2006年 1月

 
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2006年 1月の幻想断片です。

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  1月31日− 


[木霊使い(1)]

 わしは主に〈木霊(こだま)〉の力を使ってきた老いぼれでな。まあ広大な森の力を背景として、止血だの、傷の治癒だの、寒いときの暖だのと、それなりに役に立つ事をやってきたのじゃ。
 それはまあ、平たく言えば魔法みたいなもんじゃな、森と大地の力のな。わしは本物の魔法使いじゃないが、知識と訓練と経験、それから賢明な工夫と応用とで、万事うまくいっておった。
 たいしたことは出来んかったが、術を施した者からは食べ物を恵んでもらった。こんな森の中で、金など貰っても仕方がない。

 噂を聞きつけて、どこからともなく田舎もんたちが集まり始めた。貧乏な農民でも、町の施療院に払う金がなくても、わしに払う食い物くらいは持っておる。自分たちの食べるものにも事欠くような輩からは、わしは無理に対価を求めなかった。そりゃそうじゃ、わしの食べられる量にも限界があるからじゃ。火傷を抑え、一家の主の病気を治し、わしは大層喜ばれた。全ては善意じゃったが、わしは神のように崇拝され、調子に乗って治した。
 力は無限にあった。いや、正確には無限とほぼ等しいと思っておった。森に生えている木の数が、草の数が、数え切れないようにな。森にいれば、わしの不思議な力は限りが無かった。

 朝から晩まで、列は絶えることがなかった。まあこれも人助け、わしの務めだと思って、気前良くできる限りの術を施した。
 そのうち王侯や貴族の部下たちがこぞってやってきて、わしの取り合いになったもんじゃ。城に来るよう脅迫されても、断らざるを得なかった。森を離れると、魔力は失われるからじゃ。

 力のある王が、わしの住んでいた森を含む地方を占領した。森は軍に包囲され、農民たちの治療の列は途絶えた。わしは王家のためだけの医師になった。再び静かな日々 が訪れた。

(続く?)
 


 幻想断片六周年 

 2000. 1.31.〜2006. 1.30. 

  掲載 :312日 + 1630日= 1942日(88.6%)
  休載 : 53日 + 197日= 250日

 期間計:365日 + 1827日= 2192日


  1月30日− 


[風の算数]

 颯爽と流れる青き風と
 しっとりした緑の風が交わる所に
 この町は在る

 白き烈風に
 柔らかな陽射しを加え
 薄緑の風を掛け合わせれば
 小春日和になる

 黄色の風と
 赤い風の積集合に
 灼熱の季節が生まれる

 秋の種を背中に乗せて
 季節の関数に通してみれば
 その解からは
 待ち遠しい春が生まれるだろう

 風はベクトル――
 


  1月29日△ 


[冬空の星・その二]

 冬の夜空の帰り道
 誰もいない、田んぼの横の細い道

 雪の中に、何か光るものを見つけた

 立ち止まって拾い上げると
 それは銀の星の子だった

 家族の元に返したいけれど
 見上げた夜空は果てなく遠い

 そのうち星の子の輝きは弱まり
 夜露に溶けて、消えてしまった

 わずかな温もりだけを
 掌(てのひら)に遺して――
 


  1月28日− 


[冬空の星・その一]

 夕暮れにはうっすらと靄が漂い、遠くの稜線は霞んでいた。
 太陽は背の高い建物の向こう側に沈んでいったようだ。空は橙から、薄い群青色を経由し、鮮やかさの失われた藍色へと変化を遂げてゆく。
 暮れてゆく町には、ひとつ、またひとつと明かりがともる。黄色や銀色に見える家々の灯りは、かつてそこに暮らしていた螢のように、しだいにその数を増していった。

 そして――。
 星の数はひとつずつ増えていったが、その速度は遅かった。町の明かりと熾烈な争いをしているらしく、敗れて見えなくなる星も少なくなかった。
 夜のスクリーンから漏れだす町の光で、星の輝きが消える。

 町の光がほとんど落ちた午前四時、遠い場所で朝の産声が聞こえた。姿を現した星たちは、ほんの僅かで隠れてしまう。
 やがて朝靄につつまれ、星明かりは長い眠りにつく――。
 


