2006年 4月

 
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2006年 4月の幻想断片です。

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  4月26日− 


[若葉]

 誰かの家の庭に、濃い桃色のつつじの花や、優雅な紫の藤の花が咲き誇っている。通りに並ぶ木々の若葉の、光に照らされて鮮やかに明るく浮かぶ緑色がまぶしい。

 その時、ふいに。
 視界のすみを淡い黄色の大きな花びらが通り過ぎた。
 ――ように見えた。

「え?」
 思わず立ち止まって眺めても、風に乗っているわけではなく、地面に落ちているわけでもない。
 その場に立ち尽くし、額に手をかざし、まばゆい空を仰いだ。
「何だったんだろう……」

 あとで私の話を聞いた彼女は、こう言った。
「やっぱ、それって花びらじゃない? 春の季節自身の、さ」

 ――なるほどな、と思った。
 


  4月25日− 


[眠り]

「お姉ちゃん」
 妹がつぶやいた。
 真っ暗な部屋の中で、ベッドの軋む微かな物音が聞こえた。

「眠ったら、あたしたち、どこへ行くのかなぁ?」
 静寂に染み渡る、優しく穏やかで、ゆったりとした声が響く。
「……」
 返事はなかった。
 姉のファルナは、一足先に安らかな寝息をたてていたから。

「お姉ちゃん、おやすみ……」
 温まりつつあるベッドの中で。
 妹のシルキアも、もう間もなく深い眠りに墜ちようとしていた。

 まぼろしの、きらめきが、ふと、とおくで、てを、ふって――。
 


  4月24日− 


[注文]

 かなり薄暗く、煙草の煙る濁った空気の店内には、名前も知らぬ古いジャズがけだるい調子で流れていた。
 幾つかある狭いテーブル席から、それぞれ低く談笑が漏れていた。五席あるカウンターの先客は一人だけで、右隅にいる。
 私はカウンターの左隅に座り、バーテンに注文した。
「ここのお勧めを」

 バーテンがシェーカーを振る音が、快く響いた。
 マッチをこすり、誰かが煙草に火をつけた。

「お待たせしました」
 しばらくすると、炭酸の小さな泡がリズミカルに立ちのぼる、深緑のカクテルが置かれた。繊細にも、優雅にも、大らかにも、そして非情にも見える、濃い緑茶に透明感を出したような見慣れぬ色だった。氷は入っていないが、良く冷えてはいるようだ。

 グラスに触れて、傾ければ、低い天井から吊された年を経た不思議な黄色の電球の光を映して、液体の色彩は驚くべき変化を遂げた。青から紫へ、桃色から赤へ、橙から黒へ――。
 持ち上げて鼻に近づけても、匂いはほとんどなかった。

「これは?」
 私は小声で尋ね、指差した。バーテンはこちらを向いて、ほんの少し目を細め、落ち着いた口調で奇妙なことを言い出した。
「このカクテルは、ほとんど減っていないように見えますが、実際は微細な量ずつ泡となって永遠に減り、蒸発してゆきます」
「……」
 私はぎくりとして、唾を飲み込んだ。男は続けた。
「これは、おかわりを注文することは出来ません」
 バーテンは私の顔を見つめて、さらに付け加えた。
「一気に飲もうとしても、減りません。よく味わってください」
「これは、何だ?」
 思わず私は、やや強い調子で問うた。

 カウンターの向かいに立っているバーテンはゆっくりとうなずき、私の目の前にあるグラスに視線を走らせて、こう告げた。
「このカクテルは《時間》でございます」
 


  4月23日− 


(休載)
 


  4月22日△ 


(休載)
 


  4月21日− 


(準備中)
 


  4月20日△ 


(準備中)
 


  4月19日△ 


(準備中)
 


