2004年12月

 
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2004年12月の幻想断片です。

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気分

 

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 12月31日− 


[芸術家]

 一年の終わりの日に、
 とっても素敵な芸術家に出会った。

 彼は実力のある彫刻家でもあり、
 また名声高い絵師でもあった。

 木々を美しく清純な縁取りで飾り、
 薄汚れたキャンバスを再び白く染めてゆく。

 どうか年を越えても、この場所から去らないで。
 時間は流れていることを教えて。

 そして僕たちは、彼のキャンバスに新しい夢を描こう。
 災いを転じて、福となそう。

 空から舞い降りてきた、
 白雪の芸術家のキャンバスに――。


雪の芸術
 


 12月30日○ 


[闇鍋と目玉焼き(12)]

(前回)

 鮮やかな橙色は鍋の一方から、時間をかけて紙に染料が染みこんでゆくかのように広がっていった。今や鍋の全体は明るさを増し、夜とせめぎ合っていた蒼も澄みきった薄い空色と変わっていた。黒ずくめの老人は左手で杖にもたれかかり、右手で小瓶をひっくり返して鍋の上に掲げたまま、時たま疲れた肩を上げ下げする。期待の渦はしだいに鍋の中で強まっていった。
 闇の夜は駆逐されて、組織的な抵抗はほとんど終息した。

 突如――鍋に輝きがあふれた。
「うっ」
 老人は一瞬、うめき声をあげ、皺深い手を瞳にかざした。少し開いた扉の隙間からどっと明るさが流れ込んでくるように、これまでとは比較にならぬ力強さの光の本体が顔を出したのだ。
 それは極めてまばゆく、目を開けていられないほどの輝きだ。男は小瓶を持ち続け、早く終わらせたい――とでも言いたげに左右に振るのだった。水飴状の光はいよいよ強さを増し、小川のせせらぎのような止まらぬ流れとなり、瞳の裏に残像の残るほどのきらめきと鮮やかな朱に染まる鍋に飲み込まれてゆく。
 そしてこれまで夜の静寂につつまれていた部屋に、何かがジュウジュウと焼け焦げるような音が響きだした。それとともに輝きはいよいよ満ちあふれ、食欲をそそる匂いが広がり始めた。


 12月29日− 


[足跡]

 普段は見えなかったけど――。

 きっとここまで、

 ずっといままで、

 続いてたんだよね。


 そして、これからも――。


初雪の日に
 


 12月28日△ 


[真実の鏡]

 特製の絹で編んだような雪色の薄い羽織り物を着て、大きな蒼い瞳を持つ五歳ほどの可愛らしい女の子の姿をし、背中に白い翼の生えた天使が僕の目の前に立っていた。金の椅子に腰掛けて動けない僕を媚びるような眼で見上げ、彼女は笑った。
「覗いてごらん……真実の鏡を」
 相手は胸元に良く磨かれた丸い鏡を持っていた。それは不思議な彫刻を施した縁取りがあり、その中に僕の姿は映っておらず、どこか遠い異国の神殿と、澄んだ水を湛えた泉が見えた。

 僕は彼女と目が合い、甘い誘惑に引き込まれそうになる。
 視線は僕の心の内側の、そのまた奥の源へと流れてくる。
 見果てぬ夢と希望が、虹色の地平線が拡がってゆく――。

 だがその時、僕は気づいてしまった。
 彼女の翼が発泡スチロールで出来ていることを。
 あっという間に魔法は解け、神々しい光は失われた。

 あちこちペンキの剥がれた灰色のがらんどうの部屋だった。
 珈琲の汚れのこびり付いた古びた椅子に、僕は腰掛けていた。目の前には、かつては純白だったシーツをかぶり、わざとらしく子供のような化粧をした三十代半ばの小柄な女性がしゃがんでいて、ヒビが入っているが何とか貼り合わせたと思われる丸い鏡を胸の当たりに持ち、右上と左下から手で支えていた。
「覗いてごらん……真実の鏡を」

 彼女は言ったが、その声に魅惑的な響きは感じられない。
 呪縛から解き放たれた僕は、自分自身を確かめるかのように軽く拳を握り、踵と膝と腰に力を込めて、ゆっくりと立ち上がる。
 発泡スチロールの翼を持った彼女はずっと下の方になり、こちらを仰いで怒りと敵意に充ちた目つきに変わる。僕は無表情のまま腕を伸ばし、相手から〈真実の鏡〉をしっかりと受け取る。
 いつしか緊張で鼓動が速まっていた僕は、鏡を高く掲げた。

 女は僕の動きを予期していなかったようで、驚いて瞳を見開き、ひるんで尻餅をついた。次に哀願するような目つきになる。
 僕は鏡を掲げたまま躊躇し、動きを止める。腋の下に冷たい汗をかき、こめかみは激しく上下し、ごくりと唾を飲み込んだ。
 その時、僕は女の背中からもげた発泡スチロールの翼が転がっていて、根元に丸めたガムテープがついていたのを見た。

 僕は一度瞳を閉じ、ゆっくりと息を吐き出した。
 再び瞼を開ける前には、僕の決心は固まっていた。
 偽物の〈真実の鏡〉を持ったまま、僕は振りかぶり――。
 迷いを振り切って、全ての力を出し尽くして。
 コンクリートの床に叩きつけた。

 パリーン……。
 ガラスの破片は、スローモーションのように遅い速度で、小さくともそれぞれに尖りながら、辺りに散らばってゆくのだった。
 その欠片の中に、僕は〈真実らしきもの〉を幾つか見つけた。

 女はさめざめと泣いている。僕は足取りも重く立ち去った。
 あとに残ったのは、果てしない〈哀れ〉だけであった。
 


 12月27日× 


[闇鍋と目玉焼き(11)]

(前回)

 老人はしだいに押し黙ってしまったが、落ち着いて淡々と作業に勤しんだ。そのうち彼は座ることをやめてしまい、左手に握った杖で体重を支え、皺深い右手で〈鍋の味付け〉を続けた。
 彼は瓶を斜めに倒し、何故か尽きることのない光の蜜を鍋の闇に溶かし込んだ。小さな瓶の底では輝きが増殖しているようで、彼がしばらく手にしているとあふれそうになることもあった。
「こいつめ」
 老人は悪態をついたが、ぐっと堪えたのか、顔をしかめただけですぐに作業に戻った。彼は自暴自棄になり、面倒になったのだろうか――未だに暖炉の弱火で煮込んでいる鍋の上に手をかざすと、瓶を完全にひっくり返して、そのままの状態を保つ。
「早く出尽くしてしまえ」
 胡椒を振りかけるがごとく、黒ずくめの彼が瓶を小刻みに左右に振ると、きらびやかな黄金の明度を周囲に放つ水飴のような物質が、少し遅れて蛇の尻尾のように細く長くこぼれ落ちる。それは休むことなく、鈍(のろ)い滝のように連続して、闇を煮込んだ鍋に次々と襲いかかった。力強く、新鮮な〈輝きの行進〉だ。

 ついに、これまでで最も顕著な変化が現れる。
 先頃までは彩りの全く存在しなかった漆黒の鍋は、時間をかけて全体的に濃い目の蒼い色へと移り変わっていたが、その片側から――今や世界中の地上の黄金を集めたよりも圧倒的に豪奢でまばゆく、月影や星明かりよりも健康的で、心の底から生命力に満ちたゆるぎない橙の光が差し込んでいたのだ。
 老人の小瓶からは小川のせせらぎのように重みのある溶液状の金色が流れ出てきて、鍋の闇に注がれ、その彩りを変化させる。意志を持ち、ユーモラスな動きをもした老人の〈影〉はもはや魔力を奪われたのか、もはや何の変哲もない影である。
 カーテンを閉め切った夜の名残のような、あるいは異質な離れ小島を思わせる一軒家は、内側だけでなく外側からも危険にさらされていた。幕の隙間から外の光が浸食しようとしている。
 洩れてくる鮮やかで爽快な光を受けて、老人の黒ずくめの服はかつてのおどろおどろしさを喪失し、どこか古ぼけてみすぼらしく見えた。何もかもがいよいよ国境線を越えようとしている。
 境目を越える刻は、この場をもう間もなく訪れるはずである。

「来る」
 男は鍋の上に小瓶を掲げたまま目を細め、低くつぶやいた。
「朝が……来る」


 12月26日− 


[はじまりの雪]

「雪、降らないかなぁ……」
 歩きながら曇った宵の空を見上げ、リンローナがつぶやいた。北国メラロールの夕刻には冷気が忍び寄り、通りに灯った淡い黄色の油ランプの光が照らす範囲の吐息は白く煙っていた。
「大雪になると大変なんだぜ。雪かきとか、よ」
 横で歩いていたのはケレンスだった。それぞれの手には食材を詰め込んだ麻袋を提げている。今日はこの町で世話になっている宿の、恒例行事である年末パーティーで、宿泊客であるケレンスとリンローナも好きな具材の買出しに出ていたのだった。
「そっかぁ……そうだよね、生活するとなると大変なんだよね。あたしはつい嬉しく思っちゃうけど。滅多に見たことないんだ」
 リンローナは穏やかな声で語り、手が空いている左の手袋を口元に近づけて思いきり息を吐き出した。老婆と二人の孫が楽しげに会話しながら歩いているのとすれ違い、煉瓦で舗装された通りの両側には商店が建ち並び、飲食店は活気を呈し始めていて、どの煙突からも緩やかに灰色の煙が立ち昇っている。
 袋の大きさに比べ、それほど重みはないようで、金の髪を短く刈ったケレンスは余裕のある口調で隣の少女に問いかけた。
「そういえば、リンの故郷は、あんま降らないんだろ?」
「うーん。降ることはあっても、たくさん積もるのは珍しいよ」
 ベージュのロングコートに身をつつんだ草色の髪のリンローナは、こっくりとうなずいた――瞼の裏に懐かしい故郷を映して。

 しだいに人並みが疎らとなり、二人の口数も減ってくる。彼らが連泊している感じの良い安価な宿はもう少しで見えてくる。
「ん?」
 ケレンスはすぐに気がついた――いつしか頬に触れる風の鋭さに、異なる冷たさが混じりだしたことを。一瞬だけ肌に貼り付き、すぐに水っぽく溶ける〈何か〉が、北風の中で舞っている。
「降ってきた……」
 リンローナも気づいて、頬を喜びで緩ませ、立ち止まった。
 少女の視界に広がる白い温かな吐息に、高貴な銀色の粉雪が重なる。それは優雅でもあり、けがれが無い。またその細かな雪の子の軽やかな動きは天使の会話か遊戯にさえ思える。

「よし。早いとこ、シェリアの姉御たちに知らせようぜ」
「うん!」
 二人は足取りも軽く、宿屋に向かって帰っていくのだった。
 しだいに色濃くなってゆく雪色のヴェールをくぐって――。
 


 12月25日− 


[建設中]

 パルテノン神殿を模した、立派な建造物であろうか――。
 整然と美しく、朝陽を浴びて白い柱が誇らしげに屹立する。
 その柱が支えるべき屋根はまだなく、建設中の模様である。

 何もかもが順調に、首尾良く運んでゆくかと思いきや。
 穏やかな平和を切り裂き、事件は突如として発生した。

 透明感のある、完成したばかりの柱が次々と倒れたのだ。
 それも一つではなく、幾つも、しかもほぼ同時に。
 倒壊した柱は、山肌に泥まみれの無惨な姿をさらしている。
 大地震か、はたまた巨人か、それとも悪魔のなせる業か。

