空の後ろで

 〜森大陸(しんたいりく)ルデリア〜

 

秋月 涼 

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第一章 へんな雲


 小さな細切れの白い雲から、明るい太陽が顔を出した。光の雨が街の全てに降り注ぐ頃、にわかに足元の影が濃くなった。
 森大陸ルデリアの東方に浮かぶ、魅惑の島・シャムル。大陸への玄関口となっているのは、島の西に位置するデリシ町だ。貿易で栄える港湾都市のはずれで、この物語は幕を開ける。
「最近、毎日が退屈だよねぇ。学舎と家の往復で……。魔法の勉強もややこしくなってきたし」
 澄みきった青空を仰いで、八歳のジーナがつぶやいた。ポニーテールにした金髪が良く似合う、背の低い女の子だ。
 ジーナは、一緒に並んで歩いている隣の少女を見上げ、問いかけた。
「そう思わない、リュア?」
 九歳にしては背の高いリュアは、ジーナに意見を求められても、うーん、と唸っているだけだ。
 この世界には魔法が存在し、人々の生活に深く溶け込んでいる。文化先進国にあたるシャムル公国では、彼女たちのような普通の商人の娘でさえ、学舎という、いわゆる私立小学校に通って、学問や魔法、社交上のたしなみを身につけるのだ。
 優しい春風が街の通りを流れていった。
「それにしても、あったかいね!」
 ジーナが無邪気に言うと、リュアは可愛らしい微笑みを浮かべ、静かにうなずいた。二人とも、小脇にお揃いの革製の鞄を抱えていた。
 昼下がり。通りの石畳は柔らかい光を受けて鈍く輝いていた。軽快な音を響かせ、幌馬車が通り過ぎる。
 突然。
「何あれ?」
 ジーナが斜め上を指さした。その先には、巨大な白いドーナッツ……変な形をした雲が浮かんでいた。ぽかんとした表情のまま、リュアは次々流れてくる奇妙な雲を目で追う。
「後ろのはフォーク、それからケーキ、ティーカップ……。すごいすごい!」
 ジーナはついに鞄を投げ捨て、雲の生まれる場所を求めて駆け出した。
「え? ジーナちゃん、待ってよぉ!」
 取り残されたリュアはジーナの鞄を拾い上げると、情けない声で叫んだ。一方のジーナは、春風に流れる白いお菓子や食器を追って、右へ左へ、急な舵を取る。
「まるで、本物が飛んでいるみたい。すてき!」
 ドシン。人とぶつかっても気にしない。
「こらっ、危ないじゃないか!」
 長袖の黒いローブを羽織った男の人が怒鳴ったが、ジーナは振り返りもせず、〈ごめんなさーい〉という言葉を置き土産に走り続けた。
 被害者の男性はぼやく。
「全く、最近の子供は……うわっ!」
「すいませーん、どいて下さいっ!」
 向こうの坂を駆け下りてきたのはリュア。両手に鞄を抱え、勢いは止まらない。直後、男性はさっきよりも強烈な衝撃を食らって、道ばたに倒れた。
「ぐ……」
 可哀想に。彼は石畳に頭を強く打ちつけ、即気絶だ。
「ジーナちゃん、はぁはぁ、ちょっと、はぁはぁ、待ってよぉー!」
 リュアには謝る余裕などなく、遠ざかる友達を全速力で追う。
 
 日陰は涼しい。商業の発展している港湾地区とは反対方向に広がっている未開の森に足を踏み入れた二人は、細い坂道を駆け上がった。根っこを飛び越え、ぬかるみを避け、急な登り坂は慎重に。
 ふと、目の前をリスが横切る。
「こんにちは」
 ジーナは立ち止まってしゃがみ込み、小さな〈森の妖精〉に挨拶した。その時、リュアがようやく追いついて、預かった鞄をジーナに手渡す。
「はぁはぁ……」
 息苦しそうなリュアを、
「しっ。静かに!」
 と、振り向きざま、ジーナが注意する。
 リスは二人を代わる代わる見上げ、まるで宝石のような黒い瞳を輝かせて、わずかに首をかしげた。
「どこ行くの?」
 ジーナが訊ねると、驚いたのか、リスは素早く藪に逃げ込んだ。リスの代わりに鶯が、どこかの枝の上で高らかに返事をする。
「ホーゥ。ホウ、ケイ、キョー」
 鶯の歌をきちんと聞き終えてから、少女たちは顔を見合わせて笑い、以後は走るのをやめて、のんびり歩くことにした。
 木々は今まさに芽吹きの季節を迎え、枝先から覗く青空の欠片は明るい。所々で立ち止まり、二人は天を仰いで、変な雲がどの方向から来るのかを確認した。
「こっちで合ってると思う……多分」
 リュアが自信なさそうに言った。
「いいよ。とにかく行ってみよう」
 ジーナは夢の風船を胸に膨らませて、心躍らせ、先走る気持ちに任せて、ずんずん歩いていった。
 