  4月18日− 


 夜の河は流れている

 闇の中で河が流れる
 聴覚を少しずつ満たしてゆく

 水音は呼吸しながら
 底から深く響いていた

 昼は光の中で影を写し
 今は闇の中で星を写している

 その内側に
 得体の知れぬ魔物をひそめて

 まだ見ぬものへの魅惑と
 恐怖とに架けられた
 淡く、清々しくもある橋を渡って――

 夜の河は流れてゆく
 


  4月17日− 


(準備中)
 


  4月16日− 


(準備中)
 


  4月15日− 


(休載)
 


  4月14日− 


[めぐる時に]

 朝の影のはざまに
 光の舞のせつなに

 昼の海のどこかに
 曇り空の向こうに

 夕の森はかすかに
 雨の粒はひそかに

 夜の星のしじまに
 雪の雲のとおくに

 虹の空のかなたに
 巡る時のあしたに

 大人という言葉が
 いつしか輝きを失くしても

 なお――

 明日の秘めし
 輝きは消えぬ
 


  4月13日− 


 少年は尋ねた。
「何を撒いてるの?」

 すると、細かな芸術品のような指の間から粉をこぼしながら、背中に翼の生えた、掌に載るくらいの大きさの妖精が答えた。
「この粉を撒くとね、昼間の光を吸い込んでね……」
 不思議な粉は、星のかけらのように、ちらちら瞬いている。
「道しるべとして、夜になるときらめくの」
 宙に浮かんで半透明の羽を動かし続けている妖精が、すっかり惹きこまれた様子で覗き込む少年の方を振り向いて言った。

 温かな色が満ちている、闇に浮かぶ光の合図――。
 木々の足元に輝く魔法の星座が、少年の頭をよぎった。
 


  4月12日− 


[傘と眼鏡(3)]

(前回)

 私は眼鏡を掛ける前によくよく見直した。傾け、回し、レンズの厚さを確かめる。紫色の細いフレームという以外では、特に大きな特徴のない眼鏡だ。重量としては、やはり軽く感じる。
 そうしながら、眼鏡を手渡してくれた男を垣間見る。背は高くはなく、かといって低くもない。どこにでもいそうな初老の男だ。
 私は咳払いを一つしてから、注意深く眼鏡を開く。少しずつ近づければ、フレームはやがてこめかみに触れ、スライドさせる。
 レンズが瞳に近づいて――。

 その眼鏡の、濃い紫色のフレームが両方の耳に乗って安定し、私の目の焦点が合った刹那、世界は丸きり変貌を遂げた。
 人々も建物も一瞬にして消えた。見えるのは、傘だけだ。
 優美な赤い傘、鮮やかな青の小さな傘。使い古した紺の傘、高価そうな黒の傘。それ以外にも、チェックや、ビニールの傘もある。まずは、それぞれ個別に異なる色や形が目に入った。
 それらは傘自身が持つ特異な外観から、灰色の霧の海を泳ぐ古代魚の群れに思えた。私は心奪われ、夢中で見ていた。

(続く?)
 


  4月11日− 


[傘と眼鏡(2)]

(前回)

「この眼鏡、かけてみな」
 突然の声は、明白な意思を持って私に向けられていた。
「え?」
 年の頃は五十ほどだろうか、見知らぬ男が横に立っていた。私の目の前に、濃い紫色のフレームの眼鏡が差し出された。
「え……と」
 無造作に差し出された眼鏡と男の顔とを交互に見比べて、私は困惑した。相手は透明のビニール傘をさしていて、帽子を目深に被っているし、霧の多い雨の中で表情は読み取れない。
「かけてみなさい」
 厳然とした声だった。だがその語尾は不思議と命令調ではなく、幾分、柔らかみもあった。特にいらついた感じも受けない。

 ぶっきらぼうで、お世辞にも親しみを込めた対応ではないが、敵対的な感じも受けない。私は唾を飲み込み、心臓の高鳴りを覚えながら傘を左手に持ち替えて、一気に右手を差し出した。
「それでいい」
 初老らしき男は、そこで初めて満足そうにうなずく。
 私は五本の指でつつみこむように、丁寧に受け取った。
 その眼鏡は、意外なほどに軽かった。


