おてんば大騒動!

 〜森大陸(しんたいりく)ルデリア〜

 

秋月 涼 

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(四)


 通りには、三頭立ての豪華な幌馬車が所狭しと並んでいた。十、十一……全部で十二台ある。それぞれの馬車の横についているミザリア王家の紋章が、沈もうとする夕陽を浴びて厳かに輝いていた。
 何なの……ウピはびっくり仰天した。馬車だけではなかったのだ、その前後に約三十人ずつの近衛兵を従えている。過剰とも思えるほどの厳重な警備だ。
「ララシャ様、捜しましたぞ」
 深い声がし、目の前の馬車から初老の紳士が静かに降り立った。上手い具合に渋く老いたという風貌の紳士は、白髪の色が何とも美しく、しわを帯びた両眼は暖かさで満ちあふれていた。
「何よ、ハリデリーじゃないの」
 ララシャはさも面倒くさそうに言い捨てた。もう放っておいてくれ、という気持ちがありありだ。
 ハリデリーと呼ばれた老紳士は、
「ララシャ様!」
 と語勢を強めるが、
「ふん」
 本人は意に介さず鼻で笑った。
「ララシャ様……いつもいつも困ります。爺は本当に悲しいですぞ!」
 がっくり両肩を落とし、大いに嘆くハリデリーは、心持ち顔のしわがさっきよりも増えたような気がした。
 ララシャの背中と老紳士の顔とを視界に含みながら、レイナは考えていた。記憶の扉が呼んでいる……あともう少しで、忘れていたことを思い出しそうだ。
「ハリデリー、ハリデリー」
 と、紳士の名を口に出してみる。
 その間も王女と紳士の口論は続いていた。紳士はやり場のない鬱憤を理性でどうにか抑え、表面上は穏やかに諭した。
「また家出をなさって……王家の信用に関わりますぞ!」
「うるさいわねえ。せっかく気持ちよく戦って、勝って、気分が良かったのに。お前のせいで台無しじゃないの!」
 ご機嫌斜めのララシャには何を言っても無駄だ。言葉は正確に跳ね返される――まるで鏡が光を反射するかのように。
 しかめっ面の老紳士は説教を始める。
「ララシャ様。いつも爺が申し上げておりますけれども、王女というものは元来、戦う必要がないのでございます。もっと気品を持っていただかないと困りますぞ。ララシャ様も十五歳になられたのですから、そろそろ……」
 ハリデリーの話を遮り、見るからに苛立っていた王女が怒りを爆発させる。
「知ってるでしょ? あたし、気品とか上品とか芸術とか、そういう甘っちょろい貴族趣味って大っ嫌いなの!」
 そしてぷいとそっぽを向く。
 同じ頃、ウピは下を向き、ひそかに笑っていたのだった――こんなに王女に向いていない王女って他にいないよ! 貴族趣味が嫌いだなんて贅沢な悩み……私だったら喜んで王女になっちゃうけどな。
 けれどウピはすぐに考えを改める――ララシャにしてみれば、そういう〈貴族趣味〉の環境こそが不幸のどん底で、すごくやりにくいんだろうな、と。
 眉間にしわを寄せ、苦悩の表情を崩さぬまま、ハリデリーは考え込んでしまう。
「うぅむ」
「あっ」
 その時、レイナが何かひらめいたようで、軽く手を打った。となりのウピを指でつつき、耳打ちする。
「ねえねえ、ウピ」
「ん、何?」
「ハリデリーって、確か、大臣の名前じゃなかったかな?」
 ウピは別のことを考えている合間に話しかけられたものだから、一瞬、
「大臣? ハリデリー?」
 と混乱したが、すぐに理解して、
「あ、そうそう。ハリデリー氏よ」
 とうなずく。
