のサンゴーンに向き合う。
「どういたしまして」
「さっ、行きましょうの」
 サンゴーンは今度は颯爽と歩き始めた。
 他方、レフキルは一瞬、友の変化にはっとして立ち止まったが、その顔はすぐ輝いていった。眼を見開き、唇は閉じて笑みを浮かべ、相手に悟られぬよう右手の拳を固く結んで胸の上に置き――囁きよりも小さな声で友に呼びかけるのだった。
〈サンゴーン、あたし応援してるからね!〉
 砂浜を登り切ると、街道に沿ってひなびた漁師の集落が連なっていて、屋根から夕餉(ゆうげ)の煙が立ちのぼっている。何か語り合いながら海を見ている、商人風の壮年の夫婦もいる。

 浜辺に沿った水はけの良い砂利の一本道は、幾つもの小さな岬をめぐった後にイラッサ町の郊外に達し、中心部へと続いてゆく。時折、街での仕事を終えて帰宅する少年や、山の畑から下りてきた農家らとすれ違いながら、二人も自分たちの家を目指し、緩やかに曲がる道に沿って町外れを進んでいった。
「では、レフキルのお休みの日に行ってみましょうの」
「いいよ! ほんとあれは、食べとかないと損するよ」
「わかりましたわ」

 話が途切れると、静寂の合間に行きつ戻りつする波音が聞こえた。辺りはだいぶ暗くなり、目が慣れずに変な感じがする。
「ふぅ」
 軽く吐息を洩らしてから、レフキルは真面目な口調で言った。
「だけど、こうして、日常に戻っていくんだね」
 その言葉に対するサンゴーンの答えは、はっきりしていた。
「忘れませんの。また思い出しますの、この日のことを」
 通り過ぎる潮風は、懐かしい〈空の河〉と同じ匂いを届けてくれる。道は既に煉瓦の舗装が始まっており、主に白い石で作られた家が建ち並んでいる。住まいがあれば商店もあり、窓辺を通りかかると温かいランプの明かりが灯っているのが分かる。
 こうもり傘の取っ手をしっかりと握りしめ、軽く前後に振りつつ交互に足を踏み出していたサンゴーンは、急に声を弾ませた。
「あっ。お洗濯物をしまわなきゃ、ですわ」
「そっか。きっと、良く乾いていると思うよ」
 レフキルが軽くうなずくと、やや長い耳も動くかのように見えた。サンゴーンの胸元には〈草木の神者〉の印があり、いつものように透明感のある美しい緑色をして、歩くたびに揺れている。

 その時、二人は街角でほとんど同時に立ち止まった。
 向き合って、そっと目を見交わして、微笑む。
 サンゴーンは取っ手を握っていた黒いこうもり傘をちょっと持ち上げてレフキルに見せ、それを今度は大事そうに抱え持った。
 額と頬と首筋の日焼け、それから服の袖に残るわずかな湿り気を感じながら――あるいは、それは錯覚だったのかも知れないが――十六歳の少女たちは、別れの場所にたどり着いた。
 名残は尽きず、しばらく二人は思い出にひたりながら立ち尽くしていたが、やがてサンゴーンは意を決し、相手の名を呼ぶ。
「レフキル」
「ん?」
「私、今度の火曜日、町の会議に出てきますわ」
 祖母の〈草木の神者〉を受け継いだ後、サンゴーンは町長という肩書きをも引き継いでいた。若すぎる彼女は職務を嫌がって代理の者を立てており、意味の分からない会議に自身が出席することはほとんどなかった。だが両親と遠く離れ、学院に通うわけでもなく、祖母の死後は一人で暮らしている彼女が生活の糧を得ているのは、仮にせよ町長という役職があるからだ。
 サンゴーンの中で、何かが新しく動き始めようとしている。

「うん、分かった。あたしは行けないけど……祈ってるから」
 レフキルはそう応えて、右手の拳を握りしめ、星空に掲げた。
「まずは、居眠りしないことを目標にしてみたいですわ」
 迷いを振り切るかのように、サンゴーンは一生懸命に語る。
 それを少しだけ不安に感じたレフキルは、優しく声をかける。
「焦らなくても大丈夫だよ、サンゴーン。いつものままで」
「……ハイですの。いつも助けてくれて、ありがとうですわ」
 一呼吸置き、友の言葉を胸に懐いてからうなずいたサンゴーンの口調は和らいでいた。レフキルは明るく元気に言い返す。
「こっちこそ、だよ!」

「じゃあね」
「おやすみですわ」
 二人は手を振って別れ、それぞれの家路をたどった。
 相手の足音は遠ざかり、失われ、友の姿は闇に紛れたけれど、あの小舟で感じた背中の温もりは、今は心に灯っている。
 さざ波に揺られる感覚も、まだ身体のどこかに残っていた。

(おわり)
 


 10月22日− 


[霧のお届け物(10)]

(前回)

「ありゃ、気がつかなかったのだっ……」
 身体を左と右へ交互にひねって爪先から踵まで確認し、重い靴を持ち上げ、だいぶ泥で汚れていることを知ったファルナは、困惑気味に顔を上げてオーヴェルの瞳を上目遣いに覗いた。何かやらかした時の癖である、驚きに似た微笑みを浮かべて。
 すでにシルキアは玄関の外の古い切り株に靴の裏をこすり付け、雨上がりの森の道を歩くことで付着した泥を落としていた。
「大丈夫、気にしなくていいですよ」
 家の主のオーヴェルは振り向いて優しく声をかけたが、ファルナは慌てて駆け出した。重厚な木の扉が音を立てて閉まる。

「あらあら」
 オーヴェルは入り口まで引き返し、扉を押した。隙間が生まれ、広がって、清々しく透明な空気の流れが家の中に迷いこんでくる。朝露を色褪せた葉の上に飾り、霧のカーテンを引き、やがては森を暖かな色で塗り替えてゆく早起きの風の子たちだ。
「だいぶ冷えていますね」
 扉を肩で押さえたまま静かにつぶやいたオーヴェルは、首を少しすくめた。だが、鳥の歌声が高まると森の枝先を見上げ、その先にある真っ青な眩しい空に優しく目を細めるのだった。

 二十歳を過ぎたくらいだと思われるオーヴェル・ナルセンは、秋めいた茶色の長袖の服に花の模様の入ったえんじ色のロングスカートを合わせ、黒いカーディガンを羽織っていた。といっても余所行きというわけではなく、肩口のゆったりしたくつろげる装いだった。今日は少しだけ眠そうな蒼い瞳は、その年齢より遙かに落ち着いた印象を与え、知的な思慮深さを秘めている。
 身長は普通であるが、ほっそりとしているので実際よりも背が高く見える。だが特に不健康そうに見えるということはない――あまり日に焼けていないことを除けば。うら若い彼女の胸元には、賢者であることを示す薄紫色の小さな宝石が、朝の光を受けて瞬きしている。それは夢のかけらのように、星の名残のように、誰かのゆうべの涙のように、麗しいきらめきを讃えている。
「でも、おいしい空気」
 庭にはコスモスの白や紫、薄い青の花が微かにゆれている。思いきり息を吸えば、きれいになった肺の中から新しい一日が始まり、鼓動は刻を奏で、心からの喜びと活力が湧いてくる。

 初秋の森は、春や夏に比べれば鮮やかではかなわないけれど、品のある彩りが増えてゆく。いつしか広葉樹は紅や黄色に燃えて、暮れゆく一年(ひととせ)の黄昏時を迎えるのだろう。

山奥の朝(2003/09/22)

「ふぅーっ」
 一足先に作業を終えたシルキアは、入口に戻ってきて口元を緩め、もう一人の姉のような存在であるオーヴェルに言った。
「改めて、おじゃましまーす」
「どうぞ、ゆっくり身体を休めてね」
 オーヴェルはそのまま扉を肩で押さえ、ファルナの帰りを待っている。彼女は不器用な動作で、たまに身体のバランスを崩して倒れそうになりながら、靴の裏を切り株にあてがっていた。

 静かな山奥の朝である。
 姉妹はテーブルにつき、丸太を加工した椅子に座って、また部屋の中を眺めている。床の年輪や、天井の木の組み方や、整理整頓された調度品、村にある全部を合わせたよりも多そうな本の数――ここは賢者オーヴェルの夏季の住みかなのだ。
 オーヴェルは床をカタコト鳴らしながら歩き、やはり森の木で作られた食器棚に向かって深皿を出してきたり、暖炉に吊して温めている鍋のふたを取って中身を確かめた。さっき煙突から出ていた細い湯気と、おいしそうな匂いの素が明らかになる。
「シチュー?」
 姉はわずかに腰を浮かし、鼻を突き出して嗅ぐ仕草をした。
「お姉ちゃーん、はしたないよォ」
 と顔をしかめて言ったシルキアだったが、まさにその直後におなかが鳴って、頬をやや朱く染め、恥ずかしそうにうつむいた。
 オーヴェルは振り向いて、姉妹の顔を交互に見ながら語る。
「ええ。残り物ですけれど、もうすぐ温まりますよ」


 10月21日− 


[雲のかなた、波のはるか(34)]

(前回)

「よっ……」
 最初に立ち上がったのはレフキルだった。両膝に力を込め、重心をやや後ろに移して何とか身体を安定させる。一歩一歩、足の裏で砂浜を感じながら、初めて空に飛び立つ鳥のように両腕を広げて、よろめきながらも親友の元へと歩み寄っていく。
 白妙の砂はさらさらこぼれて、あまたの乾いた貝殻が見え隠れする。それは光の加減によって、青や薄緑に彩りを変えた。
「足に、力が入りませんの」
 白く温かい砂浜に掌をうずめて横座りし、困惑気味に顔をもたげたサンゴーンの目の前に、ゆっくりと手が差し伸べられる。
「つかまって」
 指がやや太いけれど――器用で実用的なレフキルの手だ。
「どうも、ありがとうですの」
 サンゴーンは右手を出して相手の五本指を握りしめ、左手を開いて地面につっかえ棒をし、少しずつ身体を起こしていった。
 そのそばで赤い蟹が足を止め、静かにあぶくを吹いている。

 起き上がったサンゴーンはレフキルと向き合い、二人はどちらからということもなく、そのまましばらくじっと見つめ合った。サンゴーンは良く澄んだ美しい青空を仰いだ時のように新鮮で心広がる気持ちを感じつつ、友の深緑の瞳に引き込まれていた。
 神殿の尖塔を飛び立って以来――長かった〈天の河下り〉の間、窮屈な傘の小舟で背中合わせの姿勢を保ち、互いの表情や思いを推し量って過ごした。そして今、こうして再び地上で向き合っていることが、現実を越えた夢のように不思議で素敵で、かけがえのない大切なことだと、サンゴーンは確信していた。
 もう涙はいらない。サンゴーンもレフキルも、一つの事を最後まで見届けた充実感に溢れ、とても清々しい表情をしていた。
「サンゴーン……すごく日に焼けてるよ」
 レフキルはそう言って、悪戯っぽく笑う。明るい少女らしさとともに、しだいに大人へと移り変わってゆく、季節で言えば初秋を思わせる〈落ち着き〉のようなものが確かに混じり始めていた。
「レフキルもですわ!」
 若き草木の神者は、身体には心地よい疲労感を覚えていたものの、爽やかで健気な微笑みを浮かべた。きっと井戸水で顔を洗えば痛いほど染みて、数日経てば皮が剥がれてくるのだろうが、今は友と同じように日焼けしたことを素直に喜んでいた。

 だが、その時だった――。
 弱い雨が大地を濡らして染みこむように夜が迫りつつあることを知らせる、夕凪の終わりを告げる一陣の風が流れ、サンゴーンとレフキルの髪を揺らした。初夏の南国にはまだ昼の温かさが残っているが、日が暮れてしまうとかなり過ごしやすくなる。
 静かな波打ち際には、不規則ながらもどこか鼓動のリズムに似ている潮騒が響き、重なり合い、近づいては引いていった。
 その波のように、さまざまな想いが交錯したのだろう。今度は夕陽の名残が赤い光を放っている西の空を見上げて、微かな翳りを帯びた目を細め、サンゴーンはしみじみとつぶやいた。
「帰ってきたんですの」
 レフキルも友の傍らで深くうなずき、真面目な声で同意する。
「うん。帰ってきた」

