[初秋の調べ(5)]
(前回)
遊びで隠れていた時に見つかった子供のように、相手は素直に観念した様子だった。テッテの瞳が驚きで何度も瞬きする間に、黒い影法師は隼のように木の枝から木の枝へ器用に飛び移り、目にも留まらぬ速さで夜露に濡れた地面に降り立った。
少し遅れて一陣の風が吹き過ぎる。梢を揺らして、地面に落ちた木の葉を軽やかに舞わせ、テッテの前髪を持ち上げた。
森の広場の真ん中に、黒い姿が月影を背景に立っていた。
テッテは演奏会の参加者であることを示すため、まずは座ったままの姿勢で、彼の楽器――銀の鈴を掌の中で微かに鳴らした。それから相手に威圧感を与えないよう注意しながらゆっくりと立ち上がり、根の上に両脚を乗せて、幹に背中を預ける。
距離はそれほど近いわけではなく、影の輪郭ははっきりとは見えぬ。だが限りなく淡い今宵の月の光に充たされた世界で、不思議と相手の表情や仕草は容易に想像できるのだった。
夏の蝉のような騒がしさはなく、春の鶯の気品には及ばないが、雑多な虫たちの集まった秋の庶民的で芸術的な演奏はひときわ盛り上がりを見せる。時折、テッテは例の鈴を掲げ、想いを乗せて小刻みに振り、演奏に参加した。また周囲で繰り広げられる涼やかな音楽の渦に身も心も委ねることもあった。バラバラのようでいて実は調和している演奏――それは、さながら森の命の育む和声そのもの――に、テッテは勘づいていた。
夜の妖精か、音の精霊か、あるいは月のかけらだろうか。黒い影法師の存在が何なのか正確には分からなかったが、テッテはさっきまでと同じように音楽に参加することで、虫たちと交わしたのと同様に再び〈言葉を越えた会話〉をしようと試みる。
ちりん、ちりん……。
テッテが奏でた、高らかで澄んでいて、平穏で清らかで、森という地上の海の神秘に触れ、浄化されたかつての想い出や、生きる楽しさと生きてゆく哀しささえ含んでいる銀の鈴の調べは、今まさに主旋律の一つとなり、姿が見えなくて手に取れないけれど確かに存在している〈響きの衣〉を編む縦糸となる。
若い研究者の意識は、さっきよりもだいぶはっきりしている。
その頃になって、ついに相手の返事が、頭の奥底に響いた。それはとても幼く新鮮で、しかも古びているという声色だった。
〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜
《この曲、聞こえてたんだ?》
〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜
テッテは軽くうなずき、小さな低い声を敢えて出して応えた。
「ええ」
相手は少しうつむいており、背中から月の光を浴びて顔も瞳も陰になっていたが、口元を緩めたのがすぐ明確に分かった。
かれ、もしくは彼女は、絡めとった月の光を媒介に礼を言う。
《ありがとう……気づいてくれて》
「どういたしまして」
テッテも深く安堵した声で相づちを打つ。この冴えた秋の夜長の下で、無駄で通俗的なことは極力言わないようにしている。
黒い影法師はおもむろに振り返って、今までと反対の方――テッテが見ているのと同じ、十六夜月のかかる空をあおいだ。
その子が軽く右手を掲げると、虫たちの音楽は変化に富んで春のように膨らみ、右手を下げると冬のように収束していく。テッテはごくりと唾を飲み、神話のごとき不思議な風景に見とれ、決して忘れないように瞳の奥の奥へ何度も焼き付けていた。
〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜
《ボクは指揮者――》
《ボクは、月の光そのもの――》
《この曲、届いてたんだね――》
〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜
ほんの少し欠けた十六夜月を見ているうちに、黒い不思議な人影は溶けてゆくように、幻のように、儚くも消え失せていた。
夜風はだいぶ冷たくなってきている。秋の音楽祭は盛りを過ぎてもまだ続いているけれど、テッテはそろそろ帰る時間だ。
重い足を持ち上げて、テッテは帰途につくのだった。この夜を味わいながら、降り注ぐ月の光の細い糸に静かに導かれて。
(おわり)
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