お姫さま談義

 〜森大陸(しんたいりく)ルデリア・幻想結晶〜

 

秋月 涼 


(一)

 南国の街を春の強い風が駆け抜けてゆく。気温は既にして高く、汗ばむくらいの陽気であるが、風が吹くのでしのぎやすい。

ララシャ王女って、あんなにおしとやかな感じじゃないよね」
 商人を目指して修行中の十八歳、ウピ・ナタリアルは顔をしかめ、並んで歩いている二人の親友――同級生のルヴィルレイナ――にしか聞こえないくらいの小声で、うろんそうに言った。

 白い石をふんだんに使って造られた広くて開放的な風通しの良いミザリア市立図書館の待合室で、三人は約束した。レイナが来るのを待っている間、ウピとルヴィルは入口の近くに展示してある大きな銀の額縁に飾られた王家の肖像画を見つけた。

 そこには王家の核となる人物たちが描かれていた。
 整えられた白い髭を生やし、地面に付きそうなほど長く分厚い立派なマントを羽織って中央に立っている背の低い威厳のある人物は、ミザリア国を統べる六十二歳のカルム国王である。国王の頭には金色(こんじき)の王冠が、誇らしげに輝いている。
 国王の横では、銀色の長い髪を滑らかに垂らし、灰色に似た濃い水色をした品のあるドレスを着用し、身体を斜めに向けて優しく微笑んでいる五十三歳のミネアリス王妃の姿があった。頭には、ドレスと同じ色の立派な羽つき帽子をかぶっている。
 王妃のさらに隣には世継ぎのレゼル王子が、白に近い灰色を基調とした上着とスラックス、薄い絹製のタイツ、そして黒い靴を履いていた。十七歳の王子は金の髪がまばゆく光り、深い海の瞳は知的である。表情は勇敢さを示し、引き締まっている。

 ところでレゼル王子と正反対、カルム国王の隣に立っている十五歳のララシャ王女は、長い髪を美しく結い上げて白っぽいドレスに身をつつみ、前で両手を組み、限りなく淑やかに――。
 一言で云えば純情可憐であった。
 
 
(二)

「あれって、ぜったい偽物だよ。ね、レイナ?」
 十八歳にしては背の低いウピは、ミザリア市の〈夢見通り〉を歩きながら横のレイナに問いかけた。さきほどの市立図書館を手始めに、絵画の常設展示場や専属の音楽家を雇った南国緑茶の草団子屋、独特な演劇場など芸術関係の建物が多い。
 銀の髪を丁寧に梳(くしけず)り、眼鏡をかけた真面目そのもののレイナは、優等生らしく王家の肖像画を分析してみせる。
「髪の毛の色やお肌の質感や、背の高さはそのままに見受けられますが、御印象……雰囲気はだいぶ異なるようですね」
「そーだよねぇ」
 ウピは腕組みし、もっともだと大きく頷いてみせる。
「なんだよー。あたしも会いたかったさ。おてんば王女様にね」
 ルヴィルは豊かな胸を張り出し、両手を腰に当てて不服そうにつぶやいた。漁の手伝いをして朝の海辺でわかめを獲ったり、魚網から貝殻を拾ったりする仕事を生業としている彼女はわざと少しボロくさい服を着ていたが、それもファッションの一つと思えるほど、彼女はセンスの良さを感じさせる人物である。

 彼女たち三人組は学院魔術科時代の親友である。性格はかなり異なるし、卒業後の道も違えど、未だに腐れ縁が続いている。それぞれの良さを認め合える、貴重で素晴らしい仲間だ。
 その中でウピとレイナは、過日、ララシャ王女と会ったのだった。王女が王家の居城を飛び出し、町中に潜んでいたからだ。

「絶対違う。会ったから分かるよ。あれは真っ赤な嘘……」
 言論の自由はある程度認められているミザリア国とはいえ、信頼する王家を愚弄する可能性のある言葉は愛国者のウピには辛いようで――けれど真実を曲げることも出来ず、普段は元気が全面に出ている彼女の声はしだいに小さくなっていった。

 ルヴィルは機転を利かせて、話題を別な方に振る。
「他の国の王女様はどうなんだろね?」
 姉御肌のルヴィルは三人の中でもリーダー格である。
「お姿の絵やお噂でしか拝顔することは出来ませんが……」
 ウピが考え込んでいたので、控えめなレイナが意見を言う。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 ルデリア世界には長く平和な時代が続いたため、若くて勇猛な王子というのは、あまり多くないのが現状である。ことに大きな国では魔法の導入により支配層の死亡率が急激に低下し、妾制度への抵抗感もあって全体的に少子化の傾向がある。
 現在の各国の支配層は野心が少なく、現状維持を旗印とした者が大部分である。王位継承権者にも割と穏和な人物が多く、悪く言えば面白味に欠ける。ミザリア国のレゼル王子、シャムル公国のクロフ公子、ガルア公国のリグルス公子然りである。
 現代の梟雄は南ルデリア共和国のズィートスン氏であろう。

