雲のかなた、波のはるか

 〜森大陸(しんたいりく)ルデリア・幻想結晶〜

 

秋月 涼 


(一)

 小さな両開きの窓が放たれ、竹に似た硬い植物で作られた涼しげな簾が持ち上がり、ほっそりとした女性の手が現れる。
 やがてガタガタと何かが不安定に揺れる音がし――白い石造りの家の窓から艶やかな蒼みがかった銀の髪がこぼれた。
 そして幾分突然に、少女がひょっこりと顔を出す。その澄んだ青玉の瞳は、いまだ夢の名残を帯びて眠たげに細められる。
「また曇りですの〜」
 彼女は丸い窓から天を仰ぎ、くぐもったような声で独りごちた。出来物などは皆無で、十代後半にしては珍しいほどすべすべの肌はうっすらと日焼けしているが、薄黄色のネグリジェの襟元から垣間見える首は細く、健康的な印象はあまり受けない。どちらかというと丸顔よりも面長で、胸の上にはネックレスの先に緑色の宝石がきらめいていた。それほど大きな石ではないが、金銭で買えないほどの価値を内面から発散させている。透明度と色と、傷一つ無い状態もさることながら、妖精を想起させる不思議な魔力を秘め、まるで生きているかのような翠玉だ。

 庭の椰子の木がそよぐ。南国の夏の朝とはいえ、曇り空で思ったほど気温も上がらず、風が部屋を過ぎゆくと鳥肌が立つ。
「はっくしん!」

 クシャミした次の瞬間、彼女の顔は窓から消え失せていた。
「きゃ!」
 背伸び用の木の足場が倒れ、少女が尻餅をつくドォーンという音が短い間に順序良く響いた。力無い悲鳴が聞こえてくる。
「ひーっ……痛いですわ〜」

 彼女の名はサンゴーン・グラニアザーン族の十六歳の少女である。傍目には単にのんびりした性格の、やや鈍くさい女性に映るが、実は〈草木の神者〉という世界的に重要な役割を継承している。イラッサ町の名目上の町長を務めて収入を得ているが、実際上の政治は摂政に任されており、彼女自身は庭の鉢植えを手入れしたり、海辺を散歩したり、前代の〈草木の神者〉であった祖母のサンローンの墓を参拝する日々であった。
 彼女が整えた庭を、白い蝶がひらひら軽やかに舞っていた。
 
 
(二)

 打ちつけたお尻を撫でながら階段を下り、居間を通り抜け、庭先に出て仰ぎ見ても、やはり濃い灰色の雲が低くたれ込めている。雨が降りそうで降らない、ひどく中途半端な空模様だった。
「お洗濯が乾きませんの」
 夕方の激しいスコールを除けば、亜熱帯のミザリア国の夏はからっと晴れた暑い日が続く。ところが昨日の夕方からは妙にぐずつていた。それだけでなく、サンゴーンは不思議な気配――生命の躍動を察した。知らず知らずのうちに鼓動は速まる。
 雨が降るのを心配し、軒下に置いた洗濯物はまだ湿っていた。握力の弱いサンゴーンでは絞り方が足りないのはいつものことだが、一晩経っても半乾きなのは珍しかった。汲んだ井戸水を入れ、洗濯をした木の桶が竿の脇にひっくり返してある。

 縁側に腰掛け、サンゴーンは青い眼をつぶる。視力を休める代わりに聴覚や嗅覚を研ぎ澄まし、本質を見極めようとする。
(海が、近くに感じますわ)
 もともと海沿いのイラッサ町だが、潮の香りは普段より明らかに強く、風は湿り気を帯びている。それでもなおまとまった雨は降らず、忘れた頃に一粒、二粒、こぼれ落ちてくるだけだった。

 サンゴーンはゆっくりと瞳を見開き、再び曇天に目を凝らす。
(いつもと違いますわ)
 彼女は微妙な変化に気づいていた。すなわち雲がどんどん低くなってきている、ということだ。庭の垣根の向こう、家々の彼方に背を伸ばす神殿の尖塔も見え隠れしているほどだ。町で唯一の高い塔、その頂が天からの灰色に霞むとは、尋常でない。
 雲が幕のようになり、何かを隠しているようにも感じられた。地上にいてさえ、流れや細かな紋様まで見分けることが出来る。

「気になりますわ」
 悪いことの起きる前触れなのか、神秘的な予兆なのか。
 真相の分からぬまま、サンゴーンは玄関に立ち、横の棚に置いてあるポーチを手にし、華奢な肩にかけた。それから、忘れずに黒いこうもり傘――世話になった祖母の遺品であり、雨避けの魔法の力を秘めている――を持ち、サンゴーンはドアを開いて外に出た。治安が良く、みなのんびりとしており、鍵はない。
 
 
(三)

 レンガ作りの道の両脇には石造りの白い二階建ての家が連なって建ち、そこでは町の人たちがいつも通りに世間話をしている。最も多いのは中年から壮年にかけての女性で、何人かずつ集まり、天を仰いで指さししては口々に言い合っている。
「珍しい天気よねぇ」
「いつも晴ればかりだから、たまには良かろうて」
 そして子供たちも、不思議そうに空を見上げるのだった。
「久しぶりに蒸してる」
「あの雲の上は、意外とカンカン照りなんじゃない?」

(何かが変ですわ。不吉な感じはしませんけれど)
 ミザリア国の夏は乾いているのに、今日はやはり湿り気が多い。風に混じっている豊富な水分、這うように飛び交う低い雲、そして消えない潮の香り――サンゴーンの悩みはつきないが、はやる気持ちを抑え、今は地道に両足を踏み下ろすのだった。

 やがて別れ道を過ぎ、見知った界隈に出る。
 ――と、向こうで耳のやや長いリィメル族の娘が手を挙げた。
「サンゴーン!」
「レフキル! いま行きますの〜」
 彼女は快く応じ、同い年の親友の元へと足早に歩いてゆく。

 レフキルはサンゴーンよりもほんの少し背が低い。妖精族の血を引くリィメル族で、お気に入りの青いスパッツが良く似合っている。髪は碧がかった銀色で、左右に分けて結んでいる。華奢な身体つきだが、サンゴーンのようにほっそりした印象は受けない。むしろ必要な筋肉が引き締まっているように見えた。
「こんにちはですわ。待っててくれたんですの?」
「サンゴーンに相談したいことがあったんだよ」
 レフキルは真面目な顔で言う――相手はすぐにうなずいた。
「もしかして、この空のことですの?」
 
 
(四)

「実は、そうなんだよね」
 レフキルは驚いた顔もせず、腕組みして空を仰いだ。南国の遠浅の海に似た深緑の瞳に、低く垂れ込めた灰色の雲が映っている。つられてサンゴーンも上を向き、思いきり首を後ろに倒した。天は一続きの雲の河となって流れ出すように見え、自分の身体の平衡感覚はだんだん麻痺してゆくように思われた。軽い目眩を覚えたサンゴーンが思わず黒い傘を突き立てて地面を支えると、チェックのワンピースの裾が風にはためくのだった。

 レフキルはしっかりと両眼を見開いたまま、正面に向き直る。
「何だか潮の匂いはするし、変な雰囲気だからサンゴーンに聞こうと思ったんだ。これ、たぶん……普通の雲じゃないよね?」
 妖精族の血を引くレフキルは勘の鋭い方ではあるが、魔法には詳しくない。そもそもこの町には魔法学院がなく、誰かに弟子入りするか王都のミザリア市に行かぬ限り、魔法に関する専門知識も技術も身につけられない。科学のはびこる世界に置き換えるなら、魔法とはすなわち〈医学〉の位置づけに近いだろう。

 魔法に関する知識で言えばレフキルもサンゴーンも大差はない。ただ、世界を形作る〈七力〉の一つ――自然と生命を司る〈草木の神者〉のサンゴーンは、まれに不思議な直感を発揮する。それは彼女自身を驚かすほどの計り知れぬ神秘の力だ。

 焼魚の骨が喉の奥に引っかかっているような、どうも腑に落ちない顔でたたずむレフキルは、鼻の穴を動かしながら呟いた。
「そういえば、気のせいかも知れないけど……ずっと前にも、こんなことがあったような気がするんだよね。海の香りと低い雲」
「ずっと前、ですの?」
 親友の言葉が、サンゴーンの中に眠っていた遠い記憶の断片を甦らせる。懐かしい情景はおぼろに組み合わさってゆく。
 しばしの間、彼女は心の底に沈み、物思いに耽るのだった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「おばあさま。あの雲、なんですの?」

「サンゴーンや。あれが何か分かるのかい?」

「ううん。わかんないけど、へんな感じがするの」

「そうか……気になるのかい?」

「うん」

「……今は無理じゃろが、大きくなったら、行ってみるといい」

「おっきくなったら? あの雲のむこうにいけるんですの?」

「ああ。サンゴーンなら、きっと行けるじゃろう」

「うん、おばあさま。サンゴーン、いけるといいですわね」

「行けるさ。あと十年経てば、な……」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 
 
(五)

「そうですわ。十年前……六歳?」
 サンゴーンは我に返って、ぽつりと独りごちた。レフキルはその微かな言葉をリィメル族のやや長い耳で捉えたが、一瞬、相手の言葉を聞き間違えたかと思い、軽い疑問形で復唱する。
「六歳?」
 だが、口に出すことでレフキルは意外な事実に気がついた。彼女は顎にこぶしを当て、昔の記憶の糸を深くたぐり寄せる。
「そういえば六歳頃かも知れない。前、同じように感じたとき」
「十年経ったんですわ」
 万感の思いを込めて――しかもさらりとサンゴーンは語った。彼女の育ての親であり、イラッサ町の町長、そして前代の〈草木の神者〉を務めた祖母のサンローンは一昨年に儚くなった。

「……」
 理解して納得したわけではないが、レフキルは相手の話を遮らず、黙って聞いている。良い語り手はまず良い聞き手であると言われるが、彼女はまさにそのような人物の代表格であろう。
「あの雲の向こうに行く道が、あるはずですの」
 不思議な力に少し目覚めたのだろうか、サンゴーンは顔を上げて辺りを見回した。鋭い感覚、そして何より大らかで優しい気持ちは〈草木の神者〉を継承して身についたのではなく、もともと彼女自身の中にあったものだと、レフキルは固く信じている。
「十年経てば分かるって、おばあさま、言ってましたわ」
 サンゴーンの語調は弱まって、一抹のさみしさに彩られる。
「考えよう、サンゴーン。一生懸命に考えれば、きっと答えは出てくるよ。十六歳になったあたしたちの、今の知恵を絞って!」
「ハイですの……ありがとうですわ。サンゴーンも考えますの」
 友の温かい励ましに胸を打たれ、少女は神妙にうなずいた。

 二人は曇り空の遠くに眼差しを向けた。普通の道は地面の起伏に合わせつつも基本的には横に続くが、雲に繋がる通路ならば縦に伸びるはずだ。それを念頭に、視線を彷徨わせる――。
「ありましたわ」
 あっけなく答えが分かった驚き、見つかって良かったという安堵にサンゴーンは充たされた。レフキルの目の焦点も同じだ。
「間違いないと思うよ」

 町の真ん中に古くからある、石造りの神殿の尖塔。
 そこだけが唯一、雲の手前と向こう側とに触れている。
 薄い灰色の塔の頭は、濃い灰色の雲の中に隠されていた。

 二人は顔を見合わせ、目で同意した。瞳の放つ光は真剣そのものだが、まじめ腐っているわけではなく、これから起こるであろう出来事に期待している部分が大きかった。凛々しく結ばれた口元の片隅がちょっと緩んでいるのが、その証左である。
 必要以上の言葉は要らぬ。駆け出したレフキルを追って、サンゴーンは右手に黒いこうもり傘を持ったまま疾駆する。さっきよりも、風に溶けた潮の香はわずかに強まっているようだった。
 
 
(六)

「はぁ、はぁ……」
 レフキルは肩で息を整え、立ちつくしている。それでもまだ彼女はいくぶん余力を残しているように思えた。額やこめかみは汗ばんでいたが、流れるほどでなかったのが何よりの証拠だ。
 目の前には、低い灰色の雲の天井を突き抜け、町で一番高い海神アゾマールの神殿の尖塔が建っている。島国のミザリアでは漁師や船乗り、海女が多い。海と嵐を司るアゾマールは畏敬と畏怖の対象であり、古来より特に強い信仰を集めている。

 地上ではそれほどでもないが、風は猛烈な勢いで分厚い雲の大陸を西から東へ飛ばしていた。海の底にいるような潮の香りは、見えない雨が降り続くように鼻腔を刺激した。まさに海神を思わせる、荒くれた、しかも不思議さと懐の深さを内包した空模様だ。呼吸は落ち着いてきたが鼓動はむしろ速まっている。
(〈ぶち〉をしまっといて良かった)
 飼っているパリョナの〈ぶち〉を小屋に繋いだことを思い出し、レフキルはほっと胸をなで下ろす。南国原産のパリョナは、猫くらいの大きさの人なつこい生き物だ。キリンに似て首が長く、背中には天空の魔力を帯びた翼を生やし、ゆっくりとではあるが自由に飛ぶことが出来る。つぶらな瞳は愛らしく、きちんとしつけられた〈飼いパリョナ〉は割と人気がある。レフキルが飼っている雄のパリョナは青い毛に黄色いまだら模様のため〈ぶち〉と名付けた。強風と海の匂い――のんきで小さな生き物が散歩ならぬ〈散飛〉を楽しむには、今日の空はいささか激しすぎる。

 その時、不規則な足音が近づき、聞き慣れた声が交じった。
「レフキルぇ、はぁ、早すぎますの……」
 頭にも首筋にもびっしょりと汗をかき、チェックのワンピースの背中を湿らせて、サンゴーンが到着した。大して気温は高くなかったが、イラッサ町の夏には珍しく、今日は湿度が高かったのだ。むろん、サンゴーンがあまり運動を得意としていないことも汗だくになった理由の一つである。細い足はふらつき、杖代わりの黒いこうもり傘で身体を支え、いくぶん前傾姿勢になる。
「あれっ? ついてきてたから大丈夫だと思ったんだけど」
 やや長いリィメル族の耳をぴくりと動かし、レフキルは深い翠の瞳を大きく瞬きして振り向いた。決して親友を置いてきたつもりはなく、はやる気持ちを抑えつつも距離が離れすぎぬよう気を遣ったつもりだったので、サンゴーンの遅れは意外であった。
「ごめんサンゴーン。何かあったの?」
 レフキルがすかさず訊ねると、友は左手で心臓の辺りを抑えつつ顔を上げ、右の人差し指で爪先を示し、弱り顔で応えた。
「最後の最後で脱落ですの。足を吊っちゃいましたわ〜」
「平気? 治った?」
 顔を曇らせるリィメル族の少女に、サンゴーンは精一杯の笑顔をふりまく。火照った身体も少しずつ落ち着きを取り戻した。
「ハイですの。今のところ、落ち着きましたわ」
「良かった。じゃ、いよいよ……」
 レフキルの視線は言葉よりも雄弁に、尖塔を見据えていた。
 
 
(七)