 その時である、上方から声が聞こえてきたのは――。
「そろそろ学校行こうよ。潰すの飽きたよ、霜柱」
 


 12月24日− 


[空のかなたのサンタクロース]

 サンタクロースは空のかなたからやってくる。

 その年のクリスマス・イヴの晩、空はあいにく黒い雲に覆われていて、北風が強く吹いていた。かといって雪が降り出すほど空気は冷たくない。そのうち空はさらに荒れ出し、風はヒョォーと叫んで大枝をきしませ、黒い雲はあっという間に吹き飛ばされ、また別の雲が運ばれてきて、しだいに層が厚くなってくる。
(イヴの晩くらい、きれいな星が見たかったなァ)
 アルコール度数の低い安物のシャンパンと夕食の弁当をスーパーマーケットの袋に詰めて、黒いコートの前ボタンを止めた若いサラリーマンの男は革靴を鳴らして足早に歩いてゆく。時折、区画整理された住宅街をまっすぐに吹き荒れる、頬を貫く冷え切った風にうつむいて目を閉じながら、男は聖夜を闊歩した。

 どんより古い空気が濁っている一人暮らしの狭い家で食事の用意をしていると、外ではにわかに雨が降り出していた。間に合った、というささいな幸運を喜びつつ、いつものようにテレビをつける。どの放送局でもクリスマスの特別番組ばかりである。
 お湯を湧かして電子レンジで弁当を温め、何となくテレビの番組を適当に変えながら食事を摂り、一息つく。その間、外の驟雨は降り止まず、さらに強烈な紫色の稲光がきらめき始めた。
(イヴの晩くらい、きれいな星が見たかったなァ)
 頭の中で語った台詞が、何故か記憶にこびりついている。

 次の刹那、再び空に蛇のような光の亀裂が走り――。
 舞台で幕間に移る時のように。
 すべては一瞬にして暗転した。

 テレビの音が消え、換気扇も止まった。
 聞こえてくるのは地面を叩きつける雨音だけだ。
 自分の掌さえ見えない。

「やれやれ」
 彼はあっけにとられたようだったが、しかしながら特に困った様子でもなく、諦めて現状を受け容れた心理状態を思わせる飄々とした口調で呟く。既に食事を終えていた彼は、しゃがんだままの状態で手探りしつつ狭い部屋を歩き、窓辺に向かう。首尾良くカーテンの材質の布を探し当てると、右に引っ張る。
 向こうに見えるはずのマンションも、すべてが暗転している。
「やっぱりな」
 地域全体の停電であるようだった。独り暮らしなのでロウソクなどは用意していない。パソコンもテレビも使えないので情報は得られない。闇に紛れて見えないけれど、ラジオ付きのポータブルCD・MDプレイヤーは手近にあるはずだ。が、普段はコードをコンセントに繋いで聞いているため、電池は入っていない。

 再び、空が激烈に光った。その明かりは一瞬で消えてゆく。
 どうやらそれが最後の一撃だったようで、クリスマス・イヴの突然の嵐雨風は急激におさまっていった。やることがないので、彼は横になって携帯電話でメールを打ったが、何となくこの時間を無為に過ごすのが惜しくなったのだろうか――途中で指を止めて両脚を伸ばし、目を閉じた。すると雨音が遠ざかってゆくのが良く分かる。冬の空気が窓の隙間から染みこんでくる。
 地方を旅した時のような夜の暗さと静けさを、改めて感じる。

 風は相変わらず強かったが、それから十分も経過するかしないうちに雨は止んだ。カーテンの隙間、マンションの間に覗く僅かな空には普段には比較にならない無数の星が瞬いていた。
「おかあさーん、星が見えるよ、星!」
「翔太、風邪ひかないでよ!」
 どこかのベランダでの子供と母親のやりとりが辺りに響いた。それを聞いたのだろう、別の家でもベランダの戸を開ける音がした。雨粒が盛んに零れ落ち、木枯らしは高らかに叫んでいる。
 そしてさきほどの男の子も、大きな声で母親に尋ねている。
「サンタさん、見えるかなー?」
「そうねー、さっきの雷で遅れるわ。翔太はうちに入りなさい」
 どこかのベランダが閉まり、声は途切れた。独り暮らしの男は寝転がったまま頬を緩めた。未だ、聖夜の停電は続いている。

 ――と思うと、彼は急に立ち上がった。
 携帯電話のディスプレイを光らせながら、その弱い明かりを頼りに家の中を歩き、安物の細い食器棚に向かってワイングラスを取り出す。テーブルに戻ると、そのグラスを置き、帰りに買ってきたシャンパンの瓶の蓋を飛ばないように強く抑えつつ慎重に開けた。ポン、という間抜けな音がして、炭酸系の泡が浮かび上がる爽やかな調べが聞こえ、アルコールの匂いがする。
 彼はその瓶を無造作に傾けて、ワイングラスに注ぐ。暗くて少し目標がずれたが、小さなグラスはシャンパンで充たされた。

 そして何を思ったか、彼はまた立ち上がると、携帯電話のランプを頼りにベランダの方に向かって歩いていった。ワイングラスを左手に持ち替え、右手でベランダの鍵を開け、ガラス戸をスライドさせる。予想以上に冷え切った空気が襲いかかってきた。
「さみっ」
 彼はとりあえず身体を前に出して片足だけ、靴下のままベランダに下ろし、据え付けてあるエアコンの機材の上に持ってきたワイングラスを乗せて、いったんそそくさと家の中に戻った。
 上着を羽織って、前ボタンを閉め、完全装備で再登場する。

(意外と美味いな……)
 時折、グラスをかざして星の光を溶かしたりしながら、彼はアルコール度数の低いシャンペンを口に含み、軽く喉を濡らした。
 ちょっと派手すぎたが、まあクリスマスツリーの電球よりも強く光ったし、空のかなたからやってきたし、自分としてはちゃんとプレゼントは貰ったし、悪くないな――彼は身を切るような夜風を浴び、内側から温まってくるのを感じつつ、独り考えていた。
 今年のサンタクロースは、雷だったのかも知れない、と。

 こうして無駄な光がない方が本物のサンタクロースも来やすいのではないか、テレビの音がないほうがトナカイの鈴の音も聞き取れるのではないか。どうせならもう少しだけ停電が復旧しないで欲しい――彼は久々に非現実的で非生産的なことを考え、ベランダで残り少ないグラスの中身を傾けるのだった。

 クリスマス・イヴの夜。
 あなたの願いが届きますように――。

(おわり)
 


 12月23日○ 


[この濾紙は見えないけれど]

 この濾紙は見えないけれど、
 どこにでも、あるんだ。

 威勢のいい漁師みたいに荒くれた白波は、
 波打ち際に次々と打ち寄せて。
 海はうねり、しぶきが上がる。

 その海は限りなく続き、彩りは深い紺碧だ。

 冷え冷えと身を切り裂く潮風も。
 汚れているはずの淡水湖も、田んぼの水たまりも。
 空気までをも綺麗にして、遠くの山並みを見せてくれる。

 単純に、すみやかに。
 凛として、力強く――。
 わたしの心までをも、濾過してくれる。

 この濾紙は見えないけれど。
 今、ここにいるから。

 限りなく薄く、冴えて透明な、冬という名の濾紙が。

犬吠埼灯台より、君ヶ浜を俯瞰
 


 12月22日△ 


[闇鍋と目玉焼き(10)]

(前回)

「ふう」
 男は暖炉のそばの椅子に腰を下ろしていったんは休んだが、鋭い目つきは緩めず、じっと闇の一点を見つめている。睨んだり、敵意を剥き出しにしている訳ではなく、かといって呆然とすることもなく、何か難しい問題を真剣に検討しているかのような趣であった。彼はもう眠気を覚えてはいないようで、今度はそれほど時間がたたぬうちに立ち上がり、文句を言うのも面倒になったのかほとんど機械的に小瓶の蓋を開け、やや遠ざけながら傾け、水飴状の目映い輝きの一部が鍋に沈むと蓋を閉める。
 それはまさに彼自身がほのめかしたごとく〈手馴れの料理人が味付けする様子〉にどことなく似ているようだったが、帽子から長衣から、爪先の反り上がった靴まで黒ずくめの痩せた皺深い老人が行う動作は、どうしても妖しげな秘薬の抽出やら、極めて穢れている不吉な呪術の儀式のようなものを想起させた。
 彼の〈影〉は諦めたのか、たまに洩れる強烈な光から反射的に目を背けながらも、割合とおとなしく主人の真似をしている。

 さて最初の方こそ光の先陣部隊の進入を受けても闇色で塗り潰していた鍋の中身であったが、しだいに少しずつ間隔を詰めながら輝きの素を流し込んでくる老人の波状攻撃に、そのうち対応しきれなくなってくる。老人の方は見るからに本意ではなさそうだったが、仕事と割り切ってやる――そんな悲哀感が漂っており、黙々とこなしていた。最初のうちはほとんど気のせいだろうかと思えるほどだった鍋の色の変化も顕著になってくる。
 漆黒は、ほとんど黒に近い暗い藍鉄(あいかち)色を通り、濃藍(こあい)色、青褐(あおかち)色、紺色、紺青(こんじょう)色――と確実に変化を遂げ、全体的に黒から藍色を経て深い青へと塗り替えられてゆく。老人が鍋に流し込む光の水飴の量は衰えず、追い立てられる夜闇は敗色が濃厚になってきていた。


 12月21日− 


[寄り道、道草、草紅葉(前編)]

「ひゃほ、ほっ」
 何度も大きく口を開いて冬の午後の空気を出し入れし、涙目になりながらも吹かした芋を頬張っているのは、茶色に近い深みのある赤い髪の十六歳の少女、サホ・オッグレイムである。
 それほど厚手ではない、冬用というよりは秋物のような赤いロングコートを羽織っていたが、前のボタンはしっかりと締め、羊毛の手袋をしていた。学院帰りらしく、手提げ袋を持っている。
「うめえだろう? ほっくほくで」
 鉄の鍋を前に、歯並びの悪い歯を見せて笑ったのは、白髪の交じり始めている紺に近い黒の髪を短く刈った壮年の男だ。ここはズィートオーブ市の旧市街にある木の多い公園の一角で、道幅が広がっており石造りのベンチが多いこの一角では、ちょっとした露天商や簡単な食べ物を売っている者がたむろしていた。あまり治安は良くないが、物価は安く、食べ物は美味い。
「んー」
 頬張っていて喋れないサホはうなずいた。ようやく口を閉じた彼女は、奥まで火が通って柔らかい馬鈴薯を味わう。塩がかかっているだけの素朴な味付けだが、胃の中が温まり、それは鼓動とともに身体に伝わって、曇り空の下の寒さが幾分和らぐ。
「おいしかった〜」
 唾とともに最後のかけらを飲み込んでから幸せそうに相好を崩したサホは人差し指を一本立て、追加注文の合図をした。
「おじさん、もう一個!」

(続く?)
 


