2005年 4月

 
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2005年 4月の幻想断片です。

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  4月30日○ 


[春の便り]

 振り返ること半月――四月半ばのことである。最果てのマツケ町は、さすがに雪の姿は通りから消えたものの、ようやく春と呼べる季節が始まったばかりの頃だった。日によっては、曇り空の下で急激に気温が下がり、淡い白雪が舞うこともあった。

「おっ、これ菜の花っすよね。師匠、これどうしたんすか?」
 古びた木造の宿泊所の、窓際に置いてあった舶来の陶磁器の白い鉢植えを指さし、長い黒髪を後ろで無造作に結わえた十九歳のユイランが訊ねた。そこには見慣れた黄色の花が活けられていた――春本番を告げる鮮やかな黄色の菜の花である。
「もう咲いてるもんなんですかね?」
 まだマツケ町では、どこにも菜の花は咲いていない。
 普通は花壇や畑に咲く菜の花がわざわざ数本まとめられて、しかも陶磁器にきちんと活けられているのも、ユイランの興味を惹いた。彼女は格闘家であり、今は試合を控えてマツケ町に泊まっていたが、やはり女性である。古い大部屋の中、菜の花の咲いている窓際だけが上品に浮き上がって見えたのだった。

菜の花と藤の花(2005/04/30)

「いや、お嬢がもらってきてくれたんだよ。なあ、お嬢?」
 師匠――といっても、まだ二十六歳と若いセリュイーナ女史は、髪はやはり黒髪族らしい闇の色をした、背が高く大柄で度胸の据わった女性だ。師匠は、部屋の片隅で荷物の整理をしていた〈お嬢〉こと、弟子のメイザを、良く通る大声で呼んだ。
「はあい?」
 急に呼ばれたメイザは、鞄の中を探っていた手を休めて顔を上げ、速やかに立ち上がった。育ちの良さそうな穏やかな瞳を持ち、動きやすいズボンよりもドレスの方が似合いそうな顔立ちと、しなやかな体つきをしている。けれども彼女とて鍛錬を積んだ格闘家――試合ともなれば、漆黒の瞳は燃え上がるのだ。

 メイザは立ち上がると、まずは師匠を見つめ、それから窓際に立っている後輩のユイランを見た。ユイランは鉢植えを示した。
「これって〈お嬢さん〉が貰ったんすか?」
「うん、ユイちゃん。うちの親戚がね、船便で送ってくれたの」
 人によっては自慢に聞こえる可能性もある言葉だが、メイザの語りには嫌みがなかった。彼女の穏和な人柄ゆえだろう。
「船便って……どうやって?」
 ユイランは訊ねつつ、再び目線を菜の花に向けた。そしてメイザの返事を待たずに、一足早い〈春〉の感想を呟くのだった。
「きれいっすよねぇ、これ……」
「そう。喜んでもらえて、よかった〜」
 左右に可愛らしいえくぼを浮かべ、メイザは人の好さそうな笑顔になった。そして焦らず、ゆったりと説明を始めるのだった。

「わたし、前に外国に住んでたことがあって……」
「知ってますよ。デリシ町、でしたっけ?」
 早く知りたいユイランが話を引き取り、先を促すと、そばにいて二人のやりとりを聞いていたセリュイーナ師匠が軽く咎めた。
「まあ、ユイ。まずはお嬢の話を聞いてやれよ」
「へい、すんません。で、お嬢さん?」
 ユイランは素直に謝った後、すぐにメイザへと向き直った。
 さて特に気にした様子はないメイザだったが、まずはセリュイーナへ丁寧に謝辞を述べた後、再び話の続きをするのだった。
「お師匠様、大丈夫です、ありがとうございます。それでね、ユイちゃん……その帰りに都を通ったのだけれど、都でね……」
 彼女の言うところの都とは、公都センティリーバ町である。