 やがて二人の視線は、足元で波の先端に洗われている、さかさまの黒い傘に集まった。改めて見直してみると、サンゴーンの祖母の魔力が残っていたとはいえ、よくぞ二人を乗せていたと思えるほどの大きさしかない、古びたこうもり傘であった。
 レフキルはサンゴーンに目配せすると、すぐに緩やかな坂を数歩下って、波が届き、砂が濡れている場所までやって来た。
 タイミングを見計らって素早く腕を伸ばし、彼女は傘の取っ手を引き寄せて持ち上げた。それは驚くほど華奢で、軽かった。
 潮水に浸され続けて黒い布が弱まっても決してくじけず、空を飛んで河を流れ、海をゆく間もずっと二人を守ってくれた祖母の忘れ形見の古い傘は、いま再び永い眠りに就こうとしている。

 こうもり傘を器用に閉じ、レフキルはそれを持ち主に渡した。
「はい。舟には感謝しなくちゃね」
 それを受け取り、いとおしそうに眺め、サンゴーンは呟いた。
「本当に……よく持ったと思いますわ」


 10月20日△ 


[大航海と外交界(12)]

(前回)

 父親であるカルム王の許可が下り、今回の一件が本決まりになってからというもの、ララシャ王女は始終機嫌が良かった。気まぐれや癇癪に怯えていた侍女たちはほっとして、このままの状態が出来るだけ長く続くことを祈り――そればかりか王女がミザリアからしばらく居なくなるのを喜んだ者もいただろう。
 しかし、騎士を引き連れての格闘修行などのおてんばはともかくとしても、無軌道なわがままぶりは急になりを潜めて、王女は割と素直になった。特筆すべきは、最終目的地のリューベル町や、船が経由するモニモニ町などに関する観光情報や食べ物を家庭教師に訊ね、それが高じて文化や歴史や地理に興味を持ち始めるなど、昔から王女を知る者にとっては驚くべき変わりようであった。それらの結果――出航が近づくと、数ヶ月に渡って王女が城を空けるのを本気で寂しがる侍女が続出した。
 待ちに待った出発の日がやってきて、賓客としては一番に船に乗り込んだ後も笑顔が絶えないララシャ王女は、初日から若い船乗りにまで気さくに声をかけるなど、船の上での評判は早くも上々であった。特に初めてララシャ王女を近くで見た壮年の船乗りたちは、甲板掃除やマスト張りの合間に話すのだった。
「噂なんてのは、ほんとにいい加減なもんだな」
「元気で明るくて、そんでもってキレイなお姫様じゃねえか」
「下々の者まで、優しくお声をかけて下さるし」
 ともかく海上の姫は晴れやかで、そして誰より輝いていた。

 国王直々の見送りに手を振り、しばらくは離れゆくミザリア島を眺めていた王女だったが、沖に出てからは気兼ねなく船員服に着替え、席を温める暇もなくさっそくウピたちを訪ねた。あいにく部屋におらず肩すかしを食うが、そのついでに当分城の代わりとなる船を探険し、お気に入りの者たちと立ち話に講じる。彼女らを引き連れ――ついにウピたちと甲板で対面を果たした。
「だって、緊張するんですよ。高貴な皆さんに囲まれて……」
 ウピは苦笑交じりに話した。小柄で人なつこい彼女であるが、これまでの生活と異なる慣れない環境に戸惑いがあるようだ。
 するとララシャ王女は瞳を鋭く光らせたが、何を思ったか急に表情を緩め、その場で足取り軽く、くるりと一回りして見せた。
 白い船員服のズボンに筋が入ったり伸びたりする。金の髪が空から降り注ぐ光の宝石を散りばめてそよぎ、微かに良い香りを含む淡い風が生まれた。鍛錬を積んだ身体はしなやかだ。

「まあ……」
 しばらく二人の話を聞きながらうなずいていたレイナが、思わず見とれて感嘆の溜め息を洩らした。王女は蝶の舞いのごとくにふわりと回り終えて、ウピとレイナを交互に見ながら訊ねる。
「で、どう? あたしが高貴に見えるわけ?」
 今日のララシャ王女は船員服を着ている。やや華奢な少女の背中とはいえ、おそらく船乗り衆に混じることができるだろう。
「えーと、その、あんまり……」
 ウピは唇をゆがめ、瞳を白黒させ、ララシャ王女から視線を逸らして口ごもった。なかなか嘘のつけない性格であるようだ。

 するとララシャ王女はくわっと蒼い瞳を開き、鍛えられた両腕を伸ばしてウピに迫り――得意の決め台詞をお見舞いした。
「ウピ、不敬罪っ!」
「ひゃあ、お許しを!」
 ウピは頭を抱えて後ずさったが、船には逃げ場がなく、腰は木の柵にぶつかる。レイナは慌てて、友のために頼み込んだ。
「王女、どうかウピを許してください」
「許すも許さないも……相変わらずね、あんたたち」
 優しく目を細めて親友同士を見つめ、ララシャ王女はその後で悪戯っぽく笑った。久しぶりに身分の違う者同士が、全く別の場所で出会って、なかなか距離感がつかみきれずにいる――同年代の友人が少ない王女も、しだいに理解し始めていた。
 ウピの方は気持ちが萎えて、そのまま柵にもたれかかった。
「王女、冗談きついですよー」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「とにかく、あたしがわざわざ呼んだのよォ?」
 王女は少し口を尖らせて言った。以前ならば不愉快で熱くなってしまったかも知れないが、王宮では決して見られないどこまでも続く開放的な蒼い空と碧の海が、どこにも邪魔されないで自由奔放に流れる心地よい沖の潮風が気分を静めてくれる。
 大自然に囲まれた、広すぎることも狭すぎることもない〈船〉という新鮮な生活環境は、いたく王女の気に入ったようである。
 怒るというよりも拍子抜けという感じで、ララシャ王女は言う。
「それに、なによその喋り方。楽しみにしてたのに……」
「えー、でも他の方もいるからね……いいのかな?」
 王女の寂しそうな声を聞き、街で会った時よりもやや雰囲気の変わっている相手の様子にはっと気づいたウピは、幾分普段の気さくな調子を取り戻して逆に訊ねた。その視線は、王女の後ろに立ってウピとレイナとのやりとりを見守りながら、時たま互いに喋り合っている三人の〈他の方〉にちらりと向けられる。

 三人のうち、ウピと同じように庶民風の格好をした二人の少女らは、世代的には自分自身やレイナとほとんど同じように見えた。そのうち一人は妖精の血を引いて耳がやや長いリィメル族で、もう一人は銀の髪の人間だった。残る一人は三十歳前後の、あまり外見は目立たないが優しい感じの瞳を持つ侍女だ。
 次の瞬間、ウピとリィメル族の少女のまなざしが重なった。


 10月19日△ 


[恋多き(?)乙女たち(後編)]

(前回)

「お嬢さん、怪我ないっすよね。今度は一体どうしたんすか?」
 遅刻したことを忘れ、ユイランはあきれたように先輩を問いつめた。すでに何回も同じ経験を味わったような言い方である。
「だって、腕を捕まれて、気持ち悪かったから……」
 メイザはややうつむき、悔しさと恥ずかしさと反省の混じったような横顔で、不満そうに口を尖らせた。ユイランは呆れて言う。
「前に駄目って言ったじゃないっすかー」
「だって、ユイちゃんが来るのが遅いんだから」
 指摘の反論になっていないのだが、小柄な先輩は大柄の後輩を仰ぎ、矛先をいよいよ後輩の過失に向け、責任を転嫁してきた。だが効果てきめん、相手は言葉に詰まり、頭を下げた。
「うっ、そうだった。遅れてすんませんでしたっ」
 こう言う所は、割と礼儀正しく仕込まれたユイランである。

「ウーン」
 メイザにやられ、煉瓦作りの広場の足元に仰向けで転がっている小太りの男が、夢と現実との間の黄昏を彷徨ったまま低い呻き声をあげた。闘術士の視線は、いったん地面に集まる。
 ユイランは両手を腰に当てて胸を張り、軟派男を見下ろした。
「馬鹿だねぇ、メロウ修行場の武術家に手出しするなんて」
「手加減したから、骨は折れていないと思うけど……」
 自業自得とはいえ、さすがに素人の被害者を見ていて忍びなくなったのだろう。メイザは男から目を逸らし、表情を曇らせた。格闘家のまなざしは自然と上昇し、再び目の高さで交錯する。
 ユイランは相手の感情の変化を察知して、的確に補足した。
「まあ、まさかお嬢さんが格闘家とは思わなかったんでしょう」
「まあね……」
 特徴的なえくぼを浮かべて、メイザはしかめ面で苦笑する。
「これに懲りて、ああいう事をやめてくれればいいんだけど」

 パチ、パチ……。
 突如、まばらな拍手が起きて、壮年の露天商が立ち上がる。
「いやー、あんた、可愛らしいのに大したもんだね」
「さすが鍛え方が違うのぉ。わしの若いころを思い出すわい」
 通りかかりの老婆も皺だらけの手を叩き、メイザを賛美する。
 町の子供たち、同年代の娘、左官に大工、庭師に八百屋、荷馬車の馭者に、薬売り――拍手の渦はしだいに大きくなった。メイザは驚きつつも、礼儀正しく丁寧に各方面へ頭を下げる。
「あ、どうも、どうもありがとうございます」
 あっという間に素直な照れ笑いを取り戻した彼女は、せっかくの機会に宣伝することも忘れない、したたかな〈お嬢さん〉だ。
「今度、ぜひ試合も見に来てくださいねー!」

「この辺りで悲鳴が聞こえたようだが、大丈夫かッ?」
 騒ぎを聞きつけて颯爽と駆けてきたのは、肩幅が広くて大柄な、黒い髪を短く切り、腰に長剣をぶら下げたトズピアン公国の二十代の若い兵士だった。野次馬は興醒めして大人しくなる。
「どうした、君たち」
 革製の簡素な鎧を身にまとい、白いマントを風に揺らし、広場のある地域を警備する役に就いている若い兵士は付近を見回す。彼の瞳は、目立っている二人の女性におのずと注がれる。
「御令嬢がた、怪我はないかね……?」
 やや威厳を含んだ口調で言い、大股で並木の方に近づいてきた兵士だったが――仰向けに倒れて腰を打ちつけ、気絶している小太りの男に気がつくと、違和感を覚えて立ち止まった。
 その顔から凛々しさが溶け出し、困惑に塗り替えられてゆく。
「なんだ、また君たちか」
 ユイランとメイザの姿を認めると、うんざりしたように言った。
「すいませーん」
 ユイランは頭を掻き、ぺこりとお辞儀して、ぺろりと舌を出す。
「申し訳ありません……今回は私なんです」
 スカートの前で手を組み、メイザは深々とこうべを垂れた。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 予定よりもだいぶ遅い昼食を終えて、二人は砂利道の庶民の町を歩いていく。秋の深まる北国のマツケ町では、午後になると影は伸び始め、風が肌寒く感じられる瞬間が増える。日向はまぶしいが、日陰は寒く、夏と冬――光と闇がせめぎ合う薄暮の季節であった。垣根から飛び出た広葉樹の葉は真っ赤だ。
「それじゃミザリアのおてんば姫と同じっすよー。大師匠が話してくれましたよ、ララシャ王女が街で騎士を吹っ飛ばした噂を」
 ユイランは大げさに投げる仕草をして、先輩をからかった。
「私は正当防衛だもん。それに前回の騒ぎはユイちゃんだし」
 おっとりしているメイザは、とても負けず嫌いな一面もある。

 気の合う仲間との散歩は、まろやかで質の高い刻が流れてゆく。修行の時とは違った普段の面を、お互いが感じ取れる。
「それにしても、なんで、そんなモテモテなんですかねぇ?」
 ユイランが少しひがみっぽく言うと、メイザは深く考え込む。
「それがわからないな。心当たりがないんだものね」
「あたいは、なんとなく分かるような気がしますけどね……」
 珍しくユイランは含みのある口調で呟き、やや歩みを緩めた。メイザは興味をかき立てられ、相手の漆黒の瞳を覗き込んだ。どのような回答が来るのか、興味津々の様子で相づちを打つ。
「ふーん?」
 そこで一呼吸置き、ユイランは優しい言い方で語りかけた。
「〈お嬢〉さんは、やっぱり〈お嬢さん〉だからっすよ、たぶん」
 
