2005年11月

 
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2005年11月の幻想断片です。

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 11月30日△ 


[去りゆく色]

「どうしたら……」
 つぶやいて、立ち止まり、彼女は息を飲む。

 時折、人々や自転車の穏やかに行き交う煉瓦の道に頭を垂らして、木の葉は一面に色付いていた。日の当たりにくい内側の葉は黄緑で、外側に向かって黄色、橙、赤と、微細に艶(あで)やかに変化してゆく。それは洋服よりも和服を思わせ、活発な若者よりも落ち着いた壮年の人を彷彿とさせる。
「ひかり……」
 その木の下に立ち止まっていた女性は微笑みを浮かべ、わずかに唇を動かした。それから彼女は煉瓦の道の脇に少し逸れて、息をつき、軽く背伸びをするのだった。

 通勤の鞄を足元に置き、葉の一枚一枚を覗き込めば――赤子の掌(てのひら)のような葉は、いま、裏側から光に照らし出されている。生まれて間もない黄金の朝日は、温かみのある黄色を投げかけつつ、葉の陰影を、それらの色の個性を、鮮やかに映し出す。赤はより赤らしく、夏の太陽の情熱さとは異なる優雅さを。黄は黄色らしく、春の希望よりも落ち着いた気高さを。
 だが見れば見るほど、色の表現は深く、難しくなる。とある葉は、赤と橙の間の、橙寄りの、その中間よりも赤寄りで――。
 結局のところ、それは唯一〈その葉だけの色〉なのだ。

「あーあ、もっと色んな語彙を知っていれば」
 女性はおもむろに鞄を持ち上げ、樹を仰いで歩き出す。様々な人が行き交う道の上で、諸々の葉が照らし出されている。
 その身を冷たく清らかな朝の空気にたっぷり浸し、まばゆい光に抱かれて色付いていたのは、楓(かえで)の葉であった。
 女性の後ろ姿と足音が、しだいに遠ざかってゆく。

 空はより青く、光はより傾いて、やがて秋は終わる。
 


 11月29日− 


[湖の空に光は輝く(2)]

(前回)

 気難しそうな針葉樹たちの枝が腕を伸ばした遥か上に、木漏れ日となって細切れの青空が垣間見える。葉の位置により、あっという間に驚くほど模様を変える重層的な真昼の星座は、不規則に駆け抜ける冷たい風を受けて、ちらちらと輝いていた。
 リンローナはゆっくりと腕を下ろし、そのまま両手を重ね合わせて左胸を押さえる。にわかに少女の呼吸は速まっていた。

 広大で複雑な森の中でほんの小さな存在である彼女が、再び顔をもたげて、森の天井を見つめた時――変化が始まった。
 風が凪ぎ、光がゆらいだ。
 散りばめられた木漏れ日はまるでカマキリの複眼のごとく、一斉に動き出した。これまで森の中に差し込んでいた無数の光の筋道は、森全体を覆う〈見えない布で編まれた鏡〉に反射するかのように、しだいに故郷の大空に向かって還ってゆく――。

(続く?)
 


 11月28日△ 


[湖の空に光は輝く(1)]

 鬱蒼と生い茂る森は、昼間でも薄暗かった。そこでは絶え間ない生命の鼓動を思わせる神秘的な湿気と、研ぎ澄まされた荒々しい野生の感覚が交錯していた。秋の終わり、昼を過ぎればしだいに傾く日差しを受けて、木漏れ日は高く、そして遠い。
 小さな虫が目の前を横切り、足元で何かが蠢く。針葉樹の森なので、赤茶黄の落ち葉は見当たらず、涼しさや昏さは深い。
 秋という季節が、このままゆっくりと溶けてゆく――そんな思いを抱く、静かな晩秋の一日になりそうだった。時を紡ぐ見えない機織り(はたおり)は、優雅に、どこか物憂げに動いている。

 その森の西の外れに近くに、年の頃は十五、六の、小柄な少女がたたずんでいた。薄緑の髪の彼女はやや上を見つめ、ごつごつした木の幹に左手をつき、落ち着いた様子でじっと立っている。その姿は、森の一部であるかのように調和していた。
 突如、叫びは落雷のごときに降り注ぐ。
 静寂を破り、樹の上の方から若い男の声が響いた。
「リンローナさーん、今です!」