 通りの人々は雨の前触れと思って、洗濯物を取り込んだり、子供の手を引いて足早に家路をたどっていた。露店も早々と店じまいに取りかかり、普通のお店もお客が少なくて暇を持て余しているのが、さっき駆け抜けてきたイラッサ町の現状だった。
 しかし、レフキルとサンゴーンの二人は直感で分かっていた。雨は降らない――少なくとも、どしゃ降りにはならないことを。

 尖塔の扉は外側にもあるが、通常は施錠されている。他方、神殿の内部から繋がっている扉からは自由に行き来できたように、サンゴーンは記憶していた。海の向こうから敵国が攻めてきた場合は物見の塔にもなるはずだが、この塔が出来て以来、そのような使われ方をしたのは幸いなことに一度もない。雲の様子を眺めたり、子供が登って町を見下ろしたり、せいぜい火事が起こった際に指示を出すのに利用したりする程度である。
 年を経てやや灰色にくすんだ石造りの神殿の、両開きの入口は大きく開かれ、風が〈ひゅう〉とうなり声を上げて通り抜けた。

 薄暗く神秘的な神殿は、この街の建物では随一の威容を誇り、奥に向かって長く続いている。両側の柱には、海神アゾマールの姿を模した尾の長い青緑の龍の象嵌が彫り込まれていた。人の気配はなく、しんと静まり返っているが、水の流れる音が微かに響いている。丘の方から引いた湧水を使って、アゾマールが好むとされる水を取り入れているのだ。それは石の管を伝って、やはり龍の首の形をした置物の口からこぼれ、再び神殿の内側の溝を流れて、最後には元の大地に還るのだった。

「こんにちはー」
 わ、わぁ、ぁ……。レフキルの語尾は厚い壁に反響した。
 少ししてから、かなり遠くの方で、男性のいらえがあった。
「いらっしゃい。雨宿りですか?」
 相手は穏やかな語り口で言ったが、その言葉も不思議な響きを帯びていた。本来は南国の神殿らしく、もっと明るいのだが、今日の曇り空では仕方ない。かなり距離を置いて話す神官の姿は黒い影法師となって、服装も年齢も良く分からなかった。
「ううん、雨宿りじゃないんだけど……」
 レフキルはどう説明していいものか、正直戸惑った。低い雲の上が気になって塔に登りたい――考えてみれば妙な理由だ。
「あの、神官様。サンゴーンたち、塔の上に行きたいんですの」
 飾り方を知らない草木の神者は、持ち前の率直さで訊ねる。すると神官は驚くこともなく、何もかも分かっているというような淡々と落ち着いた口調で、あっさりと願いを聞き届けてくれた。
「ええ、分かりました。風が強いので、お気をつけて下さい」
「ありがとうですわ」
 サンゴーンはほっと胸をなで下ろし、すぐに礼を言った。以前にも同じ状況を体験したのではないかと思えるほど、あまりに悠然とした神官の対応にレフキルは拍子抜けし、念を押した。
「いいんですか?」
「理由は何であれ、神殿は誰の訪れも拒みませんよ」
 神官の答えは明瞭だ。彼女はうなずいて、気持ちを伝える。
「ありがとう、神官様」

 左側の廊下に入るとさらに光は遠ざかった。二人並んで歩いていたが、やがて行き止まりになる。左右、そして正面に三枚の扉があるものの、暗い中で目を凝らしてみると、正面の扉に〈塔の入口〉という文字の彫られた木の板が掛けられていた。
 サンゴーンとレフキルは顔を見合わせ、眼差しで心をつなぐ。
 ドアを引くと、狭くて急な螺旋階段が現れた。レフキルは緊張の面もちでごくりとつばを飲み込み、新たな一足を踏み出した。
 
 
(八)

 塔の中は思ったよりも明るかった。どうやら天井近くの窓から光がこぼれ落ちているようで、狭い吹き抜けから降りそそぎ、上の方が神々しく輝いて見える。サンゴーンとレフキル、十六歳の二人の少女らの胸に宿る期待の炎は一段と勢いを強めた。
「足下に気を付けて。慌てる必要はないから」
 レフキルは振り返って、友に呼びかけた。入口付近の薄暗がりの中で、やや長い耳が特徴的なシルエットとなり、ぼんやり夢幻的に浮かんでいる。それから彼女は決然とした表情で機敏に前を向き、何歩か進むと、いよいよ鉄の手すりをつかんだ。正確な色は判別としないが、赤錆びた感覚が指先に伝わる。

「ハイですの……」
 応えたサンゴーンの声はほんの少しだけ震えていた。恐怖ではなく、もっと深く清らかで根本的な〈畏れ〉が、感じやすい彼女の心を捉えていたのだった。レフキルから数歩遅れてついてくる草木の神者の、石作りの床を打つ靴音は、細長い塔――縦のトンネル――の中で奇妙に反射し、何度も屈折して響いた。
 その音でさえ、左巻きの螺旋階段を駆けあがり、塔の最上層に辿り着けば、吹きすさぶ風の叫び声にかき消されてしまう。

 この尖塔はいま、雲の世界に繋がっている唯一の正しい道であった。海神アゾマールの乱気流で生まれた背の高い竜巻から〈激しい生命力〉だけを抜き取ったような威厳と品格がある。
 その、いわば薄暗い〈龍の腹の底〉から、蒼天を睨み据える光の双眸を目指して、南国の少女たちは階段に足をかけた。

 もはや言葉は必要なかった。しだいに高まる風の轟音は、自らの鼓動の錯覚だろうか――同じ段差と同じ角度で続く〈縦の道〉では、それさえ貴重な度量衡の単位になる。回りながら登るうち、方位はあっという間に意味を失い、時間のねじを逆に巻くような非日常の新鮮な感覚が、軽い目眩とともに襲ってくる。

 もはや永遠に続くとさえ思えた旅路を、どこまで登ったろう。
 足音の乱れののち、突然の弱い悲鳴と、膝をつく音がする。
「ひゃっ」
「サンゴーン!」
 レフキルは振り返り、つんのめってしゃがみ込んだサンゴーンにすかさず手を差し伸べる。ところがバランス感覚には自信のあったリィメル族の彼女でさえ、ふらついて壁に寄りかかった。
 頭が、周りの景色がグルグルと廻り、思考が螺旋を描いた。
 上の方にしか窓のない尖塔は予想以上に若い二人の五感を狂わせていた。ふと見た床の方は、もう闇に沈んでしまっている。そして天からは柔らかな光の渦、風の合唱曲が聞こえる。

 そう――いつしか辺りはだいぶ明るくなっていた。東の空が白んでくるような、連続的で微量の変化に気づかなかったのだ。

「もう大丈夫? ゆっくり行こうよ」
「ありがとうですの、レフキル」
 少女たちは手を取り、手をつなぎ、再び立ち上がって峠を目指した。掌から伝わる互いの体温が気持ちを落ち着けてくれる。

 塔の半径がほんの僅かずつ狭くなったかと思うと、しだいに外壁を打ちつける轟音が高まった。二人は一瞬だけ顔を見合わせると、あとは勇気を持って躊躇せず最後のカーブを曲がる。
 堤防を越え、眩しい光の奔流がにわかに溢れ出して――。
 
 
(九)

「う……」
 最初にレフキルが、そして後に続いたサンゴーンが、それぞれの仕草で目を覆った。活発でしっかりした商人の娘は日焼けした右腕を額にかぶせる。他方、清純でおっとりした〈草木の神者〉は思わずこうもり傘を落とし、目隠しするかのように両手を顔の上半分に乗せた。南国の夏が持っている本来のまばゆさを数日ぶりに浴び、二人の視力は麻痺してしまったのだった。
 その間にも、自然の驚異と脅威を体現するかのようなすさまじい音が絶えず鳴り、少女たちの聴力を塔の外の世界から完全に遮断していた。風の流れを想像させるほどに軽やかで、しかも湖水が深い淵の奥底で蠢くような重い響きが同居している。
 強い潮の香りが鼻をついた。町に漂っていた海の匂いの理由はここに隠されている――二人は確信した。白い砂浜にいるのと変わらぬ方法で、空気は鼻と舌と喉を刺激していたからだ。

 おそるおそるレフキルが瞳を開いてゆくと、睫毛の間から視界は順を追って拡がってゆき、輝きの模様の残像はしだいに消滅する。低い雲を突き抜ければ、そこは真夏の青空と、本物の天の頂を目指す入道雲、屈託のない光の子らがあふれていた。
 レフキルはおもむろに足の向きを変え、身体をひねって回れ右をする。彼女が腕を伸ばして、顔を覆ったまま立ち尽くしている親友の華奢な肩にそっと掌を置くと、サンゴーンは永い眠りから醒めた若く美しい王女のように、あるいは催眠作用のある幻術を解かれた者のごとく、砂がこぼれ落ちるのを彷彿とさせる自然な動作でしなやかな手を下ろし、蒼い両眼を見開いた。
「塔の外、いっしょに見よう」
 レフキルの言葉は、鳴りやまぬ激しい音の渦にかき消され、唇が動いたとしか分からない。しかしサンゴーンはゆっくりとうなずく。二人の間には神秘的な静寂の雰囲気が漂っていた。

 同じように聞こえる轟音にも、微妙なリズムがあることが分かってくる。それは意外にも心地よく、うるさいはずなのに眠気を誘われるような安らぎが生まれてくる。母の心臓の鼓動に繋がっているような、生命の躍動に充ちた原初的な音楽であった。

 レフキルは黙ったまま少しうつむいて、友が動き始めるのを冷静に待っている。サンゴーンは少し首を左右に動かしつつ、大自然の営みに感動しているような極めて敬虔な表情で、辺りの様子をじっくりと確かめた。何度か、この塔の頂上には来たことがある――頂上と言っても尖った屋根はさらに続いているが。
 中央の吹き抜けをめぐる形でささやかな回廊が設けられており、大きな窓がくりぬかれ、眺望が利くようになっている。人が登れるのはここまでだ。時折、風は二人の前髪を巻き上げる。
 見た目には塔自体に異常はない。しかしそこから見える風景は何もかもが違っていた――雲の大陸と、謎の透明な流れ。

 もっと見たい、その真相を確かめたい。
 魂の根底から湧く好奇心をそのままに、二人はどちらからと言うこともなく手を重ね、ガラスのない窓に向かって歩き出す。
 
 
(十)

 窓に近づく一歩ごと、視界は――空は劇的に拡がってゆく。まるで息を吹き込んだシャボン玉が大きく膨らむかのように。
「あぁ……」
 まぶしそうに遠くを眺めていたレフキルは立ち止まると、窓に腕を乗せ、感嘆の溜め息をついた。サンゴーンも立ち尽くす。
「すごい、ですの」

 雲の海が大陸だとすれば、その上を蛇行しつつも絶えることなく左から右へと進む透明な謎の流れは河に見える。白く霞む水源を離れ、見えない峻険な谷を駆け下りて激流となった神秘の天河は、横に流れる滝にも見える。轟音の主はそれだった。
 流れは尖塔へ寄り添うように近づき、塔を取り巻いて二、三周の螺旋を描いているようだった。最上層は、二人の少女たちが覗いている窓のすぐ下を横切り、尖塔の頂上を目指して勾配を駈けている。しだいに離れてゆく河の行き先――空の海――は、二人が居る窓からは死角になっており、眼で追うことは出来ない。不思議なことに、水しぶきがかかるほどの近さであるのにも関わらず、決して塔の壁に奔流がぶつかることはない。
 どこまでも続く低い灰色の雲と、それを縫って走る空の河、塔を取り巻いて登る激流、そして青空。まさに別天地であった。

 風が一時的に収束へ向かうと、サンゴーンの月光色の前髪はさらりとこぼれ落ちた。一方、レフキルは嗅覚を研ぎ澄ます。
「……潮の香りだ」
 青空から降り注ぐ明るい光に照らし出された雲の河は、海とほとんど同じ匂いがしている。どうやら今日の全ての奇妙な出来事の原因は、この巨大で透明な流れに帰結しているようだ。
「低すぎる雲さえ、あの河を隠すために現れたみたいですの」
 サンゴーンが耳元でささやくと、レフキルはすぐに同意した。
「うん、あたしもそう思う」
 
 
(十一)

 支え棒に絡まる朝顔の蔓(つる)を拡大したかのように、不思議な河は尖塔に巻き付いて昇り、勢いをつけて再び遠い場所を目指した。二人の少女たちが覗いている尖塔の窓からほんの少し下側を、塔をめぐる流れの最上層が勢い良く翔(かけ)ている。その幅は大河ほどではないが、地方の主要な河の中流くらいのたくましさを誇っている。南洋に浮かぶ小さなミザリア島を潤す生活用水の河や溜め池に比べると、雲の大陸の背中に隠され、透明な水を讃えた潮の香りの漂う河は偉大さがあった。
「あらあぁ?」
 サンゴーンは目を丸くして、ゆっくりと後ずさり、尻餅をつく。見下ろしていた空の河から、銀の鱗の魚が飛び跳ねたからだ。
「大丈夫?」
 冷静だったレフキルはすかさず振り向き、親友に手を貸した。やや鈍くさいところのあるサンゴーンは礼を言って立ち上がる。
「ありがとうですわ」
 激流の轟きは相変わらず、衰えることなく続き、聴覚を遮る。

 レフキルは神妙な顔で腕組みし、再び窓から顔を出して下を覗き込んだ。碧色を帯びた銀の前髪があっという間に逆立つ。
 他方、草木の神者のサンゴーンは黙ったまま両手を組み、一歩引いた場所で相手の邪魔をせず控えめに待っている――と、妖精族の血を受け継ぐレフキルは決意に満ちて顔をもたげた。
「今ので分かったかも知れない。もしかして……」
「何が分かったんですの?」
 素直に聞き返したサンゴーンは、ごくりと唾を飲み込む。いよいよ核心に迫っている予感が胸の奥で時めいていたからだ。

「この河の正体だよ」
 レフキルは事も無げに言い切り、体の向きを変えて窓から腕を伸ばした。届かないので、結局は身を乗り出す格好になる。
「どうしたんですの?」
 サンゴーンは相手の意図を酌み取れなくて呆然とし、何をすれば親友の手助けになるのか分からず、ひどく戸惑っていた。

 かつて〈怪盗〉と揶揄されたほど敏捷で身軽なレフキルは、策を練る際にはじっくり腰を据えるものの、いざ事が動き始めれば〈突き進む大胆さ〉と〈退く勇気〉を両輪にして、持てる能力を活用できる女性だ。サンゴーンが強く惹かれ、自分に欠けている部分だと尊敬するのも、まさにレフキルのそのような点である。

 レフキルは限界まで身を乗り出し、右腕を下へ伸ばした。
 次に彼女が起き上がった時、掌は濡れ、滴がしたたり落ちていた。その中には一掬いの〈空の河〉が確かに存在している。
 すると突然。レフキルは何を思ったものか――皿のスープを飲む猫のように、手を口へ近づけると、赤い舌で舐めたのだった。
 
 
(十二)