「えっ、何、それ?」
 小首をかしげ、先輩はきょとんとした表情だった。綾織りの蒼いスカートの裾を揺らして軽くつま先立ちし、艶やかな黒い前髪を降り注ぐ光にきらめかせ――メイザは上品に立ち止まった。

(おわり)
 


 10月18日− 


[恋多き(?)乙女たち(中編)]

(前回)

「やばいなぁ、かなり遅れ気味……どいてーっ!」
 いたずら好きの洟垂れ小僧たちや、買い物へ出かける腰の曲がった老婆、野菜を積んだ車を引いて通りを歩いている男、昆布を竹垣に干している乾物屋の老人、暇そうにぶらつく男女の学院生らを器用に避けながら、ユイランはマツケ町の未舗装の砂利道を走っていた。額にうっすらと汗をかいているが、まだまだ余裕はありそうだ。通りの左右には、やや黒っぽくなった木造平屋の商店や、庶民の家々が立ち並んでいる。マツケ町の大部分を占める、あまり洗練されていない地区の一つである。
 黒い髪は簡素に、しかし堅実にきっちりと後ろで結わえていて、闇色の瞳は真っ直ぐに前を見つめている。やや大柄で筋肉質の若い格闘家、今後が楽しみな十九歳のユイランは、運動に適した黄土色の綿の長ズボンをはいていた。上も木綿の長袖シャツという、見栄えよりも使い勝手を重視した服装である。
 修行場のあるメロウ島を離れ、交流試合に出場するためマツケ町に来ていた二人は上々の戦いで成長ぶりを示し、今日は師匠からご褒美として久しぶりの自由時間を与えられていた。賞金の一部も分配されており、いくら武術を生業にしているとはいえ年頃の娘の二人は、一緒によそ行き用の服を買おうと約束し、なじみの広場で待ち合わせたのだった。午前中は互いに別行動だったが、昼食前に合流して一緒に摂る予定だった。

 その時――。
 平和な庶民街に、一つの変化が起こった。
 甲高くも可愛らしい声が、やや遠くで響き渡ったのだ。
『やめて下さいっ!』

 そのまま走っていたユイランの足取りはしだいに重みを増して、ついに止まってしまう。彼女の表情は真剣になっていた。
「今の声って……」
 大して考えなくとも、自ずと結論にたどり着く。彼女は天の白い羊雲を仰ぎ、聞き耳を立てながら、道のど真ん中で叫んだ。
「〈お嬢〉さん?」
 どこか貴族の娘を彷彿とさせるおっとりした上品な感じを漂わせ、しかも二カ国語を操れるメイザは、師匠から〈お嬢〉という愛称を付けられた。ユイランなどの後輩が尊敬と親愛の気持ちを込めて呼ぶ時――それは[〈お嬢〉さん]という言い方になる。

「やばっ、急がなきゃ!」
 我に返ったユイランは砂利道を蹴り、飛ぶように走り出した。
「落ち着いて待ってて下さいよ……お嬢さん!」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「お嬢さん!」
 先輩の愛称を呼びつつ、疾風(はやて)のごとく待ち合わせの広場に滑り込んだユイランは、素早くあちこちに視線を送った。
「どこ、どこに居るんすか?」
 居ても立ってもいられない慌てた様子で、ユイランは辺りを見回した。ゴザの上に座り込む老いた露天商、食べ物売りが豚肉を焼く香ばしさ、並木の間を駆け回っている子供たち――。
 その並木に近い、広場の隅の方にユイランの焦点が合う。
 だが次の刹那、彼女はとんでもない光景を目撃していた。
「あーっ、お嬢さぁん!」

「ユイちゃん!」
 というメイザの返事があった直後のことだ。

「ヒャーッ!」
 広場全員の注目を集める、恐怖と驚愕の悲鳴がこだました。
 その後は声にならない。むしろ、声を出せない――と言った方が正しいのだろうか。ユイランの黒い大きな瞳が見開かれる。
「お嬢さんッ!」
 皆の好奇のまなざしを斜めに切り裂いて、ユイランは再び全力で駈け出した。清楚なメイザの姿が眼の中で拡大してくる。
 額から汗のしずくを散らし、ユイランは現場に駆けつける。
 そして左右に首を振り、一言、溜め息を洩らすのだった。
「手遅れだったんすね……」

「ああ、ユイちゃん。ずいぶん遅かったのね」
 口をへの字に曲げてメイザは不満そうに呟き、両手をはたく。
 その小柄な女性のロングスカートの足元には、柄の悪い太った男が腰を強く打って気を失い、白い泡を吹いて伸びていた。
 ユイランがメイザを見つけた時、敬愛する先輩は修行の成果を遺憾なく発揮し、重い男を背負い投げで宙に飛ばしていた。
 さっきの悲鳴は、メイザに叩きつけられた男が発したのだ。
「え、えっ?」
 残っていた背の高い男は口を歪め、なす術なく立ち尽くしている。ユイランは面倒くさそうに両手の関節をポキポキ鳴らした。
「どーせ、お嬢さんに絡んだんでしょ? とっとと消えなよ」
「……」
 男は唖然として凍りついた表情になり、重心を後ろに傾けて二、三歩退いたかと思うと、回れ右して一目散に疾走し、不規則な足音はすぐに遠ざかった。子供らは一斉に煽り立てる。
「お姉ちゃんに、太っちょが負けた!」
「やったー、ザコが逃げてくぞー!」


 10月17日− 


[弔いの契り(35)]

(前回)

 足元に気を付けながら、そして出来るだけ急いで、十数段の階段を駆け下りる。地下に進むに連れてしだいに息苦しさが募ってくる澱んだカビ臭い空気に――重い雰囲気に、誰もが押し黙っていた。削られてからあまり歳月を経ていないと思われる冷たい石の階段は、シェリアの魔法の珠の光を受けても、なお黒々と横たわっている。姿ははっきりとは見えないのに、やはりこの村の全てに共通するようにどこか古びて歪んだ印象を受ける。石の階段は、仮面を着けた冷酷な年増の貴族の婦人のようにすましていたが、その背後には何か得体の知れない昏さ、非情な感情を漂わせて、俺の背中には虫酸が走るのだった。
 踊り場では他の三人が待っていてくれた――シェリアが角を曲がると、光が俺に届かなくなるからだ。こんな所に残されたらたまらねえな、と思っていた俺の思いは、この奥に〈捕らえられた〉と考えられるリンの安否へと収斂していく。全員が集まると、先頭のタックが押し殺した声で最後尾の俺に注意を促す。
「ケレンス、後ろに気を付けて。刺客がいるかも知れません」
 そう言ったタックの声は、唾が喉に引っかかっているかのような、嗄れた声だった。俺は必要最低限の声量でいらえを返す。
「ああ」

 一呼吸置いた俺たちは踊り場を横切り、今度は反対向きに下っていく階段を足早に進み始める。一段一段踏み下ろすたび、足音はつかみどころのない闇の海を伝わり、遠くまで響き渡った。それがどこまで続いているのか――消えた残響では、その大きさは量れない。いよいよ空気の澱みはひどくなり、常に戻りたいという衝動にかられるが、それを振り払って俺らは駈ける。
 苦楽をともにしてきた大切な仲間の一人がこの奥にいる、という確信がなければ、俺たちは諦めていたかも知れない。暗さはなおいっそう募り、人の子が触れてはいけない禁忌を彷彿とさせる、かつて感じたことのないほどの邪な気配が強まってくる。迫り来る漆黒の粒子には、さっきまではほとんど混じっていなかった霊気、あるいは鬼気のようなものが自己主張を始める。
 魔法やら神秘やらに疎い俺にさえ感じられるのだから、魔術師を名乗るシェリアは精神的な戦いで大変なことになっているのだろう。事実、さっきまで安定していた聖なる光の珠はゆらぎ、時折風に吹かれたロウソクのように弱まり、消えかかることもあった。ルーグが気遣って、低い声で相手の名前を呼んだ。
「シェリア」
「大丈夫よ」
 短く応えたシェリアは小走りに駆けながら額の汗を拭き取る仕草をした。それが見えない戦いの険しさを暗に伝えていた。

 俺らはとっくに階段を降りきって、地下一階の細い道を駆けていた。階段が長かった分、天井は高く、シェリアの光の珠でも微かにそれと見分けられる程度だ。道は上の階と同じようにひたすら真っ直ぐで、前にも後ろにも生きる者の気配は感じられない。誰もいないからと言って蜘蛛の巣などが張っていることもなく、闇を好む多足動物が床を這っているわけでもない。むしろ、そういうものを見かけたなら、俺らの気分はまだ和らいだろう。
 施設が使われている形跡はあるのだが、この中では緩慢な動作で生と死が裏返ってゆくような印象を受ける。何もいない、何も生きられない。平穏で健全な日常世界とあまりにもかけ離れた、極めて異常な空間が暗黒の深海の果てに続いている。
 消えかかったランプは、この階でも一定の間隔を置いて並んでいる。ほとんど灯りとしては意味をなしていないが、道が直線なので、勝手を知った者ならばこの程度の弱さでも何とかなるのだろう。ただ普通の感覚の持ち主ならば、この昏い廊下を松明(たいまつ)かランタン無しで歩こうとは思わねえだろうな。

 見えない、聞こえない。息苦しいのと、濁った空気の持つ独特の臭気、そして走っていることもあり、俺たちは主に口で息をしていた。バランスを保とうと横の壁に手を伸ばせば、ずっと暗闇に閉じ込められて恨みを抱くかのような石の壁は氷よりも冷たく感じられ、思わず手を引っ込める。五感が狂ってしまいそうだ。
 それにしても、この村の規模に相応しくない巨大な地下の施設だ。廊下は壁ばかりで独房は見当たらないから、地下牢というわけでもなさそうだが、だからと言って無意味な施設とは思えねえ。あれだけのごろつきどもが入口を守っていたんだからな。きっと、やつらは中がどうなっているのか知らずに守っていたに違いないな。この廊下を見れば、きっと仰天することだろうぜ。

 絶えず聞き耳を立て、目でも四方八方への注意を怠らずにタックは先触れを務めていたが、しだいに速度を落とし始めた。気のせいか左右に並んでいるランプの光が少しずつ強まり、しかも向こう側にずっと連なってきた数が減ってきたように思えた。

 突如、四人の足音の響き方が変わった――狭い廊下にこだまする感じから、だだっ広い場所へ拡散していくかのように。
「くっ」
 急にタックは立ち止まり、鋭い動作で右斜め前を振り返る。
「ひいっ!」
 シェリアは勢い余ってタックの背中にぶつかり、かすれた小さな悲鳴をあげた。集中状態が乱れたためか、闇の中で俺たちがしがみついてきた唯一の澪(みお)、頼りだった魔法の灯火がガラスを割った時のように弾け、光の粉となって宙に散った。
 ルーグが止まり、最後の俺も何とかその場に踏みとどまる。

 廊下の右側の壁が尽き、右斜め前の広い空間が見渡せる。
 あれは――。
 あれは、何だ!?


