2005年 3月

 
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2005年 3月の幻想断片です。

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  3月31日− 


[星降る午後(6)]

(前回)

 雲が開いて透き通った蒼に染まっている天からは、やみそうでやまない細かな雪が、まるで春の花びらのように、秋の落ち葉のように――風に乗って不規則にこぼれ落ちてくる。それは確かに、さっきまで冬空を駆けていた姿の見えぬ天使たちが、季節の渡り鳥としてどこか遠い場所へ越してゆく途中に落としていった、忘れ物のような淡く名残惜しい早春の雪であった。
「もうすぐだね、きっと」
 大地に両足を下ろし、落ち着いて語ったシルキアの目は細められ、一つの強い意思、期待――あるいは〈夢〉――を帯びて遠くを見やる。その瞳にはきっと赤や橙や黄色に塗り替えられた野原の斜面が映り、甘い香りを待ち焦がれているのだろう。
「うん」
 ファルナは小さくうなずき、冷たいガラスのかけらのようで、それでいて温かみさえ含んでいる光り輝く雪を見上げて立ち尽くした。午後の陽射しの中、それは新しい星空を形作っていた。

 煙突からは煙が立ちのぼり、一階の酒場の窓は薄く曇っている。そのそばに両親が立って、娘たちの様子を見守っていた。
 白く大きな淡い〈羽根〉が舞い降りてきたかと思うと、しばらくしてやんだり、再び曇り始めて雪が降ったりと、寒さと暖かさの交錯が続く。それはこの時期に非常に特徴的な現象だった。
「早く来ないかな」
 シルキアがぽつりと洩らす。それは村人の思いを代弁する。
 せめぎあう季節に、遠くない春を知る姉妹であった。

(おわり)
 


  3月30日− 


[星降る午後(5)]

(前回)

「気づいたのだっ?」
 半分だけ振り向いたファルナの横顔には無邪気な微笑みがこぼれていた。秘密がばれてしまった気恥ずかしさと、ついにそれを妹と共有できる楽しさ、また早春の風の厳しい冷たさで、若くつややかな柔らかい頬はほんのりと薄紅に染まっていた。
「天使の……羽根!」
 どこまでも尽きない広々とした大空を仰ぎ、愛嬌のある大きな瞳を何度も瞬きさせながら爪先立ちし、口を軽く開いて両手を後ろ手に組み、ほとんど無意識のうちにシルキアは叫んでいた。
 姉とよく似た琥珀色の髪の毛に、小さな白い光のかけらが舞い降りては、静かに消えてゆく。それは――幻ではなかった。

 冴え渡った青空から、光と氷の粉で作られた雪の宝石が次から次へとこぼれ落ちてくる。それは適度な間を置いて奏でられる一つの不思議な音楽の調べであり、瞳で感じ取る歌声だ。きらきらと輝く雪は、まるで真昼の星――銀の灯火とも思われた。サミス村では、青空に降る雪の名残を〈天使の羽根〉と呼んでいるのだった。それは枯れ草や木の枝、屋根や人々の肩に触れては、ほんのわずかな冷たさの記憶を残して溶けてゆく。
「早く教えてくれれば良かったのにぃ」
 素敵な天の贈り物から目を離さぬまま、妹が感嘆の溜め息混じりにつぶやくと、姉は優しげにはにかんで応えるのだった。
「ごめん。ほんとかどうか、確かめたかったんですよん」


  3月29日− 


[一風景(其の弐)]

「うーん……」
 明るい光に目をこすり、布団から顔を出す。
 そのとたん、冷たく湿った空気が肌に近づく。

 僕はあっという間に布団を持ち上げる。
 その弾みで足が出てしまい、思わず引っ込める。

 そのまま、さざ波のような浅い眠りを漂う。
 薄雲から顔を出しかかった太陽のように。
 風に乗って高く舞い上がったシャボン玉のように。

 ――あの桜のつぼみも、そんな感じなんだろうな。
 


  3月21日− 


[一風景]

「ほんと居眠りだなぁ」
「もっと強く、香りを流せば……」
「そうよ、きっと目覚めるわ」
「どうだかな」

 花たちが春風を介して話し合っている。
 まだ眠っている、背の高い樹を見上げて――。
 


  3月20日× 


(休載)
 


  3月19日△ 


(休載)
 


  3月18日○ 


[弥生幻影]

 姿の見えぬ、闇夜の垣根から

 突然に湧いてくる、甘くけだるい

 つつじの香り

 その、何と魅惑的な事か――


(朝の電車の学生が減り、夜になって街で見かける)

(コートの前ボタンを閉めずとも、寒くない)

(冬とは異なる、夜空の果ての星座たち)

(桜のつぼみは今、どうなっているだろうか?)