  1月27日− 


[午前九時(1)]

 腕時計を見た。午前九時を回ったところだ。
 駅の改札口の横、人の流れの邪魔にならない所に立ち。
 辺りを眺めながら、俺はぼんやりと〈待って〉いた。

 今日も様々な人々が交錯している。幼な児の手を引いて笑顔で歩く親子連れ、杖をついてゆっくり歩く白髪(はくはつ)の紳士、派手な赤い服を着込んで買物に出かける太った中年女、足早に歩く背広姿のサラリーマン、遠くに出かけるのか声を立てて笑う若い恋人たち、もう少し落ち着いた年齢の若い夫婦。
 ラッシュアワーの後、デパート開店前の、ほんのひとときだ。
 誰かを待っている人々は、そのうち相手が現れて――まれに諦めて――それぞれの時を動かして、その場から去ってゆく。空間軸と時間軸の上で人々の線が交わることもあれば、並行したり、あるいはすれ違い、ねじれのまま交わらない事もある。

 いつから居るのだろう。
 待ち合わせをしている人は、この〈午前九時〉という時間帯にはあまり見かけないのだが――子供が居た。保護者はおらず一人のようだ。俺はそっちの方に近づいてゆき、声をかけた。
「キミ……誰を待ってるの?」

(続く?)
 


  1月26日− 


[生命の唄(1)]

「唄は生き物だ。力を与え続ければ……」
 男は深い声でそう語った。

 大地を上から受け止めるかのように二本の太い脚をしっかりと根付かせ、彼は良く晴れた草原に立っていた。所々に樹が生えているほかは視界を遮るものとて存在せず、意 志を持っているかのように険しくも荘厳な遠い山並みがはっきり見渡せた。
 私は待ち――そして待った。彼が再び唇を開いて、息を吸い、彼自身の名が刻まれた豊かな楽器を鳴らす瞬間が来るのを。

 彼はちらりと私の方を見て、声なき期待に気付いたようだ。
 彼の吐息が風と交歓し、大地と共鳴する。
 まさに《自然と》呼吸が整ってゆく。

 突然、向こう側の草が爽やかな音を立てて身をよじった。揺れる緑の波がしだいに近づいてくる。それは風の始まりだった。
 彼は敏感に察知して、その流れの上に乗るかのように、息を吐き出した。その風の波に、声帯の震えが重なってゆく――。

「ルォーッ」
 彼が朗々と唄った。まるで彼の頭の後ろから湧いて出てきたかのような、その音には張りがあり、確かに命が宿っていた。

(続く?)
 


  1月25日− 


[果てしない宮殿(1)]

「限りなく広い、宮殿みたい……」
 町外れを流れるマツケ河の支流のほとりにたたずんでいたメイザが、感銘の入り混じった神妙で冷静なつぶやきを発した。
 深くかぶった毛編みの帽子の中に黒い前髪をすっぽりと隠して、手袋をし、温かな毛皮の上着を羽織っている二十歳過ぎのメイザは、北国を厚く被う雪の上を歩くため、両足にかんじきを履いていた。艶やかな唇の間からは吐息が、しなやかな引き締まった身体からは蒸気が立ち登り、それは彼女から絶えずほとばしる〈生命力の炎〉そのものであるかのように思えた。

「確かに……そうっすねぇ」
 距離の見当のつかない地平線の彼方を、左へ右へとゆっくりと見回して答えたのは、メイザの後輩のユイランだ。彼女も厚手の防寒具を着て、木や細い綱で編んだかんじきを履いていて、肩の辺りや体つきはメイザより一層しっかりして見えた。それもそのはず、二人はメロウ島で修行を続けている格闘家なのだ。
「立派な調度品も、壁も仕切りもないっすけど」
 ユイランが言った。身体作りのため、ずいぶん遠くから歩いてきたのだろう、二人は額にうっすらと汗の珠を浮かべていた。

 町の入口となる街道の関所の向こう側に、雪原が広がっていた。その荒野には雪に埋もれた街道がまっすぐに伸びていた。あちこちに犬ぞりの小さな轍が無数に長く刻み込まれている。
 街道の両脇は見晴らしの良い荒野となっていた。時折、潮の匂いの混じる湿った気紛れな風が、強く豪速で吹き抜ける。かと思うと、遥か西に連なる連山と深い森を越えて、乾いた冷たい空気が吹き下ろしたりする。冬の吐息を思わせるそれらの風で、最近積もった表層の雪は勢い良く舞い上がるのだった。
 その厳しい雪の大地をいま、夕日があかあかと染めている。

(続く?)
 


