おてんば大騒動!

 〜森大陸(しんたいりく)ルデリア〜

 

秋月 涼 

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(二)


「もう我慢できないわ。お腹、ぺっこぺこよ!」
 ララシャは顔をしかめ、大げさにへその辺りをさすった。
 レイナが気を利かせる。
「お昼にしますか?」
 するとララシャは眉をひそめ、矢継ぎ早にまくし立てた。
「当たり前じゃないの。あたし、さっきからそう言ってるわよ。だから中央広場に来たんじゃないの! それが、あんたのせいでとんだ目に遭っちゃったわ。どうしてくれるのよ!」
「ごめんなさい。すみませんでした」
 レイナはただただ謝るしかなかった。もう少しで泣きそうなほど険しい表情だ。きっと疲れもあるのだろう。
 その様子を見て、かちんときたウピ……何よ、本当に性格悪いわねぇ。もとはといえばあの子のせいじゃないの、あの子が自分のドレスをレイナに貸したから。それなのに全部レイナのせいにして。ひどすぎるよ!
「許せない!」
 ウピはつい口に出してしまった。
「ふん、その通りだわ」
 ララシャがうなずいた。ウピの言葉をレイナに向けられたものと勘違いして受け取ったらしい。
「え?」
 困ったのはウピ。今さら本当のことなど言えるはずがない。王女に歯向かったら何をされるか分からない現状では、下手なことは言わない方が得策だ。
「申し訳ありません……」
 可哀想なくらいしょぼくれてしまったレイナの姿は、ウピの心に罪悪感をもたらした。結局、友達を犠牲にしてしまったのだ。次の段階として自己嫌悪に陥る。
 しょぼくれてしまったレイナと、自己嫌悪のウピ、そして空腹のララシャ。当然のごとく三人の間にはしばらく気まずいムードが漂った。
「……パン? そうね、無性にパンが食べたくなったわ」
 突然ララシャが言いだした。脳裏にパンがひらめいたらしい。
 鼻の穴をぴくぴく動かし、
「あっちね」
 と歩いていく。王族とは思えない仕草。
 レイナは体力的にも精神的にも疲れすぎて食欲は全く失せていた。もともと食事の量は少ない方だが、今は食べ物を想像すると吐き気さえした。海に浸かって体じゅうの汗を流し、何も考えず砂浜に寝ころんでいたかった。彼女の美しい銀髪は今や輝きを失いかけていた。
 さて。広場のすみっこにある焼きパン売りの露店まで来ると、ララシャは腕を組んで立ち止まった。
「いらっしゃいませ……」
 まだ二十代前半と思われる若い店主は、ララシャの顔を見ると恐れおののいた。さっきの騒動を見ていたのであろう。
「美味しそうじゃないの」
 ララシャはミザリア国の名物である長細い棒状のパンを指さした。焦げ具合はちょうど良く、盛んに湯気が立ち昇っている。いかにも出来立て、食べ頃だ。
 王女に誉められ、気弱そうな店主はひきつった笑みを浮かべた。
「あ、ありがとうございます」
「ちょっと、これ貰うわよ」
 腕を伸ばし、ララシャはかごの中から商品のパンを一本取ると口にくわえた。ウピとレイナはごくりと唾を飲み込む。
「はあ。どうぞ……」
 やむを得ず黙認する店主。
「あっつ……ふーう、ふう」
 ララシャはそれを口に入れてかじったり、口から出して息を吹きかけたり、左右の手でせわしなく持ち替えたりした。そういう仕草がいかにも普通の女の子らしかったので、ウピは何だか可笑しかった。
 食べ終わるとララシャはさらに別の二本をつまんで、
「お前たちにやるわ、感謝なさい」