  4月10日− 


[傘と眼鏡(1)]

 葉を伝って大きくなった雨粒が傘を打つ、太く単調な音が続いている。小雨の降り続く中でも、人々は休む頃無く行き交う。洒落た石畳にも水は溜まり、人が通ると弾けて、跳ね上がった。
 灰色の霧が舞うので、人々の服装も表情もくすんで見える。
 ここは坂道の途中、街路樹の通りだ。木の下でたたずみ、紺色の傘を差して立っている私を避けて、人々は過ぎ去る。足早に、リズミカルに、あるいはゆっくりと大地を踏みしめるように。
 私はひとり、雨の待ちぼうけをしている。


  4月 9日− 


 天と地のパズルを繰り返している。

 雲、星、虹…… …… ……
 …… …… ……花、木、草


 星が隠れて、虹も見えない夜に、
 地上の生き物は待っていた。

 ――天地をつなぐものは、何?

 見えない期待が最高潮に達した、その時。
 何かが地面に弾けた。

 ほら、ひとしずくの透明な水が、単語となって。
 雨の会話が始まったみたいだ。
 


  4月 8日− 


[四季の家]

「先ほども申し上げました通り、これは四季の家です」
 中年の男は、時折身振り手振りを交えながら説明した。
「一年の流れを、一日の中に散りばめてあります」

 ガラスで覆われた明るく広い庭が見渡せる縁側には椅子が並べられ、家の購入を検討している見学者たちが座っている。
 心地よい音楽が流れている。室温は程よく、快適だった。
「朝は春。春の花が一斉に咲き、甘い香りが家の中を満たします。梅雨の花を経て、昼過ぎには夏草が、夏の花が咲きます。緑の木々はやがて紅葉し、夕暮れは晩秋。夜になると、照明による雪の演出があります。天井には金銀の星がきらめきます」
 説明者が言うごとに、庭の花や木々の色、照明がダイナミックに変化する。その都度、見学者から歓声が起きるのだった。
「素晴らしい」
「一年の良いところが毎日味わえるなんて」
 すると説明者は、満足そうに言うのだった。
「四季の移り変わりを、日々、味わえるのです」

 私は静かに席を立ち、ゆったりとした足取りで去った。
 外に出てから、後ろを振り向かずに大きく深呼吸した。
 高層ビルの谷間を、強い春風が駈け抜けていた。
 


 幻想断片2000回 

 2000. 1.31.〜2006. 4. 7. 

 開始より2259日目
 


  4月 7日△ 


[この日]

 とある春の日の、薄雲に覆われた灰色の空の下で――。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 屋外にある石造りの長方形の闘技場に、男たちの野太い歓声と、女たちの甲高い叫びが響く。中央で二人が歩み寄る。
「ありがとぉ〜っしたー」
 勝った格闘家のユイランは後ろで束ねた黒髪を揺らし、大雑把な仕草ながら深く頭を下げた。呼吸はあまり乱れていない。
「はあっ……ありがとう、ございましたっ!」
 少し遅れて、対戦相手の小柄な少女が礼をした。身体はユイランより一回り小さく、こちらは明らかに疲労が目立っている。

 そして二人は規定通り握手をし、並んで試合場を離れる。
 歩いている途中で、相手の少女はユイランにこう訊ねた。
「あのっ、率直に伺ってもいいですか?」
「ん?」
 少し遅れてユイランが不思議そうに反応した。相手は迫る。
「あたし、弱かったですか?」

