ミミナガ

 〜森大陸(しんたいりく)ルデリア〜

 

秋月 涼 


 (こずえ)の間に見え隠れする、灰色の空。僕は森の中を歩いていた。今にも雨が降り出しそうな空模様だった。
 僕はちんけな行商人。護衛を雇うことさえ出来ない、貧乏商人。森の一人旅は不安だが、致し方あるまい。今に見てろよ。絶対に大商人になってやる。そして、商人ギルドの親方になって……。
 ぽつり。木々の間をすり抜けて、雨粒が落ちてきた。始まった雨は、森を静かに濡らしてゆく。細い慈愛の雨は、霧と混じり合い、溶けあって、森の隅々(すみずみ)にまで舞い降りた。それはゆっくりと……まるで、たんぽぽの綿毛のように。死んだ蝶が落ちるように。新しい朝日が射し込むように。
 深い森の中では、木々の傘が、僕を雨から守ってくれる。だから、ずぶ濡れにはならないだろう、と高をくくっていた。ところが、雨は()むどころか、次第に激しくなる一方。……困った。
 僕は小走りに駆け、大きな樹を捜して、その根元に座り込んだ。それから、太い幹に寄りかかる。僕は商売道具を投げ出し、途方に暮れた。かすかなため息は、雨音にかき消された。
 このままでは身動きがとれない。流れる雲の速さと、独特の匂いで、雨が降るのはおおよそ見当がついたが……まさか、こんなに降るとは思わなかった。雨はまだまだ降り続く。時々、頭の上に水滴が垂れた。冷たい。
 膝まで這い上がった(あり)を、僕は指で弾いた。とにかく、この調子で雨が降り続けば、僕は風邪をひくだろう。いっそのこと、風邪をひいてしまいたいとさえ思っていた。何もかもがどうでもよくなりかけていた。次の町へ着いたからといって、物が売れる保証はどこにもないのだ。貧乏生活は続いていく。
 ……急ぐ必要はないな。雨が止むのを待ってからにしよう。僕は開き直り、ごつごつする樹の根元に座り直した。
 目をつぶる。暗闇の中にも、細い雨は降り続いていた。雨の音楽が、僕を静かな眠りへといざなう。僕は首の力を抜き、続いて肩や腰を解放させ、最後は足の先まで機能を停止させた。僕はそのまま、しばらくの間、浅い眠りについた。
 
 目を覚ますと、森は濃い霧に覆われていた。貯めておいた星の光をばらまいたかのように、半透明の白い霧が辺り一面に立ちこめていた。雨は小降りになり、さっきまでの雨音幻想曲は消えたが、空気には湿り気が残っていた。森の上には、まだ霧雨が注いでいるのだろう。
 僕は起きあがった。そして、周りを見渡す。視界が悪く、進むのは困難だ。僕はまた、ため息をついて、さっきの場所に座り直した。服がじっとりと湿っている。そういえば、今は昼間なのか夕方なのか。そのことが頭の隅をよぎったが、霧の中ではさっぱりわからない。
 その時だった。
「クゥー」
 背後で、何かの鳴き声がした。小さくて、弱々しい声。しかし、声だけでは、どんな動物か判断できない。僕は警戒した。森にはどんな強力な生き物がいるか、わからないのだ。僕はポケットを探って護身用のナイフを取り出し、そしてそれを握ったまま、ゆっくりと振り返る……。
「あっ?」
 僕はすっとんきょうな声をあげた。目の前の、緑の草の合間から、小さな生き物が、楕円形の大きな瞳でこちらを見ていた。身体(からだ)を包み込む体毛はくすんだ草色で、瞳はまるで翡翠(ひすい)のような、透明感のある緑色。そこから放たれた視線には、穏やかな中にも、全てを見透かしてしまうような力強さがあった。僕はそれに射抜かれて、わずかに身震いした。
「クゥー」
 その生き物は、寂しそうに鳴いた。僕は、直感で〈こいつは、まだ子供だな〉と思った。自慢じゃないが、僕のこういう直感は、よく当たるのだ。
 生き物は草の中から顔を出し、草をかきわけ、ついにその全貌(ぜんぼう)を露わにした。耳が長い。身体の小ささといい、耳の長さといい、兎を連想させる。普通の兎と違うのは、全身が緑の保護色で塗られていること、そして、耳が異常に長いこと、である。
 小さな生き物は、何も言わずにたたずんでいた。どうも、なんとなくひっかかる。僕は、頭の奥底で眠る、古い記憶の引き出しを、瞬時に調べ回った。ああでもない、こうでもない……そして、僕はやっと思い出したのだ。
「ミミナガ……滅びゆく幻獣(げんじゅう)……」
 僕が静かにつぶやくと、ミミナガの子供はそれに反応し、
「クゥーン」
 と鳴いた。
 
 僕はこれまで、ミミナガについて、二つの話を耳にしたことがある。一つ目は、幼い頃、死んだ婆さんに教わった話。婆さんは、僕を寝かしつける時、子守歌の代わりに、色々な物語を聞かせてくれた。その中の一つに、間違いなく、ミミナガの話があった。
 婆さんの言葉が、切れ切れに(よみがえ)る。
 