「レフキル……?」
 横から覗き見ている、親友サンゴーンの不安をよそに――。
 妖精の血が混じっていることを想像させる、やや長い耳を立てたリィメル族のレフキルは目を見開いて、感覚を研ぎ澄ませた。口の中では、天河から掬い取った透明な液体を味わっている。
 その視線が速やかに持ち上がる。絡まり合う秘密の輪がようやく一つほぐれた、と言わんばかりの納得と安堵の面もちだ。
「やっぱりね」
 うなずいてから振り向き、レフキルは後ろの友に話しかける。
「サンゴーン、こうやって両手を出して」
「えっ?」
 チェックのワンピース姿の若き〈草木の神者〉はためらいつつも、見よう見まねで両手を組み合わせ、水を保てるようにする。
「せっかくだし、サンゴーンにも空の河を味わってもらいたくて」
 と言い残したレフキルは、再び身軽に窓から身を乗り出して、不思議きわまりない空の河に手を浸し、汲み上げるのだった。

 そして指の隙間から全ての液体がこぼれないうちに、サンゴーンの手のひらで作った肌色の〈ひしゃく〉へと注げば、ささやかで爽やかな音が響き、小さな虹が出来る。サンゴーンは神妙な表情だった――不思議な雰囲気が、自然とそうさせたのだ。
 他方、いくぶん現実的な性格のレフキルは優しく忠告をした。
「さっと飲んでみて」
「ハイですの」
 サンゴーンは彼女なりに急いで、どうしても水が漏れ出す両手の〈ひしゃく〉を持ち上げ、ほとんど中身が滴り落ちてしまった空の河のわずかな残りを口の内部に染み込ませるのだった。

 風に乗って飛翔する天河の轟音を遠くに聞きながら、彼女は海色に澄んだ瞳を閉じ、しばらくの間は味覚に集中していた。
 やがて眉をひそめ、可愛らしく顔をしかめて、感想を述べる。
「しょっぱい、ですわ」
「そう……この味に憶えがない?」
 レフキルは嬉しくてたまらない様子で表情をほころばせ、いつ果てるとも知れぬ激しい空の水蛇を背に言葉を継ぐのだった。
「たぶん、これ、海なんだと思うよ!」
 
 
(十三)

「海……ですの?」
 自分の耳を疑い、瞳を瞬きながら驚いて訊き返したサンゴーンに対し、レフキルは穏やかな口調で確かな証拠を提示する。
「だってさっきの、海にしか住まない魚だよ」
「そうなんですの?」
 祖母から引き継いだ若き〈草木の神者〉は、さきほど空の河から魚が飛び跳ねたことを思い出した。一瞬だったので種類までは分からなかったが、親友は冷静に分析していたのだった。
「レフキル、すごいですわ〜」
「そんなことないけどさ、とにかく、ますます分かんないよね」
 つぶやいたレフキルは腕組みして考え込み、すぐ下を流れる激しい大河を眺めていた。国の守護神として深い信仰を集める水龍――海神アゾマールのように空の果てから現れ、塔を取り巻いて彼方へと流れ去る白波の嵐の勢いは衰えを知らない。
 その塔を廻る螺旋部分は、普通の河で言うならば緩やかに蛇行して土砂が堆積するような場所を想像させる。尖塔の前後に続く瀬の速さと比べれば、いくぶん緩やかに思えるのだった。
「天を駈ける河が、海だったなんて……本当に不思議ですわ」
 サンゴーンの方はより素直に畏敬の念を抱いている。ほっそりした両手をチェックのワンピースの胸の前で組み合わせ、南国の遠浅の蒼い波間に眠る真珠のようなを輝かせている。

 ――その時であった。
 全く油断し、魂を解放していた二人に〈変化〉が襲いかかる。
(何、これ……)
 レフキルの鋭い直感も間に合わず、景色が微妙にゆがんだ。

 次に視界が微妙に狭まるような印象を受け、そのわずかの後には、突如として少女らの聴覚の最奥で高い音が耳鳴りした。それはしだいに残響を置き土産に失われてゆく。塔の壁に沿って駆け抜ける水音はなりを潜めており、絶対の静寂が訪れる。
 それは有無を言わせずに押しつけるような類のものではなかったが、意図が分からないうちは不自然とも思える。身体は頭の頂から足の指の先端までもこわばり、歩くことはおろか動くことすらままならず、一気に弛緩してへたり込むことも出来ない。
(どなたですの)
 優しげに膨らんだ唇を閉じて、サンゴーンは微動だにせず立ち尽くし、心の中で見えない相手に向かって訊ねる。襟元に結んだペンダント、彼女が〈草木の神者〉の後継者であることを証す世にも美しい小振りの宝玉は、辺りに散らばる巨きな魔法の力を感知し、集めて、夜空の星のごとく淡い翠色にきらめいた。それは体温ほどの熱を持ち、人の鼓動のように明度を変ずる。
(あの空の河はやっぱり海? あなたは知ってるんだよね?)
 他方、レフキルも無音の世界で身動きできないまま、彼女の長年の親友よりも一段と具体的な質問を投げかけるのだった。

 すると一時的にせよ、あらゆる響きという響きが閉めきった真冬の部屋のように弔われた中で、誰かの声が明瞭に応えた。
『その通りじゃ。妖精族の血を引く娘よ』
 
 
(十四)

 辺りには圧倒的な〈見えない力〉の濃いエキスが蜘蛛の巣のように張り巡らされ、雰囲気は明らかに一変していた。レフキルの二の腕と背中には鳥肌が立ち、呼吸は浅くなって苦しい。威圧感や敵対する印象は受けないけれども尋常ではなかった。
 町を覆った低すぎる雲の大陸と、勢い良く天のを翔る〈塩味の河〉も確かに不思議ではあったが、今となってはそれすら日常から非日常へ誘う扉に思えた。翻って現在の二人をつつんでいる無音の空間は、世界を凌駕して永遠に広がってゆくようだった。視界はむしろ狭まって、遠くの方はぼんやりと霞んでいる。
 レフキルは緊張し、ごくりと唾を飲み込む。そのささやかな音は、狭い部屋の中にいる時のごとく聴覚へ直接に響いてくる。
 さっきの声は誰だったんだろう――レフキルは考えたものの、思い当たる節があるはずもなく、最後には想像力の助けを借りる。いつか露店の絵で見た長いローブの北国の魔女が立体的に浮かび上がってくるが、その姿は大空の蒼に解けて消える。
 心で投げかけた質問に対し、相手は素性を明かしてくれなかった。はぐらかされたが、今の段階では愚問だとも思えてくる。
 他方、サンゴーンはもう一度、率直に訊ねてみるのだった。
(あなたは……)

 しばらくの間があった。双つの耳が一斉に眠ったかのように音は聞こえないが、塔の見晴台に風は相変わらず吹き込んでいるようで、サンゴーンの着ているチェックのスカートの裾がはためき、襟元もそよいでいた。時たま前髪が目に入ったりもする。
 相手からの返事がないものと、諦めかけたのも束の間――。
『そんなのは後から説明する。まずは時間がない、急ぐんじゃ』
 何の前触れもなく、通り雨のごとく突然に、しわがれた老婆の声が殷々と頭の上から降り注いでくる。その急激な変化に、思わずサンゴーンは普通の耳を、レフキルはやや長めの耳を押さえるが、声は内側から生まれているようで小さくならなかった。
(どうすればいいの?)
 物わかりのいいレフキルは老婆の苛立ちを巧みに感じ取って先を促す。横にいたサンゴーンはふと、友の顔を見る――口に出さない言葉は天の糸を介して、きちんと伝わってゆくようだ。

『早く、船に乗るんじゃ』
 謎の老婆は一方的に言った。質問を予期し、説明を加える。
『そこにあるじゃろ。黒い、空の船じゃ……』
 寄せては返す波のように、老婆の語りの残響が遠のいていった。代わりに戻ってきたのは〈空の河〉の轟音だったが、二人は気づかず、夢から醒めた幼子に似て茫然と立ちつくしていた。

「ん?」
 やがてレフキルは、背中の方角で何かが動く物音を捉える。
 振り返った彼女の視線の焦点は――いつの間にか身体の呪縛は解けていた――塔の床のある一点に吸い込まれてゆく。
 南国の麗しい海よりも透き通った翠の瞳が、見る見るうちに期待と歓びに充ち溢れてゆく。レフキルは叫び、そして指さした。
「あれ見て!」
 
 
(十五)

 二人が登ってきた尖塔の階段の出口付近に、サンゴーンの落とした黒いこうもり傘が逆さまになって転がり、強い風の切れ端を受けて微かに動いていた。逆さまになって烏(からす)のように膨らむ傘は、まさに〈空の船〉という異名に相応しかった。
 行動派のレフキルはただちに、傘を拾いに小走りする。他方、草木の神者を務めるサンゴーンはしばしの感慨に浸っていた。天から降り注ぐ雨を避けるための傘が雲の上で宙返りし、空翔る海の河に浮かぶ帆船となる――その新鮮さに魅せられて。

「さあ、追いついた!」
 レフキルは得意の素早い動きで体勢を低くし、腕を伸ばして傘の柄を取り、しっかりと握りしめた。木の感触が心地良く、触れた先から優しく偉大な力が速やかに流れ込んでくるようだ。
 塔を巻く河の轟音は続き、潮の香りは嗅覚を刺激する。雲がほとんど無いので気温は高く、暑いけれどもカラっとしている。湿気と雨雲に覆われていた下界のイラッサ町とは正反対だ。

「あれ、これ閉まらないよ?」
 妖精の血を引く耳の長い少女は試しにこうもり傘を閉じようと試行錯誤していたが、膨らんだまま鉄のように固まっていた。
 夢から醒めきらず、その様子をおぼろげな眼差しで眺めていたサンゴーンは、不意に頭の中へ響いてくる声を再び聞いた。
『おぬしは行かないのか? 十年に一度の機会じゃぞ』
「十年?」
 遠くから届けられた老婆の言葉を聞いたとたん、サンゴーンは敏感に反応し、一瞬のうちに意識は高まっていた。どこまでも続く澄んだ蒼天を仰ぎながら、渇望の瞳を瞬きさせて訊ねる。
 草木の神者の脳裏をよぎるのは、亡くなった祖母の声――。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

『……今は無理じゃろが、大きくなったら、行ってみるといい』
『ああ。サンゴーンなら、きっと行けるじゃろう』
『行けるさ。あと十年経てば、な……』

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 彼女は今や、手がかりを得るための細い糸に必死でしがみついていた。期待と不安が交錯する中、祈るように問いかける。
「十年、ですの?」

 結果として、焦ることも回りくどく訊ねる必要も全くなかった。
 声だけしか消えない謎の老婆は、サンゴーンが久しぶりに聞く、最も尊敬する人の消息を気軽な口調で教えてくれたのだ。
『お前さんの祖母も、来たことがあるぞ』
「え、あの、サンローンおばあさま……が?」
 喋り終える前に、若き神者の瞳は潤み、言葉は震えていた。十年前の祖母の予言は現実のものになろうとしている。ただ、それはサンゴーンがまっすぐに育ってきたという証でもあった。
 相手の返事はなかったが、彼女は気づいていた。風を通して伝えられた雰囲気に否定の翳りは微塵も感じられないことを。

「サンゴーン! どうしたの?」
 どうやらレフキルに老婆の発言は届かなかったらしい。空気を孕んだ黒い傘を重たそうにかかえ、サンゴーンの方を心配そうに見ている。尖塔の見晴台――空の湊には緊張感が充ちた。
『傘の皮は破れない。またのちほど会おう』
 老婆の声が頭を掠めつつ、意識の果てに遠ざかってゆく。サンゴーンは手の甲で頬の涙と青い瞳をこすり、顔をもたげた。
「ありがとう、大丈夫ですの。さあ、レフキル、出航ですわ!」
 
 
(十六)

 改めて見つめると、吸い込まれてしまいそうな迫力がある。
「飛び込む……んですの?」
 尖塔の展望台から顔を出して、十六歳の草木の神者はしばらくの間、ぼう然としていた。窓から彼女の身長ほど低い辺りをかすめ、潮の香りのする海の水らしき激流がすさまじい轟音を響かせて飛んでいる――青空から降り注ぐ細切れの明るい夏の光を返して無数の宝石のようにきらめき、魚たちの翼となって。
 強い風が見晴台を吹き抜けると石造りの塔は高く鳴り、叫び声を思わせる。神秘の海水の龍がおぼろに吹き出している方を眺め、その厚みを調べる限り、大した深さはない。おぼれて沈む、あるいは流れから外れてしまえば、そこは単なるイラッサ町の上空だ。灰色の雲を突き抜けて真っ逆様、とても助からないだろう。その危険性がサンゴーンを躊躇させていたのだった。

「さすがに無謀な感じがしますわ」
 軽く腕組みし、緊張した顔で若き神者は溜め息混じりに付け加えた。ただ、それは今後の行動を否定する言葉ではなく、もはや半ば覚悟を決めた上での懸念だった。祖母が生前に体験したことから、より善く生きるための手がかりを得たい――まだ正確に自覚してはいなかったが、無意識のうちにサンゴーンはそう考えていたのだった。今さら帰るという選択肢は存在しないが、いざ出航しようとするとためらってしまう、錯綜した心境だ。

「でも、やるっきゃないよね」
 開きっぱなしの状態で固まってしまったかのような黒いこうもり傘をしなやかな両腕でかかえたレフキルは、落ち着いた表情で決然と語った。お気に入りの青いスパッツから出ている艶やかな腿は細く筋肉質で、躍動する刻を待っている。森に住む妖精族の血筋を伝える緑がかった瞳は生命力にあふれ、とことん楽しもう――成し遂げよう、という前向きの気概に充ちていた。
「言わなくても、サンゴーンなら分かってるよね」
 相手に傘を渡しながらレフキルは少女らしい素直な笑みを口元に浮かべたが、視線の放つ力は圧倒的に真剣そのものだ。
 ガラスや扉がはめ込まれていない吹きさらしの見晴台の石の窓枠に手をつき、身軽な商人の卵は勢いをつけて飛び乗った。そのまま座り込み、左手を壁に預けて支え、後ろを振り返る。
「たぶん……ハイですの」
 湧き水のように止めどなく強まる期待と希望の中に、いくばくかの心細さを残したまま、サンゴーンは重々しくうなずいた。親友に傘を戻し、スカートに気をつけながら、ゆっくり這い上がる。

 改めて間近に見下ろすと、空を走る海の流れはさっきよりも増幅したように感じた。潮の香りが直接的に鼻を突き、口の中に水っぽい唾液を呼ぶ。レフキルは傘の柄を持って前に伸ばし、辺りの轟音に負けぬ大きな声で隣の親友に告げるのだった。
「傘を投げ込むと同時に、飛び降りるよ! 準備はいい?」
 
 
(十七)

「わかりましたわ」
 特別の緊張を孕んだ表情で、サンゴーンは改めて同意した。飛び交う強風と、細かな潮の香りを含んだ水しぶきが勇気と決断を迫った。不安でも〈やるしかない〉という信念が湧いてくる。
 顔を上げれば無限の青空、そして目線を下ろせば灰色の雲の大陸――その間に解放された横長の世界を、海神アゾマールを彷彿とさせる白波を集めた激しい流れが駆け抜けている。普段は決して同時に見られない快晴と曇り空が共存し、二人の少女たちを挟んでいた。もしも逆立ちすれば、おそらく空は足元に拡がる碧の海になり、灰色の雲が天に思えてくるはずだ。
 さっきの老婆は誰なのだろう、という疑問は尽きないが、それをいま考えても仕方がなかった。答えはこの飛龍の河の下流、海に還る注ぎ口で待っている、という確信に近い予感がある。