 紅の夕刻は夜に近づき、吹く風は艶めかしく

 そっと肩越しに振り返る時、刹那の幻影は街角に佇む
 


  3月17日− 


[星降る午後(4)]

(前回)

 雪を落としやすくするため、角度の急な切妻屋根が特徴的な村の家々が通りの反対側に並んでいる。はるか上にある雲の大地は、虫が脱皮をするかのごとく急速に割れて光がこぼれ、その後ろから真新しく清らかな、蒼い早春の空が覗いている。
 薄汚れてくたびれた雪が多く広がり、雪が溶けた場所からは荒地が覗いており、向こうの針葉樹の森は濃い緑の帯となって続いている。村のずっと東にそびえる〈中央山脈〉の銀の峰々は峻険で雄大で、見る者に畏怖の念を抱かせるのであった。

 姉のファルナは玄関から二、三歩進んだ場所に立ち、寒さを忘れた様子でうっとりと顔を斜めに上げて、天を仰いでいた。
「お姉ちゃん?」
 そう言って、傘の代わりになってくれる玄関の短い庇からシルキアが半歩だけ踏み出した時だった。彼女の靴の動きがゆっくりと止まり、その眼差しは自然と上に向かってゆくのだった。
「あっ」
 シルキアは頬をほころばせ、驚きと歓びの声を発した――。


  3月16日− 


[星降る午後(3)]

(前回)

「外は寒いぞ」
 父親が短く語りかけたが、その口調は娘の行動を否定する感じではなく、むしろ〈暖かい格好をして寒さに気をつけなさい〉という思いが込められており、優しく響いた。シルキアはお気に入りのコートの袖に素早く腕を通して、姉の厚手の上着を器用に三つ折りにして抱え込みながら、父の忠告に相づちを打った。
「うん」
 そしてドアが開いて閉まり、少女の後姿は見えなくなった。

 外に出ると、自然のままの午後の空気が若い頬を浸した。息が白く、飲み込むと肺が冷やされるのは冬と似ている。澄んだ空気は冴えていて、透き通った氷を思い出させる。それでも最も寒かった頃に比べれば、厳しさは確実に緩んでいる。大地と同じように、風の中にも春の芽は少しずつ混じっていて、それが心に触れるたび、次なる季節への憧れと強い希望とを育てる。
 雪はようやく陽のあたる場所で溶け始めているが、この時期は地面がぬかるんで歩きにくく、荷物を多く積んだ町の馬車は来ることができない。それでなくとも未だあちこちに雪が残っているし、特に峠は除雪されていない。町に繋がる街道を何とか進めるのは犬ぞりか馬ぞりだ。芽月(三月)半ばでもサミス村では大雪が珍しくなく、村人には〈戻り雪〉と呼ばれている。また気温が上昇するので雪崩(なだれ)にも注意する必要がある。

 さっきまでは晴れていたが、空は雲に覆われ――その雲もまた今ははや消え去ろうとしている。山の天気は変わりやすい。
 開かれた雲間からは、細くて淡い光の帯が降り注いでいた。


  3月15日− 


[星降る午後(2)]

(前回)

 三人の話をよそに、ファルナは彼女としては早足気味に部屋を横切り、寒さの厳しい冬場は中の暖かさを保つため二重のドアになっている玄関の方へと向かっていった。両親が顔をふと上げて娘の後姿を追い、妹のシルキアも顔を上げて訊ねた。
「どこ行くの? お姉ちゃん」
「ちょっとね、確かめたいのだっ」
 ――と言い残し、少し振り向いたファルナは不思議ないたずらっぽい微笑みを浮かべて、玄関に繋がるドアノブをひねった。
「変なお姉ちゃん」
 つぶやいたシルキアは、どこか落ち着かないような、気もそぞろな印象を受ける。立ち上がって窓に近づき、まずは姉が出ていった玄関の方を見つめ、それから曇り空をさっと見上げた。
「上着も羽織らないで、どこ行くのかしら」
 母が首をひねった。するとシルキアは振り返り、玄関へ続くドアの近くにある〈えもん掛け〉と、家族の上着類を視界に入れた。一瞬で決断したシルキアは、身軽に駆け出すのだった。
「あたし、届けてくる!」