 10月16日− 


[恋多き(?)乙女たち(前編)]

「ユイちゃん、遅いなー」
 広場を囲うようにして生えている松並木の、一本の松の木の下で、メイザは腕を組んでいた。幾分小柄だが、綿と毛の綾織りの蒼いロングスカートの裾に隠された脚は割と長いようだ。
 渋めの茶色に灰色が混じったような、縦にボタンが並ぶ大人っぽいカーディガンを羽織り、その下に着ている白いシャツの襟を出している。良く梳かれた長い黒髪を品の良いアップにし、銀色の髪留めが抑えている。どこか育ちの良さを漂わせているおっとりとした横顔からは、彼女の〈人の好さ〉があふれている。
 実はその中には良く鍛えられた肉体が潜んでおり、彼女は格闘家として修行を積んでいる二十二歳なのだが、端から見ると良家の可愛らしいお嬢さん――という印象しか受けなかった。

 北の都・マツケ町は、今日は秋晴れであった。彼女は呆然と広場を行き交う人を見ていたり、風に舞う赤や黄色の落ち葉を眺めたり、松の木を仰いだり、その梢の合間に覗く空の青さに眸をしばたたいたり、白い雲の行く末を目で追っていたりした。
 涼しい風が日陰を通り抜けると、予想以上の爽やかさに思わず目を閉じ、組んでいる腕に力を込める。ぬばたまの黒い睫毛はかすかに揺れ動いて、形の良い桃色の唇は乾くのだった。
 朝は魚売りが集まり、昼は露店の出る広場に人は多かった。メイザはその隅にいるのにも関わらず、目立つ存在であった。美人というよりは可愛らしいタイプの彼女は好印象を与える。

「ねえねえ、いま暇かい?」
 貴族か商人の次男坊あたりを思わせる、短い黒髪を同じように尖らせた若い二人組の男が近づいてくる。一人は左から、もう一人は右から回り込み、メイザの退路を断ち切ろうと弄する。
「はい?」
 メイザは驚いて問い返した。その黒い星を思わせる清楚な眸には、一瞬にして疑念の色が浮かんだ。直感は鋭いメイザだ。
 ひょろりと背の高い男の一人が見下ろし、馴れ馴れしく言う。
「ちょっと、お昼でも一緒にどう?」
「いえ……あの、待ち合わせているんで」
 えくぼの似合う笑顔をしまい込み、普段は滅多に見せない硬い表情とぎくしゃくした言葉で、彼女はうつむきがちに応える。
「なんだよ、男がいるのか?」
 もう一人の、若いけれどもやや太った男が言った。妙な毛皮の縁取りの帽子をかぶっているが、趣味が悪く、似合わない。

「いえ、女友達ですけど」
 メイザは下を向いたまま、律儀にいらえを返した。格闘の、同じ修行場の後輩のユイランと待ち合わせていたのは本当だ。
 それを聞いた瞬間、痩せた方の軟派男の目がキラリと光る。
「じゃあ、いいじゃねえか。ちょっと遊ぼうぜ、金なら有るんだ」
 妙な金色で陽の光を反射するジャケットのポケットから、幾つもの銀貨を取り出して掌に乗せ、メイザに見せびらかす。かつて物々交換が主流だった辺境のマツケ町だが、メラロール王国の影響下に入ってからは銀貨・銅貨等の硬貨が流通している。
「ペッ」
 太った方の男は広場を舗装する煉瓦に唾を吐き、すごんだ。
「俺たちに逆らうと、痛い目に遭うぜ。お嬢さんよ」
「私をその名前で呼ばないで下さいよ」
 メイザは妙な回答をした。彼女の愛称は〈お嬢〉さんなのだ。

 広場の隅の松の木の下でやりとりが進み、周りには気づかれにくかったが、そろそろ不審に思う者も現れる。あまり頼りなげだが、勇気を振り絞ったのだろう――細身の男が声をかけた。
「き、君たち、何をしているんだ」
 震える声で指摘したものの、メイザに絡んでいた男どもから威圧的に睨まれると、注意男はすくみ上がってしまう。メイザの淡い期待は、儚くも裏切られてしまった。事態はさらに悪化する。
「なー、いいだろ? 付き合えよォ」
 太った方の男が、気だての良いメイザに近寄ってきたのだ。


 10月15日− 


[霧のお届け物(9)]

(前回)

「はい」
 少し遅れて、くぐもった声が聞こえた――ような気がした。姉妹は顔を見合わせて、視線で会話をするが、二人とも今のが本当に返事なのかどうか決めかねている。だが鼓動は少し速まり、ひそかな期待が胸の内側で徐々に高まってくるのだった。
 足音はほとんど聞こえぬが、人の近づいてくる気配を感じる。
 すると突然、ノックの音が響いて、懐かしい声が聞こえた。
「念のため……どちら様ですか?」
「シルキアです」
「ファルナですよん!」
 姉妹はほぼ同時に名乗り、シルキアは不満そうに頬を膨らませる。他方、ファルナは声が合ったことを喜び、相好を崩した。
 まもなく簡素で頑丈な鍵が外される音がして、ドアと丸太の壁に隙間が開いた。そこから若い女性の知的な双眸が覗いた。

「まあ、いらっしゃい」
 相手の声が弾み、優しく清楚な笑顔が現れる。長い金色の髪は後ろで束ね、ボタンの並んだブラウスと薄手の黒いカーディガン、ゆとりのあるくつろいだ感じの茶色のスカートを着ていた。
「おはよう。持ってきたよ」
 シルキアは挨拶をして、霧の入った瓶を持ち上げた。ファルナが本来のお届け物である細長い樽を相手に見せ、補足した。
「おはようなのだっ。おいしい葡萄酒、持ってきましたよん」
「遠いところを、お疲れさま。さあ入って!」
 重い木の扉を腰で押さえ、相手の女性は手を広げて訪問者を促す。食欲をそそる、温かい食べ物から広がってくるいい匂いを捉えると、姉妹の口の中には水っぽい〈つばき〉が湧いてくる。
「おじゃましまーす」
 最初にシルキア、次にファルナが続き、森の香が漂う丸太造りの家の、木目の美しい磨かれた板の床に靴を踏み入れる。

 花の優しさを思い出させる暖かさが、湖のさざ波のように身体の表面へ舞い降りてくる。梯子でしか登れない高いところの窓は少し開き、空気は動いていて、完全に澱んではいなかった。
「寒かったでしょう?」
 細身の姉妹に女性は語りかけながら颯爽と歩き、部屋の隅に設えられている暖炉に近づいていった。炭化した薪がパチパチと音を立て、紅く燃えて弱火となり、鍋物が吊されている。その近くには調味料の棚があり、床には水を汲み置いた中くらいの木桶が三つ並んでいる。樹齢を重ねた木と澄んだ水が織りなす森の恵みがふんだんに活かされた、気持ちの良い家だ。
 シルキアが頬に手を当ててみると、肌は適度な湿度のお陰ですべすべだったが、かなり冷えていた。秋といえども、晴れた朝の山奥は、平地で言えばほとんど晩秋に近い冷え込みだった。
「うーん……大丈夫ですよん」
 ファルナは玄関に立ったまま、やや気の抜けた声で応えた。何度か来たことがあっても、ここに来るたび、新たな気持ちで部屋の天井から床までを見つめてしまう。壁際には本棚が並び、丸いテーブルには読みかけの分厚い本が重ねてある。大きな部屋の奥にはドアと仕切りがあって、書庫へつながっている。
 靴についている泥を見て、シルキアは家の女性に言った。
「あ、オーヴェルさん。靴が汚れてるから、泥を取ってくるね」


 10月14日− 


[雲のかなた、波のはるか(33)]

(前回)

 天が原の高みと海原の深みをつなぐ十年に一度の祭典は、こうしてお開きとなった。老婆の気配が遠ざかる――彼女は別の場所へ発ち、彼女の仕事を務めるだろう。そしてまた十回目の初夏、この海に現れては雲で空を覆い、波を空に飛ばして海の掃除をするのだろう。いつかの日のため、今は袂を分かつ。
 黒いこうもり傘の小舟を背中に乗せてそよ風のように軽く、老婆が放った最後の波は海の小山となり、速やかに流れてゆく。初夏の夕暮れの潮風は心地よくそよぎ、サンゴーンの細くしなやかな星の輝きを秘めた後ろ髪を撫で、レフキルの妖精族の血を引く緑がかった銀の前髪を揺らした。舟の速さと相まって、襟首の辺りは涼しいほどだった。海も空もいよいよ紅く燃え、背中に感じる夕陽は暖かい。正面にはミザリアの島影が見える。

「静かだね……」
 顔の左側に夕陽を受けているレフキルはつぶやいた。天を駈け抜けた激しい水竜と交わっていたとは思えぬ、穏やかな凪ぎの海だ。その水面に数え切れない光の粒がちらちらと瞬き、まるで〈ここで飛び上がることができれば今宵の星になれる〉という儚い想いが伝わってきそうなくらい、懸命にきらめいていた。
 波のゆりかごは疲れた少女を憩わせる。珍しく返事をしなかったサンゴーンは、海と空と朱い光に抱かれ、まどろんでいた。祖母の形見のこうもり傘はきっかり南東に進み、レフキルと背中合わせで南向きの彼女は顔の右側が照らし出されている。
 居眠りしそうになった瞬間、草木の神者の脳裏を去来した印象的な言葉があった。しわがれた声が意識に強く刻まれる。
『どんな河でも、果ての果てを探れば、海に通ずるものじゃよ』
 老婆の声が頭の奥の方で根を張り、確かに息づいている。

「太陽が沈むよ」
 レフキルは自分自身に言い聞かせるかのように、ぽつりと言った。すると今度は、少し間を置いて、友達の声が聞こえた。
「……まぶしいですの」
 サンゴーンは眠さの峠を越えたようで、目を細めて落日の様子を眺めていた。ついに坂を下りきった赤い陽は、水平線に触れたかと思うと、あっという間に半かけとなり、ついには紅の光を空いっぱいに残したまま家路を辿り、地上から姿を消した。
「沈んじゃった」
 あっけなく果ててゆく一日に不思議な感慨を抱きつつ、喋ったのはレフキルだった。やや長い耳は空に向かって立っている。
 重い音を立てて碧のさざ波を割り、遠浅の海の揺れる珊瑚の茂みをかすめて、黒いこうもり傘の舟は進む。灰色の大きな翼を持つ海鳥が寂しげな声をあげて空を渡り、新しく現れ始めた薄い雲の絹布は春の花を彷彿とさせる桃色に染まっている。

 イラッサ町の町外れに連なる浜辺が見えてきた。まだ遠いけれど、遠すぎるということはない。少しずつ闇と同化しつつある海神アゾマールの神殿の尖塔――二人が空の懐へ飛び立った場所――も判別できるし、簡素で装飾のない木組みの舟が夜の漁を待って波に揺られているのも分かる。小屋も見えるし、椰子の並木道や、さらに向こう側へ連なる丘も視界に捉える。
「もうすぐだね」
 語ったレフキルは、気を引き締めたのか唇を固く結び、近づいてくる島をじっと見つめた。サンゴーンはゆっくりとうなずいた。
「ええ」
 行きは空、帰りは海を経由して、故郷に帰ってきたのだ。

 老婆が沖で放った時には勢いがあった魔法の波は、砂浜に近づくほどに普通の波と溶け合い、混じっていった。それでも白波は目的を達しようと、二人の客を乗せている黒いこうもり傘を運ぶことに全力を傾け、しだいに痩せて鋭さを増していった。

 ずっと前に進んでいた傘の小舟が、ついに止まった。返す波にさらわれそうになり、黒い傘は傾き、周りの砂がえぐられる。
「あれ?」
 レフキルはふいに膝を折り曲げ、素早く水の中へ右足を沈めた。それは予想よりも浅く、紐で結ぶことのできるお気に入りのサンダルは砂浜に着地した。波は海に還り、舟は残された。
「着いた」
 レフキルは左足も下ろし、両脚で立とうとしたが、あまりにも長いこと座っていたので力が入らずによろめいてしまう。彼女は両手を砂浜に伸ばして何とか身体を支え、膝をついた。自分の足が自分のものではないような、やきもきさせる奇妙な感覚だ。
「大丈夫ですの?」
 友の様子を気遣いながら恐る恐る白砂の渚に足を下ろしたサンゴーンは、まともに歩くことができず、つんのめって倒れた。
 島にぶつかった刹那、老婆がくれた波は役目を果たし、力尽きて消えていた。昼間の匂いを含んだ砂は、まだ温かかった。
 普段は当たり前に思っていた〈地面がある〉という事柄が、今は安心感をもたらしてくれる。二人は足全体の使い方を思い出しながら、再度立ち上がろうと試みる。爪先を開いて、靴の裏を安定させ、それから膝に手を当てて一気に腰を持ち上げた。


 10月13日○ 


[天音ヶ森の鳥籠(33)]

(前回)