 さて、男性の支配層に比べると、いわゆる〈姫〉の方は個性に富んでおり、華麗さもあるので人々の注目の的になっている。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

シルリナ王女はたぶん可愛いよね」
 ルヴィルが人差し指を空に向けて言うと、レイナは同意する。
「ええ。お噂でしか想像できませんが清楚な印象を受けます」
「さぞかしララシャ王女が、ライバル心を燃やして怒りそう」
 ウピも話に乗ってきた。再び強い春風が町中を吹き抜ける。
 
 
(三)

「なんてったって、メラロールの王女様だもんね」
 大げさに手を広げ、ルヴィルはあっけらかんとした調子で言った。他国の王女を褒める言葉に、怪訝そうな様子で通行人の老人が振り向いたが、申し訳なさそうに頭を下げたのはウピとレイナの方で、発言した張本人はあくまでも気にしていない。
「やばいよ、ルヴィルぅ」
 小声でつぶやくウピに、ルヴィルは片手を軽く振ってみせる。
「大丈夫っしょ。別にミザリア王家をけなしてる訳じゃないしさ」
「それはそうですが……」
 ララシャ王女に会ったぶん親近感が増したのか、残念そうに視線を落とすレイナを見ると、さすがのルヴィルも頭をかいた。
「ごめん、気を付けるわ」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 北の大国メラロールを統べるラディアベルク家は、この世界の中でも随一の伝統を誇る名家である。現国王クライク・ラディアベルクの大事な一人娘が、十八歳になったシルリナ王女だ。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「とにかく綺麗な人、って話だよね。可愛いより美人系らしい」
 狭い路地裏を抜けて近道し、やや人通りの少ない通りに出てから、ウピは気を取り直してシルリナ王女の話題を再開した。
「そうさね。外乗りの船の男たちも言ってたよ」
 漁師の手伝いを生業とするルヴィルもすかさず同意した。

 外国の情報などというものは、そう簡単に入ってくるものでもない。基本的に庶民の情報は口コミが主流であるルデリア世界に於いては、興味深い話を伝える流れ者たち――花粉を運ぶ蜜蜂のような存在――は各地で優遇されることが多い。冒険者しかり、旅行者しかり、吟遊詩人、傭兵、早馬乗りしかりだ。
 そこが港町であれば、最も身近な情報通は外国からの船乗りであろう。そして大陸と島、海と山とを股にかける商人たちだ。
 いつしか〈航路の始まり〉と呼ばれるに至り、たくさんの積み荷と海の男たち、貿易船で賑わうミザリア市も例外ではない。

「風になびく優しい茶色の御髪(おぐし)……憧れるよねー」
 ウピは想像力を膨らませ、決して一生まみえることの無いであろう異国の王女を頭の中に描いた。抜けるように白い肌は天に住まう羽の生えた妖精を彷彿とさせ、深く知的な輝きを湛えた双眸は静寂の湖のように澄んでいることだろう。洗練された絹のドレスにはレースが舞い、王女の清らかで麗しき笑顔と落ち着いた響きのある声は、多くの臣民を虜にしているはずだ。

「どうやら文学や歴史のお好きな方のようですね」
 レイナは街の読み売りから得た情報の一端を披露する。
「ますますララシャ王女とは正反対よねぇ」
 バツが悪そうに困った顔をして応えたのはルヴィルだ。

 わずかの時間ののちに――。
「……ララシャ様だって、いいとこあるんだから」
 口を尖らし、馴染みのおてんば姫を擁護するウピだった。
 
 
(四)

