2008年 3月
2008年 3月の幻想断片です。
曜日
月
火
水
木
天
土
夢
気分
×
△
−
○
◎
☆
3月31日−
降り続いているのは
冷たい雨か
それとも
凍える桜の花びらなのか
季節の真ん中が長い
夏や冬に比べると
春と秋の真ん中は
一瞬で通り過ぎてしまう
平たいお皿の夏と冬
深いお皿の春と秋
季節の底に待ってるものは
美味しい料理と友と酒――
3月30日−
黎明の闇にぼんやりと
夢から浮き出て来たかのような
薄紅の妖しの花は――
下弦の月と藍色の空
冷たき風に身を清め
微かな香で囁いていた
3月29日−
「行ってしまったようだな……」
そう言うとルーグは遠くを見つめた。
隣の町とを繋いでいる乗り合い馬車は、この前の大雨で山が崩れてしまった峠付近の〈ガレ場〉を通過するのに時間がかかり、森の町リーゼンに着くのは多大な時間を費やした。馬車を下りて足場の悪い道を歩き、男たちは泥だらけになりながら大きな石をどけたりして馬車の通行に協力した。そんなわけで彼らが中央広場の隅にある発着所に降りた時には、本来ここで乗り継ぐ予定だった別の町への乗合馬車の姿は見えなかった。
タックが近くの建物に駆けてゆく。
「念のため、確認してきますよ」
ルーグは残った三人に呼びかけた。
「乗り継ぎが無理なら、今日はここに泊まろう」
「まあ、これも縁かも知れねぇからな」
乗り継ぎどころか、明るいうちに着けたことにほっとした様子でケレンスが言う。魔術師の女性、シェリアは苛ついた声だ。
「馬車がガタガタして、腰とか肩とか、もうあっちこっち痛くてしょうがないわ。今日のこれ以上の移動は、ほんと勘弁して頂戴」
「……」
やや顔色が悪い妹のリンローナは、黙ったままうなずいた。
3月28日−
[遠い港町]
海を渡ってきた風が、部屋の白いカーテンを揺らす。その軽やかで不規則な動きは、さながら遠浅の海の波のようだった。
表に出よう――ひんやりしたドアノブを回して、前へ進む。
突然、光の洪水の中に巻き込まれた。白壁と白い石の道の照り返しが強く、目が眩んだのだ。明るすぎる光は不思議なことに視界を暗くさせて、それからだんだんと目が慣れてくる。
からっと暖かく、穏やかな午後だ。休みの人々は表にテーブルを出し、日陰の椅子に腰掛けて冷たいグラスを傾けていた。
「メアナはどこ?」
黒いサングラスをした身体の大きな中年の女性が、やはりサングラスをかけた、こちらは痩せている若い娘に尋ねていた。
「部屋で寝てるわよ。言わなかったかしら?」
「おぉ」
母であろう、その中年女性がゆっくりと笑った。
彼女らの横を過ぎ、歩いていく。日向と日陰は海岸線のように入り組んでいた。しばらくすると額や足に汗をかき始める――。
3月27日−
[黄色の蝶と白い花]
薄く雲のかかった青空のもと、見渡す限りのなだらかな野原には、小さな白い花が咲き誇っていた。時折、南風に乗って届けられる微かな爽やかで清らかな香りと、萌える草の匂いが溶け合い、視覚よりもさらに早く新しい季節の息吹を感じさせる。
黄色の蝶が二羽、羽根を素早く上下に動かしてひらひらやってきて、並んで咲いている白い花を椅子代わりに舞い降りた。
じっと耳を澄まし、そちらに注意を向けてみる――。
・ ・ ・
「今はどちらだろう。春だろうか、冬だろうか」
「もう春だろう。この陽気だ」
「しかし日が落ちる頃から急に寒くなる」
「夜はまだ、冬が支配しているのだろう」
「だんだん夜にも、あの生暖かい空気が残るようになるだろう」
「そして完全な春が来る時、すでに夏が混じり出すのだろう」
・ ・ ・
彼らは甘い花の蜜を吸った。それから形と色を得た春風の一部であるかのように、どこかへ気まぐれに飛んでゆくのだった。
3月26日−
[さいごの一片]
午前中とは一変した、冷たい妖しの風が吹き始めた。みるみるうちに西から濃い灰色の雲が出て来て、空を覆いつくした。
