黄昏時(たそがれどき)の風に

 〜森大陸(しんたいりく)ルデリア〜

 

秋月 涼 



(一)


「聖なる水の在処(ありか)
 
 黄昏時の風に乗り
 鷹の爪より夢の道
 勇気を持って飛び降りよ
 さすれば道は開かれん
 
 短い影の一本杉
 こだまの廊下通り過ぎ
 大きな鏡を手に入れよ
 鏡の向こうに鷹の爪

「問題はこのメモなんだよなぁ」
 俺はため息をついた。

 俺の名はケレンス・セイル。職業は冒険者で、剣術士だ。約一年前にパーティーを組み、冒険を始めた。
 俺の仲間は全部で四人。リーダーで戦士のルーグ・レンフィス、ルーグと仲良しの女魔術師シェリア・ラサラ、シェリアの妹の聖術師リンローナ・ラサラ、旧来の友人である盗賊のタック・パルミア。
 今は夏、もう少しで小麦の収穫期を迎える。冒険を求めて旅していた俺たちは、あの村に着いた。すべてはそこから始まったんだ。
「あっ、冒険者の方ですかい? これはこれはいいところに! さあさ、こちらへどうぞ」
 村の入り口付近で農作業をしていた男は仕事を中断し、丁寧に俺たちを案内した。
 冒険者は全体の奉仕者として身分を保障されているが、田舎ではよそ者扱いで、一般的に余りいい顔はされない。
 しかし、あの村の対応は妙だった。途中ですれ違った村人たちも皆、深々と頭を下げる。
「こちらが村長の家です。是非ともお会い下さい! それでは」
 男は村長の家まで俺たちを案内すると、自分の農場へ戻っていった。
「なんか随分と丁寧ねえ」
 シェリアは腕組みをした。薄紫のロングヘアが風に揺れている。
「少し用心した方がいいかもしれませんね」
 タックはそう言うと、お気に入りの眼鏡をかけ直した。眼鏡と言ってもレンズは抜け落ちていて、フレームだけだ。
 とにかく、こういう時は冒険者としての勘が働くものだ。ルーグは全員の顔を一度見回してから、ゆっくりと頷いた。彼は背が高いので、見回すというよりは見おろす感じだが。
 そういう勘が働かないマイペース派も若干一名いる。
「この村の人、みんな丁寧だね。こんな村でのんびりと暮らしてみたいなあ」
 リンローナだ。いつものように微笑みながら、俺に話しかけてきた。
「おいリン、俺たちは一応冒険者の端くれなんだぜ。村でのんびり暮らしてどうするんだよ? 冒険なんて何もないぞ」
 俺は彼女のことをリンと呼んでいる。
「……ああ、そっかぁ。そうだね」
 リンは嬉しそうに、緑色の大きな瞳で俺を見上げた。このパーティーでは奴が最年少だ。
「さ、とにかく村長の家に入りましょ」
 シェリアがずかずかと進んでいくので、俺たちも急いで後を追った。
 中に入ると、見るからに頑固そうな老村長から熱烈な歓迎を受けた。ごちそうは言うまでもなく、宿代は村が肩代わりするという。
 これは怪しい。怪しすぎる。そう思った時、村長は突然床に手をついた。
「お願いですじゃ! ……ゴホゴホ」
 爺さん、無理をして大声を出したため、喉の調子を悪くしたようだ。喉の辺りをさすりながら話を続ける。
「冒険者殿、お願いですじゃ」
「お願いって、一体何よ?」
 シェリアが上から睨みつけた。女性としては背の高い方だから、相当迫力がある。
「実は……今、この村では、困ったことが起きているのじゃ」
「教えて欲しい」
 ルーグは村長の手を取り、静かに起きあがらせた。騎士を目指していることもあり、ルーグはかなり紳士的な男だ。
 俺たち五人と村長は、大きな木製のテーブルにつく。
「では、話すぞよ……この村でも、もうすぐ『収穫祭』が行われる。秋の女神ラーファ様に収穫した小麦の一部を捧げ、今年の豊作を祝い、これからやってくる季節の無事を祈るのじゃ」
「それで?」
「まあ落ち着いて聞くのじゃ。この村ではラーファ様に対して、小麦だけでなく〈聖なる水〉を捧げるという伝統がある」
「それは何ですか?」
 タックが訊ねた。奴は丁寧な言葉遣いをするが、盗賊だ。騙されてはいけない。
 真っ白で立派なあご髭をなでながら、村長は答える。
「〈聖なる水〉とは、村の東に広がる〈白露の森〉でしか取れない光輝く水じゃ。それは、わが村の収穫祭には欠かせない。去年までは森に詳しい爺さんが取ってきてくれたのだが、あいにく今年の春に逝きおってな。その爺さんの孫で、気の強い村娘―名前はリリィという―が独りで行くと言い出したので止めたのじゃが、勝手に行ってしまった。結局、そのまま帰って来んのじゃよ」
「ふむふむ」
「収穫祭を目の前にしてわしらは困り果てておった。最後は神にもすがる気持ちで、冒険者を見かけたら丁寧に歓迎し、ここに連れてくるようにと村人に頼んでおいたのじゃ」
「そこを俺たちがたまたま通りがかったと。結局、その娘の安否を確かめ、聖なる水を持ってくればいいんだろ?」
 俺の言葉に、老村長は深々と頭を下げた。
「聖水の場所まで、どうやって行くんですか?」
 リンがのんびり声で訊ねた。
「聖水が吹き出している泉は、森の中でもかなり奥の方にあるという話じゃ。妖精の国にあるという噂まで耳にする。わしも実際の場所は知らんのじゃよ」
「地図もないんでしょ? それじゃ無理よ!」
 シェリアが叫んだ。もっともではある。
「爺さんが死ぬ前に、わしは奴から一つのメモを受け取った。それがこれじゃ。きっとこの謎を解けばいいのじゃろう。わしには分からん」
 老村長の出したメモ。それにはこう書かれていた。

