2008年 6月

 
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2008年 6月の幻想断片です。

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  6月30日− 


 時を刻んだ〈しるしの草〉が
 大きくなって花を咲かせる

 薄紫のほのかな花は
 地上の小さな思い出たち
 


  6月29日− 


 雨は〈思いをつなぐ道〉

 窓の外を見ているうちに
 ずっと離れた場所へ向かって
 そっと思いを馳せるから

 あの町にも雨が降るの?
 道は濡れ、花は雫をこぼし
 その人は傘をさして歩く

 雨は〈心をつなぐ道〉
 


  6月28日− 


 濃い橙色の下弦の月が
 妖しく夜を昇ってゆく

 黒い部分が淡く浮き出て
 闇の夜を人知れず治める
 


  6月27日− 


[始まりの刻]

 まだ誰もいない朝。
 もやのかかる道を、私は歩いていました。
 空気はしっとりと湿り、爽やかです。
 生まれたての、まだ誰にも触れられていない真新しい朝の中を、わたしは踏み出してゆきます。
 うっとりするほど静かな時間は、小鳥の声に彩られます。
 昼間の喧騒もいいけれど、この朝との無言の語らいが、私の一日を豊かに始めてくれます。
 太陽がもやを溶かす前には、私は家に帰ります。
 それまでは、ここはここでない、別の世界かも知れません。

――レイナ――
 


  6月26日△ 


 真夜中の白樺の林で
 フクロウが低く物語る

 やがて雲が流れ
 今宵の望月が現れた

 きらめきが幾条も投げかけられ
 光の金糸は枝に絡まりあって
 
 闇に浮かぶ白樺の森に
 精霊たちが集い始めた
 


  6月25日− 


 そこを通り過ぎても
 いまは背景にすぎない

 かつての主役たちが
 もう戻ることはない
 
 想い出の中の場所は
 帰れない時間は――
 
 あの日のまま留まって
 頭の奥のどこかに残る
 


  6月24日− 


 森には碧の光。
 海には蒼いきらめき。
 黄昏は橙の輝き――。

「へぇー。光は色を変えるのね」
 夜の精霊が、私の話にうなずいた。
 そして彼女は星を見上げ、納得したようだった。
 


  6月23日− 


 雨の中に鮮やかな
 紫陽花の、あの青
 
 藍と灰の季節に染まる
 いくつもの見晴らし台
 
 涼やかに澄み
 麗しく潤み
 
 絵の中から浮き出して
 遠く空を仰ぎ見ていた
 


  6月22日− 


[南の便(1)]

「南の便はありますか」
 と声をかけたのは、森の中に生える背の高い木だった。
「今日はあと一本」
 短く答えて通り過ぎたのは、森を巡る風の郵便集配員だ。
「ケール君、ちょっと来てくれんかな」
 木が呼ぶと、少ししてから小鳥が飛んで来て、上手に枝にとまった。
「何?」
 ケールと呼ばれた小鳥が首をかしげる。すると木は高らかに声を発した。
「すまんが、種を運んでくれぬか」
「おう」
 小鳥は慣れた様子で木のウロへ飛んでゆき、クチバシで種を二つくわえて出て来た。
 それから木の上のほうへ飛んでゆき、細い枝にとまって、大きな一枚の葉の中へ、丁寧に種を落とした。
「ありがとう」
 木が礼を言い、小鳥は羽ばたきながら答えた。
「じゃな」
 
 鳥が種を置いたのは、内側がかなりへこんでいる大きな葉だった。それはやや強い風が吹いても、種をこぼさなかった。
 日が陰り、再び太陽が照った。風がそよぐと木々の緑は爽やかに揺れ動いた。地面近くでは白と黄色の蝶が舞い、シダは深く差し込む光を受けて輝いていた。

(続く?)
 