緩く右に曲がるレンガの道を、やや早足で進んでいた。
――その時だ。
目の前を白いものが横切り、雲が頬に冷たいものが触れた。
思わず足を止めて、天を仰いだけれど、もう何もない。
風に押し流される黒い雲間から、光の塵が僅かに零れた。
決して幻ではない。針のように鋭い痛みの記憶を遺して。
あれが私の、あの年の最後に会った、ひとひらの雪だった。
3月25日−
[
芽月
/ミグリ町]
通りに面した家々の窓辺を、赤や黄色、紫や白の花が飾り出している。それらの色は日を追うごとに鮮やかになっていった。
爽やかな空気と降り注ぐ強い光、そこに混じり合った甘く良い香りが、メラロール王国の北西にあるミグリ町に満ちていた。
「行こう、行こう」
「ほら、早くしないと、始まっちゃうよ!」
「待てよ〜!」
子供たちの歓声が、駆け足の音が石畳の通りに響く。
彼らが起こしたかのような風が、通りを駆け抜ける。
いつもより上等な服を着て、女は髪に、男は胸に花をつけた若者、中年、老人たちの表情も明るい。町じゅうに膨らむ新しい季節の期待は、今日は一段と高まっていた。お屋敷も家々も、噴水も橋も、大きさや色の違うさまざまな花で飾られていた。
今日はミグリ町の〈花祭り〉なのだ――。
3月24日−
[同じ日]
「季節を一気に進めたような、そんな感じだねぇ」
山の村を廻り、セラーヌ町へ戻ってきた来た商人が言った。
「雪、あるの?」
子供の問いかけに、彼は目を見開いてうなずいた。
「おぉ、あるある。まだ大量に残ってる。町にも山にもな」
「同じ日でも、場所によって季節は違うんだね。きっと海の方……メラロール市のは、もっと暖かいんだろうね」
子供はすっかり感心した様子で、雪や海を思い浮かべた。
3月23日−
[霧の夜明け]
まだ姿を現していないけれど確実に近づいている朝陽に、空の闇は少しずつ闇が溶けて、藍色から黄色、やがて橙の輝きの旗となって、山の向こう側から赤い光が漏れ出していた。
畑の間を、一本の道がまっすぐに続いている。途中から先は濃い霧に見え隠れして、そこに行かないと続きがどうなっているかは分からない。そこに行ったら行ったで、その先はまた別の霧に覆われているのかもしれないけれど――ともかく、単純そうな一本道でも、それは思ったよりもずっと〈迷い路〉だった。
遂に山の果てに赤い線が現れ、瞬く間に球体へ膨らんだ。
闇を駆逐して全貌を現した太陽が、今度は霧の魔法を解いてゆく。近くの霧は溶けて、うっすらと白く化粧した畑が現れる。
霧はどんどん遠ざかる。西の山には満月が残っていた。
3月22日−
[太古の森]
日が傾くと森の奥から光が差し込み、木々の影絵になった。
「光も、影もきれい」
レフキルが胸を張り、目を細めた。ミザリア島の南部、イラッサ町を出て島の中腹を目指すと、斜面の一部には鬱蒼とした太古の森が広がっている。その一帯は、強い通り雨の多い亜熱帯の気候の影響で、木々や草が複雑に伸びている。また人間たちにとっては貴重な水を宿し、川を生む命の森でもあった。
レフキルの隣で、森の入り口に立ち尽くすサンゴーンが言う。
「熱した生命力に満ちあふれていますの」
この森の果てから見下ろせば、峠を避けてイラッサ町とミザリア市を海上から行き来する船が遠くに見えるかもしれない。島に深く刻まれた入り江の全貌も見渡せるかもしれない――。
いまなお多くの謎を秘め、厳として立ちふさがるが、それでも想像力をかきたてられずには居られない。また、サンゴーンの〈草木の力〉の源泉でもある――太古の森はそんな場所だ。
3月21日−
[祈りの日]
清らかに、安らかに、あたたかな光が降り注いでくる高く白い天井を仰ぎ見て、メラロール王国の
シルリナ王女
は思った。
(また、この神殿に、この用事で来るのですね)