 12月20日△ 


[闇鍋と目玉焼き(9)]

(前回)

 可能な限り直接見ないように気をつけながら、目を背けて皺深い顔をさらにしかめ、老人は小瓶を傾けてゆく。すると、そこを起点として部屋全体に爽やかな明かりが強く渦巻いていった。
「軽薄な奴めが」
 呪詛を込めて輝きに呟いた男は、小瓶から上澄みの液体が二、三滴、闇を煮込んだ弱火の鍋の中にこぼれ落ちるのを聞いた。そのたびごとにジューッと音を立てて雫は弾け、溶けて消える。老人が言うところの〈味付け〉は、こうして始まったのだ。
「ここまで!」
 老人は素早く瓶の角度を戻し、慣れた手つきで確実に蓋を閉めた。水飴のようにとろりとして、微細な泡を固体と液体の合いの子の状態になっている光り輝く黄色の物体が出かかっていたが、それはゆっくりと底の方に引っ込んでいったようだった。
 闇鍋には全くと言っていいほど変化は見られない。どうやら調味料の一種であるらしい輝く小瓶は、男が蓋を閉じるとその光を内側に隠した。再び森の一軒家に夜の闇と静寂が訪れる。

 壁にぼんやりと映る老人の〈影〉は、明らかに反対側を向いてしゃがんでいる。暗くてどこにあるのか判然としないが、どうやら自らの瞳に当たる部分を手に相当する所で覆っているようだ。
「こりゃ、いつまで隠れとる。全く、あの朝の光……その名を口に出しとうもないが、あれの方が何倍も明るいというのに。光が強ければ強いほど、影は濃く確かになれるんじゃぞ? のう」
 すると〈影〉はすっかりうなだれ、抑えた恨みがましさを発散させながらも、色が薄くて大きな図体をのっそり起こしていった。
「光が嫌いとは……さすが、わしの影と言わねばならんな」
 天井から吊したランプの不思議に淡い朧な灯火を受けて、圧倒的に〈影〉よりも濃い黒ずくめの、存在感のある老人は溜め息混じりに呟くのであった。そして軽く舌打ちをすると、彼は再び強烈な光の蜜を詰め込んだ調味料の小瓶の蓋に手をかける。
「また味付けをやるぞ。いつもながら、やれやれ、じゃな」
 今度は親切にも〈影〉に忠告をした老人の、不気味さはいつしかだいぶ和らいでいた。夜の衰えとともに彼の神通力が鈍ったのだろうか。それともやはり、全ての根底に居座っていた〈闇〉そのものが、これから少しずつ溶けていこうとしているからか。

 彼は小瓶を傾け、その底を軽く叩いて、今度は光の水飴の一部を暖炉の鍋に流し込んだ。ひととき、森の一軒家を爽快な輝きが辺りを充たすが、それはまた闇の渦に飲み込まれてゆく。
 目の錯覚でなければ、長い時間をかけて弱火で煮込んだ漆黒の鍋に、どうやらほんの少しだけ、変化が生まれたようだ。
 じっくり見ても気がつかないほどの些細な変化ではあるものの、これまでは全く色の無かった鍋の中身の表面が、限りなく黒に近い群青色へと、短いけれども大きな一歩を踏み出した。


 12月19日− 


[月の光の糸電話]

 ――そうだリュア、ゆうべのお月さま、見た?
「ううん。きれいだったの?」
 ――寝る前だけど、カーテンの隙間がすっごく明るくて。
「いいな、ジーナちゃんのおうちは丘の途中にあって」
 ――んー。でも、確かリュアの部屋からも見えるんだよね?
「うん。だけど、わたしの部屋からだと、だいぶ上の方に上がってこないと、お月さまは見えないの。ゆうべは寒かったし……」
 ――気がつかなかったんだ。ちょっと、もったいないかも?
「夕方は雲がかかっていたから、諦めちゃった。どうだった?」
 ――真ん丸で明るくて大きかった。布団にくるまって見たよ。
「いいなぁ〜」
 ――リュアはほんと、お月さまが好きなんだね。
「うん。冬の夜は空気が澄んで、特にきれいだから……」



『し、師匠……聞こえますか?』
 砂浜に寄せる波を思い出させる〈ザー〉という雑音が重なっており、多少聞き取りにくくはあるのだが、それは確かに弟子のテッテの声だった。本やら薬品の瓶やらが詰め込まれた部屋の片隅の、薄暗いランプの下で、師匠のカーダ氏は胸を張る。
「よし、またもや発明は大成功じゃな!」
『ちょっと高くて、怖いです』
 テッテはカーダ師匠の発言を承けるわけではなく、一方的に報告をした。部屋に彼の姿は見えず、口調は不安げであった。
「しばらく、そのままで、何か話してみい」
 黒い皮で織られた分厚い上着に身をつつみ、歪みのある年季の入った眼鏡をかけている白髪のカーダ氏は掌に載せた白に近い淡い黄色の石に語りかけた。その艶やかな宝石は、膨らみ方や合わさり方、緩やかな曲線まで、まさに人間の唇の形をしている。小さいことと色が違っていることを除けば、それは人間の唇そのものであると断言できるほど精巧で似通っていた。
「……そうか、これは唇じゃったな」
 気難しそうなしかめっ面のまま、カーダ博士は窓辺に歩いてゆく。彼はその〈薄い黄色の唇の石〉を、軽く夜空にかざした。
「唇は喋り、耳は聞く。月の光の細く美しい糸が、両者を結ぶ」
 壮年からそろそろ老境に差しかかろうとしている師匠は、淡々とした口調ではあったが、その独り言の端々には甘い恋物語をでも語るかのようなうっとりした夢と浪漫と、発明の成功のひそかな自信と喜びを含んでいた。美味しいワインが無くとも、今夜のカーダ博士は、すでにだいぶ自分に酔っているようだった。

 と、その時である――。
 冬の夜の静寂(しじま)につつまれていた、人里からやや離れた丘の上の一軒家に、突如情けない叫び声が響くのだった。
『おっ、ああっ! 師匠、ぎゃぁー!』
 それは例の小さな唇から発せられた、弟子の悲鳴であった。
「ん? 馬鹿者、どうしたんじゃ? 何があ……」
 相手に聞こえないと分かってはいても、ついつい話し続けてしまったカーダ博士であったが、その言葉は突然に寸断される。
 バリバリバリッ――。
 奇妙な唇の形をした石から、何本もの木の枝が折れるような音が飛び出した。博士は反射的に腕を伸ばし、石を遠ざけた。
 それはあっという間に鎮まって、再び妙な静けさが訪れる。

「……何じゃ?」
 カーダ博士はまず丸く見開いた瞳をゆっくりと瞬きさせ、次の刹那には右手の掌に載せた唇の石を自分の耳元に近づけた。
 だが今や淡い黄金色の唇から洩れてくるのは、真っ暗闇の野原から森を駈け抜ける、外の冷え切った風の音だけであった。
「月が隠れたか?」
 師匠は窓に目を向けた。鬱蒼と生い茂る向こうの森の遙か上空に、今宵の冴えた十六夜(いざよい)の月が浮かんでいる。
「よもや失敗ではあるまいな……」
 何事もなく漂っている少し黄色がかった白銀の月を仰ぎ、カーダ博士は顔を曇らせた。晴れた天とは対照的な様子である。
 が、博士は邪念を振り払うかのように首を左右に動かした。
「そんなはずはない。わしの発明はいつも完璧なんじゃ!」

 ちょうどその時、再びテッテの声が例の唇から聞こえてきた。
『いててて……あ! 有った有った。良かった、見つかって』
 去りゆく秋に降り積もった落ち葉を踏みしめる音を響かせ――あの不思議な唇から聞こえてきたのだ――おそらく森の中にいる弟子のテッテは、ついうっかりと余計なことを口走り始めた。
『それにしても、何度見ても妙な、耳の形の石だなぁ。成功か失敗か分からないけど、師匠はこれ、一体どうやって売るつもりだろう。とてもじゃないけど、研究費の足しにはならないと思うな』

「馬鹿者めが、筒抜けじゃ! 全く成長しとらんな……」
 博士は思いきり顔をしかめ、口をへの字に曲げるのだった。



「それが、その時のひっかき傷?」
 カールした黄金色の髪が可愛らしいジーナは、驚き呆れたような、すっとんきょうな声で問うた。短い冬の日はすでに傾きつつあり、その光は僅かに橙色を帯びている。森に落ちた木の陰は斜めで長く、その代わりに光も奥の方まで差し込んでいる。
「ええ」
 長袖の服を腕まくりし、木の枝に引っかかれて赤くみみず腫れになった新しい傷を見せた青年は、恥ずかしそうに答えた。すぐに落ち着いた動作で服を伸ばし、薬を塗りつけた跡のある傷を隠した。眼鏡をかけ、やや痩せている彼こそがテッテだ。
 そして、その様子を覗き込んでいたのは、十歳に達するか達しないかくらいの、二人の少女であった。さきほどテッテに訊ねたジーナは興味深そうに青年の傷を眺めていたが、彼女の親友で銀の髪のリュアは、痛々しいみみず腫れから目を背けた。
「テッテお兄さん、かわいそう……」

 ぽつりと呟き、沈んでしまったリュアの心配を取り除こうとしたのだろう。テッテは切り株から立ち上がり、努めて明るく言う。
「大丈夫ですよ。師匠の実験での怪我は日常茶飯事ですから。それに、骨が折れたのならば大変ですが、傷くらいであればいい薬があるので、すぐに治りますし。落ちた僕も悪いんですよ」
 そう言いながら、テッテは後ろ頭をかく。すると好奇心が旺盛そうな青い海の色の瞳を輝かせ、背はリュアより低いけれども活発そうなジーナは、十五歳ほど年の離れた青年に告げた。
「テッテお兄さん、あたしが木登り教えようか?」
「ふふっ」
 夢みるように優しく澄んだ青い瞳を持つリュアは、少し気が楽になったのか清楚に微笑んだ。テッテはわざと飄々と語った。
「そうですねぇ、それがいいかも知れませんね〜」

 暖かい陽射しは急激に弱まりだし、コートを着込んで前のボタンを止めていても風が頬に沁みる。厚手の長ズボンをはいているリュアは、切り株に腰掛けたまま、いつか森で出会ってからすぐに仲良くなった紳士的な青年を仰ぎ、話の続きをせがむ。
「テッテお兄さん。結局、その発明品はどうなったの?」
「ええ。残念ですが、窓辺で眠っていますよ。耳と唇の一対で」
 カーダ博士の弟子であるテッテは、後ろ手に組んで軽くつま先立ちをし、冬の美味しい透明の空気を思いきり吸い込んだ。

 その時――。
「あっ!」
 にわかに叫び、見る見るうちに深い海の色の瞳をきらめかせたのはジーナだった。しばらくの間、彼女は友達の横の切り株に腰を据えて、珍しくじっと真剣な物思いにふけっていたのだ。
「えっ?」
「どうしましたか、ジーナさん?」
 驚いたリュアと不思議そうなテッテに構わず、ジーナは目にも留まらぬ速さで立ち上がると、まずはリュアの方を見下ろす。
「あたしたち、そろそろ帰るんだけど……」
 そこまで言ってから素早くテッテの方に向き直ったジーナは、軽く身を乗り出し、強い期待と願いを込めて頼むのであった。
「テッテお兄さん。もしよかったら、その発明品……お月さまの色をした耳と唇のセット、あたしとリュアに貸してくれない?」



 ある晩、家族との夕食と団欒を終えたリュアは、暖炉の温もりの届かない冷えた板の廊下を、小さなランプをかざして歩いていった。階段を登り、さらに登った三階に彼女の自室がある。
 もうすぐ学舎は冬休みになる。家族で行った公衆浴場でじっくりと身体の芯まで温まり、肩の辺りで切り揃えた銀の髪を充分に乾かしてから帰宅したが、それでも湯冷めしそうなほど外気は冷たかった。空には雲が多く、その流れはとても速かった。
 ドアの前で立ち止まると、ランプの明かりに浮かび上がる微かな吐息は白かった。リュアは部屋のドアを開け、中に入る。
 窓はもちろん、冬用の厚い生地で作られたお気に入りの水色のカーテンもきちんと引いてある。淡い光で明日の勉強道具を確認してから、ランプの空気弁を調整して机に置いた。油の匂いを漂わせて炎は痩せ細り、リュアは闇の海を手探りで進む。

