朝風のように

 〜森大陸(しんたいりく)ルデリア〜

 

秋月 涼 


 まだ夜明け前、外は藍色の空。
「ねむ、起きて、起きて」
 十代後半くらいと思われる長い赤毛の娘が、壁に寄り添って居眠りしている同年代の少女の肩を激しく揺すった。
「ふぁ?」
 普段、居眠りばかりしていて〈ねむ〉あるいは〈ねむちゃん〉という愛称をつけられてしまったリュナンは、夢から現実の世界へと急速に引き戻される。南ルデリア共和国の首都、ズィートオーブ市の旧市街――ここは友人サホの自宅である〈オッグレイム骨董店〉の二階だ。
「起きた?」
 と訊ねながら、念のためリュナンの頬をつねるサホは、円形の大きな鏡をしょっていた。焦げ茶色の木枠に囲われた鏡は、いかにも妖しげな雰囲気だ。
「ふわぁ」
 リュナンが青い両眼をこすっている間、部屋の中央にぶら下げている弱いランプの光を頼りに、サホは打ち合わせておいた計画をてきぱきと実行に移していく。
 まず出窓の張り出した部分に例の鏡を設置。その下へ、分厚い本を部屋側だけ敷く。これで鏡に傾斜がついた。
 窓を開けると夏の早朝の涼しい風が挨拶しにやって来た。小鳥のさえずりが聞こえ、東の空が少しずつ白んでゆく。
 サホは思いきり息を吸い込み、吐き出し、それから手を掲げて呪文を唱える。
「ЖЩЛЫЭЮ……空を照らす陽の光よ、我に力を与えたまえ。ライポール!」
 閃光がきらめき、ほどなくして指先から高速回転を繰り返す白い球体が現れた。いわゆる〈照明魔法〉である。
 集中力を持続しながら慎重に手を動かすと、球体は滑らかに宙を滑り、やがて窓辺へたどり着く。魔法によって作られた光は鏡にぶつかって反射し、かわたれ時の町へ幻想的な軌跡を描いた。
「ねむ!」
 サホの鋭い呼びかけに、依然として睡魔と戦うリュナンは力無く応じる。
「はあい」
 どうにか重い腰を上げた居眠り娘は、巨大な鏡の中ほどへ一本松の頂上がきちんと映るように角度の微調整を行う。
「できたよ」
「よしっ」
 照明魔法を維持するための集中を途切れさせないまま、サホは机の上へ用意した紐を操って、器用に鏡を固定する。
「準備完了っと!」
 彼女はようやく安堵し、溜め息をついた。少し気が抜けると照明魔法の光度が低下し、あわてて指先に力を込める――白い球体が鮮やかな輝きを取り戻した。
「さあ行こう」
 写生の道具を小脇にかかえ、朝靄けむるズィートオーブ市へ向かって、サホは新たな一歩を踏み出した。リュナンも忘れずに道具を持ち、すぐさま後を追う。
 きわめて繊細な静けさの底で、二つの黒い影がきらびやかな光の筋道に吸収され、同化し、ついに姿を消した。
 
 サホの部屋に設置した鏡から、ズィートオーブ市のはずれにある一本松へ通ずる丸い穴はとても狭苦しい。二人はしゃがみ込み、手をついて歩いた。壁はほんのりと温み、優しさを感じる。
「すごいすごい」
 リュナンが嬉しそうにつぶやいた。
「あたいに任せときな!」
 角度の緩い光のトンネルを突き進みながら、サホが自信たっぷりに叫ぶと、その語尾がこだまとなって響きわたった。
 眼下には、しだいに黎明を迎える旧市街の橙色の屋根が美しく並んでいた。その外側へ雑然と成長する新市街も望める。なじみの町なのに、上から俯瞰すると全く新鮮な景色に見えるから不思議だ。
 空を滑る可愛らしい鳥たちが神妙そうに二人娘を見つめ、驚いて飛び去る。
「ここの使いようよ、ここ」
 サホはきれいな赤毛を振り乱しながら何回も自分の頭を指さし、そのたびごとリュナンは穏やかにうなずくのだった。
「ほんとに、素敵な眺めだねぇ」
 