 と、全く表情を変えず無愛想のまま、ウピとレイナに一本ずつ差し出した。
「え、いいんですか?」
 ウピは驚いた。ララシャが気を使ってくれた、という驚きもさることながら、あのパンは盗んだも同然なのである。脅迫あるいは窃盗、もしくはその両者かも知れない。そんな品物を進んで受け取る気には、どうしてもなれなかったのだ。
 ララシャはすぐに機嫌を損ねる。
「ちょっとぉ、早く受け取ってよ! 熱いじゃないの……ふーん、あたしがあげるものを受け取れないってこと?」
「いえいえ受け取ります受け取ります」
「ありがとうございます」
 ウピとレイナは店主に悪いと思いつつも、パンを口いっぱいに頬ばった。
「美味しい」
 さっきまで食欲がなかったレイナも、かじっているうちに食が進み、最後はぺろりとたいらげてしまった。ウピも同様だ。二人が食べている間、ララシャは何も言わず、じっと待っていた。
 すでに昼下がり。広場にたむろしていた親子連れはだいぶ減った。太陽はさらに傾き、風が柔らかくなった。建物の影はどんどん伸びていく。
「ありがとうございました、ごちそうさまでした」
 レイナは、食糧をくれたララシャと、棒パン三本の損害を出した哀れな店主に向かって二度、会釈をした。
「少し元気になった」
 言いながら、ウピは首を左右に動かしたり腕を振り回したり腰をひねったりした。関節がボキっと鳴る。
 その時だ。一人の若い騎士がララシャのもとへ馳せ参じた。
「ララシャ様!」
 騎士の呼び声を腕組みのまま無視し、相手に背を向け、露骨に顔をしかめるララシャ。
「王家の人でしょうか?」
 レイナがウピの耳元でささやいた。そう思ったのは騎士の鎧にミザリア王家の紋章が輝いていたからである。察するに、どうやら王女の側近らしい。
「行くわよ」
 そう言うと、ララシャはレイナの手をつかんで騎士とは反対方向に歩き始めた。レイナはものすごい力で引っ張られ、小さく悲鳴をあげた。ウピもついて行かざるを得ない。ララシャはツンとして、騎士と目を合わせようともしなかった。
 騎士はララシャの前に立ちはだかり、わざと腰をかがめ、ララシャの顔を見上げた……まるで幼い迷子に名前を訊ねる時のように。
 右向け右。訓練された精鋭の兵隊を彷彿とさせる動作で、ララシャは九十度、方向転換した。
 そして何事もなかったように歩き始めるが、騎士は再びララシャの進路をふさぐ。ララシャの手の平が汗ばんでくるのを、レイナはしっかりと感じることができた。
 ララシャはその手を離すと、腰を低くしてこぶしを握り、得意の甲高い叫びをあげた。
「うるさいわよ!」
 彼女の声が広場にこだますると、一瞬、周囲の人々の注目が集まった。
 騎士はたじろがず穏やかに応える。
「僕、まだ何も喋っていませんけど」
 さすが馴れきった対応である。ウピは、ララシャと同等にやりあう騎士に心から拍手を送った。そのころ、レイナはララシャに引っ張られて赤くなった自分の片手をいとおしそうに撫でていた。
 騎士の言葉を耳にして、王女は一時的に口をつぐんだが、やがて、
「ラバリート、とにかく帰ってちょうだい。これ以上あたしの邪魔をすると、ただじゃおかないわよ!」
 と怒りをあらわにした。ラバリートという名の騎士が何も反論しないと、
「あたしの、久しぶりのお買い物を邪魔しないで! 帰ってよ!」
 もう一度、同様の台詞を繰り返す。
 ウピは心の中で若い騎士を応援した。もう振り回されるのはこりごり、疲れたから早く帰って早く寝て、明日からの仕事に備えたいと思っていた。レイナはまだ自分の手を眺めている。