 いつも通りにベッドを探し当て、羽織っていた上着と革靴を脱いだリュアは、そろりそろりと布団によじ登った。その冷たさに思わず手を引っ込めるが、無言のまま少女は膝で歩き、将来を見越したやや大きめのベッドを軋ませながら枕元に到達する。
 上着を脱いだので、しんしんと冬の夜が肌に迫ってくる。リュアは布団の端を持ち上げ、その中に身体を滑り込ませて、しばらくは冬眠する芋虫のように膝を曲げて身体を丸めた姿勢のまま、じっと動かずにいた――だんだんと息が苦しくなってくる。
「ぷはぁ〜」
 顔だけを布団から出したリュアは深呼吸をするのだが、空気の鋭さを改めて味わい、すぐに潜り込まざるを得ない状況だ。
 それでもしだいに体温が布団に伝わり、布団は体温を保ってくれる。リュアは右足を伸ばし、左足を伸ばし、腰を伸ばした。

 眠る体勢が出来つつあった、その頃に。
 聞こえてきたのだった――微かな高らかな鈴の音が。

 リュアは、能う限り素早く布団から顔を出し、耳を澄ませた。
 今度は顔の冷たさも気にならず、神経を聴覚に集中させる。
「……来た!」
 疑念と期待が確信に変わるまで、大した時間は要さない。
 リュアは布団類のすべてを引き寄せ、それにくるまったまま、ベッドの窓側に寄ってカーテンをめくり上げ、はやる気持ちを抑えて下から顔を差し込んだ。その間にも、さざ波のごとき雑音が少し混じっている高い鈴の音色は、高貴に玲瓏に鳴っている。
 今ごろ、リュアの家よりも若干、丘に近い方にあるジーナの家の誰もいないテラスでは、まるで天から零れる月の光そのものを思わせる淡い黄色の、不思議な耳の形をした艶やかな宝石が、右側の欠けた月の光を浴びてまたたいていることだろう。
 そのすぐ横にぶら下げてあるジーナのお気に入りの鈴は、強まってきた木枯らしを受けて、盛んに揺れ動いているはずだ。

 月の光の細くしなやかな糸を伝って、カーダ博士が作り上げた月光の力を秘めた発明品の、耳から唇へ音が伝わること。
 音は高いところから低い場所に伝わるので、弟子のテッテは実験のために木に登り、枝が折れて落下し、怪我をしたこと。
 月が好きなリュアのため、その道具を借りてくれたジーナ。

 一瞬のうちに様々なことを思い出し、その一つ一つに感謝しながら、リュアはそのまなざしを高く遠い空のかなたに運んだ。
 そこに待っていた雲から抜け出たばかりの月は、満月を過ぎて右側が少し欠けていたが、充分に明るく儚く花開き、見応えがあった。くすんだ窓ガラスの鼻の辺りにほど近い部分が息で曇るのも気にせず、リュアは大きな欠伸が出て視線が涙に霞むまで、大好きな冬の銀色の月の観察を堪能するのだった。
 リュアがベッドに横たわると、敷布はまた冷えている。月が雲隠れしたのか、机の上の唇から洩れる鈴の音は鳴りやんだ。
 外では木枯らしが吹きすさび、窓枠をカタカタ鳴らしている。

 やがて少女は緩やかに、今宵の夢の中へと堕ちていった。
 限りなく満足して安らいだ、天使の微笑みを浮かべて――。

(おわり)
 


 12月18日− 


[移りゆく季節の中で]

 青空の日は気分も晴れる
 布団には太陽の匂いが残っていた
 憂欝な曇りの日は初雪を望み
 冷たい雨の日には遠い春を想う

 木々を渡る風の声に
 ふと、足を止める
 耳を澄ませば
 そこは冴えた冬の音楽に充ちている

 冬のうたが聞こえる
 そして目には見えないけれど
 風は移りゆく季節の中で
 確実に衣替えをしている

 春は花の香りのワンピースを身軽にまとい
  夏は半袖の潮風と水しぶきでおしゃれする
   秋は赤や黄色の豊かで艶やかな服を着て
    冬は気高い銀の粉雪の腕輪を散りばめる

 風のように――
 それぞれの季節、それぞれの場面を楽しみ
 時間と空間を越えて
 どこまでも流れてゆきたい
 


 12月17日△ 


[闇鍋と目玉焼き(8)]

(前回)

 振り向いた老人の、血色の悪い肌色の皺深い横顔と、杖をつかむ掌だけが、朧に不吉に浮かび上った。天井から吊るされた蒲公英(たんぽぽ)色の明かりは微かにゆらぎつつ瞬いているが、やや弱まった感がある。どこか儚さを感じさせるその灯火の粒子を浴びても、先端に黒い珠がついている長い帽子と、やはり闇に溶け込んでいる影の色をした長衣は見えづらく、結果として老人の顔と掌だけが首の無い亡霊のように動いていた。
 辺りには古い油の匂いが漂っている。暖炉の弱火が燃えていても、部屋の空気は染み込んでくる冬の朝に浸されて冷たい。
「嫌な朝食じゃ」
 愚痴は言い飽きたけれど、なお言わずにはいられず、そして今となってはため息さえも出ないのだろうか――憤慨を通り越した諦めと、深く沈めた恨みの境地のようなものを何となく思わせる他意のありそうな言い方で、老人はぽつりと地味に独りごちた。気持ちを落ち着かせるかのように彼は一度瞳を閉じる。
 低血圧の若者が布団から這い出す時のごとく、いつものように繰り返される運命を受け容れたのだろう、男はすぐにまぶたを開いて意志の光をみなぎらせたが、それでいて妙に機械的で無表情だった。棚から取った調味料然とした小瓶を左手に持ったまま、その手を淡々とした仕草で長衣の内側に引っこめる。

 彼は落ち着いた足取りで、ゆっくりと歩みを進めていった。
 もちろん老人よりも遙かに大きくて色の薄い、壁に映った〈影〉も飄々と真似をする。明らかにさっきよりも緊張は解れている。
 やがて再び暖炉の傍に着いた奇怪な男は、棚から運んできた小瓶を持ち上げ、出来るだけ遠ざけながら蓋を回してゆく。
 ――突如として、鋭角の閃光が走った。
 闇や暗さや黒というものが支配する冬の夜の不気味な一軒家で、明らかに異質な輝きが、瓶の蓋の隙間からさらなる生息の場所を求めて洩れだしてきた。それは闇に生きる者たちの目を潰し、その存在を根底から揺るがしかねない、強烈なまばゆさであった。帽子や靴まで黒ずくめの男はわざとらしくむせた。
「エホッ、エホッ……」


 12月16日− 


[闇鍋と目玉焼き(7)]

(前回)

 おそらく数え切れぬほど長い年月を生きてきて、特殊な能力を持つ男は、魔法使いなのか、はたまた仙人とでも呼ぶべきなのか――そんな奇怪な者でも夢とうつつの境界線を彷徨うことがあるのだろうか。痩せた身体を漆黒の長衣で覆い、暖炉のそばの黒い丸椅子に腰掛けたまま軽くうなだれて、今や微かに寝息を立てている。実際に眠っているのかは判断がつかぬが、辺りの緊張感は男が目を閉じた時から、幾分緩んだ状態が続いている。老人の沈黙とともに、一軒家の内側は本来の夜が内包している特徴のうち、視界の利かない恐怖や寒さや妖しさが弱まり、良い部分――深い安らぎへと移り変わっていった。
 まだ朝の予感は東の空にさえ一握りほども現れぬ夜更けであるが、真に昏い外の森の様子や、獣の遠吠え、風のざわめきまでもが〈夜の仕事も交代まで残り半分を切った〉とでも言いたげに、目処が立ち始めた者に共通する内面の充実と期待、焦りとはやる気持ちのようなものが秘かに混じり始めている。
 峠というものは、確実に越えたと気づいたときは、実際にはだいぶ山を下っているものだ。それは夜についても、昼についても同じである。ただし夜明け前の冷え込みという観点で言えば、むしろこれから日の出までが最も厳しい時間帯になるのだが。

 軽くまぶたを閉じていただけと言わんばかりに男が迅速に瞳を開けるのと、しわがれた声で呟くのはほとんど同時だった。
「おっと、いけない」
 すると脚を組んで怠けていた老人の〈影〉は、反射的に形を取り繕い、その後は澄ましたように主人の動作の真似を始める。
 暖炉の弱火は、大きくなることも消えることもなく続いていた。薪は紅く染まりつつ、鍋底に限定的な熱のさざ波を送り込む。
「時間のかかる準備じゃな」
 老人が拳を結ぶと、頭の部分がこんがらがった糸のように曲がりくねっている古びた木製の杖の柄がいつの間にか握られている。彼は今一度、杖に体重をもたせかけて、難儀しながらゆっくりと立ち上がった。それから左側の窓辺に設えられた棚の方に向かって伸長に歩き出し、先が反り返って尖っている魔の靴で床板を鳴らし、進んでいった。壁には〈影〉が映っている。
「さてと、味付けじゃ」
 淡い微かなランプの明かりを背中に浴び、老人が黒いローブの内側から痩せた腕を棚の的確な場所へ伸ばし、その手につかんだのは――何かの液体が入っているらしい、掌におさまるくらいの高さと幅しかない、傍目には化粧品に見えるくらいの小瓶であった。彼は瓶の冷たさを手の触覚に感じ、耳元で軽く揺らして水音が聞こえるのを確認し、無表情のままうなずいた。


 12月15日− 


[大航海と外交界(18)]

(前回)

「何やるんだろう」
 想像もつかないような出来事を期待するような好奇心と、ほんの少しだけ気がかりという風な口調で言ったレフキルは、王女たちが話している甲板の中央付近に目を向けて、若干長い耳をわずかに伸ばした。しなやかな四肢と身軽さで〈怪盗〉と揶揄されたこともあるくらいの彼女は、商人見習いとしてさまざまな経験を積み、同年齢の少女たちと比べると度胸が据わっている。
「大丈夫かな」
 二人並ぶとやや背の低いウピは、むしろ不安げに口ごもる。
 先ほど友達になったばかりの彼女らは、船の囲いに背を預けて様子を見ることにした。夕暮れを感じさせる糸のような細い涼しさが、気持ちの良いミザリア海の空気に混じり始めている。

「あたしにだって、できるわ」
 負けず嫌いのおてんば王女は、背が高く若い船乗りたちを見上げ、胸を張る。どうやら心の中に火がついてしまったらしい。
 白を基調として紺のラインやアクセントを刺繍した爽やかで立派なミザリア国の船員服と、汚れの無い雲と同じ色をした新品の長ズボンは、何度見ても王女の雰囲気に良くなじんでいる。
 潮風にたなびく黄金の髪は麗しく豊かで、解き放たれた蒼の瞳は期待と喜びに溢れ、その横顔は凛として恐れを知らない。
(今の、心からの笑顔の方が絶対にいいな)
 ウピがいつか見た王家の絵の中で、ララシャ王女は清らかなドレスに身をつつみ、絵師が創り上げたと思われる偽物の可憐な微笑みを浮かべていたが、それに違和感を覚えたことを懐かしく思い出し――今こうして再び出会えたことの不思議さを噛みしめる。それも身分を越えた友達として、国からも公認されて。

「行くわよ!」
「おおっ」
 突如、当のララシャ王女の鋭い宣言が響き、若い船員たちからどよめきが起こって、感慨深く思いをめぐらしていたウピは我に返る。中年の船員は一瞬で顔から血の気が引き、叫んだ。
「ラ、ララシャ様、おやめください!」

