2005年 6月

 
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2005年 6月の幻想断片です。

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  6月30日− 


[光の舞台へ(5)]

(前回)

 普段、宿屋と酒場を営んでいるセレニア一家の仕事は多い。酒場は夜毎に農業や牧畜を終えた素朴な村人たちで賑わい、二階の宿は山奥にまでやってきた商人や旅人の疲れを癒す。
 七月も末になれば貴族の避暑客がやって来て、八月半ばのサミス村の夏祭りの頃、それは最高潮を迎える。長い冬と深い雪に悩まされるこの村で、遅い春と短い夏は、まるで全てのいのちが伸びをするかのように、一斉にきらめきを放つのだった。

 夏祭りのかがり火や人熱れ(ひといきれ)、音楽の調べがシルキアの脳裏をかすめた。皆が楽しい時期は、家族にとっての書き入れ時でもある。普段は空き部屋の多い宿も、その時期は奥の大部屋まで埋まる。 それを考えれば、今は休息の時だ。
「そうだね、寝かしといてあげよ」
 いつも朝の光の中で姉を起こす役割を担うしっかり者の妹だったが、今は丘の中腹にたたずむ〈野原の鏡〉の池のように澄んだ穏やかな心持ちで、四つ年上の姉の昼寝を赦すのだった。
 吹く風は、空気の流れの波であった。草はなびき、白い花はうなずき、樹の梢は揺れて、人々は満ち足りた解放間に浸る。

 よく茂った緑の葉は、一枚一枚が個性を持った幾千もの手のひらのように、虫たちのじゅうたんのように、あるいは不思議に立体的な一つの草原であるかのように、宙に広がっている。
 あたかも透き通って流れの速い、分水嶺にほど近い山の早瀬であるかのごとく、木の葉を縫って降り注いでくるのは――。

「光」
 両足で大地に立ち、父のソルディがはっきりした声で言った。
「光の、舞台だ」


  6月29日− 


[光の舞台へ(4)]

(前回)

「お姉ちゃん、起きないね」
 シルキアはふと、向こうの樹の下で眠りに落ちている姉のファルナの方に眼差しを飛ばした。ズボンが土の湿気で染みるのも嫌がらぬ様子で、苔に覆われた樹の幹に布を敷き、そこに頭を乗せて、かすかに安らかな寝息をたてている。森の終わりと野原の始まりの空間に延びた広葉樹は森の木々に比べるとまだ若い。その下で、細切れになった陽射しを浴びて横たわり、家族に見守られて何の不安もないかのように穏やかに眠るファルナとは、これ以上望めぬほどふさわしい組み合わせに思えた。
 妖精が作ったかのような、木々と草と花の匂いをほんのり混ぜ合わせた香水をふりまいて、緑の大地は〈そこ〉にあった。
「ファルナもきっと、疲れているのね」
 母はシルキアを諭すでもなく、むろん命じるのでもなく、かといって娘に対しておじけづいたり卑屈になることもなく、ただごく静かに応えた。その言葉が終わるや否や、ファルナをつつみこむ樹の梢に飛んできた小鳥たちの、楽しげな唄が聞こえてくる。
「次の仕事を考えずに過ごす時間も、たまには必要だろう」
 父は、いまや遠い季節となった冬の太陽を思わせる柔らかな視線を少し離れたファルナに投げかける。そこには、いつも良く働いてくれている感謝と信頼の念がいっぱいに詰まっていた。


  6月28日− 


[光の舞台へ(3)]

(前回)

 ごつくて堅いが、貫禄と深い優しさに彩られた両手――まるで樹の幹のような――を後ろ手に組み、ゆっくりと父は近づいてくる。そして彼はかつての若者時代を彷彿とさせる、どこか悪戯(いたずら)っぽい表情を浮かべ、そこへ四十歳を過ぎた男の安らぎと穏和さの年輪を加え、妻を眺めて相好を崩すのだった。
「御前が好きな花だったからな」
 すると母のスザーヌは最初、目を丸くして驚いた。やがて青空の下、しゃがんだままの姿勢で、夫を愛おしそうに見上げた。
「まあ。私のほうが忘れてしまっていたのに……」
 対する夫のソルディの返事は、言葉よりも気持ちが伝わる満足そうな顔と、口元に浮かんだ笑みだった。シルキアはふわりと立ち上がり、両親に深い感謝の念をこめて告げるのだった。
「よかったね、お母さん、お父さん」
「ええ」
 ほっそりとしてはいるが顔色は健康的で、毎日の酒場と宿屋の仕事からか、肩や腰は意外としっかりした作りの母は、日々の忙しい生活を久しぶりに忘れたのだろう、まだ何も知らぬ少女のような純粋な笑みを浮かべた。高原のサミス村全体が避暑客で混み合う本格的な夏を来月に控え、今日は酒場も宿屋もお休み、久しぶりに家族四人勢揃いの休息日だったのだ。

 バサッ、バサッ――。
 突然、辺りに大きな羽の音が響いて、親子三人は我に返る。
「あっ」
 首を後ろに傾けたシルキアはまぶしい天を指差した。それは豊かな辺境の森を越えてきた茶色の雄の鷹が、優雅に翼をはためかせ、今まさに上昇気流をつかもうとしていた所だった。
 その軌跡の、空というよりも地を駆けているかのようにさえ思えるほどの圧倒的な力強さと、意識しない自然のなりわいが得た生命の躍動する芸術性に、三人はしばし見とれるのだった。
 翼を広げてバランスを取った姿のまま、鷹の姿はなだらかな野の谷を越え、しだいに向こう側の尾根へと遠ざかってゆく。

 その時、また意思を持ったかのような風が吹き、父の前髪、母の帽子、シルキアのズボンと、一人離れてしっとりと涼やかな木陰で眠っているファルナの袖を次々と撫でて通り過ぎた。
 父と次女のシルキアは満ち足りた、そして気が抜けたのか少しだけ呆然とした表情で緩やかに見つめ合い、綿か雪を思い出させる白いシェラーベンの花の脇で、母は丘の中腹にきらめく〈野原の鏡〉――銀色に澄んだ神秘の池を見下ろすのだった。


