2008年 5月

 
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2008年 5月の幻想断片です。

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  5月31日− 


[峠の麓で]

 ケレンスが遥かな高みを仰いだ。畑の間を縫う山道が続く。
「これ登るのかよっ」
「農家に登れて、冒険者に登れないことは無いでしょう?」
 仲間のタックが言った。上流の河を挟んだ狭い平地には数えるほどの古びた農家が軒を連ねる。左右から山迫る村には、馬車で登れそうにない細く急な道が曲がりくねって伸びている。
「あの峠を越えるのが近道との話だ。すまんが頼む」
 ルーグが真面目な表情と口調で語るとケレンスは苦笑した。
「まあ、しょうがねえよな」
 脇に立っている少女リンローナは、これから進む道の急峻さに絶句したが、やがて普段よりも低い声で強い決意を発した。
「すごい坂道だね……頑張らなきゃ」
「あんた、ケレンスに少し荷物持ってもらいなさいよ」
 リンローナの姉のシェリアが気軽に言った。それを聞いていた妹と、荷物持ちに抜擢された少年が、同時にシェリアを見た。
「でも……」
 困惑したリンローナは目を伏せ、ケレンスは怒り心頭だ。
「おいおい。俺だって、調理器具とか色々と持ってるんだぜ?」
「じゃあ、リンローナが転げ落ちたら、責任取ってよね」
 腕組みし、斜めに構えたシェリアを、ケレンスは悔しそうに睨みつける。その時、横で見守っていたタックが仲裁に入った。
「まあまあ。僕とケレンスで分担しますから。ね、ケレンス?」
「俺は《シェリアのは》絶対に持たねぇからな」
 恨みを込めてケレンスが言うと、シェリアは妹に話しかける。
「良かったわね、リンローナ。ケレンスたち、あんたの荷物は持ってくれるって。ほら、早く《ありがとう》って言っときなさいよ」
 シェリアの方が上手だったのだ。妹は申し訳なさそうに言う。
「ケレンス、本当にいいの?」
「しょうがねえだろ!」
 そっぽを向いて答えたケレンスの声は、何故か少し上擦っていた。シェリアはうつむき、作戦の成功にほくそ笑むのだった。

 五人は立体的な村を登り始めた。朝もやが晴れると、鮮やかな青い空が覗き始める。草の露を溶かす陽の光もこぼれ落ちてくる。にわかに勾配はきつくなり、額や背中に汗をかいた。辛い道のりの後に待つ、村を見下ろす絶景を思い浮かべて――。


2008/04/30 芦ヶ久保
 


  5月30日− 


 通りかかった家で展覧会をやっていた。
 時間が有ったし、ドアが開いていたので、足を踏み入れた。

 薄暗い部屋に天窓から光が差し込み、絵が浮かび上がる。
 白い壁には、何枚かの絵が掛かっている。

 黄昏の海にきらめいている、夕陽の輝き。
 鉢植えの花の色と、鮮やかな緑のつぼみたち。
 遠い町へ続いてゆく、なだらかな丘を越える道。

 いつの間にか、私の後ろに立っていた〈彼〉が言った。
「どれも、ずっと昔の出来事ですけれど……」
 絵を見るたびに、はるかな時空を越えて甦るのだろう。

 では、こちらの絵は?

「これは、未来の出来事を想像したのです」
 どうやら〈彼〉にとっては、全部、ただの風景じゃないらしい。
 私は〈彼〉の顔をまじまじと見つめた。相手はやがて言った。
「これらは〈記憶の種〉なんです」
 


  5月29日− 


 酒場で商人を取り囲み、村の大人たちが話を聞いている。
「ラーヌ川を遡っていくと、少しずつ山が近くなるんだ」
「おぉ」
 山奥のサミス村に生まれ育った者たちは、一生村を出ない割合が高い。商人や吟遊詩人たちの話は第一級の娯楽だった。
「幾つかの峠を越えるときは、この時期、山は碧の壁に見える。ラーヌ川はそれを映し、高いところから眺める碧の水は……」

 聞き耳を立てながら、酒場の娘のシルキアが近付いてゆく。
「はーい、ご注文の麦酒、持ってきたよ」
「そこに置いといてくれ」
 客の中年男の指示に従ってシルキアは麦酒を置き、空いたグラスを盆に載せる。そのまま彼女は近くの椅子に腰掛けた。