 騎士はララシャが言いたいことを言い終えると一つうなずき、表情を崩した。
「ララシャ様、ずいぶん探したんですよ。お買い物ならお買い物と言って下されば良かったのに。それなら警備兵をご用意して、安全にお守りいたしますよ」
「しつこいわね! あたしは自由に町を散歩したいのよ! ほっといて!」
 ララシャは一気にまくし立てた。他方、ラバリートはゆっくりと言い返す。
「町は危険ですよ」
「おせっかいはやめてちょうだい。私、警備兵なんていらない。自分のことくらい自分で守れるわ」
 その主張を耳にしてウピは考える――確かにある意味、王女の言う通りなのかも知れないな。下手に警備兵を雇うよりもララシャ王女一人の方が、もしかしたら断然強いんじゃないの? ついさっきだって、中年の男の人をいとも簡単に投げ飛ばしたし。それどころか王女自体が周りを危険に巻き込んでいるじゃないの? やっぱり王女は自分で自分を守るだけの力を持ってるよ……。
 ララシャの言い分に妙に納得してしまったウピだった。その横で、レイナはまだ自分の手を神妙そうに眺めている。
 騎士は明らかに困惑した。
「ララシャ様、もう充分お楽しみになったでしょう。お城に帰りましょう」
「い・や・よ! ゼッタイいや!」
 単語を短く区切って、ララシャは自分の意志を強調した。
 そして〈ふん〉とそっぽを向く。
「そんなわがままおっしゃらずに」
 かがんでいた腰を持ち上げ、騎士ラバリートがしっかり立とうとした、まさにその一瞬……あっという間の出来事。
「うるさいわね!」
 ララシャは相変わらずの機敏な動きでラバリートの後ろに回りこみ、さっと両腕をつかんだ。
「ひいっ」
 苦痛に顔をゆがめる騎士。ララシャが彼の腕を締め上げたのだった。騎士の着用している頑丈な革の鎧も、締め技に対してはほとんど意味を成さないようだ。もともとそういう事態を想定して作られているわけではないのだから、仕方ないだろう。
「えいやっ!」
 ララシャはさらに力を込め、騎士の両腕を今にもへし折らんとする。ラバリートは弱々しい声を出した。
「た、た、助けてくれぇ!」
 額には脂汗が吹きだし、大きく開いた口は渇ききっていた。期待はずれ……ウピは心底がっかりした。
 レイナは、ララシャに握られて赤くなった手がようやく元に戻ったようで、静かに首をもたげた。
 南方民族ザーン族は陽気で穏やか、そして我が道を行くタイプが多いようである。物事をきっちり論理的に理解するのが好きな北方民族・ノーン族とは正反対。
 さて、またもや集まった小規模の野次馬集団から驚きの声があがる。
「おおー!」
 ララシャは邪魔者のラバリートへ罰を与える。腕を締めたり緩めたり、リズミカルに繰り返した。
 騎士はそのたびに、
「ぐわっ!」
 と悲鳴をあげたり、
「ふぁ」
 と、ため息を洩らした。
「あたしに警備兵は必要ないの。分かった?」
「いや、駄目です……」
 しぶとく食い下がるラバリートは、喉から絞り出すような低い声で応えた。
 しかしララシャがさらに力を込めると、
「まだ、分かってないようね」
「ぎゃぁーっ!」
 あまりの激痛に耐えられず、騎士は気を失ってしまう。彼はまるで蟹のように口から白いあぶくを吹きだした。
「すげぇ!」
「姫さんが騎士を気絶させた!」
 様子をうかがっていた野次馬たちがどよめく。
 単なる観戦者の一人にすぎないウピは、争いを眺め、ぼんやり考えていた……何なの、この王女は。闘術大会に出たら本気で優勝できるんじゃない?
