七力研究所レポート〔芽月編〕

 〜森大陸(しんたいりく)ルデリア・幻想結晶〜

 

秋月 涼 


(一)

 絹のように気高い光沢を持つ目にも鮮やかな青い原色の手袋――冴えないロングコートのポケットから、青年はその一対を取り出した。新緑に焦がれ、芽吹きの季節を謳歌する森の日溜まりで、その象徴的な青は周りの事物より浮き出して見える。
 大陸の東に浮かぶ魅惑のシャムル島では海流の影響であまり雪も降らず、幾つもの土筆(つくし)の子は日ごとに伸び上がって土の中から顔を出し、抜きつ抜かれつの背比べを続ける。

 二十代前半くらいの痩せ気味の青年は、見かけに無頓着なのか髪の整え方が中途半端で、寝癖が少し残っている。彼を特徴づけるのは使い古してフレームが微妙に曲がった眼鏡と、その奥に瞬く漆黒の双眸から発せられる柔らかな視線だった。
 彼の名はテッテ。気難しい発明家のカーダ老博士に雇われた四千人目の助手として、丘の一軒家での研究活動を支える。

 先ほどの青い手袋を五本の指の先までしっかりとはめ、手首まで隠れたのを確認してから、テッテはそれを回したり振ったりした。光を受けて鈍い輝きを秘め、夢幻の生き物を思わせる。

 その様子を真剣に眺めているのは、テッテの年齢の半分にも満たない二人の少女であった。活発そうに目を見開いて旺盛な好奇心を露わにしたポニーテールの似合う黄金色の髪の女の子は、学舎に通う八歳のジーナだ。背丈は低いけれども溢れるばかりの元気がみなぎり、運動が得意で手先も器用である。
 もう一人は彼女の同級生で、後ろから少しこわごわと眺めている。ジーナよりも若干背は高く、夢見るような瞳と柔和な口元が印象的な、銀の髪を肩の辺りで切り揃えた九歳のリュアだ。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 テッテは何もない場所に青い両手を伸ばすと、にわかに綱を握るような仕草をし、空気を掴んだ。それから桶で洗い終わった雑巾を絞る時を彷彿とさせる動作をし、渾身の力を注いでゆく。
「ヴヴヴッ」
 こめかみに青筋を立て、歯を食いしばり、握力が人より劣るテッテは〈見えない布〉を絞りに絞った。酔っているのかと疑いたくなるほどの赤ら顔になった頃、ようやく周囲に変化が生じる。

 風景がきしみ――まるで曲面鏡のごとくに歪んだのである。
 そして、ほんの少しずつ透明のしずくが丸く膨らんだかと思うと、突然続けざまに二、三滴こぼれ、足下の草の葉に弾けた。
「あたしもやらせて、お兄さん!」
 勢い良く駆け寄ったのはジーナだった。テッテが一気に力を抜くと、ねじ曲がった空間は何事もなかったかのように戻った。
「すごいなぁ」
 リュアの方はテッテの青い手袋を見据えたまま呆然と立ち尽くし、今しがたの信じられぬ展開を夢見心地に回想している。
「ふわぁ、ふわぁ……」
 激しい心臓の鼓動を感じたテッテは、間もなく膝に手をついて重心を前に落とし、肩を上下させて深い呼吸を繰り返した。普段の運動不足がたたったのか、額と背中にうっすら汗をかき、しばらくはジーナの願いに言葉を返す余裕さえなかった。熱気で蒸れる前に手袋を引っ張って脱ぎ、コートのポケットにしまう。

「天空の力を帯びる風にも、実は水が含まれているんです」
 やがて呼吸を整え、上体を起こしながらテッテは語った。
「この〈水絞り手袋〉も悪くありませんが、かなり疲れます。ジーナさんとリュアさんには、こちらの方が良いかも知れませんね」
 彼が次に取り出したのは数本の麦わらで、色はやはり青だ。
 
 
(二)

「これ、星吹きストロー?」
 テッテの顔と、彼の差し出した掌に横たわっている青い麦わらとを交互に見つめ、ジーナは心から興味津々そうに訊ねた。
「ジーナちゃん。この前のとは、ちょっと色が違うみたい……」
 その後ろから少しだけ顔を覗かせ、リュアが呼びかける。
「確かに青っぽいかな」