  6月27日− 


[光の舞台へ(2)]

(前回)

 どこか銀に似た色に染まり、聖らかに澄んだ〈野原の鏡〉は、しばしば山の斜面を流れゆく涼やかな風を受けて波紋を描き、それにより透き通った水がそこにあるのだと知れるのだった。
 風がやむと、再び池の水はほとんど空気と化して、水晶よりも透き通った。そこに映る白い雲の群れは限りなくゆったりとした時を刻みながら、まるで清らかな空の神殿の一部を野原の上に運んできたかのように、池の中の天国を通り過ぎていった。
「こっちのお花、ほら、かわいいよ、お母さん!」
 シルキアが立ち上がって振り向くと、いたずらな風が吹いて、森歩きに適した紺色のズボンのすそを、薄手の白い上着の袖口を、きれいにくしけずった琥珀色の前髪を軽くはためかせる。その日焼けした頬も、髪に似た茶色の瞳も明るく輝いていた。

「あら、まあ」
 白い帽子をかぶり、やはり娘と同じようにズボンをはいた母のスザーヌが近づいて、娘の指差した方を見下ろし、はにかむ。
「それは何のお花だったかしら? ええと……」
「シェラーベンだろう?」
 少し離れたところから正確に名前を言い当てたのは、父のソルディだ。口髭とあご髭を少しだけ伸ばし、灰色の日除けの帽子をかぶっている。体つきはしっかりしていて、前髪はやや乱れていたが服装は全般的にこざっぱりしており、いかにも高原の酒場と宿屋の主人にふさわしい出立ち(いでたち)だった。

「あ、そうそう。シェラーベンで間違いないわ」
 しっかりとうなずいた母は、なだらかな緑の斜面にしゃがみ、ようやく思い出した――とでも言いたげな様子で、子供のように朗らかに笑った。すぐに娘のシルキアも真似して腰をおろす。
 遠くない夏を予感させる、迷いのない陽射しに照らされた草の、いのちの賛歌のような強い匂いが間近な嗅覚に響いた。
「お父さん、すごーい」
 娘は額に手をかざし、近づいてきた父をまぶしそうに誇らしげに見上げた。汗もすぐに乾く、清々しい高原の夏の始まりだ。
 長い雪と寒さは全くの夢であったかのように、池を見下ろす森と野原との境目は光に満ちあふれ、黄緑や緑色の種類は無限通りもありそうだった。春と夏の間の野原にそれほど花は多く見かけぬが、この季節、シェラーベンは蚕のような白い綿の花を幾つもつける。それは遙か昔に溶け去った雪の精霊たちが束の間の花となって現れ出たかのようでもあり、あるいは搾りたての羊の乳、空に浮かぶ雲を思い出させる純白さでもあった。

 そして少し離れた木の下には日陰があり、その傍らには二つの良く似た麦わら帽子が重ねて置いてある。その帽子を枕に、シルキアの姉のファルナはやや湿った涼しい地面に横たわり、安らかに微かな寝息を立てていた。蟻はお構いなく靴の上を這い、ダンゴムシは避けて通る。ファルナの胸は緩やかな上下を繰り返し、ズボンの裾は爽やかな風に時折揺れ動いていた。


  6月26日− 


[月も陽も]

 月も陽も、たまには休みたいよね
 そう言う時は雲や雨が出てくれる

 雲も雨も、たまには休みたいよね
 そう言う時は月や陽が出てくれる

 交替で働いて、交替で眠って
 そしてバランスが取れるから

 星たちも、きっと同じだよね――
 


  6月25日− 


[∞]

 大事なことがありすぎて
 24時間じゃぜんぜん足りない

 でも48時間あったとしても
 やっぱり足りないんだろうな

 大事なことは∞にあるけど
 身体はたった1つなんだから
 


  6月24日− 


[光の舞台へ(1)]

 淡く、しかもきらびやかな蒼空に、まぶしき白い雲たちが浮かんでいる。まるで波間を漂う果物か、遠い東の国の甘い綿菓子か――あるいはきれいに洗った羊の群れであるかのように、柔らかく砕けて天つ風の河に乗り、どこまでも長く連なっていた。
 
 六月の真上からの光に照らし出されて、数多(あまた)の生命の緑に充ちた高原の太古の森を越え、急峻な上流の河と渓谷を渡り、しだいに険しくなってきた山膚(やまはだ)に沿って登り、まぶしい雲の群れは穏やかに流れてゆく。
 さて、その山の中腹に、少し形の歪んだ一つの小さな丸い鏡があった。それは見た目には流れ込む河も流れ出す河もなく、地下水でのみ繋がっている、まことに不思議な湖沼であった。


  6月23日△ 


[月の晩(後編)]

(前回)

 最初こそ慎重に顔を出して辺りの様子を伺っていた彼女たちであったが、辺りはひっそりとしていて危険な気配は全くないようであった。夢幻の女性たちはしだいに大胆になってゆき、数人が身体を半分だけ出してさらに様子を伺ったかと思うと、特に好奇心の強い一人が足を踏み出し、その麗しい全身を現す。
 すると花や草のあちらこちらから、何人もの精霊たちが次から次へと姿を現してゆく。いよいよ〈私たちの時間が来た〉と確信できるようになると、その表情もひそやかな笑みから、開放感の笑顔、爆発的な歓喜の顔へと驚くべき変化を遂げていった。
 彼女たちは色も形も微妙に異なる葉をちぎった日傘――月傘を掲げ、背を伸ばし、軽い足取りで歩き出した。彼女たちの金や銀の靴が、月明かりを浴びて、ちらちら星のようにまたたく。