 二人は魔法学院の生徒で、とある曜日の朝一番に行われる同じ授業を選択していた。二十代半ばくらいの男性講師、リドゥ・マイザ師の担当する美術科だ。
 マイザ師はいつも眼鏡をかけている。ほっそりして外見は神経質そうな印象を受けるものの、意外と気さくで生徒からは好かれており、成績のつけ方は厳しくない。
 最後の授業が終わった後、彼はリュナンとサホを呼び出し、絵の宿題を課した。二人とも授業中の居眠りがひどく、ろくな作品を描かなかったため、このままでは成績がつけられないからだ。マイザ師ならではの救済措置といえた。
 それに、二人の居眠りにはやむを得ない事情があった。リュナンは病弱で、睡眠時間を多めに取らないと倒れてしまう。
 一方、サホの実家である骨董屋は母親が独りで切り盛りしている。仕入れ先へ赴いた父が海難事故に遭い、帰らぬ人となったからだ。長女であるサホは遅くまで母を手伝ったり、幼い弟や妹の世話をしたりで、慢性的な睡眠不足に陥っていた。
「町で一番好きな場所を選び、自由に描き、早めに提出して下さい」
 マイザ師の言葉を受けてサホとリュナンは話し合い、意気投合し――優雅にそびえて町全体を見晴るかす一本松のてっぺんで写生しようという結論に至った。
 ところが松は枝打ちされているため、木登りで上までたどり着くのは困難だ。かといって二人のような初級の魔法使いには、高度な技術と長期の訓練とを要する飛翔術〈フオンデル〉は扱えない。また、南国では空泳ぎの浮き輪が存在すると噂に聞くが、この国では全く手に入らない。
 どうしようかと考えあぐね、サホが自宅の骨董店の倉庫を探したところ、ひょっこり姿を現したのが例の鏡だった。
 あの巨大な鏡は、光を受けると、反射した部分がトンネルになるのだ。通常は日光に向けて用いられるが、太陽が雲間に隠れると道が消えて墜落事故が起こったり、夜は使えなかったりと、問題が多かった。
 弾んだ口調でサホが語る。
「道具は使い方しだい。魔法の光なら術者の集中が途切れない限り消えない。あたい、集中力には自信あるんだ!」
 照明魔法〈ライポール〉は最も基礎的な妖術の一つであり、たいして魔力(魔法に関連する精神力)を消費しないため、サホのような魔法使いの卵でも簡単に扱える。もしも疲れてしまったなら、相棒リュナンの拳を握ればいい――魔力は融通できるのだ。
 暗い方が光の筋道の終点を確認しやすいため、リュナンはサホの家へ泊まり、黎明になると二人は活動を開始した。陽が昇る頃に一本松へ到着し、作品を仕上げたあとはトンネルを滑って帰る計画だ。
 リュナンが感嘆してささやいた。
「今、朝風のように空を歩いているんだね」
 そして真っ赤な太陽が顔を出す直前、二人はほぼ予定通り、市を見下ろす一本松の頂上付近へたどり着いたのだった。
 