  6月21日− 


 腹の中には腹の神がいて
 頭の中には頭の神がいる

 腹を空かせた腹の神には
 正しい食事を奉り

 疲れて眠たい頭の神には
 正しい眠りを奉る
 


  6月20日− 


 水の中で浮かび上がる
 幾つもの白い泡のように

 右に空の彼方を仰ぎ
 左に森や町を見下ろして

 あの澄んだ空の果てへ
 青い水の球が飛んで行く

 雨となって地に戻るのも良い
 風に乗ってさまようも良い
 


  6月19日− 


[光煙(1)]
 
「どのくらいの広さか、皆目見当がつきませんな」
 壮年の白髪混じりの魔術師がしわがれた声でつぶやいた。
「よく作ったものだ」
「地の果てまで続いているんじゃねえか?」
 若い仲間たちの声はくぐもるわけではなく、行き先を探して散り散りに消えていった。相当の空間的な広さを感じさせた。

 たどり着いた巨大地下の神殿はしんと静まり返り、まがまがしい空気が漂っている。燭台に明かりは一つも燈らず、辺りは重量感のある闇に覆われていた。時折、彼らの持つランプの灯りが風も無いのにゆらめいたが、炎が怯えているかのようだ。
 生き物の気配はなく、蜘蛛の巣すら見当たらない人工的な空間で、空気は澱んでいない。魔術師がぽつりと言った。
「どこかに換気口があるのでしょうな」
 すると斜めに後ろにいた背の高い聖術師が相槌を打った。
「それに、最近まで使われていたんでしょう」

 肩幅の広い戦士が、ここまで彼らの歩く通路を照らしてくれたランプを思いきり掲げてみても、神殿の天井の高さは判然としない。整備された白い石の壁と床が浮かび上がるだけだった。
「魔術の光で、照らせないか?」
 戦士が問うと、年長の魔術師はゆっくりと頷き、言った。
「ふむ、一番良い方法でやりましょう」

 モゴモゴ呪文を唱え終わると、魔術師の指先から霧が生まれた。戦士は一瞬、暗闇の中で怪訝そうな表情を浮かべたが、すぐに精悍さを取り戻し、何も言わず事の成り行きを見守った。
 爽やかな音を立てて指先から生まれ出た霧が果てしない闇の空間に勢い良く吸い込まれていったが、それは次第におさまってゆく。やがて魔術師はいったん腕を下ろし、呼吸を整えた。
「ほぅ」
「光の種を植えるんだね」
 聖術師が男にしては高い声で呟くと、魔術師は答えた。
「球光〈ライポール〉だと照らす範囲が限られますし、闇を貫く直線の光でもまた然り、ですからな」
 その壮年の男は再び右腕を持ち上げ、人差し指を伸ばした。

(続く?)
 


  6月18日− 


[迎え夜]

 夕暮れの影が深く落ちてくる黄昏の時だ。水辺に生えた低い木の、高みにある二枚の葉のそれぞれに、小人が腰掛けている。葉の色よりも濃い緑の帽子と、土の色に似た服を着て、一人は銀の笛を奏で、もう一人はささやくように唄を歌っていた。
 
「まだ明るさの残る
  西のはじまりの夜空に
   細く尖った月が沈んだ

 ひと月で廻る月時計
  時の満ち欠けが周り出した」

 次第に暗くなる湖のほとりで、小人の歌声が鮮やかになる。
 


  6月17日− 


[空の花畑]
 
「あら?」
 ファルナは茶色い瞳を見開いた。夕暮れ、二階の部屋の窓から見た西の空は、麗しくあでやかな赤紫色に染まっていた。
「夕日の花……お花畑ですよん」
 十七歳の村娘はうっとりした様子で独りごちた。

 藍色の花、青い花。黄色、橙、紫の花。
 空の花畑は一日で色を変える花畑であった。

 急に、少女は部屋の入口の方をぱっと振り返った。
「シルキアを呼ばなきゃ!」

 湖に浮かぶ空色の花、舞い飛ぶ粉雪は白い花、透き通った風の花。それらは皆、心の奥の、銀の鏡が見せる花――。

「シルキア! 早く来て欲しいのだっ」
 空の花畑が、闇に紛れてしまう前に。
 妹の名を呼びながら、ファルナは階段を駆け降りていった。
 


  6月16日− 


[夕立ち]
 
「ひゃ〜っ、暑っ!」
 小さな洋品店を出て一言目にウピは言った。南国のまぶしい光に射抜かれ、右手を額にかざす。馴れても暑いものは暑い。
 続けて出て来たレイナが隣に立ち、向こうの家の白い石作りの壁から発せられた照り返しに目を細めて呟いた。
「ここまで日が照ると、後で逆に涼しくなるかも知れませんね」
「そう、なの?」
 歩き始めながら、ウピが驚いて尋ねる。レイナは貴婦人が着用するような白い帽子を取り出してかぶり、少し首をかしげた。
「はっきりとは言えませんが、西に雲が生まれ始めましたから」
 帽子から覗く銀の前髪が、月の光のようにきらめいている。
「へぇ〜っ」
 ウピは感心した様子で西の空を見た。確かに、やや雲が増えているようだ。南国の空気は温められ、けだるい午後だった。
 