「聖なる水の在処」
 
 黄昏時の風に乗り
 鷹の爪より夢の道
 勇気を持って飛び降りよ
 さすれば道は開かれん
 
 短い影の一本杉
 こだまの廊下通り過ぎ
 大きな鏡を手に入れよ
 鏡の向こうに鷹の爪


(二)


 村長によると、〈一本杉〉なる巨大な杉の木は実在するらしい。そこまでの地図を受け取り、とりあえず行くだけ行ってみようということになった。
 翌日の朝。俺たちは朝食後、いよいよ〈白露の森〉に向けて出発した。道の両側は、果てしない荒野が広がっている。
 俺たちはいつも通りの並び順で歩いていた。先頭がルーグとシェリア、真ん中がタック、そして後ろに俺とリンだ。
 並んで歩いているリンが、俺に話しかけてきた。
「食糧までもらっちゃった。こんなに歓迎してもらっていいのかな?」
 ちなみに、その食糧を運ぶ羽目になったのは俺なのだ。
「貰えるものは貰っておくべきだろ」
「でも、料理担当としては助かるなぁ」
 リンの特技は料理だ。材料が少なくても、それなりにうまい食事を作ってくれる。材料が多ければ言わずもがなだ。
「僕も会計として助かりますよ」
 話に割り込んできたのは、パーティー内で会計を担当しているタック。さらに、前を歩いていたシェリアが振り返り、にっこりと笑った。
「浮いたお金で、新しい服を買いましょ!」
 彼女は金遣いが荒い。会計タックは表情も変えずに、ただ一言。
「駄目です、シェリアさんはね」
「ケチーっ! リンローナも何とか言ってやってよ」
 しかしリンは疲労で歩く機械と化しており、
「はぁはぁ」と荒い息づかいのまま頷くだけだった。

 夏の昼間、照りつける太陽。草原に別れを告げた俺たちは、山を登り始めた。例の〈一本杉〉はこの山の反対側の斜面にあるらしい。山の向こうには〈白露の森〉が広がっているという。
 並んで歩いていたリンがだんだんと遅れ始めた。彼女の顔を汗の筋が伝い、ぽたりぽたりと地面に滴を落とす。
「大丈夫か? 頑張れ」
 声をかけるが、リンからの反応はない。直後、奴はその場に崩れた。限界だったのだろう。倒れる前になんとか支え、大声で呼びかける。
「おい! しっかりしろよ!」
 俺の声を聞いて、前を歩いていた三人が戻ってきた。
「本当にいつも、迷惑ばかりかけるわね!」
 シェリアの言葉を無視し、ルーグは近くの大きな樹を指さした。俺はリンをその樹の下に運んでやる。ルーグは水袋を取り出し、リンに水を飲ませてやった。
「休憩ですね」
 タックが言い、その場に腰を下ろした。シェリアもすぐに座ると勢い良く水を飲み始めた。察するに、まだ怒っているようだ。
 しばらくすると、リンが意識を取り戻した。
「……あれ、あたし……ごめんね……」
「『ごめんね』じゃないわよ、全く。本当に役立たずなんだから!」
「お姉ちゃん、ごめん……」
 リンはもともと体力のある方ではない。そのうえ背が低いために歩幅が狭く、俺たちが普通に歩いても、それについてくるのがやっとなんだ。それは、パーティーの誰もが分かっているはずだった。
 しかし、疲労で冷静さを失ったシェリアの気持ちはおさまらない。
「ったく、体力がないなら冒険者なんてやめりゃあいいのに。いい加減にしてよね!」
「シェリア、それ以上言うのはやめろ」
 ルーグが彼女を止めようとする。リンは下を向いて震え出した。シェリアはルーグを見つめる。
「だって……」
「やめろと言ってるんだ!」
「……わかったわよ。でも、そんなに怒らなくたっていいじゃない!」
 駄目だ。みんな暑さにやられちまったらしい。ついにリンが泣き始めた。
「あたしのせいで……ごめんなさい」
 収集がつかないほど険悪なムードになった時、運良く救世主がやってきた。それは、風。夏に日陰で感じる微風ほど気持ちのいいものはない。無言のまま少しの時間が過ぎ去った。心も体もだんだんと冷やされる。
 リンのすすり泣きが終わる頃、シェリアが重苦しい空気の中で口を開いた。
「リンローナ、ごめんなさい。……ちょっと言い過ぎたかも知れないわね。さっきのは気にしないでちょうだい」
「お姉ちゃん……」
 泣きやみそうだったリンは、また泣き始めた。俺とタックはお互いに顔を見合わせ、ほっとため息をつく。
 重苦しい空気の中にも微風が吹き始めた。それはぐるぐると回転し、いつしか空気は軽くなる。いつものリンの微笑み、それが俺たちの出発の合図だ。