大貴族の死。冠婚葬祭は王室の仕事の中でも重要な位置を占める。祭司の立場ではないが、先頭に立って祈りを捧げる。
「汝の御霊が、天上界へ導かれ、聖守護神の御許へと……」
ラニモス教の司祭が弔いの言葉を捧げている。適切な箇所では全員で聖句を唱和する。時折、すすり泣きの声が聞こえる。
やがて楽が奏でられ、王女は再び物思いにふけっていた。
(この場所に再びこの用事で来ることがないようにと祈っても、それは無理な願い――人は生まれ、天に還るのですからね)
たくさんの新鮮な花の香りが厳かに神殿を満たしている。
(いつか私も)
その時、音楽が終わり、王女の意識は儀典に戻る。
胸の奥に新しく一つの重い石を宿しつつ、亡くなった貴族の顔を思い浮かべながら、母のシザミル王妃と仲良しのレリザ公女の間の間に座り、シルリナ王女は深く祈りを捧げるのだった。
(どうぞ、安らかに)
3月20日−
[雨の朝]
「ひゃっ」
玄関の戸を開けると外は冷たい風が吹き渡っていて、強くも弱くもない雨が、まるで時から搾り取った果汁みたいに淡々と降っていた。あたしは戸を閉め、思わず目を閉じ、腕組みした。
「今日は、出歩くの大変だなぁ……」
冷たさの名残を感じながら、一人ごとを呟いた。次の町に行くとしても煉瓦で舗装された街道をゆくんだし、道が泥でぬかるんでるわけじゃないんだけど――いったん暖かな日を味わったあとの今朝の空気の冷たさは、前よりもずっと厳しく感じたんだ。
「こりゃあ難儀だねぇ。もう一晩、泊まったらどうだい?」
移動中だった宿のおかみさんが、立ち止まってあたしを見た。あたしは振り向いて、曖昧に笑った。そうしたい気持ちはあったけど、お金もかかるし、あたし一人だけじゃ決められないから。
だから朝食後にルーグがこう言った時、すごく嬉しかった。
「今日は移動する予定だったが、明日以降に延期して、この町の中で仕事を探そうと思うんだが。みんなはどうだろうか?」
「私は、賛成」
お姉ちゃんがすぐに返事をした。あたしも続く。
「あたしも!」
「異論ありません。雨と風で、風邪をひいたら大変ですからね」
タックが少し遅れて言った。
みんなの注目はケレンスに集まる。するとケレンスは何も言わず静かに右手を挙げ、それから補足するかのように言った。
「さっさと決めて、一働きして、早く休もーぜ」
で、冷たい雨の中、雨具を出して冒険者組合へ向かう――。
そういう必要はなかった。この宿が、この町での冒険者組合の事務所を兼ねていたんだ。あたしたちは食堂のテーブルの周りに集まり、半ば腰を浮かせて資料を見ながら仕事を探した。
「調理人見習い代理、とかのお仕事、ないかなぁ」
あたしは宿のおかみさんに尋ねた。
3月19日−
[雨の予兆]
雨の予兆は、山の方からやって来る。
「来るな……」
湿り気を含んだ冷たい風が窓から窓へ吹き抜けたのを感じて、男は急な階段を出来る限りの駆け足で二階へ登った。
薄暗い部屋を通り抜けて外を見る。南北に山が近づき、東西に伸びる平野が見渡せる。その北の山から、まるで睡魔が形を現したかのように、濃い霧が山肌をなぞって下りて来ていた。
「こりゃ、間違いねえ」
平野の奥から手前へ、それから山の方へと、もう一度確かめるように精査した男は、窓のそばに引っ掛けてあった何本かの小さな角笛のうちの一本に慣れた様子で手を伸ばした。
「雨の音……雨の報せは久しぶりだな」
その笛をひっくり返し、素早く見直して〈雨の報せ〉であることを確かめてから、男は優雅とも思える仕草で唇に当てた――。
3月18日−
[時空のつなぎ目]
メラロール王国の街道上にある山あいの小さな町では、ゆったりと流れるラーヌ河の支流に沿って、並木道が続いている。中心部には一番高いラニモス教の神殿の尖塔が見え、いくつか分岐する道沿いに三角屋根の三階建ての家が並ぶ。