 観客が一人増えたのも特に気にせず、商人は話を続けた。
「雨の時は、あらゆるものが灰色になる中、森の碧が……」
 こうして今日もサミス村の夜は更けてゆくのだった。
 


  5月28日− 


[海と大地]

 町外れには北国の爽快な潮風が気まぐれに流れ、隙がない状態で立っている四人の若い女性の黒い髪を揺らしていた。
 マツケ町の東に広がる深い蒼の海を眺め、それから町外れに続く荒野に目を移して、十九歳の闘術士・ユイランが言った。
「海と大地と、どっちが広いんだろうねー」
「うーん」
 急な問いに考え込んだのは最も後輩のマイナだった。ユイランの表情をちらりと伺ってから、海と荒野とを見比べて唸った。
「海に囲まれているのか、陸地が海を囲っているのか……」
 皆の先輩にあたるメイザが呟くと、ユイランは相づちを打つ。
「そうっすねぇ」
「……」
 四人目のキナは鋭い気配を維持しつつ、黙って聞いていた。
 
 太陽が小さな白い雲に陰ると、大海原は色を失って巨きな灰色になり、落ち込んだように見える。だが、間もなく光が照らし始めると、一瞬にして清らかな蒼に塗りかえられるのだった。
「どちらが広いかは分からないけど」
 メイザが話し始めると、三人の後輩たちは耳を澄ませる。
「どっちも、途方もないほど広いよね!」
 その発言で一気に場は和み、マイナはやや大げさに、キナは小さくうなずいた。質問をしたユイランも明るい表情で言った。
「そうっすね!」
 メイザの発言は海を彩った太陽の光のようだった。同じ道場に属する闘術士仲間の四人は休憩を終え、駆け出すのだった。
 


  5月27日− 


[家の家(2)]

(前回)

「ん?」
 小鳥たちの声が太陽の光の粉といっしょに降り注ぐ中で、リュナンが不思議そうに立ち止まった。振り返り、サホの指さした方を捜した少女は、眠たそうだった蒼い瞳を少しずつ開いてゆく。
「あっ」
 ピィー、ピィー、ピィー。
 リュナンの家の二階、彼女の部屋の窓の下に、木の枝や何やらを上手に組み合わせた鳥の巣ができていたのだ。そしてヒナが三羽、顔を出して大きく口を開き、盛んにさえずっていた。
 サホはリュナンの横に立ち、鳥の巣を見たまま笑った。
「ね。どおりで、鳥の歌が近いわけさァ」
「気付かなかったよ。可愛いね」

 その時――頭上を影が舞い、風が舞った。
 何かがふわりと横切り、二人に注ぐ陽の光を一瞬だけ遮る。
「ツバメだ!」
 少女の声が重なった。親鳥が巣に戻ってきて、小鳥たちは元気な様子で餌を食べる。親鳥は忙しそうに、すぐ飛び立った。

「これから早く起きようかな」
 リュナンが嬉しそうに呟くと、サホは青い空に腕を掲げる。
「そうだよ。楽しみがあれば起きられるさァ」
 学院に続く緑の鮮やかな並木道を、二人は並んで歩いた。
 


  5月26日− 


[花の道しるべ]

「桃色のお花を右折して
 青紫のお花を直進――
 白いお花を飛び越えて
 黄色のお花のお向かいさん」

 斜めに差し込む光の柱と、木漏れ日の模様、濃い影を縫うようにして――。葉っぱの裏に書いてある住所を確かめながら、今日も風の郵便配達夫が森の中を軽やかに駆け巡っている。


2008/05/26 ハイビスカス
 


  5月25日− 


[未完成の泡(2)]

(前回)