 陽が傾き始め、木々の影が長くなった。俺たちはついに山を登り切る。眼下に、延々と続く緑の森が広がっていた。その途中に大きな杉の木が一本。
 地図を見ながらルーグが言った。
「あれが〈一本杉〉のようだ」
 夏の夕方。青い空も、緑の森も、……透明な風までもが赤く染まっているように感じられる。静寂の空間は、いつしか深い藍色へと変わっていった。
 〈一本杉〉に着く頃にはすでに日が沈んでいた。
「短い影」を捜そうにも、影自体もう見えない。テントを作り火を焚き、リンが中心となって食事の準備をする。木々の谷間、薫製の肉を火であぶる。男三人で見張りの順番を決め、その日はみんな疲れていたので早く寝た。


(三)


 翌日。今日は曇っている。仕舞には雨が降り出す始末。もちろん影は見えないし、寒い。最悪だ。狭いテントに閉じこもり、リンが暖房魔法を唱えてしのいだが、シェリアはぶつぶつと一日中文句を言っていた。南国には、天候さえ操れる魔法使いがいると聞くが……。
 たくさんあった食料は一日で大分減った。運ぶ者としては助かるが、今後を考えるとやはり心配だ。長い一日が終わり、やっと俺たちは狭い空間から解放された。
「さぁ、ガンガン行くわよーっ!」
 シェリアは気合いを入れたが、熱意だけで謎が解けるほど甘い世の中ではない。タックは額に手を当て、しゃがみ込んでいた。
「どう考えても〈一本杉〉の影は長いです」
「これとは別に、短い〈一本杉〉があるんじゃないのか?」
 ルーグが言った。俺はもう一度メモを読み返してみる。
「短い影の一本杉、こだまの廊下通り過ぎ、か……問題はこのメモなんだよなぁ」
 俺はため息をついた。
 
 時間が過ぎていく。陽は大分高くなった。じっと杉の影を見ていたリンが突然空を仰ぎ、
「わかった」とつぶやいた。
「は? わかったのか!」
 俺がリンの目を見つめたら、奴は照れたのか顔を赤くした。
「あたしの予想だから違うかも知れないけど……正午の事じゃないかな?」
「ああそうか!」
 タックが目を輝かせた。リンが続ける。
「つまり、正午になると影は一番短くなるよね? その意味かと思って」
「なるほど!」
 俺たちは感心した。もう少し待てばちょうど正午になる。
「でもちょっと待てよ。『こだまの廊下』って何だ?」
 俺の質問には誰も答えることが出来なかった。ついに正午を迎える。俺たちはとりあえず、長い影の中に入ってみた。
「こだまの廊下」らしきものは全く見当たらない。
 タックは突然、影の先っぽの方に走り始めた。
「タック、どうしたのよ? えっ!」
 シェリアは目を疑った。走っていたタックの姿が、突然草の中に消え失せたのだ。俺たちは奴が消えたところまで急いだ。そこは、草に隠された巧妙な落とし穴だった。遠くからでは全く分からない。
 穴の深さは人の背丈ほど。タックが言う。
「みなさーん、早く降りてきて下さい。中は洞窟ですよ」
「……若者の豊かな発想力にはしばしば驚かされるな」
 ルーグが美しい銀髪を掻き上げた。彼の肩を、すかさずシェリアがぽんと叩く。
「何言ってんのよ! ルーグだって、まだまだ若いじゃないの」

 俺たちは次々と穴に飛び込んだ。横幅は狭く、二列では行動できない。おまけに真っ暗だ。
「シェリアさん、明るくしてください」
 タックの頼みに、シェリアは腕を組んで大げさにため息をついた。
「もう、仕方ないわねえ。でも今度……」
「洋服なら買いませんよ」
 タックの先制攻撃に、シェリアは苦々しく舌打ちする。
「ちぇっ。いいわよ、ルーグに買ってもらうから! ЖЩЛЫЭЮ……空を照らす陽の光よ、我に力を与えたまえ! ライポール!」
 シェリアの両手から、光り輝く白い玉が現れた。たいまつなんかよりもずっと明るい。これで洞窟内の探索が可能になる。
 罠がないかを調べるため盗賊のタックが先頭で、慎重に進む。二番目はルーグ。シェリアとリンの女性二人を挟んで、しんがりは俺だ。
 洞窟は最初、人工の横穴だったが、すぐに自然の洞穴につながった。複雑怪奇な曲がり道を過ぎると、少し広い場所に出た。その先は細い道が五方向に分かれている。
「どうする?」
 ルーグに尋ねると、彼はちょっと考えてからこう答えた。
「道が五つだからといって、五人で別れるのは危険だ。かと言って、全員で行動するのも時間の無駄のように思える。ここは、パーティーを二つに分けよう」
「でも〈ライポール〉の光球はお姉ちゃんしか操れないんだよね?」
 リンが心配そうに言った。シェリアは首を振る。
「あんたでも扱えるわよ。呪文を唱える時に私の手を握りしめるの。……二つも光の玉を出すと、私はすごく疲れるけどね」
「タック、お前はメンバーをどういうふうに分けるべきだと思う?」
 ルーグはタックに意見を求めた。
「戦力的に、リーダーとケレンスは別々のチームに入るべきでしょう。あと、ケレンスが初歩的な盗賊技術を持っているので僕とは別のチームになった方がいいと思います」
「ふむ」
「つまり、リーダーと僕が同じ班ですね。女性は……無難な分け方でいいんじゃないんですか?」
「どういう意味?」
 リンはタックに尋ねた。
「長い間一緒にやってれば、そういうのは大体分かるでしょう?」
「よく分かんないけど、私はとりあえずルーグの班でいいわ」
「あたしはケレンスと一緒がいいなあ」
 シェリアとリンがそう言った。タックはにこにこしている。ルーグはうなずいた。
「じゃあ、そうしよう。私たちの班は一番左側の道に入る。ケレンスたちは右から行ってくれ。気をつけろよ」
「わかった。後で会おう……必ず」
 俺はそう言い、ルーグと軽く握手して彼らと別れた。リンと二人で、一番右の道に入る。