『……ミミナガはね、緑色の兎なんだよ』
『耳でお空を飛べるのさ』
『深い森の奥に住んでいて……』
 
 これ以上は思い出せない。完全に記憶の糸が途切れた。僕はその件については早くも諦めた。
 さて、ミミナガという言葉を耳にした、もう一つの機会は、僕が行商人になってから間もない頃のことだ。とある町の酒場で、僕はミミナガの噂を耳にした。
 
『ミミナガの肉を食べると、必ず、天寿を全うする』
『半分、伝説だけどな』
『昔の奴らが乱獲したお陰で、絶滅の危機か、あるいは絶滅したらしいぜ』
 
「クゥー」
 目の前のミミナガが、また鳴いた。僕はそれで、ふっと我に返った。いつの間にか、ミミナガはずいぶんと僕のそばに寄っていた。奴は人間を警戒していないのだろうか? ……それにしても、可愛らしい目だ。僕は、その生き物を抱きしめようと、手を伸ばし、そして(あわ)てて引っ込めた。
 僕の右手には、まだ、護身用のナイフが握られていたのだ。危うく、突き刺してしまうところだった。
「……ん、突き刺す?」
 突き刺す、と、僕は心の中で繰り返した。僕はその時、ミミナガにまつわる噂の続きを思い出していた。
 
『ミミナガを捕らえることが出来たなら、それだけで一生、大金持ちだ』
『貴族が殺到し、ものすごい値がつく』
 
 この鋭いナイフを突き刺せば、緑のいたいけな生き物は、たちまち黄金の山に変化する。瞬間、僕の人生は百八十度、転換する。そう思うと、ナイフを持つ僕の右手は、小刻みに震えた。体中に重い汗が吹き出す。激しい運動を終えた直後のように、心臓がバクバクして、今にも破裂しそうだった。
 僕はゆっくりと腕を突き出した。ナイフの刃先を動かし、ミミナガの喉元に狙いを定める。ミミナガの大きな両眼が、同時にまばたきした。
 
 僕はそのまま、動きを止めた。
 ミミナガも動かなかった。
 森の劇場、霧の舞台。
 僕はここで、大きな罪を犯そうとしていた。
 巨大な家が、財産が、(まぶた)の裏に浮かんだ。
 執事、下女、そして豪華な料理……。
 
 僕は右手に力を込める。
 大きく振りかぶる。
 そして、そのまま、
 まっすぐにナイフを振り下ろす!
 
「フゥーム!」
 
 突然、ミミナガが鳴いた。なんという、寂しく悲しげな声だろう!
 すんでの所で腕を止めた。僕は確かに、ミミナガの声に圧倒されたのだ。小さな生き物の、たった一つの鳴き声に、僕は完全に押しつぶされた。
 それからすぐに、僕は冷静さを取り戻して、考えた。
 ……この子を殺して得た財産に、一体、どんな意味があるのだ?
 僕は力無くナイフを投げ捨てた。もはや何の言葉も出ない。ただ、大粒の涙だけが、ぽたり、ぽたりと流れ落ちた。涙は雨と混じって、地中深くに沈んでいった。それが地下水となって、森全体を潤して欲しい。僕に出来る、せめてもの(つぐな)いだ……僕は、一瞬でもミミナガを殺そうとした自分を、深く恥じた。
「クゥーアーン」
 その時、やや遠くから、高い鳴き声が聞こえた。とても澄んだ声だ。霧の中を乱反射して、森じゅうに響きわたる。
「クゥーン」
 目の前のミミナガが、その声に反応し、天を仰いで返事をした。
「クゥーン、クァー」
 遠くの声は、さっきよりも近づいた。
「クゥーム」
 僕のそばのミミナガが、応えた。
 ミミナガは、その長い耳をぴいんと張った。緑色の両耳は、天に向かって伸びる、若草のように思えた。細長い耳が、徐々に広がる。それは、孔雀(くじゃく)の羽を連想させた。ミミナガはゆっくりと両耳を羽ばたかせた。次第に、その速度が増し……風が湧き起こる。
「クァー、ンンン」
 頭上から、鳴き声がした。身体の大きな、親ミミナガが待っていた。さっきから綺麗な鳴き声で呼び続けていたのは、この、親ミミナガだったのだろう。
 子供はものすごい速さで耳を動かす。ついに足が地面から離れると、あっという間に、子供は親の高さまで舞い上がった。二羽は寄り添い、霧に溶け込むようにして、森のかなたへと消えていった。
 僕は、その後ろ姿に、大声で呼びかけた。
「お前たち! 絶対に、密漁者なんかに(つか)まるんじゃないぞ!」
 すると、遠くからミミナガの返事が聞こえた……気がした。もしかしたら、幻聴だったのかも知れない。でも僕は、心の中で、確かにそれを聴いたのだ。親子の、もの悲しい鳴き声を。
 
 それからすぐに、霧が晴れた。僕はまっすぐに歩き出した。森を抜けると、眼下の深い谷間に、目指す町が見えた。ここまで来れば、森の町リーゼンは目と鼻の先だ。町のそばには湖があり、その水は天使の涙のように澄みきって、夕空を映していた。
 谷間には、うっすらと虹の橋が架かっていた。僕は商売道具をしっかりと握りしめ、いつもよりも少しだけ胸を張って、湿った坂道を下っていった。

(了)



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