  1月24日− 


[光の束(1)]

 光の手袋で光を束ねる仕草をすると――まるで草の束をつかんだかのように、縦に幾つもの柔らかな色合いの黄金の筋が入った。そこは手でつかんだ分だけ、わずかに輝きが増した。
「すごい!」
 子供たちの歓声が上がった。

 ある子は、光を器で掬うように、黄色の両手を差し出した。するとその小さな柄杓(ひしゃく)には、油のようにゆっくりと、だが確かに、黄金の液体が満たされてゆく。それは風のように、驚くほど軽く――やがて満杯に達すると、音もなく細い筋となって、ゆったりと優雅な線を描き、静かにこぼれ落ちてゆくのだった。

 その流れが白い大地に溶け込むと、そこの雪の表面は周りよりも少しだけ速く溶けてゆく。束ねられた光が、雪穴を開ける。
「横穴を開けないように。開けるには時間がかかるけれど、危ないからね。足元を溶かして、絵を描くくらいなら、安全だから」
 光の手袋を貸し出した男が、そう言って皆に注意を促した。

(続く?)
 


  1月23日− 


[海の底から]

 海の底から湧き出してくる粒の泡を
 さかさまになって見上げれば
 それは空から落ちてくる
 雨のように見えるのかしら

 水は優しいの
 落ちることはないの
 翼がなくても
 水より軽ければ、飛べるの

 息が続けば、それでいいの――

 海の天井は
 暗くて不思議な水底よ
 そこではいつも
 深い夜が漂っているの

 あの海の泡は
 空で水玉になるの
 魚はいつか
 鳥に生まれ変われるの

 その時を信じて
 海は呼吸をしているの
 空の風は潮の海流
 命の積もった海の雪――
 


  1月22日− 


[地図]

 旅の前に
 地図を広げて
 色々なことを想像する楽しみ

 旅の後に
 地図を見て
 色々なことを懐かしむ楽しみ

 見る地図は同じでも
 頭の中の情報は
 格段に増えている不思議

 それは、まさに――
 

海からの石廊崎(2006/01/22)
 


  1月21日− 


[空の目玉]

 黒いフライパンを、太陽にかざした。底には太陽が映ってる。
 やがて油のパチパチ跳ねる音と、何かに火が通って焼ける香ばしさが漂ってきた。もうすぐ〈空の目玉焼き〉が焼きあがる。

 白身は膨らんで、奇妙な形になって――。
 フライパンを飛び出してゆく。
 それは青空に浮かぶ雲になって、遠く流れていった。

「あちちっ!」
 と叫びながら、俺は手づかみでつまみ食いする。

 ――残った黄身はどうするかって?
 捨てるわけないさ、食べられるものを。

 それは夜まで取っといて、満月として使うのさ。
 途中で食べちゃって、欠けてることも多いけどな!
 


  1月20日− 


 リース公国は、メラロール王国と祖先を一にする〈ラディアベルク家〉の統治する国家だ。民族的にも、メラロール王国と同じく北方民族のノーン族が多数を占める。しかしながらリース公国は、主にウエスタル族の占める、マホジール帝国の属領だ。

「要は美味しいんでしょ? あの国が」
 おてんばで破天荒な姫君としてルデリア世界中に名を轟かせているミザリア国のララシャ王女は、このように言ってのけ た。リース公国の処遇をめぐる国際会議への出席、という名目での海外視察――あるいは旅行――が叶い、船で向かう途中だ。
 若く麗しく美しい黄金の前髪が、少し強い潮風にあおられて揺れる。お気に入りの水夫服の、白のまぶしいズボンの裾は、絶えずはためいていた。かの姫君いわく〈狭苦しい 宮廷〉から開放された王女は――まるで〈自由〉という言葉を体現したかのように、その軽く微笑んだ口元は、広がりゆく期待と希望、そして自信と誇りに溢れていた。輝きを秘めた強いまなざしは、海原の波で移動する銀の光の絨毯(じゅうたん)を見つめていた。