 洞窟の中は湿気が多くじめじめしていた。隊列は俺が前、リンが後ろだ。奴は光の玉を扱うのに慣れていないので、黙って集中していた。洞窟には二人の足音だけが響いている。
「キャキャキャ」
「うわっ!」
 小さなコウモリだった。
「びっくりしたぁー」
 リンがほっと胸をなで下ろす。そこから少し進むと行き止まりだった。やり直しだ。入口に戻って、右から二本目の道に入り直す。
 リンが言った。
「リリィさんって、本当にどこへ行っちゃったんだろうね?」
 リリィというのは、村を飛び出して行方不明になっている例の娘のことだったな。
 その時、不思議な事が起きた。
「だろうね……ろうね……ね……」
 洞窟の中にリンの声が反響したんだ。
「おいリン、これがこだまの廊下じゃないのか! いのか……か……か……」
「きっとそうだよ! ……だよ……よ……」
 少し歩くと大きな泉があった。かなり深そうだ。リンは、泉に映る自分の顔を見ながらつぶやく。
「これが〈大きな鏡〉なのかなぁ?」


(四)


 ルーグ班に知らせるため一旦戻ると、ちょうど彼らがこの道に入ってくるところだった。
「おいケレンス、何かあったか? 私たちが行った三本の道は、すべて行き止まりだった」
「みんな、こっちこっち……こっち……っち」
 俺の後ろで、リンが手招きした。俺たちは合流し、さっきの泉に向かった。
「どうでもいいけど、モンスターなんてまるでいないわね。張り合いがないわ」
 シェリアの意見にはみんなが反発した。
「怪物さんなんて、いないほうが楽しいよ」
 こう言ったのはリン。モンスターを
「怪物さん」と呼ぶあたり、いかにも奴らしい。シェリアはいささかむっとした表情。
「悪かったわね! もう私、当分黙ってるわ」
「出来ますかねえ、ふふふ」
 薄笑いのタックを睨み、シェリアは再び怒鳴る。
「何ですって!」
「ほら、喋った」
 彼女は悔しそうにじだんだ踏んだ。
 さて、先ほどの泉に到着。メモの該当箇所を、ルーグが声に出して読んだ。
「大きな鏡を手に入れよ。鏡の向こうに鷹の爪……みんな考えてくれ」
 考えながら
「ウーン」と唸ったら、シェリアとリンも俺と同時に唸ったので妙な和音ができあがった。
「すごい! 今度、町の酒場で歌おうよ。三人で」
 リンの言葉を遮り、シェリアが言った。
「それはいいから、今の問題を考えなさいよ」
「あたしなりに考えてみたよ」
「じゃあ、言ってごらんなさい」
「今度こそ違うかも知れないけど……」
 俺たちは、リンの意見に耳を傾ける。
「やっぱり、この泉が『鏡』だと思うの。この向こうに〈鷹の爪〉があるんだから、潜ってみればいいんじゃないかなぁ?」
「潜るだとォ?」
 俺は叫んだ。スポーツ万能の俺様だけど、唯一水泳だけは……なんだな。
「実は、私もそれを考えていたところだ」
 ルーグが同調する。
「冗談じゃねえ!」
 タックがくすくす笑い始めた。あいつめ、昔のことを思い出してやがるな。顔がカーッと熱くなり、額から汗が噴き出す。
「ケレンス、どうしたの?」
 リンが心配そうに言った。俺は大げさに首を振る。
「何でもない、何でもない」
 突然、ルーグが俺を見て言った。
「ケレンス、試しに潜ってみてくれないか。私は重装備だから準備が面倒なのだ」
 俺は必至に誤魔化す。
「はははははは、そうかぁ? タックの方が軽装だと思うけどなあ」
 タックは言う。
「別に僕でも構いませんけど」
 そこまで言って、奴はその続きを俺の耳元でささやいた。
「どっちにしてもボロはでますよ、ふふふ」
 なんて嫌味な野郎だ!
「シェリアさんリンローナさん、すみませんがちょっとの間、あっちを向いていて下さい。僕、着替えますんで」
 タックは服を脱いで下半身に布を巻くと、軽い準備運動の後、泉に飛び込んだ。
 しばらくして、水面から
「ぷはぁ」と顔を出す。
「リンローナさん、また大当たりですよ。この泉はU字型になってるんです。壁の向こう側にも道が続いていました」
「あたし、今日冴えてるなあ……」
「あんた体力はないけど、頭を使う問題では意外と役に立つのね」
 シェリアの言葉に、リンは
「えへへ」と微笑んだ。問題は俺たちの重い荷物の処理に移った。それについてはタックの案を採用することとなった。
「荷物を長いひもで縛ります。そして、一度沈めてしまいます。向こう側に着いてからひもを引っ張り、持ち上げます」
「食料品はどうする? 濡れたら駄目だろ」
 俺の疑問には、シェリアが答えた。
「一回も使ったことないんだけど、少しの間だけ水をはじく魔法があったはずだわ」
「あるある! 初歩的な妖術だよ。それなら、あたしもお姉ちゃんも使えるね」
 リンが言った。おなじみ、ルーグの決断。
「よし、それで行こう」
 