 レフキルは大きく息を吸い込み、翠の瞳を開いて凝視した。
 河の勢いを見極め、ほんの少し弱まった瞬間を狙って――。
「行くよっ!」
 空気を切り裂く風の刃のごとき鋭い声とともに、レフキルは河の上流側へ黒いこうもり傘を放り投げた。良く似合っている青いスパッツの裾がはためき、銀の前髪も激しく揺れ動いていた。
 傘が左右に煽られつつ落ちてゆく軌跡を視線の隅で確認しながら、怪盗と揶揄されたほどの敏捷性としなやかな身体を持つ商人の卵、十六歳のレフキルは、妖精の血を引くリィメル族らしい長めの耳を立て、隣のサンゴーンの腰に素早く手を回した。
 そして掬うように友の身体を押し出し、自らも飛び込む。サンゴーンは目をつぶり、咲き出したロングスカートを手で抑えた。

「ひゃーっ」
 落ちてゆく際に特有の、身体の支えが無くフワリと浮かぶような、これまで味わったことのない恐怖の感覚が全身に襲いかかった。懸命に目を開けていたレフキルは、ゆったりと降下した黒い傘が上手い具合に着水して河に乗るのを、辛うじて捉えた。
 その直後――水が轟き、弾けたかと思うと視界がゆがんだ。
 服が濡れて重くなるのも気にせず、絶えず押してくる水に無我夢中で抵抗する。わけがわからぬまま、生きたいという強い思いを燃やし、レフキルは両手で藻掻いた。河はうなり、塩辛い海の水が口に入り、鼻に潜り込んで喉を痛くする。そんなことには構っていられない――レフキルは半ば無意識のうちに、こうもり傘へ手を伸ばした。龍のような河は尖塔をぐるりと旋回し、いよいよ空へ向かって羽ばたこうとしている。速度も増してきた。
「くうっ!」
 伸ばした指先が傘の幕に届き、引き寄せて柄をつかみ、レフキルはほうほうの体で這い上がった。服から靴から髪までびしょ濡れ、耳に水が入って音が変に聞こえるが、休む暇はない。
「サンゴーン!」
 水の勢いに飲まれ、腕を出したまま溺れかけていた友の頭を見つけると、レフキルは恥も外聞もなく、迷わずとっさの判断で重くなった服を脱ぎにかかる。水を吸ってまとわりつくが、何とか最難関の首を抜くと、機敏に黒い傘の縁に移動した。こうもり傘の船が転覆しないように足を後ろに伸ばしつつ、今や唯一の命綱となったシャツを固くつかんだ手は限界まで前へ伸ばす。
 レフキルは悲痛にゆがんだ顔で、心の底から叫ぶのだった。
「サンゴーン、つかまって!」

 二人にとって幸運だったのは、尖塔を離れようとする空の河がゆるやかな曲線を描いていたことだった。速度がやや落ちて、青ざめたサンゴーンの顔が見えるようになる。やっと体勢を立て直した草木の神者は腕を伸ばすが、なかなか届かない。
 カーブが終わりに近づき、急激に轟音が高まってきた――。
 
 
(十八)

 もう一刻の猶予もなかった。激しい嵐を思わせる荒い波や水しぶきが絶え間なく散って、揺れ動き、飛び跳ね、狂い踊る。
「しっかり!」
 河の上と河の中――二人の少女を決定的に分かつ混乱の極みの渦に飲み込まれかけても、レフキルは決して最後まで諦めず、轟音を突き破る大声で呼びかけた。それは友の意識を繋ぎ止めるのに加え、結果的に自分自身をも鼓舞することとなる。

 覚悟が決まった。妖精の血を引くレフキルは、ほとんど直感の領域で判断した。次の刹那、素早く傘の上にうつぶせで寝転がる。徐々に身体を前にずらしながら、両足を傘の柄に絡める。
 さかさまになって流れる黒い傘を無理矢理、浮き板の代わりに使いながら、下着姿の上半身を腹筋の力で起こし、水に向かって仰け反らせた。そして脱いだ服をしっかりつかみ、極限まで腕を伸ばす。二つの瞳には常に、波間に消えては現れるサンゴーンの銀色の頭を捉えている。塩辛い水が叩きつけるように弾け、目や口や鼻に入ったが、もはやそんなことを気にする場合ではなかった。この水の流れを離れれば、あとは大地に叩きつけられるまで落ちるばかりだ。緊張感と集中力は極限まで高まり、視野は急速に狭まるが、そのぶん、ささいなことでも見逃さない。時間が濃縮されて、進み方が遅くなったように感じる。
 足が吊りそうになっても、腹筋や腕が痛くなっても、友達を助けたいという純粋な強い気持ちが助けてくれた。再び、叫ぶ。
「サンゴーン!」

 いよいよ水の流れは塔を取り巻くように曲がって、うねりは一層ひどくなった。遠心力が強まり、無情にも友の手が遠ざかる。普段は泳ぎの得意なレフキルでも、この荒れ狂う天の波の中ではさすがに自信がない。頭は冴えている――サンゴーンの祖母の形見である大切なこうもり傘を守りつつ、サンゴーンも助けたい。むろん大事なのは傘よりもサンゴーン当人だが、引っ張り上げた後のことを考えれば、傘がないと休むことが出来ない。今やレフキルは、とても困難で孤独な闘いを強いられていた。

 ――いや、孤独ではなかった。
「レ……ウぅ!」
 流され続けた華奢な身体のサンゴーンは、レフキルの励ましの声を確かに聞き、今にも空に振り払おうと押し寄せる水の瀬戸際で、親友のもとへ近づこうと死に物狂いで藻掻いていた。
「こっち! あと少し、頑張れ!」
 レフキルの双眸に希望の炎がともる。がぜん、やる気になった青いスパッツの南国娘は、天を駈ける海からサンゴーンを釣り上げるため、服をつかんだ腕をさらに伸ばした。血液の流れがおかしくなり、水温の影響も受けて、指先はしびれていた。

 と、その時――。
「あああっ!」
 
 
(十九)

 遠心力が強まり、非情にもサンゴーンの姿は遠ざかっていった。町の尖塔をめぐって一気に駈けのぼる、海の水で作られた三重の螺旋階段は、いよいよ終わりに近づいていたのだ。風はさらに荒れくるい、レフキルは何度も塩水を飲み、髪の毛から足先までびしょ濡れになったが、そんなことは気にも留まらないほど必死だった。いよいよ追いつめられた妖精族の血を引く身軽な娘は、状況を打開するため、一か八かの厳しい賭けに出る。
「うっ……」
 こうもり傘の柄をつかんでいた足の指の角度を変えると、あっという間に吊ってしまい、苦痛に顔をゆがめる。傘がたくさん風を食べて膨らむようにし、折からの勢いを利用して、サンゴーンの元へ一気に近寄ろうとする。離れる一方だった親友の頭が、みるみる近づいてくる。冷えて、吊って痛む足の指先へ懸命に力を加え、緊急時の尋常でないほどの集中力で微妙に、繊細に舵を取る。こうもり傘の帆船は、まさに天の野原の命綱だ。
「サンゴーン、つかんで!」
 レフキルはここぞとばかり、声を限りに張り上げた。渦の崖っぷちを流されるサンゴーンは、レフキルの励ましに呼応して生命の灯火を燃やし、荒くれた波に飲まれながらも細い腕を差し出した。訳が分からない混乱の極みで、水と雲の入り混じる灰の世界が入れ替わり立ち替わり展開されるが、身体を横にして顔だけを持ち上げているレフキルの必死の形相と長い耳、緑がかった銀の髪だけは、サンゴーンの瞳の中で拡大していった。

 視線は動かさずに足を動かし、左手で水を掻いて――嵐の子らを伴い、圧倒的に寄せてくる〈空の龍〉に抵抗する。右腕を斜め上に掲げて、サンゴーンは最後の希望をもぎ取ろうとする。
 互いのまなざしが留まり、顔と顔が近づき、指先が何度かレフキルの服をかすった。激しい水と風の音は不意に何も聞こえなくなり、二人は呼吸を合わせていく。再び命綱が迫り――。
 そしてようやく、レフキルが脱いで伸ばし、今や絞った雑巾のように濡れそぼった服を、サンゴーンがしっかりと、確実につかんだのであった。実際、それらはほんのわずかな出来事の連続だったが、瞬きの間に広がった一つ一つの閃光のような状景が、魂をえぐって刻印するがごとく、鮮明に脳裏に焼き付いた。

 まだ二人に、休むいとまは許されなかった。上空の冷たい水と風で体温が奪われるのも気にせず、レフキルは素早く上体を起こし、サンゴーンの腕をつかんで精一杯引き寄せる。サンゴーンは寒さと恐怖と安堵と限界で、ほとんど身体に力が入らなくなっていたが、それでも懐かしい祖母の形見のこうもり傘に何とか身体を預け、レフキルの助けもあって不器用に体重移動を繰り返し、浮き輪に乗るような体勢にまでやっと安定してきた。
 しかしながらレフキルは突然、瞳を見開き、疲れ切った枯れ気味の声で、襲いかかる運命にため息を洩らしたのだった――。
「ああ……」
 
 
(二十)

 気まぐれに舞い上がった強い横風を受けて、傘の船はレフキルとサンゴーンの身を預かったまま、塩辛くて荒っぽい天河をあっけなく離れた。それは航路を外れた筏(いかだ)が大洋に飲み込まれるようにも見えたし、湖面に浮いていた落ち葉が突然の波紋と渦に煽られる姿をも想起させた。どこまでも自由で清く澄み渡り――されど支えるものが何もなく、徹底的な自己責任と、冷ややかで孤高の印象を併せ持つ果てしない天の野原へ、二人を乗せた黒いこうもり傘はいざなわれたのだった。

 突如、吹きすさぶ別の風を浴びて、傘の船は右側に傾いた。
「くっ!」
 ほとんど反射的に、サンゴーンとレフキルは傘の柄を両手でつかんでいた。二人の掌が重なり、レフキルはぎゅっと力を込めた。サンゴーンは何も言えず、深い海を彷彿とさせる大きな瞳で、相手の顔を不安そうに見上げることしかできなかった。
 サンゴーンの祖母――前代の〈草木の神者〉の魔力が封印されたお陰で驚くほど寿命が延び、強度も増している不思議な漆黒の〈こうもり傘〉であっても、二人の少女の体重を受け止め続けるには、いくら何でも華奢すぎる。皮が剥がれて骨が折れ、壊れるのが先か。バランスを崩して、ひっくり返るのが先か。二人が最後の望みである〈船〉を失くして、雲を突き抜け、空の底まで真っ逆様に落ちるのは、もはや時間の問題となっていた。

(とくん、とくん……)
 レフキルの長い耳は、自分の鼓動をはっきりと捉えていた。
 時間の流れが、ゆっくりになっていた。あたかも、さっきまで傘に乗って滑っていた塩辛い激流が、本当の〈時の河〉だったかのように。その道からずれてしまった二人の目に、一瞬一瞬の景色はより鮮明に映った。感覚が研ぎ澄まされて、心は世界の懐に近づいた――が、現実の水に濡れた服は重くへばり着いて、折からの上空の風を受け、身が切られるように痛かった。
 遙か下に、イラッサの町を隠している灰色の雲の大陸が遠く横たわっている。綿の切れ端のような白い雲は、南国の海を漂う泡やわかめを思わせて、のんびりと気流に身を任せている。

(光、あったかいな……)
 遮るもののない眩しい夏の光線に直接射られて、レフキルはおぼろげに思った。凝縮された濃密な刹那に、頭は冴え渡る。
 吹き抜けの天井を仰ぎつつ、長い階段を登った懐かしい神殿の尖塔を、今は外側から見渡せた。三周の螺旋のとぐろを描いて塔に絡みつき、勢い良く突き進む天竜――海神アゾマールを予感させる空の河の、巨大な威容を見晴るかすことも出来る。

(あれっ?)
 二人がつかまっている命綱の〈傘の船〉は、塔から少し離れた中空で動く速度を徐々に緩めると、やがて完全に静止した。

 四方八方へ、てんでに自分勝手に飛び交っていたと思っていた風は、高い声で彼らの音楽を奏でながら、複雑に入り組んだ三次元の見えない模様を織っていた。その網の際どいベクトルが重なってバランスが取れている一点に、サンゴーンが祖母の形見として大事にしてきた〈こうもり傘〉が引っかかっていた。
 気流を味方につけた鳥が羽ばたかずに空を滑るがごとく、二人の傘は落ちることもなく、また浮かび上がることもなく、あたかもその場に昔からあった透明な地面に支えられているかのように留まっていた。それは不思議という段階をとうに突き抜けた、恐ろしいほど奇跡的な体験――運命的な出逢いだった。

(空が、意思を持ってる?)
 レフキルは息を飲んだ。

 少し遅れて、感動が沸騰するように体じゅうを駆けめぐり、背中や二の腕に鳥肌を立てた。視線を落とすたびに足はすくむが、あまり怖い感じはしない。隣のサンゴーンの顔も、決して集中力は失われていなかったが、全身が石のように堅くなるほどの緊張の糸と絶望の連鎖は、いつしか、だいぶ解れていた。

 そしてまさにその時だった。
 今までとは明らかに異なる緩やかで円やかな一陣の風が、こうもり傘を抱きしめるように、どこからともなく吹いてきたのだ。
 傘を寝かして二人を投げ出さないためだろうか。新しい風は極めて慎重に、斜め下の方から出発しているように感じられた。

「お願い!」
 レフキルは声を限りに叫んだ。響きの切れ端が、広すぎる蒼に吸い込まれて消える。にわかにサンゴーンも風を励ました。
「頑張ってくださいの!」
「その調子! そっちに行けば、あたしたち助かる!」
 あまり体を動かして傘の船に負担をかけないよう細心の注意を払いつつ、レフキルは風に頼み込んだ。他方、サンゴーンは傘の柄をつかんだ手を離さぬまま、瞳を閉じて祈りを捧げた。
「聖守護神・ユニラーダ様……」

 優しい風の押す力は非常に弱かった。再び動き出した傘は歩くよりも遅く、猛烈なしぶきを上げて天の原を駈ける海の川に比すれば、止まっていると言い切っても差し支えないほどだった。
 それでも風は負けなかった――二人の救出を諦めなかった。
 もちろん、当事者の少女たちも、望みを捨ててはいなかった。
「お願い、あとちょっとだから!」
「おばあ様、どうか私とレフキルを……」

 思いが届いたのか、少しずつではあるが確実に事態は改善していた。途方もない時間が過ぎ去ったように思えたが、後から考えれば、ほんの数秒しか経っていなかったのかも知れない。

 塔をめぐる激流のうち、一番下の流れが近づいてきていた。
 こうもり傘はしだいに速度を上げ、すれすれの高さを維持したまま、シャボン玉を思わせる軽やかな動きで横滑りした。最後はほとんど音も立てず、あめんぼのように着水したのである。
 