 メイザは懐かしそうに、少し遠くを見つめる眼差しになった。
 ユイランは立ったままうなずき、育ちの良いメイザは続ける。
「都にも親戚の方がいるのだけれど、あちらの方がここより南でしょう。わたしが菜の花を気に入っていたら、次の年に咲いたばかりの菜の花を船便で送ってくれて……向こうで咲いたばかりだと、船がこちらに着く頃にはきれいな状態になっているの」
「へぇ〜。それで今年も?」
 ユイランが感心して訊ねると、相手は首を真っ直ぐに振った。
「うん、それから毎年送ってくださるの」
「人徳だねぇ」
 しみじみと呟いたのはセリュイーナ師匠だ。窓際の鉢植えの春らしい黄色に視線を集めて、思わず目を細めるのだった。
「お、お師匠様。そんなことありませんよ」
 恥ずかしさで頬を染めたメイザは、ユイランに冷やかされる。
「〈お嬢〉さん、真っ昼間からお酒飲んだんじゃないの〜?」
「もう、ユイちゃんったら〜」
 メイザが困惑気味に声をあげると、出発の準備をしていた同じ部屋の他の仲間からも、温かでさっぱりした笑い声が起きた。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 古びた宿泊所の隙間風に、窓際の黄色の花びらが揺れる。
 試合が終わり、窓際の花が枯れ、彼女たちがマツケ町を離れる日が来ても――その頃にはきっと、菜の花はもっと身近なものになっていることだろう。畑で、家の庭で、街角の花屋で。
「これは、春の便りだから……」
 遠い国から海を渡って届けられた菜の花を目線の高さで見つめ、頬杖をつき、立て膝の体勢のメイザは愛おしそうに語った。薄雲の切れ間から暖かな陽が射し込み、窓辺に降り注いだ。
 そして二人は他の仲間たちとともに外へ出て、まだ冬の名残の残る空気を切り裂いて走り、直前に迫った格闘の試合に向けて最後の調整に励むのだった。春はもう、始まっている――。

(おわり)
 



(休載)
 

(休載)
 


  4月27日△ 


[新緑]

 森の木々が鮮やかな翠(みどり)に萌えています。午後の光はまぶしく、暑いくらいです。芽吹きの季節は既に遠ざかり、今やあちらこちらにお花が咲き、葉っぱが盛んな頃です。不思議に飛び回る白い蝶々や、お花を廻る蜜蜂の姿が目立ちます。
 街路樹の緑のトンネルでは木洩れ日がちらちらと瞬いて、まるで夜空に輝くお星様です。光の角度によって公園の噴水は色とりどりにきらめき、虹の宝石で着飾ったアーチのようです。

 日陰の風は涼しく、ポニーテールの黒い前髪を微かに揺らして通り過ぎます。小学二年生の麻里は、幹に背中を預けて、軽く瞳(め)を閉じました。豊かで安心する、木の匂いがします。
「うーん……気持ちいいなあ」
 目を閉じても、木洩れ日がちらちら瞬くのが分かります。

 しばらくその場で幹に寄りかかったままじっとしていたのですが、ふいに麻里の靴下のあたりを、何か柔らかいものが触れました。麻里は驚いてまぶたを開け、足元に視線を送りました。
「えっ?」
 すると幹の後ろから顔を出したのは、首輪をはめた大柄の猫でした。飼い猫のようで、茶色の毛並みがとてもきれいです。猫はしっぽを伸ばして、人なつっこく、麻里にすりつけてきます。
「こんにちは。よしよし」