 男どもはさっさと着替え、荷物にひもを巻き付けておいた。夏とはいうものの、ここは洞窟の中なのでかなり涼しい。女性二人は曲がり角の向こうで着替え中だ。
 震えながら何分か待つと、身体に大きなバスタオルを巻きつけた姉妹が登場。姉はスタイル抜群、妹は……。
 俺はリンの身体をまじまじと見つめてみた。奴のこんな姿は初めて見るからだ。彼女は恥ずかしそうにしている。
「ケレンス、どうしたの? ……びっくりした?」
「ああ、驚いたよ」
「思ったよりスタイルいいでしょ? ね?」
「いや、お前……」
「なあに?」
「……胸ないな」
「ケレンスの馬鹿ぁ!」
 リンは真っ赤な顔で、俺の頬にびんたを食らわせた。だが、その勢いでバスタオルがはらりと落ちる。
「き……きゃああああーっ!」
 あの小さい身体のどこから発しているのかは分からないが、とにかく奴はものすごい悲鳴をあげた。普段のリンじゃ考えられない騒ぎようだ。
 腫れてひりひりする頬を押さえながら、ルーグのかけ声にあわせて軽い準備運動をする。リンは完全にすねてしまった。俺と反対方向を向いて体操をしてるからな。
「よし、じゃあ順番に潜ろう」
 ルーグがこう言ったので、俺は提案した。
「この洞窟に入った時の並び順で行こうぜ」
 俺はどうしても最後がよかった。最後なら、俺が泳ぐところを他人に見られない。弱点を知られずに済むかも知れないからだ。
「じゃあそうしよう。タック、私、シェリア、リンローナ、そしてケレンスの順だ」
 ルーグが言った。よし、作戦成功だ。タックが荷物のひもを握って潜り、続いてルーグ、シェリアが行った。リンと俺が残される。
「リン、さっきは悪かったな」
 仕方がないので、俺は下手に出た。だが、奴が振り向いていった言葉はこれだ。
「べぇーだ。ケレンスなんかもう知らない!」
 何だと! もう頭に来た。
「お前なんか、こっちから払い下げだ!」
 今にも潜ろうとしていた、リンの動きがびくっと止まった。奴は下を向き、鼻をすすり始めた。……泣いてるの、か?
 だが、奴は何も言わずに行ってしまった。ちょっとまずかったかもしれないな。やっぱり俺が下手に出るしかなさそうだ。
 その件も確かに気になったが、今の俺にはもっと差し迫った問題が存在する。俺は泳げない。だが泳がなくてはならない。加えて、ルーグたちにはなるべく俺の金槌がばれないようにしたい。俺は考えあぐねていた。
 不意に、誰かが戻ってきた。いつまで経っても俺が来ないから不思議に思っているんだろう。俺はもう駄目だと思い、泉に背を向けて立ち上がった。ザバンという、水の中から顔を出す音。
「もう、なんであたしが迎えに来なきゃいけないの? ……ケレンス、何やってんの。早くしてよお!」
 リンだ。どう反応したいいのかわからなかったので、俺は微動だにせずそのまま立ち尽くしていた。
「どうしたの? ねえ、ねえ……」
「俺が悪かった。許してくれ」
 俺の頭の中は、完全にパニックを起こしていた。無意識のうちに飛び出したのがこの言葉だった。
「ケレンス……」
 俺はリンの方を振り向いて言った。
「おい、助けてくれ!」
「助ける? どうしたの?」
 泉を前にして、俺の膝はがくがく震えていた。幼児期に一度溺れかかってから、この現象はずっと尾を引いている。
「俺は、泳げないんだ……水が怖いんだよ!」
 ついに事実を告白してしまった。きっと奴は俺を笑い飛ばすだろう。そう思っていた。
 リンは、そんな俺を見て静かに言った。
「一緒に行こうよ……二人で行けば、きっと怖さも半分になるから」
 俺は、久しぶりに心の底から感動した。
 
