2004年11月

 
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2004年11月の幻想断片です。

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 11月30日− 


[霧雨の奇跡(3)]

(前回)

「カネを入れねェとなんも写らねえのに……しかも雨だぜ?」
 つまらなそうに顔をゆがめた金髪の髭の男が、語尾を上げ、わざと子供に聞こえるような大声で言い、場の同意を求める。
 すると子供は望遠鏡から顔をずらして振り向き、大学生くらいの四人の男女を見回した。憤怒に燃えて睨み付けるような――それでいて圧倒的に敵わず、恐れと悲哀と深い諦めとを含む視線で。もう一人の男、紺色の傘の後輩は左手を伸ばし、困惑気味に何か言いかけようとしたが、次の瞬間に子供は再びくるりと向きを代えて、今この場所では唯一の少年の味方である双眼鏡を覗き込み、その世界に没頭するのだった。冷たい霧雨の膜が、傘もささずにいる子供の頭や肩を絶えず湿らせていた。
「お母さんとはぐれたんじゃないの?」
 仏国製のバッグを持っている全体的に派手な方の女性が、大きな瞳を見開き、首を軽く突き出す。特に心配そうというわけではなく、かといってあざ笑うわけでもなく、要は赤の他人なので関心が無い様子だ。すると連れの髭男は不愉快そうに言う。
「アホじゃねえ?」
 子供の態度が不愉快だったらしく、男は半分笑い混じりに、半分は真剣そうに声を吐き出した。風が吹き、霧雨が飛んだ。
「まあまあ、赤岩さん……」
 もう一人の、渋い花柄の傘を差した女性は苦笑して、焦げ茶のコートを着た背の高い髭の男をやんわりとたしなめる。表情は〈大人げない〉とでも言いたげで、ひそかな軽蔑の念も混じっていたが、赤岩は先輩に当たるらしく、それ以上は言わない。

 その時、紺色の折り畳み傘の男が、左手でジーンズの後ろポケットをまさぐり、使い古した感のある革の財布を取り出した。
 彼はおもむろに百円玉を一枚取り出すと、それを持ったまま双眼鏡の方へと歩み寄っていった。後ろから赤岩の声がする。
「落合、何やってんだ?」
 不審そうな赤岩の質問を聞こえないふりでやりすごし、四人の中で最も若く見え夢見るような瞳の落合は歩みを止めない。
 女性二人が何事かと息を飲んで見守り、髭の赤岩がいぶかしげに目を細める中――落合は小さな笑顔を添え、熱心に双眼鏡を覗く子供の上に後ろから紺の折り畳み傘を右手でかざし、掌の百円玉を渡そうと左手を差し出して、相手に語りかけた。
「はい、これ……」


 11月29日△ 


[吐息は雪の面影(前編)]

 生まれたての橙色の光が、家々の壁を照らしていた。
 切妻屋根の間から垣間見える冴えた蒼穹に雲は少なく、しんと静まり返ったメラロール市はこの冬一番の冷え込みだった。
 整然と、しかもそれぞれに歴史と個性を感じさせる三階建て、あるいは屋根裏部屋を含む四階建ての民家や商店が、石畳の通りの左右に建ち並んでいる。レンガや石で作られた建物は、縦横斜めに整然とはめこまれた茶色の木骨組で適切に補強され、美しい調和を誇る模様を織りなし、家を一つの芸術作品に仕上げている。南向きに出窓があったり、聖守護神ユニラーダの彫刻が施されていたり――幅も壁の色もそれぞれに異なり、一つ一つを見ていても文化の薫りがぎっしり詰まっているが、それらが集まって、より壮大で荘厳な市街地を形成している。実は屋根の高さが揃えてあり、景観は充分に配慮されている。
 商店ごとに掲げられる看板は可愛らしく、趣味の良さを感じる。横と斜め下から伸びて看板を支える細い鉄の棒は、まるで蔦(つた)のように渦を巻いたり、花や樹や動物や人々のマークが出ていたりして、面白い。魚の形のように、すぐに見て分かるものもあれば、字だけのもの、何だか分からない看板もある。

 今朝の石畳はしっとりと白い霜に覆われていた。魚屋の前では、石畳の隙間に入り込んだ水がほとんど凍りかけている。
 並木道をゆっくりと進む二頭立ての小さな幌馬車は、どこへ向かうのだろうか。ガタガタと揺れる車輪の音が遠ざかってゆく。
 通りの角に、やや幅の広いどっしりと構えた建物があった。やはり色褪せた橙色の切妻屋根で、壁は黄土色をしており、いくつも並ぶカーテンの掛かった東向きの窓にはやはり真新しい陽の光が注がれている。窓辺は見るも鮮やかな小さな紅い花が咲いた横長の鉢植えで飾られている。看板は宿屋であった。

 五段の石の階段の上にある二枚の扉のうち、片方が遠慮がちに開き――中から薄緑色の髪を持つ素朴な少女が現れた。
 マフラーと上着と長ズボンという出で立ちの少女は、十代半ばにしては背が低めで、服装は割と地味であった。だが、その若くて艶やかな白い肌と、飾り気のない笑顔は人の好さを醸し出していた。彼女はあまり音を立てないように注意して扉を閉め、それから正面の斜め上方をあおいで深く息を吐き出した。
「はぁ〜」
 木々の枝先には、どんな宝珠よりも綺麗で、見る位置によって七色にも変化する光の石――水滴の透明な実が垂れ下がっている。小鳥たちは静けさにつつまれた町を優しく目覚めさせる高らかな歌を唄い出し、陽光はじっくりと繊細な影絵を描いた。
 空の上の方は目に染みるような青で、低いところに移りゆくに従って自然と漂白され、限りなく薄い空色になる。少女は白い煙のような吐息を洩らしながら、空の美しさと新しい一日の始まりの喜びに草色の瞳を見開いて、無意識のうちに歩き出す。
「ひゃっ」
 すると待っていたのは五段の階段で、危うく転びそうになった。それでも少女は後ろ手に手を組み、一段ずつ降りてゆく。
「すごいなぁ……」
 一言洩らすたびに、口から吹雪のかけらのような煙が舞い上がる。それはしかし、とても暖かい人間の体温の気流だった。
 そして革靴の靴裏を軽く響かせ、最後の段を降りた少女に、下で待っていた背が高く肩幅の広い銀髪の男が挨拶をした。
「おはよう。大丈夫か」
「おはよう、ルーグ。平気だよ」
 リンローナは少し恥ずかしそうに苦笑し、ルーグの呼びかけに応じた。すると今度は右の方から別の男性の声が聞こえた。
「おはようございます、リンローナさん。いい朝ですね」
「タック、おはよー。寒いけど、気持ちいいね」
 少女は足元から迫る冷え切った空気を感じつつ、その場でつま先立ちし、手袋を口に当てた。そのまま息を吐き出すと、顔の周りに一瞬だけ温もりがまとわりつき、指の間から洩れる。
「ふぁ〜っ」
「今日は特別さみぃぞ」
 それぞれの手で耳を押さえ、せわしなく身体を上下に揺らしているのは、タックと幼なじみの男性、剣士のケレンスだ。その手を時々温めるため、ズボンのポケットに突っこんだりしている。
「おっはよー、ケレンス。ほんと寒いね」
 リンローナは相づちを打ち、再び水色の空をあおぐのだった。


 11月28日△ 


 切れ切れの雲に託した願いが

 一回りして、戻ってきたら

 今度は少しだけ

 青空に手を伸ばしてみようか……?
 