 
(二十一)

 変わらずに響き渡っている空の河の轟音や、強い風の甲高いうなり声も、どこか遠くから聞こえてくるような感じがしていた。
 今度はきちんと三回転、何事もなかったかのように塔をめぐって、さかさまに浮かべた黒いこうもり傘の船は順調に進んだ。落ちそうになることも、塔にぶつかりそうになることもなく、木の葉のように河の流れの中央部を滑らかに進んでいくのだった。
 もう大丈夫だ、という直感的な安堵と、明白な意志を持って二人を〈助けてくれた誰か〉に対する畏敬の念が心の奥の方で疼いている。頭は冴えているが、上手く働かない。緊張から解き放たれた少女たちは、精神的に抜け殻となってしまっていた。
「……」
 言葉が出てこない――いや、今の気持ちを正確に語れる言葉は存在しない。想いの種類に比べれば、言葉は足りない。

 しばらくの間、二人は放心していた。傘を貫く芯に寄りかかって、レフキルとサンゴーンは背中同士を付け合わせていた。最初のうちはとても無表情で、通り過ぎる青空や白い雲を、あるいは立ち上る激しい水しぶきを、潮水の流れが滞っている空の渦を、見るともなくぼんやりと眺めていた。やがて止まっていた時間が緩やかに動き出すと、しだいに瞳の焦点が合ってくる。
 そこには、かつて見たことがない神秘的で壮大な風景が、どこまでも広く展開していた。レフキルは目を奪われ、魅了され、食い入るように見晴るかす。一方、まだ現実の世界に戻りきれていないサンゴーンは、ほとんど無意識につぶやくのだった。
「夢、みたいですの……」
 時折、濡れた銀の髪の先端からの雫の宝石がこぼれ、夏の光で虹色に輝いたが、サンゴーンは気に留めていなかった。

 いよいよ空を駆ける汐の龍は、とぐろを巻いていた海神アゾマールの神殿の尖塔から遠ざかり、小さな峠を越えて、まっすぐに続いている長い一本道を少しずつ流れ落ちてゆくところだ。
 視界が一気に広がり、空の果てに吸い込まれてゆく大きな河がその巨大な全貌を露わにした刹那――レフキルの背中には鳥肌が立ち、曖昧な安堵の向こう側にある〈助かった〉という実感が涌いてきたのだった。心身の緊張はほぐれている。あとはためらわず、緩い傾斜の河に運命を任せて下っていけばいい。
 河の最も突端は、遙か先の方で灰色の雲の大陸に沈み込んでいる。その下がどうなっているのかは、まだはっきりしない。
 それでもサンゴーンとレフキルは、確かに〈理解〉していた。
 地上を走る流水と同じく、空の河の還ってゆく先は、麗しい珊瑚礁の根付いている蒼く澄んだ南国の大海原だということを。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 二人の髪が風に煽られる。妖精族の血を引くレフキルの緑がかった銀色と、より純粋な銀に近いサンゴーンの御髪が、生き物のように飛びはね、絡みつき、目隠ししたり逆立ったりした。
 こうもり傘の小舟は、怖いくらいに速度を上げすぎることもなく、かといって滞ることもなく、さざ波を立てて水の一本道を快速に駆け下りている。注意をしていると、大きな海の魚が身をよじって飛び跳ねて、入り組んだ鱗が間近に見えることもあった。
 上空の風は気持ちが良かったが、遮るもののない太陽のきらめきは、ジリジリと焼け付くように迫ってくるような感じがした。
「くしゅん」
「服を乾かさないと」
 サンゴーンのくしゃみを合図に、すっかり正気に戻ったレフキルは、固くなった体を動かしにかかった。膝を抱くような格好になっていたので、身体は堅くなっている。腰を浮かせると船が揺れたので、傘のバランスを崩さないようにしながら、ゆっくりと足を伸ばしていく。すっかり水に浸かったサンゴーンに限らず、長らく下着姿だったレフキルもさすがに寒気を覚え始めていた。
 レフキルは脇の下の挟んでいた服を取り出して、雑巾のように強く絞った。何度も力を込めてひねると、水は出なくなった。
 そして皺だらけになった服をかぶり、袖を通し、無理矢理に首を出して、あっという間に着てしまった。普通ならば、このまま濡れた服を着ていても体温が奪われて調子を壊しそうだが、照りつけてくる南国の太陽はじきに二人を乾かしてくれそうである。布は湿っているし、あまり良い気分ではないが、どちらにせよ風邪をひく可能性があるのならば服を着ている方がましだった。
「サンゴーンも絞った方がいいよ」
「ハイですの」
 背中合わせの友の助言を聞いてサンゴーンはうなずいたが、この狭いこうもり傘の上で器用にワンピースを脱げる自信がなかったので、服を着たまま、部分ごとに繰り返し布を集めて絞った。もちろんチェック柄の、素朴で上品なスカートも忘れない。

 その間もこうもり傘の船は滑るように進んでいる。触れられるほど近い場所を、白い雲の羊の群れがゆったり浮遊している。
 一段落したレフキルは、疲労と脱力と、冷静と驚異と、無駄な飾り気のない感嘆の入り混じった深く長い溜め息を洩らした。
「ふぅーう……」
 
 
(二十二)

 緑みを帯びた銀色の前髪と、やや長い耳が速やかな風にたなびく。髪がそよいで額の舞台が開かれ、空気の流れを直接的に浴びて、瞳は染みた。幾度も瞬きを繰り返し、前を見る。
「こんなことって、あるんだね……」
 だいぶ乾いてきた服を着て落ち着いた後、レフキルはつぶやいた。狭いこうもり傘に深く腰掛けて、軽く膝をかかえている。
 時折、傘の船は小さく跳ねながらも、真っ直ぐに続いている空の河を滑り降りてゆく。手すりも支えも何もない潮の道、あるいは海水の架け橋だが、不思議と落ちる気はしなかった。それは直感かも知れないし、山勘かも知れない。誰かが秘密の心の通路で教えてくれたのか、あるいは単に疲れ切って感覚が麻痺していただけなのかも知れない。恐怖はなかった――それでもやはり落ちる心配のないミザリア島の地面は懐かしかった。
 傘は軽やかに滑っていったが、河の傾斜と水流のブレーキの影響で速くなりすぎることも遅くなりすぎることもなく、それはまさに生き物の呼吸を思い出させた。障害物がないので、ぶつかる可能性もない。時たま、路面の真ん中に白いちぎれ雲が浮かんでいるが、それを突き抜けて黒い傘の小舟はひた走る。

 まだ終わってはいないが、十分に長くて深みのあった今日のこれまでの出来事を、レフキルは静かに振り返る。謎めいた潮の匂いと期待感の漂う町の空気、海神アゾマールの神殿、尖塔の螺旋階段――強い風とこうもり傘、海の魚を乗せて飛び交う空の河、それを隠すように拡がっている灰色の雲の大陸、夏の陽射し、飛び込んだ水しぶき、流されるサンゴーンの頭、手をつないだ時の感触、そして花びらのように風に煽られたこと。
「ほぉーっ……」
 しばらくレフキルが口を開けていると、頬の内側と喉が乾燥し、張り付くような妙な感覚を覚える。健脚の庶民なので乗り物に乗る機会が滅多にないレフキルには、新鮮な経験であった。
 強く注がれる光の仔と戯れ、こうもり傘の廻りでは軽やかに波の水滴が跳ねる。水に目を向ければ、海の魚の大きな銀の鱗や背びれが垣間見える。魚たちは塩味の河のトンネルをくぐって、翼の代わりにひれを動かし、天を翔(かけ)ているのだ。
「この道は、どこに向かってるんだろう」
 乾いた喉で喋ると苦しいので、すぐに唾を飲み込んで潤す。
「どこに続いているんだろう?」

 グズッ――。
 突如、後ろの方から鼻をすする声が聞こえてきた。
 急に醒めたレフキルは、首をひねって、驚いた声で訊ねる。
「えっ。サンゴーン、泣いてるの?」
 傘の柄を挟んで背中合わせに座っているので、相手の表情は見えない。向きを変えようにも傘がバランスを崩して転覆すると困るので、うかつに動けない。レフキルはとっさに右手を回り込ませて、膝の上に置いていたサンゴーンの左手に重ねた。

 しばらく呆けていたサンゴーンだったが、双つの澄んだ瞳は、いつの間にか溢れてきた生暖かい潤いをいっぱいにため込んでいた。落ちるがままに任せた涙は頬を伝ってこぼれ落ち、少し傾きかけた南国の夏の光を受けて夜空の星のごとくに一瞬だけきらめく。やはり海の味のする小さな雫は、轟音を立てて流れ去る汐の流れに飲み込まれて、あっという間に同化する。

 サンゴーンは顔を上げて、優しく差し伸べられた友の手を握り返した。面もちは恐怖でも不安でもなく、限りない穏やかさと染み込んでくるような歓び――それから一縷の諦めと淋しさとに彩られていたが、レフキルの側からは横顔しか見えなかった。
 十六歳の若き〈草木の神者〉は、震える涙声で問い返した。
「レフキルには、聞こえなかったですの?」
 訊かれたレフキルは、色々なことを思い返して、黙ったまま素早く考えを巡らせる。一呼吸置いてから彼女は慎重に応じた。
「……何を?」

 その刹那、あんなに高い音を奏でていた空の高みの風が収まった。前髪はこぼれ落ち、はためいていた服の袖は静まり返る。その間も水しぶきは立ち、サンゴーンの祖母の形見である黒いこうもり傘の船はたゆたうことなく真っ直ぐに進んでいる。
 息を飲んで止まる刻と、変わらず動き続ける刻が交錯する。
 再び耳が聞こえ始め、遠くまで旅に出ていた意識が戻り、堰き止められた時間が溢れ出す。夕凪にさざ波と微風が収まってゆくように泪は少しずつ乾き、サンゴーンははっきりと語った。
「おばあさまの、声ですの」
 
 
(二十三)

「おばあ……様?」
 レフキルは一瞬、サンゴーンの言葉が記憶と結びつかず、呆気にとられたような顔で訊ねたが、すぐに思い出して訊ねる。
「サンローンおばあさん?」
 イラッサ町の前代の町長だった故人のサンローンは、レフキルにとっては〈厳しくも優しいサンゴーンの祖母〉としての印象が強い。幾度となく顔を合わせ、喋り、ご馳走になったのだ。
「ええ。微かに聞こえた気がしましたわ」
 少しずつ和らいできているものの、まだ十分にまぶしい斜め上の光に蒼い目を細めて、サンゴーンは冷静につぶやいた。右手は傘の柄をつかみ、左手はレフキルの手を握りしめている。
 しばらくの間、空の河を一枚の葉のように流れる〈こうもり傘〉の舟が水を撥ねたり、突風が叫ぶ高い音だけが響いていた。

「きっと、天に近いからだね。天上界に」
 その〈声〉はレフキルには聞こえなかったので、簡単に肯定するわけにはいかなかったが――かといって親友の言葉を否定する気はさらさらなく、言葉を吟味し、そつのない応えを返す。
「おばあさん、なんて言ってたの?」
 何も響かせるもののない大空の懐で、レフキルの声はあまたの切れ端となり、四方八方の風に運ばれ、溶けて消えてゆく。
 空を走る海の河は、太陽の光を受けて表面はきらきらと輝いている。その下側は白い砂浜ではなく、珊瑚礁の南の海でもなく、小石が敷き詰められた河の床でもなく――灰色に塗られた雲の大陸であり、それを映しているので明るいような暗いような色をしている。少なくとも普通の海とも河とも色が違っている。

 まぶたを強く閉じて必死に思い出そうとしていたサンゴーンだったが、やがて瞳を開き、ややうつむいて素直につぶやいた。
「何をおっしゃっていたのかは、分かりませんの」
「そっか……」
 レフキルは言葉が見つからなくて、その代わり手に軽く力を込めた。するとサンゴーンの方も、同じように握り返すのだった。
「この傘が風に煽られて、河を離れた時に、聞こえましたわ」
 サンゴーンはもう泣いていなかった。波のように訪れた哀しみは再び過ぎ去って、ささやかで強い嬉しさの種から生まれた、金剛石のように透き通った温かな涙の名残を浮かべている。
 静かに混じり始めている涼しい夕風に身を浸して、レフキルは斜め上を見上げ、青空の遙か彼方にあると伝えられている死者たちの楽園――聖守護神の治める天上世界に想いを馳せた。
「きっとサンローンおばあさんが助けてくれたんだね」
「ええ、おそらく、きっと……そうだと思いますわ」
 しっかりと語ったサンゴーンは、身体の芯から無駄な力みが取れていくような感覚がし、それに加えて心までもが楽になっていた。胸の辺りに輝いている至宝の翠玉のペンダント――祖母から後継者として譲り受けた〈草木の神者〉の印がきらめく。
 黒い小舟が細切れの白い雲の影を通過すると、一瞬だけ陽の光が途切れる。それは空の木洩れ日のように感じられた。

「……」
 心地よい疲れが同い年の少女たちに降り立つ。しばらく会話は途切れたが、その間もずっと二人は汗ばんだ手をつないだままだった。逆さまにした〈こうもり傘〉の舟に腰掛けた不思議な空の航海は順調に進み、塩味の水があちこちで踊っていた。
 そして海竜の河は緩い勾配を滑って上流から中流に至り、灰色の雲の大陸が近づいてきていた。その雲を突き破って、下の方からまばゆい光が洩れている地点が明らかになってくる。
「あれ、何だろう?」
「明るいですの」
 レフキルとサンゴーンは最初、目の錯覚かと思ったが、きらびやかに溢れている輝きは間違いない。視線を集めると、どうやら天の河がついに灰色の雲の大陸を突き抜けている地点のようで、厚い雲を破って斜めに細い穴が開き、水路となっている。
 こうもり傘の快速艇は危ういバランスを保ちながら徐々に速度を上げ、距離は縮まり、まもなくその場所に吸い込まれてゆく。
 
 
(二十四)

「わっ!」
「きゃっ」
 レフキルとサンゴーンは思わず瞳を閉じ、繋いでいた手に力を込めた。反対の手は〈こうもり傘〉の芯をしっかりと握りしめる。
 ずいぶん酷使した黒い傘の小舟だが、十六歳の二人の少女を乗せたまま激しい水を浴びても皮は破れていないし、骨も曲がっていない。もともと、サンゴーンの祖母のサンローンが使っていた傘であり、未だに魔力が残っているためだと思われた。

 雲の大陸を貫通して流れる水のトンネルに入ると、視界は灰色になる。内部には〈悦び〉という感情を想起させる不思議で根元的な明るさが充ちて、次々と弾け、あふれ出そうとしている。
 真っ直ぐ掘られた斜坑なので出口のぼんやりした光も見えている。つい先頃まではどこまでも遠く広がっていた視界が急に細長くなったので、かなりのスピード感を味わう――雲の壁に衝突して大空に投げ出されるかのような錯覚さえ感じた。斜面の角度は緩やかだが、いつか見た滝壺をなぜか連想させる。
「ぶつかるよ!」
 レフキルは身を屈めて叫んだ。頬や耳は風圧を受け続け、小舟は時々不安定に横揺れする。サンゴーンも瞳を開けたままにしておくのは怖かったが、閉じたら閉じたで気分が悪くなりそうだったため、薄目のまま傘の柄にしっかりしがみついていた。
「早く……ひゃあ! 早く、抜けて欲しいですの!」

