天音ヶ森の鳥籠

 〜森大陸(しんたいりく)ルデリア・幻想結晶〜

 

秋月 涼 


(一)

 天音ヶ森(あまねがもり)の精霊は
  素敵な唄がとってもお好き
   気に入られちゃあ かなわない
    澄んだ声には気を付けな

     夜風を浴びて 広場を囲み
      小鳥となって夏祭り――ったら夏祭り

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 木の枝の香りに充ちた薄暗い〈鳥籠〉の内側にしゃがみ込んだ彼女は、ふもとの村で聞いた子供らの唄を思い出していた。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 それから半刻前のことである。
 夏の森を分け入り、五人の若者たちが歩いていた。
「やっぱり暑いわねぇ、動くと」
 浅くかぶっていた薄茶色のつばのない帽子を取りあげると、夢のように透き通る紫色の髪が露わになる。その帽子をはためかせて頭に風を送ったのは、刺繍がたくさん入っている赤い長ズボンを履いた、足のすらりと長い女性であった。うっすらと日焼けした頬は旅慣れているように見えるが、背中の荷物は思ったよりも少なく、軽装である。年の頃は二十歳くらいだろうか。
 彼女の名はシェリア・ラサラ、冒険者の魔術師である。ルデリア世界の冒険者とは公務員のようなもので、未発達の警察組織の代替を果たしている。難事件の解決や怪物退治などという大がかりな依頼は滅多になく、隊商の警備や災害の復旧、果ては引越の手伝い、街道の掃除まで頼まれれば何でもやる。

「うん。風は……涼しいのにね」
 シェリアの後ろについて歩いていた、彼女の妹のリンローナが息も絶え絶えに相づちを打った。草色の髪を肩の辺りで切りそろえた、小柄な少女である。着ているものも装飾も、派手好きの姉に比べると遙かに地味であった。体力的にきついのだろうか――ブラウスの背中にはじっとりと汗の模様が滲んでいる。
 シェリアとリンローナの姉妹を前後に挟んで進む三人の青年たちも、言わずもがな冒険者仲間だ。先頭は盗賊のタック、続いてリーダーで戦士のルーグ、次が魔術師のシェリアで、聖術師のリンローナ、しんがりは剣術士のケレンスという順である。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 さて今回の発端は、とある村人によるものであった。村長代理という地位についている髪の薄い壮年の男は、集落を訪れた五人の冒険者を歓迎した夕べ、秘密裏に調査の依頼をした。
「よくぞ、この時節に来てくだすった。実は毎年、夏祭りに近くなると、我々の手に負えない奇っ怪な出来事が起こるンですが」
 彼は、このように切り出したのだった――。
 
 
(二)

「何なのかしらねぇ、鳥籠って……」
 岩に腰掛けて靴を脱ぎ、細くて長い脚の力を抜いてブラブラさせ、健康的な日焼け顔で呟いたのはシェリアである。山道を歩いてきたので腿や膝は重く、足はむくんでいた。冒険者生活で山歩きは慣れっこだが、それでもやはり疲れるものは疲れる。
「手がかりを掴めると良いのだが」
 言葉を返したのは、彫りの深い端正な顔の青年、戦士のルーグであった。筋肉質の肩幅は広く、包容力がある。いつもに比べると軽装な仲間たちの中で唯一、硬い革の鎧を着用していたのは、事が起こった時は矢面に立つのだという彼の責任感の表れであろう。ゆくゆくはメラロール王国の騎士になりたいと思っているが、騎士団の定員の問題、および彼が他国から来たという理由で直ぐの採用は見送られた。雑兵か傭兵としての登用、あるいは冒険者としてメラロール王国内で実績を積み上げることを王国から提案されたルーグは熟慮の末、後者を選ぶ。
 個性的な仲間たちの中では目立たないが、冷静な目と的確な判断力、抜群の調整力を持つ皆の信頼の厚いリーダーだ。
 先ほど澄みきって冷たい河の水を飲んだあと、銀色の前髪のかかる額に汗の粒が浮かんだが、それもすでに乾いていた。

 彼らがたたずんでいるのは森と森の切れ目で、水かさの少ない河の源流が岩場を縫って走っている。今のところ天気は良く、増水する恐れもない。川幅は決して広くはないが、左右の見通しは利くので、ルーグはここを今夜の野営の地に定めた。
 岩を重ねて作られた天然の階段は河の方へ低くなりながら続いている。小鳥の唄う美しい旋律と爽やかな水のせせらぎは、しばしば若い歓声にかき消される。陽の光の下、ケレンスとタックとリンローナの三人が水際で無邪気に遊んでいるのだった。
「きゃっ。やったなー! ケレンス、待ってよ!」
「リンには掴まらねぇよーだ……あ、このやろ!」
「はい、ケレンスはこの通りです。リンローナさん、反撃どうぞ」
「この野郎、タック、離せよ、親友を裏切るのかよ!」
「タックありがとう! さあ、お返しだよ。えいっ、それっ」
「くおっ、畜生……」

「一人で行動するんじゃないよ、シェリア」
 ルーグは心配そうに青い瞳を瞬きさせ、隣に座っている恋人のシェリアの、神秘的で艶めかしい薄紫の眼を強く見つめた。
「え?」
 物思いにふけっていたシェリアが一呼吸遅れて聞き返すと――ルーグは嫌な想念を振り払うかのように、力なく首を振った。
「……いや、すまん。何でもない。私の気のせいだろう」
「変なルーグ」
 赤いズボンの足を上げて、シェリアは不思議そうに応えた。
 
 
(三)

「では、ここで落ち合おう。ケレンス、すまんがよろしく頼む」
 銀貨を飛ばし、その裏表で二つの班に分けた後、居残り組のルーグが言った。彼とタックが川辺で魚を釣ったり、枝を集めて湯を沸かしたりと野営の準備をし、残る三人――ケレンス、シェリア、リンローナは再び森に分け入って、果物や食用のキノコ、山菜などを可能な限り集めてくる。長旅ともなれば、この作業に五人全員で取りかかる必要もあるが、今朝は村でいくばくかの薫製の肉や川魚の干物など、簡単な保存食を譲り受けてきたため血眼になって探すことはない。食料の無償提供は、依頼を受ける際、冒険者側が村長代理に示した条件の一つだった。
 リーダーのルーグは、いかに剣術士のケレンスが一緒だとはいえ、女性の二人とも森の採集に行かせることを一瞬ためらったが、結局その迷いを表に表すことはなかった。五人を三人と二人に分けるのならば、絶対に安心できる組合せなど存在しない。それに、この辺りの森には奇妙な出来事が起きるゆえか、獰猛な動物は寄りつかないと村人は太鼓判を押していた。人間よりもはるかに鋭い動物の直感を、村の衆は信奉している。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

(常に快い鳥の唄が流れ、訪れたもんを落ち着かせるンじゃ)
 問題の〈鳥籠〉の底にうずくまり、必死に打開策を練っていたシェリアの脳裏に、方言混じりの村長代理の声がふと甦った。

「それなら、いい森じゃない。なんか問題あるの?」
 話の中身が理解できず、彼女は相手を問いつめたのだった。
「それがなァ、とんでもねぇんだ」
 祭りの実務の担当者なのだろう、村長代理は必死の形相で反論した。確かに彼の話は飛び飛びで、事実の断片が並んでいるだけだったが、それでも冒険者としては現状を一つずつ理解し、地道に、時には大胆に謎を紐解いてゆかねばならない。
「まあまあシェリアさん、まずは最後までお聞きしましょう」
 交渉役筆頭のタックは、シェリアを注意しようと口を開きかけたルーグをやんわり手で制し、怒りっぽい女魔術師をなるべく責めない言い方で注意深く釘を刺した。シェリアは口を尖らす。
「分かったわよ。続けて頂戴」

「鳥籠にいた気分だ、と被害者はしきりに語っておるンじゃが」
 タックを始めとする五人は、適度に相づちを打ちながら、壮年の村長代理の分かりづらい語りに精一杯、耳を澄ましている。
「鳥籠って何さ? 聞いても〈分がらね〉と……被害者はなァ」
「ええ」
 うなずいたタックの頭の中では、色々な情報が猛烈に駆け巡っているのだろう。他方、村長代理はマイペースに補足する。
「夏祭りが終わると、ひょっこり現れるンさよ。天音ヶ森からな」
 
 
(四)

「鳥さんたちの歌声、とってもきれいだねー」
 歩きながら語りかけたのは、薄緑色の髪と瞳の小柄な少女、十五歳のリンローナだった。地味な服装で飾り気も色気もほとんど無いが、容姿は恵まれており、可愛らしく穏やかな顔をしている。それだけに留まらず〈清楚で賢く、芯の強い部分を持っている〉という確固たる雰囲気を内面から微かに漂わせている。
 さて、リンローナは左手に硬い草で編まれた籠を持ち、右手には長い杖を手にしていた。聖術師の彼女の魔法を多少増幅させる効果があるとともに、急斜面の続く山道を歩く際には杖が一本あるだけで、だいぶ楽になる。体力に自身のない彼女の必需品である。最悪の場合は身を守る簡素な武器にもなるはずだが、幸い、リンローナにはまだそういう機会がなかった。