 ウピを不憫に思った――わけではないが、ルヴィルは歩きながら右手の拳をあごに乗せて、あっさりと話題を切り替えた。
「そういや、あの人……誰だっけ? 名前、ど忘れした」
「誰のこと?」
 友人のルヴィルよりも頭一つ分低いウピは、少しくすんだ色合いの金の前髪を揺らし、うろんそうに目を細めて相手を仰ぎ見た。ララシャを悪く言われたことが、未だ納得いかないようだ。
 ルヴィルは遠い記憶の隅を探ろうとして首をかしげたが、すぐには分かりそうにないと即断即決し、視線をレイナに向けた。
「あのさぁ、シルリナ王女の従姉妹か何かで、確か同い年よ」
「エトワゼル侯女……? ではないですよね?」
 問いかけられた眼鏡の少女は半信半疑の口調で応えた。いかに博識のレイナでも、外国の姫はさすがに専門外なのだ。彼女の知識は町の読み売りや図書館の資料など、いわゆる〈文献〉を元にしている。シルリナ王女などの重要人物であれば情報も入りやすいが、さすがに大貴族程度になると限界である。
「あの、何だっけ。ガルア公国だよ?」
 じれったそうに付け加えたルヴィルの一言が、レイナの表情をぱっと明るく変えた。彼女はおもむろに顔を上げ、返事をする。
「もしかして、レリザ公女でしょうか?」
 確かにレリザ公女はシルリナ王女の従姉妹に当たる人物であるが、むしろガルア公国第一公女として名を知られている。
「それそれ! さぁーっすがレイナ!」
 ルヴィルは指を鳴らして喝采したが、レイナの方は再び冷静な表情に戻り、しばらくは自らの考えに深く沈み込んでしまう。

「レリザ公女は、なんかバカっぽいよねぇ」
 突如、毒舌のルヴィルは身もフタもないことを言ってのけた。
「ぷっ」
 思わず吹き出したのは、珍しく沈黙しがちだったウピである。
 
 
(五)

 王侯貴族がどのような政治的業績を残したか、などという地味で真面目腐った話題は、知識層でもないごく普通の民衆にとってそれほど関心が高いとは言えない。自国の支配者ならまだしも、特に他国の貴族の場合はなおさらである。そういう情報には〈噂を運ぶ蜜蜂〉と呼ばれる船乗りや旅人や冒険者もあまり飛びつかないため、広がりに乏しい。結果として、具体的な挿話を伴わず、各人の総合的な印象だけが先行する形となる。
 しかしながら、その逆――たとえば、どの王族が結婚したとか、世継ぎの子供は何人いるとか、どの公爵が武勇を誇っているのか、貴族の剣術大会では誰々が優勝した、賢く政治力のある王族の名、自国を脅かす野望の持ち主、美しい姫に太めの王女、凛々しい王子、家督争い――民衆の興味を惹くような話題は、いかに他国の事情であっても自然と浸透してゆく。何でもかんでもというわけではなく、おのずと限界はあるのだが。

レリザ公女って、かなり変わってるみたいだよ」
 もともと穏やかで前向きな性格のウピは一気に明るさを取り戻した。ルヴィルは〈上手くいったわな〉と、レイナに軽く目配せする。レイナはウピに気付かれぬよう、視線だけで返事をした。
「変わってるっていうか、単にバカっぽいし」
 やがてルヴィルは何食わぬ顔のまま、相変わらずの単純明快な口調で、遙か遠い国の同い年の公女をバッサリと切り捨てた。もしも本人のレリザ嬢がこの場に居合わせたとしたら、自らの話題が遠く離れた南の国で噂になっていることに仰天し、歯に衣を着せぬ物言いには開いた口がふさがらなかっただろう。

 ゴシップネタや名高い騎士の活躍などは、いくらか誇張されて広がってゆくのが世の常である。レリザ公女の性格は、確かに多少は世間からズレていることは否めなかったものの、伝播するうちに尾ひれが付き、とんでもない人物へ仕立てられた。
「新年の談話は有名よねー」
 ルヴィルは得意そうに言った。レイナは無表情で補足する。
「今年も美味しい魚がたくさん摂れればいい……でしたっけ」
「そんなん、あたいみたいな漁師と何も変わらないわよねぇ」
 今さら笑うよりも、ルヴィルはむしろ呆れた様子で言い、歩きながら大げさに天を仰いで息を吐き出す。そんな公女が自分の国の支配者でなくて良かった、という気持ちがありありだった。

「あたし、もしかしたら、レリザ公女なら仲良くできるかも」
 おもむろにウピが呟くと、ルヴィルは素っ頓狂な声をあげる。
「えー? あんたララシャ王女のファンじゃなかったっけ?」
 
 
(六)

「頼むよ、な、もう一声!」
「うーん。そう言われても、正直、粗利ギリギリだしなぁ」
「俺がどんだけ、あんたの店に貢献したか分かるだろ。な?」
「……良し、分かった。じゃ、これをおまけで、こんでどうだ?」
「よっしゃ、買った!」
「よォーし! しめて五ガイト五〇レックだ」

 いつしか〈夢見通り〉にも行き交う人が増え、ついには〈港大通り〉に合流する。ざわめきと貨幣の音、威勢のいい声、値引き交渉が華やかだ。香辛料貿易を中心に潤うミザリア市の活況を目に見える形で伝えている。島国なので全体的に道はあまり広くなく、熱を避けるため白っぽい砂利が多く用いられている。