 それからしばらくは、峠がいよいよ終わりに近づいてきたこともあり、三人は黙って歩を進めた。坂は登りだけでなく、すでに緩やかな下りも現れていた。そよぐ空気は涼しいのに、額や背中を蒸れた汗が流れる。普段の荷物を背負っていたら余計に大変だったろうが、ルーグとタックの待つ川辺に置いてある。
 三人の靴音は、いつしか似通ったリズムになっていた。シェリアは背の低い妹を気遣い、いくらか歩幅を狭くしていたからだ。
「ふう、ふう……」
 小さな坂を越えたところで、それに気づいたリンローナは疲れた頬を緩めた。光の珠を巧みに操りながら進んでいく姉は何も言わなかったので、リンローナも敢えて口には出さなかった。
 昼はもっと楽に感じたし、あの時は往路だったが、暗くて先が見えないと距離感が失われる。目印もなく、しかも帰り道だ。

 道はしばらく平らになっていたが、今度は坂を下り始める。
「峠は越えたみたいだな!」
 最後尾をゆくケレンスが声を張り上げ、女性陣を元気づけた。山下りで軽くなったのは足取りだけでなく、心の中まで――。
「祭り、明日なのよね?」
 何度か唇を開いてから、ついに声を出したのは先頭をゆくシェリアだった。話しているうちにだいぶ気が楽になってきたのか、最後はほとんど普段通りのどこか醒めたような口調で訊いた。
「そっかぁ……明日は村の夏祭りだよね」
 歩きながらリンローナが相づちを打つ。滑らかで速やかな夜風が汗を冷やして流れ去る。山奥の夏の夜は過ごしやすい。
「まー、今日はどっちみち、森に泊まりだな!」
 後ろからケレンスが大声で話しかける。疲れてはいたが、彼は明るく言い放った。あと少しで〈別働隊のリーダーから解放される〉という感覚が、彼に元気を与えていたのかも知れない。

 順調に歩いていたシェリアだったが、坂の中腹でしだいに歩みを遅めて立ち止まってしまう。彼女は後ろ髪を引かれるような仕草で、戸惑いながら振り返った。リンローナが首をかしげる。
「どうしたの?」
「一晩くらいなら、いいのかも知れないわね。終わればちゃんと帰してくれるわけだし……求められるのは、唄うことだけだし」
 他方、シェリアはもう向こうの山の陰に隠れてしまった〈天音ヶ森〉を名残惜しそうに振り返って、ぽつりと独り言を洩らした。

 ふくろうの低い声は、老人が笑っているかのように聞こえる。木々の梢の向こうには空があり、星のきらめきが垣間見える。
「何の話だ?」
 相手の喋った内容が少し聞こえたので、ケレンスも訊ねる。
「聞いてたの?」
 魔術師は指先から魔力を送って、まばゆい光の珠を戯れに回転させながら、不思議そうに問い返し、相手の質問に応えた。
「天音が森の、鳥になってもいいかな、って言ったのよ」
 いくぶん弱まった白い球――シェリアの疲労によるのだろう――がゆっくり回り出すと、三人の若者の影はゆらめくのだった。

 わずかの間ののちに。
「はぁ? 正気かよ」
 口をゆがめ、心底あきれて叫んだのはケレンスだった。しかしシェリアはごく真面目な様子で、自らの意志を語るのだった。
「鳥の姿に変えたりするんじゃなくて、人間の歌い手として呼ばれるんなら、森の夏祭りに参加してみてもいいと思う。どこか憎めないやつらだったし。ケレンスにも会わせてあげたかったわ」
 その瞳は細められ、視線は遠く、懐かしそうに緩んでいた。
「ほー。俺は御免だね、魔法は分からねえしさ」
 肩をすくめた剣術士のケレンスとは対照的に、シェリアの妹のリンローナは微笑みを浮かべ、好奇心を膨らませてつぶやく。
「あたしは、ちょっとだけ会ってみたいなぁ。精霊さんたちに」
「けっこう懲らしめたわけだし。案外、怖がられたりして」
 シェリアは何か悪戯を思いついた少女のように、湧き上がってくる〈楽しさの渦〉をこらえていた。リンローナも素直に応じる。
「ふふっ、そうかもね〜」
「うへぇ、付き合いきれねえや……」
 その言葉とは裏腹に、ケレンスは見えなくなった〈天音ヶ森〉の方にまなざしを送りつつ、闇に沈む金の前髪を掻き上げた。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 天音ヶ森(あまねがもり)の精霊は
  素敵な唄がとってもお好き
   気に入られちゃあ かなわない
    澄んだ声には気を付けな

     夜風を浴びて 広場を囲み
      小鳥となって夏祭り――ったら夏祭り

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 森が尽きて視界が晴れ、真っ暗な河の畔にルーグとタックが待っているらしい小さな焚き火が見えた。香ばしい煙が届く。
「ねえ、あれは?」
 リンローナが思わず弾む声をあげると、前のシェリアが言う。
「着いたわね」
 すかさずリンローナは姉の横に駆け寄り、一つ提案をした。
「歌で知らせてあげようよ、お姉ちゃん」
「そうね」
 淀みない口調で、軽く胸を張り、シェリアは堂々と承諾する。
 ケレンスはもはや何も言わず、軽く口元を緩めただけだった。

 明るい魔法の珠が、仲間の待つ河へ続く道を照らし出す。
「知らない、街まで〜」
 姉妹の声が重なって響き、しだいに大きくなる河の音に混じってゆく。向こうで黒い人影が立ち上がるのがはっきりと分かる。
 三人は足元に気をつけて、最後の下り坂に取りかかった。

(おわり)
 


 10月12日△ 


[大航海と外交界(11)]

(前回)

 ウピとレイナは正面を向いたまま、一瞬、横目で視線を交錯させた。驚きと喜び、そして街中を連れ回されて苦労した苦い記憶が一度によみがえる。ウピの口元はにやけたような、微笑むような、泣き笑いのような、ゆがんだような混沌とした状態だ。
 次の刹那、彼女は一気に体を回転させて、振り返った。
 甲板に降り注ぐ光が白くまぶしくきらめいて、目が眩む。

「よおっ、元気?」
 抑えても抑えきれない再会の喜びを顔に浮かべ、二人の後ろで右腕を掲げていたのは、紛れもなくララシャ王女だった。姫は平静さを装っていたが、上ずった声が本心を露わにしていた。
「王女!」
 目を丸くして声を張り上げたのはウピだった。さっき見せた複雑な表情はすぐに去って、素直な歓びと気恥ずかしさが前面に出てくる。レイナも遅れて回れ右をし、まず略式の挨拶をした。
「ご無沙汰しています」
「何で来てくれなかったのよ、こらっ!」
 他方、王女は相好を崩したまま、得意の素早い格闘の動きで少しだけ慎重の低いウピの肩をつかむと、思いきり前後に揺さぶった。おてんば王女流の手荒な歓迎と言ったところだろう。友達になったのに、城へ遊びに来てくれなかった二人のうち、最初にウピが標的になった。残像になったウピは悲鳴をあげる。
「わ、わ、わ、痛い、痛い、痛い、痛い、お助け、助けてぇ!」
「まあ、こんなもんね」
 突如としてララシャ王女は手を下ろした。ウピは全身の力が抜けた感じになり、その場に尻餅をつく。その直後、ララシャ王女の蒼く美しい宝石のような瞳は爛々と輝き、次の獲物を狙う。
「えっ」
 レイナは悪い予感を感じて顔から血の気が引き、後ずさろうとしたが、半歩退くとさっきまで寄りかかっていた船の柵だった。
「王女、私は……ひっ」
「あんたもよ、レイナ!」
 王女は鷹のように鋭く構え、レイナは兎のごとく身を縮める。

 しかし、しばらく経っても、何も起こらなかった。
 速まった鼓動が、こめかみで時をいくつ刻んだろう。
 レイナが恐る恐る瞳を開けてゆくと、おてんば姫がウピの手を取って起こしているところだった。王女は感慨深げに言った。
「あんたたち、本当に、よく来てくれたわね」
 相手の素直な気持ちが伝わってきて、レイナの胸には冬の日だまりのような温かさがじんわりと拡がってゆく。以前、王女と服を交換して町を歩いたことを思い出しながら、堂々と応える。
「だって、友達です!」
「困ってる時は、助け合うのが友達だよ」
 立ち上がったウピはララシャ王女の手を握り返して、優しく告げた。姫は頬をやや紅く染めて、恥ずかしそうにうつむいた。

 十五歳のララシャ王女は、正装でも略式の正装でもなく、かといって武術用の服装でもなく、ましてや寝間着姿でもない。王女の服装は、ある意味では最も海上にふさわしく、動きやすい上にどこかおしゃれで、しかも人心掌握の面でも勝っていた。
 王女は周りの船員と同じ、白に紺の縁取りの着いた船員服(セイラー服)を着ていた。下もスカートではなく、船員や少年たちと同じ、白く輝くズボンだった。開放的で自由な笑顔をふりまく今の王女にとても相応しく、若さと美しさを際立たせていた。

「何着ても似合う……似合いますね」
 ウピの脳裏には、レイナの服に着替えてミザリア市を縦横無尽に駆け回ったララシャ王女の姿が、強く印象に残っている。
「褒めたって、何も出てこないわよ」
 ララシャ王女は自分の服を見下ろして、ざっくばらんに語る。
「これが動きやすくていいのよね。だいたい、こんな暑くて開放的な船の上でずっとめかし込んでるなんて、頭おかしいわよ」
 暗に、四ヶ国会議のミザリア国の正使として派遣され、同じ船に乗っているがほとんど船室から出ようとさえしない貴族を馬鹿にしたような発言だった。王宮では異端とみなされていたララシャ王女であったが、鍛えられ、しかも品のある王国直属の船乗りたちに囲まれて、今や〈船上の常識人〉へと変わっていた。


 10月11日△ 


[樹と翼と]

 思い通りにいかない日には
 僕はあの樹を眺めてみる

 暑い日も寒い日も
 愚痴の一つもこぼさず
 じっと耐えている
 あの楡の樹

 天気は仕方ないもの――
 樹は諦めてるわけじゃなく
 あるがままに受け入れてる

 思い通りにはいかないものは多いんだ

 深呼吸一つして
 僕は飛び出す

 空色の妖精の翼を
 思いきりはためかせて
 


 10月10日△ 


[弔いの契り(34)]

(前回)

 片側のドアの冷たい金属製のノブを回し、タックが手前に引くと、重々しい鉄の扉は不気味な音を響かせてきしみながら、ゆっくりと隙間を開いていった。消えかかったランプの明かりが、外から入り込む秋の夜風を受けて左右に揺れる。漆黒の廊下の果ては見えず、どこまで続いているのか、その先に何が待っているのか、入口からは窺い知ることは出来ない。だが空気が籠もって古び、カビ臭く澱んでいることは入らずとも感じられる。

「ЖЩЛЫЭЮ……空を照らす陽の光よ、我に力を与えたまえ! ライポール!」 」
 呪文を唱えて集中力を極限まで高めると、大きすぎるタキシードの袖口から斜め上に伸ばしたシェリアの指の先端を起点として、今度は白くて明るい煙の糸が風を切るような音を立てて吹き出し、素早く渦を巻いていった。それは蚕の繭のように寄り集まって、糸同士の隙間がなくなり、まばゆさを増していった。
「時間がありません、行きましょう」
 諜報ギルドに属するタックが先頭に立ち、俺らを促す。魔法の珠を操る魔術師のシェリアが二番手で、その後ろにごろつきどもから剣を得たばかりのリーダーのルーグが続く。最後が俺、という変則的な並び方だ。いつもなら俺とルーグの間にリンを挟んでるんだけどな――あいつはここに捕まってるんだろうか?
 しんがりの俺は、入る前にもう一度夜空を見上げる。だいぶ登ってきた満月はますます冴えて、農村の丘にある男爵の屋敷に冷ややかな白銀の糸を蜘蛛の巣のように投げかけていた。
「ケレンス、急いで!」
 タックの低く鋭い声に、俺は我に返って曖昧に返事をする。
「あ、ああ」