 11月27日− 


 海にはやや高い波がいくつも立ち、空はゆうべの突風に掃除されて見違えるように蒼く清明だった。今日は風は穏やかになり、浜辺といえども磯の香りはそれほど強くはなく、絶え間なく降り注ぐ陽の光は秋の終わりとは思えないほど暖かだった。

「あれは、王様?」
 薄手のジャンパーを羽織った男の子が、母親に訊ねた。
「どうして?」
 母は立ち止まって、青空と太陽に目を細めて聞き返す。

 すると子供は、はっきりとした口調で答えた。
「だって、冠を被ってるもの」

 白い雪の冠をかぶっている、大きな山を指差して。
 


 11月26日− 


[秋のゆくえ(後編)]

(前回)

 まるで素早く横に投げられた平たい小石が水面を軽やかにスキップするかのように――。ベッドにうつぶせに横たわる姿勢のまま並行に飛翔し、水底まで見通せる透き通った湖を見下ろしつつ、長衣を着た不思議な青年は速やかに宙を滑っていった。その先には果てしない針葉樹の森の木立が待ち受けている。
 彼と木々とを隔てる距離はどんどん近づいた。やがて湖水が尽きて地面が現れ、木にぶつかると危惧された刹那のことだ。

 ちょっとむず痒い、という言葉が相応しいと思えるくらい、彼はほんの少し背中を反らした。たったそれだけのことで、ほぼ真上に向きを変え、今度は大地と直角になって急上昇を始めた。姿の見えぬ意思の翼が、華奢な背中に生えているかのようだ。
 そして彼の表情はほとんど変化せず、横顔は冷涼であった。
 緩やかな丘に囲まれた神秘の盆地に広々と水を湛えているように思えた死火山のカルデラ湖は、今の彼の目には手鏡くらいに映っていることだろう。細かく砕いた秋の陽射しを映して。

 若者はまだ、一筋の煙のごとくに昇っていた。
 空の高みは相当に寒いはずだが、それでも彼は変わった様子もなく、首を後ろに傾けて進むべき空を見上げた。長い銀の後ろ髪は風圧で揺れ動き、あまり強くはない光を受け止めて、淡い望月のように瞬いている。もし仮に彼を目撃した者がいたとしても、快い速やかな上昇気流と見分けがつかないだろう。

 彼はあっという間に薄い消えかかった雲に近づくと、飛ぶ方向を斜め左に変えて速度をやや緩めた。そしてそのまま何のためらいもなく白いヴェールに勢い良く突っ込んだ。綿のかけらのように、穴の開いた雲のかけらが散らばる。どうやら彼は雲の重みにさえ、それなりの抵抗を覚えるようで、手を頭にかざし、しだいに速度を落としながら上昇を続け――ついに雲を抜けた。
 そこで彼はようやく止まった。
 腕組みし、前髪を気流になびかせて、微妙に揺れている。
「しばらく休むか」
 彼は独りごち、歩くほどの速さでおもむろに天を飛行した。
 それから再び止まり、雲の上に乗って腰を屈め、地面を掘り返すような仕草をした。雪を集めるかのように雲を集めると、丸めてクッションに似たものを作った。彼はその上に腰掛け、足を組んで前に投げ出し、ようやく落ち着いて息を洩らすのだった。
「ふぅ」

 しばらく雲のクッションに座ったまま、白いヴェールの向こうに垣間見える地上を見下ろした。さっきの湖は手鏡となり、森の広さも良く分かる。一陣の秋風が、彼の脇を駆け抜けてゆく。
 とその時、秋風は立ち止まって振り返り、彼に呼びかけた。
「おいお前」
「ん?」
 のんびりと空を舞っていた彼は、不思議そうに首をかしげる。すると相手の青年――それは青年の姿をしていた――は腕組みをし、親切さと正義感と、少しの優越感に浸りながら語った。
「道草食ってると、木枯らしに追いつかれるぜ」
「ああ。わかったよ」
 椅子に腰掛けていた彼は、揉め事を回避するため同意する。
「何しろ、俺たちは秋風なんだからな。じゃあな」
 去り際に、やはり銀の髪をした風の精霊はそう言い残した。

 まだ落ちていない森の木の葉を、花びらを、赤い実を揺すり、秋の風は南下を始めている。木枯らしが追いつかないうちに。
「うーん、そろそろ行くか」
 雲のクッションの上に立ち上がって大きく伸びをし、彼は深く息を吸い込む。そして一瞬の後には軽やかに、とても自由に飛翔し、長衣の裾はいつしか天の空気と同化していた。彼自身の姿も霞のように消えかかり、速やかに秘やかに流れていった。

 秋風のゆくえ、秋のゆくえは、誰が知っているのだろう。
 ――それは、秋風だけが知っている。

(おわり)
 


 11月25日− 


[霧のお届け物(13)]

(前回)

 シルキアは椅子を引いて背筋を伸ばした。それから大きめのスプーンをおもむろに皿へ差し込み、たっぷりと、しかもこぼれない程度にシチューの汁と具を掬い上げ、それを唇に近づけていった。待ちきれず、口の中に唾液が広がるのを感じながら。
 村に泊まった貴族の婦人を真似て品良く唇を開き、おしゃまな妹も豊かな森の恵みがいっぱい詰まったシチューを味わう。
「はちゃ、ちゃっ……ほぉー」
 盛んに湯気をあげている熱いくらいの温かさも、長くゆっくりと呼吸をし、時間をかけて舌の上で冷ますうちに適度な温度へと落ち着いてゆく。一晩経ち、馬鈴薯はやや煮崩れしているが、逆にシチューのルーと溶け合って味の和声を響かせる。よく火が通っていて芯まで温かい小さな川魚は、きのこのシチューには意外な取り合わせだったが、双方の旨みが出て美味しい。
「口の中がとろけそう」
 シルキアは熱さと感激で茶色の瞳を少し潤ませてつぶやく。
「最高の贅沢なのだっ」
 はたと手を休め、ファルナはやや斜め上を向いて口の端を自然と持ち上げ、左右に可愛らしいえくぼを浮かべて微笑んだ。

「喜んでもらえて良かった」
 湯を沸かす準備をして戻ってきた主人のオーヴェルは、柔らかな表情で席に着き、焼きたてのパンをちぎって食べ始める。
 研究のためであり、初夏から秋の間だけ――とはいえ、いくら玄関の扉に頑丈な閂がかかっていても、若い女性が森で独り暮らしするのには大変な勇気がいるだろうし、時には人恋しくもなるだろう。清楚に頬を緩めたオーヴェルは、普段の賢者らしい落ち着いた様子を保ちつつも、本来の二十一歳の女性らしさを垣間見せて、久しぶりの訪問客に心躍らせているようだった。

 それからしばらくはファルナもシルキアも黙々と食べた。ファルナは食欲を満たすため、一方のシルキアは食事中に喋るのはあまり上品ではないと考えていたからだ。オーヴェルも敢えて必要以上に話しかけることはしない。鳥たちの唄声が音楽だ。
 シチューは確かに素朴な田舎風の味わいであるが、きのこや山菜など山の幸と、川魚のを始めとする水の幸が入り、一晩置いて味の良く染み込んだ代物だった。むろんのこと、昨日焼かれて今朝に再び軽く火を通した木の実入りのパンも絶品だ。
「おかわり、遠慮しないでね」
 オーヴェルに促され、ファルナはシチューを汲みに行った。鍋には思ったほど残っていない――もともとオーヴェルが一人で食べるために作ったのだから、量としてはたかが知れている。お玉を持ち上げると、とぽぽと、独特の重みのある音がした。
 ファルナが戻ってきてから、オーヴェルは姉妹に訊いた。
「朝早くて、大変だったでしょう」
「きのうは早く寝たから、大丈夫ですよん」
 ファルナがのん気に語れば、シルキアは双眸を輝かせる。
「霧の流れと青空が、ほんとにきれいだったよ!」
 それから間もなくして、丸太の一軒家は安らぎとまどろみの行き交う雰囲気につつまれた。時間の進み方も緩やかになる。
 中身のなくなった皿が重ねられ、無数のパンくずがテーブルに残っている。シルキアは満足そうに手を組み、挨拶をした。
「ごちそうさまでした。おいしかった……おなかいっぱい」
「ふぁー、ごちそうさまでした〜。ほんとにご馳走なのだっ」
 姉のファルナは目尻を下げ、眠たそうに瞳をこするのだった。

「では……」
 その時、オーヴェルは何かを言いかけて――ふいにやめた。
 鋭くなった視線の行く先は、テーブルの隅、葡萄酒の脇に置いてある、空っぽに見える瓶(かめ)だった。若い研究者らしい、何事をも知りたいという好奇と興味の虫が疼いてきたようだ。
「今度は、オーヴェルさんが楽しむ番!」
 立ち上がった妹は、いよいよ〈霧のお届け物〉を手に取った。