 名を呼ばれた少女は、すぐに反応した。
 速やかに両手で印を結び、薄桃色の唇を動かせば呪文の詠唱が生まれる。草色の澄んだ瞳は真剣に見開かれ、低かった声はしだいに膨らみ――その終わりに願いが満ちあふれた。
「……輝きを増して、場所を示して!」
 華奢な両手を、少女は天の方角に力強く掲げた。


 11月27日− 


[晩秋]

 澄んだ春のように
 くすんだ夏のように

 天にきらめく銀杏(いちょう)の枝は
 青空の花園に咲き誇る

 その黄金(こがね)を池に映して
 落ち葉を水面(みなも)に浮かべて

 涼しく快い風とともに
 優雅な夕食の香りとともに
 穏やかな満ち足りた日は
 やがて暮れゆく――
 


 11月26日− 


 雪は音楽
  粒や間隔
 風も楽器
  強さと波

 それらが合わさり
  世界ができる

 私は音楽
  私も楽器

 そんな風に奏でよう
  そんな風に奏でたい
 今日という一日を――
 


 11月25日− 


[星の時計]

 漆黒の夜空は
 巨きさを測れぬ夢幻の海原

 闇の深まるごとに
 闇は闇から遠ざかる
 銀の輝き、星舞台

 じっと見つめれば見つめるだけ
 宝石箱はいっそう華やぐ

 星たちが近づいているの?
 私が遠ざかっているの?

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 こことあそこ
 未来と過去

 水流は交錯し
 砕けた光はめぐる

 刹那の人は過ぎ去り
 時は移ろう

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 やがて
 空は確かに白んで
 東の空から真っ赤な陽がのぼる

 昨日と少しだけずれた位置から
 昨日と全く違う明日が始まり――

 またとない今日が幕を明け
 花とミツバチは再び出会うのだ
 


 11月24日− 


[理想的な秋の過ごし方(3)]

(前回)

「師匠も《お嬢》さんもひっどいな〜」
 ユイランは軽く口をとがらせ、メイザを愛称で呼んた。メイザは外国に住んでいたことがあり、知識も豊かで、おっとりした雰囲気だ。格闘家には珍しく気品が漂っているため、師匠は《お嬢》と呼び、後輩たちは親しみを込めて《お嬢》さんと呼んでいる。
「せっかく、あたしが理想的な秋を過ごした話をしてるのにー」
 大げさに語ったユイランはというと、漆黒の瞳を見開き、むくれた様子だ。しかし彼女の口元は裏腹に、にやりと笑っていた。

 食べ終わった幾つもの器を前に、やり手の師匠は座ったまま筋肉質の太い腕を組み、ユイランを見下ろすように指摘する。
「ふーん。たらふく食ってるのは、理想的な秋だと思うけどさぁ」
「いやいや」
 滅相もない、という感じで、ユイランは素早く手を振った。
 その時、メイザはなぜかユイランに同調した。
「そうですよ、師匠」
「はぁ?」
 今度は多少意外に思い、すっとんきょうな声を上げてメイザに向き直った師匠は、言葉の意味をすぐに理解することになる。
 メイザは大真面目な顔で、こう説明したのだった。
「だってユイちゃんは、もともと一年中、食欲旺盛だもの」
「ありゃー」
 ユイランは肩を落とし、師匠は楽しげで精悍な笑顔になる。
「ははっ、お嬢もいいこと言うなぁ」
 すると周りで聞いていた仲間たちからも笑い声が起きた。

(続く?)
 


