2008年 4月

 
前月 幻想断片 次月

2008年 4月の幻想断片です。

曜日

気分

 

×



  4月30日− 


[朝の光の中で]

 水も風も温んで、野には黄緑が萌えている。空は清らかな薄い水色に染まり、かすかに花の香りが漂っているようだった。
「いい季節になりましたね」
 北のヘンノオ町で、塔の見張り台から東の方角を眺めて一人呟いたのは、月の光を司る〈月光の神者〉、若きムーナメイズ・トルディンだった。眼鏡のレンズを朝の陽にきらめかせ、足取りの軽い朝風に髪をなびかせて、はるか遠くを見つめている。
 あまり広くもない見張り台の片隅には瓶があり、花が活けてある。一つ上の階層に当直の見張り兵がいるが、ムーナメイズの階層には他に誰もいない。ノーザリアン公国は平和だった。
 


  4月29日− 


 いろんな時計があるけれど
 すべては
 一年で一回りする
 季節の大きな時計の中に――
 


  4月28日− 


[朝の霧雨(1)]

 霧雨の流れる朝、森はしっとりと湿っていた。曇り空の淡い光では、辺りはまだ薄暗い。
 森に入った時点から、霧雨はほとんど霧そのものと化していた。雨になりきれぬ微細な粒たちが、風に任せて上へ下へと彷徨っている――頬と額に冷たい感覚を残して。木々は乳白色の泉に沈んだかのように見え、遠くへ行けば行くほど白い世界に見える。吹雪のような厳しさはなく、どこか柔らかな色合いだ。
 濡れた草をまたぎ、大地を踏みしめて歩いていった。心なしか鳥の歌声がいつもよりも高らかに響いているような気がする。
 
 その時、突然。
 脳天に冷感が走った。
 思わず立ち止まり、恐る恐る頭を撫でてみると、手に付いた〈それ〉は水だった。天を仰ぐと、木々の枝が複雑に伸び、それぞれ違う緑の葉が繁って、乳白色の霧に沈んでいるだけだ。

 再び歩き始めてから考えた。あの細かな霧の粒子を、一体、誰が集めているのだろう。
 葉に溜まった雫が落ちて来た訳だが、本当に葉だけが器として働いたのだろうか。誰か別のもの――例えば水の精霊、風の精霊、森の精霊――たちが協力しあって、深海の真珠のように木の葉に透明な宝石を形作っていったのではないだろうか。

(続く?)
 


  4月27日− 


 太陽の刻が長く伸びて
 緑まぶしい季節が満ちる
 
 幼い春の精霊たちが
 泣き笑いを繰り返せば
 
 雨が大地に染み渡り
 光が大空を褒め称える
 
 微笑みも涙も
 命を育む両輪だから
 


  4月26日− 


[夢の旅]

「けさ、変な夢見たぜ」
 ケレンスが妙なことを言い出したので、彼の左右を一緒に歩いていたタックとリンローナは注目した。彼は続けて語った。
「俺がリーダーでさ、タックとリンに怒られながら仕切ってんの」
「へぇぇ」「ふーん」
 タックはわざと大げさに驚いたような声を出し、リンローナは反応を決めかねているようだった。ケレンスは詳細を説明する。
「お嬢様魔術師のレミナ、戦士のゼイ。そいつらが仲間だ」
「ケレンス、まさか予知夢……じゃないでしょうねぇ」
 背の低いタックが上目遣いで疑わしげに言うと、ケレンスは半ば真面目に、半ば冗談めいたような顔で、困惑気味に応じる。
「まさか、なぁ。俺はそんな力はねぇぜ」
 それからケレンスはリンローナの方を見て、付け加えた。
「でさ、ルーグとシェリアはいねえんだ」
 その言葉を聞いたリンローナの表情には不安と緊張が走る。ややうつむいた少女は、小さな声でぽつりと呟いたのだった。
「それが未来、なのかな……」
 


  4月25日− 


[アマージュの春風(2)]

(前回)

 見張り塔の三角屋根が近づき、角度が変わり、やがて見下ろす形になる頃、道はさらに登りながら今度は右へ曲がってゆく。幅も狭まり、大人二人が何とか歩きながらすれ違える程度だ。
 道の両脇には石造りの低い塀があり、その内側は民家になっている。山を削ったのだろう、それらの家は段々になっている崖と〈朝霧坂〉とにへばりつくように建ち、庭はほとんどない。
 汗がまた背中を伝い、額に粒を浮かべる。最後の真っすぐな短い区間は、これまでで一番急な勾配になる。身体は辛いけれど、道は左右の家の日影になり、風が通り抜けるのが心地よい。私は体重を思いきり前にかけて一歩ずつ登っていった。
 ここで振り向けばアマージュの町が見下ろせるのは分かっているが、まだ我慢して振り向かない。立ち止まるよりは一息で登ってしまい、景色はご褒美に残しておきたいと考えらから。
 古い煉瓦、入れ換えた新しい煉瓦――足元ばかり見ながら歩いているうちに、突然楽になる――傾斜が緩くなったのだ。
 顔を上げると、短く急な〈朝霧坂〉は終わっていた。