「まあ、天音ヶ森っていうくらいだからな……」
 少し間を置いてから返事をしたのは、先頭を行き、得意の剣さばきで道を切り開いてゆく金髪の少年、剣術士のケレンスである。獣道を進んでいるので全くの藪の中を歩くよりは圧倒的にマシだが、伸びた木の枝が飛び出していたり立木が倒れたりしていて、場所によっては困難を伴う。蜘蛛の巣も払わなければならないが、さすがに愛剣を蜘蛛の糸まみれにするのは嫌なようで、ケレンスは腰の剣だけでなく、木の枝を一本持っている。

 彼の後ろから背の低い身体で懸命に追ってくるのがリンローナで、足下に注意しつつもキノコや山菜がないか調べている。
 妹に続き、しんがりを務めていたのが姉のシェリアだ。何となく不満そうな表情のまま、ろくすっぽ喋らずついてくる。魔術師であるシェリアは、ルーグとタックがいる野営場所の荷物の中に杖を置いてきた。その代わり、魔力を帯びた小さな紫水晶のペンダントをお守りとして胸元につけている。山菜摘みの籠を抱えているのは妹のリンローナと同じだが、赤い長ズボンを履き、薄茶色のつばのない帽子をかぶり、全体的に垢抜けている。

 見えない命のかぎろいを含んだ不思議な湿り気の奥深く、夏空に生い茂る碧の葉を揺らして木洩れ日の流れを堰き止め、シダ植物に挨拶をして、すがすがしい風が通り過ぎる。森の香りと、花のおしべ、そして麗しい小鳥たちの歌声を乗せて――。
 いくつもの丘や草原、山や嶺を越えて旅してきた三人の冒険者だが、確かにこの森の楽の調べは群を抜いた素晴らしさだった。今となっては村長代理が自慢げに話していたのも分かる。
「天音ヶ森には、むがし(昔)から、唄好きの鳥が集まるだよ」
 向こうから曲がさざ波のように始まったかと思うと、こちら側が掛け合いを奏する。歌い方も高さも異なる――そもそも鳥の種類が違うのだろうが、うるさくない程度のさわやかな声色が合わさり、音符は宝石のようにちりばめられる。休符さえも意味を成し、和音は融合する。森は一つの巨大な舞台となっていた。

「んんんん〜ん」
 森の中は思ったよりも坂道が少なく、普段よりも体力的な余裕があったのだろう。鼻歌を唄い出したのはリンローナだった。
 
 
(五)

「やめてくれよな、それよぉ……」
 ケレンスは半分振り返り、思い切り顔をしかめた。リンローナの鼻歌はお世辞にも音程が合っているとは言い難く、聴いている方の音感が狂ってきそうなほどだ。気持ち良さそうだった十五歳の聖術師は、痛烈に冷や水を浴びせられて現実に還る。
「だって、せっかくこんなに素敵な歌があふれてるから、あたしも仲間に入りたいと思ったんだけど。やっぱり駄目かなぁ?」
 音程を取るのが不得意なリンローナは諦めずに同意を求めたが、それは少年のため息と愚痴とに一刀両断されるのだった。
「はあぁ。せっかくの鳥の声が台無しだぜ。なあシェリア?」
「まーね……」
 リンローナの後ろからついてくる姉のシェリアは気のない返事をする。年下の二人の会話にはあまり関心がないようである。
 微妙な空気を感じたリンローナは、姉に話題を振ってみた。路は緩やかな下り坂に差しかかり、足元の木の根と段差にさえ注意すれば、背が低く体力の劣る彼女でも大して疲れない。

「そうだ、鼻歌のお手本を聴きたいな……お姉ちゃん、とっても上手なんだもん。天音ヶ森の鳥さんにも混じれるよ、きっと!」
「リンと違ってな」
 少し意地悪く言ったケレンスを無視して、妹は呼びかける。
「良ければ、一緒に唄おうよ! ちっちゃな頃みたいに……」
「嫌よ。いつまでも、何を子供みたいなこと言ってんの?」
 最後尾のシェリアは眉を寄せ、苛立たしげに早口で喋った。ケレンスとリンローナの楽しそうな会話に上手く参加できず、若干嫉妬していたのかも知れない。獣道は再び短い登りになる。
 リンローナは前を向いたまま、ちょっと寂しそうな声で謝った。
「そうだよね……ごめん」
「とりあえず、あんまり話ばっかりしないで、気を付けて歩いて頂戴。私の方に倒れかかってきても、思いっきり避けるわよ」
「おー、怖い姉貴さんだぜぇ」
 ケレンスが大げさに茶化すと、シェリアは薄紫の瞳を一瞬怒りに燃やしたが、やがて疲れたような顔で口をつぐんでしまう。リンローナの息が上がり、三人の会話は途絶えた。彼らの足音の合間に風が吹き――きれいで、しかも特徴的な声の鳥たちが紡ぎ続ける珠玉の唄は、盛り上がりと収束を交えつつも終わりはない。演奏する方も、それを聴く方も飽きることを知らぬ。

 やがて木々の間隔が開き、光があふれ、細長い自然の池が見えてきた。湖と呼ぶには小さかったが、例えば王家の庭にありそうなほどには広い。水面は鏡のように静かで、幻の絵のような樹の影、青空と適度な雲、傾いてきた太陽を映していた。
 誰からと言うこともなく、三人は時を同じくして足を休めた。
 シェリアの頭の中には、再び村長代理の言葉が反芻する。
「湿った水際に、夏祭りで献上する山菜があるンだとよ……」
 
 
(六)

「ここなら見つかりそうだね」
 リンローナはまぶしそうに額に手をかざして言った。姉ともども月光の魔力を秘めた高価な日焼け止めを薄く伸ばして塗っているが、度重なる夏の移動で頬は健康的な色に変わっていた。
「山菜なんて、どこで取っても同じような気もするけどな」
 短めに刈った金髪の頭の上で腕を組み、剣術士のケレンスがつまらなそうに愚痴ると――これまで長いこと沈黙を守っていたシェリアは、静かに募っていた鬱憤を一気にまくし立てた。艶やかな唇は曲がり、薄紫の瞳は厳しく細められる。自分で雰囲気を硬くしておきながら、ケレンスとリンローナと仲直りするどころか話に上手く参加できず、内向きの自己嫌悪が育っていた。
 シェリアはそのような類の感情の扱い方がとても不得手だ。
「あんた、聞いてなかったの? 神事に使うって言ってたじゃない。この森で摂れる山菜じゃないと駄目だから、ここまで来てるんでしょ? そうじゃなきゃ、こんな面倒な事、やらないわよ!」

「この……」
 一瞬、かっとして息を飲んだのは、当然のことながら責め立てられたケレンスであった。眉をつり上げ、自分と余り背丈の変わらぬ二つ年上の女魔術師の神秘的な深い双眸を睨みつけた。
「ケレンス、お姉ちゃん。お願い、落ち着いて!」
 聖術師のリンローナは慌てて小さい身体を滑り込ませ、精一杯に両手を伸ばし、つまらぬ喧嘩を必死に仲裁しようとする。その様子は鷹と鷲に挟まれた燕のごとく無力に見えたが、決してひるまない勇気と心からの懇願を同居させて、誇り高かった。

 何かと馬の合わない剣術士と魔術師はしばらく視線の対決をしていたが、先に逸らしたのはケレンスの方だった。彼は憮然とした表情をしつつも矛を収める。リーダーのルーグと別行動、しかも森の奥で、事が起こる場合には命に関わる。ルーグから二人の女性を託されたこともあり、ケレンスは自分を抑えた。
「確かに、こんな場所で下らねえ言い合いをしてる暇はねえな。じゃあ分かった、右側からぐるっと回って捜そうぜ。いいよな」
「うん」
 リンローナがほっと胸をなで下ろしたのもつかの間、彼女の姉は凍り付いたような声で宣言する。強情に意地を張ってしまう、という悪循環に、シェリアはすっかり捉えられてしまっていた。
「私は反対から行くわよ」
「お姉ちゃん……」
 妹の草色の瞳が、驚きと困惑、悲嘆とに彩られて大きく拡がった。唖然としたまま、信じられない様子で立ちすくんでいる。

「姿が見えるから平気でしょ? じゃあね」
 シェリアは後ろにお構いなく、早足で歩き始める。ここで一言〈冗談よ〉と茶化せば済む話だし、喉元まで出かかっているのに言い出せない。彼女は無理矢理に胸を張り、大股で遠ざかるが、その唇はきつく結ばれ、嘘をつけぬ顔はうつむいていた。