 11月23日○ 


[0から1へ]

「雲をつき抜けるほど高い塔がそびえています」

 文字は文字
 本の中の記号

 それが誰かの心に触れた時――
 新しい命を得る

 やがて2次元の広がりを
 3次元の膨らみを持つんだ
 


 11月22日− 


[明日]

 量る前に
 重さを決めないで
 


 11月21日△ 


 寒空に
 上りきれない
 下弦の月

 天頂を目指して
 大地に焦がれて
 不安定に歪んでいる

 星たちの間から
 今にも落ちてきそうな
 隕石みたい

 あるいは――
 


 11月20日− 


 新たなすすきの銀の穂は
 子供の伸ばした腕みたい

 老いたすすきの白い穂は
 爺やのくしゃくしゃ髪の毛みたい

 秋の終わりに溶けた穂は
 一粒ずつ天に還って
 いつかの冬の
 粉雪の種になるんだね
 


 11月19日△ 


 誰だって芸術家になれるのさ
 ほら、あの空の波をごらんよ

空の波(2005/11/19)
 


 11月18日− 


[色々の言葉]

「紅葉って、毎年、少しずつ違うけど……」
 リンはそこで深呼吸をした。
 肺の空気を入れ替えてから、続きを語る。
「森の色の違いって、何だか、文字に見えてこない?」

 黄、橙、赤、茶――そして緑。それらは不規則のようでいて、考えれば考えるほど、計算しつくされたような印象を受ける。
「ああ……そうかも知れねえなあ」
 俺はあえて重々しく応えた。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 例えば夜空には、銀色の宝石がまたたき、金色のきらめきが光る。そこでは、きらめきの長さと明るさが単語となり、挨拶となり、会話となってるのかも知れねえ。確かに声じゃなくても伝わるんだろう。波や風だって、意味があるかも知れねえよな。
 じゃあ、きっと紅葉の色だって――。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「行こう」
 草色の髪を揺らして、リンが半分振り向く。
「ああ」
 俺は同意した。交錯する足音が、新たな音楽を語り始める。
「そういえば、リズムもひとつの言葉なのかも知れねえな」
 俺がつぶやくと、リンは驚いた様子で応え、まばたきする。
「えっ?」
「いや、何でもねえ」
 俺はそう言った。
 ほんの一瞬だけ、俺たちは視線で互いの心を推し量る。

 それから前を向く。
 不思議なほどたくさんの楽器で奏でられているように聞こえる風のメロディーの響き渡る中、自信を持って歩き出した――。
 


 11月17日△ 


 おひさま散って
 星となり

  星が集って
  太陽になる

   夕暮れの秋
   夜の冬

    ああ――
    清らかに澄んでいる

     積もりし前の
     真白な雪は

      優しい夜気に
      とろけて消えた
 


 11月16日− 


[夢の種(3)]

(前回)

 翌日、あたしは薄暗い部屋に篭もっていた。涙は渇いて、顔には筋が残っている。
 あたしの準備運動が足りなかったことを知っていた。少しでも早く走りたくて、しっかり準備するのを怠ったんだ。
 つんのめって足首をひねった。怪我をしたのは、そうなって欲しいと望んだライバルなんかじゃなく、このあたし自身だった。
 保健室の先生は告げた――治るまで一週間。
 三日後の大会は絶望的だということを。

 あたしは椅子につかまり、ゆっくりと起き上がろうとする。
 憎いほど澄んでいた夜だった。カーテンも閉めていない部屋の窓から、細い月明かりが差し込んでくる。
 その時、あたしの目の前に、ぼんやりと浮かんでいるものがあった。暗い部屋の中で、そこだけスポットライトのように照らし出されていたのは、あの老婆にもらった〈夢の草〉だった。
「あんたのせいだ」
 完全なる八つ当りだ。それは心のどこかで分かっていた。
「あんたなんて悪夢の種よ」
「枯れちゃえ」
「もっと枯れろ」
「枯れろ、枯れろ枯れろ枯れろ!」

 あたしは悪魔のように呪った。暗い部屋のせいではなく、いつしか花びら自身が黒ずんでいたことにも気付かずに。
 思いとは裏腹に、くきや葉は少しずつ速度をあげながら伸びていった。あたしは煮え繰り返る思いで、やけになって叫ぶ。
「枯・れ・ろ!」

(続く?)
 