「えっ?」
 次の瞬間――ウピは自分の両眼を疑うことになる。
「大変、止めなきゃ」
 やはり唖然とした表情だったレフキルは、一足先に状況を理解して冷静さを取り戻し、船の甲板の上を素早く駆け出した。
「何てことを……ララシャ王女、やめなよー!」
 ウピはその場で両手を口に当て、大声を張り上げた。
 マストの縄ばしごを軽快に登り始めていた姫君に向かって。


 12月14日− 


[闇鍋と目玉焼き(6)]

(前回)

 しばらくの間、年老いた男はじっと椅子に腰掛けていた。時折、炎が弾けるパチンという音がするものの、それ以外は森の一軒家は至って静かで、落ち着いた沈黙につつまれている。
 どうやら男の作業は準備はひと段落したようだった。深く複雑な皺が刻まれた顔の表情を幾分緩め、妖しく輝いている落ち窪んだ瞳を軽く閉じ、肩の力を抜いてうつむく。するとそれは池に落ちたひとしずくの波紋のごとく伝わり、辺りの緊張は緩やかにほぐれ、部屋の雰囲気に奇妙な安堵が混じりだす。ランプの輝きはわずかに弱まり、老人の〈影〉は思い切り伸びをした。
 もしもその時、目を閉じて微かな息を立てている老人に気づかれずに鍋を覗き見た者がいたとすれば――幾千、幾万、幾億もの光り輝く細かな宝石たちが、ほとんど止まっているかのような遅さで、それでも確実に周っていることに気がついただろう。
 冴えた彩りは永久(とわ)に続いてゆく鎮魂歌であり、優しいまばたきには、まだ見えぬ未来の不安と期待が入り混じる。

 鍋の中身を冷まそうとする冬の鋭い空気が絶えず入り込もうとしているが、それを相殺するだけの力を持った弱火の炎がちらちらと燃えている。艶やかな闇の表面には、もう泡は浮かばず、湖のように透き通っていた。ただ、鍋の中身の闇からいずる白っぽい湯気は、逆さにした滝か暖かくした粉雪のように上へ上へと拡散しながら進んで、少しずつ見えなくなるのだった。


 12月13日− 


[闇鍋と目玉焼き(5)]

(前回)

 腐敗した沼地を彷彿とさせる大きなあぶくはゆっくりと一定の速度で膨らみ、極限まで達すると重々しく割れた。その間隔がしだいに狭まり、幾つもの泡が繰り返し弾け、音を響かせる。
 鍋は熱くなり、炎は燃えはぜる。しんしんと冷え切った未明の時間の中で、ぬばたまの艶やかな黒髪のごとくに渦巻いている中身とは裏腹に、鍋は盛んに白い湯気をあげている。今はまだ本当に朝がやってくるとは信じられぬほどの森の深更だが、蒲公英色のランプの明かりを微かに浴びた湯気は、夜の真っ只中にありながら澄みきった透明な朝の靄を遠く予感させる。
 暖炉の傍に立ち、鴉色の長衣を身にまとった老人は、いつの間にか簡素な丸い椅子に腰掛けていた――闇を凝り固めたような黒い椅子だ。そして彼は柄の長いお玉を手に、具がなく香りはなく色さえもない鍋の中身を丹念にかき混ぜるのだった。
 赤く染まる薪はパチパチと鳴り、光と炎を吐き出している。闇鍋の泡は次から次へと膨らみ、弾けて、勢いは強まる。さっきまで静寂に覆われていた部屋の片隅は活き活きとしていた。

「もういいじゃろう」
 椅子に腰掛けていた老人は、手にしていたお玉を適当に放り投げる。するとそれは短い放物線を描いて飛び、地面に激突する寸前で、ふっと消えてしまった――完全に、跡形もなく。闇という引き出しから持ってきた調理道具を、返却したかのようだ。
「ちゃんとしまっておくんじゃぞ」
 ひどく年老いた皺だらけの男が、不吉な笑みを浮かべて釘を刺したのは、天井から吊されたランプの灯火に薄く伸びた、彼自身の〈影〉であった。老人が椅子に座ったままだったので、しばらく気を抜いていた〈影〉は、ビクッと背筋を伸ばしてすくみ上がり、暗闇の裏の世界で一時、慌ただしく奔走するのだった。
 それが落ち着く頃、男はまた絶妙なタイミングで指を鳴らす。

 パチン――。
 すると、暖炉の薪に目に見える変化が起こった。
 巻き上がる炎は収縮し、炭化した角材が紅く染まるだけになった。つまりは火加減が、強火から弱火に変わったのである。
 煮えたぎっていた鍋の中身の漆黒は、しだいに泡の盛り上がる速度が緩やかになった。そのうちに泡はとても小粒になり、それさえも迫り来る夜気に溶けて失われ、艶やかな風のように不思議な無限の透明感が増していった。そして光り輝く砂粒のごとく、金や銀や、青白かったり赤っぽかったりする微細な結晶が、漆黒の鍋の中に数えきれないほど浮かび、瞬いていた。


 12月12日− 


[弔いの契り(38)]

(前回)

 冷え冷えとした地下神殿は、死と生の倒錯した静かで不健全な狂気のようなものが漂っている。最深部に近づくにつれて、行き場が無く何十年もかけて静かに腐っていくだけの空気は、澱んでいるだけでなく、俺にでも分かるくらいの明白な〈穢れ〉を含んでいる。そして低い呪文の声と香草の匂いは強まっていく。
 四囲への警戒は怠らないが、やはり大勢の者が隠れているという感じはしない。シェリアの注意はあったが、あまりに静寂な空間では、敵の誰かが呟く呪術の祈りがつい聞こえてきてしまう。それを憂慮したんだろう――賢明な魔術師は、屋敷での火炎魔法と、今の照明魔法維持でただでさえ疲れているのにも関わらず、おそらく魔法関連の防御手段に疎い俺とルーグとタックのために、低い声で聖句のようなものを暗唱し始めた。
「聖守護神ユニラーダ様に祈ります……全てを塗りつぶす闇の中でさえ、一筋の光と希望を、心の中には勇気を与えたまえ」
 俺には見えない空間で、戦いは既に始まっているんだな。

 不吉な青白い光は、祭壇の上に淡くぼんやりと、人間の頭くらいの大きさで丸く輝いている。どうやら、かなり大きな水晶玉か何かのようだ。また見るからに不快感を覚える立像は、その表情――特に三つの目が邪悪に見開かれ、何とも背筋の凍りつくような寒気を感じた。どれもこれも、この街道沿いの農村には不釣り合いだ。確かにこんな妙な施設が領主の屋敷の地下に秘かに作られて、男爵や執事がおかしくなれば、村が急激に頽廃的な風潮に浸食されても無理はねえのかも知れねえな。
 男爵夫人が亡くなってからたった五年、されど五年間ってことか。一つの村が没落するには充分すぎる年月だったんだろう。

 そしてシェリアは、ついに足を止めた。
 これ以上先に進むのを躊躇わざるを得ない、とでも言いたげに、魔術師は冷たい汗を額に光らせ、正面を睨み据えている。
 正面には異常なほど横に長い数段の階段があり、その上は祭壇になっている。胸くその悪い、邪悪な蒼い光を見ていると、何故か吸い込まれそうな気がする。するとシェリアが呟いている聖句が耳の中に入ってきて、はっと気がつくという寸法だ。
 どうもこれは、生粋の剣使いである俺やルーグが未だかつて体験したことのない、魔法とか精神攻撃の絡んだ厄介な戦いになりそうだぜ。俺は蒼い光から目を逸らし、警戒心を強めた。
 俺はシェリアの右側に立ち、入口のごろつきどもを倒した時に拾った剣の柄を右手で握りしめる。シェリアの左側にいるタックも辺りにくまなく注意を払いながら身構え、シェリアの横にいたルーグは一歩だけ前進した。シェリアがさっきから何とか守り続けている照明魔法の珠の輝きを受けて、ルーグの黒い影は祭壇の階段に落ち、ジグザグに曲がっていた。濃い俺の影は右へ、相棒の影は左へ進み、真下にいるシェリアには影がない。
 ただ、それらの影――特に先頭のルーグのはうっすらと蒼い色に染まっていた。祭壇からの光が降り注ぐ地点まで、俺たちは来ているということが改めて分かり、ぞっとする。ここに仲間がいなかったら、俺は恐怖心に耐えられなかったことだろう。
 シェリアはうつむいて、気分が悪そうに手で口元を抑えた。その瞬間、また照明魔法が揺らぐ。だがすぐに首を振り、彼女は再び厳しい眼差しを取り戻し、祭壇の方を見据えるのだった。

「リンローナを返して貰おうか」
 度胸を据え、落ち着いた良く響く声でルーグが言った。その言葉はだだっ広い地下の空間に吸い込まれ、こだまするわけでもなく消えちまう。闇にでも食い荒らされてしまったかのように。
 返事はなかった。時間が止まったかのような腐った空間で、妙な没薬香草の匂いと微かな煙、対峙するシェリアの照明魔法の細かく明滅する白い明かり、自分の胸を締め付けるような鼓動だけが、刻を計る物差しになる。そういえば秋の夜空の冴えた満月は、だいぶ天の高みまで近づいた頃合いだろうか。
 その刹那、俺の身体は硬くなり、仲間たちに緊張が走った。
「邪魔立てをするな」
 青白い水晶玉の後ろ辺りから、嗄れた冷酷そうな声が聞こえたからだ。ついで靴音が響き、背の高い若い男が姿を現した。
 俺の頬が、耳が、胃のあたりが煮えくりかえって熱くなる。
 確かに相手の見た目は若く、背は高く、身体は頑丈そうだ。だが、彼の身をつつんでいる立派で高価な生地のタキシードは、内側から腐敗を始めたかのように時代遅れで古びている。
 奴の最大の特徴である、狂気の双眸は――血の赤い色だ。
「今宵、私の願いは成就するのだ」
 さっきダンスパーティーで聞いたのとは全く異なる、三十代の年齢にそぐわぬ老人めいた声で奴は言い、さらに付け加える。
「妻を弔う時に誓った、わが生を賭した〈弔いの契り〉がな!」

 むろん、奴はこの村の領主、事件の核心である男爵だった。


 12月11日○ 


[闇鍋と目玉焼き(4)]

(前回)

 パチン。
 老人が再び指を鳴らすと、少し遅れて確かな反応があった。燃え尽きたはずの炭化した樹の棒がみるみるうちに生気を取り戻したのだ。黒ずんで粉々になった角材は寄り集まって、昨日の昼間に伐ったばかりのような本来の幹の色へと還ってゆく。
「ほれ」
 パチン。
 時期を見計らってなされた黒ずくめの老人の指の合図とともに、部屋の隅に赤い色が生まれた。暖炉に炎が灯ったのだ。
 暖炉には底の丸い鉄鍋が吊されており、赤い舌を思わせる炎が鍋底を舐めるように伸長しては、また引っ込めるのだった。

 炎の子の燃えはぜる音が静寂の夜の中で響き、炭化は不規則に進行する。ひどくしわがれた声が不吉な笑い声を上げた。
「これぞ本当の闇鍋じゃよ、ヒョヒョッ」
 それからしばらくの間、彼は見えない椅子に体重をかけて立ち尽くしていた。湯気が吹き出す頃合いを見計らって蓋についている紐を引き、老人は鍋の蓋を持ち上げる。その時に彼が見たものは、盛んに泡を膨らませては沸騰する漆黒の闇だった。