こんもりとした丘の方へ向かえば、傾斜の急な曲がりくねる道に二つの門があり、その先には男爵の居城がある。背中に午後の太陽を感じ、正面の高みは青空で、薄く澄んだ白い雲たちが不思議な文字と模様を描いていた。
五人の若い旅人たちが、入口の関所で通行税を払ってから、ひっそりとした街中を歩いていた。目を細めてタックが言う。
「ここからですと、船便がありそうですね」
河には船着き場があり、水夫が休んでいる。
「あ〜あ、舟とは言わないから、馬が早く欲しいわ」
春の太陽は強く、日差し除けの帽子をかぶったシェリアが愚痴を言う。樵(きこり)たちも河の漁師も、山の猟師も山菜積みも、いまは大体仕事に出ているのだろう。母たちは家で手を動かして機を織り、幼子は眠っているのだろう。門番の騎士が目をこすって欠伸をこらえる、鳥の歌声の響く静かな午後だった。
「この樹……」
旅人の一人、リンローナがふと立ち止まった。
それは向かって右側にやや葉を多く繁らせた、河のそばに立つ大きな大きな広葉樹だった。濃い影が街道に伸びている。
「何よ?」
姉のシェリアがやや鋭く尋ねると、リンローナは肩のあたりで切り揃えた草色の後ろ髪を軽く風になびかせ、こう答えた。
「ふるさと……モニモニ町で見た樹に似てるなぁと思って」
何気ない景色で、いつか息をした遠い町への扉が開いたかのようだ。シェリアは妹の言葉を笑い飛ばすこともなく、妹に並んで歩みを止め、いくぶん真面目な顔でその樹を見つめた。他の三人の青年たち――ルーグとケレンスとタックも、そういう経験に心当たりがあるのか、姉妹を護るようにたたずんでいた。
太陽が薄い雲に一瞬隠れたかと思うと、すぐに現れ出て、軽くまばたきをする。河を越えて冷たい冬の名残の風が吹き、彼らの上着の裾と髪の毛、そして河の水面と木の葉を揺らした。
3月17日−
[はじまりの兆し]
「さすがにもう雪解けだろう、この村も」
ランプの灯りを受けてテーブル頬杖をついていた壮年の商人が、村娘シルキアを斜めに見上げた。サミス村の酒場〈すずらん亭〉では、久しぶりの外からのお客さんだ。森が、街道が――村じゅうが雪解けの水音につつまれているような早春の夜。
新しいジョッキを置き、空いたものを盆に乗せて娘が答える。
「たぶん、もう一度、最後に来ると思うよ。今年の〈別れ雪〉が」
「それがドカンと来たほうが、本格的な春は早く来るんじゃよ」
隣のテーブルにいた、少し赤い顔をした樵(きこり)が言う。
屋根の雪がバサリと落ちる音がした。暖炉の炎がはぜる。厨房の方から肉を蒸らす音が響き、食欲をそそる匂いが漂ってくる。いつしか商人と樵は、同じテーブルで盛り上がっている。
「〈はじまる〉予感がするのだっ」
シルキアの姉のファルナが、真っ暗な窓の外を見て呟く。早春の夜は、いろいろな変化の兆しを含みつつ、更けていった。
3月16日−
光と影の魔術師が
魅せてくれる夕暮れに
まぶしさとシルエット
昼と夜が交錯する――
やがてオセロのように
光と闇が入れ代わって
星明かり、街あかり
暗い部屋に光が満ちる
3月15日−
遠ざかる時間の中で
ずっと輝いていられるように
未来の時間で今をつくる
赤、桃、白、黄、紅の花
3月14日−
温かな〈春の吐息〉が街中を軽やかに、颯爽と吹き渡っている。この季節を司る〈希望の女神アルミス様〉の吹かせる新しい風だ。淡く晴れた朝のつつじの甘い匂いから、砂埃、強い雨、白い花びらへと。最初に嗅覚から始まり、最後には視覚へ――青空の下、春風は運ぶものを少しずつ変えながら流れてゆく。
残った新緑が手を振れば、初夏の扉が開かれる。
だけれど、それはまだずいぶん先のこと。
吹き始めた春の風に、今年の私は何を乗せよう――。
〜吟遊詩人ロフィアの記〜
3月13日−
「ねえ、お母さん」
「なぁに、麻里ちゃん」
「秋の落ち葉、どこにいっちゃったの?」
「それはね……」