 春にしては珍しく、深い青の空の日曜日でした。昼間は長くなり、時間は穏やかに流れます。夜になれば、きっと桃色の山桜は街灯に浮かび上がり、淡い空にはきら星が輝くのでしょう。
 猫は土の上を優雅に歩き、樹の幹を器用に越え、麻里の足元を行ったり来たりしています。横には蟻の行列が続きます。
「よしよーし、いい子だね」
 麻里は幹から移動せず、しゃがんで猫を撫でていましたが、少し声が大きすぎたようです。麻里はまだ気がついていませんでしたが、幹の後ろに少女の靴が現れ、次に顔が出ました。
「麻里ちゃん、みーっけ」
「あーっ!」
 立ち上がって、あわてて振り返ると、かくれんぼの鬼の可菜絵(かなえ)が嬉しそうに笑って立っていました。茶色の猫は急に素っ気なくなり、知らんぷりして、気ままに歩き出しました。
「見つかっちゃった」
 麻里はちょっと恥ずかしそうに笑いました。
 また涼しい風が公園の日陰を吹き抜けました。二人は他の友達がどこに隠れているかを捜しに、土の道を、あるいは砂利道や雑草の草原を、新緑の木の下を、並んで駆けるのでした。
 



(休載)
 


  4月25日− 


[美しき森の奥を、言の葉に変えて]

 森の小道の涯ては、広々とした静けさの後ろに溢れるばかりの〈いのちの賑わい〉を潜めている。細い幾筋もの光が、空の高みから森の屋根の梢を縫って降り注いでいた。透き通ったせせらぎが速やかにこぼれる滝のそばには、七色の子供の虹がかかり、辺りにうっすらと雪のような白い霧をふりまいていた。
 あるがままに優しい水音が響き、川魚は爽やかに駈け抜けて、虫は草と草の間を渡り、山鳥たちの歌声と羽音が重なる。
 風は澄み、水は絶えず小さな滝壺に注ぎ、さざ波を立てる。きのこは育ち、岩と石に苔はめぐり、草と木の匂いがしていた。

 その滝の脇に、ほとんど真上からやってくる光を受けて、宝の石のごとく、おぼろに七色の花が浮かび上がっていた。くきは枝分かれし、滝の虹で染めたかのように、七つのくきの先にそれぞれの色――赤、橙、黄色、緑、水色、青、紫――のささやかな花が咲いている。そして花びらを優しく撫でる風を受けて、時折、それぞれの花の彩りは入れ替わることもあるのだった。

 朝方、森に投げかけられる生まれたての光が斜めの頃、目を醒ましたばかりの七色の花が首(こうべ)を少し垂れると、うっすらと花の色に染まった雫がこぼれる。それは滝壺に落ちて、銀の衣をまとい、水底(みなぞこ)で宝の石へと変わるのだった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「ふーん。その花が、この森の奥にあるの?」
「この森かは分からないけれど……森は繋がっている。いつかきっと、どこかで出会えるような気がするわ。信じていれば」

 水汲みの母と娘が、村外れを流れる河の水に木桶を浸した。汲んだ水の中に、小さな青と紫の花びらが混じっていて――。
 


  4月24日△ 


[めぐり来る日々]

 きのうからほとんど進んでいないと思う時は
 立ち止まり、下を覗いてごらん
 きっと、昔歩いてきた道が見えるはずだよ

 大丈夫
 この山登りも、いつか峠が来るから――
 

奥出雲おろちループ橋(2004/08/14)
 


  4月23日△ 


[空の紫水晶(アメジスト)]

 車窓の果てが紫水晶(アメジスト)だった夕刻、
 空には妖艶な赤紫と、神秘の青紫とが染み込んでいた。
 あれは秋の紅葉にはない色だと、
 遠ざかる小さな西の空を見上げて、ふと思った。

 青と濃い赤、橙の線が、雲とともに流れている。

 空に髪の毛を浸して、まばゆい川面を思い出して――。
 その間も、列車は走り、時間と距離は離れていった。
 駅に降り立つ頃、空の紫水晶は既に失われているだろう。

 この風景は、心に刻もう。
 


  4月22日− 


[砂浜の花園(3)]

(前回)

 幾つもの環礁に彩られた遠浅の渚を行き来し、水の中の森をゆく風となって、心臓の鼓動に似た悠久のリズムを刻む波のさざめき――そして海の向こうの国からの秘かな想いをささやかに運んでくるようにも思われる汐の香りとともに、うららかな南国の朝はごく緩やかに進行してゆく。岩場はそれほど多くは見当たらず、白砂が続き、鼻をつく磯の匂いは弱い。くちばしの長い海鳥は、町を抜けてきた小川が海に注ぐ付近に降り立ち、それぞれ微妙に高さや声質の異なる独特の深い声で啼いていた。

(続く?)
 