 まとわりつくような風の中、リンローナは反射的に数歩進んだが、すぐに方針を変えて立ち止まると、振り返って呼びかける。
「ねえケレンス、お姉ちゃんを追いかけようよ」
「うっせーな。置いてくぞ、リン」
 少年は重い残響を置き土産に、自分が決めた方へ踏み出したところだった。完全に板挟みになったリンローナは右と左を交互に確認していたが、どんどん小さくなる姉の後ろ姿を見るにつけ、しだいに明確な表情を失ってゆく。彼女は呆然と呟いた。
「どうして、こうなっちゃうんだろう……」
 澄んだ瞳は悔しさに熱く潤んでくるが、何とか涙はこらえる。
「早く来いよ」
 振り向きもせず少年は疲れた声で呼ぶ。リンローナは乱れる感情の渦に耐え、気丈に微笑みつつも頬を震わせて応えた。
「お姉ちゃん、歌が上手いから心配だなぁ」
「……」
 それを聞いた瞬間、にわかに少年は歩みを止めるのだった。
 
 
(七)

 若い剣術士は村長代理の言っていた言葉を反芻していた。
「いつも、歌の上手い者から順繰りに、居なぐなるでさぁ……」
 夏祭りに歌い手として選ばれた者は、不思議に美しい鳥の音楽が奏でられる〈天音ヶ森〉まで、村の男たちに混じって豊穣祈願の儀式に用いる山菜を摘みに行っていた。かつて歌い手たちは、周りの者から離れて一人でいる間に消え失せてしまった。村の夏祭りが終われば帰ってくるものの、そんなことが毎年続くうち、いくら神事とはいえ、歌い手を森に動員するのは控えるようになる。それでも山菜摘みだけは続けてきたが、決まって歌の上手な者が、謎の〈鳥籠〉とやらに捕まえられてしまった。
 よって今年は〈鳥籠〉の謎の解決を託し、通りがかった五人の冒険者たちに〈山菜摘み〉の白羽の矢が立てられたのだった。彼らの背中の荷物が少なかったのは村に置いてきたからだ。

「とっとと行こうぜ。早いとこ湖を半周して、姉御と合流だ」
 山菜班の責任者のケレンスは、前を向いたまま低く語った。
「うん」
 不安そうに瞳を潤ませて、リンローナはうなずくのであった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「一緒に唄ってあげれば良かったかしら……鼻歌」
 シェリアは心細さを紛らわすため、わざと声に出して呟いた。さきほどのリンローナとのやり取りを思い出し、今さらながら悔やんでいたのだ。妹の明るく弾んだ声が、自分の投げつけた心無い言葉によって沈んでしまう瞬間が脳裏をよぎると、彼女の胸は鉄の鎖で締め付けられるような苦しみを覚えるのだった。
「だって、楽しそうなあんたたちの仲間に入りたくても、私、いつもみたいに斜に構えちゃったのよね。上手く入れなくて、羨ましくてさ、ちょっとひがんでたわよ。私って、ほんと駄目よね!」
 その口調も、歩くペースの方も、だんだん不規則に速まってくる。怒ったように素直な心情を吐露してみても、返事はない。ちょうど丈の高い水際の草が茂っている群生地に差しかかり、対岸のケレンスの姿も、リンローナの薄緑の髪も見えなくなった。
 聞こえてくるのは自分の足音と、しだいに強まる胸騒ぎの鼓動のみ。つい先刻までこの世の春を謳歌していた美しい鳥たちの音楽は、妖しい風のざわめきに取って代わられている。今や森は、獲物を狙って身を潜める獣の緊張感に充たされていた。

「リンローナも薄情よ、ケレンスは責任感まるでないわね、こんな場所に私をほっとくなんて。少しはルーグを見習って頂戴」
 外部の妙な威圧感と、内面の孤独感に押しつぶされないよう、彼女はあえて強がってみたが、その語尾は不安に彩られて弱々しかった。ルーグの忠告がにわかに頭の片隅に浮かぶ。
『一人で行動するんじゃないよ、シェリア』
「さっさと適当に山菜摘んで、あの子たちに合流するわよ!」
 自分に言い聞かせるだけでなく、森の中から彼女の一挙手一投足に注目する〈誰か〉に向かって宣言するかのように女魔術師は叫んだ。心の中に不安の雲が拡がり、足取りはさらに大股になる。脇の下は湿り、背骨の筋を嫌な汗が流れるのだった。
 
 
(八)

 ひんやりと撫でるような風が地面の低いところを吹き、背中がぞくっとする。シェリアの髪の毛の色素を水で溶いたような薄紫の霧が湖面を僅かに漂っている。森の中に比べると明るかったはずの、池のほとりの周回路はいつしか薄暗くなっていた。反対側にはリンローナとケレンスがいるはずだが、丈の高い草と、しだいに増え始めた妖しの霧により、巧みに隠されている。
 意志を持っているかのような粘っこい風は、シェリアの華奢で魅力的な身体を検分するかのように、頭から足先までを興味津々そうに撫でながら行き過ぎる。魔術師は無性に苛ついて、赤いズボンの腿の辺りを何度もせわしなく指で弾くのだった。

 ガサッ――。
 その時、突然。足下の草の間で〈何か〉が音を立てた。
 知らず知らずのうち、かなり神経質になっていたシェリアは反射的に後ずさりした。さすが冒険者らしく、馴れたところを見せて悲鳴こそ上げなかったものの、心臓の鼓動は速まっている。
 胸が押されているように苦しく、重い沈黙の刻が流れた。相手を正確に見極めるため、しばらく同じ位置で息を潜めていた彼女であったが、おそるおそる足をのばして草を蹴ってみる。
 再び小さなものが慌てて動き出す音がした。やや落ち着きを取り戻した彼女は、魔法で鍛えた集中力を高めて目を凝らす。
 ――と、瞳に映ったのは、しっぽの長い茶色のトカゲだった。

「何よ」
 シェリアはほっと胸をなで下ろし、溜め息混じりにつぶやく。
「私、どうかしてたみたいね。こんなの全部、気のせいよ!」
 気分を紛らわすため、わざと声に出して言ったのだが――。
 喋っているうちに娘の語気は強まり、言葉の響きもあっという間に、怒りと畏れ、憤慨と反発とに塗り替えられていた。一時の安堵は去って表情はこわばり、その口調は暗く淀んでいた。
 彼女の頭の中で、魔術師の直感が絶えず警告を告げていたからだ。辺りはしんと静まりかえり、シェリアの息づかいの他には何も聞こえず、全ての音から隔離されてしまった。さっきのトカゲは見る影もなく、今や懐かしささえ覚える。誰かが故意に作り上げた不安定な夢の入口に紛れ込んでしまったのだろうか。

(ルーグ、助けて……)
 乾いた唇をきつくかみしめ、その場に立ち尽くす。普段は勝ち気にふるまうシェリアも、結局のところは十九歳の若者である。経験が少ない分、一人になった場合はもろい。森を漂う限りなく白に近い薄紫の妖艶な霧はさらに深くなり、戸惑いのかけらのごとく、または精霊の置き土産のように浮遊している。それらは手を結び、しだいに繋がって視界を遮り、彼女を孤立させる。
(ケレンス、リンローナ!)
 普段は表に出さない気弱な部分が魔術師の心の中に根を張っていた。硬く目を閉じて、近くにいるはずの仲間の名を呼ぶ。心配して待っているはずの、可愛い妹の顔が脳裏をよぎった。

(結局、進むしかないじゃないの)
 人恋しさが頂点に達したシェリアは、雑念を振り払うように激しく左右へ首を振った。それから髪の毛を軽く整えると、気丈にも勇気を出して歩き始める。これ以上、霧が濃くならないうちに早く妹たちに合流することが肝要だと、現実的に考えたのだ。
「そうよ、今度こそ、リンローナにちゃんと教えてやらなきゃ」
 妖しい雰囲気に気圧されていたのと、早歩きの息苦しさで絶え絶えになりつつも、しっかりした音程で〈鼻歌〉を唄い出す。
 
 
(九)

「んんんん〜」
 独りぼっちになった長い髪の姉は、自らの気持ちを鼓舞するつもりで何小節か鼻歌を唄った。妖しの霧のさなか――妹たちに居場所を知らせる役に立つのではないかという算段もある。
 妹のリンローナと違って、シェリアは音感が良く、リズム感も抜群だ。口の悪いケレンスならば〈いつ聞いても、意外に可愛い声だよなぁ〉とでも評したであろう美しく素直な音のかけらは、さっきまで森を潤していた鳥の調べを思い出させ、高く響いた。
 歌が似合う森だ。仲間のいない孤独はさておき、何かが決定的に足りないと感じていたシェリアは、一定の充足感を得た。