 11月24日− 


[大航海と外交界(16)] 〜第三章〜

(前回)

 海は青々と広がり、淡群青(うすぐんじょう)色の空もはるかに続いてゆく。白い雲は盛り上がっているが、夏のころのような入道雲にまで身体を起こすことはない。潮の香りを含む順風は南から吹き、船上の昼食会も済んで太陽はだいぶ傾いていた。
 右舷に連なる鉄柵の上に両肘をつき、右側――つまり南側から降り注ぐ日差しから目を守るために手をこめかみの付近にかざしていたレフキルは、あいていた左腕を伸ばして指差した。
「あっ、また船が来てる」
「ほんとだ」
 その右隣にいて、軽くつま先立ちし、上半身を前に傾けた体勢で柵に預けていたウピが正面を向いて目を細め、答えた。柔らかな色合いをした彼女の金の後ろ髪は軽くたなびいている。
 無意味な詮索や嫌疑をかけられないよう、ララシャ王女を乗せた立派な船団を避けるかのように、いくつもの船が南へ――皆のふるさとであるミザリア島の方に向かっているのが分かる。

 ミザリア海を縦断し、ミザリア島からモニモニ町へ、あるいはその逆に向かうルートは、ルデリア世界の中でも最も主要な航路の一つである。ミザリア本島や周辺諸島で取れる特産品の香辛料や椰子の実を乗せた船が北上し、代わりに穀物や麦酒の樽や各種の富を積んだ船が南下する。それほど荒れる海というわけでもなく、海流のぶつかる良い漁場でもあるため、大中小、目的もさまざまな帆船が留まったり、移動したりしている。
 山越えの辺境をゆく隊商たちが山賊対策に用心棒を雇うように、海では海賊対策が必要であり、主要航路をやや外れる船は何隻かで一塊りになって進む。むろん、ミザリア海兵隊の精鋭によって厳重に警護されたララシャ王女の船団を白昼堂々と正面から襲いかかる無謀な輩は、今のところ現れそうにない。

 軽やかに身を翻し、今度は背中を柵に預けて頭の後ろで手を組み、ウピは素直に、ごく自然に喜びの想いを言葉に載せた。
「あたし、大陸に行くのって初めて」
「そうなんだ。市外に出たことはあるの?」
 レフキルは頬杖をついたまま、顔を横に向けて相手の方を見つめ、尋ねた。妖精の血を引くリィメル族のやや長い耳も動く。
「うん。イラッサには行ったことがあるよ、イラッサ町
 ウピは懐かしそうに語った。その追憶を邪魔しないよう、レフキルは首をほんの少し動かし、碧色の瞳で相づちを打った。
「子供のころに家族で行ったんだけど、素敵な町だった……」
 ウピの語尾は広い空と海に吸い込まれて、溶けていった。
 言葉が途切れると、甲板で若い船員たちと力比べをしてはしゃいでいるララシャ王女の高い笑い声がひときわ高く響いた。
「そう。良かった、ウピがあの町を気に入ってくれて」
 十六歳のレフキルはほっと胸をなで下ろしたようだった。瞬きするたびに薄い緑みを帯びた銀の睫毛を揺らし、彼女は言う。
「イラッサは、私が生まれ育った町だから……一番大切な町」
「そうだ!」
 学院魔術科をごく普通の成績で卒業した十八歳のウピは、頭の後ろの手を振り解いて胸の前でポンと叩き、瞳を輝かせた。他方、レフキルは微睡みから醒めた時のようにゆっくりと不思議そうに首を傾けた。澄んだ瞳の奥に疼く好奇心を見て取れる。
 ウピはその相手のまなざしを覗き込み、一生懸命に頼んだ。
「この旅が終わったら、案内して欲しいな、レフキルの好きなイラッサ町を。レフキルがお店で働いてるとこも見てみたいよ」
 その親しげな呼びかけに、レフキルはしっかりとうなずいた。
「うん。無事に終われば、ね。まだ今日出発したばかりだから」
「あーっ、そうだったー」
 ウピは頭に右手を乗せて合点した声を発し、小首を傾げて澄ました猫のように唇を曲げ、頬を緩めて愛嬌のある表情を浮かべた。するとレフキルも微笑み、人差し指を斜めに一本立てて相手に示す――と同時に片目をつぶり、穏やかに語りかける。
「その時はもちろん、私達にミザリア市内も案内してね」
「もちろん!」
 すぐに打ち解けた新しい友達に、ウピは胸を張って応えた。


 11月23日− 


[霧雨の奇跡(2)]

(前回)

 霧雨は軽々と横風に舞い、傘をすり抜けて頬に触れては刹那のうちに消えてゆく。空気は冷え冷えと冴えて、足元から見えない冬の樹が音もなく着実に頭をもたげてくるかのようだった。
「あ、でも、あそこに子供がいますよ」
 そう言って指さしたのは、黒に近い茶色に染めた長い髪を後ろで留めて良く梳かした、標準よりも少し背の低い二十歳前後の女性だった。やや細い瞳は和風で、芯の強さを思わせたが、口元は緩んでいて厳しさはあまり感じられない。ベージュのコートを着てボタンを止め、黒地のロングスカートを穿き、焦げ茶のブーツを履いていた。渋い黄緑に花柄模様の傘をさし、薄いファンデーションや口紅類の最低限の化粧はしていたものの、もう一人の女性に比べれば全体的に簡素ななりをしていた。
「双眼鏡ですね」
 最後に一言洩らしたのは、紺色の折り畳み傘をさした青年だった。彼は四人の中では最も若く、おそらく大学の部活動かアルバイト先の後輩と思われた。薄手の灰色のセーターの上に、黄土色と草色の中間ほどのジャンパーを着て、ジーンズを履いている。黒い髪は短くも長くもなく、あまり見栄えのする特徴的な髪型ではなかったが、瞳はとろんと夢見がちに澄んでいた。

 四人の若者の視線が集まったのは、一生懸命に背伸びをして展望台に設えられた双眼鏡を覗いている五歳くらいのスポーツ刈りの男の子だった。傘は持たず、降り続く霧雨に似た灰色の温かそうなフリースを羽織って、黒い長ズボンを穿いている。
 少年が見ていたのは、展望台にありがちの、コインを入れると数分間利用できる有料双眼鏡だった。ただ細かな粒子の雨のカーテンに阻まれて、肉眼でも遠くまでは見通せない。何台も並んでいる双眼鏡も、今日は閑古鳥が啼くような状態だった。


 11月22日○ 


[光と水の輪舞曲(ロンド)]


 斜めに降り注ぐ光の矢は

 黒い影法師を、細く長く伸ばしてくれる



 ――では、光を伸ばしてくれるのは?



 それは水

 生命(いのち)の水



 星々のきらめく夜に

 あたたかな街の灯は水路に映り

 色々のゆらめく筋道を

 目にも留まらぬ光の速さを

 優雅に緩やかに写し取ってくれる



 それは日暮れ頃の黒い影にどこか似ているけれど

 今は闇の深まる中、まばゆい輝きの影が光る



 光と影はその役割を変じて――

 そして、光と水の輪舞曲がはじまる


 


 11月21日○ 


 真夜中に
  上弦の月は
    人知れず
       沈みゆきつつ
      横たわり
     橙色の
   茶碗となりて
  何を汲む
   闇を汲むのか
      空の奥
       夜の重みに
         耐えられないで
        墜ちるのか
       それとも夢に
     熔けてゆくのか
    人知れず
   沈みゆきたる
     上弦の月は

2004/11/21
 


 11月20日○ 


[ごあんない]

 この階段は、空に続いています。

 雲の段から落ちないよう、ご注意!