  3月14日△ 


[星降る午後(1)]

「ふぅーっ」
 盛んに湯気を上げている温かいスープを息で冷まし、すすりながら、家族四人で作った小麦の焼き菓子を頬張っている。暖炉の薪は小さな音を立てて燃えはぜ、木造の建物の一階を占めている酒場は優しい色合いにつつまれている。今は開店前の午後のひとときで、一家の安らぎとくつろぎの刻限であった。
「曇ってきたね」
 窓を見つめ、そう言ったのは次女のシルキアだ。さっきまで晴れて明るかったというのに、いつの間にか空は灰色に覆われている。山に囲まれた辺境のサミス村で、天候は変わりやすい。

「うん」
 シルキアの姉のファルナも、何気なく窓の外に視線を送ったように見えたが――その優しい茶色の両目があふれる好奇心に見開かれ、瞬きを繰り返しつつ風景を凝視した。その間も父のソルディと母のスザーヌ、妹のシルキアは談笑を続けている。
「それは、なかなか難しいな」
「でもさぁ、お父さん。夏場だったら買ってもらえるかも知れないかな、って、あたし考えたんだ。避暑の貴族の方々なら……」
「最初はもちろん、少量でもいいと思うわ」
 母がシルキアの提案を手助けしている時――ファルナの耳は話を捉えておらず、瞳は未だに窓の外へ惹きつけられていた。簡素な木の椅子を引き、魅せられたかのように立ち上がる。
「あれは……」


  3月13日△ 


[扉と窓]

 こころの扉を閉めて

 どんどん閉めて

 あきらめて

 閉めて

 ――

 だけど

 光が無くなる前に

 新しい窓を開けたい

 一つでも多くの窓を開けたい

 どうにかして別の望みにたどり着きたい

 新しい輝きで部屋中をいっぱいに満たしたい
 


  3月12日○ 


(休載)

龍門の滝/烏山町(2005/03/12)
 


  3月11日− 


[わがまま]

 乾燥しない晴れた日は、最高
 雨の日は憂鬱だけど、水不足は駄目
 美味しいものを安く手に入れたい
 あちこち行って、しかもゆっくり休みたい

 夜は、明るすぎない方がいい
 けれど、暗すぎる夜には、やっぱり明かりが欲しくなる

 もちろん、明るいならば眠れないし――

 冬は優しいぬくもりを、
 夏には爽快な涼しさを
 雪が積もるのは好き
 だけど家が潰れるのは困る

 これって、わがままなのかしら?

 ――この傾向が正しいならば
 充たされたいと思っているうちは
 完全に充たされることは、きっと、ないんでしょうね
 


  3月10日− 


[大航海と外交界(26)]

(前回)

「ではレフキル、何か作戦はあるのか?」
 甲板長かそれに準ずる地位に就いていると思われる、レフキルが交渉役に選んだ壮年の船員は、手入れの行き届いた口髭を指先で横に撫でつつ訊ねた。両目は精悍な輝きを秘め、声は厳しくも、一方で〈新たな仕事仲間〉への信頼感に満ちている。
 それにはすぐに答えず、十六歳のリィメル族の少女は額に右の拳を載せて考えていたが、やがて上目遣いに相手を見た。
「……ある。断片的だけど、だんだんまとまってきたよ」
 レフキルの答えは声量こそ小さかったものの、その中には〈やり遂げる〉という、燃えるような強い意志が見え隠れしていた。
 そのすぐ横で、ウピは真面目な顔をし、淡い金の髪を潮風に微かに揺らしながら腕組みして立っていた。やはり今のところは口を挟むことなく、二人のやり取りを落ち着いて聞いている。
 サンゴーンはというと心配そうに瞳を曇らせていたが、彼女にとって参加することが難しい作戦会議になってくると、いつの間にか眠気が襲ってきたようで、何度も瞬きを繰り返していた。なお、ウピの親友のレイナは、いまだに船室から現れていない。