「あたしは、クリス公女となら仲良くできるかもなー」
 頭の後ろで両手を組み、ルヴィルはけろっとした顔で言った。安物ではあるが開放的な、丈の短い民俗風のスカートの裾が風にはためく。色も明るく、センスの良い彼女に似合っている。
「海が好きで、船に乗るって話だし。あたしとは気が合うはず」

 さすがにもう人が多いので、いかな怖いもの知らずのルヴィルといえども、カルム王やミネアリス王妃、レゼル王子、ララシャ王女を始めとするミザリア王家の悪口を言うことはない。もともと彼女だって自分の国の王家を信頼しているし、尊敬の対象でもある。いつしか際どい冗談はなりを潜め、意外と常識的な彼女は、せいぜい他の国の姫を褒める程度にしておくのだった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 さっぱりとした性格の健康的美人であるシャムル公国のクリス公女は、シャムル公国だけでなく世界中に名の広まっている姫の一人である。常識を重んじ、かといって固定観念に囚われぬ新しい女性像は、若者の支持を集めている。彼女の前では、次代シャムル公爵が確定しているクロフ公子は霞んでしまう。
 当然ながらメラロール王国のシルリナ王女と異なる方向性の美しさをクリス公女は誇る。シルリナ王女が知的で清楚な印象だとすれば、クリス姫は活発さと健やかさと華麗とを体現する。
 ミザリアのララシャ王女に似た無軌道のワガママもなく、それでいて身体は敏捷、手先は器用だ。やや八方美人的な印象は否めぬが、貴族の枠の中で叶えられる最大限の自由――航海や旅を基礎とする人と自然との触れ合い――を心から愛する。
 
 
(七)

 道幅が広がり、南国の乾いた春の日差しは頭の上から照りつける。心地よい潮風が吹いているので、灼熱の真夏に比べれば過ごしやすい。いつしか〈港大通り〉には、何頭もの馬やロバを連ねた貨物車が目立つようになっている。香辛料を積み込んだ覆い付きの貨車が、左右に揺れながら石造りの道を行く。
 場所によっては白い砂浜をかすめる〈港大通り〉だが、この辺りは遊べる海岸が少なく、ミザリア国を支える大港湾地区となっている。波止場には数え切れないほどの大きな貿易船や、イラッサ町やモニモニ町への定期旅客船、小さな漁船までがひしめくように停泊し、特に出航や寄港の船は、あたかも地上に降りてきた雲のごとき真っ白な帆を堂々と誇らしげに張っている。

「うーん、そうだよね」
 穏やかな声を発し、うなずきながら言ったのはウピだ。三人の中では最も背が低く、少し見上げるような眼差しになっている。
「クリス公女の悪い噂って、あんまり聞いたことないかもねぇ」
「でしょ? たぶんいい人だよ」
 会ったことはなく、今後も会える予定は全くない遠国の姫を、ルヴィルは同じ町内に住む有名人のような気軽さで説明した。

 遠くから砂塵の飛び交う横暴な和音がしたかと思うと、にわかに強い風が大通りを駆け抜けた。粒の細かい砂埃が混沌を呼び、思わず三人は手で顔を覆って立ち止まる。くすんだ陽の色の長くもないウピの髪、月の染料で染めたようなレイナの銀の髪、後ろに垂らしたルヴィルの豊かな金髪がそれぞれに踊る。
「ひゃ!」「……っ」「うわ!」
 辺りに漂う潮の香はますます強くなっている――といっても、熱海(ねっかい)に囲まれ、数多の島々より成立するミザリア国の民にしてみれば、潮風こそが風であり、潮の匂いを帯びた空気こそが常の空気である。特にミザリアの本島で吹く強い潮風を、親しみと畏怖を込め、人は〈海の鼻息〉などと呼んでいる。
 そして海は巨大な森だ。命を生み、育て、逆に奪うことさえある。便利で自由な街道でもあり、死と隣り合わせの危険な孤独の領域でもある。最も普及したラニモス教の中で、本来はあまり位置づけの高くない〈海神アゾマール〉の信仰は、この国や、さらに南に位置する〈絶海の楽園〉フォーニア国で最も盛んだ。

「私なら……」
 大海原の欠伸だか鼻息だかが落ち着き、三人の女性が歩き出した時、ふと話の端緒を開いたのは優等生のレイナだった。
「もしもお会いできるのでしたら……ということを、想像力を駆使して考えるのが前提ですが、マホジール帝国のリリア皇女とならば、近しくお付き合いさせて頂けるのではないかと思います」
 
 
(八)