 その答えを得ると、レイナは初老の男をまっすぐに見つめた。
「じゃあ、あなたは……」
 ハリデリーと視線が合う。すると彼は口の端っこで小さく笑った。
「そうです、お嬢さん。わしはミザリア国の大臣を務めておるハリデリーと申す者じゃ。このたびはララシャ様がご迷惑をおかけいたしました」
 浅い会釈。
 するとララシャが間髪入れずに文句を言った。
「な〜に格好つけてんのよ、いい歳して。大臣なんて偉くも何ともないわ」
「お黙んなさい!」
 ハリデリーが少しきつめに注意すると、
「何よ」
 すねた王女はしゅんと下を向き、右足のつま先で地面を円形になぞった。土ではなく、焦げ茶色の煉瓦造りの道なので、何度なぞっても、ついに円を描くことはできなかった。
「お会いでき、たいへん光栄です」
 レイナは大臣に向かい、丁寧な仕草でお辞儀をした。
「レイナと申します。国立の魔術研究機関で見習いをしております」
「商人修行中のウピ・ナタリアルです」
 レイナの真似をして、ウピもきちんと自己紹介をした。それを横目で見ていたララシャは悔しそうに舌打ちをする。
「何よ何よ、畏まっちゃってさぁ」
 ハリデリーはその言葉を無視し、ウピとレイナへ、今度は深々と頭を下げた。
「ララシャ様のお守り、さぞかし大変だったじゃろう。心からお礼を申し上げる。服まで交換してもらって……」
 レイナはそう言われて、自分がドレスを着ていたことを思い出した。見ると、王女の高級なドレスは埃まみれ、汗まみれ、涙まみれで、ずいぶん汚れていた。水色の生地は赤い夕陽に塗り替えられ、お昼時とは全く違う服のようだ。
 そう。坂の向こう、海のかなた……空の果てにある夕陽は今まさに沈もうとしていたのである。一日の最後の光を懸命に放っている夕陽、えもいわれぬ美しさ。
 ウピは思った。そっぽを向いているララシャは、たぶん海に沈む夕陽を目に焼きつけているんだ。狭苦しい王宮では決して見られない、海に沈む夕陽を……。
 西を向いて目を細めるララシャは、ほっぺたを真っ赤に染めていた。彼女だけではない、ウピもレイナも、ハリデリーも警備の兵士たちも、馬車も家も、道も海も、そして空も、何もかもが力強く燃えていた。
「さあ、陽が沈みますぞ」
 ハリデリーはそこで言葉を切り、微妙に間をおいてから、
「ララシャ様。さあ、わがまま言わず、お城に帰りましょう」
 と促した。
「何度言ったら分かるの? もう、あんな嫌な場所へは帰らない! 絶対に帰りたくないわ!」
 王女はまだ強情を張っており、ハリデリーの誘いを迷わず切り捨てた。鋭い視線で睨みつけ、すぐにでも相手を投げ飛ばしそうな勢いだ。
 その時だった。
 いななきが響きわたり、美しい毛並みをした白い馬の牽く一台の馬車が坂の上から夢のように近づいてくるのが分かった。全員が注目する。
「あ!」
 ララシャは絶句し、明らかに狼狽した。落ち着きを無くし、早足でその場をぐるぐる回りだす。彼女の様子は、触覚を抜かれた蟻が方向感覚を失って目的なく歩き続けるのにどこか似ていた。長い影法師までもが困惑している。
「ほうら。ぐずぐずしているから、レゼル様がお迎えにまいりましたぞ。どうするんです、ララシャ様?」
 言いながら、ハリデリーがやや残忍そうに笑ったのを、ウピは見逃さなかった。
「う、うるさいわねっ!」
 ララシャはよけいに焦っている。
 ウピは首をひねった――レゼル? レゼル王子か。つまりララシャのお兄さんが迎えに来たわけね。でも、お兄さんが来るだけなのに、どうしてララシャはあんなに慌てる必要があるんだろう?