「ん〜ん……ん?」
 ところが不意に音楽を寸断し、立ち止まって周囲を見回した。
 相変わらず辺りはしんと静まりかえり、彼女の紫色の髪を薄めたような霧があふれていて、森の立ち木と池が垣間見える。
 見た目には何も変わらないのだが、シェリアが得意の音感で鼻歌を唄いだして以来、雰囲気には劇的な変化が生じていた。もともと集中力と感性を鍛えてきた魔術師のシェリアには、身体を押さえつけていた空気が軽くなるほどの違いを覚える。この薄紫の霧に心があるのだとすれば、これまでの敵意――というのが言い過ぎならば、くまなく調べるような〈警戒感〉が、いつしか仲間意識、あるいは歓迎の様相を呈してきたように思えた。
「何なのかしらね、この森」
 皺の付いた赤い長ズボンは彼女の脚の長さとスタイルの良さを際立たせる。靴の裏で交互に地面を踏みしめながら、思わず彼女は独りごちた。瞬きを繰り返すと繊細な睫毛が時を刻み、胸元の紫水晶のペンダントは微かに揺れる。小脇に抱えた山菜摘みの籠は、目下の所、無用の長物と成り下がっていた。
 改めて〈天音ヶ森〉という名前が脳裏をよぎる。夜風を浴びて、広場を囲み――澄んだ声には気を付けな――という、村の子供たちが唄っていたフレーズも、何故かはっきり思い浮かぶ。

 押し殺した気配を感じないわけでもない。薄気味悪いが、シェリアは怒るよりも心細さが膨らみ、先を急いだ。霧は特に濃くなるでも薄くなる訳でもなく、眠気が染み込むように自然と漂う。
「んん〜」
 やけくそ気味に、若い魔術師は鼻歌を再開するのであった。

 道の目印となる池は霧の中でも辛うじて判別できる。景色や光の具合から、いよいよ池を半周する頃になると、ケレンスとリンローナに早く合流しなきゃ、という切なる思いとは裏腹に――やや気持ちが緩んだのだろうか、普段の〈見栄〉が戻ってくる。
(手ぶらじゃまずいわよね)
 右腕と脇腹に挟んだ山菜摘みの籠を見下ろす。恐がりと思われるのはしゃくだと考えて、いつしか鼻歌も小さくなっていた。不思議なことに、霧からは再び白けた感情が発散されている。
(どうせ山菜なら、黄金の山菜でも出てくればいいのに)

 それはおそらく、この池のほとりでシェリアが考えた最初の物欲と言っても過言ではなかった。つまらぬ喧嘩を反省したり、仲間との再開を願うのとは、明らかに異なる種類の望みである。
「ほっ」
 突如、何かの草が靴に引っかかり、つんのめりそうになった。反射的に逆の足を出して体勢を整え、やむを得ず立ち止まる。
「何よ」
 文句を呟いた次の刹那、双つの瞳は足元に釘付けとなった。
「えっ?」
 
 
(十)

「な……何よこれ」
 不審そうな口調とは裏腹に、シェリアの瞳は正直で、足下の地面に釘付けとなっていた。視線が吸い込まれたかのようだ。
 思わず目をこすっても、その輝かしい姿が消えることはない。
 そこには確かに、黄金色の山菜が生えていたのだった。まるで純金で作られた繊細な彫刻を思わせる天然の草は、太陽の光を濾過して集めたような、まばゆい衣をまとっている。木々の幹の間を縫い、浮かび漂う薄紫の霧の中で、むしろその存在は夢幻的な協奏として調和していた。本来ならば、静かな森の奥の池のほとりとは不釣り合いなはずだが――割と現実主義者であるシェリアは不思議なことに何の違和感も抱かなかった。

 魔術師はごくりとつばを飲み込み、軽く首を振る。疑問を感じたからというよりも、むしろ真実の現象と認めたとたんに蒸発してしまうことを恐れるような、そういう類の〈自己抑制〉だった。
「きっと色が面白いだけだわ……でも、これが例の山菜? 夏祭りの神事とやらに使うのかしら? ねぇ、あんたどう思う?」
 視線を動かす――が、四つ年下の背の低い妹の姿はない。

「……って、リンローナはいないのよね」
 小さな溜め息をつき、姉のシェリアは左腕を腰に当てて胸を張った。何となく、あの山菜を見ているうちにぼんやり霞んできた頭の奥底が急速に冴えてくるような感覚がある。それはちょうど、暑い夏のさなか、夕刻に爽やかな風が流れ始めたごとく。
(早く合流しなくちゃ駄目だわ)
 はぐれた子供に特有の心細さと、上手く説明できないが直感的で根元的な不安がつのり、考えを改めて歩き出そうとした。

 まさにその矢先、図ったかのような変化が起きたのである。
「うそっ?」
 さっきまでは見えなかった別の黄金色の山菜の群れが、脇道の方に続いている。仲間内では会計係を務めるタックから、金遣いの荒いことで警戒されている女魔術師は身を乗り出したかと思うと、次の瞬間には何の疑いもなく脇道に向かっていた。
「これ、神事に関係なくても高く売れるんじゃないかしら?」
 思わず本心を呟くと、今まで見たこともない黄金の山菜は呼応して、輝きを強めたように思えた。その妖しげな眩しい光の領域が瞳の中に拡がり、支配するうち、シェリアの体は重くなる。
 腕の力が抜けて、山菜摘みに持ってきた籠を落としてしまう。それは脇道の緩い下り坂を転がり、池の端で止まるのだった。

 歌の上手な女魔術師の、赤いズボンを履いた膝が右、左と順繰りに折れ曲がり、ゆっくりと上体は前に倒れていった。次の刹那、ほっそりした――ただし必要な肉は付いている健康的な脚のすねを地面に打ちつけて正座の体勢になったものの、もはやシェリアの瞳は雨が降る間際の鉛色の空よりも虚ろであった。
「うわぁー、これえ、たしかに、たべう、おあ、おっ、あ、い……」
 太陽のきらめきを持つ大量の山の幸を前にして、彼女は夢見心地につぶやく。本当は〈食べるのがもったいないわね〉と言いたかったのだが、しだいに顎までが重くなり、全部喋り終わらないうちに面倒になってしまった。ここに至り、さすがに魔術師として学院での厳しい精神修養に耐えたシェリアは罠にかかってしまったことを遠く自覚し始めていたが、散らばった意識をかき集めても、元通りに立て直すことは困難な段階に突入していた。

 そして山菜でもない単なる雑草は、いつしかシェリアの瞳には積まれた黄金に映っていた――彼女が完全に敗れた瞬間だ。
 シェリアが座ったまま不動の等身大の人形となり果てると、ついに物理的な変化が起こり始める。足元の蔓草(つるくさ)が一斉に腕を伸ばし、彼女をつつみ込む緑の繭を形作ろうとする。
「はっ」
 不意に呪縛の解けたシェリアは、とっさに危険を感じて逃げようと立ち上がりかけたが、草の伸びる方がわずかに速かった。
「ああ!」
 
 
(十一)

「う……ん」
 遠くの方から細い糸をたぐるようにして、意識が戻ってくる。
 シェリアは瞳を開き、ゆっくりと顔を上げかけた――が、予想以上に頭が重く、最後まで持ち上げることが出来なかった。体と心が乖離してしまったかのように神経や筋肉が言うことを聞かぬ。抵抗をやめて再び首を落とし、しばらく様子をうかがう。
 整えられた薄紫色に澄む後ろ髪がこぼれるが、その色は失われていた。気がついた時、彼女は赤いズボンの尻の部分が若干の湿り気を帯びていることを微かに感じつつ、土の匂いの漂うひんやりとした地面に座り込んで、軽く膝をかかえていた。
 身体が慣れてくるのを賢明にじっと待ったまま、若き魔術師は先に少しずつ回復してきた感覚を張り巡らし、ここがどこなのかを知るべく情報を集めるのだった。冒険者として旅から旅へ経験を積んできた成果が、ほとんど無意識のうちに現れていた。

 頭の重さはしだいに和らいでくる。再び、勇気と集中力を振り絞って目を開いた魔術師の、やや性格のきつさを浮き立たせた端麗な顔は、しかしながら一瞬にして失望に彩られた。強ばった唇はきつく結ばれる――視界の焦点が合うどころか、目に入るものといえば強制的に与えられた漆黒ばかりだったゆえに。
(どこ?)
 まだ出せない声に代わり、心で訊いても、返事はなかった。

 辺りはとても薄暗くて、何があるのかさえ良く分からない。幾筋もの細い隙間から森の木洩れ日のように光が忍び入るが、中を照らすほどではなかった。空が厚い雲に覆われた嵐の夕刻、家でじっとしているのに似ている。息を潜めるかのごとく奇妙な静寂は続いており、聴覚は大した音を捉えることができないが、まれに風のざわめきが聞こえる。それは純粋に屋外の鳴り方とは異なるが、かといって密閉された住居とも異なる。耳を澄ますと、しだいに不安げに速まる自分の胸の鼓動の合間に、獣の遠吠えが響いた。まだ森にいることは間違いないようだ。
 深い泉のように神秘的で、宝石のように少し冷たいシェリアの双眸は、時間をかけて暗さに順応してゆく。それでも目に見える範囲の景色全体に闇が降り積もっていることは変わりない。細い光の筋や風の鳴り方、その他もろもろの条件から事態を総合すると、狭い場所に閉じこめられた可能性が濃厚であった。