 ウピの頭の中は濃い霧に覆われていた。ララシャの戦いは目の前で起こっていることなのに、疲れのためか、ずっと遠くの出来事のように感じた。海の向こう――ルデリア大陸で勃発した戦争が実感できないのと同じように。
 レイナの銀色の瞳も視点は定まらず、あさっての方角を見つめていた。
「えいやっ、とお!」
 ララシャは、さっきの無礼な中年男に行った制裁と同じように、ラバリートをも軽々と投げあげる。
「くっ!」
 さすが鍛錬された精鋭の騎士。空中で意識を回復した彼は直感的に危険を察知し、体制を立て直そうと躍起になる。
 ドーン。
「ぎゃああ!」
 遅かった、残念なことに受け身は間に合わなかった。ラバリートは思いきり背中を打ちつける……赤い煉瓦で作られた広場の道に。
 半べそをかき、悔しがる騎士。
「気絶さえしなければ。無念だ」
「精進なさい」
 ララシャが手をパンパンはたくと、観衆は惜しみない拍手を送った。勝利を祝すような一陣の風が吹く中、ララシャは再びレイナの手を強く握った。
「さあ逃げるわよ」
「いたた……せっかく赤みが引いたのに。王女様、もっと優しくつかんで下さい」
 レイナは弱音を吐いた。
「いいから! ほら、早くしなさい! ラバリートが起きあがるでしょ!」
 言い終わらないうちに走り出す王女。
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
 ウピの体力はとっくに限界値を越えていたが、親友を放っておくのは忍びなく、必死に二人を追う。
「お待ち下さい!」
 ララシャの懸念は的中した。ラバリートはそれからすぐ、打ちつけた背中を押さえながら立ち上がったのだ。
「全く、とんでもない王女様だ。どんどん強くなる」
 王女含む三人娘が走り去った方向を恨めしそうに眺め、
「よしっ」
 今にも追おうとする騎士の肩を、後ろから誰かがつついた。
「何だ?」
「ちょっと待って下さい」
 ラバリートの前に立ちはだかったのは、先ほどのパン屋の店主だった。騎士は右目の端で逃走した三人を追いながら、さも面倒くさそうに答える。
「何の用だ? 私は急いでいる」
「あなた王家の人ですね」
「その通り。王宮常駐、王家直属の近衛騎士、ラバリートと申す」
「棒パン三つ」
 店主は黒く日焼けした右手を騎士の目の前に差し出した。ラバリートは怪訝そうな顔つきになる。
「何の真似だ?」
 視界から消えそうになる三人が気にかかり、半歩乗り出した騎士へ向かって、パン屋の店主は厳しい事実を告げる。
「代金を払っていただけませんか。棒パン三つ分」
「は?」
「王女様が奪っていったので」
「何と……」
 がっかりして、ラバリートが片膝をついたとたん、彼は悲鳴をあげた。
「うぎゃあ!」
 地面に打ちつけた背中に無理な力がかかり、今ごろ激痛が走ったようだ。患部を押さえながら変な格好で立ち上がると、彼は渋々、革製の財布を取り出した。
「仕方ないな……」
 小銭を捜しているうちに、当然のことながら三人の姿を見失い、騎士は悔しそうに舌打ちする。
「一ガイト半で間違いないな?」
 店主のごつごつした手の上に銀貨一枚と銅貨一枚とを並べたラバリートは、もはや開き直っていた……あれだけやられれば開き直りたくもなるだろう。
「はい、毎度あり!」
 店主は嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。その横で、野次馬たちはてんでんばらばらに言いたいことを言いながら解散していった。
「さっき本物のララシャ王女を見たわ」
「あんなにおてんばだったなんて、知らなかった。驚いちゃった」
 若い少女たちがしきりに王女の悪口を言い合っている。彼女らはただ新しい話題に飢えているだけだ。仲間内で一度、話の種にしてしまえば、どんな話題でもすぐに忘却のかなたへと捨て去ってしまう。
 というわけで、彼女らの王家批判は単なる暇つぶしに過ぎないのだが、たまたまそれを耳にしたラバリートは頭を抱えてしまった。関係者としては無理もない。