 刻一刻と馬車は近づき、警備兵たちがにわかに敬礼した。御者が鞭を一振りすると馬が速度を緩める。
「どうしよう……」
 ララシャは心臓を押さえて立ち止まった。額には汗がにじんでいる。
 そして太陽の最後のひとかけが海に隠れるのと時を同じくして、幌馬車はウピたちの目の前で粛然と停まったのである。
 刹那、圧倒的な緊張感が辺りを覆う。
「ララシャ!」
 微風を切り裂き、若い男の声がした。
 自分の名を呼ばれた王女は、瞬間的にぴくっと震えてから、
「……はい」
 と清らかに答えた。普段のララシャとは段違い。信じられないほど小さくて消え入りそうな、か細い声だった。
 もう一度、男が言う。
「ララシャ!」
 その呼びかけとともに馬車の中から少年が姿を現し、さっそうと地面に降り立った。ララシャと同じ金色の髪が音もなく揺れ動く。いくぶん痩せている身体には銀色の鎧をつけ、その上に透明感のある青いマントを羽織っていた。
「レゼル王子!」
 レイナは深々と首を垂れた。王子についての知識は最低限であり、名前しか覚えていなかった。顔や姿は知らない。
 けれども一目見て分かってしまった。目の前の少年が自分と同じくらいの歳なのにも関わらず、あまりにも落ち着いていて、かつ穏やかな雰囲気を醸し出していたからである。これぞ王家、と言わんばかりの独特な高貴さがそこにある。
 そしてレイナは、王子の優しそうな瞳の奥にララシャと良く似た輝きを見つけだした。それもレイナの仮説を裏付けた。
 ララシャは顔じゅう、下から上まで真っ赤に染めて、もじもじしながら、
「お兄さま……」
 と、夢見る少女のまなざしで、自らの兄に呼びかけた。
「ララシャ、心配したよ」
 王子はゆっくりと、だがしっかりと言った。割と高い彼の声が夕暮れの空気に響き渡った。
 ウピとレイナは王子に素直な好感を抱いた。若いのに知慮深い、頼れる跡取り、優しい人柄……噂で耳にしていたレゼル王子の評価は、こうして出会ってみると確かに正当だと感じた。
「ララシャ様。レゼル様が〈わざわざ〉お迎えに来て下さいましたぞ」
 ハリデリーがララシャへ追い打ちをかける。初老の紳士は〈わざわざ〉という箇所を特に強調した。しわの多い彼の顔はいつしか勝ち誇った笑みで満ちていた。
「どうしたんだい?」
 王子が数歩、前に進んだ。音も立てずに一歩ずつ、一歩ずつ、ララシャとの距離が縮まっていく。
「あの……私……散歩……町……。お城の、外……です」
 ララシャは下を向き、どぎまぎしながら応じたものの、単語の束を上手く文章にまとめることができない。頭の中で記憶の糸がひどくもつれあい、どうしてもほどけなくなってしまったようだ。
「それに、服も……」
 レゼルが言い、レイナのドレスをちらりと見た。
 視線を感じて、レイナは一瞬どきりとしたが、機転を利かせて頭を下げる。
「申し訳ありません、私のわがままなのです。どうしても王女様のドレスを着てみたかったので、王女様に頼み込み、少しの間だけ替えてもらったのです。本当にすみませんでした」
「レイナ殿!」
 事情を知っていたハリデリーが口を挟もうとしたのを、レイナは手で制して、
「王家の方々へ心から謝罪します」
 と、きっぱり言った。
 ララシャが自分の兄に対して恋愛に近い好感を抱いているのは明らかだった。そんなララシャだから、兄の前ではしっかりしていたいと思っているはずだ。その状況を理解したうえでのレイナのささやかな配慮は、まことに的確だった。
 ウピは色々と思いをめぐらし、とても嬉しくなった……透明に近い緑色を帯びた春の風が心の中を通り過ぎる。そして〈いつまでもレイナやララシャと友達でいたい〉と強く願った。
 ララシャはレイナの配慮にとまどっている様子だ。レイナの方を見つめ、彼女のドレスを見つめながら表情に困惑を浮かべ、最後に視線をレゼルへ戻した。
「そうだったのか……」
 レゼルは短く言った。東から少しずつ夕闇が染み込み、空には一番星が輝きだした。海を包み込んでいた燃えるような赤もしだいに色あせてゆく。
「はい、そうです。申し訳ありません」
 念を押し、レイナはお辞儀をした。
 しばらく沈黙が続いてから、ララシャはとまどいがちに言った。
