内なる戦い

 〜森大陸(しんたいりく)ルデリア・幻想結晶〜

 

秋月 涼 


(本編)

 そこは真っ暗闇の世界であった。
 唯一、光は無いはずなのに自分の手足だけは見える。
 しかし、それ以外は果てしない漆黒のみだった。町の風景も川の流れも、一本松も、そして家族や友達の姿も、通りを行き交う人々も、向こうの丘も遠い山並みも、海も空も、世界の全てが夜に塗り替えられたようだ――いや、夜でさえ、もう少し濃淡があるはずだ。これは単一の暗がりが永遠に続いてゆくのだ。

(いやだよ……ここはどこなの? ねむちゃんの家は?)

 自分だけは最後の砦として最も確かなはずだが、むしろそう考えれば考えるほど、存在の根本からぐらついてしまう。突如、周りの闇が意志を持つ波のようにざわめき、リュナンに覆い被さり、取り込もうと襲いかかる。彼女は徐々に蝕まれていった。

(あっ!)

 悲鳴さえも許されないのか。
 彼女の細い両足は闇に掬われ、身体は傾いていく。確固たる足場はもろくも崩れ、落下する感覚が襲う。思わず目を閉じたのだが景色は全く変わらなかった。いつの間にか瞳は開いていたので、再び閉じる。また同じ闇、瞳が開いている、また閉じる――そのまま終わりのない場所の終わりへと墜ちてゆくのだ。

 低いところの深みから、何十人もの男の声が聞こえてくる。

《リュナンよ、早くここへ来るがいい。どうせ普通の生活を送れぬお前は、普通の人間になれぬ。早く我々に魂を渡すのだ》

(そうだね。ねむちゃん、きっと普通の人になれないよね――)

 幼い頃から病気がちのリュナンはふっと気を緩める。すると、どこか分からない場所で、何者かが笑うような声が聞こえた。

 意識が遠くなり、ここ数日は貪ることの出来なかった深い眠りがリュナンを捉える。それはいささか深すぎる眠りだったが、彼女にはもう抵抗する力は残されておらず、闇のなすがままだ。
 首筋を冷たいものが漂うが、彼女は遙かなる平穏を夢見る。

 病は彼女を食べ終え、今にも一つの灯火が消えようとする。

 ――まさに、その時であった。

 誰かの温かい身体がリュナンを受け止めてくれたのだった。
 落下は止まらないが、もう決して一人ではないと直感する。
 自らの身体への闇の浸食も、すんでの所で引いてゆく。

 そして耳元では、聞き覚えのある少女の声が囁くのだ。

『ねむ。負けちゃダメ』

「サホ……っち?」
 声が出るようになっていたリュナンは親友の名を呼んだ。かすかに、背中の方で誰かがうなずく気配があった。応援は続く。

『ねむは必ず元気になる。あたいがゼッタイ治してみせる。医学も魔法も何も使えないけど、ねむの病気は必ず良くなってくよ』

「うん。でも……」
 リュナンは口ごもった。今回の風邪も長引いてしまい、学院を休むのは四日目だが、一向に良くならない。睡眠時間が減るとリュナンはすぐに調子を壊してしまう。ところが最近は家で横になっていても苦しい考え事や不安に邪魔されて、深い眠りに入ることが出来ないのだった。眠ったとしても恐ろしい悪夢に苛まれる。休んでいるのにも関わらず具合は悪くなる一方だった。

『ねむ自身がそう思わなきゃ。そうしなきゃ治んないよ!』

 背中のサホの声は少し苛立ったように言った。それでもリュナンは自信を持つことが出来ない。小さい頃から病気がちで、何度も生死の境を彷徨い、一度は学院を休みすぎて留年したこともある経験や、心無い人々の陰口が、傷つきやすい彼女の心をいっそう痛めつけていたのだった。彼女は弱々しく反論する。