 照りつける強い光の中で、私は立ち止まり、ゆっくりと振り返る。蒼い空には幾つもの雲が気持ち良さそうに浮かんでいた。
 その手前には、赤い屋根が不規則に、それでいて調和しながら並んでいる故郷の町が一望できた。屋根と起伏が多くて光と闇が入り組んでおり、季節と時間によって刻々と姿を変える。
 さらに視線を自らの方に近づける。来た道を見下ろすと、一歩間違って転んでしまえば、さっきの見張り塔かその先まで停まることが出来なさそうな〈朝霧坂〉の入口が待ち構えている。

 その時、どこからか柔らかな風が吹いてきた。
「これは……」
 はっとして立ちすくみ、思わず辺りを見回した。私の嗅覚に届けられたのだ――何かの花の爽やかな香りが、風に乗って。


  4月24日− 


[あの空の向こう(後編)]

(前回)
 
「リンかぁ……」
 つぶやくと、ナミリアは青空の遠くに視線を送った。それがまるで透明な大きな池で、向こうの世界を見通せるかのように。
 肩のあたりで揃えた薄緑の髪と、草色の瞳、そして笑顔――遠い北国に旅立った親友の顔を、声を、仕種を思い浮かべる。
『ナミ、おはよう』
『可愛いお花だね。何ていう名前なのかなぁ?』
「どうしてるかな」
 ナミリアの時間が足止めされているうちに、後から来た三人は歩き始めていて、その中の一人が振り返って声をかけた。
「ほら、行かないと遅れるよー」
 するとナミリアは現実に引き戻され、慌てて後をついていく。
「うん。行く行く」
 同級生に混じって雑談をしながらも、時折、少女の気持ちはその場所を離れて、遥かな空の遠くまで面影を捜していた。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 その日の放課後、ナミリアは食堂で先輩のリナと向き合っていた。金色の美しい長い髪をなびかせ、あまり表情がなく寡黙な少女である。北のメラロール王国へ行ってしまった〈リン〉こと〈リンローナ・ラサラ〉は、ナミリアにとっては同期の親友であり、リナにとっては〈料理研究会〉の後輩だった。その縁で今ではナミリアとリナは打ち解け、互いの良き相談相手になっていた。
 茶色をした熱いメフマ茶の入ったカップを傾け、南国伝来のさっぱりした味わいを楽しみながら、ナミリアは先輩を前に呟く。
「あたしを変えたのかな……あの春風みたいだった子」
 ナミリアの言葉を聞いたリナは、普段の固い表情をうっすらと和らげてゆく――以前の彼女はほとんど見せなかった顔だ。
「ええ。きっと」
 先輩はそう言って、ゆっくりとうなずいた。それから二人は、遠い国へ赴いた共通の友人について思いを巡らせたのだった。
 


  4月23日− 


[アマージュの春風(1)]

 繰り出した町はまばゆく、温かさに充ちあふれていた。ついこの前まで鋭く冷たいと思っていた風は、いつの間にずいぶん身軽に、いたずらっぽくなっていた。家の庭から伸びた木の、既に花を落とした葉っぱの薄黄緑のカーテンが揺れ動いていた。
 上り坂の途中で一息つき、道の続きを仰ぎ見た。アマージュの町に伸びる幾つもの坂の一つで、煉瓦で舗装された道が丁寧に左側へ柔らかな曲線を描いて伸びる。この〈朝霧坂〉は、秋の晴れた日、陽の昇る前後に良く霧が溜まるからだという。
 降り注ぐ輝きが強い光と濃い影を描いている。服の中が火照り、背骨に沿って汗が流れる。呼吸と鼓動は速くなっていた。
 上り坂が曲線を描いて見えなくなる辺りに石造りの三角屋根の見張り塔があり、その影から若い男女が並んで下りてくる。向こうは足取りも軽く身軽だ。男性はひょろりと背が高く、短い金の髪と薄橙のシャツが春めいている。茶色の髪の女性は白地に民族的な縁取り模様の入ったスカートをはき、淡い桃色をした薄手の長袖を着ていた。二人は話ながら坂を下りてくる。
「えーっ、あすこに出来たの?」
「そう。なんなら行く?」
「うん。味見してみたい」
 私はポケットから布切れを取り出し、額とこめかみの汗を拭った。そして二人とすれ違う少し前に、再び丘の方へ歩き出す。

(続く?)
 