「水の中に入ったら目をつぶってもいいよ。あたしが腕を引っ張るから、そっちの方に来てくれればいい。夢中でもがけば、きっとどうにかなるよ」
 リンの個人レッスンが始まった。
「水の中に入ったら、鼻と口は使っちゃだめだよ。絶対に閉じておくの。そうそう、水の中は結構冷たいけど気にしないでね」
「わかった」
「みんな待ってるし、行こうか」
「リン、ちょっと待て」
 俺は一度、大きく深呼吸した。
「準備OKだ、多分な」
「一緒に頑張ろ! じゃあ、右足を浸けてみて。ゆっくり、ゆっくりね……」
「つめてえっ!」
「大丈夫だよ。……お願い、あたしを信じて。絶対大丈夫だから!」
 俺は今まで、あいつのことを
「いつも微笑んでる呑気な子供」と思っていた。とんだ勘違いだ。こんなにしっかりしていたなんて。人間とは、なんて奥が深い生き物なんだ!
「左足を浸けて、一気に飛び込んで!」
 俺は、リンに引っ張られて水の中に入った。冷たい。息が出来ない。俺は我慢できずに飛び出した。
「リン、俺やっぱり駄目だ……」
「なに弱気になってるの? ケレンスらしくないなあ。みんな待ってるんだよ? あたしだって、このまま水に浸ってたら風邪ひいちゃう。……ね? ちょっとだけでいいから勇気を出してみて。あたしがついてるって!」
「リン、すまないな」
「そういうことは向こうに着いてから言ってよね。さあ、もう一回行こう! ……くしゅん」
 まずい。このままじゃ奴が本当に風邪ひいちまう。俺はリンの言う通り、ちょっとだけ……ほんのちょっとだけ勇気を奮い起こしてみることにした。
 もう一度、水の中に潜る。リンが手を引く方に夢中でもがいた。目はつぶっているし、耳は聞こえない。何が何だかわからないが、とにかくもがいた。
 突然、リンの手が消えた。息も苦しくなってくる。俺が必死に腕を伸ばしたら、手に何か柔らかいものが当たった。それを握りしめ、思い切って顔を上げる。
 空気だ! そう、俺は向こう側に着いたんだ!
「おいリン。やった、やったぞ! ……げっ」
 俺が握りしめていた柔らかいものとは、バスタオル越しのリンの胸だったのだ。俺はさっと手を降ろした。奴は怒りで震えている。
「はははは、リンローナさん……どうぞ」
 俺は自分から頬をつきだした。リンは右手を高く掲げ、今にも振り下ろそうとする。その瞬間、奴は急に噴き出した。
「ぷくく……うふふふ……あっははははは!」
「おい、何だよ急に!」
 後ろではルーグたちが、昼飯を食べながら遠巻きにこちらを見ている。リンは言った。
「だって、ケレンスが金槌なんて! あはははは! はぁ、はぁ……苦しいよぉー」
 リンは腹を抱えて笑い転げている。その表情は、いつもの無邪気なリンそのものだった。 今度は俺がすねる側だ。
 その時、ルーグが言った。
「おい、お前たちもご飯食べたらどうだ?」
 
「なんだよ、ルーグもシェリアも知ってたのか……タック、てめえ!」
 俺はタックの胸ぐらをつかんで詰め寄った。
「そ、そんなこと言ったって……どうせいつかバレることじゃあないですか」
「そうよねー、金槌ケレンス君!」
 ちっくしょー、シェリアまで。
 俺たちは休憩を終え、洞窟の出口に向かって歩いているところだ。出口はすぐそこで、赤い光が漏れている。
「やっと終わったぜ、ふぅ〜」
 俺たちは久しぶりに外の新鮮な空気を吸った。空気がこんなにうまいものだとは知らなかったな。太陽が赤々と、遠くの山脈に沈んでいく。
 さて、洞窟を出た俺たちを待っていたのは鋭い崖だった。ここは山の中腹くらいで、遥か下に緑の森が見える。
 シェリアが言った。
「この崖、横から見れば『鷹の爪』に見えないこともないわね。多分」
 山から突き出しているこの崖の下側は、ゆるやかな弧を描いていた。
「このメモを残したご老人、自分では謎めいた文を書いたつもりだったんでしょうが、バレバレですよね」
 タックの言葉にリンが頷く。
「そうだね。そのおじいさんの孫であるリリィさんなら、もっと簡単に解けたんじゃないかな?」
 その時ルーグが、崖の下を覗いて言った。
「すごい風だ! 太陽が沈むのに合わせ、だんだん強くなっているぞ」
 〈黄昏時の風〉って、これかぁ?


(五)


「やっぱり飛び降りるんだ……」
 リンが唖然とした表情で言った。俺たちは崖に集まり、飛び降りる準備を始めていた。
「下は見ないようにした方がいいですよ」
 タックが忠告した。シェリアは素直に目をつぶる。
「高所恐怖症じゃないけど、この高さはさすがに怖いわ」
「勇気だ、勇気! なぁリン?」
 さっきの仕返しとばかりに、俺は何度もその言葉を口にした。本当は俺もどきどきしていたんだけどな。
 太陽が山に隠れようとしている頃、風は最高潮に達する。
「よし行くぞォ!」
 ルーグの声は裏返っていた。俺たちは目を閉じ、手を握り合い、ついに〈勇気を持って〉飛び降りたんだ。
 