(私、どうしてこんなとこに居るのかしら……あっ)
 シェリアの頭の奥底で、しばらく失われていた記憶が甦る。
「蔓草が、蜘蛛の足みたいに吹き出してきて、間に合わない」
 喉の調子を確かめることも意図しつつ、シェリアは口に出して考えを呟く。その声はやや嗄れ気味で、いつもより低かった。
 徐々に当時の様子を思い出してくる。今になって冷静に考えれば、あの黄金の山菜はシェリアを捕まえるための餌だったとしか思えない。もしかしたら池のほとりを漂っていた紫の霧は、ルデリア世界の源とされる〈七力〉の一つ、夢幻の元素によって作られた幻術の魔法だったのではなかろうか。シェリアはこれまで直接見たことはなかったが、高度な幻術には相手の精神を混濁させたり錯乱させる魔法も存在すると伝えられるからだ。恐怖や怒りよりも、魔術師として故郷の学院で修行を積んだのにも関わらず、まんまと不意を衝かれた悔しさが込み上げる。

 と、その時であった――。
 辺りの空気が変わりつつあるのをシェリアは的確に感じた。
「ふふっ……」
「誰!」
 子供のような甲高い声を聞いた刹那、魔術師は叫んでいた。
 
 
(十二)

「誰よ、出てきなさいってば!」
 身を乗り出し、シェリアは再び姿の見えない相手に向かって挑戦的に叫んだ。ただでさえ暗く狭いところにいたので少しずつ心細さが生まれ始めていたが、何が起こり、どういう状況なのかを早く知りたかったし、分からないなりに情報は集めておきたかった――正直な所、敵でさえ話し相手になって欲しかった。
 シェリアの甲高い声は籠もったように響き、やがて霧散して消えてゆく。絶えず〈何者〉かの気配はしているのだが、視界に映らないと不安はつのる。紫の瞳の魔術師はいつしか胸の辺りに妙な圧迫感を覚えていた。呼吸は重苦しくて上手く出来ない。
 怒りを装うことで不安や孤独感をごまかしていたが、それも限界に近い。暗い中、しだいにうつむきがちになり、低く呻いた。
「卑怯じゃない……」
 シェリアの声の調子は明らかに下がっていた。言い終わると唇をかみ、森の中にあるらしい謎の部屋の全体に再び注意を払っていたが、やはり相手の反応はなかった。シェリアはまだ決して諦めてはいなかったが、珍しくも急速に絶望的な気分が拡がってきていた――ここには最も信頼できるルーグもいないし、口は悪くても剣の腕は確かなケレンスもいない。賢明な作戦を提示してくれるタックもいなければ、優しく力強く励ましてくれる妹のリンローナもいない。文字通りの〈独りぼっち〉に陥り、自分の無力感が際だってくる――私に出来る事って何なの?

 弱まっていた紫苑色のまなざしが、にわかに強まる。シェリアは手をついて足の裏と膝に力を入れた。女性にしては背の高い彼女の全身が神殿の塔のように起き上がってゆく。さっきの夢幻の霧の名残か、一瞬だけ立ちくらみの症状が起きたものの、両足を軽く開いてバランスを取る。光が僅かのため天井は見分けられないが、とりあえず上をにらみ、それから両手を掲げる。
「いいわ、そっちがその気なら考えがある」
「魔法を唱えるの?」
 しめた、とシェリアは思った。ようやく、待ち望んでいた相手の反応を引き出すことが出来たからだ。やはり子供じみた喋り方で、つかみ所のない柔らかな響きが閉鎖的な空間を充たす。
 何か言い返そうと思ったが、シェリアはこめかみに周期的な痛みを覚え、立ちすくんだまま手の甲で押さえた。顔を苦痛にゆがめ、額にうっすらと冷たい汗が浮かぶ。地の利がない、敵の本拠地に捕らえられた虜囚なのだと改めて思い知らされる。
「逃げ場もないのに籠を燃やしちゃったら、火だるまになるのは貴方なのにね。堅い木で編んだ壁はよく燃えるよ。ふふふっ」

 シェリアはこめかみの痛みも忘れるほど、学院魔術科で鍛えた持ち前の集中力を高めて、一言も洩らすまいと聞いていた。
 重要な単語を頭の中で繰り返し、瞬時に焼き付ける。逃げ場がない、籠、堅い木で編んだ壁、籠、良く燃える、籠、――。
 
 
(十三)

 蒐集した単語をかき混ぜて答えを導き出すため、腋と背中が緊張の汗に湿るのを感じつつ、シェリアは再び座ることに決めた。薄暗い閉鎖空間に囚われ、命の行方さえ〈見えない相手〉に握られている状況に代わりはないが、地面に腰を下ろすだけでも僅かに気分が和らぐ。大地魔術を使うか、モグラにでもならない限り、少なくとも下側から攻撃される恐れはないはずだ。
(天音ヶ森の、鳥籠)
 シェリアの頭の中に、どこかで聞いたことのある一つの言葉がひらめく。それは次々と連鎖し、おぼろげな事実を形作った。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 天音ヶ森の精霊は
  素敵な唄がとってもお好き
   気に入られちゃあ かなわない
    澄んだ声には気を付けな

     夜風を浴びて 広場を囲み
      小鳥となって夏祭り――ったら夏祭り

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 木の枝の香りに充ちた薄暗い〈鳥籠〉の内側にしゃがみ込んだ彼女は、ふもとの村で聞いた子供らの唄を思い出していた。
 がなり声の、甲高く元気だが耳障りな合唱が繰り返される。
(そうだ、あの村で……)
 さすがに憔悴気味の十九歳の女魔術師は慎重につぶやく。
「これが天音ヶ森の、鳥籠?」

 やがて隙間風が吹いて、部屋の上の方から視線を感じる。
「へーえ、勘は悪くないみたいだね」
 例の、さきほど火炎魔術を唱えることに警告したのと同じ種類の、シェリアを小馬鹿にするような幼い声の一人が感心したように言った。すぐに他の仲間らが、輪をかけて彼女をおとしめる。
「ずいぶん時間はかかったけどさ」
「鳥にしてはね」

 村の子供の唄から推察するに、ここは堅い木で編んだ壁の内側で〈鳥籠〉と名づけられた場所、話している相手は〈精霊〉となる。とりあえずシェリアは何もかもが分からないという根元的な不安からは解放された。すると今度は怒りがこみ上げてくる。
「鳥って何よ。そもそも、あんたたち誰なのよ? 精霊? 私をどうするつもり? 姿を見せて、さっさと私を外に出して頂戴!」
 
 
(十四)

 必死に声を荒げた十九歳のシェリアだったが、それが終えるとともに、見えない〈探りの糸〉を四方八方へ発散させていた。魔術師として長い訓練を積み重ねてきた彼女にとり、精神を研ぎ澄ませて集中力を高めるのはそれほど難しいことではない。
 相手は何も喋らなくなった。それでも〈鳥籠〉の内側で蜘蛛の巣のように張り巡らした魔力の編み物は、目に見えぬ不思議な連中が囁き合いながら相談しているのを、確かに聞きつけた。
 言葉は聞き取れないし、正確な意味は分からないが、雰囲気を感じ取ることはできる。どうやら向こうは困惑しているらしい。
(間違いない、きっと精霊なんだわ。天音ヶ森のね)

 紫の髪と瞳を持つ若く妖艶な女魔術師は少しだけ自信を深め、正体のつかめない相手に悟られぬよう、魂の水底で安堵した。しかし心のさざ波の表面では、ここぞとばかり一つの賭けに出る。相づちを打つ間もないほどの早口で、挑発に出たのだ。
「だいたい〈鳥〉って何なのよ。確かに私、歌と容姿には割と自信あるわよ。でも、この私のどこが鳥に見えるわけ? あんたらの目は節穴なんじゃないの。まあ、姿も見えないんだから、節穴でも仕方ないんでしょ。頭だって、きっと空っぽなのよね!」
 わざと怒りを買うように、いつも以上に身振り手振りを駆使し、暗闇の果てを睨み据える。唾が飛ぶのも気にせず、滑舌良く。