  4月22日− 


[あの空の向こう(前編)]

 立ち並ぶ並木道には白い可憐な花が咲き誇っている。通りの向こうまで、明るい緑と白の帯が続いている。南ルデリア共和国の南西、突き出た岬にあるモニモニ町は春の装いだった。
「どういう形の花びらなんだろ……」
 白を基調とした制服の長袖ブラウスとロングスカートに身をつつんだ女生徒ナミリア・エレフィンが、木の下で立ち止まっていた。温かで爽やかな朝の春風に茶色の髪とブラウスの袖を揺らし、その髪と似た彩りの瞳を輝かせる。制服の色とスカートの広がり具合は、彼女が熱心に見つめている花びらを連想させた。
 モニモニ町はルデリア世界の中で一、二を争う教育の進んだ都市であり、学舎、学院、大学が幾つもある。貿易が活発で生活水準が高く、町での女生徒の群れは見慣れた風景だった。
 さてナミリアが花を見ているうちに、石畳を近づいてくる足音がした。同じ制服を着た三人組の一人にぽんと肩を叩かれる。
「おはよう」
「おはよー、ナミ」
 呼ばれたナミリアは振り向いて見回し、笑顔で挨拶する。
「あ、おっはよ!」
 それからすぐ、再び彼女は斜め上の小さな花に目を向ける。
「何枚も花びらが重なって、不思議だなって思って……」
 すると後から来た三人の少女は僅かに困惑気味に視線を交錯させ、その中の一人が懐かしそうな顔で感想を漏らした。
「なんか、リンみたいなこと言ってるね。ナミ」


  4月21日− 


[海の鼓動、海の歌]

 ミザリア島に降り注ぐ南国の光は強く、遠浅の碧の海を白く輝かせていた。幼い頃から馴染んできた潮の匂いが鼻をつく。
 正面から吹いてくる潮風に緑みを帯びた銀の髪をなびかせ、妖精族の血を引いていて耳がやや長いレフキルがつぶやく。
「波は、海の鼓動」
 繰り返し打ち寄せる小さく穏やかな波たちは、強さも高さも勢いも間隔も毎回少しずつ異なるが、絶えることなく続いてゆく。
「海の歌……子守唄を思い出しますの」
 レフキルの隣に立つ同い年のサンゴーンが語り、蒼い瞳をまばたきさせた。降り注ぐ陽の光が波間できらめき、踊っている。
「海はルデリア大陸に続いてる。いつか、あたしは行くんだ」
 レフキルは強い意志と希望を込めた。そう語った友の横顔から目を逸らしてサンゴーンはうなずき、やや震える声を発した。
「はい、ですの……」
「大丈夫。その時はサンゴーンも一緒に行くんだよ、あたしと」
 レフキルは二歩踏み出して相手の正面に立ち、両肩にそれぞれの手を置いた。掌(てのひら)の温もりが言葉よりも伝わる。
「ありがとうですわ、レフキル」
 サンゴーンは少し涙声で言い、そして一言付け加える。
「でも、本当に必要だと思うときは、私のことは気にせずに行ってくださいの。レフキルには、もっと広い世界が待ってますわ」
 サンゴーンは慎重に言葉を選びながらやっと喋り終えると、一度だけ鼻をすすった。それでも彼女は我慢して泣かなかった。
「……わかった。ありがとう」
 相手の深い思いを察したレフキルは、無理に反論することなく受け入れて短く礼を言った。肩に置いていた右手を下ろし、向かい合う友の左手に触れて、壊さぬようにそっと握りしめる。
「波は、一度引いても、必ずまた返ってくる。それが波だから」
 レフキルが言った。二人が黙ると波音が強く聞こえ始め、そこに低い海鳥の唄が溶け合う。やがてサンゴーンはうなずいた。
 白い砂浜に続く南の海は、光の加減で碧に見え、蒼にも見えた。それは二人の少女らの瞳に似た澄んだ水を湛えていた。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 海上の風に髪をなびかせて、レフキルが回想する。
「あんなこともあったけど……遠い昔の気がする。こうして今、サンゴーンと一緒に、初めて大陸の土を踏める日が来たんだ」
 二人はひょんなことでララシャ王女の御座船に乗り、まもなく大陸の南西に位置するモニモニ町に接岸するところであった。
 


  4月20日− 


 庭を造った人たちもまた
 優れた絵描きの一人なのだ

 あまたの色の種を植えて
 時を紡いで描き上げる――


2008/04/20 芝桜
 


  4月19日− 


[瞳]

 街角で、目と目が合った

〈私がみんなを見つけた〉
〈みんなが私を見つけた〉
 一体、どっちが先だったんだろう?