「いかん。ララシャ様お一人のせいで、また王家の評判が……とにかく早急に包囲網を張り巡らさなくては」
「あきれたわね。近頃の王家はどうなってんのかしら!」
 少女たちはまだ言い合っている。彼女らがもう少し歳を重ねれば立派な井戸端会議と呼べるだろう。
 ところで、近頃の王家がどうのこうの言っても若い彼女らは昔の王家を知っているわけではないのだ。少し冷静に考えれば、いつものラバリートならば気がつくはずだった。
 が、頭が混乱している現状では、どうしようもない。ララシャに関わる人々はことごとく冷静さをそがれてしまうのだ。
「ララシャ様!」
 騎士は走り去った。野次馬も、まるで霧が晴れていくように違和感なく景色に溶け込み、いつの間にか消え去った。
 
 陽はずいぶん傾き、暑かった昼の光が優しさを帯びてきた。このささいな変化に秋を感じ取ることができた。
 町中の小路を右へ左へ、三人はひた走る。相変わらず全速力のララシャに手を握られているレイナは、引きずられるように駆けていた。心臓はばくばく鳴り、息を吸い終わる前に次の息を吸いたくなる。頭の中が白くなり、すぐにでも倒れそうだった。
 追うウピは見失わないだけで一苦労。
「はぁはぁはぁ……」
「おーい、小娘、遅いわよ!」
「ぐぬう……」
 再び小娘呼ばわりされたウピは、向こうで手を振るララシャを今度ばかりは本心から恨めしく思った。全く何様だと思っているのかしら! あ、王女様か……そんなことを考えているうちにようやく追いついた。
 繁華街を抜け、やがて静かな住宅街に入る。通りの両側に、石や木や煉瓦で作られた二階建て、あるいは三階建ての家がひしめいている。
 ララシャはにこにこ笑っていた。ウピやレイナの苦労とは裏腹、明らかにこの状況を楽しんでいる。
 疲れきって余裕のない二人は、ララシャと並んで走っていることもあり、無邪気なその表情にはついぞ気づかなかった。
「この辺でいいわね」
 何度か振り返ってラバリートが追ってこないことを確認すると、突然ララシャは歩みを止め、近くの壁に寄りかかった。さすがの王女もいくらか疲れを感じ始めているようだが、その横に座り込んでしまったウピとレイナに比べればまだまだ元気は健在だった。
 ララシャはそこでようやくレイナの手を離した。強く握られた彼女の右手は赤いヒトデと化していた。指に力が入らない……いくら命令を送っても従わず、ささやかな抵抗を繰り返している。いつも言うことを聞いている忠臣がつかの間の反旗を翻していた。
 自分のものでないような気持ち悪い感覚はしばらく続き、それぞれの指を中途半端に伸ばしてみたり、ゆっくりと折ったりするのがやっとなレイナだった。
 日陰に三人、並んで腰を下ろす。最初はウピとレイナの激しい息づかいだけが三人の聴覚をよぎる音の全てであった。
 それが静まっていくのに従って、外の世界の物音が少しずつ耳へ入ってくる。犬の遠吠え、どこかの家の話し声、小鳥たちの歌、風の音……。
 遠い潮騒がかすかに聞こえるころ、汗をかいた身体は急速に冷やされ、
「くしゅん」
 と、レイナはくしゃみをした。
「風邪を引かないようにね」
 友を気遣ったウピの喉は乾ききっていて、いつもと違う変な声だった。しゃがれ声を治すため唾を飲み込む。
 その時。ララシャは何の脈略もない話題を、またもや唐突に言いだした。
「どこかに強い奴はいないの?」
「え?」
 顔を見合わせるウピとレイナはお互いに目を丸くしていたが、次の瞬間、二人ともぐったりと首を垂れた。もういい加減にしてくれ、という気持ちがありあり。
 その様子を見ていたララシャは、少し間を置いてから、すっくと立ち上がった。
「だらしないわねえ。とにかく私の相手になるような強い奴を捜してちょうだい。今すぐよ。広場の野次馬も騎士のラバリートも、てんで相手にならなかったわ。このままじゃ、あたし、欲求不満なの」
「そんなこと言われても」
 困って頭をかかえてしまうウピに対して、王女は容赦しない。