  4月21日△ 


[砂浜の花園(2)]

(前回)

「不思議だよね……この匂いに気づくなんて」
 降り注ぐ暖かな陽射しを浴びて表情を和らげ、再び歩き出したレフキルは、そう言って前を向いたまま深くうなずいた。驚きよりも、感心したような様子だった。他方、サンゴーンはというと、こちらは神妙そうな顔つきになって、海のかなたに目を向けた。
「良く分からないですけど、気づくんですわ」
 彼女もレフキルと同様、白い砂浜に草履で足跡を描きながら進んでいたが、ふいに立ち止まり、どこか不安そうに訊ねた。
「変ですの?」
「そんなことないよ」
 すぐに振り向いたレフキルの言葉は、強さと優しさとに充ちていて、まろやかに響いた。サンゴーンにとっては、長々とした冗長な説明よりも、きっぱりとした友のその一言で充分だった。

 泣き笑いのような表情で、サンゴーンは唇を開き、呟いた。
「ありがとう……ですわ」
「どういたしまして。さあ、行こ」
 レフキルはしなやかな右腕を掲げ、先を示した。風が砂を舞い上がらせ、白と蒼の交錯する波を揺らし、天の雲を飛ばした。
「ほら、だんだん近づいてきたよ。花たちの甘い香りが……」
 もう一度、レフキルは瞳を閉じて手を後ろ手に組み、心持ち背伸びをして空気の匂いを嗅いだ。辺りは美しい海岸線が続いているが、花園の姿はない。それでも花の香りは強まっていた。


  4月20日− 


[砂浜の花園(1)]

 かなり高く昇っている朝の太陽は充分に暖かく、空気は爽やかさを保っていても陽射しはまぶしい。星の名残はとうに消え、砂浜には不思議に不規則な波が寄せ、寄せては返している。

河原子海水浴場(2005/04/09)

 やや長い耳を明るく霞む天へ伸ばし、薄水色の長袖シャツを腕まくりして少女が立ち止まると、足元で目の細かな白砂がこぼれた。彼女はまぶしそうに額に手を当て、ほんの少し上を見て潮風の匂いを嗅いだ。青のスパッツで強調される太腿や腰回りは、十六歳のレフキルの若さと、無理に運動はしていないけれども自然と引き締まった身体を誇らしげに証明していた。
 辺りの明るさは分かるくらいにうっすらと瞳(め)を閉じて、まぶたを震わせ、それから眼(まなこ)を開く。妖精族の血を引く者に特徴的である森の深緑の瞳と、うっすら緑がかった銀の髪の少女は軽くうなずいて、すぐ隣にいる親友に語りかけるのだった。
「うん。確かに香ってくるね……」

 イラッサ町の海辺をゆく、いつもの潮風とはどこか違う――。
 それに最初に気づいたのは、レフキルの友達のサンゴーンだった。レフキルと雑談をしながら、きっちり半歩遅れてついてきていたサンゴーンは、突然駈け抜けた気まぐれな強い風に、両手で優雅なカナリヤ色のスカート――茶色の糸で花や木々の刺繍が施されている――の裾の前後を押さえたが、無防備だった薄青に近い銀の後ろ髪はさらりと生き物のように舞った。
「ハイですの」
 彼女は落ち着いた口調で、友達の言葉に相づちを打った。
 その表情はやや硬かったが、不安よりも、これから起こることに対する秘かな期待が込められており、艶やかな唇は緩く閉じられていた。その間も、奇妙な〈香り〉は微かに流れていた。
 誰もいない砂浜は、白い砂が朝の光にまばゆい。波の上では輝きの子供らが、ちらちらと軽いステップで飛び回っていた。


  4月19日− 


[まばゆい潮流]

 光の海を泳いで
 花の島を越えて
 白い船員服に身をつつんだ
 蝶の船頭たちはどこへゆくの?