「あたし、お城に帰ります」
「良かった。帰ろう」
 レゼルがほっとため息をついた。ハリデリーも安心した様子で、緊張しきった表情をいくぶん緩めた。大勢の警備兵たちも、やれやれと肩の力を抜いた。
 その中で、ウピとレイナだけが小さな淋しさを味わっていたのだった。みんながみんな、結局は帰るべき場所に帰っていく。私たちとは違う、遠い世界へ。太陽でさえ家路についた。ララシャも帰っていく。太陽には明日も会えるけれど、ララシャは……。
 ウピとレイナ、二人の長い一日が、もうすぐ終わろうとしていた。
 
 レゼル王子とハリデリー大臣はそれぞれの馬車に乗り込んだ。木の扉が閉まる。
「さあ、あたしたちも乗り込むわよ」
 ララシャがレイナの手をぎゅっと引っ張った。レイナは驚きの声をあげる。
「え?」
 ウピも慌てて二人を追う。
「待って、あたしは?」
 するとララシャは振り返った。
「馬鹿ねえ、服を着替えるだけよ」
「なあんだ」
 ウピは拍子抜けし、驚きはすぐに残念な気持ちへと変化した。てっきり、お城での晩餐会に招待してくれるのだろうと思ったのに……全く早合点だった。
 ララシャは再び歩き出し、つぶやいた。
「さ、てっとり早く着替えましょ。あたし、お腹がぺっこぺこなの。ああ、お夕飯が待ち遠しいわ」
「食欲旺盛なんですね。そんなに食べて、太らないんですか? 羨ましい」
「あったり前じゃない! あたし、いつでも闘術の修行をしているんだから。運動していれば、太るわけが……」
 そこで馬車の扉が閉まり、語尾はかき消された。ララシャとレイナは暗くて狭い客席で着替え始める。
 二人を待つ間、ウピは腕を組み、天を見上げていた。青地に染まっていく空、すがすがしい潮風の薫り。風はひんやりとしていた……南国といえども今夜はさすがに秋の風だ。どっと疲れが出て、ウピは大きなあくびを一つ洩らした。
 やがて水色のドレスをまとったララシャが現れた。彼女の後ろから、普通の白いブラウスを着たレイナが顔を出す。
「二人とも、良く似合ってる」
 ララシャとレイナとを交互に見比べて、ウピが感想を述べた。
「やっぱり自分の服が一番、落ち着きますね」
 と、レイナ。
「そうかも知れないわね」
 と、ララシャ。
 三人は顔を見合わせて、いたずらっぽく笑った。夕方と夜の間で薄暗いため、みんな視力が低下していた。もうすぐ本当の闇が来て街を覆えば、お互いの顔すら見えなくなってしまう。
「ありがとう」
 ララシャが言う。
「今日、久しぶりに結構楽しかったわ」
「あたしも」
「私も」
 ウピとレイナが同時にうなずいた。王女は静かな口調で続ける。
「レイナ、さっきはどうもありがとう。お兄さまの前で恥をかかずにすんだわ」
「服の件ですね?」
 レイナは〈やっぱりね〉と思ったが、それはもちろん口には出さず、
「気にしないで下さい」
 とだけ答えた。
「でも、本当に『服を交換して下さい』なんてわがまま言ったら、不敬罪で捕まえるわよ? 覚えておきなさい」
 王女は嬉しそうに顔をほころばせる。
「うふふ……良く覚えておきます」
 レイナは頭をかいた。ララシャには勝てないな、とでも言いたげに。
 一方ウピは、まるで煙草を吸ったあとのように〈ふぅーっ〉と軽く息を吹きだし、何も言わず、かすかに笑った。
 ララシャはあっけらかんと言う。
「じゃ、あたし、帰るわ」
「うん」
「本当に帰るわよ」
「うん」
 ララシャは名残惜しそうに、ゆっくりと歩き出した。
 数歩進んだところで振り返る。
「ねえ、一つ質問するわよ?」
「うん。なあに?」
 ウピがすぐ応えた。しかしララシャは下を向いて、なかなか話そうとしない。
「どうしたの?」
「あ、あの……」
 王女の口調が緊張している。こういうところが、あの子、かわいらしいのよね……ウピは思った。会ってから半日も経っていないけれど、すでに何年間もつきあってきた幼なじみのような親近感だ。
「あんたたち、私の……」
 限りなく夜風に近い夕風が、ララシャの語尾をさらっていった。
「何? 聞こえないわよぉ?」
 ウピはわざと意地悪く言う。
 ララシャを励ますかのように空と海が凪ぎ、王女はさっきよりも大きな声で、
「あたしの……あたしの友達よね?」