天使より

2004/11/20
 


 11月19日× 


 日時計の刻を計る影の針は
 太陽が昇るごとに長くなり

 薄紅色の厳かな暁の光は
 冷たく清かに早朝の雲を染めた

 さあ、渡り鳥よ
 お前たちの旅立ちは近い

 われも行こう
 お前たちとは反対に
 雪降り積もる北の国を目指して
 


 11月18日△ 


[霧雨の奇跡(1)]

 一つ――
 二つ――
 三つ鳴ったのは、古びた時計台の鐘だった。
 その厳かな残響は、静かな空気の奥底に溶けていった。

 コンクリートで固めた海を左から右に展望する丘の上の洒落た公園は、冷たい秋の終わりの雨にしっとりと濡れていた。枯れ枝や落ち葉は湿り、白い花は茶色く腐ってしぼんでいる。真珠に似た雫が艶やかな木の葉を滑り、道は濡れ、土は潤う。
 霧の慈雨は遠くの桟橋や近代的な港橋を、ほとんど葉の落ちた街路樹を、色あせた美術館を、奥行きのあるシンメトリーな庭園を、藤棚の下に続く見晴らしの良い展望台を、訪れる僅かな人々を分け隔てなく霞のヴェールで覆い、境界を曖昧にした。

 白地に紫や赤や桃色の花、渋い黄緑に花柄、黒、紺――。
 四つの傘が明るい笑い声とともに近づいてきて、展望台の藤棚の下に入って立ち止まった。遠い春を待つ枝先から細かな霧雨を集めた粒が緩慢に落ちて、傘の布をリズミカルに叩いた。
「やっぱ少ねえなあ」
 えんじ色のセーターの上に焦げ茶のコートを羽織り、そのポケットに両手を突っこみ、ベージュのジーンズを履いた背の高い男が、周りをぐるりと見回してから必要以上に大きな声で言った。男は黒い傘をさしており、若く学生風で、金の髪は短く刈って髭を生やし、横顔は凛々しかったが目はやや垂れ下がっている。
「雨だもん。こんな日、わざわざ誰も来ないわよォ」
 白地に鮮やかな花を散らした、春に似合いそうな傘をさしている同年代の女性が応えた。膝下のプリーツスカートから伸びる両脚はすらりと長く、目元のはっきりとした顔立ちで、念入りに整えられたショートの茶色の髪には大きな金の髪飾りをつけている。鞄は仏国製のブランド品で、襟元に毛皮の付いた両面の生地の違うコートは豪華で暖かそうで、爪のマニキュアは桃色だった。頬には白いファンデーションで、瞳には濃いラメ入りのシャドウが入っていて、口紅は自然な感じの色を用いている。


 11月17日− 


[言葉]

 この季節
 広葉樹たちは
 落ち葉の色で話をする

 数え切れないほどの
 赤や黄色、橙、こげ茶の彩りは
 微妙な意味合いを表して

 無数の大きな縦型のキーボードは
 言葉を話すごとに抜け落ちてゆき
 全く同じ単語を二度と喋らず
 全く同じ時間は二度と甦らず――

 しだいに言葉は失われ
 歯抜けの枝を、冷たい風が吹き抜ける

 そうなる前の豊かなひとときに
 瞳を澄ましたら
 木々の話は、双つの目から聞こえてくる

 単語は風の合間を行き交い
 強さは語調、流れは口調
 言葉は静かに降り積もる

 それはやがて春を育てるこやしとなる
 希望の花の新芽になる――
 


 11月16日○ 


[木枯らしが告げるもの]

 ズィートオーブ市を、北風が吹き抜ける。
 下から掬い上げるように、横から揺らすように。
 冷たさという刃を隠した強い風が、時折、道を駆け抜ける。

 街路樹の細い枝は一斉に首を振り、太い幹はきしんだ。
 太陽は厚い雲に隠され、かといって雨も降りそうにない。
 この新興都市はルデリア大陸の南西に位置し、冬の寒さはそれほど厳しくないが、おおよそ一ヶ月に一度くらいの割合で、まるで今日のように雪が降りそうな日が訪れる。さしも陽気で商売好きで全般的に計算高い彼らも、寒さに対する耐性は弱く、薄手の毛織物や厚手の綿製品を重ね着して、口数は少ない。
 特に最近、暖かな日が続いていたので完全に油断していた人々は、こぞって身を縮め、足早に歩いてゆく。その姿は突然に襲ってきた〈寒波〉という見えない波に翻弄される藻屑だ。

「さむーっ!」
 赤っぽい髪の色をしている十六歳のサホはわざと寒さを振り払うように大声を上げて、紫と渋い赤と茶色が入ったチェックの厚手のロングスカートの中に隠れた足を素早く上下させた。
「ウウウウウ……」
 マフラーを巻き、見るからに寒そうな同級生リュナンの表情は青ざめて冴えず、前かがみの姿勢でサホの背中に隠れるようにして歩いている。その歯はカタカタと小刻みに震えていた。

「ねむ、がんばれ! もうすぐ家だよ」
 振り向いたサホは親友の愛称を呼んで励ましたが、再び北風がヒョォーッと叫ぶと、身体の弱いリュナンは強く瞳を閉じる。
「もう、くじけそう……」

 乾いた硬い落ち葉が茶色くなり、ズィートオーブ市の旧市街を縫う煉瓦の道を転がってゆけば、カタカタカタと軽い音が響く。
「笑ってる」
 少し風の落ち着いてきた所に来て、寒さに弱いリュナンは口を小さく弱弱しく開き、うつむいて哀しそうに洩らすのだった。
「次の季節が、笑ってる」

 木枯らしは何度も何度も告げている。
 冬がやってきたのだぞ――と。
 


 11月15日△ 


[星の夢]

 夜空にまたたく
 あまたの銀色の
 星のきらめきは――

 天の遠くで交わされる
 懐かしいささやきの声です

 一つ一つを紐解いて
 もしも楽譜に落としたら
 どんな曲になるのでしょう
 どんな歌が聞けるのでしょう――

 どんな夢が見られるのかしら。
 


 11月14日− 


[食事と料理]

 二人がまだ旅に出て日が浅い頃のことである。

「美味ひっ」
 焼きたてで煙の出ている油の乗った豚肉をほおばり、涙目のまま唇を素早く閉じたり開いたりしながら噛み砕く合間に、口を半開きにして言ったのは、二十五歳の聖術師、シーラである。
 瞳の辺りには少し隈があったが、ぬばたまの長い黒髪は艶やかで瑞々しく、長旅を感じさせないほどに麗しかった。女性としてはやや背が高くて、腰回りは細く、脚はしなやかに長い。
「君は本当に肉が好きだね。太るんじゃないの?」
 旬の焼き魚を目の前にして、なるべく皮肉にならないように軽い口調で尋ねたのは、恋人の魔術師、同い年のミラーである。彼の髪はやはりシーラと似た不思議な闇の色であった。二人は北国のガルア公国出身で、民族的には〈黒髪族〉に属する。
「さかはも、ふきほ(魚も好きよ)」
 また口を半開きにして、いかにも熱そうに喋ったのはシーラだった。古びたランプが高い場所からぶら下げてある遠い町の小さな酒場には少しずつ常連客が入り始め、活気を呈し始める。彼らは、手を休めることなく調理を続ける主人と話をしていた。
「今年はガルアマグロが大漁でねェ」
「ほんとだよなァ。どこのメシ屋でも言ってるよな」
「おおよ。でも、捌く技術と焼き加減と仕入先で、ウチは負けませんよ。生でも、焼き魚でも、お客さんの注文に合わせてねェ」
「あんたはー、ええ料理人だぁよ!」
 強い吟醸酒に酔っていて、すでに顔だけでなく耳まで真っ赤に染めた頭の薄い中年男が舌足らずな大声で言い、笑った。