 とにかく、私は立ち止まって
 春らしい暖かな薄曇りの日に
 しばらく見つめ合ったんだ


2008/04/12 紫の瞳
 


  4月18日− 


[森の乾杯(8)]

(前回)

 太陽はその間も休まずに動き、さらに隣の花を照らし始めている。花はこうして順繰りに礼をして、グラスを傾けるのだろう。
「よいしょと」
 オーヴェルはやや身体を起こし、中腰の姿勢になった。自分の飲んだ花の杯を見下ろし、彼女は温かな声色で感謝した。
「ご馳走様。ほんのり甘くて、まさに貴方にふさわしい味ね」
 遠くから木の葉の揺れるざわめきが聞こえ始めると、一呼吸置いてから、山奥の春を駆けめぐる寒いくらいの夕風が辺りを通り過ぎていった。まだ水を蓄えている花も、すでにからっぽの花も、身を寄せ合って耐える。オーヴェルの金の髪も揺れた。

「されど、言葉では正確に表現できない……この味」
 幼い頃から父が所蔵していたさまざまな本を読み、年齢は若いながらもあまたの言葉を知るはずの賢者は、くすっと笑った。
 それから思いきり上を向き、複雑に絡み合う木の枝を見る。
「言葉なんか、赤錆びてしまった大柄な鉄の剣に思えてしまう。感覚という名の、刃先の鋭く尖った銀のナイフの前では……」
 オーヴェルはまるで年上の恋人とでも喋っているかのように、ありのままの優しい口調で、落ち着いた様子で語りかけた。
「この場所を覚えておいて、また会いに来ますね」
 その日の雨上がりの澄んだ空のように、声も表情も晴れ晴れとしていた蒼い瞳の村娘は、相手に一つだけ願いをぶつける。
「よかったら今度、信用のおける若い友達……姉妹を連れてきても良いでしょうか。みんなで、あなた方と乾杯させてください」
 橙色の木洩れ日が瞬き、木の葉から雨の名残がこぼれた。賢者の目は、虹のかけらのような七色に舞う光の粒を捉える。
「偶然じゃないですよね、きっと。ありがとう」
 ぽつりと呟いてから、オーヴェルは中腰の姿勢から完全に立ち上がる。地面が遠ざかり、花は小さく、香りも微かになった。

「噂は噂のまま、伝説は伝説のままで……」
 身を切るような冷たい風が吹き、頬が夕日に染まった。木の陰も彼女自身の影も長く、森は薄暗くなっていた。猶予は少ないことを悟り、彼女はついに決意を固めて友に別れを告げた。
「今日は帰ります。また会いましょう」
 そう言ってきびすを返した娘は、低い光に背中を押されて山道の方へ、村の方へと歩き始める。縦長の花のグラスからこぼれ出す優雅な水音が、夢か現か、僅かに耳の底に残っていた。

(おわり)
 


  4月17日− 


[森の乾杯(7)]

(前回)

 空のかなたから大地まで届く太陽の長い腕で順番を示された花は、限界まで傾いた――水面と口の高さが同じになった。
 ついに花びらの堤防を乗り越えた水は、最初の一粒が小さな丸い鏡となって辺りの景色を映しながら、あっという間にこぼれ落ちた。二粒、三粒と徐々に間隔を詰めていた雫はすぐに連なって透き通った枝となり、不安定に揺れ動きながら爽やかな音を立てる一筋の流れとなり、土を満たして染み込んでいった。
 花は、帰路の途中だった若い賢者を呼び止めた品の良い微かな甘い香りを、再びいっぱいに振りまいた。森の奥まで降り注ぐ黄昏のまばゆい輝きの底で、オーヴェルの場所からしか見えない七色の衣をまとった生まれたての虹の橋が架かった。

「ちょっと失礼しますね」
 しばらく真剣に観察していた彼女の表情が急速に和らぎ、いたずらっぽく微笑みながらやや早口に告げた時には〈森のグラス〉に入った水は既に半分くらい流れ去っていた。オーヴェルは水の流れの始まる場所に顔を寄せ、口元を近づけていった。
 艶やかな唇が薄い桃色に潤い、喉が小さく鳴った。オーヴェルは何も喋らないまま、休まず飲んでいた。薄紫の模様のついた白いグラスの中の、橙色にきらめく飲み物は減っていった。
 大空から舞い降りた光の雨と贈り物、地に根づく森の恵み、訪れる者との接吻、交感――それは春の女神アルミスの登場する神話の中の出来事のようであった。正面から照らされた一人と一輪は、後ろから見ると両者が一体となった影に見えた。

 やがて唇をそっと離し、賢者は斜め上に思いきり息を出す。
「ふぅーっ」
 それからすぐに新しい空気を肺の奥深くまで吸い込んだ。
 傾いた花から流れる水量はかなり細くなっており、ほどなくして途切れ途切れの雫になる。空から預かっていた水を流し、長いお辞儀を終えた〈森のグラス〉は、太陽の見えない糸で吊り上げられたかのように、だんだん身体を起こしていくのだった。
 オーヴェルは右手の甲で口元を拭い、普段の繊細さとは異なる辺境の村娘らしい大胆さを見せ、それから〈森のグラス〉につがれた新鮮な冷たい飲み物について初めて感想を洩らした。
「あぁ、美味しかった!」


  4月16日− 


[森の乾杯(6)]

(前回)