 マストの長い影が落ちている甲板は、全体的に黄色みを帯びていた。空は温かみのある彩りが少しずつ染み渡って、潮風は一層爽やかになる。ミザリア島からルデリア大陸へと、船は順風に乗り、王家の紋章の入った白い帆を張って進んでいる。
 ふいにレフキルは体の向きを変え、隣に立っている〈出会ったばかりの友〉を見つめた。二人の視線が合い、レフキルは卑屈でも傲慢でもなく、ごく自然な言い方で呼びかけるのだった。
「ウピ、頼みがあるの」
「何?」
 すると相手を安心させるかのように、ウピは柔らかな微笑みを浮かべ、少しだけ首を傾げて訊ねた。そのやり取りを見ていた船員たちは、二人は長い付き合いだと思ったことだろう――まとめる力や的確な判断力、勇気を持ち合わせたレフキルと、誰かの話を聞いたり相談に乗るのが得意で、機転が利き、バランス感覚と思いやりのある補佐役に適任のウピは馬が合った。
「あの……誰だっけ、侍女の人を呼んできてもらいらいんだ」
「えっと、マリージュさんだね。分かった。それから、他には?」
 ウピは二つ返事で了解し、慌てて行動するわけではなく逆に訊ねた。レフキルは少しほっとしたように肩の力を抜き、語る。
「ありがとう。今のところ、大丈夫だと思う」
 するとウピは右足を前に出し、走り出そうとしたが、その一歩目をすぐに下ろして、
「すぐ行った方がいいよね? で、来てもらったらどうする?」
 ウピが最終確認をすると、レフキルは恥ずかしそうに応える。
「あの人、マリージュさんだっけ……ララシャに慕われているみたいだったから、下りてきてもらうように交渉してもらえないかな、と思って。これって、作戦っていうほどじゃないんだけどね」
「わかった。待ってて!」
 ウピは後ろの方に手を振り、船室の入口を目指し、小柄な身体を躍動させて駆けだしていた。その背中に船員の声が届く。
「侍女なら、第二階層の奥の方に幾つか部屋が取ってあるぜ」
「ありがとう!」
 そしてウピの姿は、あっという間に船室へと消えていった。


  3月 9日− 


[刻まれる季節(とき)]

 朝の風は冷たかったが、太陽が照った日中はぐんぐん気温が上がり、外に出る時に今年初めて上着が要らなかった。湾に臨むデリシ町から外れた森の向こうの丘に霜は下りず、水は温み、枯れ草は新芽を吹いていた。つくしの子が顔を出し、ツツジが甘い香りを振りまいている。冬眠していた蛙は目を醒まし、もぐらが顔を出し、リスは樹を登り、ウサギは駈ける。蜜蜂が羽音を鳴らし、蟻が這いだし、蝶は舞い、清流を銀の小魚が走る。
「もう、まもなく春ですね」
 古びた一軒家の窓を開け、どこまでも続く庭の片隅に干した洗濯物と、その向こうに広がっている薄青の空、そして深い蒼色の海を遠く見つめて呟いたのは、二十四歳のテッテだった。
 彼の言葉には、長い冬を乗り越えたという純粋で感覚的な歓びと、再び温かさを取り戻した風や光への心からの尊敬と感謝が含まれ、眼鏡の中のまなざしは優しく満足げに緩められていた。しかしながら、彼の師匠であるカーダ氏の感想は異なる。
「若いのう」
 テッテよりも三十歳年上にあたる初老のカーダ博士は、弟子と同じように眼鏡をかけており、木の椅子に腰掛けたまま体重を後ろにかけた。冬ならば奥まで射し込んでいたが今や引き潮になってしまった午前の光を、少し恨めしげに見つめていた。
 振り向いたテッテは、困惑気味の間の抜けた返事をする。
「はあ」
 すると白髪の目立ち始めたカーダ氏は、見るからに気難しそうな皺深い額へさらに険しい皺を寄せて、確信を込めて語った。
「お前にも分かる時が来るじゃろう」
 窓辺に立っているテッテは、椅子に腰掛けた発明家のカーダ氏を見下ろし、何度も瞬きをした。すると博士は説明を加えた。
「春が来る方が、わしにとっては秋や冬よりもずっと切ないものじゃ。花や草や樹の芽が出るが、わしは古い傷がうずくんじゃ」
「……そうですか」
 気の利いた台詞が思いつかなかったテッテは、小さな溜め息をとともに相づちを打つ。そして自らの物思いに沈むのだった。
「理解しろとは言わん。そのうち分かることじゃ」
 カーダ博士は床の辺りに視線を落として、秘やかに呟いた。
 風がそよいで二人の髪を揺らし、机の上の紙片を動かした。