 それから数日後――。
「……というわけなんです」
 森の中でテッテが説明した相手は、二人の少女だった。ジーナは八歳、リュアは九歳で、合わせても彼の年齢に達しない。
「ふーん、これが〈虹泡の笛〉なんだ」
 大きな青い瞳をまばたきさせ、軽く首をかしげて金の前髪を揺らし、ジーナがつぶやいた。友達のリュアも夢中になっている。目の前のテッテが示していたのは、先日、彼が師匠のカーダ博士に叱られながら実験をした、あの〈管のようなもの〉だった。
「ええ」
 テッテが困惑気味にうなずくと、ジーナは腕組みして考えた。
「この道具だって不思議だけど、泡の色が〈緑と水色だけ無い〉なんて、もっと不思議だよね! なんか中途半端な気がする」
 そこでジーナは友達の方を見た。リュアは相づちを打った。
「そうだね」
「ねえ、テッテお兄さん、あたしたちの前で吹いてみて!」
 ジーナがお願いをすると、テッテは顔をほころばせた。
「ええ、もちろん。ジーナさんはそう言うと思いましたよ」
 そして忘れずにリュアの方にも声をかけるのだった。
「リュアさんも見ていて下さいね」
「うん」
 銀色の髪を揺らし、優しい瞳のリュアはうなずいた。

(続く?)
 


  5月24日− 


 大粒の雨が降り始め、慌てて森の小径へ駆け込んだ。
 天然の傘が開いていて、濡れることはなかった。
 
 名も知らぬ鳥の声が高く響き、近づくと黒い影が舞った。
 鮮やかな緑の架け橋をくぐり抜け、土を踏んで歩いた。
 
 見通しは悪く、何度も急曲線を右に進んだ。
 細い分岐は放っておいて、主要な方を選んだ。

 どこに続いているのだろう、この道は――。
 どんな世界が、この先に舞っているのだろう。

 不安と期待の入り混じる中で、遠い景色が見え隠れした。
 方角は、たぶん合っているようだった。
 
 道は緩やかな下りに差しかかり、幅が広くなってきた。
 そして突如、視界は開けて、家々が現れたのだった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「へぇー、この町に、そんな道がねぇ」
 伯父が興味深そうに言い、僕はうなずいた。
「うん。で、その道にもう一度行こうとしても行けないんだ」
「幻の道か……雨宿りの、森の小径」
 腕を組み、天井を遠く眺めて、伯父がつぶやいたのだった。
 


  5月23日− 


[春の夜空]

「そう、あれが牝鹿座。その横に浮かんでいるのが牡鹿座。ほら、明るい星を繋いでいくと、立派な角に見えてくるでしょう」
 微かな淡い星明かりの下で賢者オーヴェルの声が響いた。
「おーっ」
 子供たちの感嘆の声が洩れる。メラロール王国東部、ラーヌ河の上流にあるサミス村の空は今宵も澄み渡り、幾千、幾億もの星たちが、白や青、赤や橙色にきらめいている。星座の説明を受けても、星が多すぎて見つけるのが大変なくらいだった。
「んー、どれだ?」
 見つけきれなかった一人、ドルケン少年が闇の中で視線を動かして呟くと、近くにいた友達の少女シルキアが気づいた。
「ケン坊。さっきの牡鹿座、分かる?」
「何となく、ね」
「その右隣……右上に、明るい星があるよね?」
 シルキアは説明を続け、ドルケンは懸命に目を凝らした。
「あー、うん」
「えーっと、白っぽいお星様ですよん?」
 さらにもう一人、星座が分からなかったらしいシルキアの姉のファルナも、妹の話に乗ってくる。シルキアの声は明るかった。
「そう、多分合ってる! でね、そこから右下の方に……」
 
「光を失って立ちすくむけれど……夜だからこそ星が見えるし、人は夢を見ることができる。夜はきっと太陽の見る夢なのね」
 オーヴェルは静かに独りごち、それから皆に呼びかけた。
「これが春の星たちです」
 


  5月22日− 


[街道ハンター]

「ええ。いつか、すべての街道を」
 背中に小さな楽器入れを背負ったまま椅子に腰掛けている旅の吟遊詩人が、日焼けした浅黒い顔に白い歯を見せて笑う。
 主街道、脇街道――馬で行ける道ならば隅々まで制覇したい、全部行ってみたい――と語る相手に、俺は質問を投げた。
「山賊は心配ないのか?」
「取られて困るのは、この楽器と……あとは命くらいかな」
 相手は心臓を指さして明瞭に答えた。それほど声量は大きくないのに、ごった返す酒場の中でも良く通る澄んだ声だった。
「それに、結構逃げるのは得意なんですよ。きちんと逃げるってのも、戦いとは違った方向性の、馬乗りの技術が必要でね」
 若い旅人はそう言うと、右の瞳を悪戯っぽくまばたきさせた。
「変わった話を聞かせて貰った。じゃ、この酒は俺のおごりだ」
 余分に注文しておいた分の赤葡萄酒のグラスを押し出す。
「ありがとう。では、あなたのために歌おう」
 慣れた動作で入れ物から楽器を取り出し、ジャランと鳴らして調律を合わせる。葡萄酒で軽く喉を湿らせ、発声を確かめる。
 詩人は一度ゆっくりと頷いてから、おもむろに立ち上がると、混雑する酒場の中で朗々と唄い始めた。いつの間にか周りの声が小さくなり、酔っ払った親父たちが音の調べに耳を済ませる――時々、適当な野次を入れたり、拍手をしたりしながら。