 夕方になる前に、灰色の雲が積み重なって日光を遮り、町はかなり薄暗くなった。雷がゴロゴロ鳴り、空に閃光が走った。
 やがて大粒の激しい雨が降り始めた。短い時間にたたき付ける雨がミザリア市の熱気を冷ましていった。
 夜は昼間とは一変し、涼しい風が流れていった。雨が降る前に速めに帰宅していたウピは、夜空にぽっかり昇った満月を眺めて、爽やかな夜風に淡い金色の髪の毛をなびかせていた。
 そして昼間のことを思い出し、ぽつりと呟くのだった。
「レイナって……天候術師になれるかもね?」
 


  6月15日− 


[真夜中の雪(1)]
 
 部屋に入ってからずっと感じていた違和感の素は、カーテンだということに気付いた。真夜中だというのに、隙間から淡い光が洩れているんだ。俺はカーテンに顔を寄せた。
「何だ、こりゃ」
 見えなかったので慎重に隙間を開いていった。
 
 俺はしだいに目を見開き、状況を理解し始めると思わず声をあげそうになったが、辛うじて飲み込んだ。
 イガ栗みたいな、ウニみたいな大きさと形をしたものが、淡い黄色っぽい光を抱いて、幾百、幾千も舞い降りていた。木葉が落ちるよりも、ゆっくりと。
 遠くにちらつくイガ栗は、どう見ても〈光の雪〉だった。

(続く?)
 


  6月14日− 


[雨月の青空]
 
 外に出てみると、ゆうべの雨の名残は草花の七色の雫となってきらめき、辺りにはまぶしい光があふれている。
「空、蒼いね〜」
 リンローナが天を仰いで言った。太陽の強い輝きで、この時期の空は白く照っていることが多いが、今朝はくっきりと蒼く晴れ上がっていた。
「冬みたいな空だな」
「遠い山並みが綺麗です」
 幼なじみのケレンスとタックが感想を漏らす。その隣で、リンローナの姉のシェリアは軽い口調で持論を語り始めた。
「空の澄んだ日は、だいたい雨と風が関係してるわよ。冬以外だけど」
 木々の影は濃く、木漏れ日の宝石はいよいよきらびやかだ。小鳥たちはさえずり、人々が通りを交錯する。
「どのように?」
 リーダーのルーグが尋ねると、シェリアは端的にこう言った。

「雨で流して、
 風で磨いて」

 それを聞いた他の四人の反応はさまざまだった。妹のリンローナは嬉しそうに顔を綻ばせ、ケレンスは怪訝そうだ。タックは表情を変えずに仲間たちの様子を横目で素早く検分し、ルーグは意外そうに両目をまばたきした。
 それぞれの間が見事に重なり、誰も喋らない刹那が出来た。
 シェリアは急に顔を赤らめ、自らの発言を煙に巻こうとする。
「あ、その……って誰かが言ってたわよ」
 付け入る隙を与えたシェリアに、ケレンスが軽く皮肉を言う。
「あんた、案外、夢見がちだったりしてな」
「なっ……」
 言葉を飲み込んだシェリアは、そっぽを向いて歩き出した。
「行くわよ! ほら、さっさと」
 その背中に妹がとどめの一言を、限りない善意でぶつけた。
「女の子はみんな、夢見がちだよねっ」
 シェリアは一瞬ぴくりと背中を震わせて立ち止まったが、その後、さらに歩く速度を増した。
「どうしたんだろう? お姉ちゃん」
 リンローナが困惑して呟くと、面白そうに頬を緩めていたケレンスはタックと顔を見合わせて、ぷっと吹き出すのだった。
 ゆうべの雨の通り過ぎた、蒼い空の美しい、雨月(六月)の朝の出来事だった。
 