 と、訊いた。
「もちろん!」
 レイナはよどみない返事をした。
 一方、ウピはちょっとしたいたずらを思いつき、すぐ実行に移す。
 さっきのララシャの質問に対し、
「それはどうかなー?」
 と、首をひねったのだ。
 ララシャは大慌てでウピのそばへ戻り、
「嘘でしょ。ねえ、嘘なんでしょ?」
 相手の肩をがくがく揺らしたものの、
「さあね〜。どうかな」
 ますますウピは知らんぷり。
「お願い、嘘って言ってよ!」
 ララシャはウピの両手を握って懇願した。試合時を彷彿とさせる真剣な顔だ。
 ウピは〈そろそろいいかな〉と思って背伸びをし、つま先立ちの姿勢のまま、少しばかり背の高いララシャの耳元へ自分の口を運んでいった。
 そして、ささやく。
「……う・そ!」
「だ、だましたわねっ!」
「きゃあ、ごめんごめん!」
 顔を真っ赤にさせてララシャはウピにつかみかかり、二人はじゃれ合った。その光景をレイナは優しく見つめていた。
 なかなか来ないララシャを心配して、馬車の中からハリデリーが姿を現す。
「ララシャ様、もう帰りますぞ!」
「分かってるわよ、うるさいわねぇ」
 いつものように面倒くさそうに答えたあと、ララシャはほっと胸をなで下ろし、
「でも、良かった。約束よ。あたしたち、いつまでも、友達だから」
 と穏やかに言った。
「約束する!」
 ウピとレイナは声を合わせて宣言した。
「また、街に遊びに来るわ。その時は……分かってるわよね?」
 ララシャが訊くと、レイナが応じる。
「はい。今度は、もっと骨のある闘術家を捜しておきます!」
「大正解だわ!」
 ララシャは感心して、小さく拍手した。
「楽しみにしててね」
 ウピが言った。
 
 別れ際、ララシャはハリデリーから二つの小さな宝石を受け取ると、ウピとレイナのそれぞれの手の平へ押しつけた。
「これ、約束のしるし」
「くれるの?」
 普段は透明なのだが、光を当てると乱反射してきれいな七色に輝く不思議な宝石だった。かなり高価そうな品物だ。
「貰えるものは貰っておく。それが庶民の感覚じゃないの? 違う?」
「ぷっ」
 突然、レイナが吹きだしたので、ララシャはひどく困惑する。
「な、何よ」
 肩を震わせて新たな笑いの渦をこらえながら、レイナは簡潔に理由を述べた。
「だって、王女のララシャが〈庶民の感覚〉だなんて……何だかおかしくって」
「ふふっ、なるほどね。はははは」
 ララシャは胸を張って、笑った。
「ララシャ様!」
 再び、ハリデリーが言った。辺りは夕方が過去のものとなり、すでに夜の入口へとさしかかっていた。家路を急ぐ鳥たちの鳴き声がどこからか流れてくる。
「楽しかったわ。じゃあね」
 ララシャは馬車の方へ駆けていった。
「じゃあね」
「またね」
 ウピとレイナは力一杯、手を振る。
「また、いつか、会いましょ!」
 ララシャはそう叫ぶと、レゼル王子がいる馬車へ静かに乗り込んだ。
 馬車の運転手たちは一斉に鞭を入れる。数十頭の馬があちこちでいななき、馬車の群れはゆっくりと動き出した。ほどなくして警備兵らも歩き出す。黒い馬、黒い馬車、黒い人影……黒い集団がじょじょに遠ざかっていった。
 ウピとレイナは、それらの黒い固まりが視界から完全に消えてしまうまで、ずっと手を振り続けた。
 
 こうして海へ続く一本の下り坂は久方ぶりの静けさを取り戻した。
 二人は音もなく手を下ろす。それからしばし呆然と立ちつくしていた。頭の中は真っ白で、もう何も考えられなかった。
「疲れた」
 思い出したようにウピがつぶやいた。レイナも虚ろな口調で言う。
「私も、今日は、本当に疲れました」
 左右に動かすと、ウピの首はボキボキ鳴った。それから、
「楽しかったけど、疲れた」
 とつけ加える。
「また会えるといいですね……けれど疲れました」
 レイナが〈疲れた合戦〉に追い打ちをかけた。闇の粉がミザリア市を覆い始め、視界が悪くなってきた。
「とにかく帰りましょう」
 二人は、西の空に輝く五日月の、その弱々しい灯を頼りに歩き出した。
 左手に握っていた贈り物を、レイナは月に向かって掲げてみた。宝石の中へ月が映り、色とりどりにきらめく。
「これ、かなり高そうですよ」
