2005年10月

 
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2005年10月の幻想断片です。

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 10月31日△ 


[落葉の季節(1)]

「んっ……」
 レイヴァは寝ぼけ眼(まなこ)をこすった。秋の夜長、深更となり、保養地として名高いミラス町はしんと静まりかえっていた。
 貴族の別荘群が趣向を凝らした建物と広い庭を配し、余裕を持って建つ地区の、とある一軒が少女の住んでいる家だった。といっても彼女は貴族ではなく、別荘の管理人の娘である。
 毛布を掛けたまま、ベッドで上半身を起こす。すると少し遅れて背中の方から冷気が迫り来て、身体の体温を奪おうとする。
「涼しい」
 レイヴァは腕組みをし、震える声でひとりごちた。海流の影響を受け、穏やかな気候で貴族の保養地として世界に冠たるミラス町でも、一年(ひととせ)の刻(とき)の針が十一を指し示せば、こうして寒い夜はやって来る。夜気と眠気で、彼女は再び横になろうとし、その直前に窓の方を横目でちらりと確かめた。

 その視線が、カーテンの隙間へと吸い込まれてゆく――。
「あれっ?」
 レイヴァは瞳をしばたたき、再び目をこすった。それから首を動かして、今度はしっかりと窓の方を見た。薄手の寝間着を突き抜けて背骨に染み込んでくる寒さに、毛布を引っ張って、肩から背中を囲むように回した。次に膝を曲げて、はみ出た足を引く。
「何だろう」
 漆黒の夜であるのにも関わらず、外はうっすらと明るかった。

 夢ではないと確信したレイヴァに、迷いはなかった。ベッドを出て上着を羽織ると、一歩ずつ、一足ずつ、丁寧に歩いてゆく。
 心臓が速く刻み、こめかみが波打つ。胸は少し苦しかった。
 両腕でバランスを取って、濃密な闇の芦原を掻き分けて。
 右足の爪先を下ろし、左足を持ち上げて下ろし、右を――。

 はやる気持ちを抑えて、レイヴァはついに窓際にたどり着く。
 彼女は息を飲み、カーテンに手を掛けて横にずらしていった。


 10月30日− 


[ラーダンの坂(6)]

(前回)

 涼やかな秋の風が、微かに潮の香をまとって、西の海から流れてくる。その伝言の意味は分からないけれども、波のように麗しく寄せるたび、豊かな清らかさを二人の心に宿してくれる。
 風がウピの淡い黄金の髪を、服の袖を、またレイナの不思議に優しい銀色の前髪を、スカートの裾をかすめて通り過ぎる。

「ここからの鳥瞰図……遠くまで眺めることが出来て。降りてゆけば、しだいに平面だったものが立体的になってゆきますね」
 降り注ぐまばゆい光に眼鏡のレンズをきらめかせて、レイナが呟いた。聞き慣れない単語を耳にしたウピは、すぐに訊ねる。
「え? チョウカンズ?」
「簡単に言えば、空から見下ろした図のことです」
 レイナは冷静に応えた。ウピは〈へぇー、なるほど〉と感心し、空から見下ろすという意識を持って、再び眺望に入り込んだ。

 二人の生まれ育った〈南国の真珠〉ミザリア島は、今日もあの蒼い空のように穏やかであり、珊瑚礁の海のように穏やかだ。
 香辛料貿易で栄える島は、商業や漁業が発展し、人々の暮らしにも――また何より〈心〉にも余裕がある。今日のように安息の夢曜日ともなれば、さっき見たように浜辺には泳ぐ人たちが集まる。料理店が成り立ち、人々は日差しのごとく陽気だ。
 大陸のようにはっきりとした四季はなく、亜熱帯の島は基本的には雨季と乾季なのだが、こうして季節に関心を向けているならば、大陸で言うところの〈秋の気配〉をしっかり感じ取れる。

「ごちそうさまー」
「美味しかったわ。また来るわね」
 そばにある料理店のドアが開き、礼の声とともに別の客が出てきた。店の煙突からは、相変わらず細い煙の筋が、風で左右に振れながらも途切れることなく緩やかに立ちのぼっている。
 太陽の位置が移動し、西の空の奥の方に溜まっていた雲の群れが、ほんの少しだけ島に近づいていた。刻は移ろいゆく。

「お腹も落ち着いたし、じゃあ、そろそろ行こうか?」
 ウピは友の横顔を見つめ、語りかける。レイナはうなずいた。
「ええ。あの鳥瞰図の中に、無限の地図の舞台に」
 そこで一度、言葉を切った。ウピは相手の話に割り込まず、待っている。やがてレイナは温かな慈愛に満ちた口調で語った。
「ここから望めば紙に写し取った地図のように見えるし、建物は小さな果実のようだけれど……一つ一つの立体的な家で、力強い生活が営まれている町に。私たちも帰ってゆくんですね」
 最後まで聞いたウピは、頬を僅かに紅潮させ、こう応えた。
「そうだね」

 海の波は穏やかで、風は優しかった。
 日差しは柔らぎ、行き交う人々の表情は明るい。
 歩き始めた二人の少女は、並んでお喋りしながら坂を下り始めた。歴史の深い、緩やかな九十九折りの〈ラーダンの坂〉を。

(おわり)
 


 10月29日− 


[ラーダンの坂(5)]

(前回)

 山肌に沿って馴れた様子で薄茶色のロバを引き、口笛を吹きながら中年の男が降りてきた。ロバの背には左右に袋が付けられ、何か農産物を運搬しているようだった。身体は馬より小さいが、力は割と強いので、このような坂では重宝されている。
 一方、坂の下からは突然、慌ただしい足音が聞こえてきた。
「うぉーっ!」
「ちっくしょーっ」
 猛烈に駆け上がってきた子供たちは三人の少年で、競走している様子だった。ロバを避け、ウピとレイナには目もくれずに駆けてゆく――せわしない足音と甲高い声が遠ざかっていった。

「口の中に、さっきの味がよみがえってくるよ」
 またしても海の青さに心奪われていたウピが、ふとつぶやく。口の奥、舌の上に残るエビの味わいを思い出しているようだ。
「私もです」
 ゆっくりと瞬きしてから、レイナが言った。
 控え目な口調の内側には、たくさんの想いが秘められてようだった。言葉の声量こそ小さかったが、不思議と確固たる響きを伴って、ラーダンの坂の上で弾けたからだ。その感情は単純に言うならば〈喜び〉に属するものだったろうが、料理店のエビが美味しかったとか景色が素晴らしいということを越えて、ここで風を感じ、この島に生を受け、飲み食いをして泣き笑い、こうして友達と一緒にいる幸せや、ここで息をしているという、もっと大きい――言うなれば海のように懐の深い想いのようだった。
「この景色、胸に焼きつけておきたいですね」
 真面目に語るレイナの話を承けて、ウピは軽く溜め息をつく。
「ふぅ〜……ほんと、そうだね」
 彼女の穏やかな眼差しは、南国の自然の折り成す珊瑚礁にちりばめられた、無限の色相の碧と蒼を称えていた。やがて二人の親友同士はごく自然に向き合い、微笑みながらうなずく。
「うん」
 少し遅めの昼食を摂った二人は、これから坂を下るのだ。


 10月28日− 


[ラーダンの坂(4)]

(前回)