  6月13日− 


 街道は真っ直ぐに続いている。周りをあまり高くはない山々に囲まれた盆地で、この辺りの道は割と平坦だ。行き交う人の少ない、ひっそりした細道は続いている。
 馬の背に身体を預け、規則的な揺れと足音に心を委ねる。
 ちぎれ雲が流れて太陽を隠し、日が蔭った。それと入れ代わりに草原をひんやりした風が駆け抜けた。頬を撫で、背中を冷やし、耳にざわめきを届ける。
 ふと馬を止めて、薄暗くなった蒼い空を見上げた。大きな鷹が羽を広げ、西風に乗って空を滑っている。空の街道はずいぶん便利だなと思う。その奥は空で、深い階層のようにも、薄い幕のようにも見える。
 時の流れを示しているかのように、幾つもの小さな雲が流れていた。太陽はそのうちの一つに身を隠したのだ。
 まもなく光は戻るだろう。鞭を入れて再び馬を進める。地上の景色も動き始めた。
 


  6月12日− 


[〈森の町リーゼン〉を訪れた旅人の呟き]

 降り注ぐ黄金の輝きは
 濃い緑を浮かび上がらせる

 降りしきる灰色の雨は
 淡い緑をしっとりとなじませる

 道は彼方に続いている
 時は行程を邪魔しない

 越えるべきものは森にはなく
 心の中にこそ埋もれている――
 


  6月11日− 


[世界の歌(2)]

(前回)

 名門エスティア家が治める帝国内の半自治領として、東西貿易の節点として、ミラス町は平和と富と繁栄を謳歌している。明るく華やかで商業の盛んな町は他にもあるけれど、整然さと清潔さ、品の良さを兼ね備えているのがこの町の特徴である。

「声に出さない歌。花の香りとか、波の動きとか……」
 十五歳のシャンが呟くと、十三歳のレイヴァも丁寧に答えた。
「月の光のまたたきや、こぼれ落ちる雨粒も」
 兄妹は優雅に、ゆったりと歩きながら話を続けていた。レイヴァの黄金色の若く美しい前髪が揺れ、太陽の光の一部であるかのようにきらめく。それに合わせて草穂が微風になびいた。
 シャンは夜の闇と雨の日を想像し、落ち着いて相槌を打つ。
「そうだね」
「それから、私たちのここも、ね」
 妹は指先で心臓を指差し、立ち止まって相手を見た。兄は一瞬驚いて目を見開き、つぼみが開くように穏やかに微笑んだ。

 港には意匠を凝らした帆船や小さな漁船が行き交い、町外れの岬方面に見える軍港には何隻もの船が並んで舫っている。
 日々は続いてゆく――透明な青緑色の水を湛えた遠浅の海岸で、微かな音を立てて寄せては返す、穏やかな波のように。

(おわり)
 


  6月10日− 


[世界の歌(1)]

 青緑の遠浅の海岸に面した町を、わずかに潮の香りを含んだ風が、軽やかに駆け抜けてゆく。広い道が整然と通り、白壁の広い邸宅が並んでいて、ゆったりした庭にはそれぞれに木や花が植えられて良く整備され、風になびいていた。青空から降り注ぐ陽光のきらめきが、少し霞んだ南海の波間に輝いている。
 ルデリア大陸南部に位置する貴族や大商人たちの保養地、マホジール帝国領ミラス町の通りを、人々が行き交っている。
「んー、んー」
 鼻歌を歌いながら、少女が木漏れ日のまぶしい坂道を下ってゆく。その隣の少年は耳をすませながら、並んで歩いていた。

 曲が終わって、しばし余韻を楽しんでから、少年が言った。
「声に出さない、色んな歌があるよね」
 兄のシャンが呟いた言葉に、二つ下の妹のレイヴァはすぐには答えず、質問の意味を心の奥底で理解してからうなずいた。
「うん」


  6月 9日− 


[水の行き先]

「余った水は下からこぼれ落ちるけど……」
 鉢植えの花に水やりしながら、ジーナが言った。
「土に染み込んだ水、どこに行くんだろう?」
 そして、すぐ横にいる親友のリュアを見つめる。

「え……」
 リュアは最初は驚いたように友の顔を見つめ返し、困惑気味に目をそらし、鉢植えの下から洩れ出して地面に染み込んでゆく水の流れをじっと見た。それからゆっくりと顔を上げていった。
「土の精霊さんたちが飲み込むのかな」
「じゃあ、湧き水は、土の精霊たちが溜め込んだ水?」
 ジーナは次の疑問を口にする。リュアは首をひねった。
「うーん」
「土の中が覗けたらなぁ」
 腕組みをして溜め息をつき、ジーナは土を見下ろした。
 


  6月 8日− 


[夜空]