 機能的で動きやすいが品のあるスカートとブラウスに身をつつんだ、王女の気に入りの侍女であるマリージュが横で、言う。
「リース公国は、私たちにとっては、遠く離れた親戚みたいなもの、かも知れません。かつてミザリア国も、ミザリア自治王国として、マホジール帝国に朝貢していた時代がありましたから」
「そうね」
 遮るもののない南国の光に目を細め、王女はうなずいた。

 甲板を潮風が通り抜けてゆく――。帆は風を孕み、精鋭の船員たちは規律正しく動いている。海流と、折からの南風に乗り、航海は順風満帆であった。薄い雲を流した青空は澄み渡り、それを鏡のように映した大海原もまた、深みのある蒼であった。
 


  1月19日− 


[風の坂道(1)]

 重い足音を大地に響かせ、私はなりふり構わず、そこに駆け込んだ。だが視界が狭まっているとはいえ、肝心のものの姿は見えなかった。心臓は激しく鼓動を打ち続け、全身に伝わる。
「はあっ、はあっ……」
 全力で走ってきたので、あまりに息が苦しく、上半身を前に倒して膝に手をつく。周りの視線を感じる余裕など全く無かった。
 何とか顔だけを起こし、こめかみの辺りから汗が垂れるのも気にせず、前を見据えた。疲れで、目の前に黒い斑点が見える。

「遅かった……」
 緩やかな坂の遥か向こうで、左側に向きを変えた乗合馬車の姿がゆらぎ、消えていくところだった。それほど速くはないが、既にかなり距離が開いているのは明らかだった。今から走っても、とても追いつけるとは思えないし、それよりも私自身の走る気力が喪われてしまった。早馬でも駆らないと、無理だろう。
 走っている間から厳しいとは感じていたが、ついにこの努力が無駄だと見せつけられ、私はその場に力無くしゃがみこんでうなだれた。汗が背中を、頭を、太ももを伝い、閉じた 瞳は潤み、頭はぐらぐらと揺れて、肺は絶えず新しい空気を求めていた。

(続く?)
 


  1月18日− 


[海の階段、波の坂(1)]

 僕が足を踏み下ろすと、浅い水たまりを踏んだ時のように水が少しずつ飛び跳ねる。どう見ても、普通の床には見えない。

 水が――海の水が、僕の靴で踏める。
 潮の香りが常に強く、嗅覚に響き渡っている。

 階段を下りてゆくと、魚の群れが周囲の海をめぐっていた。
「まあ、水の精霊たちに気合が入っている状態だわな」
 案内人の老爺が、前を向いたまま語った。

 水の階段をりてゆけば、辺りは少しずつ暗く、空気は淀んでくるが、それでも明るい天井の向こうには青空が透けて見える。

 水の洞窟、その最も奥深くにある〈珊瑚の岩〉――。
 ミザリア国には水にまつわる伝説や伝承が多いけど、まさかこの僕が不思議な体験をするなんて。思わず胸が熱くなった。

 赤や黄色、小さいのや大きいのや、単独のや大勢のや、形も様々な魚たちを見ながら、いったい何段、降りたのだろう。暗くなる速度を落としながら確実に暗くなっていった道は、いつしか再び、薄ぼんやりと明るくなり始めていた。老人が示唆していた〈海の中の城〉の存在が、いよいよ現実の物として感じられる。

(続く?)
 


  1月17日− 


[風の書斎(1)]

「まあ、これも何かの縁じゃからな」
 彼は椅子に腰掛けたまま、少し首をひねって私を見上げた。
「ここから出してくれるんでしょうね?」
 疑心暗鬼にかられて訊ねると、老人は無表情に言った。
「そちらから領域を犯したのだから、まあ静かにしておれ」
 古びた紙に特有の、少し息苦しい〈昔の匂い〉が漂っている。

 真ん中に傷のたくさん付いた木のテーブルが置いてある細長い部屋は、彼の書斎だった。四方の壁際は本棚となっており、高い天井まで、びっしりと本で埋まっている。背表紙はどれもくすんだ色をしていて、本の厚さはまちまちだった。蔵書は大切に扱われているようで、詳しくは分からないけれど、どうやら分類ごとにきちんと整頓されてしまわれているようだった。梯子(はしご)は見当たらないが、高い所の本はどうするのだろう――私は今の状況を忘れて、のんきにそんなことを考えていた。

 その時、何か白っぽいものが、私の目の前を流れた。
「わっ」
 煙か、亡霊の類か――私は思わず、一歩引いた。

(続く?)
 