 緑の深い森に見え隠れする小道。
 あの先には何があるのだろう――。
『続きが知りたくて、本のページを繰るようにね』
 と言った彼は、今日も新しい道を進んでいるに違いない。


2008/05/22
 


  5月21日− 


[家の家(1)]

 小さな水たまりのきらめく朝、鳥たちの歌が響き渡っていた。
 家のドアがゆっくりと開き、淡い黄金(こがね)の前髪がふわりと風に揺れた。ほっそりした身体を新しい朝にさらした少女は明るい光に重いまぶたを細め、額に左手を掲げるのだった。
「まぶしぃ……」
 家の前の道では、赤い髪の少女が元気良く顔を上げた。
「ねむ、おはよっ」
「おはよう、サホっち」
 外で待っていたのはサホ・オッグレイム、家から出てきたのは〈ねむ〉ことリュナン・ユネール。二人は学院の同級生である。
「今朝は鳥の声がすごいねー」
 陽の光を縫ってリュナンがゆったり話しながら歩いていくと、サホは近づいてくる相手の後ろ上方を人差し指で鋭く示した。
「あれ見て!」

(続く?)
 


  5月20日− 


 カーテンを開けて
 その先に待っていたのは
 薄明るい空に驟雨のカーテン
 ゆったり流れる白いレース
 


  5月19日− 


[時の輪]

「時の輪を切って繋げたかのような……」
 裾の長いマントを野の風にはためかせ、シェリアが呟いた。
 上り坂が終わると視界が開けて、丘の稜線をゆく街道はなだらかだった。正確に稜線をなぞる道の先が遠くまで見渡せる。
 辺りには冬とも春とも違う、柔らかで温かな日差しが舞い降りていた。背の低い木の下の影には黒ずんだ雪が残っている。

 白と黄色の花畑は春先に咲く花たちだ。あの花を海に近いメラロール市の花屋で見かけたのは、もう一ヶ月も前のことだ。
「場所を移動して、時の輪が楕円になったんだろう」
 ルーグが応えた。彼のマントの裾も揺れ動いている。
 天の高みを滑空する一羽の鷹が甲高い声で鳴いた。空は概ね晴れていたが、所々にはうっすらと白い雲がかかっていた。
「ずっと同じ季節の中を歩いて来たみたいね。不思議だけど」
 シェリアが言い、軽く息をついた。彼女たちは、幾つもの時の輪が重なる〈折節の縁〉を、奥山の方へ歩いてきたのだった。
 


  5月18日− 


「どんな偉い王様でも、支配できないものはあるわ」
 シーラが言い終わると、ミラーはゆったり訊ねた。
「心?」
「それも一つだけど……あとは天候もそうね」
 語ったシーラは、立ち止まって夜空を仰いだ。
「そして、夜」
 幾多の距離と時を越えて、星たちがまばたきをしている。
「どんなにランプを集めても、夜は支配できないわ」
 シーラが穏やかな声で言うと、ミラーもうなずくのだった。
「そうだね」
 


  5月17日− 


 町を出ると家は途切れ
 農地が広がり
 その先は森になり
 道は上り坂になる

 それぞれの場所で
 それぞれの季節はめぐり――
 作物が育つように
 人々も育つのだ


2008/05/17
 


  5月16日− 


[未完成の泡(1)]