 登ってきた女性たちは四人で、みな二十歳前後の友達同士に見えた。そのうちの一人――ウェーブのかかった長い金の髪をカールさせ、女性としては背が高くて足がすらりと伸び、健康そうな日焼けした目の大きな美人――が、レイナとウピを見ながら腕を伸ばして左側に展開する眺望を示し、感想を述べた。
「ここの景色、すごくいいわね。登った甲斐があった!」
「でしょ?」
 ウピは後ろ手に組み、軽く爪先立ちして嬉しそうに微笑む。
「おすすめですよー」
 レイナが手を振った。一方、登ってきた娘らは、前の二人は元気そうに、後ろの二人はやや疲れた様子で汗を拭いつつ手を振り返しながら、ウピとレイナを追い越していった。彼女たちは喋りながら、坂の上へ――さらに天に近い場所へ昇ってゆく。
「いってきまーす」
「もうへとへと……」

 対照的な様子だった彼女らの姿がカーブの向こうに見えなくなるまで見送ったウピとレイナは、目の前の眺望に向き直る。
 遠浅の海の波は穏やかであった。まだ海水浴をする者たちも数多くいる。心臓の鼓動のように幾つもの波が寄せて、色がうつろい、そのたびに水の上で飛び跳ねる光の舞が変化する。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

2005/07/17

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「砂浜の方、賑わってますね」
 レイナが落ち着いた声で語ると、ウピも浜辺に焦点を合わせた。もう少し右奥の方は香辛料の輸出で栄えるミザリア市の港湾地区で、しっかりした造りの商船が何艘も舫(もや)っているのだが、この〈ラーダンの坂〉から続く道の突き当たり付近から左は、庶民の海水浴に適した南国らしい白砂が続いていた。
「結構、混んでそう」
「そうですね。今日は海水浴日和だと思います」
 眼鏡の奥に光る目を凝らして、レイナが言った。霧雨のように絶えず降り注ぐ太陽の輝きは秋の優しさを含んでいるが、ここは南国、気温も水温もそれなりに高い。夏のように温い海ではないものの、泳ぎが好きな者たちは構わず水に浸かっている。
 人は豆粒のようだが、何となく様子は分かる。砂浜で、波打ち際で、あるいは良く澄んだ翡翠色の水と戯れる人々を、二人はこの坂で得た〈かもめの視点〉でしばらく眺めていたのだった。


 10月27日− 


[ラーダンの坂(3)]

(前回)

 既に歩を休めていたレイナは、改めて感嘆の息をついてから、眼鏡のレンズを通して拡がる景色をじっくりと見渡すのだった。
「とっても、いい天気」
 レイナは目を細めた。ウピが気づいた西の雲はずっと遠くに掛かっているので、夜になれば分からないけれども、今すぐに降ると言うことはなさそうだ。町の上から遙かな海の向こうまで、優しくつつみ込む秋の午後の空は、淡く青く澄み渡っている。
「涼しぃ〜」
 ウピは目を細めた。淡い金色の前髪がさらさらと揺れて舞い上がり、犬の尻尾のように後ろで結んだ髪が振れ、紺色の長ズボンの裾がはためく。長袖のシャツは白い生地で編まれていたが、袖の部分は紺色の布が使われており、胸元にはワンポイントの模様が入っていた。ウピは全体的に活発で動き易そうな装いであり、優美な印象のレイナとは違う個性が出ている。

 さて、足音と華やかな声が聞こえ、ウピとレイナは坂を見た。
「ほら、きれいでしょ、海!」
「うわーっ、疲れたーッ!」
 同年代の若い女性連れが、脱いだ上着をかかえて額にうっすらと汗を浮かべ、坂の下の方からやってきた。彼女たちは眼下に広がる大海原を指差しながら歩いていた。そして自然と、柵の前で町と海を見渡していたウピたちと目が合う。お互い見知らぬ者同士であっても、交叉する眼差しに笑顔の花が咲いた。
「お疲れー」
 ウピが率先して声をかけると、女性たちも手を挙げて応じた。
「どーも」


 10月26日− 


[ラーダンの坂(2)]

(前回)

 レイナのスカートは、やや厚手の茶色の生地に深みのある赤や橙や紺のチェック模様の刺繍の入った丈の長いものだった。今日の雲のようにしみ一つない真っ白な長袖ブラウスを着て、襟元以外はきちんとボタンをかけており、さらに薄手のベージュの上着を羽織っている。靴は、きちんと磨かれた革靴だった。
 一つ一つの品物はよく見れば庶民的なものだが、それらが組み合わさることで、彼女が元々持っている優美さや気品さがさらに高められる効果を発揮し、いかにも優等生然としていた。
 レイナの髪は麗しい銀色で、短くも長くもなく、肩の辺りまで伸ばしている。知的な輝きを秘めた瞳は蒼く澄んでいて、遥かに果てしなく広い空を思い出させる。健康的ではあるが華奢な腕を掲げ、指を伸ばして行く先を差し示し、隣の少女に尋ねた。
「ではウピ、このまま坂を降りますか?」

「そうだねー」
 ほんの少し考えてから、ウピ――最初に料理店から出てきた方の小柄な少女――は同意した。ゆったり歩いていた彼女は、靴底で砂利道と大地を味わい、吸い込んだり触れたりする空気に季節を感じていたことだろう。足音の響きが、そして彼女の存在が辺りの雰囲気に溶け込み、豊かに調和していたからだ。
「おーっ、すごい」
 ウピは手を額に当てて、坂の向こう、砂浜のかなたに拡がる翠の海を眺めた。珊瑚礁の楽園、南国の真珠とも呼ばれる〈ミザリア島〉を囲む海は、青というよりも、もろもろの命の色を混ぜ合わせた〈蒼翠(あおみどり)〉と表現するのが相応しかった。

「あっ、また雲の雰囲気が変わってるよ」
 ウピが呼びかけて、どちらからということもなく柵の手前で立ち止まる。そこは緩やかなカーブが終わり、店や家が途切れて再び下り坂の始まるところで、見晴らしが良かった。ミザリア市の下町にひしめく白い石で建てられた家々、ヤシの木の並ぶ海沿いの通り、香辛料貿易を商船の行き交う港の様子が、遙か彼方で繋がって見える海と空を背景に、まるで手先の器用なフレイド族が作り上げた小さくて精巧な模型のように眺められる。
 俯瞰した町では、王宮の敷地が目立っていた。必要以上の華美さはなく、質素で明るく大雑把な南国気質が貫かれた王宮と建物群は、ミザリア王家の長い歴史を誇り、堂々とした佇(たたず)まいだ。あのどれかの建物で、今日もカルム王が、ミネアリス王妃が、あるいはレゼル王子、ララシャ王女が国を良くするために知恵を絞り、国外からの使節と会議を重ねたり、側近の貴族と情報交換を重ねながら食事を摂っているのだろう。

「本当ですね」
 レイナはうなずいた。西風の日は天気が変わりやすい。いま現在、天は晴れているのだが、ウピの指摘通り、空の奥の低いところは雲が横に伸びて、その方角の島影は見えにくかった。


 10月25日− 


[ラーダンの坂(1)]

 やや急な傾斜と緩やかな曲線を描いて、九十九(つづら)折りの坂は丘の上まで続いてゆく。曲がり道で勾配が抑えられているところに面して、古くからの商店や料理店がそれぞれの個性と風格を誇らしげに建っている。海鮮系の素材を焼いた食欲をそそる匂いが、潮の香を含んだ風の合間を縫って漂ってくる。
 空は秋晴れ――懐かしさを感じさせる薄い青で、それは春の新鮮さや伸び行く感じ、夏の輝かしさや活動的な感じとは一線を画し、見る者に安らかな優しさを感じさせる色合いであった。
 天は高く、冴えて美しく、見ていると吸い込まれそうだった。光の雨は分けへだて無く、地上にも海にも柔らかに降り注いだ。