「えー? リリア皇女ぉ? あの暗そうな?」
 甲高い驚き声を発し、レイナを見下ろしたのは三人の中で一番背の高いルヴィルだった。それを聞いたレイナは刹那、不満そうに相手を仰いだが、すぐに諦めたように瞳を伏せてしまう。
 日が陰ったかのように場の雰囲気が重くなり、乾いた潮風さえ身体にまとわりつく感じがした。ルヴィルは素早く瞬きし、両手を広げて呆れたように首をすくめる。レイナは依然として黙ったままだ。港の方から流れてきた船出の笛の音が微かに聞こえ、荷馬車の車輪のきしみは急に大きくなったように感じた。

 こういう時、心の港から助け船を出すのはウピの役目だ。
「あのさ、きっとリリア皇女なら、レイナと仲良くできると思うよ」

 瀕死のマホジール帝国を立て直すために腐心しているリリア皇女は、十五歳にして憂いを秘めた深窓の姫君である――と噂されている。若くして聡明な点ではメラロール王国のシルリナ王女と並び称されるが、リリア皇女の方はどちらかというと控えめで、やや華やかさに欠けるように思われている。頽廃のマホジール帝国を改革しなければ滅びる――という彼女に染みついた悩みの奥行きが、その気高い魂を老いさせているのだろう。

 ルヴィルは知らんぷりを決め込み、首の後ろで腕組みして口を尖らせた。ウピは左右に素早く視線を走らせ、二人の友達の様子を見比べつつ、気難し屋のレイナに優しく言葉をかけた。
「リリア皇女とレイナなら、絶対性格も合うし、親友になれるよ」
 
 
(九)

 せっかくのウピの取りなしにも関わらず、完全に気分を害してしまったレイナは不満そうに唇をとがらせ、顔を半分だけ上げ、良く聞き取れない声でぶつぶつと、ひねくれた解釈を述べた。
「それは、私が暗い性格という意味でしょうか」
「いや、そういう意味じゃなくて……」
 ウピは困り果てて右手を振った。背中や首筋、額の辺りに冷たい汗をかきながら、何とか場の雰囲気を好転させるべく、夢中で考えを搾り出そうとする。人の好い彼女は、まずは自分よりも周りの友達が楽しんでいるか、常に気を配る性格である。

 その時だ。
「え?」
 見えない重圧のかかるその肩に、誰かがポンと手を置いた。

「悪かった。私が謝るわよ」
 ウピを斜め上から見下ろし、ルヴィルがあっさりとした口調で言った。はっと立ち止まったウピは、最初に興ざめた白け顔で黄金の髪を無造作に掻き上げるルヴィルを仰ぎ、翻ってその反対側で沈んでいる真面目で神経質な優等生に視線を送った。
 どのような言葉をかけるべきか、ウピが迷っているうち――。
「レイナ。ごめんなさい」
 ルヴィルは両手を前で組み、膝をちょっと曲げ、彼女なりの礼を尽くして謝った。早口で、あまり心のこもっていない軽い謝罪である。もともと勝ち気なルヴィルとして、納得が行っていないのは明らかだった。ぺろりと見せた舌が、その論を裏付ける。
 ウピはレイナがどんな風に感じたのか気が気ではなく、ルヴィルの悪態に目を白黒させていたが、健気にも何とか自分を奮い立たせた。この件をきれいさっぱり水に流すべく、うつむいて立ち止まっているレイナに向かい、出来るだけ明るく頼んでみる。
「さ、意地の張り合いは終わりにしよ。二人とも、握手ね!」

 彼女たちを避けて、三頭立ての中型の無蓋貨車が緩やかに曲がっていった。しばらくの間、車輪の擦れる音が辺りに響く。

 最も今の状況を気にしていたのは、間違いなく仲間思いのウピだった。その瞳は不安と哀しみに彩られ、胸は押しつぶされそうになり、呼吸までも苦しくなっている。商人見習い中の彼女にとり、相手の喜びはすなわち自分の喜びにつながってくる。
 逆に、円滑に行っていない人間関係は見るに耐えないし、何を置いても優先して打開すべき重要事項の筆頭に来るのだ。

 春の波音が再び微かに、夢の調べのように聞こえてくる。
 ルヴィルは黙って、日に焼けた長い右手を差し伸べる。

 次の瞬間、眼鏡の奥の双眸を決意に充ちて輝かせつつ、レイナがいよいよ顔をもたげ、あまり血色の良くない手を差し出す。
「はい、分かりました」
「や……った」
 それを見ていたウピは天にも昇る心地で、うっかりと冷静さを捨てて子供のように飛び跳ねたい衝動にかられた――が、辛くも現在の状態を思い返して自分をなだめる。それでも足の爪先を嬉しそうに上下させることまでは止めることが出来なかった。

 ルヴィルとレイナは歩み寄り、柔らかな風を受けて、そっと手を重ねた。白砂が再び舞い、波には模様が刻まれるのだった。
 
 
(十)