 俺が駆け込むと、タックは内側から重い扉を押し、手抜かりがないように緊張感を漂わせ、鍵とかんぬきを掛けた。廊下のはるか向こうまでその音は響き渡り、一方で外からの空気や風の唄は寸断される。これでちょっとやそっとでは、ごろつきどもは入って来られないだろう。俺らは籠城の体勢を整えたわけだ。
 もしもこの先が行き止まりならば、俺らは逆に袋の鼠になる。
 だけど俺には確信があった――フォルが言ったことにおそらく間違いがないことを。あいつだって、赤い眼になって満月の夜をさまよう姉さんが心配で仕方ねえはずなんだ。村の反逆者という汚名、命まで狙われかねない重みを背負ってまで、やつは俺たちに真実を告げた。あの思いを無にするわけにはいかねえ。
 左右の壁に一定の距離を置いて取り付けられた弱まったランプから発せられる油の匂いが鼻をつく。誰かがここを通っていった証拠だ。息苦しさを覚える単調な路はぼんやり鈍く浮かび上がり、黄色の濁った光は小さくなりながら奥へと連なっている。

 俺は気持ちを落ち着かせようとしながらも、こめかみの鼓動は速まり、足取りは不安定さを増す。四人の八足の靴が調和できないリズムを鳴らし、静かすぎる不気味な廊下にこだました。
 横に二人並ぶのがせいぜいの幅しかない廊下を、俺らは一列に並んで歩いてゆく。シェリアの魔法の灯りのお陰でかなり見通しが利くが、狭い空間では壁に反射して眩しすぎる。この先に敵がいるならば、俺たちが近づいていると言うことを教えているようなものでもあり、両刃の剣だ。タックは早足で歩きながら、奇襲や罠がないか前方に目を凝らしている。シェリアは魔法への集中を保ったまま、背の高いルーグは剣を握って大股で進んでゆく。彼の背中が深い影になり、俺の方に伸びている。

 タックは急に立ち止まり、後ろの俺らも足を留める。今まで誰も口をきかず、聞こえるのは足音だけで、まるで声をなくした世界に紛れ込んだかと思っていたが、今度は何もかも音が無くなって、自分の呼吸と心臓の鼓動をはっきり捉えることができる――強まる危機感と焦りによって始まった高い耳鳴りの間で。
 指先を回して円を描き、タックは照明係の魔術師に指示する。シェリアはすぐに意図を理解して腕を掲げ、何か短い言葉を呟くと、白い魔法の珠はゆっくりと軽やかに前の方へ飛んでゆく。

 やがて先頭の悪友は半分振り向き、抑えた声量で語った。
「下り階段……のようです。行きましょう」
 幻覚魔法ででもない限り、どこまでも続く道はなく、いつか終わりが来る。廊下は尽き、俺たちはいよいよ地下に突入する。
 リン、どうか無事でいてくれよ!
 願いとは裏腹に――首筋を冷たい汗が流れる。時折、最悪の事態が頭をよぎって、胸が押しつぶされそうに痛むのだった。


 10月 9日− 


[色彩の秋]

「これ、黄色と橙の間の色だよ」
 黄金の髪を後ろで結び、前髪をを涼やかな風に揺らして、ジーナが言いました。九歳の女の子で、やや厚い生地で織られた濃淡の灰色のチェックのズボンに、黒の長袖を合わせ、この季節にふさわしい落ち着いた雰囲気になっていました。

 デリシ町の町外れに広がる野原は緩やかな傾斜を描き、道は曲がりくねって続いてゆきます。すすきの穂が冴えた月影に優しい日の光を混ぜたかのような色で柔和にきらめきながら、風を受けて《陸(おか)の波》になっていました。

「あっ」
 小さく叫んで足を止め、その場に屈みこんだのは、ジーナの同級生のリュアでした。
 鋭さと意志の強さが現れているジーナの瞳と異なり、リュアの眼は夢見るように穏やかです。斜めに茶色の線が入った渋めの黄土色のスカートに、純白のブラウスと焦げ茶のカーディガンを羽織っています。さらさらと流れる銀の髪は肩にかかるくらいの長さです。
 リュアは拾い上げたものをじっと見て、ひっくり返し、それから友達に向けました。
「ジーナちゃん、これ黄色と橙色を混ぜ合わせた色と、それに黄色を混ぜ合わせた色に見える……」

「うーん、ほんとだ」
 するとジーナは負けず嫌いの一面を発揮して、すぐにまた別のものを見つけました。
「ほら、これは黄緑と黄色の間だよ。珍しいでしょ?

 どこまでも見渡せる気がする青空は、野原の上の高い屋根となり、そのまま海に張り出して、はるか遠い所で合わさって見えました。りんどうは丸く赤い艶やかな実をひそやかに結び、コスモスの小宇宙は薄紫や白く清らかな花を開いています。
「これ、すてき。橙色と茶色の間と、それと橙色の間とを混ぜ合わせたみたい……」
 リュアは育ちが良さそうに口元を和らげて微笑み、嬉しそうに言いました。
「ほんとだ」
 応えたジーナは下を向きながら緩やかな斜面を歩き出し、しだいに駆け足になりました。驚いたバッタがら飛び出して跳躍します。辺りには色褪せつつある草たちの匂いが漂っています。
「ジーナちゃん、待って!」
 リュアは置いていかれないように、慌てて友達の姿を追います。

「おっと」
 一方、ジーナは突然止まって、数歩戻りました。
「あった!」
 さっとしゃがみこみ、目的のものを広いあげると満足そうに相好を崩し、それを後ろ手に隠して、小さな身体で爪先立ちしました。
「ジーナちゃん?」
 追い付いたリュアは困惑気味に尋ねます。
 するとジーナは隠していたものを一挙に相手の目の前に突き出して――。
 そして言いました。
「ほらリュア、黄色と橙と、それと橙を混ぜた間の色と、それと橙を混ぜて……わかんなーい!」
 ジーナはそのまま、草のベッド――野原に身を投げ出しました。細かな草が飛び跳ね、蒼い空が真正面に見渡せます。
 ジーナの手を離れ、ひらひらと春の蝶のごとくに土に舞い降りたのは、森から流れてきて野原に身を休めていた、秋がどこまで進んだかを示す広葉樹の葉っぱでした。

 赤いとんぼが宙のひとところに留まり、草まみれになって寝転がるジーナを不思議そうに見下ろしています。
「ふふっ」
 リュアは軽く笑って、ジーナの横に腰を下ろし、スカートの膝をかかえて座りました。

 空には気持ち良さそうに羊雲が漂っていた、吹く風も穏やかな、ある晴れた夢曜日の午後でした。
 


 10月 8日− 


[霧のお届け物(8)]

(前回)

 前庭の雑草は朝露の透明な宝石で清楚に飾られ、霧の忘れ形見である銀の星をきらめかせる。河のほとりで梳いた乙女の髪のごとく、しっとりと湿ったアルメリアの花は、時折通り過ぎる驚くほど涼やかな風に吹かれて、かすかに頭を揺らしていた。
 豊かな橙色の光が森の中にたっぷりと降り注いでいる。土も木の根も幹も葉も、シダやキノコやツメクサの花、芋虫、松虫、ダンゴムシ、鷹や野うさぎ、紋白蝶――そしてその中では小さな探訪者にすぎない二人の少女たちの柔らかな頬までも、分け隔てなく照らしている。新しい日の希望を焚いた強い色だ。

 コン……コン。

 年経りて少し黒っぽく変色した樫の木の分厚い立派な扉に、特に意匠を凝らしていない素朴なノッカーが設えられている。それを二度、几帳面に叩くと、妹のシルキアは一歩退いた。左腕には森の朝霧を詰め込んだ細長い瓶を斜めにかかえている。
「オーヴェルさん、おはようございまーす」
 念のため、妹は大きすぎず小さすぎない境界の調整した声量で家の主の名前を呼んだ。どっしりと重厚に構え、しかも辺りの森の景観を損なわない質素な感じ――建築を請け負った大工の魂が篭もり、住む者の〈家を大切にする気持ち〉が滲み出ている、丸太造りの気持ちの良い森の家が目前に建っている。

 妹の後ろでやや眠たそうに服の袖で瞳をこすりながら、少しのことでは全く動じない泰然自若の様子で、ファルナは見るからにのんびりと立っていた。妹は振り向き、その姉に訊ねる。
「いないのかな?」
「まだ寝てるのかも知れないのだっ……」
 朝の二度寝が大好きなファルナは夢心地につぶやいた。歩いている時は冴えていたはずの目が、いつの間にか再び細められている。琥珀色の前髪はどこか整っておらず違和感がある。長袖を二枚と、薄手の上着の組み合わせ方が都会的でなければ、今のファルナは田舎娘の典型のように見えたことだろう。
「でもお姉ちゃん、あれ、煙上がってるよ?」
 ファルナの着こなしに影響を与えている妹のシルキアは、少しだけ不満そうに応えた。さっそく煙突の細い煙を指で示した。
「ほらぁ」

「うーん……」
 しかしファルナの反応は鈍かった。不審に思った妹が見ると、姉は立ったまま夢路の入口に入りかけ、うつらうつらしていた。
「どうしようかな」
 シルキアは首をかしげたが、別に急いでいるわけではない。穏やかな気持ちで〈待つ時間〉が訪れると、歩いている間はじっくり聴けなかった小鳥たちの喜びの賛歌が耳の奥へ爽やかに淀みなく流れ込んでくる。周りの色を映したあまたの透明な朝露の花は足元で弾け、流れ、溶けて――細かく散らした雫の種は澄みきった聖なる涼風に運ばれ、明日の森を育てるだろう。

 その時、ファルナの膝から力が抜けかかって急にふらついたので、シルキアは思わず鋭い声を張り上げて注意を促した。
「ちょっとぉ、お姉ちゃん! しっかりして」
「ふわぁ……危うく寝てしまうところだったのだっ」
 首を振ってまとわりつく眠気を払い、姉は愕然として語った。

 光の色と射し込む角度で、朝の森は驚くほど躍動的に、と同時に夢幻的に絶えず変化を遂げてゆく。微細な光と影の芸術の間を縫って、妖精たちが歩いていても全く不思議ではない。
 可憐な白い花はひそやかに咲き、ほのかな香を漂わせる。壊れた蜘蛛の巣には水滴が光って、清らな明かりを灯している。
 ファルナは真っ直ぐにうなずき、シルキアは目で合図を送る。
 妹はもう一度、樫の木のドアに向き直り、ノッカーを叩いた。

 コン……コン。


 10月 7日○ 


[雲のかなた、波のはるか(32)]

(前回)

「ありがとうございます」
 サンゴーンの唇から、まずはごく自然に礼の言葉が洩れた。水平線に近づくにつれて、しだいに濃くなって紅に照り映える夕日のまぶしさに、十六歳の瑞々しく艶やかな頬や手の甲は染め上げられ、頭の上は暖かかった。この、生涯忘れないであろう一日の終わりにふさわしい、空から母性的に降り注ぐ輝きの美しさは、南国の初夏の海に時間と国境を越えた北国の秋の紅葉を映し、二人の少女の心の奥にまで届き、染み渡った。
 なるべく太陽の光を直接見ないようにし、蒼い瞳を限りなく細め、サンゴーンは遠ざかる老婆の黒い影を視線で追っていた。
 ある刹那、胸から喉のあたりに強い負の感情がこみ上げた。
「……っ」
 熱い思いは瞳を湿らせたが、彼女の中で何か抑えるものがあったのだろうそれ以上は膨らまず、零れ落ちることはなかった。一粒だけ最後に生まれ出た涙のかけらを人差し指の先で掬い取った彼女は、充実した微笑みを取り戻して額に手を当てた。

「楽しかった!」
 レフキルは素敵な思い出を肯定する精一杯の明るさで、長い耳を立て、空の高みに向かって叫んだ。陽は黄金の輝きを絶えず投げかけながら、空と海の境目に近づいて双方に凪をもたらす――潮風も波も和らいで、安定と中庸と保守の女神、聖守護神ユニラーダのしろしめす黄昏時に敬意を表する。空の高いところはまだ蒼く、いくつもの清らかな薄いすじ雲が走っていた。
 膝をかかえ込む格好をずっとしてきたので、サンゴーンもレフキルも腰が痛くなり始めていた。黒い傘の小舟は、ミザリア島の遙か沖で、深い海の表面をゆく波に揺られて動いている。
「さて、これからどうしよう……」
 朱い太陽が写って長い光の街道となっている海を見回し、現実的な課題に突き当たったレフキルが、ぽつりとつぶやいた。