「……ってな訳さ」
「へぇ〜、じゃあ、あいつも相当運がいいな」
 坂道を行き交う人々の表情は明るく、連れ合いと話す時には笑みがこぼれ、その足取りは軽かった。夏の暑さが遠ざかって過ごし易くなり、特に今日は温度も湿気も適度な状態である。
 彼らは老若男女、職業も格好もさまざまだった。昨晩から早朝にかけて仕事を終えた中年の漁師仲間は千鳥足で談笑をしながらそろそろ家路をたどり、商店の仕入れに問屋へ向かう若者がいれば、坂の途中にある気に入りの靴の店に向かう買物客の若い女性もいる。海を見下ろしに来る恋人たち、必要なものを買い終えて丘を登る農民の娘、老婆と手をつなぐ孫――。
 学舎が休みの夢曜日だからだろう、子供や学生の姿も多く、時折甲高い元気な歓声が起こり、辺りに響き渡るのだった。
「早く来いよーっ!」
「おおい、待ってくれよー」
 子供たちの声や足音は軽やかな活気のリズムを生み、町の鼓動となる。それを見送る大人や年長者たちの穏やかな眼差しが町の息吹と化し、足元から支える通奏低音となっている。
 多くの子供が家の手伝い程度で済み、学舎へ行き、休みの日はこうして遊べる、豊かで平和な海辺の町の秋の午後だ。
 彼らの髪はだいたい黄金色の系統か、もしくは優しく不思議な銀のどちらかで、南の国に住まう民族の特徴を表していた。

 白いかもめが一羽、海辺を離れて坂の方にやってきて、大きく左回りに弧を描いて旋回し、再び大海原へと帰っていった。
 坂には、作られた時期が異なるために見栄えが違う木の看板が幾つか出ている。そこには〈ラーダンの坂〉と記されていた。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 さてミザリア市の海から郊外の山に向かって続く〈ラーダンの坂〉の途中に、長らく風雨に耐えてきた木造の料理店がある。建物が古いわりには、よく掃除が行き届いていて清潔だった。煙突からは耐えず一筋の細い灰色の煙が立ち昇っている。海の方から吹いてくる潮の香を含んだ風を受けると、素早い雲のように、あるいは芦のように右へ左へとたなびく。再び空気が凪げば、ヒョロリと痩せた一本の剽軽(ひょうきん)な煙に戻った。
 木々の光が深く射し込み、様々な模様を織りなす午後の後半であった。料理店のドアが開いて――少女の背中が現れた。
「また来まっすね〜」
 満足そうにお腹のあたりをさすりながら、一人の年頃の娘が、店のドアを開けて出てきた。やや小柄で、人なつこい笑顔だ。
「ごちそうさまでした」
 続けて別の声がし、友達と思しき同じ年頃の少女が現れる。

 二人目の手によって慎重に丁寧に店のドアの隙間が狭まってゆき、やがて完全に閉じた。娘らは顔を見合わせて目配せし、坂の下の方に向かって何となく歩調を合わせて歩き出す。
「レイナ、良かったら海のほうに行ってみない?」
 一人目が訊ねると、二人目――レイナは快くうなずいた。
「ええ、構いません」


 10月24日− 


[萌ゆる時/燃ゆる刻(6)]

(前回)

 姉の語尾はやや粗雑な印象を残したが、それは本心を隠すための〈偽りのカーテン〉である事を、妹は密かに悟っている。
 しんと静まり返った秋の晩、小さな山合いの町の薄暗い宿の部屋で、妹は冷えた手の甲でわずかな涙の跡を軽くぬぐった。
 それから一度、二度と鼻をすすってから、リンローナは正面を真剣なまなざしで見据えて、ひっそりと、だが奥深い思いに彩られた力強さを秘めた声で、自分に言い聞かせるように呟いた。
「いつかまた、会えるといいね……会えるよね」

 心の方は暖かな思い出たちが染み渡り、緩やかに充たされていたが、現実の部屋にはどこからか隙間風が入り込み、夜は血管のように根を張り、少しずつしんしんと冷えてきていた。
 左右の耳、あるいは両手両足の指先のかなり芯のほうまで体温が奪われている。リンローナは手を後ろに伸ばし、そっと毛布を引き寄せて、自分の背中にかけた。それに気づいたシェリアは、突如として前触れもなく、腰掛けていたベッドから一気に立ち上がった――リンローナから見上げると姉の背丈は樹のごとくに伸びて、微かな風が起こり、部屋の空気がふっとゆらぐ。
 懐かしさにしばし淀んだ時の水脈が、再び歩み始める――。

 シェリアは立ったまま、妹を見下ろして呼びかけるのだった。
「そろそろ寝るわよ」
 空気が冷えてきたから気を遣ったのだ。妹はすぐ同意する。
「うん」
 リンローナは腰の後ろに手を着き、両足を持ち上げ、お尻を引いた。その体勢のまま、そろりそろりと何回か移動すれば、ベッドが軽くきしんだ。毛布を持ち上げて、その間に貝のように身を滑り込ませると、寝間着を通して身体に涼しさが伝わってくる。

 毛布から顔を覗かせて、淡いランプの輝きに目を細め、リンローナは今宵の静寂を壊さないように出来る限り優しく囁いた。
「おやすみ。明日も、きれいに燃える紅葉が見られますように」
 遅れて自分のベッドに潜り込んだシェリアは、毛布の冷たさに唇を微かに震わせながら、ほとんど闇に溶けた声で応じた。
「おやすみ」

 姉妹の布団が内側から温まる頃には、きっと二人は柔らかな眠りの坂を下り、その淵へ、どこまでも落ちていることだろう。
 やがて寝息が聞こえ出し――外では安息と静寂、そして夜行性の動物たちの生命と躍動感に充ちた森の夜更けが訪れる。
 枯れ葉がまた一枚、樹を離れて、涼しい風に舞っていた。

(おわり)
 


 10月23日− 


 幾日も、何かを後悔し続けるかのような秋雨が続いたあと、磨かれた青空はどこまでも青く澄み、光はまぶしく暖かかった。
 母と一緒に歩いていた日曜日の買い物帰りの公園で、小学校三年生の麻里(まり)は木々をあおぎ見て、歓声をあげた。
「わあ、かわいい」
 早くも季節を先取りして色づき始めた葉の間から、細長くした小さなトマトのような赤い実が、手の指を広げるようにして幾つもなっている。青空の間の朱色は、とても綺麗に映えていた。
「花水木ね」
 麻里の後ろに立ち、大きく膨らんだスーパーの袋を丁寧な動作で静かに地面に下ろして、母は樹の名前を教えてくれた。
「かわいいね、あの実、お母さん」
 黒い瞳を夢みるように大きく見開き、時々まばたきしながら、小さな麻里は背の高い花水木のたくさんの実を眺めている。
「そうね、鮮やかね。私も好き、花水木」
 まぶしそうに空に手をかざし、程良い涼しさと明るさの中で気持ちよさそうに微笑みながら母が応えると、娘は振り向いた。
「うん、私も!」

