すずらん日誌

 〜森大陸(しんたいりく)ルデリア〜

 

秋月 涼 



【第五話・森の贈り物】



 待ち望んだ、きらめく季節。照月(てるつき、八月)の上旬、辺境の高原は夏の真っ盛りだった。
 風は、まぶしい緑の木々を撫(な)で、お花畑の香りを運び、草原を横切ってどこまでも流れてゆく。森は、それを浴びて〈いのち〉を育てる。全てが明るく、輝かしく、活気に満ちた時間(とき)。
 そんなある日のことだった。高原に向かう森の道を、二人の少女がとことこ歩いていた。
「ふぅふぅ……お姉ちゃん、ちょっと休もうよー」
「わかったですよん」
 二人は腰を下ろし、木にもたれかかった。彼女たちはお揃(そろ)いの白い帽子をかぶり、茶色の靴を履(は)き、小さなかごを持っていた。
「近くにある湧き水を飲んでくるのだっ」
 そう言って立ち上がったのは、姉のファルナである。妹のシルキアも後を追う。
「待って、あたしも」
 二人は、山奥のサミス村にある〈すずらん亭〉の娘で、仲良し姉妹。今日は、高原のお花を摘みに行く途中だった。
 この地域の夏は、とても過ごしやすい。気温は程良く涼しく、太陽はやわらかい光を放っている。サミス村は貴族の保養地として有名であり、特にこの時期は、貴族だけでなく旅人も多く集まる。二人が働いている〈すずらん亭〉は宿屋と酒場を経営しており、今月はやたらと忙しかった。
 けれども、今日は久しぶりの休日。森は、忙しい毎日を忘れさせてくれる。姉妹は立ち上がり、再び山道を歩き始めた。
「じっとしてれば平気だけど、上り坂が続くと、身体の芯から熱くなるね……」
 シルキアが、額の汗を拭(ぬぐ)いながら言った。
「たまにはいい運動ですよん」
 ファルナは、独特の口調で返事をした。彼女も大分汗をかいている。
 森の小道はくねくねと曲がり、どこまでも続いているかのような印象を受ける。
 シルキアが、
「お姉ちゃん、この道で合っているんだよね? まだ着かないの?」
 と、心配そうに訊ねた。
「合ってるのだっ。もうちょっとで、高山植物の広がるお花畑に着くはずですよん」
 そう言うと、ファルナは道端の大きな石を指さした。角錐(かくすい)型で、上がとんがっている。
「この石を過ぎるとすぐなのだっ」
 すると、木々が途切れ、急に視界が広がった。そこは、なだらかな斜面だった。咲き乱れる白・赤・黄・橙(だいだい)・紫・桃色・水色の花々と、緑のグラデーション。それはまるで、虹をちりばめた夢のじゅうたんだった。
「わぁーっ……」
 姉妹は喜びの声をあげ、その高原に飛び出した。
「きゃはは、あははは……」
 斜面をごろごろ転がると、草のベッドが優しく包んでくれた。みつばちが、驚いて羽音を大きくした。蝶々は気にせず、相変わらずひらひらと舞っている。
「ここに名前を付けた人、天才ですよん」
 ファルナが言った。シルキアもうなずく。
「〈フラーメ高原〉だものね!」
 〈フラーメ〉とは〈全ての色〉という意味。ここには、まさしく全ての色が揃(そろ)っていた。二人は身体を投げ出し、空を見上げて寝そべった。
 ファルナが言う。
「高原の夏は本当に最高なのだっ」
「うん!」
 シルキアは笑った。ファルナも笑った。草と花の香りに包まれて、夏の空は永遠に……。
「お姉ちゃん。空が煙草(たばこ)を吸ってるよ」
「いや、海の上に積もった雪ですよん」
 青い空にとろけてしまいそうな白い雲が、ふわありふわりと流れていた。
 あまりにも気持ちが良かったので、姉妹は目をつぶり、少しの間、昼寝をした。身体(からだ)の上を、涼風が挨拶(あいさつ)しては通り過ぎてゆく。
 しばしの時が経ち、ファルナは目覚めた。横にいたはずのシルキアが、いなくなっている。
「う〜ん……んんん」
 とりあえず、思いっきり伸びをした。
「お姉ちゃーん、起きた? ちょっとこっち来てー」
 向こうでシルキアが呼んだ。彼女は、しゃがんで一生懸命に何かを見ている。
「なあにー?」
 ファルナが駆けていくと、妹は一輪の花に見とれていた。彼女はうっとりと陶酔(とうすい)しきった顔で言う。
「お姉ちゃん、これ、綺麗(きれい)だよ……」
 その花は薄ピンク色で、形はすずらんに似ているが、普通のものに比べると、かなり大きかった。ファルナたちの手の平と同じくらい。
「不思議なお花なのだっ……」
 ファルナも、すぐにその虜(とりこ)となった。そうして、二人はしばらく花を眺めていた。シルキアが言う。
「このお花、摘(つ)んで帰ろうよ」
「うん」
 シルキアが手を伸ばしかけた、まさにその瞬間。頭上から、か細い声が響いた。
「お願い、摘まないで」
 姉妹はぴくっと動きを止め、そして、ゆっくりと視線を上げていく……。
「あっ!」
「妖精さんだ!」
 姉妹の頭上を、羽の生えた小妖精がくるくると旋回していた。大きさは、ちょうど目の前にある〈巨大すずらん〉くらい。銀色の髪はつやつやして、憂いを秘めた瞳は深い緑色に染まっていた。
 妖精は〈巨大すずらん〉に降り立つと、小枝で花びらに切り込みを入れ、その中にすっぽりと入ってしまった。そして顔だけをひょっこり出し、姉妹に語りかける。言葉が通じるのは、妖精の魔力か、それとも神の奇蹟だろうか。
「お願い、摘まないで。私のおうちなの」
「おうち?」
「お花のベッドなの」
「すてき……」
 姉妹は妖精の美しさに夢中だった。花の妖精は続ける。
「お花を摘まないでくれたら、代わりにいいものをあげるわ。だから、お願い」
「わかりましたですよん」
「勝手にあなたのベッドを持っていこうとして、ごめんね」
 姉妹はすぐに承諾し、謝った。妖精は、そこで初めて笑った。限りなく純粋無垢(むく)な微笑み。
 妖精は飛び立ち、小さな小さな人差し指で、森の方を示した。
「ありがとう。私についてきて」
 