 その日に書かれた博士のメモに以下の殴り書きがあった。

 ――命の始まりは、また別の命の終わりが近いことを意味する。秋や冬はそれと同じ流れだから、むしろ賛同できるが、希望に満ちた春や情熱の夏はつらいのだ。あと何度、春を見ることが出来るのか。幾度でも見たいが永久に見ることは出来ぬ。

 季節は樹の年輪のように、今年もまた、人の心に刻まれる。
 これからも、きっと――。
 


  3月 8日− 


[鏡の向こう側(7)]

(前回)

 シルリナ王女が答えた後、部屋には静寂と冷え込みが染み渡っていった。時折、片隅の暖炉のパチパチ燃えはぜる音と、遠くなった冬空の風の笛しか聞こえず、足の指先の芯は内と外から温もりを奪われて凍えている――魂までもが震えている。
『ふふっ、ふふふっ』
 恐ろしく残忍で酷薄そうで、病的な雰囲気の混ざっている、聞くだけで背中に鳥肌が立ち嫌悪感を覚える笑い声が起こった。血色の悪い顔が闇に沈む壷の水に映り、口をゆがめている。

「答えてください。そうなのでしょう?」
 にわかに取り乱すことなく、あくまでも落ち着いて訊ねた本物の王女であったが――もしここに強い輝きがあれば、清らかな頬が青ざめ、唇や肩が微かに震えていたことが分かったろう。
『こんな時まで気取っちゃって。自分とさえ向き合えないの?』
 本物の王女の質問に答えることはなく、壷の中の〈もう一人の王女〉は厳しく問い詰めた。口調こそ強かったが、なぜかこれまでのやみくもに相手を蔑む様子と一線を画す心からの疑問を口にのぼせたようで、言った後は口を閉ざし、邪悪さをひそめた。
 その言葉は針のごとく胸を突き刺し、腹部を鈍器で叩かれたかのように重く堪えたのだろう――相手の顔を見下ろしていた本物のシルリナ王女は目を伏せてうなだれ、右手のこぶしをほっそりした首筋に当てる。どうやら息苦しさを感じているようだ。
「そんなこと……」
 と、かすれた声でいらえを返すのが精一杯のようだった。そこには一般参賀の際の優美な笑顔や、外交の舞台での華麗さ、宮廷での典雅さなどという仮面とは全くかけ離れた、ちっぽけな一人の人間としての十八歳の少女の苦悩が現れ出ていた。
 さて、薄暗い顔はぎこちなく口を開いたかと思うと、動揺する王女とは対照的に、実に真っ直ぐな声で答える。そのような点においても、壷の王女はまさに本物を投影した〈影〉であった。
『そう。私は、あなた。あなたの本性、あなた自身よ』


  3月 7日− 


[目覚め]

 花も草も 幹の色も
 いのちを奏でるよ 響き合い……

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 誰も知らない秘やかな野原の片隅に、桃色のつぼみがひとつ、ありました。その周りには、数えきれないほどたくさんの、それぞれ違った黄緑色をした丈の低い草が緩やかな斜面全体に広がっていて、その間には無数の桃色の花が咲いていて、ほのかな芳(かぐわ)しい香りを漂わせていました。ただ、そのたった一つのつぼみだけは、他のどの花とも違っていました。
 安らぎに充ちて、秋の雨のように優しく降り注ぐ春の光は、分け隔てなく野原に舞い降りてきます。草も花も、そして大地も、空気を吸い込むかのように輝きの流れを汲み、飲んでいます。
 新しい季節は、緩やかにそよ吹く風さえも温めていました。

 その中で、細い手足を伸ばし、動き出すものがありました。
「ん、ん……」
 毛虫でも、ダンゴムシでも、油虫でもありません。蜘蛛でも、蟻でも、ヤゴでも、蝶でもありません。けれども翼はあります。
 桃色のつぼみだと思っていたものは同じ色の髪の毛でした。また、花の〈がく〉に見えた白い部分は、可憐なスカートです。
「ふあぁ?」
 草の間で大きな目をこすりながら、折れてしまいそうな細い両脚でゆっくりと立ち上がったのは、この草原の花の精でした。
「ふーっんー」
 手のひらに載ってしまうほど小さな妖精はまた大きく伸びをして、それから背中の四枚の羽根を、練習がてら動かしました。
 空の小鳥たちの唄が、ぼんやりとした表情と夢みるような眼差しで立っている少女の頭の中を少しずつ起こしてゆきます。