 光の遊歩道は、東の空から輝きの微粒子がばらまかれたため徐々に見えづらくなった。のみならず、光源があるサホの部屋からだいぶ離れたことによって拡散され、希薄になった――思いきり腕を突き刺すと天井を破くことができる。
 二人は強風に注意しながら恐る恐るトンネルを抜けだし、一本松へ乗り移って太い枝にまたがり、幹に寄りかかる。
 暗く澱む西海の港には漁を終えた帆船が浮かんでおり、新型の貿易船も遠く見分けられた。さすがは森大陸ルデリアで最大の商業都市、ズィートオーブだ。
 貿易船――父の面影がおぼろによみがえり、涙が出そうになったものの、唇をかみしめてそれをこらえるサホだった。
 リュナンは反対側へ渡って東の空を望み、風に揺れる緑の草原が橙色に塗り替えられるのを、ただ気持ちよさそうに眺めていた。丸い城壁が旧市街を取り囲み、外敵の侵入をかたくなに拒んでいる。
 サホとリュナン――二人は木の幹を仲立ちとし、背中同士で触れあっていた。
「サホっち、そろそろ描こうよ」
「そうね」
 質の悪い画用紙と数本の色鉛筆とをおもむろに取り出した二人は、牛乳のような淡い靄に沈む町を素直に写生し始めた。サホもリュナンも手先は割と器用な方だ。
「これほど空に近い場所でお絵描きするなんて、ねむちゃんたちが初めてだろうね、きっと」
 リュナンは軽やかに右手を動かしながら夢見るように言った。涼しい気温のため思考が冴え、睡魔は一時的に撤退する。
「なんてったって、ここはズィートオーブで一番高い場所だよ!」
 頭の片隅で照明魔法〈ライポール〉への集中を巧みに持続しつつ、サホは自分の心で感じたままの景色を画用紙の上へ重層的に描き込んでいく――時折、幹の反対側へ腕を伸ばしてリュナンの拳を握り、魔力を融通してもらいながら。
 いにしえの時代より幾度の災禍を乗り越え、確実に育ってきた一本松の背丈は、そびえ立つ見張り塔や、南ルデリア共和国の議事堂をも凌ぐ高さを誇っていた。
 西には水平線が、東には地平線が霞んでいる。夏の暑い太陽が全貌を現すと本格的に光の粉が舞い降り、夜の藍色と星の名残は海へ沈む。二人の遙か上で、今まさに恒例の引き継ぎが行われていた。
「ねむちゃんたち、夜と朝との境界線に座っているんだね……」
 金の髪を微風になびかせ、リュナンが穏やかに語った。その頬は生まれたての日光を浴びて輝き、幸せ色に充ちていた。
 二人をつつみ込む果てしない空には綿雲がただよい、腕を掲げれば天をもつかめそうだ。静まり返る町を不思議に半透明な霧が流れ、朝市の行われている臨港地域にたむろする人々が垣間見える。
 
 素描(デッサン)をあらかた完成させた二人は絵の後ろに署名をし、安らかに瞳を閉じた。一本松の幹に体を委ね、心の緊張を解き放ち、想像の世界にどっぷり浸かる。限りなく平穏な気持ちだ。
 いつしか背中に純白の翼が根づき、二人の姿は天女へと変わっていた。どこまでも広がる永遠の空は二人だけのものだ。翼を漕いで、しなやかに風を泳ぐ。遠くの森が近づき、見下ろし、再び遠ざかる。
 空の青と森の緑の間を、二人は自由自在に飛翔した。たまに宙返りしながら。
「サホっち、先に行ってるね」
 快活に進んでいくリュナンに対し、サホはやや疲労を感じていたので、
「ちょっと休もう」
 と声をかけたが、友は天の高みを目指して留まることなく昇っていく。置いてきぼりを食ったサホは声を荒らげた。
「ねむ、そっち行っちゃ駄目!」
 サホの必死の呼びかけにも関わらず、リュナンの姿は徐々に縮んでいった。
 
「はっ?」
 いつの間にか夢の中へ紛れ込みそうになっていたサホは、頭を左右に激しく振り、照明魔法への集中を取り戻す。
「危なかった。もう少しで……」
 誰もいないサホの部屋の窓際でひときわ輝き、一本松へのトンネルを掘ってくれた照明魔法が消えれば、二人は帰る手段を失う。まさに命を預かる灯火だ。
 術者の意志によって〈ライポール〉はある程度の距離ならば動かせる。集中が途切れて魔法が消えても、サホが呪文を唱え直し、発光体を例の鏡の上へ運んでいく、という方法もないわけではない。
 しかし成功の確率はきわめて低い。一本松からサホの部屋までは相当の隔たりがあるし、仮に発光球がサホの部屋へたどり着いたとしても、光のトンネルの角度を一本松の頂へ向けて調節するのは至難の業だ。辺りはすでに明度を増しており、トンネルは見えづらかった。
 その時、突然。
 細かいものがパラパラ落ちる音がした。
 サホの反対側の枝に腰かけているリュナンが色鉛筆を落としたのだ。ものすごい速度で地面へ吸い込まれる色鉛筆。
 心の中を恐怖や焦りが覆い始めたサホは、顔面蒼白になってリュナンの方へ腕を伸ばし、相手の華奢な肩を揺すった。
「ねむ、どうしたの!」
 サホの精神が不安定になったため照明魔法の維持が弱まり、その結果、光のトンネルが素早い明滅を繰り返した。
「ねむ、ねむ!」
 一生懸命に大声を発しても、頬をつねっても、リュナンの反応はなかった。その代わりに穏やかな寝息が聞こえてくる。
「す〜ぅ、すぅ……」
「ねむ、起きてよ! お願いだから起きてちょうだい。ねむ、ねむ、お願い!」
 こんなところで寝てしまっては危険きわまりない。体のバランスを崩せば転落は免れぬ。この高さでは助かるはずがない――待っているのは〈死〉だ。
 だが、リュナンを睡魔の襲撃から解放することにどれだけの労力を要するかは、サホ自身が良く知っていた。美術の授業でマイザ師が嘆いていた原因のうち、六割強はリュナンの居眠りだった(ちなみに残りの三割弱はサホの居眠り)。
「ねむ、ねむ!」
 身を乗り出し、リュナンの頭や頬や肩や脇の下や腰を、つねったり、叩いたり、くすぐったりして必死に起こそうとするサホは、もはや涙声だ。朝を迎えた美しい町の風景も今は視界に入らない。
 直後、破綻しかかった精神状態にとどめをさす小さな事件が起きた。
「あっ!」
 手を引っ込めた刹那。赤、青、黄色、緑――サホが持ってきた数本の色鉛筆が、木の葉の階段を猛烈な速さで駆け降りた。
 風が吹き、枝がぐらぐら揺れた。ミシッという嫌な音がする。リュナンが起きる気配は、現在のところ全くない。
 サホはついに悲鳴をあげた。
「誰か助けて。お願い、助けてえ!」
 当然、光のトンネルは消えていた。
 