「そんなこと言える立場なの?」
 相変わらずの子供じみた声で、いくぶん鋭く割り込みが入った時、シェリアは〈賭けに勝った〉と秘かに拍手喝采していた。
 だが周到な罠を張ったのは精霊たちだ。さすがに敵は一枚上手であることを、間もなく彼女は思い知る結果となってしまう。
「それに、こんなもの」
 まさに心の琴線と呼ぶにふさわしい、シェリアが張り巡らした魔法の糸が弾かれ、殷々と共鳴する。頭が割れそうに痛む。
 発狂するほどではないが、重いものが頭を抑えつけているかのような鈍い苦しみが襲いかかり、息さえもきつくなってくる。
「ウ……」
 のたうち回れるのならば、まだ楽な気がする。筋肉は石のように固まり、思考は千々に乱された。額に脂汗が浮かんでくる。
 彼女は精神力では全く歯が立たないことを突きつけられた。
「籠ごと、潰しちゃってもいいんだよ」
 子供の声色は、残酷な遊びを楽しむかのように彩られていた。シェリアは辛うじて両手で頭を抱え、耐えるしかなかった。
 言い過ぎたかも知れないが、後悔はしていない。妹にきつい言葉を投げかけて、後から猛烈に反省したりすることもある十九歳の長女だが、今さっきの判断には自信を持っていた。何も反応がないよりは、例え苦痛でも状況は前進していると思う。

「やめなよ。挑発に乗ったら駄目だ」
 他の〈誰か〉の精霊が口出しし、シェリアの呪縛は解ける。急に頭痛がしたり、治ったりと慌ただしいが、本当にそうなのだ。
「はぁ、はぁ……」
 シェリアはしばらく、大きく肩を動かして呼吸を繰り返した。服の背中は冷たい汗でびっしょり濡れている。せっかく張った心の糸は壊れた蜘蛛の巣のようになり、放棄せざるを得なかった。
「何が、望みなの?」
 彼女は赤いズボンの膝を抱え、上目遣いに天井を仰いだ。
 
 
(十五)

「鳥は、唄って、さえずって、飛び回ってりゃァいいのさ!」
 あからさまに怒りと侮蔑とを含んだ声が、まるで夏の強い光が射るかのように降ってきた。相手が精霊だからか、その声は耳で捉えるのではなく、頭に直接響いてくるような感覚があり、シェリアは額を押さえて顔をしかめる。彼女が精神を鍛えた魔術師だと言うことも、精霊の声を敏感に捉えてしまう要因の一つなのかも知れなかった。さっきのひどい頭痛は消えたばかりなので、脇の下や背中は、重い冷や汗でじっとり湿っている。
「こら、大声を出すんじゃないよ……」
 肉体がなく、精神と魔力だけで出来ている精霊たちは、余計に仲間内の思念の波動が増幅して聞こえるようだ。叫んだのと別の精霊は、心底参ったように弱々しい声を発するのだった。
(あいつらって案外、子供っぽいのね)
 シェリアは内心、ほくそ笑むのだったが、相手に悟られぬよう精神の警戒は決して緩めない。土の地面に手の平をついた姿勢でしばらく待っていると、闇の遠くから再び精霊の声がした。
「夏祭りで、歌を披露してもらうのさ。僕らの〈鳥〉としてね」
「へぇー、あんたたちも夏祭りをやってんのね」
 シェリアはだいぶ冷静さを取り戻し、驚いたふりをして相づちを打った。交渉時の、押したり引いたりの駆け引きは、いつも渉外役のタックや、第一印象の良いリンローナに任せており、シェリアはむしろワガママを言って足を引っ張る方なのだが――真剣にやれば意外と好きなことに、今さらながら気づくのだった。
「村のやつらの方が、僕らと同じ時期に真似したんだよ。妙な儀式をしなきゃと思い込んでるおかげで、天音が森には歌の上手い小鳥が紛れ込んでくれるから、僕らにとっちゃ助かるけどね。僕らは、歌の上手な小鳥を飼うのが、とっても好きなんでね」
 今度は自信家らしい精霊がやや低い声で語った。とっさにひらめいたシェリアは、今度は敢えて相手を褒める作戦に出る。
「へーえ。魔力の強いあんたなら、村人に〈妙な儀式をしなきゃ〉と思い込ませることなんか、簡単すぎるのよね……きっと」
「そりゃそうさ。実際に、そうしてるんだか……」
 さも嬉しそうに喋りまくる声を制し、別の精霊が釘を刺した。
「こら、何を言ってるんだい!」
 
 
(十六)

「ふーん」
 わざと興味のない態度を装い、見えない相手へ相づちを打つふりをしながら、シェリアは自慢の薄紫の長い髪を何度も掻き上げ、目まぐるしく頭を回転させ、必死に考えていたのだった。
(村人に思い込ませるなんて、大した魔法だわ。やっぱりあいつら、森の精霊なのね。心を操作する〈幻術〉がすごく得意な)
 彼女は口をつぐみ、次はどう出ようかと知恵を絞る。急に黙ったのが気になったのか、妙な間のあとで、一人が声を発した。
「おしゃべりな鳥だなあ。早く歌を唄ってよ。小鳥なんだから」
「そうそう。少しずつ姿が変わって、尾が伸びて羽が生えて……朝には小鳥になってるよ。夏祭りで毎年唄ってもらってるけど、今年の歌姫はお姉さんってわけだからさぁ、光栄に思いなよ」

「お姉さん、なんて気安く呼ばないで頂戴」
 怒りというよりも、おかしみや呆れを感じて、気楽に応えたシェリアだったが――頭の中で〈お姉ちゃん〉と呼ぶ声が聞こえ、妹のリンローナの心配そうな顔が浮かんでくると、急に頬の辺りが硬くなり、表情が引きつってくるのが分かった。淋しさも募り、夜が来る不安もある。近くにいるはずのケレンスとリンローナは何をしているのだろうか? ルーグには迷惑をかけたくない。
(早く助けに来て……)
 思わず口の奥の方で呟きながら、ふと紫の髪と眼、赤い足の鳥になった自分の姿が脳裏をよぎった。森の涼しい風が、地面に近い場所を通り過ぎ、シェリアは思わず身震いした。本当に寒いと言うよりも、寒気を感じたのだ。鳥肌――シェリアの故郷では〈海の泡〉という――が背中と腕に広がるのが分かる。鳥籠の中は暗くて見えないけれど、それが鳥の肌に似ていたことを思い出し、シェリアは幻影を振り払うために軽く首を振った。

 鳥になること自体はあまり怖くはないし、実を言うと好奇心がないわけでもないのだが、あの我が侭な精霊たちのために唄うのはお断りだ。何より、姿の見えない子供じみた精霊たちに見下されている今の状況が、彼女には不愉快極まりなかった。
「逃げたいかい? ちなみにねぇ、魔法で風を起こしてもいいけど、鳥籠は頑丈だし、お姉ちゃんが吹き飛ばされるよ。壁にぶつかるのかな、天井にぶつかるのかな、それとも地面に……」
 意地の悪い挑発に、今度は本物の怒りが再び押し寄せてきた。十九歳の女魔術師は半ばヤケになって、声を張り上げる。
「じゃあ、私の美声を聞かせてあげてもいいけど、あんたら姿見せてよ。どこに向かって唄えばいいのか分かんないじゃない」
 
 
(十七)

「僕らは、ここにいるじゃない」
「さっきから、ここにいるよ」
「どこを見てるんだい。ははは」
 一人が言うと、何人かの同調の波が起きた。その中にはあざ笑う調子の者もいれば、真面目に応えていた者もいるようだ。
 煮え切らない感情を最後まで爆発させず、心の戸棚に押し込んでしまうと、ひんやりした虚しさが糸を絡めるようにまとわりついてくる。シェリアはいい加減、体力的にも精神的にも消耗しきっていた。朝早くに村を発ってから森に入り、山菜を求めての探索行、ケレンスとの喧嘩、気絶を経て、今度は〈鳥籠〉の中で魔法の網を伸ばしたりしたため、疲れが溜まってきていたのだ。
 もちろん、だからと言って現状を追認するわけではない。一時的な諦めを身にまといつつ、休息を取りながら虎視眈々と脱出の機会を窺う、跳躍に備えた助走の時間が訪れてきたのだ。

 薄暗い場所で研ぎ澄まされた聴覚は、今や〈聞こえる音〉に留まらず、彼女の内側へと向かっていた。耳の奥では妙な声ばかりが反芻される。まずは麓の村の長の、方言混じりの声だ。
『湿った水際に、夏祭りで献上する山菜があるンだとよ……』
 そして妹のリンローナの呼びかけが、生々しく思い出される。
『そうだ、鼻歌のお手本を聴きたいな……お姉ちゃん、とっても上手なんだもん。天音ヶ森の鳥さんにも混じれるよ、きっと!』
 最後にたどり着いたのは、懐かしくて音痴な、妹の鼻歌だ。
『んんんん〜ん……』

「ちょっと。僕らの話、聞いてるのかい? 鳥のお姉さん」
 囚われの若くておしゃべりな女魔術師が口をつぐんでしまうと、何故か辺りの雰囲気も微妙に重くなった。不思議なことに、今や〈鳥籠〉の空気を左右するのは、高みから見下ろしている精霊たちではなく獲物として捕らえられたシェリアの方だった。