 次の刹那、オーヴェルの両眼は新しい驚きに一瞬止まった。
 幻ではない、確かに耳に捉えたのだ――湧き水のようにゆったりと地面を伝っていく涼やかな音を。その主を捜すため、しゃがんで額に手を掲げた姿勢からやや身体を起こし、彼女は辺りを見回した。足元、草の間、幹の方を見ても特に変化はない。
 紅に染まる空から降り注いで木の葉や木の枝をくぐりぬけた光が、細切れの宝石のようになって森の天井にきらめき、水をたたえた〈森のグラス〉たちをつつみ込むように照らしている。
「あの水音は……」
 呟いたその時、視界の片隅で、白い何かが動いた。
「あっ」
 言うが早いか、ほとんど無意識のうちに右へ半歩だけ動いて再び急速にしゃがみ、オーヴェルは目の前の一輪の花の様子に見入っていた。それは頭を起こしていった花のグラスであり、その中を満たしていたはずの雨水はからっぽになっていた。

 既に次の花へと照らす対象を変えつつある夕陽の名残を受けて、今や直立して元通りの佇まいを取り戻した白地の花は、薄い橙色にほんのり染まり、熱っぽく豊かな輝きを秘めていた。
 夕陽の線が少しずつ移動し、隣の花を照らす。その光景を見つめていたオーヴェルは、しゃがんだ姿勢からズボンの右膝をつき、背筋を伸ばした――相手に敬意を表するかのごとくに。
 新たに照らされた花は、その内側に天の水を貯めたまま、しだいに縦長の頭(こうべ)を垂れてゆく。それは身分の高い王侯貴族に向き合って、深々と礼をする時の仕草を連想させた。
 立ち並ぶ森の木々は、さながら王宮か神殿の柱だろうか。サミス村の若き賢者、北方民ノーン族に特徴的な金の髪と澄んだ蒼い瞳を持つオーヴェル・ナルセンと、今日の終わりを示す温かな光の池に沈み、自らのグラスを傾けてゆく一輪の花は、ここに厳粛な挨拶を交わして面会を果たした。集中力が高まった賢者は、いつしか周りの風の音さえ耳に入らなくなっていた。


  4月15日− 


[森の乾杯(5)]

(前回)

 幼い頃、テーブルに載って美味しそうな匂いを辺りに振り撒いていた夕飯のおかずを爪先立ちして覗いた時のように、オーヴェルは純粋な好奇心でほんの少しばかりの間、息を止めた。
 そのまま顔を近づけてゆき、花のグラスを上から覗き込む。
「……」
 オーヴェルの目が見開かれ、大きく丁寧にまばたきした。
 白を基調として薄紫や桃色の混じった、何枚かの縦長の艶やかな花びらで囲まれた内側には、八分目くらいまでたっぷりと水が入っていた。花はさっきの通り雨を受け止めていたのだ。

 さすがに我慢していた息が苦しくなってきた娘は、花にぶつからないようにいったん顔をもたげて、斜め上に息を吐き出した。
「ふぅ〜っ」
 肩の力を抜いて、オーヴェルは改めてグラスの中を確かめる。細長い花を満たした澄んだ水の表面には、僅かにさざ波が立っていた。王宮の姫君が気に入りそうな、好みの香りの素を入れた小さな瓶ででもあるかのように、花たちは微かな甘く上品な匂いを夕暮れが近づく森の風にしっとりと溶け込ませていた。
「あっ」
 折しも夕陽の光が、立ち並ぶ花たちを照らすように森の奥まで斜めに差し込んできた。きらびやかな黄金の光に視界が遮られた娘は、思わず額に手を掲げた。しだいに目が慣れてくる。
 ぼんやりと輝いて闇を退かすランプのように、目の前の〈森のグラス〉の水の入っていない部分は夕日を受けて赤っぽく透けて見え、水の入っている部分は黒いシルエットになっていた。


  4月14日− 


[森の乾杯(4)]
 
(前回)

 縦に細長い白地の花には、薄紫と桃色の横の線が斜めに入っている。それが十株くらい集まって咲いていた。大きさといい形といい、それはグラスやジョッキを連想させるものだった。
 オーヴェルはゆっくりとしゃがみ、花と目線を合わせていった。視界が変化し、周りの木々がいっそう高くなったように感じた。
 森の中にしっとりと溶け込むかのようでいて、僅かに他からは浮かび上がっているような、ほのかに漂う上品な甘い香りが少し強まった。その匂いは、例えば貴族ほどの名家ではないけれど中流のしっかりした家庭で育った若い町娘が、外出のために軽く香水をつけた時を想像させた。素朴で質実剛健な中に潜む真の強さ、美しさ――賢者の双眸と横顔は確信に変わった。
「いい匂い」
 恍惚とした微笑みを浮かべたオーヴェルは、ごく自然な様子でゆったりとまぶたを閉じ、嗅覚を高めた。しばしの間、香りの言葉を受け止めながら、花たちとの見えない面会を楽しんだ。
 木々の間をくぐりぬけて夕風が吹くと、香りも揺れるのが分かった。オーヴェルの金の前髪も陽の光のようにさらさら揺れた。