 どこからともなく翼を優雅にはためかせて飛び集まってきた精霊の男たちも、やはりほっそりと痩せ、月の光の金糸を弦として絡みとったハープをそこかしこの草の影で弾き、奏で始める。
 調べが重なり、溶け合い、時には高貴さを争いながら深い森に染み込むように広がってゆく。夜風もつられて優美に舞う。
 月の光に照らされて、いくつもの小さく淡い影が動き出した。男も女も輪を描いて踊るのだ。晴れた望月の夜にだけ開かれる精霊たちの月祭りが、ここで今まさに始まろうとしている――。

(おわり)
 


  6月22日− 


[この夜を]

 風のように気まぐれな、わたし
 ほんとは、大地に根を張りたいの

 いつだって、そう思ってるけど
 身体はさぁ、雑草さえ絡められず、吹いてっちゃうのよ

 雨がやんで、雲の間から、
 ようやく夕暮れが現れたけど

 やっぱ、わたしは今日も止まれず
 この夜をどこまでも、彷徨うのよね

 月明かりは光の布を織って
 海は水面にあぶくを浮かべて

 静かな闇につつまれて、そっと流れてたら、
 わたし、ちょっとだけ――肩の荷が下りたみたい。
 


  6月21日− 


[風の河原で]

(どこから吹いてくるのかしら……)
 両脚を地面に根付かせ、樹のようにどっしりと構えて、シェリアはひとり、セラーヌ町の外れに茫々と広がっている草原に立っていた。空は薄曇りで、辺りはやや蒸し暑い。時折、虫が目の前を横切ったり、顔にぶつかったりする。匂い立つのは草の香だ。その間を縫うようにして、見えない空気のそよぎがある。

 黄緑の草の波ををかすかに、時に大胆に揺らし、風はゆく。
 撫でるように、飛ばすように。回すように、弾けるように。
 そして時には深く清らに祈るように――。
 風はとめどなく、誰かの思いを運んでいるかのごとく、速やかに草原を翔る。そのたび、草は斜めになり、触れ合って爽やかな音色を響かせ合う。

(心の境目……)
 シェリアのわずかな物思いも吹き抜ける風に溶けてゆく。自分と世界とを隔てていた境界が、ひどく曖昧なものになってゆく。
 彼女の心持ちは茫然としたような――それでいて妙に色鮮やかな鋭い感覚も併せて芽生えていて、空気の流れの変化に敏捷に気付くことができる。まるで飾らぬ言葉や素朴な唄を、安らかな気持ちで聴いているかのように。

(この風の流れ……〈風の河〉の源は?)
 耳を傾けて、その始まりに耳を澄ましてみる。
 だが、流れの始まりを糸のように辿るのは難しい。途切れぬ柔らかで爽やかな空気の動きは吐息のようで、すぐに次の流れが訪れてしまい、曖昧として紛れ、わからなくなってしまう。
 シェリアは立ったまま全身の力が静かに、また自然に抜けてゆくのを、どこか遠い所で感じていた。それはまさに眠りに墜ちる寸前であるかのように、全く抗いようがない。どこか深海に似た懐の深い優しさでもあった。

 シェリアは黄緑の野を駆け抜ける風に支えられたかのように、両方のほっそりとした腕を水平に掲げた。空が答えるかのように空気がざわめき、袖の布地ががひときわ揺れて、はためく。
 彼女の澄んだ薄紫の瞳は眠たそうに半分になっていたが、さらに細められて三日月になり、ついには完全に閉じられる。
 そしていつしか世界は、向こうに見下ろせる侯都セラーヌの町並みも消えて――天を埋め尽くす一面の薄灰色の曇り空と、地には草原、その間を流れながら強まり弱まりしつつも継続的にそよぎ続ける風と、たくさんの自然の中の根源的な孤独に浸っているシェリア、というごく単純な図式が出来上がっていた。
 それはもちろん本物の世界ではなく、省略化した世界に違いはなかったが、それも一つの表現の方法には違いなかった。

 シェリアの首筋を、肌の産毛を微細に撫でて、空気の舞は留まることなく過ぎ去ってゆく。動き続けること、流れ続けることだけが、彼らの存在を、その居場所を証明する。視力を休めることによって、シェリアの聴覚や嗅覚、触覚が冴え渡ってきたのだ。
(目を閉じたほうが、見えない風が見えるみたい)
 風が次にどう流れるか。風の河の呼吸が、だんだん分かってくる。それでいてあっさり予想を裏切られるのも、また楽しい。
(いや。〈見える〉んじゃなくて〈感じる〉んだわ……)
 シェリアは両腕を水平に広げた姿勢で草原に立ち、深呼吸をした。それが新しい風の源になって、ひそやかに流れ始める。

(どこまで吹いてゆくのかしら……)
 彼女は安堵に充ちた心で、自らが発した生まれたての風について、旅の過程について、その行く末について考えていた。
 


  6月20日△ 


[紫の季節]

 あやめ、アジサイ、かきつばた――。
 辺りをしっとりと湿らせる弱い雨に、紫の花はよく似合う。雫に濡れた花びらからこぼれ落ちる丸い水滴は、にわかに開いた雲の間から降り注ぐ気紛れな日光に、真珠となってきらめいた。
 かたつむりは角を葉にぶつけて引っ込めたり、ゆっくりと少しずつ伸ばしたりしながら、鮮やかに色づいた青いアジサイの上を這うように進み、ぬるぬるした不思議な道筋を引いていった。

 私は空を仰いだ。
 いつしか雲の裂け目は埋まり、蒸し暑さが高まる。あの灰色の空のずっと向こうで、雨は岩を打ち、早瀬は流れ、滝となるのだろう。その水が河に注がれ、やがて私の元にも届けられる。

 辺りに漂う霧雨の絵の具で、湿った風までもがほんのり紫色に染まっているように感じられた、六月のある日のことだった。
 


  6月19日− 


(休載)

粟又の滝(2005/06/19)
 


  6月18日◎ 


(休載)