「へ?」
 ユイランは驚いた様子で立ち止まり、少女の顔を見下ろす。
 それから口元を緩めると、飾らない言葉遣いで軽く答えた。
「別に、そんなことないよ」
 それだけでは押しが足りないと思ったのか、さらに補足する。
「弱いだなんて。いい試合だったと思うけどな、あたしは」
「そ、そうですか?」
 つられて立ち止まった少女は頬を紅潮させた。十九歳のユイランよりも少し若く、肌は艶やかで、八重歯が愛らしい。かなり厳しい修行を積んでいる筋肉質のユイランに比べると、まだ発展途上の印象を受ける。彼女も黒髪族で、瞳は漆黒だった。
「自信持ちなよ。あんた、結構、手強かったよ」
 格闘大会の試合に勝っても奢ることなく、彼女らしい自然体で、ユイランは相手の両肩に手を載せる。自らが所属している道場の後輩にでも助言するかのように、情熱的に語りかけた。
「勝負は、日頃の努力と時の運。たまたま今日はこういう結果だったけどさ、明日やったら、勝つのはあんたかも知れないよ」
「はい……」
 ユイランを見つめたまま、少女の方は何度も力強くうなずく。
 その、ぬばたまの黒い眼差しが、ふっと寂しげに反らされた。
「明日は、私はいないけど、別の私が、きっと貴女と闘います」
「え?」

 一瞬、ユイランは再び固まった。が、あまり難しいことを考えるのは嫌だ――とでも言いたげに戸惑いの微笑みを浮かべた。
「よくわかんないけどさ、その時は、もちろん受けて立つよ」
 ユイランの言葉を聞いた少女は、胸に手を当て、深く感銘を受けている様子だった。彼女は晴れ晴れとした表情で礼を言う。
「ありがとう。明日も、明日の私をよろしくね」
「ういっす」
 微妙なユイランのいらえは、相手の言っていることを理解できていない、という感じがありありだった。他方、少女は手を振りつつ、もはや何の未練もない雰囲気で爽やかに駆け去った。
「さよなら、ありがとー!」
 その後ろ姿を目で追って、ユイランはぽつりと独りごちた。
「変な子だなー」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「ユイちゃん、おめでと〜」
「まあ、こんなもんだろな」
「……」
 ユイランが席に戻ると、道場のメイザ先輩やセリュイーナ師匠の言葉、後輩のキナの拍手など、仲間の祝福が待っていた。
「どーもっす」
 照れた様子でユイランは頭を掻く。メイザはすかさず告げた。
「まずは一回戦、順当勝ちね」

「いや……」
 珍しく、ユイランは口ごもった。さっきの、どうも心に引っかかる少女の試合中の技や表情を思い出していたのかも知れない。
「見てるほどには楽じゃなかったっすよ」
 おちゃらけていない真面目な口調で、ユイランは言う。横でメイザが何か喋っていたが、それには上の空で、競技場の向こうからこちらに向かって手を振る、さっきの少女を見つめていた。

「そっか」
 次の刹那、ユイランはふと呟いた。
「あの子って、もしかしたら《今日》の化身だったのかな」
「えっ?」
 メイザの驚きに対して、ユイランは軽く首を振った。
「いや、何でもないっす」
 その時の彼女の表情は、優しく穏やかに緩んでいた。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 とある春の日の、薄雲が溶け始めた、水色の空の下で。
 


  4月 6日△ 


[夜の色、夜の向こうの色]

 外は思いのほか冷えていて、身を縮めた。薄桃色の花が春の夜に白く浮かび上がっている。大通りから一つ小路に入れば、道ゆく人の姿はほとんど消え、静寂の天使が舞い降りる。
 気まぐれに流れる風の中で、ふと立ち止まった。

 その時のことだ。
 耳が、何かの物音を捉えた。
 心を澄まして、耳に注意を集める。
 軽く目を閉じて、しばらくたたずむ――。

 すると確かに小さな声が聞こえてきた。
 それは可愛らしい唄だった。

「銀色の星明かりが
 淡く照らしているよ
 町に続く森の道を……」

「金色の町の灯りも
 教えてくれているよ
 森の向こうの行き先を」

「夕暮れのかけら
 深い海の底の水
 菜の花、青空、釣鐘草」

「隠れたもの」
「見えないもの」
「本当は、そこにあるもの」

 声は、しだいに遠ざかっていった――。

 ゆっくりと瞳を開いてゆく。
 夜の中で、焦点が合ってくる。
 頭上で仄暗い電灯が瞬いている。

 再び歩き出した。乾いたアスファルトを踏みしめて。
 


  4月 5日△ 


[約束]