 優雅でまろやかな秋の一日は、緩やかに透き通って――。
 生命(いのち)の祭り、豊穣に彩られた実りの時を迎える。

秋の空の花水木(2005/10/23)
 


 10月22日△ 


 紡ぎ出される時の重み
 流れ去る風の背中
 誰かの心
 想い

 見えないものや
 買えないものや
 手に取れないものこそが――

 きっと、いちばん大切なもの
 


 10月21日− 


[萌ゆる時/燃ゆる刻(5)]

(前回)

「季節が、燃える」
 溜め息混じりの暖かな声が、薄暗く安らぎに満ちた宿の部屋の中に染み渡るように広がってゆく。姉の言葉を一度だけ繰り返し、心に刻んだリンローナは、昼間見た山の紅葉の景色の向こうに、いつしか故郷の秋の夕景を思い描いているようだった。
「燃える、夕陽……懐かしいなあ、岬の夕陽」

 その町では、いつも潮風を感じていた――。
 晴れた日の穏やかな秋の夕暮れ、西の海に突き出た岬の先端近くの砂浜に立ち、幼い姉妹は両親と一緒に、時折歓声をあげながら日没の様子を眺めていた。まぶしい太陽が水に触れると、思いのほか速く欠けてゆき、あっという間に沈んでしまう。
 太陽が寝床についたあとも、しばらくは海にも空にも優しい赤みが残っていた。三方を海に囲まれた岬に立っていると、頬を紅く染めた〈世界〉につつまれているように思えたものだった。
 空と海はどこまでも果てしなく、その懐は深かった。自分の心を繋げれば、潮風となり海流となり、どこまでも拡がってゆく。
 白い帆を夕陽に染めた商船が岬のそばを横切り、折からの順風を受けて港の方へ軽やかに水を滑ってゆく。沖に向かう小さな漁船たちは、眩しい夕陽の逆光で黒いシルエットに見える。
 やがて長い夜が来ると、幾つもの漁り火が燃えるのだろう。

 船長の父の姿、ずっと昔に亡くなった母の面影。
 学院の同級生、先輩、後輩、恩師らの姿が瞼に浮かぶ。
 輪郭や細部はしだいに朧気(おぼろげ)になってゆくが、時と場所が離れれば離れるほど、それぞれの笑顔や輝いていた瞬間の印象は少しずつ膨らみ、際立っているような感じがする。
「みんな、元気かなぁ」
 いつしか宿屋の部屋のランプの灯火は、リンローナの瞳を微かに濡らしていた温かな水で潤み、僅かに揺れ動いていた。
 少し間を置いてから、シェリアがうつむき、やや重く呟いた。
「どうかしらね。元気だといいけど」


 10月20日△ 


[萌ゆる時/燃ゆる刻(4)]

(前回)

 雪とともに暮らした昨年の北国の冬は、それ以前の故郷での暮らしと対になっていて、気持ちは自然と南へ向かう――西の海に突き出た半島の岬近くにある温暖な町は、天然の良港に恵まれていた。雪が降る回数も量も少なく、積もることはまれだったので、特にリンローナは真っ白な世界を待ち望んでいた。
 その想いは今でも基本的には変わっていないが、北国の暮らしを実体験したことで、別の捉え方も出来るようになっている。
「平地よりも、雪が早く来て大地を長く覆う山奥ほど、紅葉の鮮やかさが増してた気がするわ。気のせいかも知れないけど」
 シェリアは少し顔をあげた。彼女の声はランプの緩やかな明かりを縫って、蝶のごとくに軽やかに、ふわりと舞いあがった。
 他方、妹のリンローナは夢見るように優しく、今宵にふさわしい奥行きのある微かな声で、和やかな口調で語るのだった。
「秋風が、透明な涼しい空気の絵の具を溶いて……厳しい気候のところを優先して、素敵な色合いで塗ってくれているみたい」

 外はまだ雪が降るのには早い、晩秋に入りつつある季節だ。その晴れた空には、凍てついた銀の星が数え切れないほどに瞬き、漆黒に拡がる山と森を遙かに見下ろしていることだろう。
 シェリアは万感の思いを込め、震える声で呟いた。
「本当に、季節が燃えていたのね。落ちた樹の枝みたいに、春から今まで降り積もった私たちの思い出を薪(たきぎ)として」

 鮮やかでどこか儚(はかな)い紅葉は、めぐる一年(ひととせ)を一日に置き換えるならば、まさに〈季節の夕焼け〉に相応(ふさわ)しかった。黄昏(たそがれ)時、真っ赤な太陽が海に溶けて消えた後、家と夕飯のことを考えるのに似て――秋の記憶が思い出をたぐり寄せ、来た道を振り返りたくなる季節であった。


 10月19日− 


[萌ゆる時/燃ゆる刻(3)]

(前回)

 シェリアは、まるで吟遊詩人であるかのように、秋の夜の銀河から運ばれてきた言葉を心に浮かんだままにつぶやいた。
「みずみずしい生命の誕生……希望に満ちた軽い足取りの初春の風と、豊饒……かさかさ落ち葉を揺らす渇いた晩秋の風」
 そこまで言うと、余韻を残したまま、シェリアは黙った。彼女は薄紫色の神秘的な瞳を閉じて、ベッドに腰掛けたまま、すらりと長い脚を組む。鼻からゆっくりと息を吐き出し、は るか遠い場所に果てしない想いを馳せ、広がりのある物思いに耽(ふけ)る。

 リンローナは何度か口を開きかけたが、そのたびにうつむく。言葉では上手く置き換えることが出来ないたくさんの〈気持ち〉を、無理に〈翻訳〉して表現するのを躊躇している様子だった。
 だが姉はまぶたを閉じたまま沈黙していたので、妹は何度目かに意を決して顔を挙げる。ありったけの思いを込めた少し震える声で、それでいて膨らむ気持ちを抑えつつ、相づちを打った。
「春風と秋風、ぜんぜん違うように感じられるけど……でもきっと、めぐる季節の風車の、向かい合った場所同士なんだよね」
「姉と妹、みたいなものかも知れないわね」
 そう言って、シェリアはクスッと笑う。ランプの焔(ほむら)のかけらが揺れる宿の部屋で、静かな声のやりとりは続いていた。
 
 二人並んでベッドに腰掛け、前を向いている。シェリアは足を組み替え、リンローナは真面目に掌を膝の上に乗せていた。
「春の始まりと秋の終わりに、これでもかってくらいに色を使ってるんじゃないかしら。このへん、冬はきっと白ばかりだから」
 姉は再び、昼間に見た森の紅葉を反芻していたようだった。他方、リンローナは朝陽に照り輝く銀色の雪原を思い浮かべ、それが自分の中で確固たる画像に変わるまで待っていたのだろうか――少し経ってから、真剣なまなざしで深くうなずいた。
「うん。お姉ちゃんの言ってること……あたしもそう思う。ウエスタリア自治領だと、葉の落ちる木は少なかった気がするから」
 リンローナは優等生らしく理由をつけて、姉の論を援護した。

 生まれ育った南の町を遠く離れて、二人はこの北国にやってきた。故郷ではめったに降らなかった雪だが、この国の山間部では長く根雪となって降り積もる。昨年見たときは、最初の淡い粉雪こそ〈汚(けが)れなき精霊〉のように見えたものの、雪運びの仕事をしているうちにも次々と降りてくる大粒の牡丹雪や、有無を言わさず縦横無尽に叩きつける夜半過ぎの吹雪、道の左右で堆(うずたか)くなる雪の壁に、しだいに〈冷酷な魔物〉の仕業ではないかと思えたものだった。村人たちの雪に対する感じ方――嫌悪することは諦め、何とか上手く付き合っていきたいとは考えているが、それでもやはり毎年の雪下ろしや移動は辛い、などという複雑な感覚も、実際に体験して理解できた。