 ――と、その時だった。
『最後まで責任は持つとしよう。乗り換えるのじゃ』
 掠れた老婆の声が聞こえ、その直後、小舟は大きく傾いた。
「きゃあ!」
 サンゴーンの悲鳴があがった。他方、冷静さを保っていたレフキルは腕を後ろに伸ばし、傘の柄を挟んで背中合わせの親友の、ほっそりした肩を探ってその上に軽く乗せ、呼びかける。
「落ち着いて! あたしたち〈乗り換える〉んだって」
「どういうことですの?」
 太陽はますます家路を急ぎ、南国の空は遠くまで見通せる。

 老婆の返事はなく、頭に響く独特の声は途切れてしまった。
 だが、その答えは間もなく知ることができた。
 こうもり傘の魔法の小舟は、明らかな意志を持って流れる丸いドーナツのような波に抱かれ、滑るように流れ出したのだ。

『さらばじゃ……』
 老婆の黒い影はもはや星のような彼方となり、魔法で伝わる別れの言葉はほとんど夕風と混じっている。だが厳しく皺が刻まれた口元を初めて相手が緩めたのが、不思議なことにサンゴーンにもレフキルにもはっきりと間近に感じられたのだった。
 燃え盛る太陽の下端が、ついに水平線に触れた。恐ろしいほど目に染みる今日の最後の紅の輝きが、空と海に散らばる。
「さようなら」
「さよなら」
 サンゴーンとレフキルは老婆に別れを告げて、前を向いた。


 10月 6日○ 


[初秋の調べ(2)]

(前回)

 夏の間には聞こえなかった虫たちの奏でる曲が、森のあちらこちらで演奏されている。それはバラバラのようでいて、ずっと耳を傾けていれば波のように不思議な強弱や流れがあることが分かってくる。瞳を閉じ、聴覚で世界を感じようと集中力と想像力を高めれば、聞こえていたのに〈聞いていなかった〉音までが次々と届けられるように感じ、ほんのかすかな葉のざわめきまで捉えることができる。絶えることなくひそやかに無理なく続いてゆく感じは、森の奥深くで清水が湧き出すのにどこか似ていたが――今の場合、音の湧き水をもたらしてくれるのは、他でもないテッテ自身の〈聞きたい〉という気持ちに因っている。
 金色の光をわずかに湛えた、細く透明な糸、あるいは乙女の御髪を思わせる月の光が、木々の梢を縫って差し込んでくる。
 自分の心臓の鼓動もはっきりと聞こえる。月の弓、光の糸、星の瞳がもたらす心地よく張り詰めた緊張と秘かな夢の魂が、どこか深いところから通奏低音の奔流となってしみこんでくる。

 少しずつ涼しげな夜気に心を溶かしていったテッテは、やがて胸元から清らかに鈍くきらめく小さな銀色の楽器を取り出す。
 彼も演奏者の一人だ。幹に寄りかかっていた身体を起こす。

 おもむろに掲げた楽器は、鈴であった。
 たった一つの音しか鳴らないけれども、その音に関してはどの楽器よりも高らかに響かせることのできる、不思議な鈴だ。
 辺りをつつむ〈夜〉に敬意をこめて座ったままお辞儀をしたテッテは、演奏の邪魔にならないよう、ささやき声で言うのだった。
「では、参加させてもらいますね」


 10月 5日△ 


[大航海と外交界(10)]

(前回)

「はー。びっくりした」
 ウピは鼓動が速くなった心臓の辺りを押さえ、肺の中の空気を全て出し尽くすかのような勢いで、深く長いため息をついた。
 その驚きの矛先は、銀の髪を潮風にたなびかせ、何事もなかったかのような涼しい顔で立っている友のレイナへと向かう。
「レイナずっるいなぁー。そんなの、どこで習ったの?」
 次々と膨らむ額の冷や汗を、親が持たせてくれた麻織りの新しい手ぬぐいで拭きながら、ウピは感心しきった声で訊ねる。
 その間も船は白い帆にたっぷりと潮風を受けて、手練れの海兵の舵で海流に上手く乗り、順調に北北西のモニモニ町を目指して旅を続ける。今のところ爽やかに晴れており、あらゆる方角の雲を眺めることができ、波は穏やかで船はあまり揺れない。遙か遠くに、ぼんやりと島影のようなものが見える気がする。

「おや、変ですね。学院の礼儀作法の時間に習いましたよ」
 レイナは不思議そうにちょっと首をかしげつつ、問い返した。
「確か、ウピも一緒に受講したはずですが?」
 何度記憶をたどっても結論は変わらない。明るい南国の光に眼鏡のレンズを輝かせ、若き王立研究所員はまばたきする。
 するとウピは声の調子を落として、照れくさそうに説明した。
「だって、普段やらないことって、忘れちゃうんだよね……」

 周囲には四方に護衛船が並び、少し距離を取りながら交代で警備を続け、貴人たちを守っている。戦時中というわけではないが、この警護にふさわしい重要人物たちが乗船しているのだ。
 ミザリア王家の紋章が入った旗が誇らしげにひるがえり、舳先は蒼碧の海を分け、白い波しぶきを上げながら進んでゆく。
 ウピとレイナは、初めて見る沖の景色を飽きることなく眺めていた。波打ち際と違って波はやや荒く、高く、深く――男性的な印象を受ける。時折、銀の鱗の魚の群れが次々と飛び跳ねて小さな虹が立つ。二人とも光と水の競演に夢中になっていた。
 日常の暮らしと懐かしい家はどんどん遠ざかる。
 太陽は暑く照らし、海原はどこまでも見通せる。
 やらなければいけないことは何もない。

 だが、だからこそ――ウピはどこか落ち着かないようだった。
「あたしが来て、良かったのかなー」
 うつむき加減につぶやく。海上の光は、思いのほか眩しい。
「レイナは国の機関に務めてるし、学院の成績も良かったから分かるけど、あたしってただの商人志望の一般庶民だし……」
「大丈夫でしょう。直々のご指名ですから」
 レイナは海を見つめたまま落ち着いた口調で太鼓判を押す。
「ふぅ〜」
 それでもウピは溜め息をつき、甲板の柵を指先で弾きながら、始まったばかりの慣れない環境の不安を吐露するのだった。
「いいのかなー、あたし、本当にこんなとこに居て……」

 単調なように聞こえて、実は細かな変化に富んでいる雄大で包容力のある波の音が、心の距離を徐々に近づけてくれる。
 レイナは意を決し、毅然と顔を上げた。今度はウピを覗き込むようにして、素直な想いを優しい言葉に乗せ、相手に伝えた。
「……ウピがいないと、私はつらかったと思います」
「えっ?」
 肩にかかるくらいの淡い金の髪を素早く揺らし、ウピは勢い良く首をもたげた。すぐに友の温かい気持ちが沁みてきて、顔と耳と目が熱くなる。彼女は歓びを秘めた声で静かに礼を言った。
「レイナ、ありがとう。そうだよね、レイナの話し相手に……」

 だが次の刹那、突如として話は寸断されることになる――。
「何よ、ウピらしくないわね」
 後ろから聞き覚えのある少女の声が聞こえたからだ。


 10月 4日△ 


[天音ヶ森の鳥籠(32)]

(前回)

「あと、ちょっと、だ……よね?」
 坂道を登る足取りは止めることなく、荒い呼吸のリンローナは苦しそうに顔をゆがめ、息も絶え絶えに訊ねた。乾いた落ち葉や枯れ枝を踏めば、破れたり折れたりする音が足元で響いたり、ふくろうやみみずくの類が唄う低くて落ち着いた夜想曲が始まっていて、底知れぬ闇の不気味さが時折、さざ波のように訪れる。だが仲間と希望とを信じているのだろう――リンローナの言葉の端々にはたくさんの信頼感と期待感が含まれていた。

 一番前のシェリアは白い光の珠を消さないように、疲れた精神力を振り絞って魔法への集中を維持しながら、注意深く細い山道を歩いてゆく。あまり無駄な体力を使いたくなかったので、彼女は歩く速度をやや落とし、横顔を最後尾のケレンスの方にちらりと向けた――妹の質問に代わりに応えてもらうために。
「この坂が、確か最後の登りだ。ここまで来りゃあ、道から外れて転がるでもしねえ限り大丈夫だぜ。二人とも、頑張れよ!」
 ケレンスは前を向いて歩いたまま、リンローナから預かった山菜用の籠を小脇に抱え、行きと同じように拾った棒きれを反対の手で掲げた。彼の前をゆくリンローナは、大声で返事した。
「わかった!」
 微妙な間のあと、シェリアもやけっぱちに声を張り上げた。
「聞こえたわよー!」
「転がってきても、止めねえからな〜!」
 ケレンスが冗談を言うと、リンローナは深く息を吐き出した。
「ふぁ〜」
 星の光を集めたかのような魔法のまばゆい灯りが生まれて、三人は少し元気を取り戻したようだった。動物の嫌がる種類の光なので、獣除けにもなる。光の珠を操るシェリアが先頭に代わり、リンローナを間に挟んで、ケレンスがしんがりを務める。

 やがて登り切ったと思われる所で、汗を拭きながら呼吸を整えていた三人は、ふと振り返った。鬱蒼と茂る森は、夜の素を風で溶いた絵の具で塗られ、とうに漆黒の湖に沈んでいた。
「どこが天音ヶ森か、もうさっぱり分かんねぇな」
「なんとなく遠い気配は感じるような気がするけど……」
 白い魔法の灯火を受けてぼんやりと鈍い薄緑色に浮かび上がり、時折きらりと光る髪を夜風に軽くたなびかせて、リンローナは瞳を閉じ、耳を澄ませた。同じ闇ならば、視力を休めることで他の感覚が強まる。木々と大地が醸し出す安らぎの森の匂いが心を自然と落ち着かせ、聴覚は冴え渡り、味覚は――喉は渇いている。おまけに、忘れていた空腹感が浮上してくる。
「性懲りもなく生きてるみたいね……あいつら」
 シェリアは腰に手を当てて胸を張り、はた迷惑のように語ったが、それでいて言葉にはどこか寂しそうな響きが潜んでいた。

 ケレンスは気づかぬふりをして、わざとおどけた感じで喋る。
「そーいえば、リンの唄は、それだけ猛烈な毒ってことだよな。リンの音痴も精霊のお墨付きって訳だ、すげぇじゃねえか!」
 不満そうに瞳を開き、口を尖らせたリンローナは反論する。
「違うよ、あたしたちの唄の力だよ。ねっ、お姉ちゃん?」
「うーん。ま、そうね」
 シェリアが困惑気味に応えると、ケレンスは攻勢をかける。
「唄の力……不協和音のな」
「ふんだ。ケレンスなんか知らない!」
 リンローナはさっきまでの疲れ果てた様子から、だいぶ鋭気を取り戻していた。とその時、すっかり相手の術中にはまってしまったことに自ら気づいた彼女は、恥ずかしそうに面を下げる。

「魔力が混じってるから、効いたのよ」
 互いに武器こそ使わなかったけれども、厳しい精神力の戦いを振り返って、シェリアが感慨深そうに説明した。そう言われると、魔法に疎い剣術士のケレンスはあいまいに相づちを打つ。
「そうかも知れねえなあ……」
 やりとりを隣で聞いていたリンローナは肩の力をふっと抜く。


 10月 2日○ 

 10月 3日○ 


[それぞれの夕暮れ]


(一)

 立ち並ぶ木々は物言わずして、しかも様々な想いを見る者の心に廻らしてくれる。年経りてごつごつした幹を、風に揺れる翠の葉の群れを、魔法の硝子細工のように形を変える木洩れ陽を、手を広げた枝を――見ているだけで、それはやがて森の息づかいとなり、自らの鼓動と呼吸のリズムが合わさってゆく。