 相手の掌に収まりきらない一本の長い麦わらに目星をつけて精いっぱい腕を伸ばし、ジーナはつまむように持ち上げた。指先に触れる独特の感覚を確かめつつ自分の方に引き寄せる。
 片目をつぶって正面から眺めると、向こう側の景色が切り取られて小さな丸い世界に閉じ込められていた。普通の麦わらに比べると、若干内側の空洞は広いようだ。グラスの冷たい飲み物に浸せば、ふやけるまでの間、ストロー代わりに使えるだろう。
 それから目元に近づけ、角度を変えて凝視し、匂いをかいでみる。他方、リュアは麦わらに魅せられて無意識のうちに一歩を踏み出した。テッテだけが一人、口元をほころばせている。

「これは何だと思いますか?」
 落ち着いた声で、博士の助手は二人連れの賓客に尋ねた。決して得意がったりせず、淡々と語るのが彼の持ち味である。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 少女たちはかつて〈星吹きストロー〉と名付けられた空色の素敵な麦わらをテッテからもらったことがある。しかし深い青の種類は初めてだった。それはデリシ町の波止場からルデリア世界の隅々にまで繋がってゆく、大海峡の波の色を思い出させる。

 二人はそれぞれの考えに沈み込んだが、埒があかないと判断すると互いに駆け寄って耳打ちし、軽く意見交換を始めた。

 まずはジーナがリュアの耳元で囁く。
「あれ、ゼッタイに〈星吹きストロー〉の仲間だよ!」
「そうだね。リュアもそう思う」
「でも、何ができるんだろう? 青い星を作れるのかな?」
「あの色にヒントがあると思うけれど……氷水の力だと思うの」
「どういう意味?」
「ジーナちゃん、覚えてる? この前の〈星吹きストロー〉は〈天空畑〉で採れたよね、きれいな水色で。今度は青だから……」
「そうか! 学舎で習ったっけ。水色は天空、青は氷水って」

 テッテは聞き耳を立てず、むろん口を挟むこともない。穏やかな表情を保ち、二人の相談の様子を遠巻きに見守っている。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 しばらくするとジーナは残念そうに手を挙げて、叫んだ。
「もう降参! わかんないよ。テッテお兄さん、教えて!」
「それでは種明かしをしましょうか。はい、リュアさん」
 麦わらを持っていないリュアに一本見繕って渡すと、少女はふいに表情を緩めて、純粋な感謝の気持ちを言葉に乗せた。
「ありがとう」
「のちほど、森の神様にたっぷりお礼を伝えて下さいね」
 テッテが恥ずかしそうに首を振ると、小さな訪問者は顔と顔を見交わして微笑み、息の合った親友らしく同時にうなずいた。
『うん!』
 
 
(三)

「これは風の中から水だけを吸い取る道具です」
 テッテは冷静さを取り戻し、落ち着いた口調で切り出した。
「まあ、強いて名付けるならば〈風飲みストロー〉でしょうか」
「〈風飲みストロー〉か……」
 改めてジーナは海色の麦わらをもう一度見回した。指先を滑らせると気持ちが良く、何だか魔法にかかったような気分だ。

 テッテは数本の〈風飲みストロー〉を掲げ、補足説明する。
「風自体を飲むのではなく、微量の水を吸い上げる訳ですが」
 二人の少女が真剣に聞いているのを確認し、彼は続ける。
「さっきの、僕の〈風絞り〉をご覧になれば分かると思いますが、実のところ空気中に含まれている水分はほんの少しだけです。特に今日は分かりづらいでしょうね、とてもいい天気ですから」

「天気によって、変わるの?」
 ジーナが訊ねると、青年は待ってましたとばかりに応える。
「湿気が多い時は風も水膨れしています。雨が降り続いた日には風の中に見えない雫がたくさん含まれています。時間帯によっても違います。夕方よりも朝の方が空気は湿っていますよ」
「それは氷水の力が影響しているのかな?」
 黙っていたリュアが質問するとテッテは満足そうにうなずく。
「ええ。この前は天空畑をご案内しましたが、今回は氷水畑で収穫したものを持ってきました。だから色が青っぽいのです」