 ひんやりした夜風に薄緑の前髪がなびいている。
「あたし、冒険者に向いてないんだろうなぁ……」
 重くも軽くもない口調で、リンローナはぽつりと言った。
 黙っていると、リンは俺の方を向いて、こう続けた。
「あの時ね、兎さんと目が合ったの」
 河の魚を捕まえるのは平気だし、獣を調理するのも何とか我慢できるけど、自分では手を下せなかったの、とリンは言った。
 リンが兎を逃がしたのは、あいつの性格だ。それに対して〈冒険者としては足りてない〉と自分自身で反省してるのも分かる。どちらも分かるから、俺は軽々しく言葉を発せられなかった。

 やつはゆっくりと天を仰ぎ、俺も顔を持ち上げて視線を放つ。
 そのまま、俺はようやく言葉を発した。
「何か見えるか?」
 リンは遠いまなざしを保ったまま、しばらくして答えた。
「空は……どこにいても見えるんだよね?」
 俺は、その言葉の真意が何なのかを測りかねていた。
 するとリンは顔を下ろし、俺の方を見て言った。
「だから、空はどこでも見てくれてるんだよね?」
 尋ねるというよりも確認するような口調だった。
「ああ」
 俺はそれで納得がいき、力強くうなずいたのだった。

 俺のお袋も、リンのお袋も、今はあの夜空のかなたにいる。
 


  6月 7日− 


[片思い]

 町外れの丘を、軽やかな風が駈け抜けていく。
 碧の穂が揺れ動き、波を形作った。

 そんな気持ちのいい細道で、見知らぬ男が絵を描いていた。
 通り過ぎてからいったん立ち止まり、少し考えてから戻った。
 そしてキャンバスを見つめ、僕はその男に尋ねた。
「何を描いてるの?」
 金色の長い髪の女性が、鮮やかな薄緑色の服をまとい、薄く明るい茶色のひだ付きスカートを風にそよがせ、歩いてゆく。
 ――覗き込んだ絵には、そんな様子が描かれていた。

「こんなイメージなんだ。今日の風は」
 相手の男が、顔を上げて僕を認め、はっきりと言った。
 その間にも軽やかな風は丘を横切って流れ、舞い上がる。
「上手く言えないけど……」
 今の思いに言葉を宛がいながら、僕は返事を作り上げた。
「僕は、今日の風に惹かれて、ここにやって来たんだ。
「ははん。同じ風に恋したってわけか」
 絵描きは視線をキャンバスに戻し、口元を緩めた。
「そういうこと」
 僕も微笑み、草原から大空に向かって視線を高めていった。
 


  6月 6日− 


[夜の彼方にて]

「ムムムっ」
 もじゃもじゃ頭の中年男が低い唸りをあげた。こめかみの血管を浮かび上がらせ、両足を揃えて全身を左に傾けながら爪先立ちし、指先でつまんだ指揮棒に力を込めてプルプル震わせる。
(ホオ、ホオ、ホイ、ホッ)
 血走った両目を見開き、口を大きく動かし、息を吐き出しながらも言葉には出さない。その姿勢のまま、もじゃ頭はしばらく難しい顔で小さく拍子を打ち続けた。
「あ〜あ。また気張っちゃってる」
 二十歳くらいの長い髪の若い娘が小声で呟く。それは嘲るという段階を通り越し、繰り返された呆れが萎えた後の、むしろ感心したような様子でさえあった。

 辺りにいたのは彼らだけではない。数限りない老若男女の人々が適度に距離を置き、それぞれの楽器を手にしている。
 その背景は限りない漆黒だった。銀の楕円や金の点やら、いびつな形やらの、色とりどりの銀河や星が浮かんでいる。
 もじゃ頭の動きが、指揮棒を持ち上げたまま一瞬止まった。時までもが流れを遮られたかのようだ。全てが息を吸い込む。
 次の刹那、指揮を再開した男は、さっきまでが〈静〉とすると、今度は明らかに〈動〉であった。きらびやな星の輝きの軌跡を何度も何度も鋭角に曲げて、消えない雷を夜空に描いた。
 若い女性は軽く溜め息をついてから、長い横笛を手に取り、口にくわえた。流れ始めた音の調べは細い銀の筋となり、もじゃ頭の烈しい音楽とは異なる方にどこまでも流れていった。
 恒星の守り神たちは今宵もひっそりと、そして賑やかだった。
 