 11月15日− 


[地下迷宮]

「分かれてるぜ」
 ランプを暗闇に向け、先頭の小柄な男が呟く。
「右か、左か…」
 二番目の戦士が言った。ランプの明かりはとても届かない。
 三歩先の世界は、どちらも同じくらい暗かった。

 常に息苦しく、古びた空気は冷たく湿っている得体の知れない地下迷宮は続いている。誰がこんなものを作ったのだろう。
「まだ進むの?」
 僕は駆け出しの冒険者。
 その震え声は、闇の遠く、奥深くへと吸い込まれてゆく。

「明るい道は存在しねえ、戻る道もありゃしねえ」
 先頭の男がすばしこく振り向いて低く笑えば、ランプの光を受けて闇に白い歯が浮かぶ。僕の前の戦士も重々しく応えた。
「とにかく、決めるしかないだろう」
 そして彼は、何と、僕の方を振り向いたのだった。
「どっちがいいと思うか?」
「えっ?」

 僕は断ったが、頼まれてしまう。
 悩み、先頭の男に怒られたりしながらも、僕は右に決めた。
「いいのかなぁ……」
 僕がつぶやくと、すぐ後ろから聞こえたのは、背が高く無愛想で無口な女魔術師の声だ。
「進むべき方を決めたなら、それ以上、悩んではいけない」
 すると先頭の男も言った。
「ああ、そうさ。方針が決まったからには、落とし穴に気をつけながら、先に進むしかねえんだぜ。坊っちゃんよ」
「……す、進もう」
 僕はそう言って前の暗闇を見つめた。
 言い終えると唾を飲み込み、肩をぶるっと震わせて。
 そして繰り返し自分に言い聞かせるのだった。
(進め、進め、進め……)
 


 11月14日− 


[夢の種(2)]

(前回)

「あっ、増えてる!」
 明らかに、昨日よりも葉が増えている。細かい産毛(うぶげ)の生えたくきには、白い線で縁取りされた薄い黄緑色の葉っぱがたくさん育っている。そして、幾つかのつぼみも垣間見えた。
「今日もいいタイムが出たし、このままいけば、大会で……」
 あたしは陸上部のマラソン選手だった。あたしは薄桃色の小さなつぼみの一つに話しかけた。まだ開きそうではないが、このまま順調に行けば咲くだろう。もはや時間の問題に思えた。
「夢か。あたしの夢」

 その時、ふいに、あたしの脳裏にライバルの笑顔がよぎる。
「あの子が怪我しちゃえば……絶対、あたしが一番なのにね」
 あたしはつい、口に出して言ってしまった。

 言ってはならないことだったのに。
 思ってはならないことだったのに。

 覗き込んだ花のつぼみが、少し大きくなったような気がした。


 11月13日− 


[種(1)]

「これは……?」
 あたしが訊ねると、老婆は顔を上げ、ゆっくりと応えた。
「夢の種」
「夢の種?」
 思わず聞き返す。すると相手は、皺だらけの唇を動かした。
「あんたの夢を養分として、育つんじゃよ」
「どういうこと?」

 そこで急に目の前が白っぽくなってゆき――私は目覚めた。
 何の変哲もない、初冬の晴れた日の朝だった。
 私の汗ばんだ掌に握られた、一粒の茶色の種を除いては。

 黎明の空は、まもなく明けようとしていた。


 11月12日− 


[国境の橋]

[おい、資材一つだ!]
 橋の手前に立っている親方が良く通る声を張り上げて叫ぶ。
 二つの大陸にはとても長い立派な吊り橋がかかっていた。上には蒼い空、下には紺碧の海が広がっている。風が吹けば橋は大きく揺れるし、戦争があれば破壊される。しかし今日はほとんど風のない穏やかな日和で、二つの国にいさかいはなく、橋は至って平和であった。
[へいっ!]
 親方のげきに、部下がすぐに答えた。親方はさらに命ずる。
[朝の挨拶、清々しい箱を用意しとけ]
 部下は足もとの水色のダンボール箱を持ち上げ、ペンを用意するで丁寧に記入する。
[はっ! 文字は何と記入すれば?]
 訓練の行き届いた部下が、すぐに聞き返す。親方は告げる。
[《お》と《は》と《よ》と《う》だ]
[へいっ。《お》と《は》と《よ》と《う》ですね]
 部下はうなずきながら、ペンで素早く箱に文字を記入する。
[よしっ、すぐに運べ」
 親方の指示が出ると、部下は箱をかかえて礼をし、それからまるで疾風のような速さで、長い橋の上を駆け抜けていった。