「ほらぁ、ジーナちゃん。リュアはいい線、行ってたと思うよ」
 リュアが珍しく自信を持って言うとジーナは適当に反応した。
「ふーん。まあね」
「さあどうぞ、やってみて下さい」
 試供品の出来映えに大きな期待を寄せ、テッテは促した。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 ジーナとリュアは〈風飲みストロー〉をくわえ、唇をすぼめる。それから瞳を閉じ、肺の奥深くまで思いきり息を吸い込んだ。狭い空洞から風が入り込み、心のすみずみまでを充たしてゆく。

 突然、唇の先端で僅かな水の感覚が湧いた。舌を動かして口の中の粘膜を湿らせ、思い切り飲み込むと喉が鳴る。冷えておらず生ぬるいが、無色の純粋な味わいは清らかで上品だ。

『おいしい!』
 またもや、ジーナとリュアの歓喜の声が重なったのだった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「その〈風飲みストロー〉という名前は、あまり良くありません。水分を持っているのは、風に限ったことではないのですから」
 テッテが話し出すと、思い思いに森の小径を歩き回って風の水を味わっていた二人の少女たちは立ち止まって耳を傾ける。
「これを使えば、例えば土の中にも、木の幹にも水が含まれていることが分かります。世界を成り立たせる七力の一つである〈水氷(ひょうすい)の力〉は、泉や池や沼や湖や川や海、雨や水たまりだけでなく……あちらこちらに存在していたのですよ」
 テッテは相変わらずの調子で淡々と語った。麗しき刻は砂時計の一粒一粒となり、決して留まることなく流れ去っていった。
 太陽が微妙に動くと森の中は驚くほど光の具合が変化し、枝の影は見たことのない文字を描いた。鳥たちの歌声は静けさの向こう側で夢のように響き、白い蝶は花の季節を予感させる。

「木にも?」
 ジーナは手近な木のごつごつした堅い幹をこぶしでノックし、もともとの好奇心をはち切れんばかりに膨らませて訊ねる。
 するとテッテは嬉しそうに相好を崩して即答したのだった。
「ええ。風のように濾過された水とは、少し違いますがね」
 
 
(四)

「木が持っている水とは、すなわち樹液です」
「樹液……」
 テッテの言葉を繰り返し、リュアは期待に胸をときめかす。
「ええ。例えば白樺の樹液が有名です。メラロール王国にはガルアノーザリアンと呼ばれる地域がありますが、そういう北国では雪解けの頃に白樺の樹に亀裂を入れるそうです。その季節だけ採れるので〈シオネス様の飲み物〉と呼ばれています」
 知識をひけらかすわけでもなく、ぱっとしない研究所の助手は淡々と続けた。ジーナは青玉(せいぎょく)よりも遙かに澄んだ薄い藍色の瞳を大きく広げて感心し、思わず一瞬だけつま先立ちした。夏の光で編んだポニーテールの尻尾が飛び跳ねる。
「お兄さんって、ほんっと何でも知ってるんだ!」
 言われた方は〈とんでもない〉という様子で強く首を振った。
「僕が知っているのは、僕がいかに知らないか、ということだけです。だから僕は勉強し続けます……たぶん、生涯をかけて」
 リュアはすっかり黙り込んでしまい、食後のお茶のようにテッテの言葉の余韻を味わっていた。本音を洩らすのはジーナだ。
「学舎の勉強さえ大変なのに、一生勉強なんて、やだなぁ」