 12月10日− 


[闇鍋と目玉焼き(3)]

(前回)

 男は慎重な足取りで、古めかしい彫刻の施された四角いテーブルを避け、吊り下げランプのほぼ真下を通り、暖炉の方に向かって歩いていった。灯火は老人の頬や額に刻まれた深い皺と、顎の右側に膨らむイボ、目の下の窪みを強調して照らす。
 下僕の〈影法師〉は老人がランプに近づくにつれて駆け足になり、色は濃くなった。それを越えてしまうと反対側に回り込む。
 灯火の色は一見、淡く儚く、優しく暖かそうなのにも関わらず――その裏側にはまるで鬼火を彷彿とさせる不気味さを伴っていた。ちらちらと妙にまたたきながら燃えているからだろうか、それは檻に囚われた動物の目のごとく、スキあらば抜け出して、大きくはびこりたいという野心を抑えているようにも思える。
 もしも森の一軒家に近づき、不吉な思いを抱きつつも助けを求めようと窓にカンテラをかざす迷い人が、カーテンの隙間から洩れいずる僅かなランプの光の妖しげに蠢動する気配に気づくことがあれば、そのとたん背筋の凍りつく思いをすることだろう。

 さて、その頃、部屋の中では――。
 腰の少し曲がった男は床の木の板をコツコツと革靴で踏みしめ、ゆったりとした一定のテンポで曲がりくねった杖をついて歩いていた。玄関の脇の衣文掛けで眠りについていた丈の長い黒のローブが、突然目を覚ましたかのように、コウモリを思わせるような形で軽々と宙に浮かんではためき、次の瞬間には目にも留まらぬ速さで老人のもとに舞い降り、一陣の風が吹いた。
 その刹那、老人は漆黒の長衣に覆われ、溶け合ったかのような状態になったが――僅かののち、男は上着を羽織っており、何事も無かったかのように靴を鳴らし、杖をついて歩いていた。
 やがて彼は煙突の下、暖炉のそばに到達し、足を止めた。


 12月 9日△ 


[闇鍋と目玉焼き(2)]

(前回)

 ランプの明かりが届くか届かないかの朧な境界線をまたぎ、部屋の片隅に置かれているベッドの枕元に、痩せていて血管が異様に浮き上がって見える皺だらけの二本の手が現れた。
 肌のひび割れたその手は、とても寝起きには見えない落ち着いた動作で上半身の布団を神経質に剥いだ。ついで、ひどく年老いて目だけを輝かせている一人の男がのっそり身を起こす。
 爪をランプの光にきらりと光らせ、軽く首を振りつつ呟いた。
「やれやれ」
 彼は柔らかな布地で編まれた漆黒の帽子をかぶっている。かなり長い帽子で、しだいに先は細くなり、その端には拳よりも少し小さいくらいの艶やかで謎めいた黒い珠が付けられていた。

 さて老人はベッドの脇に腰掛け、右脚を床に下ろそうとした。
 その寸前、さっきまで寝転がっていた黒い革靴――爪先が尻尾のように上向きに曲がり、先端は長く尖っており、見たところ何十年も使い込まれたようだ――が、さっと起き上がって、やはり痩せ細った男の足を従順に受け入れた。彼が腰を移動させ、後ろ手について左足を下ろせば、今度は逆の靴が従った。
 男はベッドに立てかけてある妙にクネクネと曲がった樹の杖を手に取る。彼が一つ一つの動作をするたびに、淡い輝きを受けて窓際にぼんやり映った薄く巨大な影も真似をして揺れ動く。
 だが、時折――口うるさい上司がいなくなって急に怠惰になる部下のように、動きを最後までやらず適当に済ませることがあった。面倒臭い、とでも言いたげな、やる気の無さを隠して。
「この馬鹿者めが。ちゃんと働かんと、消してしまうぞ」
 背後の出来事なのにも関わらず、老人はそちらの方向を見ようともしないまま目線だけをギョロリと横に動かして、吐き捨てるように言った。彼はベッドに左腕をついて身体を支え、足の裏に力を込めて右腕と杖に体重をかけ、難儀な様子でゆっくりと立ち上がる。ベッドは不気味に低く長い音を立ててきしんだ。
 少し腰の曲がった老人の、壁際に映るランプの光に揺らぐ影法師は、主人の厳しい一喝を受けてすくみ上がったようだ。今はもう、どこかぎこちない動作で相手を真似するだけであった。


 12月 8日△ 


[闇鍋と目玉焼き(1)]

(同傾向1)
(同傾向2)

 気温はいつしか零度の境界線を下回っていた。大地の水分は今まさに凍りつき、霜柱がゆっくり立ち上がろうとしている。
 森の奥は背の高い針葉樹に星明かりも阻まれた漆黒の世界で、ミミズクさえ深い眠りにつき、外気は鋭く冷え切っていた。
 いわゆる〈丑三つ時〉を過ぎ、夜の峠はもう越えたはずなのに、きたるべき森の朝は終わらない冬のごとく遠いものとして、闇の粒子がいよいよ自らの時間を謳歌している。何ものも動かず、何ものも見えず、ただ変化するのは甲高い北風の唸り声だけであった。微かに白く夜空に浮かぶちぎれ雲はあっという間に吹き飛び、凍える星はその度に金や銀の瞳を瞬きさせた。
 その森の奥に古びた一軒家があった。もちろん今はその姿さえ闇の海原に溶けて沈んでいるが、もしもこの夜、不幸にも道に迷って近づいた者がカンテラを掲げたならば、その窓は固く閉ざされ、厚いカーテンが下ろされていることに気づいただろう。

 やがて、真の闇につつまれた、その内側で――。
 部屋の片隅のベッドがきしみ、何かが動く気配があった。
 そして限りなく皺がれた声が低く発せられたのであった。
「そろそろ、時間よのゥ……」

 パチン。
 突如として、人知れず軽い音が弾けた。
 誰かが指を鳴らしたような乾いた響きだ。
 すると天井から針金で吊るされている古びたランプの輪郭が一瞬だけ鮮烈に輝き、すぐに元の闇に戻った。と思うと、その雷を思わせるきらめきがじわりじわりと内側に染みこんだかのように、ランプ全体がぼんやりした黄蘗(きはだ)色に点り始めた。


 12月 7日△ 


[吐息は雪の面影(後編)]

(前回)

 空気が凍りつくように張り詰めている朝、天に光は満ちているが、陽は昇ったばかりで地平線にほど近い場所にいるため、その姿は町中ではまだ見えない。やすりで磨かれたかのような真新しい空は澄み、細かな淡い雲がちらほらと浮かんでいる。
「あれ……」
 リンローナはゆっくりと腕を掲げ、手袋の右手で指さした。すると革靴の爪先で通りの石畳を打っていたケレンスや、珍しくも気持ちここにあらずといった感じで正面を呆然と眺めているタック、宿屋の扉を見つめてシェリアが来るのを待っていたルーグの男三人は、何となく彼女につられ、視線を高く持ち上げていった。
 後ろ髪を肩の辺りで切り揃えた聖術師のリンローナは、この朝にふさわしい爽やかで厳かな声の出し方と音量で、誰に言う訳でもなく見たままの感想を素直な言葉で表現するのだった。
「低いところの青空が、薄い水色になってるね……」
 そう言い終えた彼女の頬は若く瑞々しかった。横顔に柔らかで優しげな微笑を浮かべ、前髪を冷たい風になびかせ、空を映して瞬きをした薄緑色の瞳は二つの麗しい宝石を思わせる。

「あの雲、すげえな」
 ケレンスは東の低い方向を指差した。リンローナはすぐに、タックは少し遅れて、最後にルーグがやや慎重に視線を送った。
「おお」
 そのルーグでさえ、シェリアのことを一時忘れ、同じものは二度と見られない〈天のいたずら〉に引き込まれてゆくのだった。
「雲の船が……穴が開いてる?」
 リンローナはそう言って、歴史の深い通りの左右に建ち並ぶ切妻屋根の、その間から覗く東の空をあおいで額に手袋の右手をかざし、まぶしそうに目を細めた。眠気と疲れで明らかに気を抜いていたタックの目つきにも、普段の鋭さが戻り始める。
「これはこれは。んー」
 軽く伸びをし、暖かく濡れる瞳を感じつつ、彼は頬を緩めた。
「大した、絵になる風景ですね」

 東の空の低いところに横たわる白い雲の船には、リンローナが語ったごとく、あちこちに穴が開いているようだ。そこから洩れいずるのは、海の潮水ではなく、まばゆい光の筋道だった。
 見えない坂道を昇り始めたばかりの太陽が薄雲の船の後ろに入り、あまたの細い光の糸を垂らしている。それは蜘蛛の糸よりも長く、錦糸よりも光沢があるどころか自ら輝き渡り、木綿よりも強度があるように感じられた。しかも非常に幻想的な代物で、天から下ろされた段のない梯子(はしご)のように思えた。

「いいぞ、つかまれ〜って、攻める側は光の糸をつかんでさ」
 ケレンスがどこか得意げに一つの物語の断片を喋ると、その相手役を買って出たのは幼なじみで腐れ縁の相棒、タックだ。
「守る側は《ふさげ、ふさげ》と大声を張り上げ、そこいら中の雲をかき集めて、船の光の穴を埋めるのですが……分が悪い」
「うん」
 リンローナは話の続きに興味を示し、うなずく。だが、その結末はケレンスでもタックでもなく、空の風が語ってくれたのだ。
 白に近い水色の、まるで氷のような空に光が射し染めて――崩れた雲の船の幻想的な彫刻を照らし出す。風は容赦せず船を解体して霧散させ、光の道は確実なものへと成長を遂げる。

 強烈な輝きが広がってきたかと思うと――。
 ついに今日の朝陽が、その全貌を現した。
 長い夜を越えて現れた陽の暖かさと明るさに四人はしばし見とれて、そのまぶしさに目を限りなく細め、それぞれに満ち足りた表情で降り止まぬ光の雨を浴びていた。今日も昨日に引き続き、北の町は晴れそうだ。一昨日の短い雪は消え去った。
「ふぁ〜」
 リンローナが深く吐息を洩らせば、淡い煙が生まれる。そこには、儚く天に還った今年最初の微かな粉雪の面影があった。

「そういや、シェリアはまだかよ? 遅ぇな」
 ケレンスがはっと気がついて言うと、皆は一気に醒めた。
「様子、見てくるよ」
 リンローナはそう言って、ルーグに確認の視線を送る。背の高いリーダーは、今度はまっすぐにうなずいて、判断を下した。
「頼む。リンローナ」
「仕事は仕事だからな。遅刻はやべぇしな」
 ケレンスが軽い口調で言えば、ルーグは重々しく応えた。
「ああ、全くその通りだ」

 さて小走りに駆けていったリンローナが宿の扉を開けようと取っ手を握りかけた瞬間、何故かドアは勝手に遠ざかってゆく。
 そしてそこには――。
 毛糸の帽子を目深にかぶって、長い薄紫の髪に寝癖が残り、あまり目の開いていないシェリアが不機嫌そうに立っていた。
「お姉ちゃん、おはよー!」
 リンローナが元気に声をかけると、姉は呆れたように呟いた。
「なんで、朝からそんなにやる気満々なわけ?」