 カーダ博士が威厳のある声で、苛ついた感じで指示を出す。
「よし、では吹いてみるんじゃ」
「はい」
 弟子のテッテは真面目に返事をしてから、草のくきのような長いものを唇に近づけていった。その管の先は大きな果実を最初に二つに切った時のように、半円状に大きく広がっている。
 彼が深く息を吸い込んで、いよいよ管を口に含もうとした。
 と、その時――。
「慎重にな」
 カーダ博士がタイミング悪く声をかけたものだから、師匠の方を見て返事をしようと思った弟子は思わず息を吐いてしまった。
「ぷわっ」
 中途半端に息が弾ける音がして、テッテがくわえた管の先からほんの少しだけ空気が洩れると、小さな幾つかの泡が生まれて浮かび上がった。それは形も大きさも仕草も、いわゆるシャボン玉にそっくりだが、色だけは違った。シャボン玉の色を整理したかのように、鮮やかな赤や黄色や橙色、紫や青の単色だ。
「馬鹿もん! 何と言う情けない実験の始まりじゃ」
「も、申し訳ありません……」
 テッテは不思議な管をつまんだまま、がっかりした様子だ。
 師匠のカーダ博士は怒りで顔を火照らせ、眼鏡の奥の両目をカッと見開いたものの、実験開始ということで何とか自制した。
「まあいい、ゆっくり吹いてみい。詳しく確かめねばならん」
「わかりました、師匠」
 師匠より三十歳年下の、弟子の二十四歳のテッテは気を取り直して健気に答え、再び息を吸って管を唇に含むのだった。


  5月15日− 


 ふと見上げた葉が明るい緑に輝いている。それぞれが太陽と出会えるように、光を遮らぬように手を伸ばして。
 その横には白と紫の模様の混じった細長い花が咲いていて、微かな爽やかな香りを撒いている。
 風薫る季節、道は白く明るい。遠い山並みは霞んでいた。
「さて、行くか」
 向き直り、軽く斜め上に飛び上がった――次の瞬間、この身体は速やかに霞に溶けて、人の目には見えなくなっている。
 また行った先で粒子を合わせ、実体になればいい。それまでは霞となって、初夏の真ん中を自由気ままに漂ってみよう。
 時折きらめいている、七色の光の輪をくぐって。
 


  5月14日− 


[旅人ロフィアの唄]

 移りゆく景色と語らいながら
 見たことのない場所を行く

 次からは決して味わえない
 初めての道の新鮮な楽しみ

 まだ知らぬ道のりと
 いつ着くか分からない不安を代償に

 だんだんと不安が募るけれど
 いつか目的の地にたどり着く

 道を間違えることもある
 そんな時は戻ればいい

 そして、あの新鮮さに会いたくて
 明日も新しい道を行く
 


  5月13日− 


[春の晩、山の灯(2)]

(前回)

「おいおい返してくれよ」
 座ったまま手を伸ばす男に、シルキアは困惑気味に言った。
「もう。あんまりお姉ちゃんをからかわないでね」
 少女がジョッキを置くと、少し遅れて麦酒がたぷんと跳ねた。
「お〜っ。やるなぁ!」
「シル子、度胸あるぜ」
 客から喝采が上がるが、注意された老人はバツが悪そうに髪の薄くなった頭をかき、冗談めかして顔をしかめ、舌を出した。
 もじもじしながら、シルキアの姉のファルナが小声で言う。
「シルキア、ありがとうですよん」
 すると妹は腕組みして上目遣いになり、公平に姉を責める。
「お姉ちゃん、大事なお客さんたちを上手くあしらえないなら、あたしが看板娘になっちゃうよ? このままじゃ奪っちゃうかも」
「そ、それは勘弁してほしいよん……」
 ファルナが妹にすがりつくのを見ると、さっきジョッキを奪われた男も周りと一緒になって笑う。場は和み、再び盛り上がる。
「はい、みんな、あんまり飲みすぎないでよ〜」
 シルキアは手際良く空のジョッキを集め、厨房へ帰っていく。
「ふふ……みんなからかい甲斐があるなぁ」
「どうもなのだっ」
 ファルナが後から妹を追う。男たちは途切れた話を始めた。
「さあて、どこまで話したんだっけか?」

 窓際の鉢には、白い小さな花が寄り集まって咲く可憐なリエラが、ランプの灯にぼんやり浮かんでいた。雨でしっとりと湿った酒場の、肉と魚と麦酒、それから温かなシチューで満たされた空気の片隅に、リエラの花のほのかな香りが混じっていた。

(おわり)
 


  5月12日− 


[デリシ港にて(1)]