  1月16日− 


 雨降りの夜に
 町はしっとりと濡れて
 明滅する電灯は
 深き陰を落とす

 あゝ
 この道の静寂(しじま)なることよ

 コンクリートに靴音を
 打って歩めば
 一つ向こうの通りを
 見知らぬ誰(たれ)かの影がよぎる

 あの坂を
 最後まで降りてはならぬ
 さもなくば――

 あゝ
 深き夜の始まりの
 この懐の
 底なき静寂(しじま)なることよ
 


  1月15日△ 


 テレビのアンテナも
 電波を受けるだけじゃなく
 たまには指示を出したいのかしら

 大空の羅針盤となって
 雲の群れに


雨の翌日、青空の雲(2006/01/15)
 


  1月14日− 



 きいてみて
 自分の鼓動を、いのちの不思議を

 ――そんな静寂に出会える?


 見てみて
 自分の手も見えないほどの、漆黒を

 ――そんな暗闇に出会える?


 こんなにも暗い夜に
 光はいくつあるのだろう

 人の営みは果てしなく――
 それでも消えない闇の領域もまた、果てしない


 過ぎゆく時を
 裏へ表へ縫い合わせて
 昼と夜とを掛け替えながら
 どこへ向かっているのだろう


 時には静寂を、漆黒を
 限りない平穏と安らぎを

 


  1月13日− 


 過ぎ去ってゆく夜の車窓を流れる景色に、ふと目を留めた。
 橋にはいくつもの黄土色の灯りが、一定の距離をおいて並んでいる。ぼんやりとしていた記憶の焦点がしだいに合ってくる。

(誰も歩いてない)
(誰も見てない)
(誰もいない)

 列車は川をまたぎ、ほのかな闇と深い光のちりばめられた夜を、軽やかに滑るように進んだ。私から見れば、向こう側に見える道路の橋の方こそが、後ろへ遠ざかってゆくように見えた。

(向こう側)
(誰も、いない)

 かつて、私はその橋にいて、列車を見ながら歩いていた。
 その時の私は、流れゆく列車の窓の灯りとたくさんの人影を遠目に見ても、その中に自分自身の姿を捜すことはなかった。

 だけど、その列車に乗っている今の私は、あの橋にかつての自分自身を捜している。闇に澱む橋に、人影は見当たらない。

 あの時の私は、今の私を知らない。
 今の私は、あの時の私を知っている。
 お互いに知らないし、見えない。ましてや触れない。
 時間と呼ばれる、確固とした河に遮られて。

 橋に連なる黄土色の灯り――時の目盛り、風の里程標――だけが同じ〈あの場所〉であることを証づけているかのようだ。

「そうか、この町に住んでいたんだ」

 小さく質素な住みか。
 かつて私は、この町に、確かに住んでいた。
 そこを去り、下車駅は通過駅となって。
 いつしか、そのことを忘れてしまっていたのだ。

 もう、ここに居場所はないんだ。
 列車は川を渡り終えて、橋の姿は見えなくなった。
 町の明かりが、ほんの少しだけ滲(にじ)んだ。

 そして今夜も、その町は遠ざかっていった。
 


  1月12日− 


 あまり幅のない町の通りで、後ろから馬の蹄の音が聞こえてきた。音の間隔からすると、馬はそれほど速くはない様子だった。ケレンスたちは縦一列になって道の端を歩いていたので、少し気をつけつつも、そのまま歩いていた。すると――。