「もう、朝なんだ。春なんだわ!」
 両手を輝かしい天に掲げ、身体の底からの感動を込めて、小さな花の妖精は叫びました。とびきりの、弾けるような笑顔で。
 次の瞬間、彼女は羽ばたいていました。あまり上手な飛び方ではありませんでしたが、思ったまま、自由に空を駈けます。
 暖かな光は透き通ったカーテンのように流れ、揺れました。光の回廊をめぐり、花の精はまだ眠っているつぼみを起こしました。その中のいくつかは、彼女と同じ花の精なのです。赤や白や、黄色や、紫や……色とりどりの花の精が羽ばたきます。
 もうあの子は一人ではありません。そして、あの子の姿は大勢の中に紛れ、見失ってしまいました。一人一人の髪の色や髪型やスカートの異なる花の精は、小鳥と戯れたり、蜜蜂にご馳走したり、香を焚いたり――それぞれの春を謳歌しました。
 それは何とも心の和む、いのちの始まりの風景なのです。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 どうか、この光景を
 いつまでも見ることができますように

 


  3月 6日△ 


[うた]

 名も知らぬ小鳥たちが唄い
 木洩れ日はちらちらと謡う

 湧き水の透き通ったせせらぎが歌えば
 森の王者の獣らは謳い、吠える

 夜になると、銀の星は微かに詠い
 どこまでも世界を駈ける風は唱う

 それらの全てが、不思議の森のハーモニー
 


  3月 5日△ 


[傘]


 そう、あの子はとても変わった子だった。

 この魔術師の村に生まれたのに、なかなか空を飛べなくて。

 心無い婆さんから、落ちこぼれって後ろ指をさされたっけ。



 そんなあの子のが一目惚れしたのが、あの傘だった。

 壊れて、ぼろぼろになって、骨も見えてる、あの傘。

 捨てようと思って、雨ざらしにしておいたのだけど。



『これがいい。お母さん、僕、これ使うよ』

 あの子ははっきりとそう言ったわ。

 そして……落ちこぼれと壊れた傘は、一緒に浮上したの。



 最初見た時は、どうやって乗るのかとハラハラしたけど。

 だって、普通の魔術師は箒(ほうき)に乗るんだから。

 でも、あの子は普通じゃなかった。もちろん、いい方にね。



 あの子は傘を乗りこなして、村一番の風の乗り手になった。



 今では、この村であの子を知らない者はいない。

 ちゃんと箒に乗り、あんな立派に働いてる姿を見ると……。

 う〜ん……なんだか泣けて来ちゃうわね。



 え? 親ばか?

 そんなの分かってるつもりよ。でも、たまにはいいじゃない。

 とにかく、この傘は、うちでは大事な大事な宝物なのよ。



2005/03/05
 


  3月 4日− 


[軌跡]

 行き止まりにぶつかったならば。

 振り出しに戻って考え直したって、構わないと思います。

 ここが行き止まりということが分かっただけでも――。

 完全な〈振り出し〉ということは成立しないはずですからね。


軌跡(2005/03/04)
 


  3月 3日△ 


[脱出]

 気がつくと、僕は真っ暗な地下にいた。
 時折、上の方から水がしたたり落ちてくる。
 息苦しくないのは救いだが、真っ暗で何もわからない。

 僕は毎日出口を求め、四方八方へ腕を伸ばした。
 硬い石に頭をぶつけ、足を擦り傷だらけにした。
 それでも、何とかしてここから抜け出したかった。

 土の隙間を見つけられると、泣きたくなるほど嬉しかった。
 そう言う時、僕は夢中で腕を伸ばし、大地を掘った。
 僕は水で喉の乾きを癒し、腹が減ると土をかじった。

 あまりに何も見えなくて、脱出を諦めかけた日もあった。
 水が少ない日が続くと、このまま死ぬかも、と覚悟した。
 今までの努力は全て無駄に思え、出口はないように思った。