 デリシ町は島国シャムル公国の西端にあり、大陸との玄関口になっている。島での商業の中心であり、人や物が行き交う。
 大きさや形の様々な、数え切れないほどの舟と旗とに、港は埋め尽くされていた。潮の香を含んだ海風が起これば、旗の色や模様と、その背景に広がる青空と白い雲が見え隠れする。
「見事な眺めだ。我が国の財産だな」
 そう低い声で言って目を細めたのは、シャムル公国の第一公子、クロフ・シャムールだった。目下のところ次代の公爵の最右翼であり、戦士として良く鍛えられた三十歳近い大柄の男だ。
「ええ」
 はっきりと返事をしたのは彼の妹、二十一の誕生日を迎えたシャムル公国第一公女のクリス・シャムールだ。こちらも女性にしてはすらりと背が高く、しなやかな筋肉がついている身体は決して社交やダンスだけに興じている女性ではなかった。凛として立ち、吹いてくる海の風に黄金色の前髪を揺らしている。
 彼らは首府のシャムル市を経ち、騎士団に守られながらも自ら馬を駆って陸路デリシ町を目指した。軍港に寄る前に、まずは貿易船や旅客船、漁船の集まる民間の港を視察したのだ。

(続く?)
 


  5月11日− 


[春の晩、山の灯(1)]

 冷たい雨のしとしと降り続く夜、暖炉では焔がはぜている。草月(五月)といえども――年によっては夏でも――ラーヌ河の源流にほど近い山奥のサミス村では暖炉に薪をくべる日がある。
 村でただ一つの酒場である〈すずらん亭〉は、外の冷たさをはねのけるかのように今夜も村の男たちで賑わっていた。ほとんど雪の溶けた山では、狩りや山菜摘み、魚釣りや樵(きこり)の仕事が本格的に始まり、男たちは忙しくなっている。
「はい、木の実のシチューですよん」
 看板娘のファルナが盆に皿を載せて運んできた。
「身体の中からあったまるのだっ」
 澄んだ焦げ茶色の瞳を輝かせて、茶色の髪をなびかせる。
「おう、ファルナ」
「ガハハッ」
「待ってました!」
 赤い顔をした髭づらの背の低い樵や、ひょろりと背が高いが肩や腕や足が筋肉質の狩人、若い河釣り師が一斉に歓迎する。上機嫌だから、三人とも今日の成果は良かったのだろう。
「どうだい、嬢ちゃん。これは冷たいけどなァ、その特製の〈木の実のシチュー〉以上に、身体の奥からあったまるぜェ?」
 隣のテーブルの、丸い毛糸の帽子をかぶった老人が笑った。
「え〜っ、あの、困りますよん…」
 ファルナは困惑する。男が示したのは麦酒のジョッキだ。
「俺のおごりだぜ。飲めねえってのか?」
 酔った勢いでわざと凄んで見せると、娘はごくりと唾を飲む。
「……」

 その時、男のジョッキが高く持ち上げられた。
「お、おい……」
「おじさん、飲み過ぎじゃなぁい?」
 颯爽と現れたのは、ファルナの妹のシルキアだった。


  5月10日− 


 雨混じりの風は冷たく、僕は思わず開いたばかりのドアを閉めた。背中の荷物を下ろして紐解き、上着を捜した。
アルミス様も気まぐれなもんだなぁ」
 夏みたいな暑いくらいの光が降り注いだかと思えば、今日みたいに冬を思い出す冷たい雨が降ったりもする。
「微妙な恋心よ」
 久しぶりの温かな上着をすでに着込んだシーラが僕の後ろに立って言った。
 確かにそうかもしれない。希望を司る春の女神アルミスは、夏の神スカウェルと冬の神シオネスとの間で心を揺らしながら、しだいに夏の方へ惹かれてゆくのだろう。
「まあ、夏へ向かうのも、単純にはいかないって事だね。山あり谷あり」
 その間に上着を着た僕は、もう一度荷物を背負った。
「よしっ。行こうか」
 声をかけると、シーラは何も言わずに軽くうなずいた。
 緑の葉から雫のこぼれる春雨の朝、僕たちは出立した。
 


  5月 9日− 


[空に近い場所]