公園を取り囲むように続く林の中を
爽やかな風が流れる。
「春の光を浴びて、目覚めて」
「うん」
「七色の、それぞれに好きな色の服を着て」
「七色の……」
「そう。七色の、お花や蝶々になったのよ」
3月12日−
[いちごの季節]
「木苺、野苺……」
シルキアは軽く口ずさみながら、厨房から三本の小瓶を運んで来て、丈の低い木の棚の上に手馴れた様子でコン、コン、コンと並べた。明るい黄色、澄んだ紫色、温かみのある薄茶色。それらはサミス村の遅い春を彩る色とりどりのジャムだっ た。
「おっ、いい匂い」
宿の客が大麦パンの香ばしさにつられて食堂へ下りてくる。
「おはようなのだっ」
姉のファルナが微笑みかけ、シルキアはジャムを宣伝する。
「好きなの選んで、た〜っぷり塗ってね。今だけの旬の味だよ」
夜は酒場となる食堂の、溢れんばかりの明るい光の中で言いながら、シルキアはしだいに違和感を覚えて腕組みをする。
「あれっ……なんか寒い?」
それから彼女は大きなクシャミをした。
「っくしゅん!」
〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜
そこはまだ冬のサミス村の、冷たい夜明け前だった。
寝ぼけ眼のまま呆然としたシルキアは、急に、しかも確実に襲いかかってくる足元の寒さに震えながら上半身を起こした。
「またお姉ちゃん、掛け布団引っ張ってる……」
夢にまで見た〈いちごの季節〉まで、それほど遠くない。シルキアはしばしの微睡みへ、再び緩やかに落ちてゆくのだった。
3月11日−
(休載)
3月10日−
(休載)
3月 9日−
西の空は青いけれど
東の空は眩しく白い
昨日とは違う色合い
天の照明(あかり)が強まる朝
花のつぼみが綻んで
優雅に甘い香を運ぶ
3月 8日−
朝の冷え込みを溶かすように
東の太陽が照っている
気温が急に上がって
地面から霧が舞い上がった
隠れていた水の精霊が
水蒸気の翼をまとって大地を離れる
霧がうまれる場所での
まさにそれが〈氷の呼吸〉だ
3月 7日−
メラロール市の新東門を出て、間もなくの分岐を左に折れ、北東の脇街道に入る。道は緩い上り坂にさしかかり、家はまばらな農家ばかりとなって、視界に広がっているのは小麦や大麦の畑だ。道幅は狭くなるが、すれ違う馬車の数もだいぶ少なくなっている。青空には白いちぎれ雲が漂い、時たま、いたずらをして太陽を隠すのだった。やがて雲は流れ、再び光が降り始める。
坂を上りきったところで入口になる。きらきらした光と、明るくも深い陰が交錯する木漏れ日の下を、鳥たちの歌声と羽音の響く中、森の匂いに充たされて歩く。うっすら汗をかいた身体が、吹き抜ける風を受けて心地良い。虫が、蝶が目の前を行き過ぎる。リスが木の幹を素早く登り、つぶらな瞳で私を見下ろした。
古い木の枝を踏み、私は歩いた。春の森の一部となって。
街道は続き、光の満ちる森の出口が遂に見えてきた――。
3月 6日−
[春の訪れ(2) イラッサ町]
葉や地面、石の壁や屋根に弾かれる水の音が高まる。町じゅうが白い糸に抱かれたように景色が霞んだかと思うと、さっきから勢い良く降っては弱まるを繰り返している南国の気まぐれな温かい春の雨が、庭の草木の新芽をしっとり湿らせていた。
空は曇ってはいるが割と明るい。雨足は急に収束してゆく。
「雨と光を、全身で受け止めているみたい」
雨は潤いを、光は力を、新芽に与えてくれる――。
窓辺に立ち、軽く腕組みしたまま横目で外を見ていたレフキルがつぶやいた。そのうち南国名産〈メフマ茶〉の香ばしさが漂ってくる。足音が近づいてきて、レフキルはそちらに向き直る。
「サンゴーン、ありがと」
「お待たせしましたの〜」
お盆に二つのカップを載せて運んできたのは、レフキルの友人のサンゴーンだ。二人はしばらく、会話と〈時〉を楽しんだ。