 そのやり取りを何となく耳の後ろの方で聞いていたミラーは、食べ終えた皿を見つめながら満足そうに、少し眠そうにけだるそうに頬杖をつき、グラスを指で弄びつつ、ゆらめくランプの光に薄紅のさした頬が照らし出されている恋人のシーラに訊ねた。
「君は料理は得意じゃないんだろうね、きっと」
 そのグラスの中身を傾けて重そうに持ち上げ、唇を湿らせるようにほんの少しだけ口に含み、相手はとぼけた様子で答える。
「え? そう見える?」
 そこでシーラはグラスを置き、相手の目を見上げて応えた。
「でも、やむを得ない場合は作ってるじゃない。野宿とか」
 それはある意味、料理の不得意さを暗に認めるかのような発言だった。ミラーは首をかしげ、すかさず攻勢に出るのだった。
「でも野宿じゃねえ。判断材料にならないよ」
「作れるわよ」
 シーラはやや眉をひそめて、少し声量を落として言った。自信に満ちているというよりも、不愉快だから反発するような声だ。
「どんなのができるんだろう。空恐ろしいよ」
 ミラーは冗談を楽しみつつ、微笑みを浮かべて語ったが、どうやらそれはシーラの刺激してはいけないところをほじくってしまったようだ。麗しの放浪聖術師は明らかに苛立ちを募らせ、人差し指の先でテーブルを叩きながら文句と反論を投げつけた。
「うるさいなァー! そんなことないわよ。それに、そういうミラーだって大したものは作れないじゃないの。なんか作れんの?」
「うーん。悪かったよ」
 相手がこれほど気分を害するとは思わなかったミラーは、いつも通りにあっさり負けを認め、優しい声を発して謝るのだった。

「お待ち遠様」
 その時、タイミング良く主人が別の焼き魚の皿を置く。目にしみる煙は〈黒髪族〉の二人の食欲をくすぐり、気分を和ませる。
「食べるのは好きなのよね」
 シーラはにったりと笑って、民族伝統の〈箸〉を構える。
「僕も」
 魚には目がないミラーも、さっそく身をほぐし出すのだった。
 


 11月13日− 


[遠い山まで]

 雨上がりの日

 空が澄んでると

 遠い山まで見通せるね



 なら

 わたしの雨が上がったら

 心の空を澄ませたら

 遠い山まで見通せるのかなあ?



 見通せるよね――きっと

 遠い遠い山の果てまで

2004/11/13
 


 11月12日− 


[秋のゆくえ(中編)]

(前回)

 艶やかな唇の水分を手の甲で軽く拭うと、彼はゆっくり左から右へ大きな半円を描くように視線をぼんやりと空へ飛ばした。
 その拡散していた焦点がしだいに合ってきて、彼の瞳が明確で鋭敏な興味と関心の光を帯び始めたのは、小山から俯瞰していた青空を映す麗しい湖に注意が向けられてからであった。
 彼は頬を幾分ゆるめて、誰に言うわけでもなくつぶやいた。
「行ってみるかな」
 楡(にれ)の木の幹を後ろ手で軽く押して、一歩を踏み出す。

 ――いや、踏み出さなかった。
 長衣の足元からほんの少し覗く茶色の革靴は、踏みしめるべき大地を見出さなかった。かといって落ちたのではなく、むしろ身体は春一番に舞い上がる白い花びらのように浮かんでゆく。
 それはとても速やかで優雅で、何よりも自由だった。彼の動作を見てしまえば、人間には叶わぬ鳥の翼のはためきさえ大仕事のように思えてしまうほどだ。その鳥も気流を捕まえれば空を滑るが――いわば彼は飛び立つ瞬間から滑空していた。
 あらゆるものを地面につなぎとめている見えない重力の糸を忠実な子犬のように手なずけてしまい、彼だけ特別に縛るのをやめさせたかのようだ。その動きは目に見えるどんな物の飛び方にも似ておらず、強いて言えば珈琲に垂らした牛乳の線ように気ままでしかも気高く、芸術性と機動性を兼ね備えていた。

 そして彼はあっという間に、人知れず森の奥にたたずむ澄んだ湖に降り立ったのだった。といっても、実際に水の上に立ったのではなく、触れてすらいない。むしろ、彼はほとんど横たわった姿勢のまま、湖面のすれすれを滑るように飛んだ。透明度が高く、底まで見通せる湖は魚たちの楽園であり、柔らかな光を浴びて銀の鱗が時折きらめいている。彼は速度を落としていたが、それでも通り過ぎた後には波が生まれ、魚は潜ってゆく。
 湖は彼の姿を映したり、気まぐれに映さなかったりした。彼の長衣の裾ははためくが、水が跳ねて濡れることはなかった。


 11月11日△ 


[霧のお届け物(12)]

(前回)

 少し焦げのあるシチューは盛んに湯気をあげ、焼きたてのパンは香ばしさを漂わせている。手を組んで森の神様への感謝の祈りをごく簡単に済ませたあと、オーヴェルは姉妹を促した。
「では暖かいうちに頂きましょうか」
「いただきまーす!」
 瞳を見開いて待ち構えていたファルナとシルキアの歓喜の声がはじけて、小さな山小屋に響き渡った。外の小鳥たちもそろそろ朝食時なのだろうか、高らかで軽やかな歌は日の出の頃の生まれたての騒がしさよりもいくぶん落ち着いているようだ。
 スプーンの音をカチッと響かせ、ファルナは堰を切ったように右手を動かした。シチューの皿を満たす白い沼地にスプーンを沈めてから持ち上げ、食用きのこの欠片を掬い取る。よく煮込んであってとろりとしたシチューが独特の重みを持ってこぼれた。
「羊の乳も山羊の乳もないので、甘さには劣るのですが……」
 そう言ってオーヴェルが席の温まる間もなく立ち上がったのと、こぼさないように指先に力を込めてファルナが大きく広げた口の中にスプーンを斜めに差し込んだのはほぼ同時だった。

 そして今度は飲み物の湯を沸かすために暖炉へ向かったオーヴェルは、言葉にならないファルナの深い溜め息を聞いた。
「はあ……」
「美味しそうだね」
 次はシルキアの番だ。シチューから攻めるか、焼きたてのパンか迷っていたようだが、結局、姉に倣ってスプーンを握った。


 11月10日− 


[大航海と外交界(15)]

(前回)

「ミザリア国とイラッサ町とを代表する二人の女性が、こちらにお集まりになったわけですね。とても光栄なことだと思います」
 全員の顔を見回してレイナが言うと、はしゃいでいた雰囲気はやや引き締まり、皆は十五歳のララシャ王女と十六歳のサンゴーンとを神妙そうに見比べた。二人は同じザーン族だが、見た目はもちろんのこと、醸し出す雰囲気もきわめて異なっている。

 レゼル王子の妹で、ミザリア国第一王女のララシャ姫は〈おてんば・わがまま〉という類の噂が絶えないが、何はともあれ未来のミザリア国を担っていく要となる人物であることは誰も疑わない。背丈は普通くらいだが、腕や肩は格闘修行の成果で鍛えられている。地上に降りてきた太陽のような、豊かで美しい金の髪を持ち、南国の自由な空を思わせる蒼い瞳の眼光は鋭い。
「代表する? まあ、そうかも知れないわね」
 ララシャ王女は足をどっしりと下ろした体勢で腕を組み、どこか斜に構えて、目の前のサンゴーンを不思議そうにねめつけた。

 他方、検分を受けることになった〈草木の神者〉は何度も瞳をしばたたき、人形のように身を硬くして、困惑気味に苦笑する。
「あの、私をご覧になっても、面白くないと思いますわ〜」
 ザーン族の人々のほとんどは黄金か白銀の髪の毛だ。ララシャ王女が典型的な金色だとすれば、サンゴーンは銀の方の特徴を良く表している。王女と似たように長い髪でも、さやかな月影を集めたかのような全く別の質感があり、後ろで留めている。背はやや高いが、腰周りや腕は細く、顔もそれほど日焼けしていない。着ているものも女の子らしい水色のロングスカートであり、瞳は優しく物腰も柔らかで、のん気そうな印象さえ受ける。

「まこと、レイナ様のおっしゃる通りではないかと存じます」
 その時、後ろから侍女の声が聞こえ、ララシャ王女とレフキルは速やかに振り返る。ウピとレイナも声の主の方に注目する。
 最後にゆっくり回れ右したサンゴーンは、照れながら言った。
「そんなことないですわ〜」

「差し出がましい口を聞きまして、申し訳ありません」
 侍女は――ララシャ王女に今回の秘策を耳打ちしたマリージュだ――片膝をついて深く頭を下げ、貴人に対する礼をした。
「遅ればせながら、わたくしはララシャ様に仕える新参者の侍女、マリージュ・エクサラと申します。皆様のご旅行のお手伝いを致します。以後、お見知り置き頂けましたら幸いに存じます」
「私の一番信頼している侍女だわ」
 王女がすかさず補足すると、侍女はさらに深く頭を下げたが、顔を上げると右目を軽くつぶって、主人に親しげな合図を送る。
「身に余る光栄でございますわ」