「うおおおお!」
 ものすごい突風だ。風は、俺たちを森の奥へと運んでいった。眼下には果てしない緑の世界が広がる。風は斜め下から吹き付けているので、決して落ちることはなかった。
 俺たちは次第に〈夢の道〉に慣れた。しまいには薄暗い空を見上げ、すがすがしい気分にさえなった。だが、森の中にぽっかりと大きな広場が見えたその時、風は突然止まってしまったのだ。地面までは相当ある。俺たちは全員、死を覚悟した。
 そこで起きた奇跡。死の予感とは裏腹に、俺たちの身体はふわふわと地面に降りていった。魔法だ。強大な魔法の力だ。
 森の広場に着いた俺たち。そこでは一本の巨木を囲み、大勢で夕食会が行われていた。そこにいる人たちは、人に見えて人でなかった。耳が長く、瞳は美しい緑色。男も女も銀色の長い髪を持つ。―森に住み魔法の恩恵を受けて暮らす長命の種族、妖精のメルファ族だ。話に聞いたことはあるが、実際に見たのは初めてだった。
 俺たちは、メルファの輪の中に近づいていった。巨木を囲んでいる人数は四十人ほど。茶色の鍋からはとてもいい匂いがする。
 リンが、その中の一人に声をかけた。度胸のある奴だ。
「はじめまして。お夕食ですか? あたしたち、風に飛ばされてきたんです。仲間に入れていただけませんか?」
 側にいたメルファの一人が答える。
「向こうに、あなたたちと同じ方法でやって来た人間族がいます。会ってみるといいでしょう」
 声を聞く限りでは男……か? 外見では判断できない。彼は話を続けた。
「ところであなた方は、『郷に入りては郷に従え』という言葉をご存知ですか?」
 ルーグがうなずく。
「はい。我々は、メルファの集落に来たからにはその掟に従うつもりでいます」
「よろしい」
 その年齢不詳のメルファが答えた。
 
 教わった方に行ってみると、木の柵で囲まれた牢屋の中で、一人の少女が寂しい夕食を摂っている。俺たちの姿を認めると、彼女は目を丸くした。
「あんたたち人間! ここまでどうやって来たのよ? ……そんなことどうでもいい。あたいもこれで救われるんだな。おいちょっと、早く出してよ!」
 森はすでに真っ暗だが、広場の上には大きな光の玉が浮かんでいるので明るい。巨大な〈ライポール〉の魔法だ。
「あのーすいません、お名前を聞いてよろしいですか? もしかしてリリィさんでは」
 タックの質問に、狩人風の少女はさらに瞳を大きくして驚いた。
「なんであたいの名を知ってるの! あぁ、神の使いなのね。神の使いがあたいを助けに来てくれたんだ!」
 俺は首を横に振った。
「俺たちはあいにく神の使いじゃないけどな、あんたを迎えに来たのは確かだぜ。どうしてこんなとこに入れられてるのか、詳しく訳を話してもらおうか」
 リリィの話によると、ここに来て
「聖水くれ」と大騒ぎしたら、牢屋に入れられてしまったという。
「いまだに、どうしてあたいが牢屋に入れられなきゃいけないのか分かんない。聖水もくれないし、ほんとにけちで狂った連中よ!」
「黙れ!」
 近くにいたメルファが怒鳴った。俺たちを見てこう言う。
「お前たちもあの人間の仲間か! 騒ぎを起こしたら牢にぶち込むぞ。我々は静かな暮らしを望んでいるのだ」
「すみません。私たちはこの娘を迎えに来たのです」
 ルーグが申し訳なさそうに謝った。
「ところで〈聖なる水〉はどこにあるの?」
 シェリア、なんて馬鹿なことを! これじゃ、リリィと同じじゃねえか。俺たち四人はよってたかってシェリアの口をふさいだ。もちろん、表情は凍りついている。
「何でもないんです。ハハハハ」
「とにかく、その中に入っている下等人種を連れてさっさと出て行け!」
 メルファはリリィを指さし、まるで臭いゴミでも扱うように、こう叫んだ。
 シェリアは、人間族を下等人種呼ばわりされ顔を真っ赤にしているが、男三人がかりでどうにか抑え付けた。ここで騒ぎを起こされたらおしまいだもんな。
 短気なメルファの後ろから、広場の入口でリンが挨拶した、あの男が現れた。
「あなたがたは常識がおありになるようです。今日は私の家に泊まっておゆきなさい。狭いですけどね。夕食もまだでしたらどうぞ」
「おい、人間なんかと関わるな!」
 さっきのメルファが怒鳴った。
「別に、何泊もさせる気はありません。少しの間だけ、我慢して下さい」
「……ふん。勝手にしろ」
 俺たちは何度もお礼を言い、そのメルファの〈樹上の家〉に案内された。はしごを登った先には、丸太で作られた大きな家があった。
「すごいな」
 リンがつぶやいた。中を一目見ただけで、メルファというのはとても自然を大切にして暮らしていることが分かったからだ。
 