 木の葉に腰掛けて、いつも空ばかり見ていた。
「俺、風になれるのか?」
 通りがかりの風の精霊に聞いてみると、首を横に振った。

 のっぽの木の上を器用に跳び回るけど、森を離れられない。
 木の精霊と風の精霊から生まれた、木の葉の精霊――。
 それが俺だ。

 木にはたくさんの仲間がいる。
 でも、きっと俺は風の性質が強いんだろう。
 また木のてっぺんに登り、過ぎ去ってゆく風に訊ねた。
「俺、風になれないのか?」

 その時の風は、俺の呼びかけを聞いて、ふっと立ち止まった。
「風にはなれないけど、連れてってやってもいいよ」
 木の葉は、自分では飛べないけど、風に乗ることは出来る。

 最初、木を離れるときは怖かったし、心残りもあった。
 それでも俺は〈風〉になりたかった。
 今では良き相棒の風とともに、世界中を飛び回っている。
 


  5月 8日− 


[初夏の色]

 幼い子が背の高い並木いっぱいに繁る緑の葉を見上げた。
「どうしたの?」
 母が尋ねると、息子は葉を指差した。
「お母さん。あの緑色、どこから来たの? 土の中にあるの?」
 爽やかな風が流れて、快く葉を奏で、通り過ぎていった。
「そうねぇ……」
 母は少し考えてから、こう答えた。
「土の茶色と、空から降る雨の青……それを明るいお日様の光で溶いて、涼しい風で混ぜると、あの色になるのよ。きっと」
「そうかー」
 子供は感心して笑うのだった。
 再び歩き出した後、母は並木を振り返って、ぽつりと言った。
「それと、春を待つ人たちの薄桃色の気持ち……肥料をね」
 町には光が充ちあふれ、気温は上昇した。もう初夏だった。
 


  5月 7日− 


 華やかな色が呼んでいる

 道端や木々の枝先で
 赤や黄色、桃に紫
 橙、茶色、白に青

 鮮やかな花が歌ってる
 


  5月 6日− 


[新緑につつまれて]

 緑の太陽の照らす大地を
 微風に吹かれて歩いてるみたいな

 碧のキャンバスに
 光の絵の具で描いたみたいな

 翠の池から取った色を
 きらめく絵筆で溶かしたみたいな


2008/05/06
 


  5月 5日− 


 馬から降り、手綱を握りしめたまま、ゆったり辺りを見回す。
「嫌な空気だな」
 曇り空が遠い山並みを隠していた。
 晴れならば大きな目印になるはずだが、今は全く見えない。
「雲は厚くはないが……」
 それでも、どこまでも続いてゆく荒野は薄暗い。街道の両脇、丈の低い草をなびかせて行き交う風はひんやりと湿っていた。
「早いとこ行った方が良さそうだな」
 黒いマントを翻して愛馬にまたがる。遠い雷鳴が低く妖しく響く中、俺たちは人馬一体となって矢のように丘を下って行った。
 


  5月 4日△ 


[始まりの時(2) タック・パルミア編]
 
「晴れた朝の散歩は気持ちがいいものですよ」
 なるほど、晴れがましい顔でタックが応えると、眠りを愛するケレンスとシェリアからは異口同音、驚きの声が発せられた。
「よく早く起きられるよな」「……わねぇ」
 それから二人は思わず顔を見合わせて苦笑する。
「珍しく意見が合ったわね」
 とシェリアが言えば、ケレンスは首をかしげつつも同意する。
「ああ」

「早起き、気持ちいいよっ♪」
 遅れて返事をしたのはリンローナだ。
「そういえば、けさお会いしましたね。向こうの小道で」
 タックが言うと、リンローナは嬉しそうにうなずいた。
「うん!」
 するとケレンスが、わざとらしく妙に低い声で忠告する。
「おいリン、気をつけろよ。外には獣がいっぱいだからな」
「獣さん? 気をつけた方がいいのかも知れないけど……」
 町の中にも出るのかな、とリンローナは腑に落ちない顔をする。ケレンスは腐れ縁の友人、タックの頭をポンとはたいた。
「例えば、こいつとかな」
「やや。これは失礼な言い草だな」
 タックは口元を緩めながら上半身を後ろに傾けて、悪友の攻撃をすんでのところで器用に回避した。こちらもわざとらしく真面目くさった言葉で言うと、皆の間から自然と笑い声が起こる。
 宿屋の朝食後の、旅の仲間たちの心安らぐひと時だった。
 