 ララシャ王女は厳選した侍女を引き連れてきていたが、その中の筆頭は言うまでもなくマリージュだ。三十過ぎの人妻のマリージュは、宮廷の中でこそあまり華麗な印象が薄く平凡に見えたが、海の上で熱い太陽を浴びながら簡素な給仕服に身をつつんでいると、いかにも周囲と調和し、似つかわしく見えた。
 リューベル町での四ヶ国会議に派遣されるミザリア国の使節団の中では、ララシャ王女は最も身分が高い。最近では姫を慕うようになった他の侍女を取りまとめるのも彼女の役割であり、マリージュの責任は重かった。長旅で主人の気がいつ変わるとも知れず、しかも慣れない場所で働く若い侍女たちの体や心の状態にも配慮せねばならず、これから気苦労は絶えぬだろう。
 宮廷人の品があり、言葉遣いも仕草も申し分ないが、どこかしら砕けているところも感じられ、庶民的で近づきやすい印象を受ける――それがウピのマリージュに対する第一印象だった。
「温かなお心配りに深く感謝いたします、マリージュ様」
 王立研究所の期待の新人であるレイナは特に気取ることなくいつものように語ったが、それはマリージュの対応と比べて特に見劣りしなかった。再び舌を巻いたのはおてんば姫である。
「ほんと、レイナは今すぐ宮廷に来ても大丈夫ね」
 どこまでも続く空と海に見守られて王女はまぶしそうに嬉しそうに目を細め、その場の親友たちを満足げに見回し、うなずく。
「さあ、これで物語の主役たちは揃ったわけよね」
「あとは、どう物語が展開していくか、ですね」
 額に手をかざして長い耳を立て、レフキルが口元を緩めた。


 11月 9日× 


[黄昏の階段(4)]

(前回)

 日が沈むところをじっくり眺めるなんて、久しぶりだ。
 止まっているかに見える太陽だが、それでも少しずつ確実に沈んでゆく。光の砂時計の巨大な一粒はこぼれ落ちていった。
 こうして、いくぶん明るさの弱まった感のある空の果ての紅い火球は、遠くに見える高い山に引き寄せられるかのように近づく。距離がなくなり、ついに触れたと思う間もなく――見る見るうちに重なり、まるで栓を抜いた風呂の湯が減ってゆくかのように欠けていった。しばらく目を凝らしていると、かなりの速さで指輪のような形状へと驚くべき変化を遂げてゆく。肉眼で太陽の速さを感じられるのは、この日没と、日の出の時だけだろう。やがてハムのように細まり、紅い光の筋になって、隠れてしまう。
 太陽が山並みの後ろに入ってしまうと、うっすらと斜めに山脈の陰ができる。西の空の赤みはいよいよ強まり、空の奥の方は清らかな乙女の頬を思わせる優しい桃色に染まっている。

 と、その刹那――。
 後ろで何かが動く気配があった。
 僕はすっかり景色の虜となっていて、杏色に彩られた双眸を持つ少女のことを忘れていたが、また一つ段を上ったようだ。
 日が隠れたら次の段、という予言は現実になったのだ。

 僕は少女の方を振り向こうと、身体をひねりかける。
 明確な意志を持つ鋭い声が響いたのは、まさにその時だ。
「見ちゃだめ! 前を向いてて」
「えっ?」
 突然の厳しい口調に、僕は驚いて身をすくませる。頭に来ると言うよりも、有無を言わさぬ相手の迫力の声に負けてしまう。
 だけど、せめてもの反論に、僕は太陽の沈んだ西の空をあおぎながら、また後ろ向きに段を一つだけ登ってみるのだった。
 振り向いた途中に、ほんの少しだけ垣間見た少女は、なぜか白っぽい印象を僕の心に残した。後から良く思い出せば、灰色のベレー帽、焦げ茶の上着、ベージュの長ズボンという出で立ちだったから、明るい白い服など着ていなかったはずなのに。
 そういえば日が山に隠れてしまってからは、東の方から微かに闇の粉が撒かれ始めていた。木々の陰影はしだいに濃くなって、天空の照明は弱まり、視界は緩やかに狭まってゆく。公園の小道をゆく人通りは、いつの間にかほとんど途絶えていた。
 涼しくなった夕風が前髪を軽く撫で、鼻の中に迷いこんだ。

 背中の方で気配がし、少女は再び〈黄昏の階段〉を登った。
 それを合図に、辺りは一挙に薄暗さを増した。
 間違いようのない、はっきりとした信号を彼女は送っていた。

 言いたいこと、聞きたいことはたくさんあったが、振り向けば全ては幻と消えてしまうのは痛いほど分かっている。仕草や動作から何かを読みとろうと、僕は相手のことを思いだした。小学校高学年くらいにしては大人っぽくおませな感じ、ずっと遠い場所を見ていた瞳、まったくぶれることがなかった視線の行く先を。
 あと残るのは一段くらいだろうか。もう、限りなく夜に近づいている夕方という頃合いで、全ては息を潜めて合図を待つ。
 空も大地も、風も河も、樹も花も、蝶も蟻も。もちろん、僕も。
 聞きたいことを我慢し、好奇心を頼りない想像力に代えて。
 何もかもの姿が闇と同化していく、公園の小山のはずれで。

 静まり返る公園では虫たちの演奏会が幕を開け、風の音はもちろん、下の通りをゆく車のエンジン音さえも響いて聞こえた。
 暗さに馴れない目を凝らして、失われつつある秋の夕映えの名残を捜し、神経を研ぎ澄ませて、僕は最後の機会を待つ。

 少女が足を摺り、最後の段に持ち上げるや否や――。
 僕は最後までいい子でいることは出来ず、狙い通り、勢いをつけて振り返ったのだった。闇の粒子が僕と反対方向に回る。
 闇の中に、手を組んでうつむいて立つ少女の輪郭は朧気で、それはあっという間に溶けてしまい、境界がなくなっていった。
 ベレー帽もズボンも靴も、何もかもが闇へと還っていった。一つだけ変わっていたのは――背中に大きな羽が生えていた。

 あのベレー帽をかぶった、おしゃれで大人びて少し気が強そうで、意外とはにかみやな少女の姿は、もうどこにもなかった。
 いるのはただ夕闇だけであり、消えかかるのは昼の気配だ。
 天使は〈黄昏の階段〉を登り終えて、家路についたのだった。

 約束を何とか守れたお礼なのか、あるいはすんでの所で破ってしまった罰なのか、僕にはいつまでも判断がつかないが。
 澄んだ白い羽が一枚、今宵初めての夜風に運ばれて。
 僕の足元にひらりと舞い降りた――。

 辺りの明るさは今日の仕事を終え、町は深い闇に抱かれて、ゆったりとした安らぎの時間がつつましくまろやかに流れる。
 生まれたての夜を吸い込んで帰る道でも、空色の瞳をした少女の強いまなざしにまだ射抜かれているような気がしていた。
 わずかな温もりの残る一枚の羽を、僕は大切に握りしめた。

(おわり)
 


 11月 8日△ 


[秋のゆくえ(前編)]

 丈の低い牧草が一面に生えている野原は色褪せて、なだらかに緩やかに続いている。丘の上からは麓にある小さな湖が一望でき、その向こうは深い針葉樹林だった。澄み切った鏡のような湖には、注ぎ込む水の流れも、そこから出づる河もない。
 辺りに人家はなく、夏には見かけられた牛や羊の姿もとうに消えている。風はやや冷たさを伴い、枯れ草を飛ばし、湖面を波立たせた。やがて霜が降りて、草原は雪野原となり、湖面は厚い氷に覆われるのだろうが、まだいくばくかの猶予がある。
 曲線美の美しい野原の頂に、湖を見下ろし、一本の楡の木がぽつんと立っている。僅かばかりの黄色の葉を残していたが、散るのは時間の問題で、永い眠りの準備に入ろうとしている。