「おぉい!」
 怒鳴り声がして振り向くと、ムスっとした表情で馬の鞍にまたがっている初老の男と、一瞬だけ目が合った。馬はあっという間にケレンスたちの脇をすり抜けて、砂埃が舞い上がった。
「おい、ジジイ、何様のつもりだ!」
 ケレンスは思わず怒鳴り返したが、それを無視するかのように、馬と老人の背中は狭い通りの向こうへ遠ざかっていった。

「なんなんだ、あいつはッ!」
 ケレンスはぎらついた目で吠え、子供のように地団駄を踏む。頬を赤く染め、拳を握り締めて怒り心頭だが、既に怒りを通り越し、一矢報いることが出来なかった悔しさが勝っているようだ。
「足でも引っ掛けてやりゃあ、良かったぜ」
「そんなことしたら、また揉めますよ」
 相棒のタックは、喧嘩っ早い親友を少し呆れた様子でなだめた。その後ろのリンローナは、ため息混じりで残念そうに言う。
「しょうがないよ……ああいう人もいるんだから」
「そうですよ、あの種の人間はどこかで必ず損をしますから」
 タックが告げた。ケレンスは黙っていたが、やがてうなずく。
「そうだよな」
 血気盛んな剣士は、少しずつ落ち着きを取り戻すのだった。
 


  1月11日− 


 旅の途中で、ほっと息をついた。
 山並みは近づいたような、遠ざかったような。
 広い枯れ草の野原には、うっすらと霜がおりている。
 曇天の下、見渡す荒涼とした平野に、ガレた道は続く。

「進むことは、選ぶこと」

 口に出して言ってみた。
 そうだ。
 この一つの道を選んだ時、他の道の可能性は消えたんだ。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 晴れた昼間は、太陽が足元を照らすだろう。
 遠くまで見渡せる。けど、その先は分からない。
 ――だったら、夜とどう違うんだろう。

「先が分からない……ということは、分かるよな」

 呟いてみても、答える者はいない。
 ただ冷たい風が、壊れながら吹きすさぶだけだ。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 一つの瞬間、二つの場所には存在できない。
 どんな歴史上の偉大な人物でも、取るに足らない虫でも。

 あの町、この町。
 一つを選んで、それ以外を見捨てて。
 進んできた。

「だけど」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 行った先にも、必ず道はあった。

 右、左、まっすぐ。
 上、下、斜め。

 一つになった可能性は、また枝分かれして膨らんだ。
 時には引き返す道が、新たに進む道だった。

 永久になくした瞬間も、出会えなかった経験もある。
 確かに、選んでしまったから。

「だけど」

 選択と消失は、新しい選択肢の始まりでもあるんだ。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 そろそろ、また歩き出そうか。
 さっき決めた、道なき、未知なる道を。
 


  1月10日− 


[白い吐息(1)]

「はあーっ」
 年を経て少しくすんだ色の赤葡萄色の手袋を口元に当てた、その中の小さな空間に、彼女は暖かな息を細く長く吐き出す。
 吐息は、二枚が合わさって花のつぼみのように閉じられた手袋と、桜色の唇との間で、絹のような白い糸へと姿を変えた。
 ゆっくり吐き出される彼女の息が、みるみるうちに雪のような一筋となり、絡まって――それは真珠に似た小さな玉になる。
 蚕が繭を作るなりわいをとてつもなく速めたかのように、あるいは蜘(くも)が糸を吐き出すかのように、それはしだいに大きくなってゆく。人の息が持つ優しさをそのまま凝り固めたかのように、ほんの少しの、ささやかだけれど確かな温かさを伴って。

(続く?)
 


  1月 9日− 


 ――誰の足跡?
 ――きっと、あの子だ

 雪のキャンバスには
 時間の経過と、行程と、
 誰が歩いたかが
 ちゃんと刻みこまれてるんだよ


足跡(2006/01/09)
 


  1月 8日− 


 再び、わたしは服の袖で窓ガラスをこすった。
 キュッキュという鼠(ねずみ)の鳴くような音がした。

 家の中は冷え込んでいて、息の流れは半透明だった。
 蒼い風が吹き、橙の太陽が、赤い空のはざまから生まれ出ようとする。そして今、まさに一条の光が差し込もうとしていた。