「そうね。ルヴィルに自慢できそう」
 ウピが言った。ルヴィルとは、学院魔術科時代からつきあいのある、ウピとレイナに共通の親友だ。
「ルヴィル、今日の話を聞いたら、きっとひっくり返るだろうな」
 そう言ったウピのお腹が、ぐぅーっと鳴った。歩きながら、うつむく。
「やだぁ」
「私もぺこぺこです……とにかく、たった半日だけど、王女様と一緒に遊べたんです。これは滅多にない経験ですよ? とてもすごいことです」
 レイナは色んな出来事を順番に逐一思い出し、振り返りながら、王女と出会えることの確率の低さについて力説した。
 ウピは適当に相づちを打ったあとで、ぽつりと言う。
「今思い返せば、面白い子だったね」
「きっと、またお城を飛び出しますよ」
 と、レイナが応じる。
「そうね。あははは……」
 ウピが大声で笑った。
「うふふ」
 レイナも口元を押さえて可憐に笑った。
 その時。
「くしゅん」
 二人の後ろで誰かがくしゃみをする音が聞こえた。
 ウピの心臓は不安で高鳴り、背筋に悪寒が走る。耳の奥で雷鳴がとどろき、彼女に危険を知らせる。清爽な風の流れまで不吉な予感を抱かせた。
「あんたたち、あたしの噂したでしょ」
 聞き覚えのある声……ウピは全身から血の気が引いていくのが分かった。
 ゆっくりと振り返る。
 長い金髪と水色のドレス。
 そこには、今日一日、ウピとレイナを引きずり回した張本人であるララシャが立っていた。薄暗くて見えにくいが、幻影ではない、確かに本物の王女だ。その横には兄のレゼル王子が所在なさげに立っている。
 ララシャは事も無げに言い放つ。
「お兄さまも町の案内をお望みですって。ね、お兄さま?」
「いや……」
 レゼルは口ごもる。きっと楽しそうな思い出話の雰囲気に呑まれて、王子はついララシャの提案にうなずいてしまったのだろう。少なくとも今夜のうちに出かけようなどとは思っていなかったはずだ。心優しいレゼル王子のことだから、妹のはしゃぐ姿を見ると前言を撤回できなかったのだろう……レイナはそう考えた。
 ララシャはウピの耳元でささやく。
「さあ、夜の町を案内しなさい!」
 体と心を猛烈な虚脱感が襲い、ウピはどう返事したら良いのか、まごついてしまった。できれば丁重にお断りして、とっとと家に帰りたい。
「何ボーッとしてるのよ。早く、あたしたちを連れてって! まずは夕食よ」
 ララシャはレゼル王子の手前、大声は出さない。だが相変わらず激しい語調で、声の音量だけを下げ、ウピに命じた。
 四人の中でララシャだけが意気盛んだ。他方、ウピもレイナも、そしてレゼル王子も困り果てていた。
 遠くから怒鳴り声が聞こえてくる。
「ララシャ様、レゼル様〜」
 ハリデリーだ。まもなく馬の蹄の音が重なった。警備兵の足音もする。
 ウピはとっさにレイナの手を取った。
「逃げるよ!」
 言い終わらないうちにウピは走り出す。
「に、逃げるんですか?」
 レイナはぎょっとしたが、仕方ない。疲れた足で懸命に地面を蹴る。
「こらっ、待ちなさい!」
 本気で追いかけるララシャは、そばにレゼル王子がいることを忘れている。
「ララシャ、どこへ行くんだ!」
 妹を心配し、王子も駆けだす。
「王女、王子! お待ち下され!」
 大臣のハリデリー、そして馬車と警備兵の集団が続く。突如として、昼間よりも大規模な追跡劇が始まった。
 宵の口の騒ぎに住民は慌てて飛び出す。
「何だ、何が起こったんだ?」
「馬の革命だわ!」
「違う、馬を司る神様が……」
 野次馬の噂話は延々と飛躍し続ける。
 その騒動の中でも、
「待ちなさい!」
 というララシャの声は良く通った。
「勘弁してよ〜」
 対するウピの声は弱々しい。レイナは走るのに精一杯で、喋る余裕すらない。二人の健闘むなしく、ララシャとの距離はしだいに縮まってゆく。
 結局、今日は最初から最後までララシャに振り回されそう……ウピもレイナもそう覚悟せざるを得なかった。
 流れ星が、地上での騒ぎを笑い飛ばすかのように黒い空へ銀の弓を描いた。
 ミザリア市の夜はこうして更けてゆく。

(了)



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