 気持ちのいい微風が頬を撫で、テッテははっと我に返った。
「話が逸れましたね。このシャムル島でも、数はあまり多くないですが白樺の木は生息しています。少し歩いてみましょうか」
 その提案にジーナは頷いたものの、リュアは顔を曇らせる。
 テッテとジーナが動き始めても、彼女は一歩を踏み出すかどうか迷い、渋っている。心配して振り返り、青年は声をかけた。
「あんまり奥の方へ行くのは、リュア、ちょっと怖いな」
 視線を合わせず、銀の髪の少女は下を向いて申し訳なさそうに理由を説明した。テッテはゆっくりと、丁寧な口調で応える。
「大丈夫です。ほんのすぐそこですよ」
「……うん」
 リュアはちょっと考えてから、テッテのことを信頼して結論を出した。言葉を発した段階ではまだ不安そうだったけれど、決めてしまうとだいぶ楽になったようで、頬の緊張は徐々にゆるむ。それは道端の小さな白い花のつぼみが開いてゆくのに似て、他人の心を妙にほっとさせ、母性本能を喚起する部分があった。
 ジーナは親友の元に駆け寄って腕を伸ばし、指を絡ませ、手を取って握りしめた。こぶしの中の暖かさの素が共有される。
「行こ、リュア」
「うん!」
 リュアは明るさを取り戻して言った。テッテは微笑んでいる。

「それでは参りましょうか」
 先に立って案内をする青年の背中を追い、手をつないだ二人の少女がついてゆく。早春の午後はだいぶ涼しくなっていた。
 
 
(五)

 少し行った先の分岐を脇に入れば、とたんに道幅は狭まる。光は割と射し込んでくるのだが、そのぶん丈の長い草が両側から腕を伸ばしている。テッテは大人の男性にしては痩せているから平気だが、太ったおばさんならば厳しいだろう――そのくらいの幅だ。ジーナとリュアには何ら問題はなく、むしろ彼女たちにとっては足元を這う木の根やでこぼこの方が危険だった。
 さすがに手をつなぐのは諦めて縦に並ぶ。ジーナがテッテの背中を追い、後ろからリュアがついてくる。道はしだいに下りとなり、辺りは少しだけ薄暗くなって再び森の中へ続いている。

「あっ!」
 リュアが驚きの声をあげると、ちょこまかと幹を駆け降りてきた尻尾の長い縞模様の親リスは警戒し、再び軽々と登ってゆく。
「何もしないよー」
 ジーナが呼びかけても後の祭りで、遙かな梢に小さな茶色の顔があった。木の枝で編み、樹皮を敷いた立派な巣も見える。
「行っちゃったよ、ジーナちゃん」
「野生の動物は警戒心が強いですからね」
 リュアとテッテの言葉にジーナは口を尖らせ、巣を仰いだ。
「つまんないの」

 勾配は緩やかになって左右の草の壁も消え、道幅は広くなった。少女たちを気遣ってゆっくり歩いていたテッテはそこで立ち止まり、急に振り向いたので、ジーナは勢い余ってぶつかりそうになる。あまり運動の得意でないリュアの息は弾んでいた。

「さあ、着きましたよ」
 テッテは右手を掲げ、その一帯を指し示した。ひときわ目立つ白っぽい幹に灰色の傷が幾筋も刻まれ、風格が漂っている。
 
 
(六)

「森の贈り物、白樺の樹液をどうぞ」
「わぁい!」
 ジーナは飛び上がって喜び、さっそく〈風飲みストロー〉を取り出した。風に含まれる微量の水分だけでなく、木の幹から樹液を吸い込める、氷水の魔力を帯びた不思議な麦わらである。
 彼女はさっそく手近な樹の幹に飛びついた。地味な茶色の木々に比べ、肌が清楚な白をしていることに改めて感動する。
「あ、その前に、白樺の樹にお願いしてくださいね」
 テッテが補足すると、ジーナは悪戯っぽい笑顔を返した。
「いただきまーす、って?」
「そうですね……まあ、気持ちが伝われば大丈夫ですよ」
 テッテが困ったように言うと、ジーナも少し真面目になる。
「うん」