 雲の大陸はそれほど厚くなかった。実際にはあっという間に出口が大きくなり始め、懐かしい〈下界〉が間近に迫ってくる。
 あと少し、もう少し、ほんのちょっと――距離が待ち遠しい。
 その間も黒い傘の小舟は空の大河を留まることなく走り続けて、あっけなく出口にたどり着き、勢い良く通過したのだった。

 刹那ののち、レフキルは眼下の景色に釘付けになっていた。
「海! ねえ、サンゴーン、海だよ!」
 他方、サンゴーンは下を見るのが恐ろしかったので、出来るだけ遠くに視線を送る。雲の大陸に光を遮られ、薄暗い空の下、遙かに緩やかな弧を描く水平線が見えて胸が熱くなった。
 彼女は掠れ声で、万感の思いを言葉に託して呟くのだった。
「ええ、海ですのね……」
 
 
(二十五)

 大河が海に注ぐのに似て、天の河は雲を突き抜けて間もなく水量が豊かになり、傾斜も緩やかになっていた。当然の成り行きとして船の流れる速度が落ち、水が跳ねるという動作一つ取っても不思議な貫禄が出て、雄大になってきた。傘の小舟はこれまでにない安定感を保ちながら、数奇な運命の流れに乗り、二人の少女を支えて、臆することなくひたむきに進んでいった。
 視線を伸ばすと、潮風にたなびく空の河は最後の部分で木の根かフォークのように枝分かれし、やがては海に注いでいた。

「ミザリア島も、船も見えませんの。でも……」
 サンゴーンは口ごもった。その顔は〈心配〉よりも、むしろ〈安堵〉に満たされており、一つの懸念が消えて晴れやかだった。
「うん。あたしたち、帰ってきたんだ」
 レフキルは力強く返事をして、それから表情を引き締める。
「まだ油断は出来ないけど。でも今回の旅は、海に着いたら一区切りつくよね。あとはきっと、物語の本筋とは関係のない、後日談みたいなものになると思う。どうやって、この沖からミザリア島に帰るなんて分からないけど、きっと大丈夫だと思うよ」
 レフキルの言葉は確信に満ちていた。あてずっぽうでも、身勝手な期待でもなく、今日の経験に裏打ちされた〈予感〉だった。
「もしかしたら、そんなに沖じゃないのかも知れないし。誰かが魔法の力で入れないようにしてる……って可能性もあるから」
「そうですわね」
 サンゴーンはうなずき、汗ばんだ親友の手をそっと離した。
 レフキルははっとして驚き、相手の蒼い瞳を覗き込む。温かな遠浅の海で泳いだ後のような重い疲労感が全身にのしかかっているのだろう――サンゴーンの目や頬の辺りは疲れていたが、瞳の輝きは極めて静謐だった。胸元に輝く〈草木の神者〉のペンダントを握りしめる親友の姿を見て、レフキルはもう手を握っていなくても大丈夫なのだと分かった。それは一抹の淋しさを起こさせたが、同時に友情の新たな深まりを感じていた。

 空の河の海竜を思わせていた凄まじい轟音は遠ざかり、水を集めて膨らんだ下流はゆったりと進んでいる。灰色の雲の下なので、南国の海に特有の麗しい翡翠色は本来の鮮やかさを弱めていたが、空のトンネルの下の部分だけは細い光を浴びて、井戸の底のように、小さな鏡のように反射し、きらめいている。
 空気の流れや質感までが変わったような気がする。懐かしい海を見下ろしつつ、少女たちはようやく空の航海を素直に楽しめる心境になりつつあったが、果ては刻一刻と近づいている。
 過去である空の高みと、現在目の前に連続している透明な川面、行き着く先の眼下の海を順に眺めて、レフキルは呟いた。
「この河、どこに行き着くんだろうね……海に注いで」

 返事は、とても意外な者から――予想外の形で降ってくる。
『夕方が近いから、それぞれの場所に帰ってゆくんじゃよ』
 
 
(二十六)

「あなたは……」
 割れた雲の間から降り注ぎ始めた橙色の光に目を細めて、レフキルは斜め上の方を仰いだ。サンゴーンも右手を額に当て、華奢な左手の人差し指を曲げて、こうもり傘の柄を握りしめる。
『おぬしらは、間に合ったんじゃよ』
 心から安らいでいるかのような、ゆっくりと落ち着いた深い語り方で、老婆の声が語った。亡くなったサンゴーンの祖母、サンローンとは異なるが、それは確かに耳に憶えのある声だった。
『十年に一度の、大掃除にな』
 それは神殿の尖塔の頂上で、こうもり傘に乗る前に天から届けられた、不思議な嗄れた声と相違なかった。サンゴーンは何だか胸がいっぱいになり、単語を繰り返すのが精一杯だった。
「大掃除……」
 そして彼女の頭の中では、老婆の言葉が反芻されていた。
《早く、船に乗るんじゃ》
《そこにあるじゃろ。黒い、空の船じゃ》
《おぬしは行かないのか? 十年に一度の機会じゃぞ》
《お前さんの祖母も、来たことがあるぞ……》

 最後にはこの言葉に突き当たり、再び胸と瞳が熱くなった。

 頭上を覆いつくしていた雲の大地は、まるで嵐が過ぎ去った後のように、あるいは暑い陽射しの下で溶け始めた氷結魔法のアイスと同様に、もしくは祭りが終わった後の野外舞台のように、大急ぎで解体が始まっていた。灰色の地面が裂けて、白い綿のような雲が飛び出し、風に煽られて散り散りになってゆく。
 威厳のある空気が、開かれた眸を彷彿とさせて大きく広がってゆく雲の穴から怒濤のごとく流れ込み、空の河と混じり合って麓の海へ還っていく。その変化の速度は著しく速く、二人の少女たちの目の前で灰色が夕焼けに塗り替えられていった。
 まさに、空の劇場の幕が閉まろうとしていた矢先に――。

 その時、吹き抜けていた空の波風が、ふと止まった。
 かき混ぜた紅茶の牛乳を思わせて、芸術的で繊細な渦を描いていた残り香的な雲が素早く霧散すると――逆光の中で、腰を曲げて立ち尽くす小さな人影がぼんやりと浮かび上がった。
 その影法師はとても遠い場所にいるようだったが、目を凝らせばしだいに近づき、すぐそばにいるような気もしたし、とにかく距離感がつかみにくかった。それでも、やや前のめりの姿勢で宙の一点に杖をつき、白髪を風に揺らすのみで微動だにせず老婆はたたずみ、確固たる存在の炎を決して絶やさずにいた。
 上と下が繋がったローブのような、ゆったりとして裾の長い服を着ており、その裾がそよいでいる。色は逆光のために良く分からなかったが、それはおそらくどんな色でも有り得るのだ。
 長い白髪の前髪に隠れて、目は覗けない。それを見ることが出来なくても、長い刻を経て、世の中の悲喜こもごもを黙って見守ってきたかのような〈温かさ〉と〈冷たさ〉を併せ持つ超越した雰囲気が、老婆から絶えず秘かにほとばしっているのだった。

 レフキルの方も、気圧されてしまい何も言えなかった。それでも重い腕を動かして西の陽射しのまぶしさに目をこすると、身体の呪縛が少しずつほぐれて、渇いて張りつく喉がうずき出す。
「あなたが、案内してくれた……んですか?」
 言葉には自然と尊敬の念が籠められ、丁寧になっていた。すると、やはり耳の奥から響いてくるかのような妖しき老婆の重厚な声は、単純明快とでも言いたげに、こう応えたのだった。
『どんな河でも、果ての果てを探れば、海に通ずるものじゃよ』
 終わりが近づいて幅が広がり、空の大河は数々の支流を集め始めて流れが緩やかになっていた。こうもり傘の小舟は滑るように進み、沈黙が舞い降りれば、潮水がちゃぷんと跳ねた。
 
 
(二十七)

『そして……帰ってゆく。各々の家族が待つ、各々の場所へ』
 老婆の声は一言一言を噛みしめるように響いてきた。その間も時は過ぎ、河は流れ、大いなる家である海が近づいてくる。
 天高くの風と波音という、普段はめぐり逢えない二つの調べを伴奏に、姿の見えない老婆は息を飲んで大切に言葉を継ぐ。
『むろん、おぬしらもな』

 いつしか雲は霧散して空が開き、数日ぶりの南国の夕暮れが、しっとりと染み込んでくる季節のごとく訪れようとしていた。
 ほんのりと紅く染まった薄雲は恋をしている少女の頬を思わせ、水平線に寄り添っていく太陽は誰もが持っている宝石だ。
 二人の乗っている〈こうもり傘〉の小舟は、全てを空の河に任せて、ゆったりと流れていた。サンゴーンの銀色の髪と、レフキルの翠がかった銀の髪の毛は、乾いた塩水でやや張りついている。腕の産毛は微かになびき、服はもう完全に乾いていた。
「各々の、場所へ」
 レフキルがつぶやく。海に着水してしまえば、この不思議な旅も終わりを迎えると言うことが、確かな予感として湧いてくる。
 河の流れは時間の流れであり、何もしなくても舟はただ海を目指して流れてゆく。この状況に抵抗するでもなく、また諦めるわけでもなく――レフキルはできるだけ〈受け容れよう〉と考え、改めて冷静になって考え、老婆に質問を投げかけるのだった。
「落ちそうになった時、助けてくれたのは、あなたですか?」
「……レフキル!」
 その質問が出ると、サンゴーンははっとして、背中合わせの親友の顔を覗き込もうとした。こうもり傘が風に煽られて海竜の河を離れた時、彼女は亡くなった祖母の声を聞いたような気がした。彼女が今日の経験の中で最も知りたかった出来事だ。

 音もなく降り注ぐ暖色系の光が、豊かな水量を誇る天河の水面に反射してきらめき、左右の遙か下に俯瞰出来る大海原を染め上げる。些細なことにこだわらず大らかに生きる髭面の老人のようにどっしりと、高度は少しずつ下がってゆく。あるいは名残を惜しんでいるかのようにも、サンゴーンには感じられた。
 ふっと空気が凪げば、老婆の声が再び頭の奥に響き出す。
『いや、わしじゃない。わしは手出ししとらん。わしは案内人ではなく、もっと中立的なものじゃ。……あれは風の意志じゃよ』
「風の、意志ですの?」
 サンゴーンは傘から思わず身を乗り出し、老婆がどこにいるか分からないので、さまざまな方向に視線を送りつつ訊いた。
「どういうことですか?」
 友のレフキルも出来る限り丁寧な口調を心がけ、尊敬の気持ちを込めて素直に質問すると、いらえはすぐに降り注いでくる。
「雲だって海だって、生きているんじゃ。澱んだり腐ったりしないのは、生きている証拠じゃ。あの海の波が何か、分かるか?」
「海の……鼓動?」
 応えたのはレフキルだったが、彼女は口からふいに出てきた言葉に自分自身が最も驚いているようで、きょとんとしていた。サンゴーンは、こうもり傘の柄を挟んで反対側に腰掛けているレフキルの顔を思わず覗き込もうとしたが、黒い傘の舟が大きく揺れたので断念し、膝を抱える形で窮屈に座り直すのだった。
『そう。そして風は空の呼吸じゃ』
 老婆は補足し、さっきの言葉をもう一度繰り返すのだった。
『海も空も、生きているんじゃよ』
 
 
(二十八)

 驚くほど幅の広がった天翔ける大河は、かつての早瀬の様子とは異なり、ほとんど水音を立てていない。入り日の放つ明日の光に照らされて、雄大になった〈彼ら〉もまた、ここまでの長い旅――振り返れば、あっという間だが――を繰り返し反芻して、最後の目的地を控えつつ、感慨に浸っているかのようだった。
 いよいよフォークのごとく河の流れが袂を分かつ部分に近づいてきた。木の根のように、雨上がりの光が虹となるように、あるいは指先のように五つか六つに分かれていた。傘の小舟はどこか名残惜しそうに、その中の一つの路を選んだ。他の水の流れを横から見ると、それは水で出来た長い橋のように思えた。
 サンゴーンとレフキルは膝を抱えた姿勢のまま、老婆の言葉をじっと胸の奥で噛みしめ、懐で味わっていた。その背中には鳥肌が立っている。移りゆく空と海、昼と夜の狭間で、雲の上を滑ってきた龍を思わせる天の潮水の河に想いを馳せると、砂浜に打ち寄せる波のごとくに次々と感激が湧いてくるのだった。

 その時、レフキルはふと天を仰ぎ、鋭い驚きの声を発した。
「……あっ!」
「どうしましたの?」
 こうもり傘の柄を境として背中合わせの状態になっているサンゴーンが訊ねると、レフキルは何も言わずに腕を掲げ、妖精族の血を引く者としてはやや短い指を伸ばして斜め上を示した。
 夕暮れに迫りつつある熱っぽい光が緩やかに柔らかに満ち足りた空間の片隅に、腰がやや曲がって杖を握った黒い人影が、まるで夜の先触れのようにかそけく縮こまって浮かんでいた。
 相手は太陽を背にしているため、レフキルたちの位置から見れば思いきり逆光で、しかもかなり遠く、表情は見分けられないが――それが話し手の〈老婆〉であることは明らかだった。
 レフキルの指の先を何度も倍々に延ばし、示す先を追い、サンゴーンはついに同じ場所にたどり着いた。若き〈草木の神者〉は、万感の思いを込めて、震える声で静かに強く語りかけた。
「やっと……会えましたの」

 雲を縫って現れた巨きな海鳥の群れはきびすを返して、ここからでは見えない砂浜を目指して飛び去ってゆく。今や何の変哲もない――それでいて過去のどの夕暮れとも異なる素晴らしい夏の黄昏を迎えつつあり、雲は淡い赤灰色や薄桃紫に染まった。その一方で光を受けた部分は強烈な輝きを放っている。
 二人はあまりのまぶしさに、額を空いた手で覆いつつも、両眼を線のように細めて老婆を凝視した。相手は何の支えもなく、宙(そら)の一点にとどまって、微動だにしない。長い後ろ髪を軽やかな潮風にたなびかせ、幻の存在ではないのだと知れる。

「世の中には、不思議なこともあるものじゃ」
 老婆はひどく嗄れた声で喋り、言い終わってから咳き込んだ。その語りは、これまでのように耳の内側へ直に響いてくるのではなく、きちんと空気の波動を通じて届けられたように思えた。
 少女たちは黙って精一杯に耳を澄まし、老婆は話を続けた。
「さっき、わしは〈風に意志がある〉と言った」
 一陣の風に煽られて、こうもり傘の小舟が激流の河の軌道を外れた時、二人を救った反対向きの空気の流れについてレフキルが訊ねた際に、老婆は〈風に意志がある〉と説明していた。
「じゃが、風の意志と言っても、風が自ずと動いたとは限らぬ」
 本来の感情が厚く隠蔽されている、冷静な言葉が淡々と伝わってきた。相手が何を言いたいのか、まだ分からず、サンゴーンは一言も聞き漏らすまいと唇を閉じて集中している。とっくに乾いている彼女の銀の髪が、天龍の河口の風を受けてなびく。