 10月18日− 


[萌ゆる時/燃ゆる刻(2)]

(前回)

 この地の森はまさに、豊かで深い彩りの盛りを迎えていた。木の葉を一枚残らず集めれば、赤や黄の系統のあらゆる色が見つけられる――といっても、言い過ぎではなかっただろう。
「どうやったら、あんな色が出てくるのかしらね」
 そう言うとシェリアは窓から顔を離し、妹の方を振り向いた。ランプの輝きに、細い影が陽炎(かげろう)のようにゆらゆらと揺れ動く。部屋の空気は涼しく、遠ざかってしまった夏にどこか思い焦がれるような不思議な切なさと、懐かしさを覚える優しさとが、辺りの空気の中へ緩やかな満ち潮のように混じっている。
「春はお花が咲いて、草木の碧(みどり)が〈萌え〉て……秋になると森全体が暖炉みたいに、赤や黄色に〈燃え〉るんだね」
 四歳年下のリンローナは、桃色や紫、白の花が鮮やかに咲き、明るい光に映えた、匂い立つ春の野山を思い出していた。

「そういう意見もあるわね」
 特に反発することなく、肯定も否定もせず妹の見方を素直に認めたシェリアは、足元に気を付けてそっと歩き出した。静かな秋の夜更けに、宿の木の床がきしむ微かな音は、思いのほか良く響いた。彼女は安らぎに彩られた漆黒をゆっくりと泳ぎ、浸り、妹が腰掛けている横のベッド――自らの寝床を目指した。

 やがて十九歳の姉は立ち止まり、上半身を落とす。後ろにしなやかに両手を着き、妹と同じようにベッドの縁へ腰をおろす。冷えた掛布とベッドの弾力が、シェリアの身体を受け止めた。
 外では森を越えて吹いてくる夜風が、時折、町の街路樹の木の葉を楽器であるかのように振り動かしている。風の旅人たちは、昼間よりも生命力と機動力に富んでいるように思えた。


 10月17日− 


[萌ゆる時/燃ゆる刻(1)]

「きっと、今のうちに色を使っとくんじゃないかしらね……」
 シェリアがいう。窓際に立つ彼女の視線は、もうすっかり闇に沈んだ宿の外の景色を見つめていた。もはやどこが町か森かも分からず、境界も何も判別できないが、彼女は頭の中で、昼間に見た鮮やかな光景を反芻しているのだろう。
「そうかも、知れないね」
 相手の言葉をゆっくり噛み締めてから静かに答えたのは、ベッドの縁に腰掛けていたシェリアの妹のリンローナだ。声量はどちらかといえば小さかったが、遠い町の宿、窓の外では肌寒い風の吹く秋の晩に、それは暖かく、僅かにくぐもって響いた。

「赤、黄、橙、茶色……なんで、あんな色になるのかしら」
 溜め息まじりにシェリアがいえば、吐息が窓を曇らせる。
 大陸の南の方にある海辺の町に生を受けた姉妹は、山の全体があまたの赤や黄色に染まった光景を見たのはほとんどない。二人は今日、旅の途上で、そういう紅葉に出会ったのだ。

「赤く染まる樹でも、一枚ごとに、赤……っぽい色の色合いは、確かに、微妙に違ったよね。個性がある、っていうのかな」
 リンローナも昼の景色を思い浮かべつつ、慎重に言葉を選びながら語った。姉は外を向いたまま落ち着いた口調で答える。
「そう。まるで、一人一人は違うけれど、それほど大きくは違わなくて、合わさって町になってるみたいに……」
 その図を自分なりに描いて、こめかみを震わせる心臓の鼓動をいくつか数えてから、リンローナはしっかりうなずくのだった。
「うん」


 10月16日△ 


[風のこころ(3)]

(前回)

 川から離れ、農業地帯を抜け、ここはもう村の中央部だ。街道の宿場町としての機能を持つナルダ村には、あまり充実しているとは言えないが各種の商店や倉庫、郵便(飛脚)業務を行う駅逓所、旅人や隊商のための宿屋、酒場――そしてレイベルの父である村長が働く小さな古びた役場の建物が見えてくる。

「こんにちはー」
 顔見知りの商店の男に、ナンナとレイベルは挨拶をする。
 魔女の卵のナンナは右腕でほうきを持ち、レイベルは友の左脇を歩いていた。やや道幅の広くなった街道の真ん中を、一頭立ての小さな荷馬車が通過し、独特の動物の匂いが漂った。
「おお、レイベルちゃんにナンナじゃねえか。今日は川か?」
 するとナンナは笑って返事をし、レイベルは感心した様子だ。
「そうだよ〜。よく分かったね」
「おじさん、すごーい」

 髭面で、質素な服に身をつつんだ商店主は腕組みする。
「メシの時に、うちのせがれが言ってたからなァ」
「なーんだ」
「やっぱりね〜」
 レイベルは残念がり、他方、ナンナは自然とほくそ笑んだ。店主の息子と、二人の少女たちは同じ学舎に通っているのだ。

「そういや、うちのバカ息子は、今日は一緒じゃねえのか?」
 どうやら暇を持て余していた男は、話し足りないようで、二人に訊ねる。ナンナはぺろりと舌を出し、明るい声で報告する。
「ナンナがドジしたから、どこか別の釣り場に行っちゃったよ」
「なんだなんだ、女の子を置いてどっか行ったのか。あいつら」
 男は腕組みしていた腕をほどき、こぶしを握って、遠くの方を睨む目つきをした。心配になったレイベルが、真面目に言う。
「どうか、怒らないであげて下さい」
「そうそう。今日はナンナも悪かったから」
 すかさず背の低い魔女の孫娘が一歩前に出て、場の空気を和ませようとした。その時、店の前を通っている街道には、山から吹いてくる清々しい西風が流れていた。軽く砂埃が上がる。
「じゃあまた来るね〜」
 ナンナはレイベルの肩を押して、歩き始める。慌てたレイベルは、優等生らしくお辞儀をして、挨拶と念押しをするのだった。
「さようなら、また来ます。ほんとに怒らないでね」
「分かったよ。なんだ、もう行っちまうのか。またな!」

(続く?)
 