  6月 5日− 


[古都の梅雨]

 古都エルヴィールは灰に煙る。

 雲が広がって空を覆い、光と影はそれぞれの主張を弱め、町のあらゆる色という色が淡くなる。とある魔術師はこのように評した――天界と冥界が、地上界に近づいたかのようだ――と。
 大陸の南東に位置するこの町には〈梅雨〉がある。温度と湿度の高い日々、温かな空気と冷たい風、霧雨と大雨とを繰り返しながら、季節は夏へ向かう霧の坂道を緩やかに登ってゆく。
 
 船着き場に舫う小舟の帆、歴史ある城郭や屋敷、ラニモス教の神殿や高い尖塔、図書館や市場、民家の窓辺を飾る赤い花や商店の看板、石畳の道、馬車に積まれた小麦の穂や御者の帽子、その他諸々――が、みな一様にしっとりと湿っている。
「うっとおしい季節だわねえ」
 客と世間話をしていた恰幅の良い八百屋のおかみは、言うほど鬱屈しているようには見えない。何故なら、その言葉は毎年この時期のエルヴィールの、単なる挨拶に過ぎないのだから。

 へこんだり入れ換えられた石畳が静かに語る長い歴史を持つ雅の都は、霧雨のヴェールも案外に上手く着こなすのだった。
 


  6月 4日− 


[レイヴァの思い出]

 その朝は、ふと明け方に目を醒ましました。目も頭も冴えていたので、上半身を起こしてみると、薄明るい部屋のカーテンの隙間からは鮮やかな橙色の光が細く長く差し込んでいました。
 冬の日々は毎日のように見て、見慣れていたはずの日の出ですが、めぐる季節の中でいつしか朝は早起きになってゆき、私の起きる時間になると太陽は高く昇って燃えています。
(夏でも、同じ?)
 私はベッドを抜け出して、カーテンの方に向かいました。夏でも冬と同じ日の出が見られるのかなと、どきどきしながら――。
 


  6月 3日− 


 灰色の空につつまれて
 雨の橋の下をくぐり
 
 冷たい水のしぶきたちに
 靴と身とを浸していた
 
 いつしか目映いが光が戻り
 七色の橋を通り抜けて
 
 漂う温かな水蒸気は
 地上に舞い降りた白雲だった
 


  6月 2日− 


[水の洞窟/ラミ島]

 亜熱帯の木々が茂る小さな森のそば、灰色の岩に囲まれて、洞窟が神々しく口を開いています。入口はそれほど大きくありませんが、中に入ると広い鍾乳洞になっています。長い鍾乳石が天井から垂れ下がり、逆に下から上も伸びています。
 進んでいくと、洞窟を流れる早瀬の川とぶつかります。それを飛び越せば、道は緩やかな下りとなり、奥に続いてゆきます。
 道は細くなりながら右へ曲がり、その先で三方向に分岐します。入口の明かりはもう届かず、ランプなしでは歩けません。
 一番左の道を選ぶと、道はさらに狭まり、このまま行き止まりではないかと思えてきます。どこかを地下水脈が走るような、大きな水音が聞こえています。生き物の気配は全くありません。
 鍾乳石を避けながら静寂な空間をしばらく歩いて行くと、左への分岐が現れます。今度は曲がらず真っ直ぐに進むと、道はさらに地の底へ下り、しだいに天井が高く遠ざかって行きます。
 そして最後の急な角を終えると――。

 突如、辺りはうっすらと明るくなります。目を凝らすと、薄明るい世界に透明な水が見分けられます。地上まで続く穴が幾つも開いているようで、確実に光が差し込み、水が輝いています。
 それは大きな地底湖です。湖面は時間が止まったかのように静かですが、辺りの水音は高まっています。幾つも合わさった聖らかな地下水脈が、壁沿いに勢い良く流れているのです。
 水音と自身の靴音が反響する静けさと戦いながら奥へ進めば、訪問者はいつか地底湖の中ほどに続く細く伸びた道を見つけるでしょう。その先には神聖な祭壇が待っているはずです。

 ラミ島にある〈水の洞窟〉は、そういう場所だと伝えられます。
 


  6月 1日− 


[大航海と外交界(27)]

(前回 - 2005/03/10)
 