水郷潮来あやめ祭り(2005/06/18)
 


  6月17日△ 


(休載)

夕焼け(2005/06/11)
 


  6月16日× 


[微笑みの花]

 日差しが燦燦と降り注いでいた、ちょっと暑くなりそうな予感のする、ある朝のこと。
 あたしが町を歩いていたら、若いお兄さんが鼻歌を歌いながら、出窓に置いてある鉢植えに水をやってたよ。
 背が高くて、淡い金の髪の、ふんわりした髪のお兄さん――とても楽しそうに、汲んだばかりの井戸水を、銀のひしゃくでかけてた。

 微笑みの花を咲かせるには、少しの水と、たくさんの肥料が必要だよね。
 あたしたちがお花を咲かせる手伝いをして、お花はあたしたちに微笑みをくれる。見てるあたしも嬉しくなって、道を通り過ぎがてら、知らないお兄さんに思わず挨拶しちゃった。
「こんにちは」
「こんにちは、いい天気だね」
「うん!」
 あたしは軽く手を振って、そのまま通り過ぎたけど、お兄さんも窓から手を振り返してくれた。鉢植えのお花も、風にゆれて、御辞儀をしてくれたみたい。
 その時、あたしの心の中の野原に、暖かい灯火みたいに、七色のお花たちがそっとつぼみを開いたんだ。
 あたしはそんなお花畑をいっぱい作りたいな。
 少しずつ、いろんな肥料を与えて――ね。


  6月15日△ 


[月の晩(前編)]

 天の高みから森の奥をひそやかに照らし出す、神々しくも淡い銀の月の光は、いつにも増して力強く、そして明るかった。
 それもそのはず、今宵は望月の晩であったのだ――。
 昼間の熱気はすでに遠く、森は何かを期待させるかのように妙な緊張感を孕みながらしんと静まり、吹く風は涼しかった。

 カチ、カチ、カ――。
 午前零時のちょっと手前で、誰かが草の間に落とした懐中時計の針は、突如として動くのをやめてしまった。それだけで言えば大して不思議な事象でもなく、ごく自然の出来事ように思われたが、まさにそれこそがこの妖しくも美しい夜のひとときの、本当の〈始まり〉を告げる変化の端緒に違いなかったのだ。
 やがて懐中時計の長針と短針、秒針の兄弟は、ひどく関節が疲れたかのように、それぞれゆっくり身を起こして背を伸ばす。
「ウーン……」
 三本の針は狭い時計の中で思い思いに身を伸ばすと、背骨をくねらせて寝転がり、いつしか安らかな寝息を立てていた。

 それからしばらくは、目に見える変化は何もなかった。
 夜風は気まぐれに流れ、木々はしっとりと湿っている。
 二羽のふくろうの鳴き声が森の奥の方で響きあっている。
 が、葉裏から落ちる寸前の一滴の雫であるかのように、始まりの序曲は少しずつ確実に膨らみ、近づいていたのだった。

 目の錯覚――あるいは夢か、まぼろしだろうか。
 人間の掌ほどの大きさしかない小さな女性たちが、草の影や花びらの間からまず顔を出した。その背中には透明に近い、限りなく薄い翼が生えている。淡い銀の月の輝きを受けて、繊細な影と光でのような女性たちの翼は、ちらちらと蒼白く瞬いた。


  6月14日△ 


[道の集う場所にて]

 きらびやかにせせらぎは流れてゆく。まばゆい光は水面(みなも)で遊び、しぶきを上げて、いくつもの小さな虹を架ける。

 広々としたなだらかな野原には草いきれが立ち、日差しの熱で白露は溶けて、辺りはその蒸気でぼんやりとかすんでいる。
 目の醒めるような青空と穏やかな綿雲のもと、何億もの小さな虫が飛び、バッタは跳ねる。野原に咲く季節の花の駅をさまよう蜜蜂は、あちらこちらで不思議に重厚な羽音を響かせる。

 その時、空気のそよぎ出す予感がした。
 草たちが海の波か藻であるかのように一斉になびき、ほんの少し遅れて命の輝きに充ちた一陣の薄緑の風が流れて――。
 そこにはいつの間にか、限りなく空色に近いゆったりとした艶やかな服に身をつつんだ二人の背の高い細身の青年が、少しの距離をあけて、互いに向かい合って立っていたのだった。

「久しぶりだな」
「そっちも、変わりないようだな」
 爽快で控え目で、ほんの少し寂しそうな笑みを口の片隅に浮かべて、彼らは挨拶を交わした。その間、時さえも歩みを止める。蜜蜂の羽音はデクレシェンドし、いつしか長い休符となる。
 青年たちの脇には、彼らの背丈と同じ位の、一本の低木が立っている。それは広い草原の中で、ひときわ印象的であった。
 そしてその枝先には、薔薇や牡丹に似て大きな、しかし深い青紫の花が、今を旬とばかりに幾つも幾つも咲き誇っていた。
 二人が向き合っている瞬間は、花弁はそよとも動かず、心地好い緊張感に満ちているように思われた。
「そっちの方はどうだった?」
「山は雪解けを終え、碧の草の絨毯が芽生えていた」
 青年らはうなずき合いながら、他愛ない雑談を続けている。

 その状態に終止符を打ったのは、彼らの脇の低木だった。
 やがて待ち切れなかったかのように。
 一輪の青紫の花の花びらが、ひらりと舞い始めれば――。

 最初はほとんど分からないほどの変化であった。だが、あの花が信号だったのか、あるいは何かの重要な合図であったかのように、徐々に二人の姿は透き通ってゆく。そのうち完全に空気と同化し、草いきれに混じって飛び去ってゆくのだった。
 あとには、いつもの午前の草原が広がっている。草も、虫たちも、せせらぎもそのままに。光だけが僅かに強まったようだ。
 そして特徴的な[花のシグナル]は、かすかに揺れ動きながら、次なる新しいそよぎを待つ。