 10月15日− 


[雨の生まれる場所]

「雨が、いろんなものを流していく」
「水槽の底を開けたみたいに、こぼれ落ちてさ」
「あの空の水槽の底は、どこなんだろ」
「雨のはじまる場所って……」
「水蒸気が、水滴になる場所?」
「水蒸気が寄り集まって」
「実態がないうちは浮かんでって、肉体を得たとたんに……」
「その瞬間に、落ち始める」
「でも、ということは、その刹那、空のどこかで止まるのかな」
「水でも蒸気でもないものが、留まる」
「もし、その場にいたら……」
「雨の始まる場所にいたら?」
「足元から、雨が落ちてゆくだろう」
「じゃあ、そこで逆立ちしたら?」
「きっと、自分の上の方へ、雨が飛んでく」
「さかさまの流れ星!」
「雲が切れれば、雨粒の宝石がきらめく」
「いつか行きたい」
「雨の生まれる場所に」
「雨粒を照らして、七色の、虹のビーズを作りたい」

――光の粒たち
 


 10月14日△ 


[時空を越えて(3)]

(前回)

「シルリナに聞いてみようかなぁ……」
 そう言って歩き出した少女であったが、数歩目にちらっと左の方をよそ見した。すると彼女はそちらの方を気にしながら歩きつつ、後ろ髪をひかれたかのように、少しずつ足を緩めていった。
 ついに立ち止まった彼女は、ためらうことなく速やかに体の向きを変えると、吸い寄せられるかのようにそばの花園を目指して歩を進めてゆく。娘は腰を下ろして膝を曲げ、身をかがめた。

「妖精?」
 それが少女の出した答えだった。
 高貴な身分と思われる娘は、闇の中で微かに増幅して感じられる秋の花の清らかな香りを感じながら、暗くなってきた空気の中で漆黒の化粧をしてたたずむ花と花の間を覗き込んだ。

(続く?)
 


 10月13日− 


[時空を越えて(2)]

(前回)

 彼女よりも幾分幼い女の子の声が、ごく近い場所で――しかも遠くから運ばれたかのように、こだまして聞こえるのだった。
「え、誰?」
 思わず聞き返した少女は、不安よりも驚きで瞳を輝かせ、恐怖よりも好奇心に胸を膨らませたかに見える。手触りが良くて光沢の美しいシルクの長いスカートを揺らし、思いのままに周囲を見回した。ところが夕闇に沈み始めた小さな池や整備された草の庭、花園には目立った変化や人の気配はなく、木陰はだいぶ離れているし、どうもそれらしい声の主は見あたらない。
 少女は立ち止まったまま、焦点の合わぬ目でぼんやりした。突然の不可解な出来事に、思考能力を奪われたかに見える。

 折良く秋の涼しい風がふっと流れ、彼女の心を呼び覚ます。
「おっと、いけない……」
 次の瞬間、我を取り戻した茶色の髪の娘は、細めていた目を夢から冷めたかのようにゆっくりと見開き、まずは耳をすます。

 丘の上の自由な風が、背中を撫で、後ろで束ねた髪に触れ、スカートを揺らし、耳許(みみもと)をかすめて通り過ぎる。それ以外には、時たま向こうの建物の方から聞こえる馬車馬のいななきや、家路を急ぐ鳥たちのやや慌ただしい歌声、羽音――そして何より自分の内側で刻まれる〈鼓動〉が良く聞こえていた。
《あら、そうでもないわよ》
 改めて思い出すと、ほんの子供のようにも、またはひどく年老いた老婆をも彷彿とさせるあの神秘的な声は、もう届かない。

「う〜ん」
 身分が高いと思われる王宮の庭の娘は困惑し、そこで初めて軽く首をかしげ、唸った。北国らしい彫りの深い顔だが、貴族というよりは庶民的な柔らかさと穏やかさを帯びている年頃の娘は、視覚と聴覚への集中を緩めて溜まっていた息を吐き出す。
「ふぅーン」

 考えても分からなかったと見えて、少女はすぐに首を反対側へかしげる。先ほどの鏡像のようなポーズで、同じように唸る。
「う〜んっ、わっかんないなァ……」


 10月12日− 


[時空を越えて(1)]

 陽が沈み、西の空にはまだ鮮やかな赤みが残っている。メラロール市の丘の上に建つ白王宮(はくおうきゅう)の一角には、一段と涼しさの粒子が染み込むように漂ってきていた。石造りの優雅な建築物の群れも、幾つもの尖塔も、今や元の色は失われていた。それらは黒い陰となり、大地に根を張っている。

 人工的に作られた池のほとりには、十六、七のやや小柄な少女がひとり、たたずんでいた。建物と建物の間に広がる庭はどこも手入れが行き届いており、特にここは丘の下、町や海の方まで遙かに望むことが出来た。木々が疎らに立ち、花の微かな香りがほのかに漂っている。近くには、少女の他には誰もいないようで、家路をたどる鳥の声だけが広い空に響いている。それは一年の夕暮れの豊饒さのまとめのような日没であった。
 町の喧噪は遠く、広大な白王宮の一角は穏やかな静寂につつまれていた。石を並べて作られた小さな池は、細い流れに運ばれた澄んだ水を湛えている。その水面には、夕焼けのあとで深まる赤と、夜の始まりの藍色が、画家のパレットのように混じりあっている。秋の涼風に草がなびき、さらさらと揺れている。

 少女は素直な口調で、心のままに、ふと呟いた。
「色が、どんどん沈んでく……」

 彼女は、独り言に答えを求めていたわけではなかった。
 しかし、突如として――。
「あら、そうでもないわよ」


 10月11日− 


[闇を統べる者]

 森はすっかり暮れて、西の空に残っていた最後の藍色も、はや風前の灯火となっていた。
 まもなく時の継承は完全に終わり、深く長い夜が幕を開けようとしている。明るい光の中で爽やかに歌った小鳥たちはとうに去り、温かい巣に戻って、夢と現を彷徨っていることだろう。
 いまや森には、姿の見えぬミミズクの恠(あや)しく誘(いざな)う声が、時折響き渡るのみだ。 普段なら活動を開始するはずの夜行性の動物は、いまだ姿を見せず、様子を伺っている。密生した暗い幹と幹の間に、命の蠢(うごめ)きが感じられる。

 それは常とは異なる、何かしら不吉な予感を漂わせた十月の夜であった。春の妖艶さや、淡い期待を孕んだ夏の華やかさ、冬の静寂とも違い、中秋の豊かさにもまだ足りていない。暑くはないが、寒くもない――荒海に取り残されたかのようなひどく頼りない夜は、闇自体が何か別の底しれぬ恐怖に震えるような緊張感が、そこいらじゅうに細い糸のように張りつめていた。
 暗い夜空の低いところを、雲の群れが速い勢いで流れている。それは見ようによっては恐慌にかられて何者からか逃げているようにも思えたし、遠ざかる言葉や思いをも彷彿とさせる。

 西の空に沈み掛かっていた、細い二日月の光がゆらいだ。
 誇り高き闇は、いまや占領の危機に瀕していたのであった。
 森を見下ろす遙かな高みで、カーテンのように、扉のように、あるいは鋭い視線を放つ瞳のように、人知れず闇が開いた。その瞬間、辺りは凍りつき、風さえも固定される。森の動物たちは息を潜めて動かず、木々でさえ萎縮している印象を受ける。

 ついに、開いた闇の隙間から、細身の黒い姿が現れた。
 それは背が高く、不健康に痩せている若い男のようだった。黒いマントに身をつつんだ男の唇はやけに赤く、色の乏しい世界で鮮やかに浮き出して見える。その唇の形は整ってはいたが、どこか歪んだ感じの印象を与える。細い双つの眼は青白く、冷静と狂気、喜びと憎しみとに溢れている。一見すれば仮面のごとき酷薄な無表情に見えるが――その実、覗き見れば見るほど相手の底無し沼の世界に引きずり込まれてしまう。牙も角も生えていないが、男の顔は壮絶な魔性の表情だった。
 もしも運悪く出会った者がいるならば、男の顔を凝視するどころか、おそらく目が合ったただけで腰を抜かし、手足や膝を恐怖に震わせて、瞳孔は開き、しまいには魂が狂ってしまうだろう。