 荷物が増えるたび、橋は強固なものに架け替えられる。
 紡がれた言葉が運ばれ、心がつながる――。

「おはよう」
 向こうの大陸で、まばゆい朝日の中、友が笑っていた。
 


 11月11日− 


[理想的な秋の過ごし方(2)]

(前回)

「本? 勉強?」
 おっとりした雰囲気のメイザであっても、今度はさすがに疑問に思ったようで、思わず聞き返した。そして師匠のセリュイーナはと言えば、怒ったり呆れたりするのを通り越して、脱力した。
「何だ、そりゃあ」
「センティリーバの大学に行った幼なじみがこう言ってたっすよ。『秋って、静かで、色んな知識がすんなり頭に入るわ〜』って」
 ユイランは祈るように手を組み、視線を斜め上に向けた。幼なじみの真似をし、わざと口を尖らせて普段より高い声を発した。

 メイザ先輩とセリュイーナ女史は唖然とし、顔を見合わせる。
 先に口を開き、率直な感想を述べたのはメイザの方だった。
「確かに、そうかも知れないけど。でもユイちゃんの言う台詞じゃない気がするけど……。本の話、あんまり聞いたことがないし」
 師匠はといえば、首をかしげて、しきりに瞬きを繰り返していた。が、突如としてユイランの肩に手を乗せると、珍しく本気で心配そうに、弟子の目をまじまじと見つめて、訊ねるのだった。
「ユイ……お前、どっか調子悪いんじゃないか?」
「違うっすよ〜。あと、別に『嘘』もついてませんからねっ」
 ユイランは最初は苦笑したものの、やたらと〈嘘〉という単語にアクセントを付けて応え、念を押す。するとセリュイーナは弟子の肩から手を外し、相手を試すように、鋭く指摘するのだった。
「嘘じゃなけりゃ、何か裏があるんだろう?」
「私もそう思う。だってユイちゃんと勉強って、相容れないもの」
 真面目な顔で喋ったメイザは、確信を持ってうなずいた。


 11月10日− 


[旅の空は果てしなく(前編)]

 懸念していた雨はゆうべのうちに過ぎ去り、細(こま)切れの霧の固まりが地表付近を這う、澄み切った青空の朝であった。
 中年の男と青年が隣同士で立っている。二人の男のうち、口ひげを生やした年長の方が、斜め上の空を仰いでつぶやく。
「晴れましたな」
「ええ」
 若い方の男が、薄茶色の帽子を持ち上げて言う。それから彼はしんみりとした様子で目を伏せ、いかにも最近歩き始めたばかりの旅人であることを示す言葉をつぶやくのだった。
「いつか、再び会えるでしょうか」
 すると年上の男は、うなずくことも首を振ることもせず――かといって全く無視するわけでなく、少し空をあおぐ角度を変えて、朝の空に放たれた光にまぶしそうに目を細めて、黙っていた。
「……」
 厳しく皺の刻まれた横顔は毅然としていたが、軽くかみしめた唇の隅には、隠し切れない哀愁の念が多分に含まれていた。彼の心は、まだ若かりし頃の彼自身を見つめていたのだろう。

(続く?)
 


 11月 9日− 


[音の塔(1)]

 その塔は少しくすんだ水色で、巻き貝を真似たかのように立体的にうずを巻き、天を目指して伸びていた。
 それはタケノコのごとくに健康的で、幾つもの四角の窓が開いている様子は、古びた優しいオカリナを思い出させた。
 そしてそこは見通しの利く黄緑の草の原っぱで、四方がよく見渡せたが、その先の方はすべて霞んでいた。ゆるやかな山の頂上付近を切り取って、雲のただ中に移植したかのようだ。
 辺りはひっそりと静まりかえり、ひどく遠い所から、高らかに誇らしげに、鳥たちの誉め歌が流れてくる。