「だって、ねむちゃん、きっと普通の大人になれないよ……」
『そんなこと、ないって!』

 見えないサホは、裏返った声で言った。それは受け取り方によっては、泣きたいのを精一杯こらえているようにも聞こえた。

『確かにねむは普通じゃないかも知れないよ。だけど、どこを探せば普通の人がいるっての? 普通ってどういうこと、何?』

「それは……」
 リュナンは続く言葉をためらったが、観念して打ち明ける。
「例えばサホっちみたいに、家のお手伝いをして、学院にも通って、手先も器用で、運動もできて、みんなの役に立って……」
『はははっ。笑えない冗談だな、それ』
 サホは泣き笑いの声を洩らす。それから力強く語り出した。
『あたいが普通の基準だったら大変だよ。普通じゃない方の代表格なんだから。あたいの赤い髪、近所で白い目で見られてること、知ってるでしょ? 目立ちたがり屋とか、何とかってサぁ』
「うん。でも」
『でもじゃないって!』
 赤毛の親友は必死に否定する。背中のサホの存在感が少しずつ大きくなってゆくこと、それに伴って自分の意識がはっきりしてゆくことをおぼろげに感じながら、リュナンは相手の話に耳を傾けた。闇の中にうっすらと明るい部分が見え始めている。

『ねむにも、他の人に負けないような〈いいとこ〉がいっぱいあるよ。ねむは過小評価してるけどさ。あたい、それが歯痒くって』
「他の人に負けない、いいとこ? ねむちゃんに?」
『そうだよ!』
 サホは断言したあと、優しい口調になり、説明してくれる。

『辛い経験をしてきたことをちゃんと受け止めて糧にしてきたから、他の人の辛さを分かち合おうとするでしょ。それは、他の人には簡単に真似できない、ねむのすごい部分だよ。ほんとに』

「そうかな……」
 リュナンの返事には迷いの色が明らかに濃くなっていた。不思議なことに、その悩みがぐらつけばぐらつくほど、リュナンの墜ちる速度は緩み、安定した足場が出来上がってゆくのだ。

『それに、普通の人なんか目指してもつまんないよ。たぶん』
 サホの声が追い打ちをかける。すでに落下は止まっている。
『いわゆる〈普通の人〉なんてのは、友達になるどころか、会いたいとも思わないね。そんな平均的で、平準的で、何の特徴もないような人なんて、会う価値ないもん。あたいはそう思うよ』
「そうか……あっ」
 リュナンは驚いて周りを見渡した。突然、辺りが明るくなり始めたのだ。そしてさっきまでとは反対の、軽い上昇感がある。

『自信がありまくる人なんて、そうはいないと思うよ。それでもこの自分と付き合っていくしかないから、一生懸命やってる。ねむもさ、もっと自分のこと好きになって、完璧な人を目指すのをやめれば楽になれるよ……そしたら病気にも打ち勝てるはず!』

「そう、だね。きっとそうだよね!」
 そこはいつか高い木のてっぺんから見上げたような、果てしのない澄みきった青空であった。気がつけば、背中には二枚の翼が生えている。遙か下には故郷のズィートオーブ市の街並みが見え、海も分かる。サホの支えはなくなったが、リュナンは今、自分の力で羽ばたいていた。力強く、誇らしく、高らかに。

 今まで後ろにいたはずのサホが、今は正面に見える。親友も白い翼で風のように舞っていたが、不意に右手を差し出した。
『人と違ってても、いいじゃん。違うのが当たり前なんだからサ。違ってても、いい部分を認め合っていける仲でいたいよ……』

「うん、これからも、こちらこそ、よろしくね!」

 光がいっぱいに充ちている。リュナンは一生の友の右手をしっかりと握りしめ、と同時に今の素直な気持ちを言葉に乗せた。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

(サホっち、本当に、本当に……ありがとう!)

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 
 
(エピローグ)

「……ん?」

 気がつくと、まぶしい光に満ちた新しい朝であった。
 熱は下がっており、気分は良かった。
 小鳥のさえずりが聞こえる――リュナンは身を起こした。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「サホっち、おはよう」
 リュナンが出ていくとサホは門の前で待っていた。ここ数日、リュナンが体調を崩していた間、サホは一人で学院に通っていたのである。サホの方も、さすがに今朝は安堵の微笑みだ。
「おはよっ、久しぶり。もう風邪は治ったの?」
「うん、サホっちのおかげだよ。ゆうべはどうもありがとう」
 相手が驚くだろうということを予期しつつも、リュナンは敢えて言い切った。当然の結果ながらサホは即座に聞き返してくる。
「え? 何で?」

 しかし、間もなくリュナンはそれがあながち間違いではなかったことを悟るのだった――サホが身振り手振りを交えて勢い良く語り出した一つの物語の冒頭は、こんな風に始まっていた。

「そうそう聞いてよ、ねむ。けさ、夢見たんだけどさぁ、妙に恐ろしげなのよね。で、ねむが降ってきて、抱きかかえてさあ……」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 手をかざし、あおいだ空は、夢の中よりも青く澄んでいた。

(了)



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