 それでも――。
 僕の身体の奥から生命力や活力がこんこんと流れていた。
 まだ生きたい、死にたくない、という気持ちが勝っていた。

 僕は再び僅かな水で飢えを凌ぎ、少しだけ元気を取り戻す。
 それから脱出口を捜し、顔を泥だらけにして腕を伸ばした。
 水がやってくる場所が上だと信じ、僕は身をよじった。

 ある日、突如として、明らかに土の質に変化が現れ始めた。
 天井が軟らかくなり、掘り進む速度が増してきたのだ。
 まだ何も見えないけれども、ほんのりと温もりをも感じる。

 そこで僕は、渾身の力を込めて背伸びをした。
 ふいに抵抗が無くなり、頭に爽やかな空気の流れを感じた。
 目を開けていられないほどの輝かしい光が照らしている。

 脱出した。
 僕は勝ったんだ。
 最後まで諦めず、積み重ねた努力は無駄にならなかった。

 涙雨だろうか、僕の視界は降り注ぐ水でかすんでゆく――。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 幼稚園の水色のスモックを着た可菜絵はさっと立ち上がる。
 そして空になったじょうろを胸に抱き、全力で駆けだした。
「せんせー、芽が出たよー!」

 仔猫が居眠りをする、うららかな春の日の出来事であった。
 


  3月 2日△ 


[雪の積もりし朝(5)]

(前回)

「びよう、かぁ……」
 まだ十五歳のリンローナは、いくらかの憧れを込めて呟き、斜め上の空を見上げて目を細める。姉のシェリアも十九歳と充分に若いのだが、彼女は顎を出し、少しつっけんどんに語った。
「あんたもそのうち分かるわよ」
「うん」
 同年代の中では無垢で初(うぶ)な部類に属する――と言っても過言ではないリンローナは、神妙そうにうなずくのだった。
 冷え切った朝の空気は心地よく、思いきり吸い込めば、森で湧き出す美味しい清水を飲んだ時と同じように、身体の奥底まで涼やかに爽やかに生まれ変わる。その感覚は、身体を育てる土壌である心や魂にまで、ずっと深く浸透してゆくのだった。

 さて白い大地は綺麗ではあったが、朝食の後はきつい雪かきの仕事が待っている。少し現実に戻ったシェリアは薄紫の前髪を掻き上げて腕組みし、改めて辺りを検分するように眺める。
「それにしても、これじゃ大変ね……きりがないわ」
「でも、この前に比べたら、まだ少なそうな気がするなぁ」
 リンローナはやんわりと意見を述べる。この前は大雪に見舞われたメラロール市の雪かきをしたのだった。

「……っしゅん。そろそろ行きましょ」
 冷えてきたのか、姉のシェリアがくしゃみをした。ここを出て、しばらく畑に沿って進めば、すぐに大きな安宿が見えるはずだ。そこに仲間たちが待っており、ちょうど朝食の頃合いであろう。
 雫の宝石と神殿を思わせる氷柱(つらら)、まぶしい太陽のきらめきや白く染められた畑の遠景に名残惜ししそうな眼差しを送り、明らかに後ろ髪を引かれている雰囲気だったリンローナだが――思いを振り切ったのか、にわかに顔を上げて同意し、温かさの残る腹部をコートの上からゆっくりと撫でるのだった。
「そうだね。おなか減ってきたよ……」
 こぼれ落ちてくる水滴には、青空と遠い山並みが映っている。遙かな谷間を蛇行して流れるのは、青い空を映す河だろうか。
 今日は良い天候に恵まれそうだ。しっとりと湿った雪解け水の音楽は、湯治の村のあちらこちらで重層的に響き渡るはずだ。

 雫の合間を縫って、若い姉妹は庇の傘を抜け出した。それから仲間の待つ宿を目指し、新しい雪道を歩き始めるのだった。

(おわり)
 


  3月 1日△ 


[春への架け橋]

「あの雲の向こうは、春なんだよ」
 自分の向こうにいる〈自分の春〉が手を振った。

 雲の手が延びてきて、冬から春への架け橋をつくる。
 何もかもが透き通る季節は終わり、混沌の霞がかかる。

 私の心はいま、あの橋のどの辺りにいるのだろう。
 それはきっと渡りきるまで分からないのだけど――。

 夕日に照り映える雲が赤く染まる、夕暮れのことだ。
 空のそばに腰掛けて、私はそんなことを考えていた。
 




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