 塔の中に入ると、そこは広くも狭くもない丸い空間で、上のほうに向かって狭くなってゆく。外から眺めた通り、内側の壁には不規則に無数に四角い窓があいていて、少しずつ色合いの異なる薄い蒼の空が覗いている。
 四角い窓は、階段で背伸びをすれば覗けそうなものもあり、また一方では背中に羽根でも生えた天使でもないと決して覗けない位置のものも存在した。
 しばらく上を眺めていると、天地が逆転して足元が崩れ、細くなっている塔の果てに吸い込まれそうな錯覚を起こす。それは不安定だが、不思議なほど、どこか心が惹かれる光景だった。

 顔を下ろし、再び螺旋階段に向き直る。速やかな足取りで、階段の最初の段をめざす。
 そして、利き足を軽く持ち上げて、ゆっくりと踏み下ろす――。

(続く?)
 


 11月 8日− 


[風の足跡(1)]

 外では、この冬初めての雪がちらついている、ひどく冷え込んだ晩のことであった。
 小さな山村の酒場には薄暗いランプの明かりがともり、その中は肉の燃える炎で暖かだった。弾ける油と漂う煙、あかあかとした輝き、食欲をそそる匂い――。
 訛りのある低い声で壮年の女が言い、テーブルに皿を置く。
「遅くなったげど、どぞ」
「おおーっ」
「こりゃ、美味そうだ」
 この初冬の晩、珍しく村を訪れた旅人たちは、運ばれてきた肉に歓声をあげた。
「明日ぁ、積ぼりますよ」
 頬の赤い女は、そう呟くと顔をしかめて軽く身を震わせたが、すぐに気を取り直し、旅人たちを安心させるように親密な笑顔をふりまく。その間も簡素な厨房では店主が働き、豚肉に火が通って飛び跳ねる音、匂い、明かりが生まれている。決して豪華ではないが、旅人にとっては何物にも代えがたい心のこもった温かな料理――芋のスープや卵料理、山菜が運ばれてくる。
 湯気のあがる熱いスープをスプーンで掬い、息を吹きかけてから喉に注ぎ込めば、胃の中から心の奥底まで暖めてくれる。

 暖炉から離れれば離れるほど身体の芯まで冷え込む、初雪の夜長であった。外からは何の物音もせず、世界中が緩やかに永い眠りについているかのようだ。
 その時、突如。
 ふいに窓際を黒い陰が横切った。
 それはあまりに一瞬の出来事で、しかも予想外の動きであり、その場にいた誰もが見逃したかに思えた。旅人たちは食と話に夢中で、店の主人とおかみは仕事に精を出していた。

(続く?)
 


 11月 7日− 


 雲間から朝陽が顔を出すと、
 新しい一日が始まる――。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 その頃のわたしは、川面を流れてくる赤や黄の色鮮やかな落ち葉、そして茶色の枯れ葉の数を数えてばかりいた気がする。
 ゆうべの嵐は今朝が来る前に過ぎ去って、青空はいよいよ蒼かった。この辺りに幾つも点在する湖を天の高みから見下ろせば、果てしない地上に蒔いた鏡のかけらか、ある いは天使の瞳のように透き通り、遥かな気高い〈青〉を映しているのだろう。

 わたしは河沿いの岩に腰掛けて、岩場を縫うように進む力強い水の流れを傍観していた。河の左右は深い森であり、木々は色づいている。時折、波のように訪れる風にさらわ れて、どこかの枝先から一枚、また一枚と葉が落ちる。それは不規則に舞い、踊りながらも、やがては地面へ、河へと引き寄せられる。

 河の流れは留まることを知らず、速やかに涼やかに、爽やかに進行した。時々飛び跳ねるように、泡を含んだり、しぶきを上げたりし、森の血管となって水分を送り続ける河は 淀みない。
 だが、落ち葉が木に戻らないのと同じように、流れが上に遡ることは決してないのだ。その点は、非情なほど明確であった。
 河には落ち葉が浮かび、水の動きに合わせて漂っている。それは上流から流れてきて、岩場に挟まれながらもやがて抜けだし、水面に小刻みに揺ながら、下流へと小さく なってゆく。