「見つからないんなら、あんたたちを標的にするわよ。それでもいいのね?」
 座っているウピを斜めに睨みつけ、鋭く言い放ったララシャ。当然、ウピとレイナは青ざめる。
「ひょ? ……ご、ご冗談でしょう?」
「あたしはいつだって本気よ」
 ポキポキと指を鳴らしまくる王女は真剣そのもの。
「分かりました、捜してみます」
 レイナはふらつきながら立ち上がり、優雅にドレスの裾をはたいた。随所ににじみ出る育ちの良さは美しいドレスと相まって貴族的な雰囲気を醸し出していた。通りの野次馬がレイナを王女と勘違いしたのは、ごく普通の感覚である。むしろララシャ王女が個性的すぎるのである。
 しかしレイナはふと思った――たまにはあんな破天荒な王女様がいても悪くない。静かで利口で気品のあるお姫様ばかりでは面白くない、と。
 このころ彼女はだいぶ落ち着き、ようやく普段の自分を取り戻していた。
「ウピ。確かこの辺りに闘術の道場があったはずだけど、場所、知ってる?」
 訊ねると、ウピはまず首をひねったが、おぼろげな記憶の糸をたぐり寄せる。
「詳しくは分からないけど、あの通りを右に折れて、ずーっと坂を下っていくと、あったような……」
「行きましょ!」
 ウピが全部言い終わる前にララシャはずんずん歩き始めた。二本の腕を大きく振り回し、やる気満々である。
「ふぅえぇ……」
 ウピは力無くため息をつき、目を白黒させながら、
「よいしょ」
 とレイナに引っ張ってもらって、どうにか立ち上がることができた。
 すでに西の空は少しずつ赤く染まり始め、すがすがしい秋の夕暮れがはるか天空から舞い降りてきた。
 
 並んで歩く三人の後ろから吹いてくる夕風。三人の背中を時に撫でたり、時に押したり、時につついたりしながら、長い下り坂を風はさあっと転がっていく。わずかな潮の香りを帯び、風はただ静かに坂を舞い降りていく。
「まだなの?」
 ララシャが訊いた。その口調に不満げな様子は感じられなかった。強い奴と一戦交えることができる期待感か、同年代の女の子と並んで歩くことができる楽しさか、それとも夕風を浴びるすがすがしさか。理由は分からないが、彼女は明らかに浮き浮きしていた。
「もう少しです」
 ウピが答えた。ララシャは胸を広げ、思いきり深呼吸する。
「気持ちいいわねー」
「そうですね」
 レイナは優しく微笑んだ。あまりの疲れに笑うことを忘れかけていたが、今はごく自然に笑みがこぼれた。
 さて、ミザリア島には坂が多いが、島に坂が多いというのは何もミザリア島に限ったことではない。海の中にひそんでいる巨大な山の頂が海面上に申し訳程度ちょこっと顔を出している部分を、人間が勝手に〈島〉と名付けただけのことだ。元来、島とは山の一部なのである。
 そして今、三人が歩いているこの坂は、ひたすらまっすぐに海へ注いでいる。川と海とがつながっているように、違和感のない風景。
 この辺りは石造りの家が多かった。かわいらしい白塗りの家が夕陽を浴びて赤く染まる様は、何となく趣があった。
 ララシャは言う。
「空も海も、ここでは自由だわ」
「自由?」
 ウピは頭上の空を仰ぎ、そして視線を前へずらしていく。青い空は赤くなり、いつの間にか赤い海になった。空と海とは世界の果てで確かにつながっていた。
「お城の、あたしの部屋から見上げる空は、ずっと窮屈そうだもの。切り刻まれ、小さな窓の中に押し込まれて……」
 ララシャはそこで一呼吸おき、再びしんみりと語り続ける。
「あたしの部屋は確かにあんたたち庶民より断然広いわ。住んでる城だって大きい。でも、あたしが見てる空はいつも息苦しそうなのよ、可哀想なくらいに……。海なんかもっとひどい。どこにも見えやしない」
 ララシャは淋しそうな目をした。ウピはその横顔を見て、ごくりと唾を飲み込んだ。夕陽を浴びた横顔は、どこにでもいそうな少女のそれで、ララシャもやっぱり普通の女の子なんだと妙に感動した。レイナも王女の話を静かに聞いている。
 ララシャは語調を変え、厳しく言う。
「だから、あんたたちが羨ましいの」