 ――きっと、どこへも行かない
 まばゆい潮流に乗って
 どこかへ行ったふりをしながら
 気まぐれに春の航海を愉しんでいるだけさ
 


  4月18日− 


[春夜幻影]

 春の夕暮れ
 夜の眠気
 幻の雨
 影の月

 ひっそりと降りしきる
 不思議と神秘の粉は
 どこか似ている

 この春の夜に溶けてゆく
 微かな花の匂いとともに
 


  4月17日△ 


[菜の花の季節]

「そっか。今って〈菜の花の季節〉だったんだ」
 アキコが言った。あたしは首をかしげた。
「は?」

 アパートとアパートの間には、残り少なくなったけど畑があって――お爺さんと、その息子らしい男の人が行き来してる。
 で、その一角に、春らしい鮮やかな黄色に菜の花が咲いてる。たくさんの紋白蝶が舞い飛んで、周りはコンクリートの道の中、そこだけ強く太陽が土を照らしてるみたいな感じがした。

「だってさ、菜の花なんて見たの、久しぶりだから」
 そう言って、アキコはどこか嬉しそうに――そして何故か、どこか哀しそうに微笑った。アキコはもっと都会の街に住んでる。

 菜の花は春の指標、ってのはみんな知ってるはずだけど。でも、菜の花自体を見つけられなきゃ、指標にはならないよね。
 確かに町に出るのは遠いけど、季節感では得してるのかな。アキコをあたしんちに案内しながら、そんなことを考えていた。
 


  4月16日△ 


[春風]

 黄色の花びらが、風に舞っていた。
 気まぐれで強く、やや埃っぽい風の影響を直に受けて、その軌跡を描くかのごとくに、黄色の花びらは軽々と飛んでいた。
 それを受けて、少女の長いぬばたまの黒髪と、ベージュに白と赤のラインのチェック模様のスカートの裾が揺れ動いている。
 強い陽の光を真正面から受け止め、右手を掲げて眼を細め、汗ばんだ額をそのままに、少女は風の中を突っ切っていった。
 



(休載)
 

(休載)
 


  4月13日− 


[いつかの夜(1)]

「いまさら、何を悩んでるんだ? それが……」
 ケレンスは立ち止まり、とても落ち着いた声で語りかけた。続きの言葉を何か言いかけたが、思い直したのか口をつぐむ。一方、ルーグはテーブルに両肘をつき、頭を抱えたままの姿勢でじっとしていた。ランプの淡い明かりにぼんやり浮かぶ戦士の広い背中が、ケレンスの話が終わった瞬間、ぴくりと動いた。
 窓の外は安らぎの闇に満ち、深い静寂(しじま)につつまれていた。目が馴れてくると、微かな星明りに木々の枝が見える。

 ルーグの答えはなかった。表情は分からずとも、どれほど苦悩しているのか、仕草や背中の雰囲気から痛いほど伝わる。
 ケレンスは慌てずに腕組みしたまま待っていた。やがてルーグは首を起こし、降り積もった雪を身体全体で受け止めているかのような重い動作で後ろを振り返り、乱れた髪もそのままに後ろを振り返った。その瞳は憔悴しきっていたが、彼は気丈にも返事をした。だが、それはひどく曖昧で心許ないものだった。
「ああ」

(続く?)
 


  4月12日− 


[穏やかに]

 月の光の糸を紡いで
 雨の模様を織り込んだら
 桃色の花柄を刺繍する

 そうして出来た帽子をかぶり
 足取り軽く
 顔をあげて
 気持ちを大きく
 穏やかに全てを受け入れて
 爽やかに
 春の町を歩こう
 


  4月11日△ 


[新生]

「綺麗ね、誰に見せるわけでもないのに……」
 地元の人々の手入れがなされた花壇の前に立ち、鮮やかな赤や黄の花の絨毯を見つめていたシェリアが感心したように呟いた。埃っぽい乾いた気まぐれな風が吹き、彼女の薄紫の長い後ろ髪を揺らし、薄手の上着の裾をはためかせる。暖かい光の下、夢へいざなう甘い芳香が漂って、彼女は軽く瞳を閉じた。