 ジーナは瞳を閉じ、手を組んで祈りを捧げる。しかしリュアの方は決心がつかず、白樺とジーナとを交互に見つめていた。
「リュアさん、どうしましたか?」
 テッテが訊ねると、リュアは視線を下げ、小さな声で言う。
「でも、ほんとに飲んじゃっても平気なのかなぁ?」
「?」
 大人の考えで判断したテッテには何が何だか分からない。しかし、すぐに子供のころの気持ちを思い起こして問いかける。
「もしかして、樹が可哀想……ってことでしょうか?」
 こういう所を決しておそろかにしないのはテッテの長所であった。子供の考えを馬鹿にせず、なるべく同じ位置に立って受け答えをしようとする。誰しも、かつては子供時代があったのだ。
「うん。だって、せっかくの樹液なのに」
 リュアの台詞に、聖なる祈りの途中であったジーナは顔を上げ、不思議そうに親友を見つめた。テッテは淀みなく微笑む。
「大丈夫ですよ」
 まずは最初の一言で相手の気持ちを和らげ、説明を続ける。
「確かに樹液は人間で言うと血のようなものですが、ここに生えている白樺の樹はとても大きいですし、実はまだ若いのです。リュアさんに樹液を分け与えても、全く影響はないのですよ」
「そうなんだ……」
 リュアは瞳を潤ませ、偉大な白樺の樹を見上げるのだった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「んー」
 一歩先をゆくジーナは樹液を吸うのに苦心している。麦わらの先を樹の幹に当て、大きく息を吸い込んでも、口に入るのは森の空気だけだ。肺が充たされても、胃の方は決して膨れない。
「ふぁあぁ」
 一度、思いきり息を吐いて仕切り直しをする。

 にわかにジーナはさっと両腕を振り上げ、飛び跳ねる。
「わかった!」
 彼女は鋭く叫び、持ち前の器用さで麦わらの改造を始める。
 ――と言っても先端を幹に当てて押しつぶすだけなのだが。
「これで大丈夫!」
 先の潰れた麦わらを掲げ、ジーナは歯を見せて相好を崩す。

「こう……かな?」
 リュアの方はジーナの見よう見まねで〈風飲みストロー〉をいじった。その手つきはおっかなびっくりで、今にも壊しそうだ。
 青年は一歩引いて腕組みし、少女の想像力に任せている。

 準備が整ったジーナは麦わらの先を指でつかみ、白樺の幹へ押しつけた。そして反対側の出口に柔らかな唇を近づける。
(こんなんで、本当に樹液を飲めるのかな)
 期待と不安が入り混じりつつ高揚していくのを感じながら。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 ジーナは唇をすぼめ、今度こそは――と息を吸い込む。
 口の先につながる細い管から、爽やかな空気が入ってくる。
(ダメで元々!)
 一向に水の感触は生まれない。ただひたすら風が虚しく通り過ぎるだけだ。それでもジーナは諦めず、口先に力を込める。
(おいで、おいで、上がっておいで……)
「ジーナちゃん?」
 リュアが訊ねた、まさにその時であった。

 何だか分からないものが麦わらを通じて、唇に到達する。
 乾いていた口の中に、わずかではあるが新鮮な水分が広がってゆく。その流れは一瞬では終わらず、どんどん溢れてくる。
 舌を湿らせ、喉に潤いをもたらし――。

 ついに味覚が反応する。
「んっ、美味しい!」
 ジーナはぱっと顔を上げ、驚きの表情で叫んだ。
 彼女の〈風飲みストロー〉にはほとんど透明に近い白色を帯びた樹液が流れている。それを見ていたリュアは静かな祈りを終え、さっそく親友を真似て別の白樺に自分の麦わらを当てる。
 そして息を吸い込んだ。

「あっ!」
 反応はすぐにあった。発酵乳を大量の水で割ったような、ほんのり甘く爽やかで癖のない味わいが口の奥に広がってゆく。
「すごく自然な感じ……」
 感慨深くリュアが呟き、ジーナも自らの言葉で感想を洩らす。
「こんな美味しい樹液を持ってるなんて、白樺ってすごいね!」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「そうですね、白樺は素敵な樹液を隠しています」
 テッテはゆっくりと瞳を閉じ、瞑想するように秘かな口調で語り始めた。通り過ぎる風は昼の終わりがそう遠くないことを無言のうちに知らせてくれる。少女らは手を休め――掌には不思議な麦わらの青が付着していた――助手の言葉に耳を傾ける。
 深い事象をなるべく平易に説明すべくテッテは言葉を選ぶ。
「天空の力を持つ風の中にも、草木の力を持つ樹の中にも水がありました。氷水の力は、水の中だけに留まらないのですね」
「うん」
 ジーナが相づちを打つ。リュアは黙ってうなずいた。