 その樹のそばに、一人の若い男が立っていた。
 彼は幹に寄り添うように立ち、軽く息を吐き出した。
「ふう……」
 長い銀の髪を後ろで結び、背はすらりと高く全体的に華奢な体つきをしていたが、骨格は意外と頑丈そうで、肩幅は思ったより広く見える。髭はほとんど生えておらず、口元には優しさがあるが、その代わり視線は鋭かった。秋草の色に似た薄い黄緑のズボンを穿き、上下が繋がっているゆったりした薄灰色の長衣を羽織っていた。それは今日の深く蒼い空に漂う千切れ雲をどこか思い出させる色合いで、布地は厚く暖かそうだった。
 そして不思議なほど透明な潤いの質感がある双眸は、楡の木の枝陰の、その延長線上に見える麓の湖を彷彿とさせる。

 彼は目を細め、やや斜め上をまぶしそうにあおいだ。
 それからおもむろに長衣の腕を持ち上げ、ほっそりした五本の指をしなやかに近づけ、宙をつまんでひねるような動作をした。
 次の刹那、冷たくて澱みのない森の湧き水を思い出させるささやかで確かな水の流れが生まれて、野原にこぼれ落ちた。
 彼は唇を開き、口の内側と舌と喉とを順番に軽く湿らせる。
「よしと」
 彼がひねるのをやめると、空中からの水は見事に止まった。


 11月 7日− 


「ほんと、気持ちいいねー」
 リンローナは両腕を広げて公園の木々を見上げ、ゆっくりとその場で周りながら、うっとりした様子で目を細めた。その薄緑色の髪の毛は、まるで秋風にたなびく草のように軽くそよいだ。
「晩秋は、いい季節ですよねえ……」
 足元に横たわる紅く染まった落ち葉を見つめ、タックが言う。レンズの抜け落ちた彼の伊達眼鏡のフレームは斜めからの淡い橙色の光を受けて鈍く光り、茶色の髪は今の季節になじむ。
「俺は夏の方が好……いててっ!」
 ケレンスが言いかけると、急に強くなった風がかろうじて枝にぶら下がっていた木の葉を一斉に散らして、顔に叩きつける。

 そろそろ朝晩の冷え込みが本格的になりつつあるメラロール市に、今年も各地を転々とめぐってきた冒険者たちはたどり着いた。これから冬が来ると彼らは一時的にここへ定住し、短期の仕事をこなしてゆく。新しい年が来れば皆の齢は一つずつ増えて、ケレンスとタックは十八歳、リンローナは十六歳になる。

 空気が――空が澄んでいる。
「こういう日は、心まで透き通ってくる感じがするなぁ……」
 メラロール市の中心部にほど近い広々とした公園の、とある池のほとりで、リンローナは大きく息を吸い込んだ。少しずつ夕闇が迫り、空は優しい薄橙色に少しずつ変わろうとしている。
「木々の紅葉のお手本のようですね、あの空は」
 タックが呟くと、リンローナは振り向いて大きくうなずいた。
「そうだね、木々は真似してるのかも知れないよね」
 今日のリンローナは、メラロール市に着いてから新調したばかりの、秋らしい装いに身をつつんでいる。ベージュの肌着の上に、やや渋めの黄色いシャツを着て、大きなボタンが可愛らしい黄土色のカーディガンを羽織っている。下は大人っぽいロングのタイトスカートで、濃紺の縦糸と白の横糸の綾織りだった。

「リン」
 どぎまぎしつつケレンスが呼ぶと、相手は笑顔で振り返る。
「ん、なあに?」
「その服、割といいじゃねえか」
 ケレンスの声はやや上擦り、目線は敢えて変な方を見つめている。額には何故か、うっすらと汗をかいており、鼓動は速い。
 リンローナの瞳は嬉しそうに見開かれた。タックが補足する。
「たいへん気に入っているようですよ、ケレンスは」
「な、何だよ」
 ケレンスの動揺を知ってか知らずか――。
 リンローナは、この季節に相応しい清らかな口調で応えた。
「ありがとう」

 赤い陽が池に映り、山の後ろに隠れてしまうと、風は急に冷たくなる。三人は一枚羽織って、当座の安宿に戻るのだった。

2004/11/07
 


 11月 6日△ 



 秋をさがしに川沿いを

 遡上してみた20`






 薄桃色のコスモスや

 白い綿毛のススキの穂波、

 色づいている並木の下で

 風に揺れてる薄茶の落ち葉、

 たわわに実った柿の木や

 キンモクセイの小さな宝石(ジュエル)、

 真っ赤に染まったハナミズキの実――






 ――たくさんの〈秋〉を、見つけました。




秋をさがしに(2004/11/06)
 


 11月 5日− 


[大航海と外交界(14)]

(前回)

 やや強い太陽の光は明るく輝き、白い雲は広がったり、分かれたりしながら、今のところは入道雲ができるわけでもなく平穏だ。故郷のミザリア島ははるか後方、波のかなたに遠ざかる。
「よろしくお願いいたします」
 渋い黄色に線が入った麻のロングスカートの裾を軽く持って少し腰を落とし、さっき現れた中年の船員に挨拶した時よりもさらに完璧な角度で膝と腰を曲げ、レイナは丁寧に頭を下げた。レフキルと、その隣の銀の髪の少女、侍女の三人も会釈をする。
 ウピまでがつられて頭を下げそうになってしまうが、今は自分の友達のレイナの紹介の番だということを思い出して、ぎくしゃくしながらも平静を装う。そのウピが次に興味深そうに視線を合わせて訊ねたのは、レフキルの横に立っている、同年代のおっとりしていて育ちが良さそうな感じの、長い銀の髪の少女だ。

「こちらは?」
 ウピはいったんレフキルの方に向き直り、訊ねる。
「あ、こっちがサンゴーン」
 聞かれたリィメル族のレフキルは一歩引いて、友人を促した。サンゴーンはにこやかに微笑み、束ねた銀の髪を沖の潮風に揺らし、身体が飛ばされそうになってよろめきながら喋った。
「はじめまして、ですわ〜。サンゴーン・グラニアですの」
「どうも〜」
 サンゴーンのペースに巻き込まれたウピは軽く手を上げ、ゆったりした口調で答えた。それに比べると、レイナの様子はいくぶん異なっていて、にわかに緊張感と期待感を漂わせていた。
「お初にお目にかかります。あの……」
 学院魔術科時代は優等生で、現在は若くして王立研究所に勤めるレイナは、母国ミザリアについて熟知している。詳細を聞かなくても、サンゴーンという名前に、すぐにピンときたようだ。
 彼女はごく控えめに、しかし好奇心で瞳を輝かせ、尋ねた。
「あの、わたくしの間違いならばどうかお許し頂きたいのですが、あの、もしかしてサンゴーンさまは〈草木の神者〉の……」
「あらら、知っていたんですの?」
 目を丸くしたのは当事者のサンゴーンだ。敢えて口を挟む機会がなく、しばし聞き役に回っていたララシャ王女は釘を刺す。
「ま、あんまり大っぴらにはしない方がいいわね、必要以上には。護衛の騎士ぐらいなら知らせてあるけど。あたしの目の届くとこなら、サンゴーンは悪いやつには指一本触れさせないわ」
「頼もしいですわ〜」
 サンゴーンは素直に拍手をしたが、ウピやレイナはあっけにとられる。どちらが本来の貴人なのか、分からないではないか。
 ララシャ王女は全く気にせず上機嫌で、レイナに語りかけた。
「それにしても相変わらず丁寧ねえ。またあたしと間違われたら、ぶっ飛ばすわよっ!」
 王女に服を交換させられたレイナは、町中でララシャ姫ではないかと疑われたことがあったのだ。彼女は一気に青ざめた。
「そ、それは……」
「冗談に決まってるじゃない!」
 ララシャ王女が豪快に笑い飛ばすと、レイナは本心から安堵の深い溜め息をつき、ウピもほっと胸をなで下ろすのだった。
「ふぅー」
「良かったぁ……」


 11月 4日− 


[初秋の調べ(5)]

(前回)