「お姉ちゃん、あたし、こう思うんだけど……」
 すると後ろから、草色の髪の妹のリンローナが顔を出した。
「お花さんたちは、あたしたちに晴れ姿を見せてる気がする」

 また挨拶でもするかのように風が流れて、花びらが舞った。
 水たまりの上で、白い雲と薄い霞のかかった蒼い空が輝く。
「そうかも知れないわね」
 後ろを向き、妹と目を合わせた姉のシェリアがふっと息を吐き、口元を緩めて応えると、リンローナも微笑み返すのだった。
「うん」

 この季節は皆を有るべき姿に――気持ちを穏やかに、爽やかに、優しくしてくれる。もう一度、誰もが新鮮に生まれ変わる。
 


  4月10日△ 


[始まりの季節]

 白いものが目の前をかすめた

 少し前なら雪だけど
 今日は桜の花びらだった

 花壇には紫や黄色の花が咲いている

 こうして夢と幻の交錯する〈始まりの季節〉は
 あっという間に過ぎ去ってゆくんだね
 


  4月 9日− 


[空虚]

 荷物のない家
 動物のいない森

 そして、誰もいない駅

 哀しいとか、そういう単純な感情じゃなくて――

 今となっては心地よささえ伝わってくるような深い疲れと
 まだやれるのにという恨み節と
 やりきれなさと
 抵抗の終結と
 切なさと
 安堵と

 本来あるべき場所が、がらんとして
 何もないのは――

 人がいたところに
 人がいないのは――

 きっと、その場所の心が失われたんだね

 それはもう戻らない過去の昔話になって
 追憶の彼方へ
 人間たちと同じように
 長い年月をかけて
 少しずつ土へと還っていくんだね


桜川駅(2005/04/09)
 


  4月 8日− 


[掌(てのひら)に]

 わたしはその日、掌に明かりを掬い取った。
 淡く軽く、不思議で魅惑的な四月の黄昏を。

 夕食の前、反対の手の甲で部屋の電気を消してみる。
 街灯の光を縫って、微かな夕焼けの名残が洩れてくる。

 そして現れ出た血潮のように、私の右手の指の隙間から。
 閉じ込められた〈暮れゆく時〉が、ほのかに瞬いている。

 手を広げると、温かな橙色がぼんやりと漂って。
 緩やかに闇に染み渡り、消えていったのだった。

 夕食が出来上がり、下から母の呼ぶ声が聞こえる。
 私は立ち上がり、手探りで電気を付けてドアを開いた。
 


  4月 7日− 


[伸びる季節]

 日が伸びる。
  樹が伸びる。
   根が伸びる。
    芽が伸びる。
     そして――。

 冬よりもほんの少し背の伸びた少女が、ふと足を休めれば、やや伸びてきた草色の後ろ髪がさらりと軽く春の風に揺れる。
「うーんっ」
 光の妖精たちの挨拶のごとく、ちらちら瞬く森の小路の木洩れ日の中で、腕を伸ばし、リンローナは思いきり伸びをした。
 


  4月 6日− 


[時空(とき)の向こうに]

 朝の電車から
 桃色見えた
 桜の花の色だった

 あの場所に行ける時
 花はどれだけ残っているかな

 こんなに近くて
 こんなに遠い
 


  4月 5日△ 


[鏡の向こう側(8)]

(前回)