 梢の間から射し込む陽の光を受けて目を細めたテッテは、心の中のもやもやが浄化されて透明になってゆく過程を強烈に感じていた。やがて決心する――これまで自分の胸にだけ秘めていた一つの考えを伝えよう、と。ジーナとリュアならば真剣に聞いてもらえるのではないか、と。持論の押しつけでもなく、教え諭すわけでもない。あくまでも対等な立場で聞いてもらうのだ。
 
 
(七)

 テッテは軽く深呼吸してから、穏やかな気持ちで言った。
「七力について色々と研究してきましたけど、研究すればするほど〈七力では割り切れない事柄〉が多く見つかるのですよ」
「さっきの、白樺の樹液も……」
 ジーナは何か言いかけたが、突然に口をつぐんでしまった。相手の話に割り込んではいけない、という彼女なりの配慮だ。

 テッテはその辺りのことを察して、にこやかに笑いかける。
「ええ。水は樹の中に、風の中に。そして大地の中にも」
「大地の、中?」
 微かに呟いたリュアは、その意味を理解すると息を飲んだ。秘密の宝物がじょじょに明らかになるような驚きに充ちた感情を露わにして、瞬きする。ジーナも顔を上げて青年を見上げた。
「どういうこと?」

「例えば雨が降っても洪水にならないのは、こんな風に説明できます――大地の精霊たちが雨水を飲んでくれるからです」
「あたし知ってる! 落ち葉の中って湿ってるんだよ」
 もはや沈黙し続けることに耐えられなくなり、ジーナは持ち前の活発さを解放して勢い良く喋った。他方、テッテは両手を口元に当てて二枚の花びらのように開き、子供みたいな悪戯(いたずら)っぽい微笑みで、誰も知らない夢幻の逸話を物語る。
「ただ、あまりの大雨になると、無理ですけどね」
「そりゃあ、そんなにいっぺんに飲み込めないよー」
 ジーナは大地の精霊に成り代わり、照れ笑いをしつつ頭をかいた。その様子が面白くて、リュアもテッテも思わず吹き出す。

 しばしの間、三人は森の静寂を邪魔しない程度の声をあげ、楽しさの渦のまっただ中を縦横無尽に浮遊した。それは近づいている別れを惜しむかのように、長きに渡って続くのだった。

 それもしだいに収まってゆく。遠くの方から流れ来るのは家路をたどり始めた鳥の啼き声だ。テッテはしんみりと述懐する。
「水だけではありません。土の中にも細かい風はあり、風の中にも細かい土のかけらが混じっている、そんな気がします。見ようと思っても見られませんし、僕の独りよがりの考えかも知れませんが、そう思うんですよ……そう感じて仕方がないのです」
「うまく言えないけど……あたし、分かる気がする」
 夕陽を背中に受けて、ジーナはぽつりと呟いた。
「リュアも」
 もう一人の少女も丁寧な仕草でうなずく。その右手の温もりの中で、樹液を吸った青い麦わらはふやけ、役目を終えていた。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 木々の新芽をなでる風は少し肌寒く、昼間が刻々と冷めていくことを秘やかに伝える。優雅な薄紅に染まって、綿雲は漂う。

「風の雫、樹液、大地の水。彼らは無言ですが、実に雄弁――おしゃべりです。全ては関わり合っている、ということの何よりの証拠であるような気がします。僕は、それもけっこう面白いかなと思うんですよ。私の雇い主であるカーダ博士はがっかりすると思いますが――七力をずっと研究してきた方ですからね」

 三人は森の出口で分かれた。草原の菜の花にはつぼみが生まれ、匂い立つ輝きの時を今か今かと待ち構えている。希望の女神アルミスの季節も、手が届くところにまで近づいている。

「じゃーねー!」「また遊びに行くね」
「それでは」

 坂を下ってゆく二人の少女たちと、それを見送る青年とは、お互いが小さな黒いシルエットになるまで手を振り続けていた。

(了)



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