 風の名残が遠ざかると、彼女は再び瞳を開いてゆく。目の前には爽やかな佇まいの〈森のグラス〉の花たちが並んでいた。
 あの噂が本当ならば、そして今日の天候ならば――。
「入っているのかな」
 独りごちて、それから少しずつ身体を持ち上げていった。


  4月13日− 


[森の乾杯(3)]
 
(前回)

「何の花かしら」
 香りの素は花であることはもはや疑いを入れなかった。山奥の遅く短い早春を鮮やかに彩る花々――ゼア、ミフィル、フレース、カルリアルト、リッフェン――が脳裏に浮かんでは消えた。
 届けられた匂いはその中のどれとも異なる気がした。普段は気づかない微かな香りが、雨で強められたのかも知れない。
「まだ、きっと」
 間に合うはず――。村への距離と日の高さを素早く検討し、理性よりも本能的な探求心に負けたオーヴェルは、足場を確かめながら嗅覚を頼りに近くの木の裏側のほうへ歩いていった。雨に濡れて水滴の宝石を載せている草を踏むと靴が湿った。
 ごつごつした松の木の幹に近づき、最後の一歩を踏み出す。高まる心臓の鼓動を感じながら、顔を出して向こうを覗き見た。
「あらっ」
 意表をつかれて、オーヴェルは目を見張った。そこで見た花は、これまでに見たことも本で読んだこともない花だったのだ。
 ただ、その存在を聞いたことはあったので、見当はついた。
「これが〈森のグラス〉なのですね」
 つぶやいた彼女は、半歩進んで一群れの花に向き直った。


  4月12日− 


[森の乾杯(2)]
 
(前回)

 しばらくそのままの姿勢で周りを見回し、オーヴェルはじっと耳を澄ませていた。その間にも絶えず微細な変化を遂げ続けていた夕暮れに近い木漏れ日に、何かの合図であるかのように片目を射られると、賢者の表情は変わり、瞳に生命が宿った。
「日のあるうちに帰らないと」
 彼女は幹に手をついて体重を支え、固くなった関節に辟易しながら重たい身体を起こしてゆく。どちらかといえば背が高くてほっそりしているオーヴェルだが、寝起きだったその時は、地面から引っ張られているかのように確かに身体が重いのだった。
 通り雨に洗われた山奥の空気は冬のように澄みきって、冷たいくらいだった。幹の水分で少し湿っていたズボンの後ろを軽くはたき、上着のボタンを全部閉めてオーヴェルは歩き始めた。
「向こうへ少し降りれば……」
 慣れている細道に出る。サミス村はそう遠くない。

 その矢先のことだ――彼女の足が、ふと止まった。
 辺境の若き女賢者の帰路を邪魔したのは、獰猛な獣でも、背丈の高い植物でも、さっきの風雨で倒れて行く手をふさいだ大木でもない。ましてや珍しい山菜や茸を見つけた訳でもない。
「この香りは……」
 聞こえない声で、見えぬ身振り手振りで、触れることなく彼女を呼び止めたのは、甘すぎず品の良い微かな〈香り〉だった。


  4月11日− 


[森の乾杯(1)]

「ん……」
 森の大きな木の根元に膝を抱えて座り込んでいた人影の頭が、長い金色の後ろ髪が動き、やがてゆっくり起き上がった。
「あら、いつの間に」
 眠っていたのでしょう――。
 山奥の村を拠点とする若き賢者オーヴェル・ナルセン嬢が、しびれを覚えながら腕や足を少しずつ前方に投げ出してゆくと、ごつごつした木の幹がズボンの臀部で自己主張する。彼女は最後に思いきり背中を伸ばし、口と瞳を閉じたままあくびをした。
「んーぅ……っん」
 話し相手のいない森の中で、思わず独りごちる。
「雨、上がったのね」
 梢の奥の方から幾条もの橙色の光が差し込んできていた。あちこちの木々の葉からは、ぽつり、ぽつりと――あるいは風が吹けば一斉に、木の葉の緑を映した雨の粒がこぼれ落ちる。
 気温が上がり、うっすらと水蒸気が立ちのぼっている。周りに人はいないけれど、小鳥たちの歌声は高らかに響いていた。それらの証拠はすべて〈雨が上がったこと〉を教えてくれていた。
「ここで雨宿りをして、雨を見ていて……」
 それに続く記憶を探しても、眠りの海の中へ消えていた。


  4月10日− 


[音符の精霊]

 白や黄色、桃色や紫、赤や藍色――たくさんのパンジーの花が、道沿いの花壇に咲いている。規則性があるようでいて不規則に並んでいる、あの色とりどりの鮮やかな音階に似ていた。
 いや――音階そのものなんじゃないかな?
 きっとあの花の色で唄える者、演奏できる者がいるはずだ。
 
