〜森大陸(しんたいりく)ルデリア・幻想結晶〜

 

秋月 涼 


「うわぁー」
 疲れに沈んでいたリンの草色の瞳がパッと明るくなった。額と頬にうっすらと汗をかき、それが降り注ぐ秋の光に輝いている。

 木造りの古びた立て札が近くにあり、上手くもない字で〈コルツ峠〉と刻まれている。少し傾いているのが何故か旅愁を誘う。ここは町から町へ向かう脇街道の、ひなびた峠の頂上だった。

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 鬱蒼とした森の中を尾根に沿って曲がりくねり、少しずつ高度を稼いでゆく細い道。消えそうになりながらも、しかし確かに続いていた。たまに小川を渡るために急な下り坂があるのを除けば概して登り続けだったが、一体どれくらい来たのか――序盤戦なのか、山の中腹なのか、それとも峠は近いのか――という情報は、左右に立ち並んで俺たちの視界を狭める背高のっぽの木々に隠されていた。ブナ、クヌギ、シラカシ、ニレ、等々。

 距離と高度の細かな積み重ねが結果となって現れたのは、ようやく勾配が緩やかになり、俺たち五人全員が冒険者の直感で〈峠だ〉と身体で理解し、急に視界が広がった時のことだ。

 遙か遠くまで見渡せる――リンが真っ先に歓声をあげたのも分かる気がする。冬に向けて赤や橙、黄色や茶色、それらのあらゆる中間色に衣替えする木々は華麗で清楚で、なおかつ力強く、そして儚い。他方、針葉樹は落葉樹の彩りを気にも留めず、永久の深い碧を誇っている。数多くの針葉樹に広葉樹が入り混じり、やつらの描く微妙な色合いは場所によって異なる。
 両側に山の迫る狭い平野をラーヌ河の支流が緩やかに蛇行している。脇街道は地形に逆らう素振りを全く見せず、河に寄り添うように続いているらしい。俺がそう判断したのは、隊商の馬車とおぼしき三つの小さな箱が辛うじて見分けられたからだ。
 細長い平野――より正確に表現するなら〈盆地〉というらしいが――の奥の方には、神殿の塔のような尖った建物が霞んでいる。次の宿場町まで、どうやら夕方までには着けそうだな。

 見飽きない。この広さは、どんな絵でも勝てねえだろう。

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果てしなき大地

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 一息つくと、ちょうどいい具合に腹の虫が自己主張し始める。
「とりあえずメシにしよーぜ」
 頭の後ろで腕組みし、ぶっきらぼうに言う。すると前に立っていたシェリアが振り向き、回りくどい表現で俺に賛意を示した。
「珍しくケレンスとは意見が合うようね」
「あたしも、おなか減っちゃった……」
 景色に見とれていたリンも、急に現実に戻って腹の辺りを押さえ、恥ずかしそうにうつむく。最終決定を下すのはルーグだ。
「そうだな。食事にしようか」
「よっしゃ」
 俺は右腕を振り上げ、即座に背中の荷物を下ろしにかかる。ずっしりとした重みが消え、肩が消えたかのように軽くなった。
「さっき水を補給しておいて良かったですね」
 なんてことを冷静に分析するのはタックに決まってる。

 こうして俺らは、朝に出た町で用意しておいた食事を広げた。
 野宿が続けば味気ない保存食を摂るか、森でかき集めなければならねえが、町を出て一日目の昼メシはそれに比べるとずいぶん有り難い。だいたい前の晩のうちに宿屋の主人に頼んでおき、長持ちする弁当か何かを作ってもらう。元冒険者だと、翌日の弁当を無料で提供してくれる気前のいいオッサンもいる。
 まあ、いつも通り森の中で木の実を拾ったり、魚釣りという選択肢も決して悪くはない。何しろ味付け担当のリンの腕がいいから、本当にひもじい思いをするのはまれだ。雨続きとか、な。

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 メシを終え、わずかな食べかすを穴に埋める。あとでここを通りかかる者に迷惑をかけないため、ゴミの始末は旅人の常識だ。例えば熊がそれを食べて、人間の作るものの味に慣れちまったらヤバイぜ。街道は一気に危険が高まり、さびれるだろう。

 それから短い休憩となる。俺はこの時間が気に入っている。

「次の町が見えるわ。今夜もお風呂に入りたいわねぇ」
 と、シェリア嬢はのたまう。まあ、かなりささやかな夢だが。
「けれど、実際問題、ここからが長いんですよね」
 けろっとした言い方で、タックは釘を刺すことを忘れない。
「まあ、そうだけど……」
 シェリアは明らかに不満そうだが、反論できずに口をつぐむ。

「とにかく峠越えって思ってたけど、単なる通過点なんだよね」
 神妙な言い方で、そっと自分の感想を述べたのはリンだ。
「へへん。だから〈大海は雨粒より成る〉って諺があるわけだ。通過点、通過点。旅は数えきれねえ通過点の繰り返しだぜ」
 俺が知的な話をすると、さっそくタックが意地悪く指摘する。
「ケレンスにしては珍しいですね。王国の諺の引用なんて」
「まあ、たまにはな」
 俺は鼻の頭をこすった。右隣のリンはさも楽しげに微笑む。
「ほーんと、ケレンスも、たまにはそんなこと言うんだね!」
「明日、雨が降らないといいんだけど。困ったわねぇ」
 シェリアが呟くと爆笑の渦が沸き起こり、俺も一緒に笑った。

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「よし。そろそろ出発しようか」
 ルーグの一言で俺らは重い腰を上げ、再び次の目標を指して歩き出す。右足、左足と、俺らの生きた証を大地に刻みつつ。

 そう。長い旅路の中で、ここは単なる〈通過点〉なのだから。

(了)



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