 あの落ち葉を捕まえるには――。
 鮮やかな紅の落ち葉を選んでも、わたしが手を伸ばしかけ、躊躇している間に目の前を流れ去ってしまう。その紅や黄金の彩りだけが残像となり、まぶたの裏側へ沈んでゆく のだった。

 朝の太陽が雲に隠れ、しばしの沈黙の後で再び姿を現した。静寂の中、森の木々は長い影となり、大地に黒く刻印される。
 風が吹き、上流の岩場を流れる小川の水は波立つ。森の呼吸を思わせる微風の群れがしっとりと通り過ぎてゆくと、わたしの心の中に一つの確かな感覚が確固とした形を取 り始める。
 すなわち、それは〈全てはありのまま、そこに在る〉と――。

 わたしは想像上の河の水の冷たさに、ついに覚悟を決めた。
 穴が開きそうなほど川面を見つめて、指先を震えわせながら恐る恐る右手を伸ばしてゆく。ゆっくりと、しかし確実に、澄んだ水は近づいてくる。今度は途中で留めることなく、 迫ってゆく。
 あと少し。
 触れる。
「あっ」

 指先に針のような、電流のような冷たさが走った。
 それは一つの終わりと、新しいものの始まりだった。
 水に触れた瞬間、私の身体は落ち葉へと変わっていた。
 私自身が、身軽で小さな、少し古びた落ち葉になったのだ。

 水の上で踊る光と陰を眺めながら、私の景色が動き始めた。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 あの落ち葉を捕まえるには。
 わたしはずっと前から、その答えを知っていた。

《流れとともに、進んでいけばいい》

 いつの日か、きっと河口で追いつけるのだから。
 


 11月 6日△ 


[理想的な秋の過ごし方(1)]

「で、あたしは走って、走って、走ったんすよ」
 身振り手振りをつけて、黒い前髪を揺らし、ユイランが強い語調に言った。正面の席で、その話を聞いていたのはメイザだ。
「うん、うん」
 他方、今朝のユイランは饒舌であった。朝食の匂いが残る木の床の広間で、平らげた皿を前に、あぐらをかいて座っている。
「風が冷たかったけど、走ると、いつも通り身体が温かくなってきて。空は青く澄んでるし、海も蒼いし、すごく気持ちよかった」
「秋って、涼しくて、運動するのに適してるよね♪」
「ユイ、お前、昨日そんなに走ったっけ?」
 横に座っていたセリュイーナが口を挟んだ。彼女は、ユイランやメイザといった格闘を志す若手たちの師匠にあたる人物だ。
「まあまあ、師匠。話はこれからっすから」
 すぐにユイランが両手を出してなだめると、セリュイーナは理不尽な様子で眉間に皺を寄せ、筋肉質の腕を組むのだった。

 ここは北辺のトズピアン公国、大陸の東に浮かぶメロウ島である。百人ほどの、老若男女の〈北方派〉の格闘家たちが集団生活をしており、厳しい自然の荒涼とした島で、自給自足の農作業のかたわら、修行をしている。集団のリーダー格の一人であり、ユイランやメイザといった女性の後輩たちからとりわけ信望を集めているのが、セリュイーナ師匠であった。二十七歳という若さながら、既に数々の大会で実績を挙げ、名を上げてきた。目つきが鋭く、良く響く低い声と引き締まった肉体、そして健全で何事にも妥協しない厳しい魂を持つ精悍な女性である。

 さて弟子のユイランは、あぐらをかいたまま少し背筋を伸ばして、上半身を反らし、自信たっぷりの得意顔で言うのだった。
「で、走った後は部屋では本を読んで、ちゃんと勉強して、さ」


 11月 5日○ 


 山の奥に向かえば
 空と大地か近づいた

 長い年月を経て刻まれた谷に
 光は深く射し込んで

 背中に幾つかの星を輝かせて
 無数のテントウムシが舞っていた

 清々しい空気の中で
 行き交う諸人の足取りは軽く

 崖に張り付くように作られた畑では
 柿の木の枝がしなっていた

 道祖神は静かに見守っている
 民家の脇には薪が積まれている

 川沿いの広葉樹は黄や赤茶に染まり
 渓谷はいよいよ秋の終わりを迎える

奥多摩(2005/11/05)
 