 ♪だけが楽譜じゃない。
 湖の波紋は、風のささやきの楽譜をもとにしている。
 飛んでゆく桜の花びらだって、何かの楽譜かもしれない。
 音符の精霊がそこに宿ってさえいれば、きっと。
 
とある旅人の日記より
 


  4月 9日△ 


[光のしずく、水のきらめき(3)]

(前回)

 夜の望月から零れ落ちる淡い銀の輝きのように、目には見えないけれど確かに進む時間の流れのように、あるいは夢の中の背景のように――黄金色をした光の霧雨は音もなく優しく降り注いでいた。粒子のひとしずく、ひとしずくが見分けられる。
 木立は柔らかなきらめきの中にひっそりとたたずみ、本当の霧の朝ででもあるかのように、遠くへ行けば行くほど神秘的に浮かび上がっている。それは光のカーテンのようにも見えた。
「これが、日が陰った時の、森の明るさだ!」
 そう言って指差したジーナの言葉がリュアをはっとさせた。
「そうだね。こんなに明るい……」
 リュアは思わず両手を伸ばし、勢いは弱まっても一向にやむことのない光の霧雨を受け止めた。普段、太陽が薄雲に隠れたときは明るさが消えたかのように思っていたけれど、実際はこれだけの輝きの矢が絶え間なく地上を照らしていたのだった。
 
 やがて、きらめきの雨は再び勢いを増し始めた。森は明るくなり、木洩れ日が強まって、三人の影も濃くなった。太陽が薄雲を抜けて青空に漕ぎ出し、本来の力を発揮しようとしていた。
「光の雫たち、さっきよりも強くなったみたい」
 ジーナの言葉にリュアはうなずき、それからテッテに聞いた。
「テッテお兄さん。夕方になると、雨はどうなるの?」


  4月 8日△ 


 甲高い風の悲鳴とともに
 窓硝子に叩きつけられた無数の雫たちが
 引き伸ばされ、混ぜ合わされ、断ち切られ
 爪痕のような軌跡を描いている

 ここはまるで水槽のようだ
 ――思わず呟いた
 


  4月 7日− 


[緑の階段]

「うちの一階の窓際に、いくつか鉢植えがあるんだけどサァ」
 赤茶色の髪をしたサホが言う。降り注ぐ朝の光を浴びて歩く彼女は、既に初夏の装いだった。明るい橙色の七分袖のシャツに、彼女の髪の毛に似た赤茶色の長ズボンをはいている。
「うん」
 隣でうなずいたのは、金の髪を後ろで結わえたリュナンだ。
 語り手のサホは身振り手振りを交えながら続ける。
「ツヤツヤした緑の葉っぱが階段みたいになってて、光が当たって……その中の一枚だけ、すごく輝いてた。ランプみたいに」
「太陽のかけらみたいに」
 ほっそりした身体で上品な白い長袖ブラウスに薄茶色のロングスカートを着こなし、薄手の上着をきちんと羽織ったリュナンの口からは、きっと過去にサホと似たような経験をしたことがあるのだろう――淀みなく、すらすらと言葉が生まれたのだった。
「そう、そう!」
 サホは思わず腕を掲げ、友が自分と同じ情景を想像してくれた喜びに勢いづいたけれど、それから一転して声をひそめる。
「でも、水汲みから帰って見たら……」
「うん」
 爽やかな風が流れ、二人の髪を軽やかに揺らす。木洩れ日のきらめく街路樹の下で、若い娘たちは思わず立ち止まった。
「さっきとは別の、次の段の葉っぱがきらめいてたのサァ」
 サホの白い歯が光り、思い出の感動をなぞる笑顔がはじけて、向かい合うリュナンも微笑む。二人は春のズィートオーブ市に咲いた、鮮やかな赤と淡い金の、二輪の花のようだった。
 


  4月 6日− 


 砂時計に落ちる砂のように
 水時計に零れる水のように
 短い春の真ん中を刻んで
 桜の花びらが飛んでいった


2008/04/05
 


  4月 5日− 


[時の探し物]

「また増えた!」
「あっちにも見つけたのだっ」
 サミス村の〈すずらん亭〉の若い姉妹が〈増えた〉〈見つけた〉と指差しているのは、日が没したあとの夜空の星ではない。
「あの赤土の坂も、やっと雪が溶けたぜ」
 何人かその場にいた村の友達の一人、ドルケンが示した。

 どこまでも広がる真っ白な雪のキャンバスに残る、針葉樹の深い緑と幹の焦げ茶、村の家々の壁と傾斜のきつい屋根が、サミス村の冬景色に見つけられる色のほとんど全てだった。
 その長い氷のトンネルのような季節は、既にくぐり抜けた。道からは雪が消え、屋根からは溶けてこぼれ落ち、小川の水は冷たく潤い――いつしか勢力は逆転して、今では人の入らない草原や山肌に凸凹の年老いた姿をさらすのみとなっている。
 貴婦人のヴェールのように、凡てをその底に隠していた白雪が天に還るたびに、村にはひとつ、またひとつと色が増える。