 ここは風の交差点――。

(おわり)
 


  6月13日△ 


[不思議な夜の使い方(1)]

 リュナンはやや不安そうに、一つの壷を指差した。
「サホっち、この壷……」
 骨董店の倉庫にあるのだから、骨董品には違いない。
「あー、あんな怪しいもんじゃないよ」
 サホは友達のリュナンの懸念をすぐに察し、左右に手を振った。以前、似たような〈魔法の壷〉で事件に巻き込まれたリュナンが、今回の壷を不気味に思うのも致し方ないと思われた。
「確かに、魔法の壷といえば魔法の壷だけどサ」
「うーん。この前みたいに、変な妖気はないよね」

 それは黒い、小さな壷であった。
 無地で、特徴的な模様があるわけではなく、色は全面的に黒――黒の中でも麗しい漆黒とでも表現すべき色――であった。
 手にしてみると大して重いわけでもなく、かといって無意味に軽くもない。材質は何なのかよく分からないが、製作者が魂を込めて良く磨いたのだろう、表面は滑らかで艶やかであった。不気味さではなく、神秘さや不思議さ、清らかさを感じる壷だ。


  6月12日− 


(休載)

虹(2005/06/11)
 


  6月11日− 


[夕暮れの虹]

「それは窓を開けた時に飛び込んできました。
 夕焼け空に架けた、二本の大きな虹の橋です。

 右下から左上へ、なめらかな弧を描いて。
 内側は鮮やかに色濃く、外はつつましやかに。

 あの橋の途中から向こうは霞んでいましたけれど、
 きっと、どこかに繋がっているはずです。

 もしかしたら、それは僕の、
 嬉しい気持ちに繋がっていたのかもしれませんね。

 淡い薄紅と薄紫の入り混じる夕暮れの空とともに、
 二本の虹の橋は、まぼろしのように溶けてゆきました」

夕暮れの虹(2005/06/11)

「いいな〜、あたしも見たかった」
 その場に二人いた少女のうちの一人、八歳のジーナが羨ましそうに言うと、眼鏡を掛けてほっそりとした体型の若き研究者である二十四歳のテッテはうなずいた。彼は、今朝の雨に湿っている野原の上に広々と身体を伸ばしている薄曇りの空を仰ぐ。
「僕も、お二人にお見せしたかったです。残念です」
「リュアも見たかったな……」
 もう一人の少女、ジーナの友達で九歳のリュアがつぶやく。

 三人はしばらく空を見上げ、虹の橋を心に描いていた。
 夕暮れの空に合わさってゆく、七色の儚く美しい橋を。
 


  6月10日− 


[雨局、活況を呈す]

 このところ、雨局の電話は鳴りっぱなしだ。
「もしもし、雨局です」
「あの、出前をお願いしたいのですが」
 女性客が言う。それに対応する局員たちも馴れたものだ。
「はい。御住所、お名前は?」
 やや横柄だが、てきぱきと対応する。
 すると電話口の相手は応えた。
「大木木ノ下305番地、草野園美」
「えーっと、クサノソノミさんと。量は?」
「あの……普通でいいです」
 あまり馴れていないのか、客はやや不安げに言う。
「普通ね。分かりました、三時頃のお届けでよろしいです?」
「あ、三時頃ですね。分かりました」
 局員はメモを取りながら、テキパキと確認する。
「では三時頃、クサノソノミさんね」
「はい。お願いします」
「はい、分かりました。ではお待ち下さい」
 そして電話を切り、メモを別の係の者に渡す。
 そうすると次の電話が掛かってくる。
 この時期、雨局は一年で最も活況を呈すのだ。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

髪に雨糸のリボン結んで
六月の小人たちが舞い降りてくる

男も女も
少年も少女も
赤ん坊も老人も

みんな不思議なリボンをつけて
限りなく薄い青の糸をつむいで
蝶ネクタイを結んで

それから水玉の傘をさして
霧雨に乗ってやってくる

注文を受けた雨の雫を
お客の草に届けるために
あるいは花や木々の根に
いつかの実りの季節のために

雲の大渋滞から
下りる場所を見失わずに
徐々に下の方へ移動して
狙った場所から飛翔する

霧雨に乗って
六月の小人たちが――

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「ほう、ほう」
 稲の植えられた田んぼでは、蛙の合唱も楽しげに加わる。
 雨はますます盛んに降ってくる。
 こうして灰色の空の下、緑の命が紡がれるのだ。

 明日の朝、もし晴れたなら。
 壊れた蛛の巣は、雫の真珠に飾られていることだろう。
 


  6月 8日○ 

  6月 9日△ 


[夜 〜リリアの海〜]

 年月の重みに歪んだ窓の下半分を慎重に押し上げると、きしんで呻くような音が広い部屋の中に響いた。何度も交換されたであろう止め金をかけて、開いた窓を固定させる。
 入り込んできた涼しい夜風に、テーブルの上のランプの炎がゆらぎ、闇に覆われた部屋の中に映し出された大きな影が、まるで幽霊であるかのように右へ左へと不安定に揺れ動いた。
 小さな堅い椅子――豪奢で華美な装飾と、当時としては最高級の品質の木を用い、良く磨かれていて艶が出ていたものの、今や古びて疲弊してしまった足の短い椅子――に腰掛けた皇女リリアは、ようやく人心地ついた。かつてその強大な魔法の力と統治力で世界に君臨したマホジール帝国の末裔、名門マホイシュタット家の嫡流の長女である。

「ふう……っ」
 細い窓枠に両腕で頬杖をつけば、唇の隙間から自然と深い吐息が洩れる。皇女としての責任と、この国家の行く末に対する悲嘆を抱え込んで生きてきた深窓の姫君は、十五歳としては随分と大人びた横顔をしていた。肌は麗しくても、皇女の魂の内部は、盛りをとうに過ぎたこの国のように年老いていたのかも知れない。
 どんな清めの魔法でも拭いようもない年月の積み重ねの醸し出す〈かび臭さ〉は、侍女が窓辺に置いた鮮やかな花から届けられる芳香の間を縫って確実に染み込んでくる。
 今や深い安らぎに満ちた夜は、触れると全てが砂のように溶けてしまいそうな妖しい諦めを伴って、秘やかに息をしている。全てはかりそめの平穏にすがっている。