 しだいに木々が低くなり、坂も下りにさしかかる。すると、見渡す限りの黄緑のじゅうたん……草原が広がっていた。
「わあーっ。すごい!」
 ジーナは目を丸くした。リュアも驚きを隠せない。
「こんな場所があったんだね! 全然、知らなかった」
 勢いよく坂を駆け下りると、草の壁が現れた。二人の背丈よりも高いうえに、密生している。これ以上は草をかき分けて進むしかない。
「どうしよう……」
 リュアが困惑して立ちすくんでいると、
「リュアー、こっちこっち!」
 と、ジーナの声がした。
「どこ?」
 リュアはまず右を向き、次に左を見た。その度ごとに、肩のあたりで切りそろえた銀の髪が、リュアの動きを真似して揺れる。
「こっちよ」
 再びジーナ……声はすれども姿は見えず。
「どこにいるの?」
「ここ、ここ」
 声は、リュアの足元から聞こえた。リュアが目線を下げると、上の方を見つめるジーナとばっちり目が合った。
 草と草とが左右から思いきり手を伸ばして出来た草のトンネルは、まっすぐ遙かに続いている。その入口で、ジーナはしゃがんでいた。
 トンネルの天井はそれほど高くない。ちっちゃなジーナでさえ、立ち上がれば頭をぶつけてしまうだろう。
 ジーナが呼んだ。
「さあ、行きましょ!」
「うん」
 リュアは軽くうなずいた。草原の上にかぶさる空は全ての障害物から解放されて、海のように果てしなく広がっている。
 リュアは思いきり顔を上げ、変な雲の居場所を確かめてから、身をかがめて草のトンネルに入った。獣道だろうか。
 ジーナは……また、いない。
「待ってよぉ!」
 リュアは遠ざかる友達の背中を追って、低い姿勢のまま、急ぎ足で駆け出すのだった。
 
 進むにつれ、トンネルの天井は少しずつ離れていった。二人はもう、しゃがむ必要がなくなり、立ち上がって元気に歩いた。相変わらず横幅は狭いので、前にジーナ、後ろにリュアという一列縦隊で注意深く行動した。
 草に囲まれているので空の様子は分からないが、二人には〈変な雲の出所はこの先だ〉という根拠のない確信があった。
「きゃっ、冷たい!」
 急に、ジーナがぶるっと震えた。
「何?」
 不思議そうに目の前のジーナを見つめたリュアだが、間もなく彼女もその理由を知ることになる。
「あーっ!」
 それは何の前触れもなく現れた、水のトンネル。左右から噴き出している水の流れが、トンネルを形作っているのだ。
 光を浴びて、水はきらめく。輝きは透明に近い白で、時には赤や黄色に染まる。火照った身体に降りかかる水のしぶきが心地よい。
「すごいねぇ」
 リュアは感嘆のため息を洩らす。
「あ、また変わった!」
 ジーナは甲高い声で叫んだ。
 昼間だったはずなのに、一転して暗くなる。辺り一面、夜の世界。天上には満天の星。そして……流れ星のアーチ。明るい流星が下から浮かび、頭上でひときわ強い光を発し、反対側に沈んでいく。信じられないほど、幻想的な空間。
 二人はそれに魅了されて言葉もなく、夜空を見上げたままの姿勢で、足だけをゆっくりと前へ動かした。
「あれっ?」
 次はうって変わって、まばゆい世界。目が慣れるのに時間がかかったが、そこは雪のトンネルだった。白い壁に触ると、ひやりとした。少し削って食べると、舌の上でとろけそうな、あまあい味がした。
「おいしい!」
 ジーナは疲れを忘れて喜んだ。リュアはうっとりした表情で、雪だか砂糖だかわからない白い粉を口に含み、静かに味わっていた。そしてつぶやく。
「まるで、夢の中を散歩しているみたい……」
 雪のトンネルは、今度は虹に変わった。小さな、まだ子供の七色の橋。それが右から左、左から右へ、何本も何本も架けられている。赤・橙・黄・緑・水色・青・紫。虹の七色はそれぞれ、ルデリア世界の重要な元素、すなわち火炎・大地・月光・草木・天空・氷水・夢幻、に対応している。これらは七力と呼ばれる、世界の根元物質だ。
 虹の橋が途切れると、今度はまた草のトンネルに戻り、どんどん屋根は低くなった。二人はしゃがみ込み、最後は手をついて這った。そして這い上がる。

(続)



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