 相手の言い分を聞いたシルリナ王女は取り乱すのでもなく、むしろ先ほどよりも冷静だった。重苦しい面持ちでややうつむき、いっそう喉の空気を搾り出すようにし、普段とは全く異なる老婆のような声色を発する。整った顔面はもともと色白だが、今はいっそう青ざめ、暗闇の底、ランプに下から照らされていた。
「そんなこと……わかっていました」
 樽の水面にはシルリナ王女の顔――それでいて王女ではない別の顔――が映っており、それは相手は時々瞬きをしたり、微かな水のさざ波で口をゆがませたりする。もはや王女宮全体が眠りについていて、廊下の足音や物音は聞こえず、刻の流れさえ凍え死んでしまったかのようだ。外の夜風の音は遠い。
「きっと初めて見た瞬間から、知っていたのだと思います」
 眼はいつしか慣れてきているのだろう――視線の隅に相手の顔を入れつつ、しかし直接の眼差しを避けるかのように十八歳の王女は幾分弱々しげにうなだれ、続けて説明したのだった。

 相手はすぐには答えず、いつ終わるとも知れぬ間が開いた。王女の深い吐息と心臓の鼓動が、身だしなみを整えるそれほど広くもない部屋に響き渡る。向き合った三面鏡は永遠の袋小路を形作り、消えかかった暖炉の薪は思い出したかのように不規則な軽い音を弾かせる。清明な冬の闇の下、ここだけは灰が積もり、空気が濁って息詰まるような圧迫感が高まっていた。
『ふーん。まだ強がるの?』
 突如、挑発するように、あるいは相手にされなかった子供の哀しさのようなものを漂わせて、樽の面の王女の分身が言う。すると普段は鉄壁の穏やかさで知られる姫は、さすがに極限状態で苛立ちを覚えたのか、やや早口で捲し立てるのであった。
「では、あなたは、私がそのことを知っていたということを知っていたの? 本当は、私の言葉に驚いているのではなくて?」
『何を言うか。私とお前は一心同体だろう?』
 水に浮かぶ紅の唇を艶やかに緩め、女はぬめりと笑う。それは姫の綺麗な顔だったが、不吉で凄惨で化け物じみていた。

(続く?)
 


  4月 4日△ 


[宙(そら)と大地]

 光を投げかければ
 その強さに応じて
 濃い陰が生まれる

 ならば
 濃い陰を投げかけることができれば
 その中から新しい光が生まれるの?
 


  4月 3日△ 


[つぼみ]

 花よりも
 つぼみをたくさん持ちたい
 寒い日が続いても
 いつの日か
 つぼみはきっと開くから

 もちろん全部は開かない
 それでもつぼみは持ち続けたい
 


  4月 2日− 


[モニモニ町の商人の話]

 モニモニ町があるのは半島の先端近く、北側に位置する〈内浦〉の良港だ。半島の南側の〈外浦〉は波が荒いが〈内浦〉は波が穏やかで船の停泊地として発展してきた――と言っても、俺は陸路のルートを取ることが多いんだが。俺が扱ってるのは主にモニモニ町とメポール町の間で、その間なら船よりも馬車の方が確実で速いからな。それ以上遠いなら船の方がいい。

 半島と言うところは、割と険しい地形が多い――らしい。吟遊詩人いわく、中央に山が迫ってて、海のそばまで斜面が落ち込んでる。ただ、このモニモニ半島に関して言えば、峠と呼べるのは数えるほどだ。半島を貫く山脈がかなり南に偏って走っているので、半島の北側に位置するモニモニ町から半島の付け根にあるメポール町へは、割と平坦で昔から街道が栄えてきた。

 モニモニ町から海を見ると、幾つもの小さな岬が連なり、左側から迫ってくる大陸と、かなり遠いところで一つに合わさっているのが分かる。それが、だんだんとメポール町が近づくに連れて、向こう岸の大陸が近づいてきて、最終的には手前に海、そして左右に陸が二股に分かれる。地図なんか見なくても、ここが半島だってのが良く分かるぜ。海沿いの街道がお薦めだ。
 


  4月 1日− 


[想いの交錯]


 消えゆくものは、なぜこんなにも美しいのだろう

 もう一度、逢えて良かった――



 海があり、山があり、

 河があり、大地がある



 そして何より、大切なのは

 そこに根付く人たちがいる、ということ


能登線・甲(かぶと)駅(2005/03/25)
 




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