 そんな時、親切な〈声〉の一人が、彼女に助け船を出した。
「炎を操る魔術師のお姉さん、普通に見ようとしても見えないはずだよ、僕たちは。そっちとは、まるきり法則が違うんだから」
「……だったら、見てやんないわよ」
 へそ曲がりのシェリアは、大きく息を吐き出しながら目を閉じる。形のいい艶やかな唇は微かに歪められている。自分の犯した失敗を徹底的にあざけるような、それでいて今の状況を楽しむような、気張らない本来の彼女らしさが見え隠れしていた。

 突如、驚きの疑問符を響かせたのは、次の刹那であった。
「はぁ〜?」

 薄い緑色のもやのようなものが、神秘で残酷な火焔(かえん)のように、闇の中で照らされた草のように、透き通った湖の底に沈んだ柳の葉のように、この世に未練を残す亡霊のように、ゆらゆらと揺れ動いているのが分かった。幻とは思えない。まるで国家の偉大な指導者から肉体だけを消し去った時に残る〈存在感〉の、その絞り汁を煮立てたような、躍動の魔力の波紋だ。

「何これ」
 目を開けると、さっきまでと何ら変わりがない、秘密の〈鳥籠〉の薄暗がりがあるだけだ。見えない〈声〉には緊迫感が走る。
 シェリアは再びまぶたを閉じ、開き、数度繰り返した。それから不意に、学院の講師と教え子との恋の現場を目撃してしまったかのような、妖しさと危険と深い興味に彩られた、軽い上目遣いの、相手を小馬鹿にするような笑みを浮かべるのだった。
「ははーん。とっくに分かってたけど、今ので完全な確信が持てたわ。あんたらは、間違いないわ……森の精霊なんでしょ?」
 
 
(十八)

 シェリアが指摘した刹那、辺りが凍り付いた。直後、ひどく微妙で繊細な、ぎくしゃくする雰囲気が漂う。相手はどう答えるか考えあぐねているのだろう。顔を見合わせるような間があった。
「何を言うんだい」
 動揺を包み隠した低い声で、精霊の一人がつぶやいた。その声には張りがなく、堅い響きで、戸惑いを浮き彫りにしていた。
「もういい、分かったわ。今のやりとりが雄弁すぎる答えよ。あのフニャフニャの緑色のバケモノが、あんたらの姿なわけね」
 さらに続けようとした相手の言葉を遮り、シェリアは悠然と言い放った。立場が弱いのはあくまでも彼女の方に変わりはないが、精霊たちが不安そうにざわめき出すのが手に取るように分かった。かつて捕らえられた村人たちと異なり、魔術師の修行を積んだシェリアだからこそ、魔力の強い精霊を見分けられたのかも知れない。そう――精霊たちは初めて見破られたのだ。

 けれども、中には優位な現状を再認識し、いち早く冷静さを取り戻した者もいる。彼は確信に満ちた口調で皆に呼びかける。
「だからと言って、何も変わらないよ。結局、お姉さんは脱出できないし、鳥になってもらうし、夏祭りで僕らのために唄うんだ」
 今度は軽いどよめきが広がった。すぐ同調する者も現れる。
「そうだよ。いつも通り、今まで通り、無力な鳥に変えちゃえば、今のやりとりはすっかり忘れちゃうんだから。帰る時にはさ!」
「この〈鳥籠〉にいたことすら、ほとんど忘れちゃうんだよね!」

(ははーん、分かったわ。鳥になって帰ってきた村人は、だから〈鳥籠〉って言う単語くらいしか、まともに覚えてなかったのね)
 シェリアはというと、気持ちの揺れが大きい精霊たちの言葉のやりとり――というよりは、魔力の交感による精神的な意志疎通だったのかも知れないが――に翻弄されることもなく、一言も聞き漏らすまいと集中力を極度に高めていた。元来は彼女こそ、案外に浮き沈みが激しく、お世辞にも穏やかな性格とは言えない。だが、相手の心が乱れれば乱れるほど、シェリア自身は興醒めし、逆に頭が冴えてくるのも彼女の特徴であった。

『鳥籠にいた気分だ、と被害者はしきりに語っておるンじゃが』
 村長代理の聞き取りにくい声が、頭の奥底で朧気に蘇った。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「シェリアお姉ちゃーん」
 青ざめた顔のリンローナは、姉の名を呼ぶのを中断した。薄緑色の瞳を曇らせて伏し目がちにし、かすれた震え声で呟く。
「どうしよう……」
 つい先頃、池のほとりまでシェリアと行動をともにしていたケレンスとリンローナは、単独行動をして姿を消した魔術師を心配していたし、決して手をこまぬいていたわけではない。彼らなりに最善と考えた、必死の捜索活動を敢行していたのである。
 
 
(十九)

「お姉ちゃん、どこにいるの?」
 鼓動さえ痛むのだろうか――張り裂けそうな胸に軽く手を乗せ、リンローナは独りぼっちになった姉のことを心配していた。
 池を取り囲むように続く森の小径を探し歩き、草がカサカサと揺れるたびに姉かと思って立ち止まるのだが、結局は風か小動物の仕業だった。そのうちに何となく見覚えのある景色が現れると、彼女は凍り付くような表情になり、震える声で言った。
「ここ、さっきの場所……」
「これで三周か」
 ケレンスは悔しそうに唇を噛んだ。彼の顔もいつにないほど険しく変わっている。リンローナほど感情が先行してシェリアの安否を気遣っているわけではないが、リーダーのルーグから姉妹の安全を託された以上、シェリアにもしものことが有れば、顔見せ出来ないという責任感をひしひしと感じていた。二人を元気な姿で帰らせるというのが、今のケレンスの最大の使命である。

 昼の明るさは花がしおれてゆくように色褪せ始めて、辺りにはほんの少しだけ黄昏の気配が漂ってきていた。秋の夕暮れは早い――日が落ちてしまえば、ルーグとタックが待つ河畔に戻るのも困難になる。ケレンスたちまで遭難する可能性もあるが、だからといってシェリアを置いて去るわけにもいかない。十七歳の〈サブリーダー〉には初めての、難しい判断が迫られていた。

 ケレンスは頭よりも先に身体が動く男だ。終わってしまったことを後悔する前に、出来ることをやる――彼は即断即決した。
「もう一回、廻ってみようぜ。今度はもっと注意深くな」
 的確な指示を出してくれるルーグや、目先が利いて推理を働かせるタックはいない。ケレンスは心を落ち着かせ、彼なりに優しい言葉をかき集めて、まずはリンローナを励まそうと努めた。
「まだ、そんな遠くには行ってねえよ。大声で呼ぼうぜ、なあ」
 彼女の直感や知識、魔法の力は、ケレンスにはない。曰わく付きの〈天音ヶ森〉では、そのどれもが重要な鍵となるはずだ。

「……うん」
 しっかりとうなずいたリンローナは、泣き出してしまいそうな不安を必死に堪えて、こぶしを堅く握りしめた。すぐに再出発したケレンスの背中から離れ過ぎないように気をつけながら、足下や脇道に注意を張り巡らせつつ、前へ進んだ。頭の中ではケレンスと姉とが喧嘩して、自分が板挟みになったが結局は止められず、別れ別れになってしまってからのことを思い出していた。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 それはシェリアが去った直後のことだった。姉は歌が上手いから心配、というリンローナの台詞を耳にしたケレンスはにわかに立ち止まったが、それは短い間のことだった。雑念を振り払うように頭を右へ左へと動かしてから、大股で前へ突き進んだ。
「ねえ、ケレンス。早く一周して、お姉ちゃんと会おうよ」
 しつこく責めたい気持ちをぐっと堪え、リンローナは焦り気味の声でケレンスを促した。それほど大きな池ではない――大急ぎで回れば、反対向きに進んだ姉に、どこかで出くわすはずだ。
 それでも何故か、胸騒ぎは止まらない。リンローナは背中に寒気を覚え、ぶるっと震えた。早く姉の顔が見たいが、そうするまでは決して気を緩めてはいけないと密かに肝に銘じていた。

「……」
 ケレンスは黙ったまま、足早に丈の低い草を踏み分けてゆく。さっきまでは高らかに響いていた美しい鳥たちの和声さえ、森の底知れぬ不気味さを演出する。リンローナは山菜を摘むための籠を左手に持ち替えて、前をゆくケレンスの袖を引っ張った。
「ケレンス。あたし、何だか嫌な予感がするんだけど……」
 話しかけられた剣術士は、わずかに眉を動かした。彼は良く知っている――リンローナの〈予感〉は、聞き流すには惜しい。
「気のせいだろ」
 それでも強情になっていたケレンスは、少女の忠告をはねのけた。しかし沈んだ語尾と、その後に取った行動は、強気の言葉とは裏腹に不安そうだった。小柄なリンローナがついていくのが大変なくらい、どんどん歩き方は乱暴に速まるし、目的の山菜には見向きもしない――彼もとっくにシェリアが心配だった。