 彼はマントを軽く動かした。
 たったそれだけのことで、間髪入れずに冷や汗のような突風が、稲妻のように津波の如くに、蛇のように天の底を貫いた。
 夜は既にして、男に最大級の恭順の意を示していたのだ。
 男はその凍りついた夜風の上を、鷹のように駈けていった。
 不吉な真紅の唇の残像を、夜の流した血のごとくに描いて。

(おわり)
 


 10月10日○ 


[風のこころ(2)]

(前回)

「あ? うん、そーだね」
 当人のナンナは実にあっけらかんとしていた。
「危なかった〜。良かったよ、水で濡れただけで済んだしね。魚がワァーッって逃げて、男子たちには怒られちゃったけど☆」
 身振り手振りを入れ、大きな青い瞳で目配せをしながら、ナンナは面白おかしく語った。レイベルはつられて笑いながらも、
「そろそろ寒くなるから、水に濡れるのは心配だけど……」
 と気配りを見せる。

 ナンナはきょとんとした顔になり、相手の顔をまじまじと見つめ――それから少し目を逸らして、どこか寂しげに語るのだった。
「レイっちって、たまにナンナのお母さんみたいなこと、言うね」

 通りを行き交っていた涼しい風が、ふいに止まった。
 微かになびいていた足元の草の間で、時の流れが澱む。
「ん、と……」
 村の同級生では一番の優等生のレイベルは言葉に詰まってしまい、目を白黒させた。都のエリートの一家に生まれたナンナが、試験に落ちた後に家庭での立場がどうなり、そうした状況の中でいかに健気にふるまっていたか、という話は、ナンナの祖母で村のただ一人の魔女〈カサラお婆さん〉から聞いていたのだ。家庭内の出来事の細かな部分までを、聡明な魔女が話すことはなかったが、レイベルは自分の想像力で補っていた。

 一方、ナンナは直感でレイベルの困惑を悟ったようだった。
「レイっち、行こう!」
 ナンナはとびきりの笑顔を作り、右腕をナルダ村の高い青空に突き出す。森の香りが漂ってくる――風が流れ始めたのだ。
 魔女の孫娘は、金の後ろ髪を揺らして、まっすぐ歩き始める。その親友の、十二歳の小さな背中に胸を打たれたレイベルは、ぬばたまの黒い瞳を少し潤ませ、両手を組んで祈るのだった。
「ナンナちゃん……」
「レイっち、はやく〜!」
 素早く振り返ったナンナは、何事もなかったかのようにレイベルを促す。その表情は、逆光で良く見えなかった。しんみりしていたレイベルだったが、気丈に振る舞う相手の気持ちを汲んでしっかりとうなずく。目を軽くこすり、慌てて駆け出すのだった。
「うん、今行く!」


 10月 9日− 


[風のこころ(1)]

 風の行く先は
 誰も知らないけれど

 風はきっと
 どこにでもいるはず――

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 碧(みどり)の季節はとうに過ぎて、四方の野山は少しずつ黄色や橙、茶色や赤が入り混じり、優雅な衣替えを始めている。
 ガルア公国ナルダ村は盆地にある林業の村で、秋には鮭が遡上する透明度の高い川が流れている。村の表通り、土の道の両脇には、地元の木で作られた家々が建ち並んでいる。
 秋の風が道を駈け抜け、小石を蹴りながら並んで歩く十歳過ぎの二人の少女の髪の毛をさらさらと揺らした。それはまるで誰かの呼吸のように、波のように、規則的な不規則さで吹く。
「今日はみんな、釣り放題だったね」
 レイベルが笑顔で言い、肩を並べて隣を歩く親友に語りかけると、後ろで結んだ艶やかな黒い髪が振れた。きちんと裏地の縫い合わされた保温性の高い茶系統のタイトスカートを履き、軽くて走りやすい革靴は橙色で、白い長袖ブラウスの上には黄土色のベストを羽織っている。都会の娘のようにお洒落で、そして落ち着いている雰囲気の彼女は、ナルダ村の村長の娘だ。
 夏場はもっと遊びに適していた服を着ていたレイベルだが、このところは季節にふさわしい特に気品と優雅さが漂っている。

 黄色の葉が飛んできて、ふわりと次の風に舞い上がる。蒼く澄む大空と白い雲の中で、その葉はひときわ輝いて見えた。
「男の子たち、頑張ってたよね〜☆」
 右と左にえくぼを浮かべ、とびきりの笑顔で応えたのは、レイベルの親友のナンナだ。右手でほうきの柄を握りしめている。
 ナンナは、村で唯一の魔女〈カサラお婆さん〉の孫娘で、魔女の卵だ。都の学院魔術科の試験に落ち、厳しい家庭内で〈落ちこぼれ〉の烙印を押されて立場を無くしていたところを、祖母のお婆さんに引き取られた。奔放な性格だが、今では寛容なナルダ村にすっかり溶け込み、黒髪の村人たちの中で目立つ黄金の髪と、素敵な笑顔・明るい性格で村の人気者になっている。

「手でも捕まえられそうだったけど、駄目だったね〜」
 ナンナが言うと、レイベルは口元を抑え、肩を震わせた。
「ふふふっ……」
「ん? レイっち、どーしたの?」
 不思議そうにナンナが訊ね、立ち止まって相手の顔を覗く。同級生でも、ナンナの方が背はやや低い。優しい太陽の光を浴びた特徴的な金の髪は、肩の辺りに掛かっている。右手に魔女のほうきを握りしめたナンナは、白地にいくつもの刺繍の入った厚手の長袖の服を着て、焦げ茶の長ズボン姿で、むしろ今日の服からすればレイベルの方が魔女のように見えるのだった。
「だって、可笑しかったんだもの、あの時のナンナちゃん」
 レイベルは立ち止まり、微笑んだ。だが少しずつ真面目な顔になって、友に視線を戻し、こう付け加えるのも忘れなかった。
「怪我がなくて、本当に良かったわ」


 10月 8日○ 


[踏切]

 何千回、何万回と
 降りて上がった踏切の棒

 まもなく役目を終える踏切は
 どこか、その事を知っているように思えた

 最後の一回まで
 自分の仕事を全うすること――

 彼の心地よい緊張感が伝わってきた
 充実感と責任感も混じっている

 その姿に、私は男の職人魂を見た


踏切(2005/10/08)
 


 10月 7日− 


[霧の湖(3)]

(前回)

「秋の霧は、どこからともなくやって来る。春の不思議で魅惑的な霧とも、夏のすぐに晴れ渡ってゆく朝霧ともまた違って……」
 語っていた母が思いに耽ると、優しくシルキアが訊ねる。
「どんなふうに?」
「うーん……そうねぇ」
 軽く唸って考えていた母は、言葉を捜しながら言った。薄暗い部屋の中を通り抜け、村を越え、森に染み込む霧雨を集めて。
「例えるなら、温めておいたのが少しぬるくなった羊のミルクみたいに。森に広がってゆくわ……その源は〈霧の湖〉なのよ」

「うん」
 ファルナがうなずく。いつしか話に引き込まれたシルキアは、瞬きした琥珀色の瞳を好奇心に輝かせ、ひそやかに尋ねた。
「霧の湖って、もしかしたら〈海〉のようなもの?」

 その単語は、場の空気を変化させた。
 次の刹那、母ははっと驚いた顔をした。やがて次女に目を向け、ゆっくりとうなずき、その視線を遠くに送って思いを馳せる。
「そう、かもしれない」
「海……」
 神秘の単語を呟いたファルナは、ふいに背筋を伸ばした。

(続く?)
 