 シェリアは合流してもややうつむきがちで、五人の間にはぎくしゃくした空気が流れた。早起きの不愉快さを拭い去るのにはもう少しばかり刻を要するだろう。彼女はマフラーやらコートやらズボンやらと厳重装備をしているが、頬だけは仕方なく、手袋の両手を当てた。そして肩を僅かに震わせて低い声で言った。
「寒っ……」
「寒さで目が醒めるだろ? よぉし、行こうぜ〜!」
 北国の民の血が騒ぐのか、ケレンスはやけに陽気になり、足取りも軽く歩き始める。その影は西に落ち、細く、とても長い。
 ルーグは腕を伸ばし、他の三人に呼びかけて先を促した。
「さあ、行こう」
 少しずつ活気が出始めている道を五人は進んでいった。そして五つの白い吐息の煙も、朝もやの彼方へ遠ざかっていった。

(おわり)
 


 12月 6日△ 


[霧雨の奇跡(5)]

(前回)

「今夜の星、か……」
 初冬の空気に触れて冷たくなった百円玉を固く握りしめ、その固さと縁についているギザギザの痛みを感じながら、落合は溜め息混じりの小さな独り言をつぶやいた。その細い吐息が一筋の煙のように白く立ちのぼるが、空に触れることはできずに霧散して消えてゆくのだった。湿った空気に潤う頬は肌寒さで引き締まり、その奥を流れる自らの血液のぬくもりを感じられた。
「おい、いつまでそこにいるんだ、行くぞ」
 目覚めが悪い時を彷彿とさせるやり場の無い不愉快そうな口調で、だが幾分ほっとした様子で赤岩は言う。彼は素早く身体の向きを変え、双眼鏡から遠ざかる方向へ一番に歩き出した。

 華麗なバッグを持つ春めいた傘をさした女性は赤岩に合わせて立ち去ろうとしたが、その瞬間、もう一人の女性――黒地のロングスカートを穿き、ベージュのコートに身をつつみ、長く麗しい黒髪を良く梳いた後輩――にひそやかに呼び止められた。
「美加さん。あの子、髪の毛、濡れてなかったですね」
「あの子……って?」
 美加は思わず足を止めて、自分の耳を疑いつつ聞き返した。すると後輩の女性は、落ち着いた口調で、確信を込めて呟く。
「今の男の子ですよ。髪の毛、確かに乾いてましたよ」
「えー、マジで? 気づかなかったけど」
 大きな瞳を見開いて、少し顔をゆがめ、美加は驚いて言った。彼女は思わず立ち止まったが、赤岩は大股で霧雨の丘の公園を進んでゆく。困惑気味に彼の背中をちらりと目で追った直後、美加はふと反対の方に目を投じ、その視線は吸い込まれる。

「落合君、何してるの?」
 彼女は唖然とした表情になり、語尾を上げた。言葉は虚しく霧雨の斜線にうっすらと塗られてゆき、後には静寂だけが残る。
「落合君?」
 もう一人の渋めの色合いの傘をさしていた黒髪の女性は、先輩である美加の言葉を反復するかのように、心配そうに言う。
 歩き続けていた赤岩の足音が、ふと鳴り止む。彼の背の高い姿は、風の流れを的確に映す霧雨の膜の向こうにいて朧だ。

「……」
 落合はというと、紺の折り畳み傘を閉じて地面に置いた。それから腰を屈め、雨に濡れた有料双眼鏡の手前側を下に押して角度をつけ、子供が爪先立ちして空を覗くような位置と方向に調整した。斜めになった双眼鏡から水滴が垂れて料金箱にかかり、立派な双つのレンズに霧雨の細かな粒子が付着する。
 彼は双眼鏡を両手でつかんだまま、さらに重心を落としてゆっくりとしゃがみこみ、そのレンズに顔を近づけていくのだった。
 あっけにとられている美加の横で、渋い黄緑に花柄模様の傘をさした女性は落合の不可解な行動を不審そうに眺めつつも、ほとんど無意識のうちに一歩ずつ近づいてゆき、腕を軽く上方に伸ばし、彼の頭と双眼鏡が傘の恩恵に預かれるようにした。
「落合君」
 彼女が呼びかけても落合の反応はない。美加は瞬きをし、凍りついた表情で黙ったまま様子を見ている。灰色の霧のカーテンの遠くにたたずむ赤岩は大声を張り上げるわけでもなく、ただ他の三人がついてくるのをじっと待っているようだ。金色の髪と背の高い影がぼんやり霞んでいるのが微かに見分けられる。
 落合はというと、あまり力のなさそうなほっそりした腕で双眼鏡を支え、じっくりと微妙に動かしていった。時折止めては、再び動かす。彼が双眼鏡を覗いたのはせいぜい三十秒ほどの出来事だったが、二人の女性にはだいぶ長く感じられたようだ。

 回答は、落合が双眼鏡から両眼を静かに離し、顔をもたげるまで待たねばならなかった。彼の眼は、ずっと遠くに焦点が合っていた。黒髪の女性は、期待と不安の入り混じる声で問う。
「見えたの、落合君?」
 すると相手は応えずにまぶたを閉じ、懐かしい想い出をでも味わうように、感動を反芻するかのように頬を穏やかに緩めた。
 霧雨は音もなく降り続いている――冬空の風に乗って。

 それから青年は瞳を開いて、夢みるようなまなざしを周囲に広げ、おそらく同級生と思われる女性に微笑みかけるのだった。
「見えたよ」

 彼はごく短く語った。
 ありきたりな言い方の中に、今にも飛び出そうとする秘められた感情を何とか抑えつけているような印象を受けた。声は上擦っており、最初の報告としてはそれが精一杯だったのだろう。
 彼は微かに震える声で、こう付け足したのだった。
「宝石箱、だった」

 遠くで長い汽笛が鳴り、丘に響き渡る。春でも夏でも秋でも冬でも、時間や天候にかかわらず、港町には船が往来する。旅客に貨物、大型船から観光用の水上バスまで、用途は様々だ。
 落合はジーンズの湿った膝をはたいて立ち上がった。
 ぽかんとした表情をしている上級生の美加の横顔をちらりと横目で見てから、黒髪の女性は息をひそめて相手に訊ねる。
「……本当に?」
 落合が無言でうなずくと、女性は傘の柄を青年に手渡し、ブーツの脚にやや苦労しつつも中腰になった。そして双眼鏡を華奢な両手でつつみこむように押さえ、熱心に覗き込むのだった。

 やがて彼女は、心の内側から芽吹いたように見える満足そうな清らかな微笑みを浮かべ、音もなく立ち上がり、預けた傘を受け取った。落合も自らの紺色の折り畳み傘を拾い、出立の準備は整う。降り続く霧雨の中で、二人は美加の方に向き直る。
「優美。終わったの?」
 美加は小さな畏れを含んだ声を発し、後輩の女性に訊ねた。
「はい、終わりました」
 黒髪の優美が明るく言えば、落合も穏和な口調で報告した。
「終わりました」
「赤岩さーん」
 美加はすぐに振り向き、あらゆるものにしっとりとした潤いを与える霧雨を傘で弾きながら、公園の道を小走りに駆けてゆく。
「見れば良かったのに、美加さんも」
 白地に紫や赤や桃色の花が咲いている春めいた傘が霧の中で淡く溶けてゆくのを見ながら、落合はぽつりと言うのだった。
「しょうがないわよ。さあ、行きましょう」
 優美が歩き出し、その後を追うように落合が続く。霧雨はいつの間にか弱まり始めて、海にかかる雲の大陸は薄くなった。
 誰もいなくなった見晴台の双眼鏡は、やがて雨上がりの夕暮れの刻を迎え、こぼれ落ちる雫は紅い空と雲を映すのだろう。

 その夜――。
 雨は上がって雲は途切れ、澄んだ夜空が全貌を現した。落合は自宅のベランダから、昼間に双眼鏡で見た星空を改めて眺めていた。霧雨が見せてくれた清楚な奇跡を思い出しながら。

(おわり)
 


 12月 5日− 


[天の花園]

(関連作品)

 その花びらはほとんど透き通り
 終わらぬ晴天のもと、中天に輝く陽の光を浴びて
 真白き雲の大地から水を吸い
 蒼天の奥に隠された養分を集めて、成長を遂げる

 花には微かで可憐なものもあれば
 小さくとも力強いものがあり
 また花園の国を飲み込むほど大きな乱暴者たちもいる

 その種は気流の谷間で生まれ
 その芽は生命力を感じさせ
 その葉は流離いの旅人の刻印がなされている

 天の野原にいつも咲き誇っている、それらの花は
 生まれて、育ち、最後に弾ける
 大きさや形の異なる透明な花が破裂する時、
 たくさんの気流へと還ってゆく時に――

 空の高みから
 新しい風が生まれるのだ



(今日は、たくさんの〈風の花〉が散ったのでしょうか)

 暖炉のそばで古びた木の椅子に腰掛け、長いこと書物を読んでいたオーヴェルは、顎をちょっと上げて膝の上に本を置き、大きく伸びをした。首を左右に動かせば関節が鳴り、眠気が少し遠ざかる。彼女は金色の髪を暖炉の炎に照らされ、色白の頬をうっすらと橙に染めたまま、瞳をゆっくりと閉じて両眼を休めた。
 視覚を止めれば、そのぶん聴覚に神経が集まる。オーヴェルはサミス村を吹き抜ける外の風音に耳をすませて考えていた。

(だって、あんなに森の木々が……空が騒いでいるから)

 風が叫び、空が呼び、大地は雪に閉ざされる高原のサミス村を、天の花園で育まれた一陣の木枯らしは全力で通過する。

(冬場は〈風の花〉さえ、散ることが多いのでしょうね……)

 他の花と、風の強さを勘案して、オーヴェルはそのように考えた。そして書物を広げ、再び自分の世界へ没頭するのだった。
 


 12月 4日△ 


[霧雨の奇跡(4)]

(前回)

 すると子供はゆっくりと振り向いていった。
 周囲の音が消え、霧雨の一粒一粒が見分けられる。
 軽やかに舞いながらも、飛ぶ速さが遅くなったかのようだ。
 風の動きを的確に映して、右へ左へ、斜めへと動いて――。

 小学生に行く行かないくらいの男の子は完全に体の向きを変えて正面を見つめ、大きな瞳を瞬きさせて落合の掌を見、掌の中にあるくすんだ銀色の百円玉を見、それから相手の顔をあおいで、無表情のまま最後に再び相手の色白の掌を見つめた。
 次の瞬間、時が動き出し、傘の生地に触れて儚く消ゆる厳かで微かな霧雨の音が耳の奥の方からひっそりと聞こえ出す。
 はっと我に返った赤岩は、何か足元の低いところからやってくる妙な違和感にごくりと唾を飲み込んで、文句を言いかけた。
「おいお前、こんな薄汚いガキに何……」
「いらない」
 子供ははっきりと厳しい口調で言い放つ。声量は決して大きくなかったが、それは場の雰囲気を飲み込むのに充分だった。
 落合の顔は明らかに曇り、うつむきがちになる。追い打ちをかけるかのように、子供は雨に濡れながら明確な理由を述べた。
「知らない人からお金もらっちゃいけないもん」
「ぶ……」
 赤岩は吹き出しかけたが、子供を笑うべきなのか、落合を笑うべきなのか、それともこの状況自体を笑うべきなのか分からなかったのだろう。興醒めした様子で、憮然とした表情になる。
 二人の女性は黙ったまま、事の成り行きを見守っている。