「羨ましい? 私からすれば、王女様の方がよっぽど羨ましいです」
 レイナが驚きの声をあげ、何度も両眼をしばたたかせた。
「ううん、絶対違う」
 ララシャはちぎれてしまいそうなほど首を左右に大きく振ると、その場に立ち止まった。彼女の影も立ち止まる。
「あんたたちは広い空のもと、太陽をいっぱいに浴びて生活してるじゃない。それって実はすごいことなのよ。こうして風を感じて……」
 ララシャは青く澄んだ瞳を静かに閉じた。ウピとレイナも真似をする。
 風のささやきに混じって、かすかに波のさざめきが聞こえてきた。波打ち際の情景がふっと脳裏をよぎる。岩場には小魚が隠れ、蟹はいつものように小さな気泡を吹き……。
 想像世界はどんどん深化する。耳で〈見た〉世界。
「でも……」
 ウピは何かを言いかけて目を開けたが、そのまま黙ってしまった。思考の流れが錯綜し、何を言おうとしたのか自分でも分からなくなったのだ。
 わずかな沈黙を破り、王女はぽつりと言う。
「もしかしたら、あたしが王女に向いていないだけなのかも知れない」
「そんなこと、ないです!」
 レイナが口を挟む間に、
「とにかく、窮屈なお城の中にいると駄目なのよ。あたしには本当に合わない環境なの。無性に外へ飛び出したくなる。広い空に、会いたくなるのよ」
 ララシャは一気にまくし立てた。
 彼女の気迫に押され、ウピとレイナはもはや何も言えなかった。
 ただ一つだけ、たった一つだけれど、分かったことがあった。
 ララシャ王女って、本当はものすごく感性が豊かで優しいけれど、素直にそれを表現できない照れ屋さんなんだ……。
 ウピとレイナは見つめ合い、お互いに同じことを考えていたのだと直感で気づいた。はにかんだ二人は、誤解していたララシャに対して申し訳なく思った。
 その時。
「あーっ!」
 突如、ウピが叫んだ。
「何よ? うるさいわね。ムードぶちこわしじゃないの!」
 大げさに顔をしかめたララシャは、いつもの不満げな声に戻っていた。
「すいません、闘術道場、通り過ぎてました……」
 がっくりと肩を落とすウピ。
 それを聞いたララシャは、
「何ですって! ふざけんじゃないわよっ!」
 と、決め台詞で怒鳴りつける。
「お助けをッ!」
 ウピはたまらず全速力で逃げ出した。もはや走る力は残っていなかったはずなのに、人間、崖っぷちに立たされると思わぬ力を発揮するものだ。
「待ちなさい。許さないわよっ!」
 ララシャは細い両腕を振り上げながら追跡する。にわかに追いかけっこが始まった。一人は真剣に逃げ、もう一人は真剣に追う……まるで子供に戻ったかのように。
「ウピっ、追いつかれるよ!」
 レイナが口に手を当て、大声で叫んだ。ウピが振り向くと、ララシャはすぐそばに迫っていた。無理もない、体力の差は歴然としていた。いつも鍛えているララシャと、商人の卵として売り子を務めるウピとでは、はなから勝負にならない。
 と、その時。
「きゃっ!」
 後ろを振り向いた刹那、ウピは石につまづいて派手に転んだ。
「ひょ!」
 変な声を出して倒れるウピ。とっさに手をついたので大怪我はしなかったが、運悪く膝をすりむいたようだ。
「いたたっ」
 しゃがみ込むウピの前に、ララシャが立ちはだかる。
「ふふふ……」
 王女の不敵な笑みはまさに勝ち誇った表情だった。両手を腰に当て、胸を張る。
「ひぇぇ、助けてぇ」
 ウピはかすれて情けない声をあげた。レイナは心配そうに二人のやり取りを傍観している。
 吹き抜ける夕風。
「ウピ、覚悟っ!」
 ララシャは右こぶしを空へ掲げ、今にも振り下ろそうとした。
「……っ!」
 悲鳴にならない悲鳴、そして絶句。ウピは思わず目をつぶった。
 もう駄目だ。
 そして、さっき一瞬でもララシャをいい奴だと思った自分を深く反省した。様子を見ていたレイナも手で顔を覆う。
 しかし。
 いつまで経っても、きつく握られたララシャのこぶしが叩きつけられることはなかった。そればかりか、突然、天使のような澄んだ声が聞こえてきた。疲れによる幻聴だろうか?