「で、サンゴーンにもお願いしたいことがあるんだ」
 ウピの後ろ姿を見送ったレフキルは、今度は昔からの友に優しく声をかけ、素早く相手に近づいて向き合い、ほっそりした肩に手を置いた。緊張感のみなぎった甲板の上で一人うつらうつらしていた大物のサンゴーンは、親友の声でふと我に返った。
「は、はい。何ですの?」
 驚いたサンゴーンは肩をびくっと震わせ、青い瞳を大きく広げた。だがレフキルの掌から温もりが伝わってくると、それ以上は動転することはなく安心した様子で、相手の目を見つめ返す。
 その間にもララシャ王女は休まずに縄ばしごを登り、見張り役を務めるコルドン船員の待機するマストの頂上へと近づいていったが、レフキルは今は敢えてそちらを気にしないようだった。
 潮の香を含む夕風が軽やかに流れ、何も遮るもののない海上の西日はマストや帆の影を甲板に色濃く、細く長く描いた。

 レフキルは落ち着いた声で、はっきりと親友に訊ねた。
「サンゴーン、草の網を張れる?」
「えっ?」
 ウピのように飲み込みの早くないサンゴーンは困った顔をして聞き返した。レフキルは慌てず、焦らず、辛抱強く説明した。
「前、やってくれたよね? 草の網」
「草の網、ですの……?」
 自信が無さそうに再び聞き直した後、若き〈草木の神者〉は少しうつむいてしばらく考えていた。しだいに記憶の糸が繋がったのか、瞳に力が灯ってゆき、合点がいったようで顔を上げた。
「分かりましたの。草の網の魔法ですのね」
 穏やかな声で、サンゴーンは嬉しそうに言った。周りの船員たちは無駄口を叩かず、二人の少女のやりとりを見守っている。
「そう。ここで、あの魔法、できる?」
 レフキルは単語を一つ一つ区切り、冷静に訊く。この確認は彼女にとって重要らしい――優秀な船員たちは気づいていた。

「あの〜、レフキル」
 サンゴーンは申し訳なさそうに第一声を発した。その瞬間、レフキルの顔がごく僅かに堅くなったが、彼女は黙って待った。
 銀の髪を揺らし、さっきまで眠そうだった親友は続けた。
「ここは船の上ですの。出来るか分からないですわ」
「草木の力か。ウピ……」
 レフキルは新しい友を呼ぼうとして居ないことに気づき、苦笑して腕組みした。ウピは王女の侍女を呼びに出て貰ったのだ。
「サンゴーン。何か、近くに草花の鉢植えがあれば使える?」
 気を取り直して、レフキルはゆったりした口調で友に確かめた。妖精族の血を引いているリィメル族のやや長い耳が動く。
「うーん……」
 唸りながら物思いにふけったサンゴーンのスカートを、潮風が揺らす。真剣に、真摯に悩んだ〈草木の神者〉は結論を出す。
「何とかなるかも知れませんわね」
「わかった!」
 それだけ聞ければ充分のようだ。レフキルの顔が晴れた。
「サボテン、レイナさん、サンゴーン」
 彼女は小さく呟いてから、昔なじみの大親友に頼んだ。
「レイナさんと一緒に、サボテンを持ってきてくれる?」
 二人の目がしっかりと合い、やや遅れて相手はうなずいた。
「ハイですの。レイナさんとサボテンを持ってきますわ!」
 難しくない指示を一つだけ受けたサンゴーンは、健気に復唱した。レフキルはうなずき、次はそばにいた甲板長に訊ねる。
「どなたか、船員の方をサンゴーンに付けて貰えませんか。サンゴーンは信用してるけど、誰かいた方が心強いだろうから」
「行って来い」
 壮年の甲板長の判断は素早く、近くの若い船員を指さした。さっきレフキルと口論した、新しい船員服の初々しい若者だ。
「了解!」
 若者は元気に返事をし、レフキルに目配せする。するとレフキルは緊張をみなぎらせた表情のまま、温かな声で依頼した。
「よろしくね。サンゴーンも」
「分かりましたの」
 任務を与えられたサンゴーンは張り切っている。若い船員に促されながら〈草木の神者〉は小走りに船室へ戻っていった。
「レイナさんを連れてきて、船室のサボテンを持ってきてね」
 ドアを開けた船員の後ろ姿に、レフキルは言葉を投げた。
「分かってるって」
 左手を挙げて返事をした船員の姿は消え、ドアが閉まった。

(続く?)
 




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