 向こうの山から赤い点が現れ、横に伸びて線となる。
 次に雄大に、丸みを帯びながら縦に膨らんでゆく。

 柔らかな光線、暖かな色合い――染み込んでゆく。
 美しい、という言葉が表すものは、決して美しくない。
 特に、目の前で繰り広げられる朝の始まりには似合わない。

 この凛と張った時刻は、断崖のように険しく、厳しく。
 それでいて、深い慈愛に満ち溢れているのだ。
 父と母の交錯する、冬の朝のひとときである。

 日の出を見られるのは、季節のくれた贈り物だろうか。
 


  1月 7日− 


 月光の釣り糸を
 暗い空に放り投げると
 何が釣れるだろうか

 星か、月か
 それとも大物、銀河系か――
 


  1月 6日− 


[雪の思い(1)]

「これって……」
 リュアはうず高く積もった不思議な白い山を見上げていた。
 町全体に降る〈はず〉だった雪は、大空に掘った見えない穴に吸い込まれたかの如く、ある一箇所に縦に長く積もっていた。
「これって、もしかしたら……」
 物思いに沈み込もうとしたリュアをよそに――隣にいたリュアの親友のジーナは、その白い塔に向かって駆け出していた。
「行こう!」
 その声を置き土産に。

「あっ……待って!」
 リュアはもう一度、雲を突き抜けるほどに高い白亜の塔を仰ぎ見てから、どんどん遠くなる友の後ろ姿に気付き、急いで追う。塔の周りにこぼれ落ちていた粉雪が、微かに舞い上がった。

(続く?)
 


  1月 5日− 


 海は広く
 波は穏やかだった

 先刻まで凪いでいた大海原の
 遥か彼方に黒雲が湧いたかと思うと
 それは見る見る竜巻となり
 突如、雷鳴が轟いた

 海をかき混ぜ
 波を叩き割り
 稲光は魚を燃やし
 天地の境をも破砕した

 その一方で

 冷たい時雨(しぐれ)のあと
 森の木の間に銀の糸――
 繊細な、僅かな
 白糸のごとき光が射し込み

 青白い葉に載せた雫は
 まるで妖精の笛の音の軌跡であるかのように
 信じられぬほど、しなやかに

 穏やかに
 いつしか優しく
 限りない慈悲とともに
 暖かく時を紡いだ

 そんな

 自然の魅せる神秘のような
 人の心の不思議さよ
 


  1月 4日△ 


 坂を降りてゆくと、しだいに家々の屋根の間に〈青〉が広がってゆく。透き通った空をあおぎ、ケレンスは上機嫌で言った。
「今年はいいことがありそうだな」
 年末の風の冷たさも、新しい年になった最初の週――祝週(しゅくしゅう)を迎えると、いくぶん和らいだかのように見える。
 新年も四日目、祝いの時期も終わりに差し掛かり、お祭り騒ぎと興奮は収まっている。町の人通りはあまり多くはないが、すれ違う者たちはみなどこか華やかで、明るい顔をしていた。ケレンスと二人並んで歩きながら、親友のタックが横で言う。
「慌ただしく吹いていた風は、今だって冷たいのに、何だか清々しく感じられますね」
「そうだよな〜」
 答えてから、ケレンスは軽く鼻をすする。
 彼の視線のはるか先にある白い雲は、薄くかすれた幾つもの曲線を、一級の芸術品のように蒼いキャンバスに描いていた。
 


  1月 3日− 


 闇から生まれた
 幻の黒い蝶は
 誰にも見られずに
 羽ばたきを始める

 夜目のきく彼らは
 昼の明かりは眩しすぎる
 黒い蝶は昼間の空に
 真っ白な新月を見る

 ――私たちは太陽と呼ぶ――

 そしてまた
 夜空に光る望月も
 夜に蠢く者たちには
 新月と呼ばれているかもしれない

 月齢一日目の細い月は
 彼らにとって十六夜(いざよい)だろう
 太陽が暗いと思う種族にとって
 私たちの光は彼らの闇なのだから
 


  1月 2日× 


(休載)
 


  1月 1日− 


 線路はつながっている
 曲がりくねっていても

 ちょっとした
 レールの継ぎ目を過ぎただけ

 さあ、今日という枕木を入れよう
 明日も、明後日も

寒川〜西寒川(2006/01/01)
 




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