[注文]
かなり薄暗く、煙草の煙る濁った空気の店内には、名前も知らぬ古いジャズがけだるい調子で流れていた。
幾つかある狭いテーブル席から、それぞれ低く談笑が漏れていた。五席あるカウンターの先客は一人だけで、右隅にいる。
私はカウンターの左隅に座り、バーテンに注文した。
「ここのお勧めを」
バーテンがシェーカーを振る音が、快く響いた。
マッチをこすり、誰かが煙草に火をつけた。
「お待たせしました」
しばらくすると、炭酸の小さな泡がリズミカルに立ちのぼる、深緑のカクテルが置かれた。繊細にも、優雅にも、大らかにも、そして非情にも見える、濃い緑茶に透明感を出したような見慣れぬ色だった。氷は入っていないが、良く冷えてはいるようだ。
グラスに触れて、傾ければ、低い天井から吊された年を経た不思議な黄色の電球の光を映して、液体の色彩は驚くべき変化を遂げた。青から紫へ、桃色から赤へ、橙から黒へ――。
持ち上げて鼻に近づけても、匂いはほとんどなかった。
「これは?」
私は小声で尋ね、指差した。バーテンはこちらを向いて、ほんの少し目を細め、落ち着いた口調で奇妙なことを言い出した。
「このカクテルは、ほとんど減っていないように見えますが、実際は微細な量ずつ泡となって永遠に減り、蒸発してゆきます」
「……」
私はぎくりとして、唾を飲み込んだ。男は続けた。
「これは、おかわりを注文することは出来ません」
バーテンは私の顔を見つめて、さらに付け加えた。
「一気に飲もうとしても、減りません。よく味わってください」
「これは、何だ?」
思わず私は、やや強い調子で問うた。
カウンターの向かいに立っているバーテンはゆっくりとうなずき、私の目の前にあるグラスに視線を走らせて、こう告げた。
「このカクテルは《時間》でございます」
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