 疲れた頼りなげな少女は、焦点の合わない目で、しばらく眼下の景色を茫然と見つめていた。
 細い三日月が既に西の空へ既に傾いた、暗い夜であった。山と森は圧倒的に荒漠と控え、マホジールの町は大海原の漆黒の闇にたった一人取り残されたよるべもない小島であった。
 マホル高原を越えて、平野部のリース町、その向こうの西海に面した港町リューベルに繋がってゆくマホジール街道も、あるいは〈時の神殿〉とルドン伯爵領に向かう北と南の二本の脇街道も、もはや暗闇に溶けて見分けることが出来ない。昼間は商人や馬車の行き交う街道も、そのレンガの間に生えた草とともに、今はひっそりと眠りについている。

(海――)
 この深い黒の波を越え、それほど起伏の激しくない野を越え、マホル高原を越え、峠を越え森を過ぎ、幾つもの町を通り抜けたずっと向こうに本物の海がある。それは内陸に位置するマホジール帝国の本国からはあまりにも遠かった。
「隔てる海……そして繋がる海」
 部屋のどこかでゆらめく灯火を背に、リリア皇女がつぶやく。あの街道を西にたどった先にあるリューベルの港町は、今やこの山奥の帝都マホジールと、世界を繋ぐ〈命綱〉となっていた。
 

 夜の帳がおり、闇は安寧を織る。谷間に沿って見えるマホジール町のかすかな灯は、頼りなげに暗かった。闇の領域に浸食されながらも、辛うじて立っているような印象を受ける。

 皇女の視線はとある一点に注がれていた。金色ほど華麗で美しいわけではなく、銀色ほど優美ではなく、黄色ほど明るくもない。それは金とも銀とも黄色とも違うけれど、それらの色を足し合わせて、しかも明るさを抑えたかのような三日月だった。
(あの細い三日月が、迎えに来てくれたなら)
 深い森は樹海となり、いつしか本当の海となって――。

 かつての大森林地帯のなれの果てである太古の森には、鈍い色の鱗を持つ魚たちが現れ、ゆっくりと呼吸するかのようにぼんやりと光りながら、不思議に静謐とした泳ぎ方で宙を漂う。その泳ぎ、あるいは〈舞い〉は、まるで海草を避けて海の重い水の中を泳ぐのと同じように、木々の枝先をかすめながら続けられる。闇と森、闇と海、森と海との境目は見当たらず、僅かな星明かりを浴びて、時折波が立っているのが見分けられる。
 平穏さと開放感に充ちる謎めいた樹海を、リリアはゆらゆら揺れる小舟に乗り、柔らかな月明かりの下(もと)、波間に漕ぎ出すのだ。やがて天と地は秘やかに入れ替わり、赤や白や青、金銀の星たちが手の届く水面で瞬くだろう。そうしてリリア皇女の傷つきやすい心は海に一人漕ぎ出でて、樹海をさまよう。
 地位も任務も、歴史の重みをも忘れて、気軽に、そして身軽に――どこまでも流れてゆける。

 降り積もった闇が、全ての嘘も偽りも汚れも隠してくれる。
 今ならば、全ての〈夢見ること〉は許されているだろう。
 軽い澄んだ夜風に吹かれて、静かに吐息を重ねて。

 その、刹那。
 リリア皇女は、華奢な肩を軽く震わせた。
「ん……」
 遙かな西から海を越え、山を越えてきた涼しい夜風が、この古びたマホジール城の皇女宮の塔に開けられた小さな窓にたどり着いたのだ。
 さっきまでの夢想があまりに現実とかけ離れたものだということには充分に気付いており――むしろ、だからこそ心を彷徨わせていた十五才の少女だ。心臓がちくりと痛み、優しい夢から目覚めるかのように、ゆっくりと視線を三日月から森へ、マホジール町へ、そして細い窓枠へと戻してゆく。
 それとともに瞳の輝きはくすんでいった。まだ全ての光は失われてはおらず、健気にも希望は宿っていたが、歴史の重みも皇帝家の血筋も背負わず〈普通の少女に生まれたかった〉という叶わぬ繰り言が頭をかすめたのであろうか、その口元はかすかな諦めに似た笑みが浮かんでいた。

 全てが夢と分かっていても、それでいてもなお、朝に目覚めた時、もしもあの碧の森が翠の海に変じていたら――という尊くも儚い望みを、下らないと切り捨てて一笑に付すことは、リリアには出来ないでいた。万が一にも、という真剣な想いが、彼女の内側に生きているのだ。まさにあの広大な森に広がった木々のように、諸々の根が複雑に絡み合いながら。
 明日の曙光が城壁を、町を、森を街道を次々と照らし出したならば、現実と向き合らなければならない。そのことはリリアには痛いほど分かっている。だからせめて今だけは、限りなく優しい夜とともに、夢のまた夢に想いを馳せたい。

 リリアは留め金を外し、馴れた丁寧な動作で窓を閉めた。そうして小柄な少女は束の間の休息を取るため、暗闇に沈む部屋の中を、足元を確かめながら豪奢な広すぎるベッドに向かう。
 もう一度、傾けた三日月の船に乗って、心の内を、夜空の果てを自由に流れる森の夜風を波とし、水面に星たちを映した大海原に漕ぎ出でる――という、あの夢の続きに溺れるために。
 横たわり、柔らかな毛布を掛けると、疲れ切った身体には急速に睡魔が襲いかかってくる。夢かまぼろしか、涼しい高原の夜気は、ほのかな汐の香りを含んでいるようにも感じられた。

(おわり)
 