「念のために言っておくのじゃが……」
 そこで老婆は珍しく口ごもる。続く口調は、ずっと無感情だった老婆としては初めて、僅かにおどけた感じが含まれていた。
「誰か――どこぞの誰か――に頼まれた事柄を承けるかどうか決めるのも、それはそれで、やはり〈風の意志〉じゃからなァ」
「風に、誰かが……」
 彼女はうわごとのように呟く。心の奥底に拡がる花園では一斉に色とりどりのつぼみが開き、あまたの温かな灯がともる。
 老婆の話は、小舟が道を踏み外した際の奇跡について、亡くなった祖母の関与を暗に示唆しているように聞こえたからだ。
「その可能性は否定せぬよ」
 老婆が細くするや否や、サンゴーンの瞳は見る見るうちに潤み、やがて頬には一筋だけ、流れ星に似た涙の河が伝った。
 レフキルはほっと胸をなで下ろし、背中の友に声をかける。
「サンゴーン、良かったね。本当に……」
 
 
(二十九)

 背中合わせの友の言葉にサンゴーンはうなずいたが、その仕草では相手に伝わらないと思い直し、改めて同意の意思を告げた。黄昏の淡い光に横顔を照らされて、草木の神者は言った。
「はい、ですの」
「大丈夫。サンゴーンがうなずいたの、わかってるよ」
 レフキルの補足ははっきりとした明快な口調ですぐに行われた――あふれるほどの温かな気持ちを込めて。サンゴーンは、今度は何も言わずに腕を伸ばして、友の手を再び握りしめた。
 旅の涯て、という印象を強く感じずにはいられない大海原の水面はかなり近づいており、蒼翠の海の模様を思わせる白波の群れも、さっきよりも詳しく見分けられる。空の河も、行き着くべき所はやはり海に注いでいるのだ。全てのものが帰るべき場所へ帰ってゆく、と語った老婆の言葉が二人の脳裏をよぎる。
 潮の香りは一段と強まり、空のさわやかさはほんの少しずつではあるが遠ざかっていった。空の底と海の天井をかすめながら、ゆったりと進む潮水の大河に運ばれてゆく古の傘の舟人たちは、気高い風と慈悲深い波とを同時に感じることができた。

 やや日に焼けたサンゴーンは、もう泣かなかった。常につきまとっていた心配や悩み事が一時的にせよ昇華したかのような、とても安らいだ顔をしている。助けてくれた風と、亡くなった祖母の声の関連について、空から見守ってくれている祖母の存在――最も真相に近づきたかった話を老婆から聞くことが叶い、過ぎ去った出来事に一つの〈確信〉が持てるようになっていた。
 もっとも、その件について謎めいた老婆からさらに深く聞き出せるようには思えなかった。夕陽に染まった赤い縁の薄桃色の柔らかな雲を背景に、黒い影となっている浮かんでいる老いた女性の、その周囲に漂っている見えない空気の層から察するに、すでにサンゴーンの祖母についての質問の可能性は閉じられていたように思えた。そうでなくとも、サンゴーンとレフキルには相手へ伝えるべきことや訊ねたいことが山ほどあったのだ。

 最後の緩やかな曲線を曲がり、海に注ぐ河口が見えている。随分と酷使した黒いこうもり傘は、今のところ壊れる素振りを見せないで、ほとんど音を立てず健気に水を滑り降りてゆく。大河をゆく一枚の葉と変わらず、船の進度はますます落ちて、名残を惜しむかのように、きわめて遅くなり――それと比較して、たゆまずに動き続ける時間の流れは速く、非情に感じられた。

 この不思議な旅と、老婆との別れが近づいている。
 それは予感でも何でもなく、極めて重い〈現実〉だった。

 相当の勇気を振り絞ったのだろう、サンゴーンは眩しさに目を細めつつもしっかりと顔を上げて、老婆の姿を瞳の中に捉えた。握りしめたままのレフキルの手に軽く力を込め、傘に腰掛けたままの姿勢で、驚くほど朗々と響き渡る澄んだ声で語り出す。
「もしもあなたが、風に頼んだ人に連絡を取れるならば……」
『……』
 太陽が薄雲に隠れ、黄昏の彩度が下がり、老婆の表情をほんの一瞬だけ垣間見ることができた――ような錯覚があった。
 すぐに雲を抜けて現れた強い光をきちんと受け止めて、サンゴーンは精一杯の想いのたけを言葉に載せて、夕風に託した。
「私とレフキルからの〈ありがとう〉を、伝えてくださいの」
『もしも会えるのならば、伝えておこう』
 貴重な時間を知っているのだろう、老婆のいらえは迅速で無駄がなかった。サンゴーンほっと胸をなで下ろし、頬を緩めた。
 しばらくの間、黙って成り行きを見守っていたレフキルは、熱く高貴な望みを焚いて、ここぞとばかりに切なる頼みを告げた。
「あたしからもお願いします」
「そして〈ありがとう〉ですわ。こちらは、あなたに贈りますの」
 素直で飾り気がなく、これ以上ないくらいの最高の笑顔で、サンゴーンは言った。額と脇の下には、緊張で汗をかいていた。
 
 
(三十)

 ほどなくして、川は海に注ぐだろう――。
 黒い〈こうもり傘〉の小舟はかすかに左右に揺れながら、少しずつ少しずつ河の流れに運ばれてゆく。この世の終わりを思わせるほどに赤々と燃えさかっている夕陽の光を受けて、薄く柔らかそうな雲が漂う大空の下、頬を橙に染めて額に手をかざしているレフキルは、斜め上を仰いで最後の問いを投げかけた。

「最後に一つだけ、教えて下さい」
 そこで彼女は息を飲む。水の流れは、かつての若かりし〈空の河〉の轟音とは異なり、海の波と似ているタプンタプンという豊かで味のある響きへと変わっていた。旅の終着は遠くない。
 改めてレフキルは気持ちを振り絞り、老婆の核心に迫った。
「あなたは……」

 潮風が耳を撫で、何度も吹いては止んだ。
 銀の鱗の魚が身体を思いきりひねり、水面から跳ね上がる。
 重い時間が流れた。実際には一瞬のことだったのかも知れないが、待っていたサンゴーンとレフキルにはひどく長く感じた。
 やがて頭の奥底に、淀みない速やかないらえが返ってきた。
『わしのことは〈掃除人〉とでも呼んでもらえば結構』
「掃除……人?」
 サンゴーンとレフキルは同時に、とても慎重な言い方で繰り返した。色々な想像が頭の中を駆けめぐるが、答えは袋小路だ。
 もはや老婆はためらわず、別れ際の置き土産として自らの秘密を――生涯をかけた不思議な仕事を、とつとつと説明した。
『さよう。深い海に生きる魚も、たまには明るい空を泳ぎたいじゃろう。海を這う波だって、たまには雲の気分を味わいたいじゃろう。だからわしは世界中を回っておる。十年に一度、この辺りにやってくるのじゃ。深いところは流れがよどむのでな……』
「……」
 聞き手である十六歳の少女たちの集中力は極度に高まり、身体中が聴覚の固まりになってゆく。しだいに老婆の声を除いた全ての音は消えていったが、そのことに気づかぬまま、二人は雲間に浮かぶ小さな影法師をまぶしそうに見つめていた。
 相手の低い声は、躊躇することなく速やかに続いていった。
『魚にとっての空は、鳥にとっての海なのじゃから。どうしても越えられない向こう側を突き抜けて、水の橋を架けてやるんじゃ』
 
 
(三十一)

 フォークの先端か、あるいは背の高い南国のザルカの樹のように枝分かれした末広がりの大河に浮かぶ一葉となって、サンゴーンの祖母の形見である魔力を帯びた黒い〈こうもり傘〉は、ほとんど止まりそうなゆったりとした速さで流れ落ちていった。
『十年に一度のこの日……白波と白雲とともに、空を駆ける』
 老婆が喋り終えた頃、風と波は自然と凪ぎ、空と海は向かい合った果てしない一対の鏡となってお互いを覗き込んだ――優しい色の夕陽を浴びて、ほんのりと頬を赤らめ、はにかんで。

 妖精族の血を引くレフキルはやや長い耳を伸ばし、口を半分ほど開きかけたが、思い直して閉じる。だが彼女は意を決したのか、改めて上下の唇を離し、驚嘆と尊敬の念を籠めて語る。
「雲のかなた、波のはるかに、一つの真実がある……」
 不思議な出来事の種明かしに心を奪われていた彼女は、微かにつぶやいた。その言葉を背中で聞いたサンゴーンは、友の素直な感想を噛みしめるようにして、丁寧にうなずくのだった。
「本当に、そうですの」
 穏やかで深みのある沖の波の上を、夜空の星を思わせる光の宝石たちが元気良く無邪気に飛び跳ねていた。明るく拡がっている夏空も、魚や植物の森となっている遠浅の海も、久方ぶりの〈掃除〉を終えたのち、晴れやかで新鮮な印象を受けた。
 むろんサンゴーンとレフキル自身も――。二人は何とも言えない充実感と誇りと、程良い疲れとを顔に漂わせていた。口元は軽く緩み、瞳は潤っているが、頬は硬く重たくなってきている。
 一呼吸置くと、小舟は左側に、次に右側へと大きく傾いた。

 そして、止まった。

 意外とあっけない。
 強い前触れはなかった。
 動も静も、同じ一つの延長線上にあった。

 神殿の尖塔を出てから、決して休むことなく前へ前へと走り続けていた黒い〈こうもり傘〉は、この場所でついに一つの旅を終えたのだ。波を受けて、後ろに揺られたり、前に動いたりする。
 あまりにも広い空と海の懐に抱かれ、涼しい潮風につつまれて、少女たちの心は開放感に充たされていた。むしろ〈開放感〉という概念さえも越えた、何の縛りも懸念も不自由もない、日常を飛躍したうえで日常を見直すような、限りなく幸福な瞬間だ。
「……」
 二人は言葉もなく、お互いに腕を伸ばしてそっと掌を重ねた。

 やがて微風がそよぎ出すと、止まっていた見えない砂時計が逆さになって、再び時を刻み始める。ふっと、サンゴーンの横顔に寂しさの影がよぎった。祖母から受け継いだ、胸元に輝いている〈草木の神者〉の緑色のペンダントを、彼女は握りしめる。
『さあ、着いた。空と海との交点じゃ』
 同じであって同じではない、老婆の語りが頭の奥に殷々と響いてくる。温かい充実と色褪せる感覚が夕暮れを編んでいる。
 逆光を受けて闇色となっている老婆の姿は、いつの間にかさっきよりもかなり遠ざかっていた。低い声もかすれ始めている。
「はい」
 レフキルは思わず背筋を伸ばし、相づちを打った。相手から発せられる次なる言葉が、ほとんど予想できていたからだった。

『ここから先は行けぬものでな。袂を分かつ時が来たようじゃ』
 それは細かい言い回しの差こそあれ、レフキルの考えの範囲内だった。彼女は老婆の浮かぶ宙を仰ぎ、サンゴーンも倣う。
 
 
(三十二)

「ありがとうございます」
 サンゴーンの唇から、まずはごく自然に礼の言葉が洩れた。水平線に近づくにつれて、しだいに濃くなって紅に照り映える夕日のまぶしさに、十六歳の瑞々しく艶やかな頬や手の甲は染め上げられ、頭の上は暖かかった。この、生涯忘れないであろう一日の終わりにふさわしい、空から母性的に降り注ぐ輝きの美しさは、南国の初夏の海に時間と国境を越えた北国の秋の紅葉を映し、二人の少女の心の奥にまで届き、染み渡った。
 なるべく太陽の光を直接見ないようにし、蒼い瞳を限りなく細め、サンゴーンは遠ざかる老婆の黒い影を視線で追っていた。
 ある刹那、胸から喉のあたりに強い負の感情がこみ上げた。
「……っ」
 熱い思いは瞳を湿らせたが、彼女の中で何か抑えるものがあったのだろうそれ以上は膨らまず、零れ落ちることはなかった。一粒だけ最後に生まれ出た涙のかけらを人差し指の先で掬い取った彼女は、充実した微笑みを取り戻して額に手を当てた。

「楽しかった!」
 レフキルは素敵な思い出を肯定する精一杯の明るさで、長い耳を立て、空の高みに向かって叫んだ。陽は黄金の輝きを絶えず投げかけながら、空と海の境目に近づいて双方に凪をもたらす――潮風も波も和らいで、安定と中庸と保守の女神、聖守護神ユニラーダのしろしめす黄昏時に敬意を表する。空の高いところはまだ蒼く、いくつもの清らかな薄いすじ雲が走っていた。
 膝をかかえ込む格好をずっとしてきたので、サンゴーンもレフキルも腰が痛くなり始めていた。黒い傘の小舟は、ミザリア島の遙か沖で、深い海の表面をゆく波に揺られて動いている。
「さて、これからどうしよう……」
 朱い太陽が写って長い光の街道となっている海を見回し、現実的な課題に突き当たったレフキルが、ぽつりとつぶやいた。

 ――と、その時だった。
『最後まで責任は持つとしよう。乗り換えるのじゃ』
 掠れた老婆の声が聞こえ、その直後、小舟は大きく傾いた。
「きゃあ!」
 サンゴーンの悲鳴があがった。他方、冷静さを保っていたレフキルは腕を後ろに伸ばし、傘の柄を挟んで背中合わせの親友の、ほっそりした肩を探ってその上に軽く乗せ、呼びかける。
「落ち着いて! あたしたち〈乗り換える〉んだって」
「どういうことですの?」
 太陽はますます家路を急ぎ、南国の空は遠くまで見通せる。

 老婆の返事はなく、頭に響く独特の声は途切れてしまった。
 だが、その答えは間もなく知ることができた。
 こうもり傘の魔法の小舟は、明らかな意志を持って流れる丸いドーナツのような波に抱かれ、滑るように流れ出したのだ。

『さらばじゃ……』
 老婆の黒い影はもはや星のような彼方となり、魔法で伝わる別れの言葉はほとんど夕風と混じっている。だが厳しく皺が刻まれた口元を初めて相手が緩めたのが、不思議なことにサンゴーンにもレフキルにもはっきりと間近に感じられたのだった。
 燃え盛る太陽の下端が、ついに水平線に触れた。恐ろしいほど目に染みる今日の最後の紅の輝きが、空と海に散らばる。
「さようなら」
「さよなら」
 サンゴーンとレフキルは老婆に別れを告げて、前を向いた。
 
 
(三十三)

 天が原の高みと海原の深みをつなぐ十年に一度の祭典は、こうしてお開きとなった。老婆の気配が遠ざかる――彼女は別の場所へ発ち、彼女の仕事を務めるだろう。そしてまた十回目の初夏、この海に現れては雲で空を覆い、波を空に飛ばして海の掃除をするのだろう。いつかの日のため、今は袂を分かつ。
 黒いこうもり傘の小舟を背中に乗せてそよ風のように軽く、老婆が放った最後の波は海の小山となり、速やかに流れてゆく。初夏の夕暮れの潮風は心地よくそよぎ、サンゴーンの細くしなやかな星の輝きを秘めた後ろ髪を撫で、レフキルの妖精族の血を引く緑がかった銀の前髪を揺らした。舟の速さと相まって、襟首の辺りは涼しいほどだった。海も空もいよいよ紅く燃え、背中に感じる夕陽は暖かい。正面にはミザリアの島影が見える。