 11月 4日△ 


[森のうた(1)]

 わたしは見た。
 そしてわたしは聞いた――。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 迷い込んだ森の奥は、いつ果てることもない落ち葉のじゅうたんだった。だいだい、赤、黄色、茶色――いくつも穴のあいた、夢の残骸のような落ち葉の群れは、わたしが踏む とカサカサと渇いた音を立てて、ぬかるみに沈んだ。
 決まった道はなく、疎らに生えている木々の間が、どこでもわたしの道に、あるいは足休めの広場に成り得た。
 峠らしい峠はなく、山は緩やかな斜面が続いている。
 時折立ち止まり、葉が落ちてずいぶんと見通しの良くなった空をあおぐ。透き通った晩秋の蒼は、あんなに広いのに木の枝に切り裂かれて、目に染みるほど孤独だった。

 その、どこだか分からない、名付ける必要もなさそうな山の奥深くで――突然、わたしの聴覚は、明らかに動物とは異なる音色を捉えた。
 それは甲高い楽器のような音で、辺りの空気に浸透するかのごとく、物悲しく響いた。
 最初、懐疑的だったわたしは、人恋しさの幻聴かと思った。しばらく上を向いたまま立ちつくし、その場で落ち葉を踏み鳴らして回りながら、遠い山々から深くこだまして響いて くる笛のような音を聞いていた。

(続く?)
 


 11月 3日− 


 雲間から朝陽が顔を出すと
 新しい一日が始まる

 太陽の回りには鮮やかな橙色を従え
 遥か上の方には淡い水色が溢れる

 列になったかりがねが渡り
 秋の花はひそかな香りを奏でる

 真新しい朝の始まり――

 その瞬間に立ち会えたならば
 誰もが厳粛な想いを抱くだろう

日の出(2005/11/03)
 


 11月 2日△ 


[落葉の季節(2)]

(前回)

 ランプが消えているのにも関わらず、部屋の中はほんの少しだけ明るかった。今晩は満月だったろうか、と不思議に思いながら、レイヴァは冷えきったカーテンを注意深くつかんでいた。
 軽い音とともにカーテンが揺れ動く。細い二日月のごとく縦に開いた僅かな隙間が、しだいに拡がってゆき――それとともにレイヴァの瞳の瞳も見開かれ、窓の外に吸い寄せられてゆく。

 見上げた最初の一瞬、少女の視界に飛び込んできたのは秋の晩の漆黒だった。しかしカーテンが開いてゆくに従い、顕れてきた世界は、普段とは異なってほのかに明るく、その光は月影ともランプとも違っていた。また万が一、火事だとしても静かすぎる――いくら広々とした邸宅が立ち並ぶミラス町であっても。

 レイヴァは、あの僅かな明かりの答えが知りたかった。
 針の落ちる音が重みを持って響きそうな、静寂の中で。
 窓のそばに立ち、夢中になって顔をもたげた次の刹那――。

(続く?)
 


 11月 1日− 


[夕暮れの匂い/夜の花束]

 夕暮れの匂いは
 いま炊き上がる御飯の匂い

 誰もの表情が和らぐ
 あの温かな湯気の匂い

 白い壁はオレンジに染まり
 一つの町が楽譜となって
 家々の窓は音符のように
 それぞれ豊かに輝いている

 そこには何が映るのだろう
 何が待っているのだろう

 心穏やかな空気
 食欲をそそる、御飯の匂い
 それが続いて欲しいと願う

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 電灯の僅かな明かりは
 色褪せた遠い春の
 小さな花束のようだった

 光の届く範囲に浮かぶ
 赤や黄色や橙の花
 あれは何の花束だろうか

 葉が風に笑う
 あれは紅葉した木々だった

 はるか夜空で
 火星は深い色合いで瞬き
 星々はきらり輝く
 




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