 10月 6日− 


[霧の湖(2)]

(前回)

「寒い冬の朝、池や河から湯気がたつでしょう」
 母はそう言葉を継いだ。
「うん」
 少し遅れて、シルキアが答えた。彼女は羊毛で編んだ温かく袖の長い上着を着込んでいる。きめ細かく編まれた冬用のセーターとは異なり、それは適度にまばらな編み方で――それでいて羊毛自体の保温性は高いので、こういう涼しい秋雨の日には適していた。瞳と良く似た琥珀色の髪と、白っぽい羊毛の上着が、午後のランプの弱い輝きにぼんやりと映し出されている。
 揺れる光は、薄暗い室内を照らすというよりも、くすんだ黄色を投げかけ、彩りを加えるのが精一杯だった。
「よっ」
 シルキアは一度身を引き、椅子を引いてから母に近づいた。一方で、姉のファルナは両腕に頬杖をついたまま、ぼんやりと斜め上を眺め、夢と幻の合間にぶら下がっているようだった。
「じゃあ、秋の霧も、湯気みたいに河からやってくるんだ?」
 尋ねたシルキアの口元は、悪戯っぽく微笑んでいた。あらかじめ、それが否定されるのをどこか予期しているかのように。
「ふふっ……」
 それに気付いたのだろう、母も何か楽しいことをたくらんでいる時の、はにかんだ不思議な笑みで応じた。二人はどちらからということもなく視線を動かし、行き着く先をファルナに定めた。

 繊細で心地好い緊張をはらんだ雨音が、細い糸のように響いている。たまに軒先から滴が落ちると、それは真っ直ぐに水たまりに吸い込まれて、小さな破裂音を立てる。それは部屋からは見えないけれど、微妙に変化してゆく雫の跳ねる音が、水たまりの大きさや水かさの深さ、刻(とき)の移ろいを感じさせる。

「ん?」
 話が止まっていることに気付いたファルナは、しだいに夢から現実へと舵を取り、ふと優しいまなざしを正面に向けていった。すると、母と妹から注がれる視線に遅ればせながら気付いた。
 静寂の時間に浸っていた状態から、少し意識が戻ってきたのだろうか。山奥の村の娘はニ、三度大きなまばたきをしてから、疑うことを知らぬ子供のような口調で素朴に尋ねるのだった。
「どっちなのだっ? 秋の霧は、河から?」
 言い終わると、ファルナはおもむろに椅子に腰掛け直す。十七歳の長女は、秋の初めの頃に好んで着ていた薄手の長袖の服を重ね着し、ロングスカートの膝の上に両手を組んで置いた。

「秋の霧は、霧の湖からやってくるの」
 真っ先に答えを語った母の吐息はやはり白く、空気に溶けてゆく声の流れが分かる。言い終わる間際、木造の天井が少しきしむ音がした。宿屋として営業している二階の部屋を父が歩いているらしい。とても静かな山あいの、秋の雨降りの午後だ。
「私もこんな日に、母から聞かされたのよ……」
 母は淀みなくつぶやいた。母の言葉の内に宿る懐かしさと寂しさを確かに捉えたファルナとシルキアは、口を閉ざして次なる母の言葉を待つ。すると母は、記憶を紐解き、昔話を始める。


 10月 5日− 


[霧の湖(1)]

「霧の湖?」
 テーブルの向こう側から、娘のシルキアが身を乗り出して尋ねると、母は裁縫の手を休めて顔を上げ、うなずくのであった。
「ええ、そうよ」
 母の吐息は、部屋の中にいても白かった。今日はまだ炎は燃えていないが、最近使ったのだろう、暖炉には炭化して黒ずんだ薪が残っている。調理用ではなく、暖房用と思われる薪だ。
 外では緩やかに淑やかに、涼しい雨が降り続いていた。室内は薄暗いが夕方には早い。それでも日を追うごとに昼間は短くなり、まだ客のいない酒場のテーブルに置いてある意匠を凝らした古びたランプには、早くも黄色の輝きが点(とも)っていた。

「霧の、湖?」
 とても穏やかで、やや間延びした独特の口調で尋ねたのは、十四歳のシルキアから数えて三つ年上の、姉のファルナだ。
「そう……霧の湖」
 母はまず長女のファルナ、ついで次女のシルキアの瞳を見つめ、威張るわけでも卑屈なわけでもない、ごく自然な落ち着いた言葉で応じるのだった。木造の建物に宿る独特の樹の香りが、長く続く弱い雨を受けてやや強められている。雨音は、窓を閉めていればほとんど聞こえないくらいだが、時折、言葉が途切れた部屋の中へ、繊細に微かに染み込んでくるのだった。


 10月 4日△ 


[雨上がりの軒先に(2)]

(前回)

 だが、その代わりに別の奇跡が起きていたのだ。
 低い空を速い雲が流れ去り、崩れ、霧散する。その間から洗いたての青空が覗く草原の朝は、明らかに柔らかくなった日差しに照らし出されて、優雅に神秘的に横たわる。
 そして一軒家の軒先の、壊れかけていた蜘蛛の巣は――。

 放射状に、環状に広がってゆく蜘蛛の巣の一本一本が、赤や橙、黄、黄緑から緑へ、青緑から水色、青、紫、桃色へと。まるで色見本のごとく、隣り合う一本ずつが少しずつ色相を換えながら、淡く儚く輝いていたのである。まるで蜘蛛の巣に付着して輝く雫の色合いが、今だけ蜘蛛の糸に乗り移ったかのように。
 そこから不規則にこぼれ落ちる丸い雫の珠は、それぞれが生まれ出た蜘蛛の糸の鮮やかな色に染められていたのだった。

 次は蒼、橙、翠と移り変わる雫は、馴れてくると次の色がある程度は予測できるようになる。気のせいか、雫が一つの音符となり、曲を形作っているように思えてくる。雫が落ちるたびに、色が変わり、音が鳴る。それらが演奏をし、軽やかで澄んだ音が草原に響き渡る。そんな風に思えた、不思議な朝であった。

(続く?)
 


 10月 3日× 


[雨上がりの軒先に(1)]

 ゆうべの雨にしっとりと濡れて頭(こうべ)を垂れる、淡い色合いの秋草の丘を、涼しく速やかな風が駆け抜けてゆく。
「これは……」
 テッテはそう呟いて、目を見張り、息を飲んだ。

 町から離れた場所にぽつんと建っている丘の上の一軒家は、古びてはいるがしっかりした造りだ。
 朝が来て、雨上がりの軒先に、家主がいなくなって壊れかけた蜘蛛の巣が絡みつき、微かな風になびいている。それは小さな風車(かざぐるま)のようであり、あるいは花のようだった。

 幾つもの小さな雫が、切れかかった蜘蛛の糸を飾り立てるかのように付着している。いつもなら、それらのたくさんの小さな水滴は、光の加減や角度で、星のように、宝石のように色を変えて光るのだが――何故かその朝に限っては透き通った原石のままであり、雫の彩りが移ろいゆく様子は見られなかった。


 10月 2日− 


[光陰]

 光は経(たていと)
 陰は緯(よこいと)

 織った布は
 時の瞬き――

木々の織りなす光と陰(2005/10/02)
 


 10月 1日− 


(休載)

秋の空(2005/10/01)
 




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