「でも、話が戻っちゃうけどさー」
 再び歩き出したとき、話の端緒を開いたのはルヴィルだった。昔から大きかった両手を後ろで組み合わせ、首だけを半分曲げて振り返る。さらりとこぼれた黄金色の長い髪は雲間からあふれる陽の光の糸を絡めつつ、朝の海原のように明るく輝いた。
 ところが彼女はその場でつま先立ちを繰り返し、次を話し出そうとしないので、ウピとレイナは歩みを休めて相づちを打った。
「うん」
「はい」

 二人が追いついたのを確かめてから、一番大人びたルヴィルは前を向いた。海での仕事のため、肌はうっすらと日焼けして健康そうだ。彼女は飄々とした顔つきのまま、学院魔術科時代から特徴的だった歯に衣着せぬ物言いで、けろりと洩らした。
「姫君の件だけどさ、リリア皇女が出てきて、これで国のお姫さま級の人は全部出揃っちゃったわね。あとは小物ばっかり?」

 いつしか三人は〈港大通り〉が貫く港湾地区を離れ、道幅は細いけれども趣味の良い、華やいだ商店が両側に並ぶ小ぎれいな坂道に差しかかっていた。要所要所に椰子の木が植えられて夏の日陰には事欠かず、貴族の寄付金によるベンチまで据えられている。白を基調に、黄や橙の模様の入った石畳は歳月に磨かれ、たまに子供たちがはしゃぎながら駆け下りて行った。坂道を登る途中で振り向けば、港や砂浜、そして深い碧に澄みきった透明度の高いミザリア海が広がる。くねくねと曲がりながら続いてゆく、この庶民の道は〈雲龍坂〉と呼ばれている。

 ミザリア市であれば、どこでも見受けられる海鮮ものの店も建ち並んでおり、潮の香りは相変わらず強い。だが、その中にはちらほらと若者向けの飲食店や洋品店、装飾屋の姿も増え始める。安くて良いものが売っていて、暮らしには適した地区だ。

 ウピはしばらく考えていたが、ひらめいて、ぽんと手を打つ。
「そうだ。向こう岸の、ティルミナ・クルズベルク嬢は?」

 ミザリア市の対岸にあり、ルデリア大陸の玄関として栄えるモニモニ町に上陸し――さらに街道を半島の付け根へ進めば、内陸のメポール町がある。かつてメポールを中心とし、マホジール帝国傘下のリンドライズ侯国が小さいながらも農漁業の豊かな版図を誇っていたが、数年前、南ルデリア共和国の発足に関わるズィートスン氏の暗躍と陰謀により、併合の憂き目を見た。旧支配層のクルズベルク家は南ルデリア共和国の評議会のメンバーに列せられたが、地元を追われた斜陽感は否めない。
 そのクルズベルク家の次女が十七歳のティルミナ嬢である。

「あんなの、国を失くした没落貴族じゃない」
 ルヴィルの回答は素っ気なく、一刀両断であった。元はと言えば自分から蒸し返したとはいえ、今となっては同じ話題に飽きていることが明らかだった。指でせわしなく裾の狭い長ズボン――彼女の脚の長さが際だつ――の腿の辺りを弾いている。
「まあね……」
 ウピは珍しく曖昧に応えた。さすがに歩きすぎた疲労感を覚え始めていた上、結構きつい登り坂で足はどんどん重くなる。
リース公国のリィナ公女は、どうでしょうか?」
 銀の前髪の間にきらりと汗の雫を光らせ、レイナが言った。
 
 
(十一)

「リィナ公女ねぇ……」
 ルヴィルは彼女なりに気を配り、レイナを傷つけぬよう言葉を濁したが、それでも声の失望感は明白だった。そういえばそんな人もいたな、とでも言いたげな顔で金の前髪を掻き上げる。
 ほぼ並んで歩きながら、じっと眼鏡の奥から見上げているレイナの視線を感じていたルヴィルは、リィナ公女に関する僅かな噂を頭の中で再編成し、何とか人格を作り上げようと考え込んだ。残念ながら、それでもあまりつかみ所のない人物である。
「真面目そうで、淑やかそうで、お姫さんっぽい人みたいね」
 ルヴィルは当たり障りのないことを応え、軽く吐息を洩らす。
 彼女の細かな変化に気づいたウピはすかさず話を受け取る。
「公爵になったら苦労しそうだよねー」