「静かだね……」
 顔の左側に夕陽を受けているレフキルはつぶやいた。天を駈け抜けた激しい水竜と交わっていたとは思えぬ、穏やかな凪ぎの海だ。その水面に数え切れない光の粒がちらちらと瞬き、まるで〈ここで飛び上がることができれば今宵の星になれる〉という儚い想いが伝わってきそうなくらい、懸命にきらめいていた。
 波のゆりかごは疲れた少女を憩わせる。珍しく返事をしなかったサンゴーンは、海と空と朱い光に抱かれ、まどろんでいた。祖母の形見のこうもり傘はきっかり南東に進み、レフキルと背中合わせで南向きの彼女は顔の右側が照らし出されている。
 居眠りしそうになった瞬間、草木の神者の脳裏を去来した印象的な言葉があった。しわがれた声が意識に強く刻まれる。
『どんな河でも、果ての果てを探れば、海に通ずるものじゃよ』
 老婆の声が頭の奥の方で根を張り、確かに息づいている。

「太陽が沈むよ」
 レフキルは自分自身に言い聞かせるかのように、ぽつりと言った。すると今度は、少し間を置いて、友達の声が聞こえた。
「……まぶしいですの」
 サンゴーンは眠さの峠を越えたようで、目を細めて落日の様子を眺めていた。ついに坂を下りきった赤い陽は、水平線に触れたかと思うと、あっという間に半かけとなり、ついには紅の光を空いっぱいに残したまま家路を辿り、地上から姿を消した。
「沈んじゃった」
 あっけなく果ててゆく一日に不思議な感慨を抱きつつ、喋ったのはレフキルだった。やや長い耳は空に向かって立っている。
 重い音を立てて碧のさざ波を割り、遠浅の海の揺れる珊瑚の茂みをかすめて、黒いこうもり傘の舟は進む。灰色の大きな翼を持つ海鳥が寂しげな声をあげて空を渡り、新しく現れ始めた薄い雲の絹布は春の花を彷彿とさせる桃色に染まっている。

 イラッサ町の町外れに連なる浜辺が見えてきた。まだ遠いけれど、遠すぎるということはない。少しずつ闇と同化しつつある海神アゾマールの神殿の尖塔――二人が空の懐へ飛び立った場所――も判別できるし、簡素で装飾のない木組みの舟が夜の漁を待って波に揺られているのも分かる。小屋も見えるし、椰子の並木道や、さらに向こう側へ連なる丘も視界に捉える。
「もうすぐだね」
 語ったレフキルは、気を引き締めたのか唇を固く結び、近づいてくる島をじっと見つめた。サンゴーンはゆっくりとうなずいた。
「ええ」
 行きは空、帰りは海を経由して、故郷に帰ってきたのだ。

 老婆が沖で放った時には勢いがあった魔法の波は、砂浜に近づくほどに普通の波と溶け合い、混じっていった。それでも白波は目的を達しようと、二人の客を乗せている黒いこうもり傘を運ぶことに全力を傾け、しだいに痩せて鋭さを増していった。

 ずっと前に進んでいた傘の小舟が、ついに止まった。返す波にさらわれそうになり、黒い傘は傾き、周りの砂がえぐられる。
「あれ?」
 レフキルはふいに膝を折り曲げ、素早く水の中へ右足を沈めた。それは予想よりも浅く、紐で結ぶことのできるお気に入りのサンダルは砂浜に着地した。波は海に還り、舟は残された。
「着いた」
 レフキルは左足も下ろし、両脚で立とうとしたが、あまりにも長いこと座っていたので力が入らずによろめいてしまう。彼女は両手を砂浜に伸ばして何とか身体を支え、膝をついた。自分の足が自分のものではないような、やきもきさせる奇妙な感覚だ。
「大丈夫ですの?」
 友の様子を気遣いながら恐る恐る白砂の渚に足を下ろしたサンゴーンは、まともに歩くことができず、つんのめって倒れた。
 島にぶつかった刹那、老婆がくれた波は役目を果たし、力尽きて消えていた。昼間の匂いを含んだ砂は、まだ温かかった。
 普段は当たり前に思っていた〈地面がある〉という事柄が、今は安心感をもたらしてくれる。二人は足全体の使い方を思い出しながら、再度立ち上がろうと試みる。爪先を開いて、靴の裏を安定させ、それから膝に手を当てて一気に腰を持ち上げた。
 
 
(三十四)

「よっ……」
 最初に立ち上がったのはレフキルだった。両膝に力を込め、重心をやや後ろに移して何とか身体を安定させる。一歩一歩、足の裏で砂浜を感じながら、初めて空に飛び立つ鳥のように両腕を広げて、よろめきながらも親友の元へと歩み寄っていく。
 白妙の砂はさらさらこぼれて、あまたの乾いた貝殻が見え隠れする。それは光の加減によって、青や薄緑に彩りを変えた。
「足に、力が入りませんの」
 白く温かい砂浜に掌をうずめて横座りし、困惑気味に顔をもたげたサンゴーンの目の前に、ゆっくりと手が差し伸べられる。
「つかまって」
 指がやや太いけれど――器用で実用的なレフキルの手だ。
「どうも、ありがとうですの」
 サンゴーンは右手を出して相手の五本指を握りしめ、左手を開いて地面につっかえ棒をし、少しずつ身体を起こしていった。
 そのそばで赤い蟹が足を止め、静かにあぶくを吹いている。

 起き上がったサンゴーンはレフキルと向き合い、二人はどちらからということもなく、そのまましばらくじっと見つめ合った。サンゴーンは良く澄んだ美しい青空を仰いだ時のように新鮮で心広がる気持ちを感じつつ、友の深緑の瞳に引き込まれていた。
 神殿の尖塔を飛び立って以来――長かった〈天の河下り〉の間、窮屈な傘の小舟で背中合わせの姿勢を保ち、互いの表情や思いを推し量って過ごした。そして今、こうして再び地上で向き合っていることが、現実を越えた夢のように不思議で素敵で、かけがえのない大切なことだと、サンゴーンは確信していた。
 もう涙はいらない。サンゴーンもレフキルも、一つの事を最後まで見届けた充実感に溢れ、とても清々しい表情をしていた。
「サンゴーン……すごく日に焼けてるよ」
 レフキルはそう言って、悪戯っぽく笑う。明るい少女らしさとともに、しだいに大人へと移り変わってゆく、季節で言えば初秋を思わせる〈落ち着き〉のようなものが確かに混じり始めていた。
「レフキルもですわ!」
 若き草木の神者は、身体には心地よい疲労感を覚えていたものの、爽やかで健気な微笑みを浮かべた。きっと井戸水で顔を洗えば痛いほど染みて、数日経てば皮が剥がれてくるのだろうが、今は友と同じように日焼けしたことを素直に喜んでいた。

 だが、その時だった――。
 弱い雨が大地を濡らして染みこむように夜が迫りつつあることを知らせる、夕凪の終わりを告げる一陣の風が流れ、サンゴーンとレフキルの髪を揺らした。初夏の南国にはまだ昼の温かさが残っているが、日が暮れてしまうとかなり過ごしやすくなる。
 静かな波打ち際には、不規則ながらもどこか鼓動のリズムに似ている潮騒が響き、重なり合い、近づいては引いていった。
 その波のように、さまざまな想いが交錯したのだろう。今度は夕陽の名残が赤い光を放っている西の空を見上げて、微かな翳りを帯びた目を細め、サンゴーンはしみじみとつぶやいた。
「帰ってきたんですの」
 レフキルも友の傍らで深くうなずき、真面目な声で同意する。
「うん。帰ってきた」

 やがて二人の視線は、足元で波の先端に洗われている、さかさまの黒い傘に集まった。改めて見直してみると、サンゴーンの祖母の魔力が残っていたとはいえ、よくぞ二人を乗せていたと思えるほどの大きさしかない、古びたこうもり傘であった。
 レフキルはサンゴーンに目配せすると、すぐに緩やかな坂を数歩下って、波が届き、砂が濡れている場所までやって来た。
 タイミングを見計らって素早く腕を伸ばし、彼女は傘の取っ手を引き寄せて持ち上げた。それは驚くほど華奢で、軽かった。
 潮水に浸され続けて黒い布が弱まっても決してくじけず、空を飛んで河を流れ、海をゆく間もずっと二人を守ってくれた祖母の忘れ形見の古い傘は、いま再び永い眠りに就こうとしている。

 こうもり傘を器用に閉じ、レフキルはそれを持ち主に渡した。
「はい。舟には感謝しなくちゃね」
 それを受け取り、いとおしそうに眺め、サンゴーンは呟いた。
「本当に……よく持ったと思いますわ」
 
 
(三十五)

 西の空には夕陽の赤い残照がかかっているが、東の空には夜の帳が降りて、星の輝きがひとつ、またひとつ増えてゆく。
 ここ数日は雲が空の出来事を隠していたため、久しぶりに現れた今日の夕焼け空に、家路をたどる子供たちの歓声と歌声がどこか遠くの方で響いていた。向こうの岬はしだいに闇の先端と同化し、人々には心地よい疲れと安らぎとが舞い降りる。
 二人は遠ざかる潮騒を背中で聞きながら、砂浜を歩いていった。足元で崩れる白い砂は、流れ落ちる刻の粒を思わせる。砂は踏まれ、風に飛ばされ、波に洗われて入れ替わってゆくが、その先に海原が拡がっているということは変わらないはずだ。
 天を駈けた〈海の河〉の名残か、沖にはほとんど幻のごとくうっすらと虹の橋が架かり、夕闇に淡く溶けてゆこうとしていた。
 二人は振り返り、星たちの浮かぶ薄闇の空を見上げて、それからまた前を向き、緩やかな坂道を並んで歩き出すのだった。

「きゃっ」
 足に上手く力が入らず、サンゴーンは倒れそうになる。そのほっそりした華奢な肩を、とっさに腕を伸ばしてレフキルが力強く支えた。彼女の掌には友の重みと温かさが直に伝わってくる。
「ありがとうですの」
 口元を緩めて礼を言ったサンゴーンは、一生懸命に膝と腿(もも)の辺りに力を込めて、身体の体勢を立て直した。レフキルはうなずいてそっと手を外し、澄んだ瞳のサンゴーンに向き合う。
「どういたしまして」
「さっ、行きましょうの」
 サンゴーンは今度は颯爽と歩き始めた。
 他方、レフキルは一瞬、友の変化にはっとして立ち止まったが、その顔はすぐ輝いていった。眼を見開き、唇は閉じて笑みを浮かべ、相手に悟られぬよう右手の拳を固く結んで胸の上に置き――囁きよりも小さな声で友に呼びかけるのだった。
〈サンゴーン、あたし応援してるからね!〉
 砂浜を登り切ると、街道に沿ってひなびた漁師の集落が連なっていて、屋根から夕餉(ゆうげ)の煙が立ちのぼっている。何か語り合いながら海を見ている、商人風の壮年の夫婦もいる。

 浜辺に沿った水はけの良い砂利の一本道は、幾つもの小さな岬をめぐった後にイラッサ町の郊外に達し、中心部へと続いてゆく。時折、街での仕事を終えて帰宅する少年や、山の畑から下りてきた農家らとすれ違いながら、二人も自分たちの家を目指し、緩やかに曲がる道に沿って町外れを進んでいった。
「では、レフキルのお休みの日に行ってみましょうの」
「いいよ! ほんとあれは、食べとかないと損するよ」
「わかりましたわ」

 話が途切れると、静寂の合間に行きつ戻りつする波音が聞こえた。辺りはだいぶ暗くなり、目が慣れずに変な感じがする。
「ふぅ」
 軽く吐息を洩らしてから、レフキルは真面目な口調で言った。
「だけど、こうして、日常に戻っていくんだね」
 その言葉に対するサンゴーンの答えは、はっきりしていた。
「忘れませんの。また思い出しますの、この日のことを」
 通り過ぎる潮風は、懐かしい〈空の河〉と同じ匂いを届けてくれる。道は既に煉瓦の舗装が始まっており、主に白い石で作られた家が建ち並んでいる。住まいがあれば商店もあり、窓辺を通りかかると温かいランプの明かりが灯っているのが分かる。
 こうもり傘の取っ手をしっかりと握りしめ、軽く前後に振りつつ交互に足を踏み出していたサンゴーンは、急に声を弾ませた。
「あっ。お洗濯物をしまわなきゃ、ですわ」
「そっか。きっと、良く乾いていると思うよ」
 レフキルが軽くうなずくと、やや長い耳も動くかのように見えた。サンゴーンの胸元には〈草木の神者〉の印があり、いつものように透明感のある美しい緑色をして、歩くたびに揺れている。

 その時、二人は街角でほとんど同時に立ち止まった。
 向き合って、そっと目を見交わして、微笑む。
 サンゴーンは取っ手を握っていた黒いこうもり傘をちょっと持ち上げてレフキルに見せ、それを今度は大事そうに抱え持った。
 額と頬と首筋の日焼け、それから服の袖に残るわずかな湿り気を感じながら――あるいは、それは錯覚だったのかも知れないが――十六歳の少女たちは、別れの場所にたどり着いた。
 名残は尽きず、しばらく二人は思い出にひたりながら立ち尽くしていたが、やがてサンゴーンは意を決し、相手の名を呼ぶ。
「レフキル」
「ん?」
「私、今度の火曜日、町の会議に出てきますわ」
 祖母の〈草木の神者〉を受け継いだ後、サンゴーンは町長という肩書きをも引き継いでいた。若すぎる彼女は職務を嫌がって代理の者を立てており、意味の分からない会議に自身が出席することはほとんどなかった。だが両親と遠く離れ、学院に通うわけでもなく、祖母の死後は一人で暮らしている彼女が生活の糧を得ているのは、仮にせよ町長という役職があるからだ。
 サンゴーンの中で、何かが新しく動き始めようとしている。

「うん、分かった。あたしは行けないけど……祈ってるから」
 レフキルはそう応えて、右手の拳を握りしめ、星空に掲げた。
「まずは、居眠りしないことを目標にしてみたいですわ」
 迷いを振り切るかのように、サンゴーンは一生懸命に語る。
 それを少しだけ不安に感じたレフキルは、優しく声をかける。
「焦らなくても大丈夫だよ、サンゴーン。いつものままで」
「……ハイですの。いつも助けてくれて、ありがとうですわ」
 一呼吸置き、友の言葉を胸に懐いてからうなずいたサンゴーンの口調は和らいでいた。レフキルは明るく元気に言い返す。
「こっちこそ、だよ!」

「じゃあね」
「おやすみですわ」
 二人は手を振って別れ、それぞれの家路をたどった。
 相手の足音は遠ざかり、失われ、友の姿は闇に紛れたけれど、あの小舟で感じた背中の温もりは、今は心に灯っている。
 さざ波に揺られる感覚も、まだ身体のどこかに残っていた。

(了)



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