「なんか、吸い込まれそうな青空なのだっ……」
 口を開き、茶色の前髪を掻き上げ、首が痛くなるほど一心に空をあおいでいた姉のファルナが言った。そろそろ家路をたどる鳥たちの声が、遠くから、あるいは近くからも響いてきている。
 天は低いところに雲の波が広がっていたが、上空は全くの晴天だった。梢から覗く大部分の空はまだ蒼かったが、枝先を器用に縫って射し込んでくる光は橙色が少しずつ増していった。
 それは紅茶の煎れるのを、とても遅くした状態を思わせた。純粋無垢の昼の光が、太陽の茶葉で染められてゆく。紅茶の香ばしさはないけれど、その代わりファルナには優しく生命力に満ちあふれた森の匂いと、かすかに残る陽の香りを感じられた。

「大丈夫。吸い込まれないよ」
 横にいる妹のシルキアは、まぶしそうに瞳を細めて姉に語りかけた。温めていた持論を展開し、軽い口調で太鼓判を押す。
「仮に天地がひっくり返っても、木の枝の網に引っかかるから」

 ここはラーヌ河の上流、高原にあるサミス村の町はずれだ。

2004/10/02


(二)

「気持ちがいいですね……」
 疲れているはずなのに、タックの足取りは思いのほか軽かった。すでに今夜泊まるべき村に着き、重い荷物を宿に預けて、余力のあったケレンスとタックは連れだって散歩に出ていた。
「荷物がないと、ほんと楽だよなぁ」
 宿から少し行けば、すぐ森の小径に入る。二人は遠くに行きすぎない程度に、森の入口付近をゆったりした足取りで歩く。
 昼間の暑さは速やかに和らぎ、涼しい風に傾いた光もまろやかに深まる。しかも清純な少女が頬を薄紅に染めるように、郷愁を誘う暖色へと驚くべき変化を遂げてゆく。その染料はほんの少しずつ染みこんでいくので、ケレンスとタックのようにずっと見ているとなかなか気づきにくいが、宿のベッドに寝転がって、窓から射し込む夕日をたまに見ているはずのルーグとシェリアとリンローナならば、逆に変化が速く感じられたかも知れぬ。

 ラーヌ河の中流にある、主な街道からやや外れた小さな集落は、とても静かな所であった。林業と牧畜が盛んで、泊まる宿と言っても畜産家の空き部屋を開放した程度の素朴なものだ。
「こうして木々の間を歩いていると、森の一員に加わらせてもらえたような、荘厳な尊敬の念が膨らんでくるような気がします」
 木々の間に立って瞳を閉じたタックは、普段の緊張感を解き放ち、くつろいだ口調と態度に戻っていた。背中を照らす夕陽はほどよい強さで、疲れた心まで温めてくれそうな感じがした。

「難しいことは、よく分かんねえけどさァ」
 頬に古傷のある剣術士のケレンスは、金の髪の間の額に汗の粒を輝かして、清々しそうに口元を緩め、友に語りかけた。
「今のおめえ、ホントに森の一員になってるみたいだぜ」
「えっ?」
 腐れ縁の友の意外な言葉に驚いて、タックは瞳を開いた。
 彼のまなざしは彷徨い、やがて下の方に吸い付けられていった。その表情は、ゆっくりと緩んでゆく――暮れゆく空に似て。

「本当だ……」
 足元に長く伸びるタックの影は、背の低い一本の若木となって、確かに木々の間で、ほとんど違和感なくたたずんでいた。

「ケレンス、貴方も《たまには》いいこと言いますね」
「チェッ。いつもだろ? 俺は……」
 二人の姿は元来た道をたどり、宿の方へと消えていった。

2004/10/02
 

(三)

 峠を越えた辺りで、数頭の白い馬に牽かれた大きな幌馬車は止まった。やがて扉が開き、外行きの最高級の絹のドレスに着替えた高貴な若い女性が二人、颯爽と地面に降り立った。
「わーっ、まぶしい! オレンジ!」
 最初に感嘆の叫びをあげたのは、ガルア公国の第一公女、十八歳のレリザ・ラディアベルク嬢だった。ドレスの裾をあまり気遣うことなく、草を踏み分けて心のままに前進し、なかなかゆっくり見る機会の少ない夕陽を――ここからだと横に長く見渡せる〈北の至宝〉王都メラロール市の黒いシルエットを、国土を潤す〈母なる大河〉ラーヌ河下流の雄大な流れを遠く眺めている。

 少し離れた場所には背の高い護衛の騎士が数人立って、平和な国とはいえ万が一の襲撃のための警備を務め、ラディアベルク家の紋章の入った立派な幌馬車の前後には屈強な騎馬部隊が続いていて、鋼の槍の刃先と胸当てが夕陽にきらめく。

「まあ……」
 上品な仕草でドレスの裾を軽く持ち上げ、土埃で汚れないように気を付けながら注意深く歩いていたもう一人の若い女性が、レリザ公女の斜め後ろに立って、雅やかな動作で額に細く白い左腕をかざした。その腕の先には、あまり自己主張が激しくない程度の、品の良い銀の腕輪――魔法の守護の文字が刻まれており、お守りとしての意味もある――を身につけている。ドレスの胸元に光を湛えるのは深海のように蒼く澄んだ宝石だ。
 彼女こそは、メラロール王国の臣民の尊敬を集める次代の指導者、現国王のたった一人の美しき愛娘、従姉妹のレリザ公女と同い年の十八歳である、シルリナ・ラディアベルク王女だ。
 地方での貴族との昼食会のため、茶色の髪は珍しく華麗なアップにして、銀の髪飾りで留めている。知慮に充ちた焦げ茶色の瞳が醸し出す雰囲気は、侍女や貴族たちと語らっている時には滅多に見られない、分析的で冷徹な一面が浮上していた。

(都はかなり人口が増えてしまいました。新たな砦を建設するなら、どこが最も効果的に防衛力を高められるのでしょうか?)
(尤も、そもそも都攻めなどが起こる前に相手を潰すべきは当然ですが……準備だけはぬかりなきようにしないといけません)
(しかも、今の整った街の景観を損ねてはならないのです)
 凛と立つ王女の胸に、どんな想いが去来していたのか――。

「すごい! ほらシルリナ、尖塔があんな遠くに見えるよ!」
 振り向いたレリザ公女の言葉で、シルリナ王女は我に返る。
「え、ええ……」
 王女はひとまず統治者としての考えを脇に置き、しだいに一人の少女のまなざしを思い出して、もう一度、夕陽と向き合う。
 暖かな光は分け隔てなく、豊かな国土を橙色に照らし出していた。ラーヌ河は緩やかな曲線を描きながら西海を目指し、都は静かに横たわっている。ここからは見分けられぬが、年月を経て文化の香りの染みこんだ家々では、そろそろ夕食を作る煙が上がり、民は一日の仕事を終えてくつろいでいることだろう。
 そういう日々の生業が、不思議と愛おしいものに感じられる。

「いつまでも、永遠に……」
 思わず国歌の一節をささやいたシルリナ王女の瞳は、新たな決意と清々しい気持ちを帯び、あの夕陽よりも輝いて見えた。

2004/10/02

(おわり)
 


 10月 1日− 


[お掃除と水やり(後編)]

(前回)

「うわー☆」
 ナンナは大きな蒼い瞳を二、三度瞬きさせながら感嘆のため息をつき、思わず上半身を乗り出すようにして、目を凝らした。
 色とりどりに塗り分けられた明るく微細な〈光の果実〉たちが、そこに舞っていた。まぶしい赤や青がちらちら輝いているかと思うと、紫や黄色や緑が砂か煙のように渦を巻き、その合間に橙や水色も見える。あまたの子供の虹の橋が架けられて、いつか見た夢の中に吸い込まれてしまったかのようだった。それらの〈天の宝石〉たちは広がったり薄まったり、一つの形に留まらないで、絶えず〈夢幻の変化〉を繰り返している――生きている。
 もしも冴えた満月の光が夜風に飛ばされることがあれば、こんな雰囲気になるだろう。しかも今、灰色の雲と青空の河を背景に展開している奇跡では、めいめいの光は単色ではなく、ありとあらゆる彩りがある。じっと見ていれば、赤と橙の間の色、そしてその間の色と、無限に見つけ出すことができた。その中にはナンナの髪の金色や、瞳と同じ青も確かに混じっていた。
 再びうっとりと陶酔したまなざしを送っているレイベルの横で、ナンナは溢れるほどの好奇心を声に乗せて空に問いかけた。
「どうなってんの〜?」
 魔法の道具で巨大な虹の珠を作ったことがある二人だが、あれとは異なる、ささやかできらびやかな芸術もまた魅力的だ。
「虹の粉が……シャボン玉の中にいるみたい」
 レイベルの震えるささやき声が、彼女の感動を伝えていた。

ちょっと違うけど……虹の橋(2003/09/21)

 小さな魔女が薄く霞んだ乾いた空をほうきで掃き、とても掃除は終わらなかったけれど、一箇所に雲を集めて灰色に積もらせた。そのちりとりは、遙か下の方に広がっている野原全体だ。
 時たまパラパラと天気雨のように気まぐれな雨粒が降って、二人の髪を少しだけ湿らせる。やがてナンナが開いた青空の河は、西から流れてきた雲に押されて細くなり、だんだん消えていった。透明で光り輝く絵の具を散らしたような色とりどりの天の祭典も収束してゆく。レイベルはいつの間にか祈るように組んでいた手をゆるめて、横の友に向き直り、優しく語りかけた。
「ナンナちゃん。雨は降らなかったけど、とってもすてきだった」
「ちょっと悔しいけどね〜」
 宝石の彩りが弱まり、現実に戻り始めていたナンナは、地面に立てていたほうきの柄を握り直し、遠い雲の波を仰ぎ見た。

 と、その時である。
「ぴろ、ぴろ!」
 なじみのある鳥の声がして、十二歳の少女たちは振り返る。
「ピロ!」
 二人の声が重なる。
 一生懸命に小さな翼をはためかせてやってきたのは、雪よりも真っ白な天使、ナンナの使い魔であるインコのピロだった。最後の飛翔を続けたピロは息も絶え絶えに主人の肩に留まる。
 ピロは黄色いくちばしを開いて荒い呼吸を繰り返し、瞳を見開いて呆然としている。ナンナは驚いて訊ねるが、そのまなざしはわざわざ遠くまで迎えに来てくれた、か弱くも魂の美しい大切な小鳥のことを思って、湖よりも深い慈しみに溢れていた。
「どーしたの? こんなとこまで頑張っちゃって」
 その答えをまもなくナンナとレイベルは知ることになる――。

 ゴロ、ゴロ……。
 不吉で恐ろしい、低い音の空の太鼓が遠くの方で聞こえた。
 いつの間にか、明らかに黒い雲が西から進んできていた。
「雷雲(かみなりぐも)かな」
 レイベルがぽつりと言う。その声色は不安に彩られていた。
「恵みの雨かもね?」
 他方、ナンナは嬉しそうに言う。肩にとまっているピロは、その主人の首をくちばしでつつき、必死に見上げて何かを訴えた。
「ピロ、ピロ!」
「こらー、ピロぉ、痛いよ!」
 困ったように左手を伸ばし、ナンナは相手をつかもうとする。ピロは上手に避けて、今度はナンナの頭の真上に乗っかった。
「まあまあ。きっと知らせに来てくれたんだわ」
 冷静に判断して、一人と一羽の仲を間を取り持ったのは隣で見ていたレイベルだ。黒い髪の村長の娘はさらに提案をする。
「雲の掃除はお預けね……雨の降らないうちに帰りましょう」
「あたしが降らせる必要はなくなったもんね。帰ろっ」
 ナンナが軽くうなずくと、その弾みでインコのピロは主人の頭を離れ、器用に翼をはためかせてレイベルの肩に舞い降りる。

「ナンナちゃんが頑張ったから、天も味方してくれたんだわ」
「そ、そっかなー。えへえ☆」
「ぴゆぴゆ……ッチュッチュ」
 一人は肩に白い小鳥を乗せ、一人はほうきを抱えた少女たちの姿が、薄紫のアルメリアの花園の向こうに遠ざかってゆく。
 誰もいなくなった草原の色褪せた草は湿り気の混じった風に揺れていた。最近のすばらしい晴天続きで、雨を待っていた草たちも、今日は久しぶりにたっぷり飲むことができそうだった。

(おわり)
 




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