 数秒間、誰も何一つ語らず、身動きさえしなかった。
 灰色の霧雨にけぶる、港を遠く見下ろす丘は人気が少ない。
 花壇の枯れた花も、春待つ藤棚も、白いオブジェも、整備された遊歩道も、しっとりと、それでいてどこか優雅に濡れていた。
「こんなところにいたの。行くわよー」
 突如、彼らの緊張感を切り裂いたのは良く響く婦人の声だった。思わず派手な方の女性が振り向き、それにつられてもう一人の女性も遠慮がちに首を曲げた。赤岩は軽く睨むかのように、体よりも先に眼球を動かし――落合はというと、ようやく所在なげだった掌を握りしめ、硬い表情のまま腕を引っ込めた。
「お母さーん、いま行く!」
 ようやく味方が現れ、溌剌と応えた子供は、雨に濡れた小道を今にも駆け出そうとした。だが、その前に紺色の折り畳み傘をさしている落合を見上げ、背中の方角にある双眼鏡を指さす。
「星が見えたよ。今夜の」
 他の三人にも聞こえるくらいの声で落合に言い残した男の子は、きびすを返して走り出す。落合の脇を通り過ぎ、赤岩と女性の間を全力で駈け抜け、霧雨の中で霞んでいる母親の元へと戻っていった。子供らしい不規則で騒がしい足音が響き渡る。
 男の子も姿も霧雨のカーテンの向こうに沈んでいった。足音は霞の中で反響し、遠いこだまとなり、掠れて消えていった。


 12月 3日− 


[吐息は雪の面影(中編)]

(前回)

 秋でさえ滅多に見かけられないほど空は冴え渡り、透き通っていた。高みは深い青で、低いところはごく薄い水色に塗られている。彩りの麗しい春、光あふれる夏、実りの秋を経て、青と水色と白の入り混じる季節が木枯らしとともに始まりを告げたのだ。冷たく厳しいけれども、飾り気がなく全てはあるがままとなり、また燃えはぜる炎や家族のぬくもりや心の暖かさがひときわ大切に感じられる、冬の神シオネスのしろしめす季節が。

 朝が強いはずのタックだが、旅の疲れが蓄積しているのだろうか、瞳の下にはうっすらと隈ができていて幾分眠たそうだった。レンズが抜け落ちたお気に入りの伊達眼鏡を外して茶色の両眼を手の甲でこすった後――艶やかな白い頬に赤みがさしていてその場にたたずんでいるリンローナの方に向き直った。
「この寒さは……もしかすると堪えるんじゃないですか?」
 タックは自分の考えを押し付けないよう、気を遣って言葉を選びつつ少女に訊ねた。彼とケレンスはここメラロール王国の出身だが、リンローナと彼女の姉のシェリア、そしてルーグはもっと温暖な地域にある南ルデリア共和国の出身だったからだ。
「うーん、まだ大丈夫だよ、ありがとう。鼻が染みるね、耳も」
 一瞬迷った後、リンローナは穏やかに応えた。彼女が唇を動かして喉を鳴らし、言葉を声に乗せて発音する度に、白い吐息がまるで魔法のように生まれて舞い上がり、儚くも消えてゆく。それには粉雪の面影があり、遠くない純白の宴を連想させた。

 北国出身の者にも今朝の冷え込みは厳しいようで、ケレンスはマフラーの中に首だけでなく顎や口まで隠し、両手をコートのポケットに埋めて言った。短めに刈った金の髪も寒そうである。
「姉貴はどーした? まだかよ?」
 お調子者のケレンスも今朝はだいぶ口数が減っていた。眠気はそれほどでも無いようだが、二つの目の視点は絡まらず呆然としている。身体を温めるためにせわしなく上下にかかとを動かし続けているのも、いつしか無意識に近い状態になっていた。
「そもそも、起きてらっしゃるんでしょうかね」
 タックは呆れたように、冷酷に言った。普段の穏和なポーカーフェイスとは違った一面を垣間見て、リンローナははっとした。
 その時、宿屋の二階の窓辺に設えられている小さな花壇に生えた紅い冬の花が風になびいた――家々の間を縫って降り注ぐ橙色の光を浴びていた花壇だ。ルーグの銀色の前髪はたなびき、皆のコートの裾を揺らした。北風の行列のお出ましだ。

「見て来ようか?」
 リンローナが申し訳なさそうに言い、きびすを返して黄土色の壁の宿屋に舞い戻ろうとした。すかさずその彼女を呼び止めたのは、リーダーで戦士、旅の仲間内では最年長のルーグだ。
「いや、もう少し待とう。起きてはいるんだろう?」
 難しい顔のルーグは腕組みをして唸り声を上げた。恋人であるシェリアの言動に時折手を焼いている彼は、他の仲間がいる時にはシェリアを甘やかしすぎることも、かといって叱りすぎることもしないよう努めているが――なかなか微妙な立場である。
「うん。お姉ちゃん、起きてはいたんだけど……」
 女性同士、一部屋に泊まっていたリンローナは口ごもった。

 その点、シェリアと利害関係のないケレンスは容赦しない。
「待たせんなよなァ、あの姉御。寒いのによォ」
 ケレンスの愚痴に対しどういう反応をすべきか困惑気味に立ち尽くしているルーグの代わりに――少しウエスタル方言の残る共通語で迅速に謝ったのは、草色の瞳のリンローナだった。
「ごめんね。やっぱり見てくるよ」
「まあ待てよ。リンが謝る必要はねえんだよ、リンは」
 ルーグの意向を反映し、ケレンスもリンローナを引き留める。するとルーグは少し考えが纏まったのか、毅然と語りかける。
「すまんな。もう少しだけ待ってみよう」
「あいよ」
 ルーグをリーダーとして――それだけでなく剣を扱う者としても買っているケレンスは、二つ返事で了承した。性格のかなり異なる二人は、互いに相手を立てようとする意識が働くらしい。
「わかった」
 リンローナもすぐに足を休め、再び朝の空をあおぐのだった。


 12月 2日− 


[霧のお届け物(14)]

(前回)

「この中に、何が入ってると思う?」
 シルキアは軽く顎を上げ、霧の詰まった瓶を両手でしっかりと支えて首の高さに持ち上げ、得意げに訊ねた。するとオーヴェルは座ったまま瞳を上目遣いに見開いて、楽しそうに応じた。
「さぁて、何でしょうね?」
 するとシルキアは急に思いついた遊びのルールを説明する。
「質問は〈三回まで〉だよ」
「面白くなってきたのだっ……ふぁ〜あ」
 話を聞いていた姉のファルナは座ったまま軽く身を乗り出し、独り言を洩らしたが、その末尾はあくび混じりになった。若き賢者のオーヴェルは椅子に腰掛けたまま、腕組みしてシルキアの持つ瓶にまなざしを向け、それからテーブルの食べ終えた食器を呆然と眺めつつ、小首をかしげて珍しい唸り声を上げた。
「うーん、三回ですか」

 外で響いている鳥の歌は早朝の頃の秩序が失われてきて雑然としている。木々の間を通り抜けてきた朝日は光の矢となって東の窓から家の中に入り込み、暖かくて明るい筋を描いた。
 強い風が吹き抜けると、木の葉は一斉に音を立てる。落ち葉の季節にはまだ多少時間がある初秋の山奥は、朝が発展して気温が上がり始めても、すがすがしい空気に満たされていた。
 森を駆け抜けた風がおさまると、シルキアは腕が疲れてきたのか、再び問題の瓶をテーブルに置いた。ことん、という焼き物に特有の重みのある音がする。うつむいて考え込んでいた賢者はにわかに顔を上げてシルキアの動作に注目し、耳をすます。
 しかし手がかりになりそうな響きは聞こえず、当ては外れた。
「さあ、オーヴェルさん。最初の質問は?」
 さっきまでの遠慮はどこへやら、シルキアは利発そうに口元を緩めて物怖じせず家の主に問うた。賢者はついに決断する。
「うーん、それじゃあ、これにしましょう」
 オーヴァンの娘の若き賢者オーヴェル・ナルセンは、客人の姉妹の顔を交互に覗き込みながら最初の質問を投げかけた。
「それは〈生き物〉かしら?」

「生き物?」
 予想外の質問に、シルキアは一瞬だけ息を飲んだが――すぐに謎を出している側の余裕を取り戻し、おすましして答えた。
「フフーン。生き物じゃないよ」
「でも、動くのだっ」
 そこで一言だけ補足したのは、早起きと朝食後の相乗効果で眠たそうだったファルナだ。シルキアは横を向いて姉を見つめ、唇に人差し指を当てて、わざと掠れた声で釘を刺すのだった。
「お姉ちゃーん、それって大ヒントだよーっ」


 12月 1日− 


[大航海と外交界(17)]

(前回)

「王女も楽しそうだね」
 レフキルがつぶやき、甲板の方を振り向いた。その隣に立っていたウピも、二つの眼の焦点を自然とおてんば姫に集める。
「うん、そうだねー。心から楽しんでるみたい」

 壮年の船長には海にまつわる色々な噂話や物語をせがんだり、休憩中の中年の船員を次に向かうモニモニ町や南ルデリア共和国について質問攻めにし、十五歳の王女とそれほど年齢の違わない若い船員からは海の上でのもっと実際的な生活の話を聞いたりしている。船員の服装で決めている王女は笑顔が絶えず、早くも自分の位置を確保し、いつも輪の中心にいる。
 王女にとっては久々の船旅であり、ミザリア国を離れるのはこれが初めてであった。四方を海に囲まれた小さな島国のこととて、御座船に乗ったことはあるし、幼い頃には珊瑚礁の砂浜で海水浴をしたこともあるが、近年はすっかり疎遠になっていた。
 王女が海から遠ざけられていたのは、主に警備上の理由である。それはララシャ王女を守るのも勿論であるが、王女が一般市民向けに開放された砂浜に闖入して騒動を起こさないようにすることも考慮に入れられていた。王室用のプライベートビーチもあるのだが、海が区切られているわけではない。ララシャ王女がつむじを曲げると、何をするか分からなかったからである。

「そんな怖いのォ? 信じらんないわねぇ」
 ララシャ王女があきれたような口調で言い、長いマストを見上げると、老いも若きも他の部署から今回の旅の護衛に抜擢された精鋭ぞろいの船員たちから、感心するような声が上がった。
「さすが噂に聞くララシャ様だ」
「大胆不敵で、素晴らしいっすな!」
「こんなお方は見たことがねえ!」
 すると二十歳くらいの若い船乗りが少し悔しそうに唇を噛みしめ、それから一歩前に出て現実感のある補足をするのだった。
「んー、マストに登ると、下から見るよりも予想以上に高いんで、初めて登ると驚きますよ。慣れればどうってことはないっすが」

 彼らのやりとりを遠巻きに眺めて、色々なことがあったこの半日の疲れを感じながら、ウピは新しい友達に訊ねるのだった。
「サンゴーンさんと、レイナは?」
「船室で本を読んでいるみたい。酔わなきゃいいけど」
 レフキルはしなやかな人差し指を伸ばして甲板を示し、肩をすくめた。人間と妖精の血を引くリィメル族のレフキルには両種族の特徴が出ており、肩や腰はほっそりとしているのだが、二の腕や脚や太ももは人間に近く、割ときれいに筋肉が付いている。リィメル族の中でもレフキルはかなりバランスの取れた身体をしており、軽快で運動能力は高く、貧相な印象は受けない。
「あの二人もあの二人で、お似合いみたいだね」
 ウピが呟き、くすっと小さく笑えば、レフキルは飄々と答える。
「そろそろサンゴーンあたり、出てくるんじゃないかな? 本を読んでいたら、目が回ってきましたわ〜、なんて言いながらね」
 嫌みではなく、子供のことを知り尽くした母親のような、落ち着いた穏やかな言い方だった。他方、ウピは周囲を見回した。
「でも、この船、思ったより揺れないよね。大きいから」

 その二人の会話は、ララシャ王女の甲高い声に寸断される。
「ちょっと、あたしやってみたいわ!」




前月 幻想断片 次月