「私の名はエリヴァンといいます。この集落では、まだまだ子供です」
 夕食をご馳走になった後、俺たちは彼の話に耳を傾けた。
「メルファというのは、人間に比べると余り社交的な種族ではありません。森の豊かな資源と偉大な魔法の恩恵を受けるこの生活に満足なのです。外に出ていこうとする気力がなく、外の者は害としか考えていません」
「じゃあどうしてあんたは、俺たちのことを助けてくれるんだ?」
 俺は訊ねた。
「私は幼い頃、人間の世話になったのです。森の中で迷っていた幼い日の私は、風で飛ばされてきた狩人の男に出会ったのです。彼に元気づけられ、私は無事、集落にたどり着くことができました」
「……」
「その男とは、牢屋にいる、あの非常識な娘の祖父です。人間の寿命は短いのですね……私は毎年この時期になると、彼を迎え入れました。恩返しのつもりだったのです。それに、彼が語る外の世界の話にも興味を持ちました」
「……」
「私は彼のため秘密裏に、人間が〈聖なる水〉と名付けた泉まで案内しました。だが、あの孫娘は何でしょう。私もメルファの一員です。騒ぎを起こすあの娘を、かばうことは出来ませんでした」
「なるほど」
「お願いがあります。明日の朝早く、娘の牢を解放します。他の連中が目を覚まさないうちに、連れ帰って下さい」
「……」
 俺たちは無言でうなずいた。
「あの、こちらからも一つだけ頼みがあるのですが」
 タックが言う。
「もしよろしければ、〈聖なる水〉の在処を教えていただけませんか?」
「わかりました。……明日の朝、ご案内しましょう」
「ところで、あの洞窟や〈夢の道〉は、誰が何のために作ったのですか?」
 リンの質問に、エリヴァンが答える。
「話によると、昔は人間とメルファとの間で細々とした交易が行われていたそうです。人間の商人のために、メルファの長老があの道を開いたと聞いています。……無用の長物に成り下がっても、あまりに強力な魔法のため、我々のような普通のメルファでは封印できないのです」
「ふーん。……光と闇の交わる黄昏時だけ開かれる、まさに〈夢の道〉ね」
 シェリアがつぶやいた。


(六)


 未明、俺たちはエリヴァンの覚醒魔法で起こされた。睡眠時間が少ないので、みんな眠そうだ。
「行きましょう」
 エリヴァンの案内で、俺たちは森の泉に向かった。暗闇の中でぼんやりと輝きを放っている魔法の泉。
「これが〈聖なる水〉なんだぁ……」
 リンは興味深そうに眺めている。ルーグはリュックから壺を取り出し、水をすくって丁寧にふたをした。
 シェリアがぽんと手を叩く。何かいいアイデアが浮かんだようだ。
「エリヴァンさん、あなた増殖魔法を使えるかしら?」
 それは名前通り、液体の増殖力を高くする魔法だ。
「はい」
「じゃあ、この水にかけてくださらない?」
 エリヴァンは壺の中の〈聖なる水〉に増殖魔法をかけた。
「感謝するわ」
「……時間がない。行こうか」
 ルーグはそう言って、徐々に白み始めている空を見上げた。リンが言う。
「その前に、リリィさんを連れていかなきゃね」
「ああ、そうでした」
 タックはこんな時でも全く冷静だ。とにかく俺たちは一度村に戻ることにした。
 エリヴァンは慎重に牢を開け、リリィに聞いたことのない魔法をかけた。一通り呪文の詠唱が終わると、彼は言った。
「彼女に、ここでの記憶を無くす魔法と睡眠魔法をかけました。当分は起きないと思いますので、静かに連れ帰って下さい。今、逆向きの〈曙の風〉が吹いています。これが吹き終わらないうちに、早く」
「エリヴァンさん、本当にありがとう。メルファの里と君のことは忘れない」
 俺は言った。エリヴァンはすぐに返事をした。
「そう言ってもらえると光栄です。でも、人間とは忘れる生き物だと言うことをお忘れなく。……さあ、急ぎなさい」
 
 〈夢の道〉から降りてきた場所に立つと、地面から優しい風が吹き始め、俺たちの体は静かに運ばれていった。
 ある点まで舞い上がると、突然の強風。これが〈曙の風〉だ。俺たちは疲れ果て、言葉少なにしばらくの飛行時間を過ごした。東からは太陽が昇り始め、眼下に見える緑の森は相変わらず延々と続いている。
 太陽が地平線を離れようとする頃、ついに〈鷹の爪〉に到着した。何とも言えない満足感が心の中に広がって行き、俺たちは互いに握手を交わした。
 例の、俺が苦労した泉の前までやって来た。眠っているリリィを背中から降ろし、ルーグは鞄から瓶を取り出した。
 彼は〈聖なる水〉をその泉に流し込む。エリヴァンがかけた増殖魔法の力で、あっと言う間に泉全体が〈聖なる水〉へと変化する。
 シェリアはあのメモを取り出し、上半分をペンで塗りつぶし、さらに一番下の行に細工をした。

「聖なる水の在処」
 
 短い影の一本杉
 こだまの廊下通り過ぎ
 大きな鏡を手に入れよ
 聖なる水はその鏡
 
 いいタイミングでリリィが目覚める。
「眠い……は? あんたたち誰! ここはどこなの?」
 シェリアは、書き換えたばかりのメモをリリィに渡した。
「ここは〈聖なる水〉の泉よ」
「あ、そうか。あたい、〈聖なる水〉を取りに来たんだっけ」
 困惑した表情で、彼女は自分の瓶に水を汲み始めた。
「〈聖なる水〉が取れたのは良かったけど、あいつらは一体誰なんだろ。それに、何か大事なことを忘れてる気がする……」
 彼女が水を汲み終えた時、ルーグが言った。
「さあ、帰ろう。みんなが待つあの村へ」
「待った!」
 俺は叫んだ。
「もしかして、もう一度泳ぐってことか?」
 俺の横で、リンはくすくす笑っていた。俺は力が抜けて倒れた。

(了)



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