3月 5日−
[春の訪れ(1) ミラス町]
「日が伸びたね」
シャンが言った。敷地に余裕のある邸宅が左右に並んでいる、道幅の広い保養地の緩やかな下り坂の向こうには、遠浅のエメラリア海岸が広がっている。うっすらとした夕霞につつまれて、まもなく太陽が紅い海面に口づけをするところだった。
「うん」
並んで歩いている妹のレイヴァがうなずいた。家々が熱っぽく染まり、いよいよ昼間の終幕を迎える時、微かに潮の香りを含んだ風が、大陸の南部に位置するミラス伯爵領をかすめて通り過ぎる。夕方でもそれほど寒くはなくなり、厳しくも清らかだった空の透明度もやや緩んで、本格的な春の到来を感じさせた。
「微かに花の匂いがする……」
どこまでも続いている広々とした大空の下、大海原を見晴るかす坂道の途中で、レイヴァが顔をあげて立ち止まった――。
3月 4日−
[いまだ遠き春]
岩場に押し寄せる荒い波に、鉛色の空から降りて来た固い雹(ひょう)の粒が飲まれ、一瞬だけ銀を残して消えていく。それは次の季節のつぼみを遥か遠く、まぼろしのように思わせた。
その付近の、雪残る道――道とは言っても、荒れ地に続いている雪の踏み固めた所が道のように見える〈細長い敷地〉――を、二人の若い女性が並んで駆けていた。特に窪んだ所をゆく時には、雪と泥、白と黒の混じったものが彩度の消えた世界のように重く飛び散るのだった。
「そろそろ、冬も終盤っすかねー」
腕を大きく振って走り、前を向いたまま言ったのは、長い黒髪を後ろで束ねたユイランだった。喋り終えると、吐息が大きく、そのあとに鼻息が小さくふわっと浮かび上がり、消えていった。
「でも、まだまだ、寒いよね〜。春の嵐もまだだしね」
並走するメイザが返事をする。二人はルデリア大陸の北方、トズピアン公国の離れ小島〈メロウ島〉を拠点とする闘術士だ。
「まあ、走るのが一番の〈暖〉っすかね!」
ユイランはそう笑うと、跳ねる泥を気にしない様子で、ほんの少しだけ速度を上げた。心配して声をかける先輩のメイザだったが、ユイランのペースには後れを取らずきっちりついてゆく。
「滑らないでね、ユイちゃん」
いつしか霰はやんでいた。冷たい風に乗って雲が流れ、ささやかな弱い日差しが島を照らす頃、二人は朝の鍛練を終えて皆の待つ修業場へ入ってゆく。煙突からは食欲をそそる朝食の煙が、二人の吐息のように力強く立ち上るのだった。
3月 3日−
[夢幻(むげん)の神者(しんじゃ)]
「そして〈夢幻の神者〉ファナ……」
あたしは七人目の、最後の〈神者〉の名を挙げた。そのひとの名前には、いつも不思議な響きがつきまとう。薄紫色をした、妖しくも気高い、永遠に消えることのない霧のような――。
ルデリア大陸から南東へ向かって海を遥かに越えると、絶海の孤島〈フォーニア国〉があるという。その森の奥に住まうという、妖精メルファ族のファナさんを実際に見たことがある人はいない――はず。かつては妖精族のものだった〈月光の神者〉と〈草木の神者〉が人間の手に渡ってからは、ただ一つ残された〈夢幻の神者〉をひそかに守っているのだと伝えられている。
「本当のところは分からないけど、ファナさんはメルファ族の中では若い方だけど、軽く百歳を越えているって言われているよ」
あたしが言うと、お姉ちゃんは疑わしそうに腕組みした。
「謎めいていて、存在すら怪しいわねぇ」
それからあたしたちはファナさんのことで盛り上がったけど、何一つ確かな情報が無くて、想像力を膨らませるのだった。
3月 2日−
ひかりの絵の具が
まばゆく明るい色と
影とのコントラストを強めて
照らし出してくれる
ひかりの魔法が縦の軸
風の魔法が横の軸
木洩れ日は縦横無尽に
春の絵文字を描き出す
3月 1日−
春は谷から山へ向かう
だけど山から来る春もある
桃色や紅の山桜が
一足先に春色を塗る――