 先代のリース公爵の急逝後、二十一歳のリィナ公女は喪に服する形を取ったまま、爵位を継ごうとしていない。継ぐと言っても、結局は宗主国であるマホジール帝国の皇帝から与えられるわけだが、双方ともに目立った動きがないまま一年近くが過ぎようとしていた。政治を執り行う能力については評判が芳しくない。重臣の言いなりだったり、動転してオロオロしたり――という類の噂だ。土地が豊かで、重要な航路上にあるリース公国は南ルデリア共和国とメラロール王国に熱い視線を注がれており、過激な論客は先代公爵の急死との関連性を指摘する。

 主に中流階級の人々で華やぎ、気取らず庶民的で、しかもそれなりに秩序の保たれている〈雲龍坂〉も中盤に差しかかった。真っ直ぐ登る石造りの階段と、反時計回りで右へ大きくカーブを描きながら高度を稼ぐ回り道に分かれ、女性三人組は迷わず右を選ぶ。こちらの方が道の両脇に店があって楽しいからだ。
 ミザリア市立図書館に始まり、芸術関係の建物が集まる〈夢見通り〉を抜け、荷馬車の行き交う〈港大通り〉を経て〈雲龍坂〉へ――さすがに結構な距離を歩いたため、足の疲れを感じる。

「そろそろ食事にしない? おなかへったなー」
 良く引き締まった腹部を押さえ、ルヴィルがあっけらかんと言った。食前の運動はもう充分だ。最近では町の若者にも人気の〈雲龍坂〉であるから、貝やワカメといった海の幸を生かしたパスタ屋や、火を通した刺身を焼きたての硬いパンの上に載せてくるんだミザリア名物のパン屋、カカオ豆の飲み物を出す南国らしい開放的な作りの茶屋など、しゃれた食事処が並んでいる。

「できれば安いところがいいな。食べ物は文句言わないから」
 ウピは少し恥ずかしそうに、小声で注文を付けた。するとルヴィルは急速に元気を取り戻して、親友の行動に探りを入れる。
「さては服でも買ったね」
「うーん、だいたい当たり。欲しい靴がね……」
 困惑、はにかみ――それでいて自分で自分に呆れるような、諦めるような。感情が複雑に錯綜した表情を浮かべ、うつむき加減にウピが返事をすれば、心配そうに訊ねるのはレイナだ。
「多少ならば余裕がありますけど。貸しましょうか?」
「いいよいいよ、まだ大丈夫だから。ちょっとならあるから」
 慌てて両手を振るウピに、ルヴィルは重い一撃を食らわす。
「そう言う時、ウピって、ホントに〈ちょっと〉しか無いさね!」

 図星だったのだろう。ウピは思わず立ち止まり、頭をかいた。
「……バレちゃった?」
「バレるも何も、そういう雰囲気を発散してるもんね。どーせ、同じお金遣うなら、安くていいもん買わなきゃ。ウピ、ゆくゆくはお店出したいんでしょ? 値段と、本質を見極める眼を養いなよ」
 買い物上手のルヴィルは腰に手を当て、豊かな胸を張り、笑顔で説教した。隣のレイナも、おかしくて華奢な肩を震わせる。

 ウピが話題の中心になると、不思議なことに三人はぴたりと息が合ってくる。頬を染め、友達思いの小柄なウピは言った。
「うう。さすがに今回は反省してるよー」
「ま、いっか。とりあえずさ、もうちょい上に登ってみる?」
 ルヴィルの提案に、ウピもレイナもすぐ賛意を示すのだった。
 
 
(十二)

「お店はルヴィルとウピにお任せします」
 あまり広くない坂道に三人並ぶのは窮屈だ。二人の後を追うように歩いていたレイナは、相変わらず淡々とした口調で言う。
「どうする?」
 ウピは隣のルヴィルを見上げ、相談を持ちかけた。おしゃれなルヴィルは学生時代から商店に詳しい。たとえば飲食店一つ取っても、巷で人気の魚料理屋から、大陸南西部のウエスタリア料理を出すお店、軽食に都合の良い賑やかな喫茶店、さっぱりして驚くほど安い冷麺の食堂など――幅広い知識があり、参加者や目的や気分に応じて選ぶことが出来る。彼女の頭の中には、他人に見えぬ〈ごちそう地図〉が出来上がっているのだ。
 仕事を持ってからは、さすがに遠い界隈の最新事情には疎くなったけれど、それでもまだまだ情報通ぶりは健在であった。