  5月 3日− 


[始まりの時(1) リンローナ・ラサラ編]

 目を醒ますと、カーテンの隙間から明るい光の筋が射し込んでいた。もっと遠くまで届きたいよ、って言ってるみたい――。
 あたしは毛布を持ち上げて起き上がり、カーテンを開いた。
「あっ」
 まぶしい光の洪水が、部屋の中に入り込んできた。

 部屋の空気はまだ、ゆうべの温もりの名残が残っている。あたしは窓の鍵を外して、ギィーっと押して開いた。小鳥さんたちの楽しそうなお喋りが、さっきよりもはっきり聞こえてきたんだ。
 新鮮な風が軽やかに入ってきて、駆けめぐった。夜は爽やかに溶けていって、朝が深まってくる。あたし、この時が大好き!

 まばゆい光と冷たい風で、舞台はできた。
 あたしは仕上げにお姉ちゃんのベッドに向かった。
「ほら、お姉ちゃん。朝だよ!」
「ンンン……」
 お姉ちゃんはすごく辛そうに低くうめいて、布団を顔まで持ち上げる。薄紫の長い髪の毛が乱れた。あたしはすっごく心苦しいかったんだけど、その日は次の町まで行く予定。朝から動かなくちゃいけない日だったから、お姉ちゃんの布団を揺すった。

 お姉ちゃんが起きる頃には、下から美味しそうな匂いが漂ってくる。あたしは着替えを済ませて、階段を下りていった――。
 


 幻想断片2500回 

 2000. 1.31.〜2008. 5. 2. 

 開始より3015日目
 


  5月 2日− 


[アマージュの春風(3)]

(前回)

 丘の稜線をゆく道は〈天空回廊〉と呼ばれ、石造りの道が緩やかに弧を描いている。この町で暮らしを営むものにはなじみのある名前だ。人の姿はあまり見かけないが、例えば向こうへ歩いてゆく若い二人の女性は、果てしない空と眼下の町とを眺めつつ、ゆったりとした足取りで静けさと思索とに充ちている。
 空に手の届きそうな道の途中、さっき登って来た〈朝霧坂〉の近くになだらかな一角がある。そこには古びてはいるけれど威厳のある一軒の屋敷が建っている。アマージュの町を俯瞰し、見守っている〈天空回廊〉には、そういう昔ながらの家が多い。
 直感の導くまま、気の赴くままに、私はそこへ近づいてゆく。少しずつ花の香りが強くなって、あの不思議な微風が含んでいた爽やかな匂いは決して幻ではなかったのだと確信しながら。

(続く?)
 


  5月 1日− 


[緑光]

 川の上流にも遅い春がやって来た。崖から生えた木の葉を縫って舞い降りる木漏れ日が、薄暗い川面にきらきらと輝いている。せせらぎは澄み、時折、小さな魚の銀の鱗が垣間見える。
 日蔭と水のために辺りはかなり涼しいけれど、人はもう冬のような厚い上着を必要としない。風の肌触りは清らかであった。
「オー、オー、オー!」
 渓谷にかかる短い木の橋を、子供たちが歌い、掛け声を合わせて渡ってゆく。それが行ってしまうと、水のせせらぎの通奏低音と聞いたことのない鳥の鳴き声、木の葉の揺れるリズムが不思議な〈不調和の調和〉を見せながら渓谷の音楽を彩った。

 ふと、一枚の緑の葉が崖の木を離れた。それは新たに始まった小さな旋律、まだ風しか気づいていない僅かな変化だった。
 木の葉はしばらく空気の流れに乗って上へ下へ漂ってから、いよいよ吸い込まれるように川の水面に舞い降りようとする。
 あと少しで白い水しぶきに触れると思われた、刹那――。
 木の葉は器用に身を翻し、再び上昇に転じた。
 それは一頭の、深い緑色を多く含んだ揚羽蝶だったのだ。

 早瀬と森の間に形作られた渓谷を、かなたの高みから射し込む光の筋を縫って、揚羽蝶はいま主人公となった。森から生まれ出たかのような彼の者は高らかに跳躍し、優雅に空を滑る。
 こうして蝶は水の流れに沿い、長い旅を始めたのだった。
 




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