 わたしは毎日、その小さな池に手を伸ばしています。雲の多い日や、雨や雪の日は無理だけれど――晴れてさえいれば、通り道がてら、夕方遅くには森の中のその小さな池に触れることができるのです。
 ――といっても時期が決まっています。今期は今日でおしまい。日の落ちる直前に、池の水面に触れることができました。
 秋になれば、木々の合間を縫って、日ごとに出会うことができるでしょう。そして、それが解っていても――その日が来るまでは、私は手を伸ばし続けることでしょう。
 約束しましょう、またこの森のこの場所で、晴れた秋の日の夕暮れに、こうして再び会いまみえることを。

 わたしは、森の奥まで差し込む〈陽射し〉です。
 


  4月 4日− 


[風のピアノ]

 なだらかな春の野原の片隅に、風のピアノはある。
 光の縦糸、影の横糸――季節のピアノ線。
 それは草のような、淡い黄緑色のピアノだった。

 うら若き髪の長い乙女が、椅子に腰掛ける。
 彼女は息を吸い、美しい指を鍵盤に乗せる。
 ついに演奏が始まる。

 リズムに合わせて、乙女は鍵盤を叩く。
 時には柔らかに、時に華麗に、またある時には決然と。
 だが、ピアノの音は、いくら耳を澄ましても聞こえない。

 その代わりに。

 ふわりと、花の香を運んで、甘く優しく。
 春の野原をなびかせて、春の風が通り過ぎる。
 麗しい乙女の演奏が、風の輪舞曲(ロンド)になる――。
 


  4月 3日− 


 毎朝、わたしは
 光の小箱を開ける
 空のかなた
 数えきれない光の中で
 たった一つの光の箱を
 毎日違う不思議な箱を
 透明な真四角の箱を
 開け続ける
 そんな、あっという間の生涯

 あるいは
 枝を離れた木の葉
 裏と表を表しながら
 ひねって落ちてゆく
 長い一生

 どれもこれもは出来ない
 選ぶのは、たったひとつだけ
 


  4月 2日− 


[空の攻防(1)]

 怪しい魔法店で、空の絵の具を買った。安かったから。
 で、やっつけ仕事で描いた。まあまあ良い作品になった。

 次の朝になった。僕は絵を見て、叫び声をあげた。
「ぎゃっ」
 きのう描いた青空の絵は、一面の曇り空に変わっていた。

 刷毛(はけ)を走らせて何度もこすると、そのうち雲が切れて、青空が覗いた。僕はその絵をかかえて、学院に急いだ――。

(続く?)
 


  4月 1日− 


 無数の鮮やかな黄色の花が咲いていて、ほのかな甘い匂いが漂っている。そこは森を出た所に広がっている草原だった。
 しゃがんで見取れていた彼はつぶやいた。
「きれいだな……」
 穏やかな風を受けて、花は微かに動いた。木々の枝先では鳥がさえずり、飛び交い、葉が揺れた。陽の光は優しかった。
 息を大きく吸い込むと、身体の奥まで浄化される気がした。

「じゃあ、そろそろ行こうか」
 彼が言った。私はうつむいた。
 私はもう少しここにいたいのに。この平和の中に。
 
 確かに、ここにずっと居たら盗賊が出るかもしれない。こんなに穏やかに見えるのに、この付近は、実は昼でも危ないのだ。危険だから、この静けさと自然が残った、ともいえる。次の町に早く着かなければ、特に夜になる前に。それは理解している。

 それでももう少しだけ、この平和に浸かっていたかった――。
 




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