 姉妹の妹、十四歳のシルキアが茶色の瞳を瞬いて叫んだ。
「ほら、ヴァイツさんちのお花の黄色!」
「ついに咲いたのだっ。シルキアに先に見つけられましたよん」
 三歳年上の姉のファルナが笑い、他の子供たちからも歓声があがる。ラーヌ河の源流に近い辺境の山奥に吹く風はまだまだ冷たいけれど、自然が織り成す塗り絵を見守る〈色さがし〉は、この時期のサミス村の子供たちの大きな楽しみなのだった。
 


  4月 4日− 


[光のしずく、水のきらめき(2)]

(前回)

「わかった。光のしずくなんだ!」
 ジーナが叫ぶと、テッテは目を細めて微笑む。
「日が陰ったり、夕暮れ時をお見せできないのが残念です」
 ふわりと風が通り抜けて、木々や草の混じりあった森の香りを緩く掻き交ぜ、太陽のようなジーナの金の髪を舞い上げた。
「どうなるの?」
 その少女が尋ねると、
「あ、ちょうど陰りそうですよ」
 テッテは梢の向こうに見え隠れする雲を指差した。
「ほんとだ」
 リュアが呟いた。空に浮かんで昼を作り出す輝きの生まれる場所に向かって、確かに薄い雲が流れているように見える。

 ジーナとリュア、それからテッテの三人は、降りしきる光の雨の中で〈その時〉を待った。さっきまでは無意識のうちに聞いていた鳥たちの歌声が、こんなに高らかで不思議な音色だったのかと改めて気付く。再び風が流れ、デリシ町の浜辺から眺める波のごとくに、森の木の葉たちが次々と揺れ動いてざわめく。
 まもなく変化が始まった。いつもよりも薄暗い森に絶え間なく降り注いでいた光の雨の勢いが、霧雨のように弱まり始めたのだ。ジーナは両目を大きく見開き、リュアは両手を組み合わせて、その景色に見とれていた。テッテも今は何も言わず、わずかに口元を緩めて、きらびやかな雨足の変化を見つめていた。


  4月 3日− 


[光のしずく、水のきらめき(1)]

 シャムル島のデリシ町に近い森の一角に、雨が降り続いている。その雨が地面に触れるところでは、水溜まりやぬかるみは出来ない。その代わり枝葉が遮れば、下には影が出来る。
「おもしろ〜い」
 天の方角を見ながらひとしきり駆け回ったあとで、立ち止まって両手を差し出し、次々と降り注ぐまばゆい雨を掬おうとしたのは、小さな身体に元気をいっぱい詰めた九歳のジーナだった。
 それはありきたりの雨ではなく、光の雨だった。やや薄暗い森の中で、無数の輝きの矢のように音もなく降り続いている。
「きれい……」
 ジーナの同級生のリュアは、柔らかな眼差しをたたえた銀色の瞳で辺りを呆然と眺め、うっとりした声で言った。光の雨の向こうには森が透けて見えた。そばにいたテッテが説明をする。
「これが〈光の幕〉です。ほとんど光を通さない透明な幕に、たくさんの穴があいていて、そこから光がこぼれ落ちてくるんです」
 眼鏡の似合う二十四歳の青年は、一呼吸して言った。
「水の、しずくのようにね」


  4月 2日− 


[アルミスの日]

「光の小石、集めて〜
 森の小道たどれば〜♪」
 足取りも軽く、リンが口ずさんだ。心からの喜びにあふれているやつの笑顔と声が、歌の妙な音程を補っている。
 汗ばむほどの強い春のきらめきも、いったん森に入れば拡散されて、吹いてゆく涼しい風とともに気持ちがいい。
「どうせ歌うなら、こうやって頂戴」
 リンの姉のシェリアが歩きながら息を吸い、高らかに歌えば、それは大小さまざまな鳥たちの声と混じりあって、望みに満ちた清らかな世界を形作った。
「春の女神アルミス様を感じますねぇ」
 腐れ縁の幼なじみタックが、やつにしては珍しく裏返った声で言った。木漏れ日の中を歩くたびに光と影が顔を目まぐるしく変化させる。希望の女神アルミス様は、確かにこういう日を治めているんだと思い、俺は歩きながら大きく深呼吸するのだった。
 


  4月 1日− 


[開花]

 陽光が降り注ぐ上り坂をゆけば、額には汗がにじんだ。
 立ち止まって可憐な白い花を見下ろしながら、上着を脱ぐ。

 そして周りを見回して、こう思うのだった。
(そういえば、人々も、厚いつぼみを開いた花のようだな)
 




前月 幻想断片 次月