 二人は妖精の後を追った。お花畑を過ぎ、再び薄暗い森に入る。小川を飛び越え、ついに樹齢何百年もありそうな巨木の前にたどり着いた。
「すごいなあ」
 姉妹はそれを見上げる。首が疲れるほど見上げてみる。枝先に輝く太陽のかけらが、きらきらと揺れている。
 妖精はそっと振り返り、二人に告げた。
「森の長老に会ってくる」
 巨木の根元に向かって飛んでいくと、彼女は突然、姿を消した。姉妹は目を凝(こ)らす。
「あっ! シルキア、あれ見て!」
 ファルナが指さしたのは、木の根元に取り付けてある、小さな焦げ茶色の扉だった。
「妖精の国につながっているのかな……?」
 シルキアがそう言った時、扉が開いた。扉の向こうから、強い光が差し込んだ。そして、さっきの妖精が顔を出す。
「森の長老からの贈り物。約束通り、これをあげるわ」
 彼女が重そうに引きずり出したのは、植物の種らしかった。シルキアは、それを両手で慎重に受け取る。
「大きな種だね。どうもありがとう」
「大切に育ててね」
 妖精が、再び微笑んだ。
「ところで森の長老って、誰なのだっ?」
 ファルナが訊いた。妖精は、澄んだ瞳で姉妹を見上げ、ゆっくりと答える。
「……森の長老は、この木よ。全ての命を作り出し、そして、あたたかく見守ってくれるの」
「命を作る? 守る?」
「だから森の長老は私の中にもいるし、あなたたちの中にもいるの」
「どういうこと?」
 姉妹は、ちんぷんかんぷんだった。
「……もうすぐ夕方だから、私、おうちに帰る。また、森に遊びに来てね」
 それだけ言うと、妖精は巨木の幹に沿って上方に飛んでいき、そして見えなくなった。
「森の長老……」
 シルキアは、自分の手の中に残っている種の感触を確かめた。残ったのはこれだけだった。二人はお花畑に戻り、妖精の家である〈巨大すずらん〉を捜したが、もはや見つけることは出来なかった。
「私たち、きっと長い夢を見てたんですよん」
 西日に頬(ほお)を赤く染めて、ファルナが静かに言った。
 
 翌日、二人はさっそく種をまいた。それから毎日、大切に世話をした。一週間もすると芽が出た。二人はきちんと水をやり続けた。
 ある朝シルキアが庭に出ると、つぼみがほころび始めていた。彼女は急いで寝室に戻り、姉を揺り動かす。
「お姉ちゃーん! 起きて!」
「……うるさいですよん、眠いのだっ……」
「妖精のお花が、咲くんだよ!」
「えっ!」
 二人が表に飛び出すと、大きな薄ピンク色の花びらが広がり始めていた。それはまさに、〈巨大すずらん〉そのものだった。
 ファルナは、遠くの森に向かって叫ぶ。
「妖精さーん、ここに新しい別荘が出来たのだっ!」
 シルキアも、同じ方角を向いて声を張りあげる。
「森の長老さーん、この小さな命を守って下さい!」

 夏は遠ざかる。たくさんの思い出をのせて、夏が今、遠ざかる……。

(了)



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