「じゃあ〈テラ・コッサ〉でいっか。パン屋さんだけど、食後のケーキもあるし。魔法の氷菓子を入れた冷たいカカオ茶がお奨め」
 コーヒーに似た飲み物を、この国ではカカオ茶と呼んでいる。
 レイナはすぐに了承したが、ウピは心配顔だ。色褪せた金色の髪を微風になびかせ、薄い財布を取り出し、小声で訊ねる。
「ちょっと……高いんじゃないの? 魔法の氷菓子なんてさぁ」
「大きめのを注文して、三人で割り勘すればいいっしょ?」
 散財した友だちの不安を払拭すべく、ルヴィルは即答する。
「美味しそうですね」
 後ろから声をかけたのはレイナだ。彼女のうなじには汗の粒が浮かんでいる。春とはいえ、晴れればぐんぐん気温が上昇するのがミザリア国の常である。時々すれ違う女性たちには、老いも若きも関係なく、帽子をかぶったり扇を手にした人がちらほらと混じっている。からっと乾燥しているが、暑いものは暑い。

 坂道の左側に、瀟洒な造りの小さな建物が見えてきた。やはり付近の建物と同じく石造りではあるが、屋根が三角だったり、柱にちょっとした彫刻があったりと特徴的で、文化の香りを感じさせる。それがパン屋の〈テラ・コッサ〉だ。建物の後ろは緩やかな崖で、窓際の席は眺めが良い。海が見えるため、夕暮れ時には恋人にも人気のある、地元でも知る人ぞ知る店である。
 近くに来ただけで、あの食欲をそそる〈ふっくらして柔らかそうで、湯気を上げていてホカホカで、口の中でとろける〉独特の匂いが漂っている。ウピは目を輝かせ、思わず唾を飲み込んだ。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 ウエイトレスに注文を終え、三人は一息ついた。中は意外と狭く、十席ほどしかないのだが、一つ一つの木のテーブルは広めに作ってある。窓際の二つのテーブルのうち運良く一つが空いていたので、ルヴィルとウピが向かい合わせで腰掛け、レイナは丸椅子を借りてきて横に座る。座席もあるが、普通のパン屋のように持ち帰りの販売もしており、鼻の下に金色のちょび髭を生やした厳しい顔の壮年の店主と、おかみさん、二十代半ばの息子はひっきりなしにパンをこね、焼いて、手際よく飾り付けしている。二十歳過ぎのウエイトレスは、どうやら娘らしい。

「でも、予想外に、お姫様の話題で盛り上がりましたね」
 優等生のレイナはあくまでも冷静に分析することを好む。さっきの話をまとめるような口調で、料理待ちの間に切り出した。
「そういえばミラス町のルーユ嬢もいたね。エスティア家の」
 ウピは真面目に反応した。ティルミナ嬢が没落を嘆くクルズベルク家と並び、南ウエスタル地方の由緒正しい貴族がエスティア伯爵家だ。富裕な避暑地であるミラス町とその周辺を領有し、穏やかな保守的統治を継続して民の信頼も非常に厚い。
「なんか、品のある姫様みたいねぇ」
 ルヴィルは苦笑しつつも、とりあえず相づちを打つ。ミラス町へはミザリア市から定期船が行き来しており、いわゆる〈東回り航路〉の貿易船も通る重要な経路なので情報も入ってきやすい。

 博識なレイナは、ついつい話題を蒸し返そうとしてしまう。
「ラット連合の連合長テアズ氏の長女、フレイド族の姫は?」
「もういいわよォ……」
 ルヴィルはさすがに呆れ果て、手を組んで顔を落とした。微妙に悪化した雰囲気を取り持つのは、やはり友達思いのウピだ。
「でもさ、ララシャ王女が言ってたけど、こういうあったかい料理が食べられるのって庶民の得だよ。地位の高い人になればなるほど、毒味とかで大変なんだって。スープもぬるいんだって」

 ウピの気の利いた挿話が功を奏し、とたんに興味を示すのはルヴィルだった。再び上半身を起こして思いきり首をすくめる。
「お姫さまも大変なんだね。あたしはぜったいイヤだけど」
「あたしは一日くらいならやってみたいな」
 したたかな打算も含みつつ、夢見るようにウピはつぶやく。
 その発言を聞いたレイナとルヴィルは珍しく意見が一致した。
「意外と、ウピが一番早く飽きるかも知れませんね」
「うんうん。有り得る有り得る」

 ウピは顔をほころばせ、頭に手を当てて素直にはにかんだ。
「そうかなぁ……そうかもね。あははっ」
「ぷぷっ。ウピみたいな王女様がいたら、やだな!」
「うふふ」
 ルヴィルは吹き出し、レイナも表情をほころばせる。ウピの笑顔はいつも三人の空気を和らげ、絆を深め、幸せをもたらす。

 いよいよ出来たての料理のジュウジュウ燃える匂いの先導で、ウエイトレスが厨房からやってきた。まずは鶏肉とキャベツ入りのパンだ。三人の娘たちは熱いパンと冷えたカカオ茶を肴に、とりとめのないお喋りをいつ果てるともなく続けるのだった。

(了)



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