 違う、確かに聞こえる。それは笑い声、ララシャの笑い声だ。
 恐怖で瞳を潤ませたウピがそっと目を開けると、涙に揺れる視界の中でララシャが腹を抱えていた。
「はっはっ……」
 レイナは何が何だか分からず、しばらく呆然としていたが、王女の笑い声を聞いていると自分まで楽しくなって、
「ふふふ……」
 と口元を押さえ、穏やかに笑い始めた。
「あ、あはは、助かった、あはははは」
 ウピも安心して、頬を嬉し涙で濡らしながらも、最初は乾いた声で、しだいに本気で楽しくなり、休まず笑った。
「ひゃっはっはっはー!」
「うふふふふぁ……ははははっ」
「あはははぁー!」
 周囲には三人の笑い声だけが響き、風の音も波の音もしばらくかき消された。長い坂道には他に誰もいなかったのが救いだった。もしも通りがかった人がいたなら、ウピたち三人は確実に変人扱いされたであろう。
 しかし仮に変人扱いされたとしても、彼女たちはきっと笑い続けたに違いない。やめなかったというか、やめられなかったのだ。笑い茸を食べた直後のように、あとからあとから笑いの渦に襲われた。
「ひぃーっ、ひぃーっ」
 呼吸が苦しくなるほど笑ったあとで、ララシャは苦しそうに言った。
「こんなに楽しいの、ほんっと久しぶりよ!」
 それを聞くと、おさまりかかった笑いが再びこみあげてきて、ウピとレイナはひときわ大きな声で笑った。ララシャも元気に笑った。
 気がつくと、家路を急ぐ巨大な赤い太陽が海のかなたに浮かんでいた。夕凪の海面は、世界で一番大きな鏡となって太陽の姿を映し、そして自らも同じ色に染まっていた。
「秋の夕陽ほど赤らしい赤は、他にないですよね。まさしく赤の中の赤だと思います。道端に咲く可憐な赤いお花も、燃え上がる熱い炎も、あまあい光を湛えるルビーも……秋の夕陽には負けるね」
 さっきまでの馬鹿笑いとは違い、レイナは優しく素敵な微笑みを浮かべた。
「さあ!」
 ララシャは大声をあげ、
「陽が沈まないうちに闘術道場に行って強い奴と戦って、ぶっ飛ばすわよ!」
 と右腕を振り上げ、人差し指を掲げ、改めて気合いを入れた。
「道場破り、道場破り!」
 はしゃぐレイナの両眼は無邪気な光を帯びている。彼女は妙にすがすがしく、やたらと気分が良かった。
「何もかも、ぶっ飛ばしちゃえーっ!」
 ウピが叫んだ。普段の彼女なら絶対にこんな破壊的な宣言をしないが、今日だけは素直にこう思ったのだった。身体ばかりか心の中まで火照ったようで、とにかく熱かった。夢中だった。
 ウピは先陣を切って堂々と歩き始める。腕で空気を裂き、足で大地を踏みしめ……しっかりと。自分の身体、自分の生命を感じながら。
「さ。目指す道場は、あっちよ!」
 坂を転がり落ちる柔らかな風は正面からぶつかってくる。身体じゅうに新しい力がみなぎるのは、透明な赤い光が背中をぐいぐい押してくれたからだ。並んで歩く三人の背中を全く平等に陽光が照らしていた。
 そして頭の上には自由な空が果てしなく広がっていた。
 
「ウピ、膝の怪我、大丈夫?」
 レイナが聞いた。さっきウピがララシャに追いかけられて転んだ時の傷を、レイナは心配したのだった。
「平気平気、ほんのかすり傷だから。すりむいただけ。もう血も止まったし」
 特に痛みもなく、本当に気にしていないウピだった。水を浴びればしみるかも知れない、という程度だ。
 それを横で聞いていた王女は、
「悪かったわね。でも、転んだあんたの方が悪いのよ」
 と言いながら、そっぽを向く。
 懸命に王女を弁護するウピ。
「そう、その通り! あたしが悪いの」
 するとララシャは大きな青い目をまん丸に見開き、心底びっくりした顔で念を押した。
「ほんと? 怒ってないの?」
「ぜーんぜん」
 ウピはあっけらかんと首を振った。
「……ごめん」
 蚊の鳴くような声でララシャが言った。いつも他人から謝られる方だから、自分で謝るのは苦手そうだ。それが明らかに分かったので、ウピもレイナも、そんなララシャが以前にも増して好きになった。
「いいの、気にしないで」
 ウピはさばさば言い、そして示した。
「あれが道場よ!」
 まっすぐ伸ばしたウピの人差し指の延長線上には、何の変哲もない石造りの小さな白い建物があった。周りの家に比べると、いくぶん奥行きがありそうだ。
 立てかけてある腐りかけた木の看板には〈クノッブ闘技会〉と大書してある。
「ついに来たわね……」
 ララシャはこぶしを強く握りしめた。

(続)



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