  6月 7日△ 


[夢魔の森]

 その森には、絶えず霧だか靄(もや)だか分からない、薄い紫色の《もの》が浮遊しているという。
 それは風に吹かれて――というのではなく、むしろ妖しの意思を持つ生き物さながらに、右へ左へ、空へ地面へと徊(さまよ)う。
 木の根元にやや色濃く凝り固まったかと思うと、次の刹那には自然と霧散し、それは池の水面に張りかけた晩秋の氷や、そして何よりも遠い昔に忘れてしまった夢の泡沫を思わせて、どこか深く濁り、虚しくはかなく、またどこか強く、きらめきの残照の輝きを秘め――そのうえ限りなく懐かしく、優しかった。
 が、それとともに、もう伸びることない芽や散ってしまった花、翼をなくした鳥のような、もう戻ることができぬ《過ぎ去りし》哀れにひどく淀んでいたのだった。

 夢魔の森で取り残された《かつての夢たち》は、ほとんど消えかかりながら消えることも叶わず、主人の再訪と栄光の再来を夢見つつ、音もなく匂いもなく、きれいな透き通ったあやめ色のまま、内側から永久に腐敗してゆくのだった。
 風に交わらず、地に還らず、光に射られず、湖に沈まず――重さのない重みを秘めたまま、夢の端は今日も軽々と森の奥を舞った。主人が捨ててきた数々の想いと希い、失望とともに。
 梢に触れ、枝先でちぎれ、やはり不思議な紫に彩られた草や苔をかすめて、夢は漂泊し、流離(さすら)った。輪郭のぼやけた淡い夢は《自らの夢》を持てず、どこまで行っても閉じ込められたまま夢魔の森を抜けることはできない。浮かばれることなく、旅の終わりも知らずに、それらは今も浮遊し続けている。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 リンローナは古びた分厚い本をぱたんと閉じ、顔を上げた。午後の光の中で、軽く埃が舞う。
 目が疲れたのか、しばしまばたきを繰り返していた彼女は、今まで語った言葉を振り返り、充分に噛みしめてから呟いた。
「……って書いてあったんだ」

「その森の、夢のかけらが必要なんて……難儀な旅になりそうねぇ」
 リンローナの姉のシェリアはそう言って、小さく溜め息をついた。姉は首をもたげて後ろ髪を軽く持ち上げ、若く白いうなじを少し覗かせてから、部屋の天井を茫然と仰ぐ。遅れて、薄紫の麗しい髪がさらりとこぼれ落ちる。
「でも、それがアルミス様の神殿で聞いた方法だから……」
 言い終わると、リンローナは可愛らしい唇を堅く結び、決意に満ちた強いまなざしで部屋の正面を見据えたのだった。
「開けなきゃね。夢魔の森の《扉》を」
 


  6月 6日△ 


[一日の終わりに]

 梅雨の合間に
 雨垂れの最後の一粒が落ちる前に
 淡い夕焼け空が
 溶けて消える

(それをおかずに
 ちょっと早目の夕食を……)

 あの空が少しずつ、ほんのり紅く染まってゆき
 一日が暮れようとしている

 いつも早回しの毎日だけど
 あの雲に心ゆられて
 本来の、ゆったりした時の流れに
 ちょっぴり戻れたような気がした

(吐息は悠々と、
 そして鼓動は緩やかに)

 優風……ゆうかぜ
  結う風……ゆうかぜ

 爽やかな夕風に吹かれて
 


  6月 5日△ 


[蜘蛛の宝珠]

「雨よりも、雨上がりが好きだなー」
 あたしが言うと、正面のレイナはうなずいた。
「でも、急に明るい光が出て、蒸し暑いですけど」
 確かに、あの光は強烈で。土の水分が天に還っていって。
「うーん。そうだね……」
 ゆっくりと斜め上を向いて、あたしは窓を見上げた。
 薄暗い空からは、大粒の雨がこぼれ落ちてくる。
 急な夕立で、お店の中は雨宿りの人たちで混雑していた。
 お菓子とメフマ茶の香りのするお店の中は、かなり暗い。
 人々の話し声は、そんな空に負けないほど明るいけど。

 けど、あの蒸し暑さも、あたしはけっこう好きかも……。
 雲がどんどん割れて、夏の陽射しが戻ってきて。
 腋や額や背中や腿の当たりを汗が流れて、湿っぽいけど。

「蜘蛛の宝珠はきれいですけどね」
 レイナが言った。あたしはグラスを手にして、聞き返す。
「蜘蛛の宝珠、って?」
「見えない蜘蛛の巣が、雨粒の雫でおしゃれをするんです」

 その瞬間、あたしの奥に、その光景が思い浮かんだ。
 いつもは邪魔な蜘蛛の巣だけど……。
 雨の後は、もしかしたら真珠よりもきれいになるよね。
 空から降り注ぐ強い光を受けて、きらきら光って。
 たいがい、蜘蛛はいなくなっちゃってて。
「蜘蛛の家じゃなくて、きっと木々に浮かぶ真珠の橋だよね」
「ええ。ウピの言う通りだと思います」
 レイナは目元をほころばせる。あたしは続けて語った。
「一粒一粒の中に、虹の七色を秘めてて、見とれちゃうよね」

 いつの間にか、窓の外の雨は弱まっていた。
 あの雨が止む頃には、店を出ようと思う。
 今しか見られない〈蜘蛛の宝珠〉を捜しに、ね。
 


  6月 4日△ 


[時の河]

 時の河は戻れない
 しぶきの粒ごとに、一秒が過ぎる

 水はただ、流れてゆくのみ
 水はただ、流されてゆくのみ

 だけれど
 流れ流れる水は
 忘れ得ぬ景色に出会うことがある
 輝かしい瞬間に立ち会うことがある

 だから、どんなに水の流れが速くとも
 戻ることが叶わなくとも
 立ち止まることさえ出来なくても
 私はそれでも流れてゆきたい

 明日の行き先は分からないけれど
 まだ見ぬ目的の地は決まっている

 いつかは海に着くから――

 今日のしぶきが流れてしまっても
 明日のしぶきは、どうか拾えますように
 


  6月 2日△ 

  6月 3日− 


[夜雨夢雪(よさめゆめゆき)]

