月の子

 〜森大陸(しんたいりく)ルデリア・幻想結晶〜

 

秋月 涼 


「よし、今じゃ!」
 壮齢のカーダ博士は低い声で語気に力を込め、横の助手に向かって呟いた。白髪の中に潜む双眸が一挙に鋭さを増す。
 野原に掘られた人工的な池は、その直径が大人の半歩ほどしかない小さなものである。そこには妖しの黄色い水が充たされ、カーダ氏の掲げ持つランプの光を受けて朧に輝いている。
「テッテ、参ります」
 気難しいカーダ博士の四千人目の助手になったテッテは、眼鏡をかけた二十四歳の冴えない男である。テッテは皺だらけの白衣をまとい、腕にはこれまた原色の黄の手袋をはめていた。

 彼の足元の池の中央には、南東の空に浮かぶ望月が映っていた。満天の星空の舞踏会は無邪気に発散される月光に翻弄され、暗い星はその明るさに霞んでいる。ただ、空全体としての華やかさは普段よりも増しており、地上に居並ぶ野原の草は黒く照らし出されていた。宵の口は過ぎたが、深更にはほど遠く、緩やかな斜面には虫たちの音楽と生命を感じることができる。

 黄色の池に映っていた丸い月影がにわかに揺らいで原型を失い、水がちゃぷんと跳ねた。テッテが手袋をしたままの右腕を突っこんだのだ。狭い池の表に立ったさざ波が落ち着くのを、彼らはしばらく息をひそめて待ち続けた。夜風が通り抜ける。

 再び、満月が池に元の姿を形作る頃――カーダ博士は用意しておいたフライパンを持ち上げ、大きな期待に頬をゆるめた。
「月の子、月の子……これが上手く取れれば、成分の三分の一に銀が含まれておる。研究の資金源じゃ、金づるじゃ……」
 変わり者のカーダ氏は〈七力研究所〉の代表を務めている。
「師匠、そろそろでしょうか?」
 控えめに切り出したのはテッテだ。放っておけば、カーダがどんどん自分の世界に入り込んでゆくのは火を見るよりも明らかだった。それを食い止め、自らの職務をも成就せねばならぬ。
「そうじゃったな、まずは実験じゃ。ゆけ!」
「はい、只今」

 テッテは事前の段取りを思い返し、素早く池の中に漂う銀色の月を掬うように腕を持ち上げた。猛烈な蒸気が湧き上がる。
「あちちっ!」
 慌てるテッテに、カーダはフライパンを差し出して絶叫する。
「急げ、こっちじゃ! はよ入れるんじゃ、馬鹿もん!」
「ヒャあ!」
 投げ捨てるかのように〈月の子〉をフライパンに落としたテッテは、無我夢中で腕を再び池に浸す。いつしか、あの妖しげな黄色はなりを潜め、池を充たしていたのはごく普通の水だった。
「でかしたぞ!」
 カーダ博士は喜びの声を発する。彼の持つフライパンの中で〈月の子〉はジュウジュウと音を立てている。その横で、テッテは先ほどの危険な作業を思い返し、ぶつくさと文句を言った。
「やけどする所でしたよ……本当に」

 突如、不満をかき消したのは、カーダ氏の絶望的な悲鳴だ。
「くあぁ! 何ということじゃ……」
 煙の消えたフライパンに乗っていたのは、目玉焼きとしか思えぬ、黄色の丸く盛り上がった小山であった。池の水の調合が悪かったのだろう、残念ながら〈月の子〉は燃え尽きてしまった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 テッテは気を利かせ、研究所から二人分の皿とフォークを持ってきた。男たちはその熱い目玉焼きを半分に分けて、頬張る。少しほろ苦い、失敗の味のする〈月の子〉の魔法料理だった。
 天には本物の月が、無関心を装い、澄まして浮かんでいた。

(了)



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