 数日前から夏休みに入っているが、今日は二人の問題児が宿題の絵を持ってくることになっていたため、講師のマイザは学院を目指し、さっそうと歩いていた。
 一本松のそばを通ると、なぜか人だかりができている。ちょうど、暑苦しそうな漆黒のローブに身をつつんだ若干名の魔法の専門家が、飛翔術〈フオンデル〉で静かに昇っていくところだった。野次馬の間から歓声が沸き起こる。
 何事だろうと思って木の頂を仰ぐと、長方形をした安物の画用紙が二枚、マイザの方に向かって流れてきた。
「天女からの贈り物だろうか?」
 紙のゆくえを追って捕まえると、それは色鉛筆で描かれたデッサンだった。たいして上手くはないが、二枚とも作者の感性が光っており、見ていて気持ちの良い絵だった。空と戯れるかのような、新鮮で優しく、不思議な印象を受ける。
「ほう!」
 絵を裏返し、見慣れた名前を確かめると、マイザはまず目を丸くし、それから口元を押さえて顔をほころばせた。
 
「ねむ、どこ描くつもり?」
「好きな場所を一つ、だったよね」
「あたし、一つなんて選べないな。賑やかな大通りは大好きだけど、入り組んだ裏道だって味があるし」
「旧市街の堂々とした感じも捨てがたいし、新市街の活気もいいよね」
「港も、草原も、緩やかな丘も、広い海も。この町で生まれて育ってきたから、好きなところが多すぎるんだ!」
「でも、町全体を描くのは無理だよね」
「町、全体?」
「うん」
「……」
「?」
「それ、それよっ!」
 
 マイザは二人のやりとりを想像した。実際のところ、天から降ってきた二枚の絵を合わせると、ズィートオーブ市の見事な鳥瞰図が出来上がったのだ。
 どういう手段で、こんな朝早くに一本松の頂上へ登ったのかは分からない。だがその方法を考え、とにかく実現してしまった、他人とは違う素晴らしい独創性と行動力とにマイザは深く心動かされ――そして、すでに過去帳入りした自らの少年時代に思いをめぐらすのだった。
 彼は巨大な一本松をゆっくり仰ぐ。頑丈で幅広の幹、未来へ伸びゆく枝、豊かに茂る葉、悲鳴の聞こえてくる頂上。
「最後の最後まで問題児だったね……けれども」
 そこで言葉を区切ると、鞄から羽根ペンを取り出してインクをつける。二人の作品を裏返し、それぞれの右隅に〈単位取得、おめでとう〉と書き込んだ。
「けれども、素敵な生徒たちでした」
 二人の作品を大切にかかえ、続々と数を増してゆく野次馬たちを後目に、マイザは再び学院へ向かって歩き出した。せっかく描いた宿題を風に飛ばされて深くうなだれ、詫びに来るはずの生徒たちが、笑顔を取り戻すのを楽しみにしながら。
 しだいに熱を帯びる夏の太陽のもと、彼の足下からは細長い影が伸びていた。

(了)



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