「雪……?」
 シルキアはふっと顔を上げ、耳をすました。
 微かに窓を打つ、不規則な音が聞こえてきたのだった。時折それに混じるのは、隣のベッドで既に眠りについている、シルキアの姉のファルナの寝息だ。
 安らぎに満ちた濃密で深い闇が、部屋を、家を、そして山奥の小さな村を充たしている。

「まさかね」
 十四の少女は、瑞々しく艶やかな頬を柔らかな毛布にうずめる。
 しばらく布団は、誰も居ないかのように動かなかった。
 だが結局のところ、それはちょっとした休符でしかなかった。
 好奇心は募るばかりだったのだろう、やがて彼女はおもむろに毛布を跳ね除けて上半身を起こし、暗い中で双つの瞳を見開き、しばし呆然とした。

 彼女の答えは、あるいは身を起こした時点でほとんど決まっていたのかもしれない。
 布団をめくり上げて右足を出し、膝を折り曲げ、徐々に伸ばしていって床を確かめる。足の裏に力を込めて支えにしてから、左手をベッドにつき、今度は反対の足を出す。
 左手でベッドを押し出すようにして一気に立ち上がり、布団の上に放っておいた長袖の上着を、布の手触りの違いでつかんだ。

 薄手ではないが厚手ともいえない、その春用の上着を羽織り、袖を通しながら、手探り足探りに姉を起こさないよう慎重に歩く。敷物を踏み締めると、冷えた木の床がぎいっと鳴った。
 闇の湖を漕ぎ出したシルキアは、ほどなくして窓際に立つ。星明りはなく、闇の色濃い夜だった。相変わらず、何か小さなものたちが、ふとした瞬間にはリズミカルに、また別の時は適当な感じで窓をノックしている。
 シルキアはそこで後ろを振り返った。姉の姿は見えないが、安らかな寝息が続いているので、相手は眠っていると知ることができる。
 彼女は再び前を向き、ゆっくりと腕を掲げていった――。
 

 窓を開けると、ほんの少し遅れて、春の夜の澄みきった高原の空気が染み込んできた。身を凍えさせ、身体の芯まで伝わってくる夜空のほんの隅っこは、若干冷たすぎた。辺境の山奥では、さっきまで居間で暖炉に火をくべるほどの冷え込みだったのだ。
 その風は湿り気を帯びていた。微かな雨音が聞こえる。
 シルキアは窓の隙間に手を滑り込ませる。
「……」
 霧になってしまう寸前の小さな雫が、手の平を打った。それは確かに冷たかったが、凍ってはいない。溶けることもない。
 少女の内側でふいに高まった期待は、眠りの波のように穏やかに引いてゆくのだった。

 今とちょうど逆さまの季節――霙(みぞれ)から育ったばかりの、冬の始まりの夜の切ない雪は、冷たい風にさらさらと流れて、明かりのないうちに世界を聖なる銀色に塗り変えてしまう魔力を持っていた。それは秘かに速やかに行われる絨毯や壁紙の張り替えとも、闇に紛れた見えない純白の絵筆の仕業とも思われた。
 雪はまさに、真白き絨毯だった。

 長い冬の間、ずっと聞いていたはずなのに。
 今やシルキアは雪の降る微細な響きを正確に思い出すことが出来ない。
 あの頃は、吹雪の夜が続き、いい加減やんでほしいと思ったことも幾度もあった。が、今は心のどこかで〈雪が降ること〉望んでいる――少女はそれをおぼろげに、時折鮮明に感じていた。

 冬の始まりを告げる、懐かしく静かで。
 穢(けが)れなき空の贈り物を。
 今宵の雨に託して。
 


  6月 1日− 


[かき混ぜる(5)]

(前回)

 灰色が。
 雲が降り。
 ぶつかり。
 弾けた雲が消え。
 視界が遮られ。
 次の刹那には見通しが利き。
 そう思う間もなく、また雲が降り――。

「……」
 レイベルは一瞬、はっと息を飲みました。意識はしっかりしているのですが、冷え切った耳が急に栓をされたかのように、風を切る音が遠くなりました。それから遅れて悲鳴が出ました。
「ひゃあーっ!」
 自分の声もくぐもって聞こえます。重心が後ろに移り、身体が風圧で倒れそうになるので、必死に前のナンナにしがみつきました。頭が幾つもに分かれてしまいそうで、空を登っているのか降りているのか、横に滑っているのかも、訳が分かりません。それほどナンナの上昇は勢い良く、あとから考えれば全速力の鷹や鷲に追いつけそうなほどの、今までで最高の速度でした。
「うぉーっとぉ☆」
 気合の叫び声をあげながらも、ナンナは歯を食いしばって自分の限界に挑みました。あっという間に再び雲の上に出ます。
「ナンナちゃん、もっとゆっくり……」
 雲の上の太陽の光がまぶしく感じられ、船酔いでもしたかのようにぐったりと疲れた様子で、レイベルは目を白黒させながら注文を言います。その頃には、魔女のほうきは空に登りつめて遅くなっていました。ナンナは振り向いて、後ろの友達の様子を確かめてから、ようやく少し申し訳なさそうに笑ったのでした。

「レイっち、ごめんね。ちょっと力を試してみたかったんだ。これからは、ちゃんとスピード落として、空を〈かき混ぜる〉からね」
 挑戦を終え、激しく走った後であるかのように肩を上下させ、呼吸を繰り返しています。レイベルは素直にうなずきました。
「うん」
 そして、ほうきの尾から連なる光の糸は切れず、黄金の強いきらめきを秘めたまま、灰色の雲にまとわりついていました。




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