 遊びで隠れていた時に見つかった子供のように、相手は素直に観念した様子だった。テッテの瞳が驚きで何度も瞬きする間に、黒い影法師は隼のように木の枝から木の枝へ器用に飛び移り、目にも留まらぬ速さで夜露に濡れた地面に降り立った。
 少し遅れて一陣の風が吹き過ぎる。梢を揺らして、地面に落ちた木の葉を軽やかに舞わせ、テッテの前髪を持ち上げた。
 森の広場の真ん中に、黒い姿が月影を背景に立っていた。

 テッテは演奏会の参加者であることを示すため、まずは座ったままの姿勢で、彼の楽器――銀の鈴を掌の中で微かに鳴らした。それから相手に威圧感を与えないよう注意しながらゆっくりと立ち上がり、根の上に両脚を乗せて、幹に背中を預ける。
 距離はそれほど近いわけではなく、影の輪郭ははっきりとは見えぬ。だが限りなく淡い今宵の月の光に充たされた世界で、不思議と相手の表情や仕草は容易に想像できるのだった。
 夏の蝉のような騒がしさはなく、春の鶯の気品には及ばないが、雑多な虫たちの集まった秋の庶民的で芸術的な演奏はひときわ盛り上がりを見せる。時折、テッテは例の鈴を掲げ、想いを乗せて小刻みに振り、演奏に参加した。また周囲で繰り広げられる涼やかな音楽の渦に身も心も委ねることもあった。バラバラのようでいて実は調和している演奏――それは、さながら森の命の育む和声そのもの――に、テッテは勘づいていた。

 夜の妖精か、音の精霊か、あるいは月のかけらだろうか。黒い影法師の存在が何なのか正確には分からなかったが、テッテはさっきまでと同じように音楽に参加することで、虫たちと交わしたのと同様に再び〈言葉を越えた会話〉をしようと試みる。

 ちりん、ちりん……。

 テッテが奏でた、高らかで澄んでいて、平穏で清らかで、森という地上の海の神秘に触れ、浄化されたかつての想い出や、生きる楽しさと生きてゆく哀しささえ含んでいる銀の鈴の調べは、今まさに主旋律の一つとなり、姿が見えなくて手に取れないけれど確かに存在している〈響きの衣〉を編む縦糸となる。
 若い研究者の意識は、さっきよりもだいぶはっきりしている。

 その頃になって、ついに相手の返事が、頭の奥底に響いた。それはとても幼く新鮮で、しかも古びているという声色だった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

《この曲、聞こえてたんだ?》

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 テッテは軽くうなずき、小さな低い声を敢えて出して応えた。
「ええ」

 相手は少しうつむいており、背中から月の光を浴びて顔も瞳も陰になっていたが、口元を緩めたのがすぐ明確に分かった。
 かれ、もしくは彼女は、絡めとった月の光を媒介に礼を言う。
《ありがとう……気づいてくれて》
「どういたしまして」
 テッテも深く安堵した声で相づちを打つ。この冴えた秋の夜長の下で、無駄で通俗的なことは極力言わないようにしている。

 黒い影法師はおもむろに振り返って、今までと反対の方――テッテが見ているのと同じ、十六夜月のかかる空をあおいだ。
 その子が軽く右手を掲げると、虫たちの音楽は変化に富んで春のように膨らみ、右手を下げると冬のように収束していく。テッテはごくりと唾を飲み、神話のごとき不思議な風景に見とれ、決して忘れないように瞳の奥の奥へ何度も焼き付けていた。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

《ボクは指揮者――》

《ボクは、月の光そのもの――》

《この曲、届いてたんだね――》

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 ほんの少し欠けた十六夜月を見ているうちに、黒い不思議な人影は溶けてゆくように、幻のように、儚くも消え失せていた。

 夜風はだいぶ冷たくなってきている。秋の音楽祭は盛りを過ぎてもまだ続いているけれど、テッテはそろそろ帰る時間だ。
 重い足を持ち上げて、テッテは帰途につくのだった。この夜を味わいながら、降り注ぐ月の光の細い糸に静かに導かれて。

(おわり)
 


 11月 3日○ 


 どれも映える

  紅葉の美しさといったら、

 まるで山と谷を使った

  珠玉の刹那の芸術作品だ。



 あれがもし、すべて同じ色だったら――

  同じ日に、同じように紅葉したら――

 それは極めて低俗で

  不吉で不潔な代物だろう。



 早くてもいい、

  遅くてもいい。

 自分の思った自分の色に、

  葉っぱを染めてみて欲しい――。


ルドン伯領のとある町人の日記より)
 


 11月 2日− 


[◎&▲]

 ◎(光)の手前に

     ▲(三角)置いたら、

         うっすら暗がり――

               影、できた。

2004/10/21

             ――これは何か、と訊ねるか?

         ◎はあの日の太陽さ。

     ▲はおいらが置いといた、

 日本一の、フジヤマさ。
 


 11月 1日△ 


[黄昏の階段(3)]

(前回)

 僕は唾を飲み込み、しばらく考えて、ようやくつまらぬ雑念や世間体を振り払った。後悔はしたくない――勇気を持って、再び少女にまなざしを向け、ゆっくりと唇を開いて息を吸い込んだ。
「何、見てるの?」
 僕は敢えて大きな声を出し、精一杯に何事もない様子を装って、ついに最初の一言をかけた。そのまま相手の返事を待つ。

 家路をたどる鴉(からす)の親鳥の声がどこまでも悠々と響き渡り、公園の下の市道から車のクラクションが聞こえた。それがほぼ同時に消え去ると、辺りの静けさがいっそう引き立った。
 空色の瞳の少女は眉をぴくりと動かしただけで、僕の質問に応えるどころか、こちらを見ようとさえしなかった。僕の心に少しの苛立ちと、それよりもはるかに大きな不安感が募ってくる。
 もう一言、聞いてみようかと思ったが――。

 同じことはやめよう。
 僕は考え直して肩の力を抜き、息を軽く吐き出した。
 そうなんだ。
 もしも、この態度が少女の答えの全てなのだとしたら?

 百聞は一見にしかず、という言葉が脳裏をよぎった。とにかく僕は、相手をしつこく問う前に〈自分で見てみよう〉と思った。
 少女から目をそらし、階段の一段目で回れ右をし、僕はあの子と同じように木の柵を後ろ手に握り、西の方角を見据えた。
 木々の間に覗いている低い空の赤みはますます強まり、黄色の範囲もいつの間にかだいぶ広がっている。夕陽は美しく川面にきらめいているが、それ以外に何か特別なものが見える気配はない。しばらく見ていても、納得のいく答えは得られない。
 僕は再び少女の真似をし、後ろ向きのまま右足を上げ、左足を引いて階段を上り、二段目に立った。橙の光が目に染みる。

 その時、後ろで息を吸う音が聞こえ――ややけだるそうな口調で、大人びた深みのある子供の声が物憂げにつぶやいた。
「黄昏の階段を登ってるの」
 残響は不思議と僕の耳に残った。黄昏の階段、というその印象的な言葉を何度も繰り返し味わい、意味を見いだそうと想像力を働かせ、吟味する。やがて秋の夕暮れの涼やかな風が、僕と少女とのちょうど間くらい、階段の五段目付近を横切った。
「たそがれの……階段?」
 僕は敢えて、少女を背を向けたまま、空じゅうが暖炉になって燃えているかのような明るさに目を細めていた。透明なお湯に紅茶のティーバッグをつけた後のように、夕陽の色ははるか遠くにまで染み渡り、僕の身体の奥底、魂の果てまで伝わってくるような――世界が緩やかに拡がってゆくような感じがした。

「日が隠れたら、次の段。ふふっ……」
 後ろで、今度はいくぶん楽しそうな声がする。同じ少女だ。
 僕は良く分からず、手すりに重心をかけて、あの子と同じやり方でもう一段昇った。これで僕は下から三段目の位置になる。
 少女が言うところの〈黄昏の階段〉は、昇るにつれてしだいに幅が狭まってゆく。上から見れば、末広がりに思えるだろう。
 その間も、僕はずっと正面を向いていた。留まることなく帰路を急ぐ太陽は、まもなく高い山の裾野にかかろうとしていた。




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