[真実の鏡]
特製の絹で編んだような雪色の薄い羽織り物を着て、大きな蒼い瞳を持つ五歳ほどの可愛らしい女の子の姿をし、背中に白い翼の生えた天使が僕の目の前に立っていた。金の椅子に腰掛けて動けない僕を媚びるような眼で見上げ、彼女は笑った。
「覗いてごらん……真実の鏡を」
相手は胸元に良く磨かれた丸い鏡を持っていた。それは不思議な彫刻を施した縁取りがあり、その中に僕の姿は映っておらず、どこか遠い異国の神殿と、澄んだ水を湛えた泉が見えた。
僕は彼女と目が合い、甘い誘惑に引き込まれそうになる。
視線は僕の心の内側の、そのまた奥の源へと流れてくる。
見果てぬ夢と希望が、虹色の地平線が拡がってゆく――。
だがその時、僕は気づいてしまった。
彼女の翼が発泡スチロールで出来ていることを。
あっという間に魔法は解け、神々しい光は失われた。
あちこちペンキの剥がれた灰色のがらんどうの部屋だった。
珈琲の汚れのこびり付いた古びた椅子に、僕は腰掛けていた。目の前には、かつては純白だったシーツをかぶり、わざとらしく子供のような化粧をした三十代半ばの小柄な女性がしゃがんでいて、ヒビが入っているが何とか貼り合わせたと思われる丸い鏡を胸の当たりに持ち、右上と左下から手で支えていた。
「覗いてごらん……真実の鏡を」
彼女は言ったが、その声に魅惑的な響きは感じられない。
呪縛から解き放たれた僕は、自分自身を確かめるかのように軽く拳を握り、踵と膝と腰に力を込めて、ゆっくりと立ち上がる。
発泡スチロールの翼を持った彼女はずっと下の方になり、こちらを仰いで怒りと敵意に充ちた目つきに変わる。僕は無表情のまま腕を伸ばし、相手から〈真実の鏡〉をしっかりと受け取る。
いつしか緊張で鼓動が速まっていた僕は、鏡を高く掲げた。
女は僕の動きを予期していなかったようで、驚いて瞳を見開き、ひるんで尻餅をついた。次に哀願するような目つきになる。
僕は鏡を掲げたまま躊躇し、動きを止める。腋の下に冷たい汗をかき、こめかみは激しく上下し、ごくりと唾を飲み込んだ。
その時、僕は女の背中からもげた発泡スチロールの翼が転がっていて、根元に丸めたガムテープがついていたのを見た。
僕は一度瞳を閉じ、ゆっくりと息を吐き出した。
再び瞼を開ける前には、僕の決心は固まっていた。
偽物の〈真実の鏡〉を持ったまま、僕は振りかぶり――。
迷いを振り切って、全ての力を出し尽くして。
コンクリートの床に叩きつけた。
パリーン……。
ガラスの破片は、スローモーションのように遅い速度で、小さくともそれぞれに尖りながら、辺りに散らばってゆくのだった。
その欠片の中に、僕は〈真実らしきもの〉を幾つか見つけた。
女はさめざめと泣いている。僕は足取りも重く立ち去った。
あとに残ったのは、果てしない〈哀れ〉だけであった。
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