 池を半分ほど回ったところで、リンローナは顔を上げ、ゆっくりと口を開いた。信じられないものを見たが、目を逸らすことは出来ないとでも言いたげに、薄緑色の大きな瞳は正面を見据えており、普段とは別人の低い声は微かに震えていた。脳裏には漆黒の暗雲が広がり、ついに土砂降りの嵐に襲われていた。
「白い霧が出てきて、対岸が……お姉ちゃんが見えないよ?」
 
 
(二十)

「どうした?」
 前を行くケレンスは急に立ち止まり、強ばった顔で振り向く。
「不思議な魔力を感じる……」
 リンローナはそこでいったん言葉を切った。見えない〈誰か〉が聞いているのを警戒するように、いっそう声を潜めて説明する。
「あの霧、もしかしたら魔力を帯びてるのかも知れない。ただ、あたしが知ってるような魔法とは、かなり違ってるようだけど」
 鋭い感覚の持ち主である聖術師のリンローナは、自らの身体を守るように――抱きしめるように強く腕組みをし、抑えた声でささやいた。辺りの空気は張りつめていて、風の流れさえ妙に肌にまとわりつくように白々しく思えるし、産毛を撫でられて寒気を覚える。麗しく響き渡っていた鳥の歌声は、いつしか音の輪郭と影を朧(おぼろ)にし、抑揚を失い、くぐもって聞こえた。
「ん?」
 少し離れていたケレンスは、良く聞き取れず怪訝そうに問う。
 だが、リンローナの変化を察して、身体はすぐに反応した。池を取り囲む細い土の道を早足で引き返し、彼女の前に立った。

 二人はしばらく黙ったまま、しだいに咲き始めた花のつぼみのように膨らんでくる池の対岸の白いもやを睨み据えていた。湖面を細波が滑り、辺りの彩りは灰色に塗り替えられてゆく。
 やがてケレンスは戸惑いつつも右手を挙げ、人差し指を真っ直ぐ伸ばし、シェリアと二人を隔てている池と霧に突きつけた。
 視力の良い彼としては珍しく、蒼い眼を何度も瞬きして言う。
「なんか、あの霧、色が付いてねえか? 薄紫みたいな、さ」
 隣のリンローナは草色の後ろ髪を揺らし、真剣にうなずいた。
「うん、お姉ちゃんの瞳の色だ。そして……夢幻の魔法の色」

 水にピションと雫が落ち、同心円状の波紋を投げかける。それが何の仕業かは分からない。孤独と不安の物思いから醒めきれぬケレンスとリンローナは、不意に眼差しを交錯させた。
 地方の貴族の清楚な姫君を連想させる背の低い少女は、いまや唯一の頼りの綱となった年上の剣術士を見上げ、大きくて愛らしい薄緑の瞳を心配そうに曇らせた。懸命に張り巡らした魔力の網で感じ取った〈霧の印象〉を相手に伝え、懇願する。
「邪悪な感じはしないけど、ちょっと神秘的で、しかも身近な魔力みたい。とにかく、一刻も早くお姉ちゃんと合流しなきゃ!」
「ヤバいな」
 舌打ちし、ケレンスは独りごちる。魔法を扱えるほどの魔力を持っていない剣術士でも、あの薄紫の霧の妙な現れ方や、意思を持っているかのような広がり方は癪に障って仕方がない。
 リーダーのルーグ、策士のタックはいない。自分たちも変な霧に巻き込まれないか、そうでなくとも視界不良で道に迷わないか、出会い頭に熊に襲われたら――色々な可能性が頭をかすめたが、結局、彼の導き出した結論はとても単純明快だった。
「シェリアを助けたい。だから、とりあえず行くべき、だよな?」
「うん」
 リンローナはほっとしたように一瞬だけ頬を緩めたが、両手を胸の前で組み合わせ、聖守護神に姉の無事を祈るのだった。
 
 
(二十一)

 謎めいた神秘の霧を遠くから眺めていると、寒い冬の日に暖炉を炊いている部屋の曇りガラスを彷彿とさせた。霧の中全体が一つの閉じられた空間となり、団子の薄皮のように何かを包み込んで捕らえてしまう――そんな想像が頭を駆けめぐった。
「おい、俺から離れるなよ」
 毅然とした口調でケレンスが呼びかけると、リンローナは戸惑いがちに相手のそばに寄り、再び不安げにつぶやくのだった。
「ケレンス……」
「行くぜ、リン」
 頬に古傷の残る若き剣士は長旅で荒れた手で、少女の華奢な左手を壊してはいけない宝物のようにしっかりと握りしめる。
 指の間から送り届けられる見えない力が、互いを励ました。

 しだいに深まりつつある白い霧はねっとりと生気があるかのように漂い、しかも限りなく薄い紫色に染まっている。明るいけれども全ての存在が消えかかっている森の奥に突き進むのは、闇を歩くのとは似て非なる勇気が要る。自分の靴さえおぼろに白く濁っていて、視力が役に立たない。しだいに深い微睡みへと誘われてゆくような、夢心地で身体が浮くような気分だった。
 それでも、よほど足下の起伏や木の幹に注意して歩かないとすぐに躓いて転ぶだろうし、最悪は池に落ちるかも知れない。
「ケレンス、気を付けて。意識をしっかり持たないと、危ないよ」
 ひっきりなしに不思議な魔力を感じて神経を張りつめていたリンローナが警告すると、ケレンスは立ち止まって首を振った。
「……いけねえ、いけねえ。なんか息苦しくてさ、眠かったぜ」

 森という巨大な〈空気の溜め池〉に、薄い白に染まった風の牛乳を注ぎ込んでいるかのように。シダ植物のギザギザの葉が、小さな虫の背中が、樹の幹に刻まれた深い皺が、何もかもが――しっとりと沈んでゆく。貴婦人のヴェール、あるいは実体を持たず冷たさのない幻の雪に隠されてゆく針葉樹の木立は限りなく美しく繊細だったが、どこか作り物の胡散臭さも混じる。

「お姉ちゃん? どこにいるの?」
 どこを見たら良いのか分からず途方に暮れながらも、リンローナは少し汗ばんできたケレンスの手をしっかりと握り返したまま声を発した。他方、感覚を研ぎ澄ませることを少女に任せたケレンスは、とにかく足元に気を付けて道を踏み外さないよう集中力を高め、その合間を縫って行方不明の魔術師の名を呼ぶ。
「シェリアー、どこにいるんだ? 早く出て来いよー」
 薄紫色の霧が、不吉にもシェリアの髪と瞳を思い出させる。

 それでも若い二人は、ほとんど躊躇せずに進んでゆく。起伏の激しい森の中と異なり、獣道が歩きやすいのは幸いだった。
 だが、ここで匂いを頼りに危険な動物が突発的に出てきたら逃げきれない。正しい道を確かめたくても、魔法だって役には立たない――仮に照明術〈ライポール〉が使えたところで、この霧では乱反射して拡散するだろう。ある意味、夜よりも厄介だ。
「辺りが見えないと、こんなに不安になるんだね」
 リンローナは心細そうに言う。ケレンスは指先に力を込めた。
「ああ」
 髪や肌はしっとりと湿っている。鳥の歌声は止まったままだ。
「お姉ちゃーん」
「シェリアー!」
 二人の呼びかけだけが、静閑な森に虚しくこだましていた。

 突然、辺りを埋め尽くしていた霧のからくり――微細な水滴の姿が露わになってきた。消えていた存在が一つ、また一つと輪郭を取り戻して、白い海から浮上する。霧が晴れてきたのだ。
 視界が広がって、ケレンスとリンローナはどちらからということもなく歩みを止めた。二人は目を見張り、立ち尽くしてしまう。
「あたし、この場所、見覚えがあるよ……」
「俺もだ。一周したんだ」
 彼らの顔は蒼く、瞳は呆然とし、その声は重く澱んでいた。

 破れてしまいそうなリンローナの心をひしひしと感じていたケレンスは、彼女を見下ろして、元気づけようと前向きに語った。
「脇道にでも入ったのかも知れねえよな?」
「そうだね。もう一周、回って見ようよ。手分けして」
 リンローナは何度もうなずいたが、ケレンスは逆に否定する。
「駄目だ。これで俺らまではぐれたら、ほんとにお終いだぜ」
「それなら、あたし、悪いけど一人で行くよ?」
 泣きそうな顔をして、丸腰のリンローナは珍しく強い口調で詰め寄る。ケレンスは相手の誤解を解くため、すぐに説明した。
「違う、そういう意味じゃねえ。もういっぺん、一緒に探そうぜ」
「うん……ありがとう」
 リンローナはうつむきがちに礼を言う。頬をこわばらせ、姉が心配で涙が出そうになるのをじっと堪えている様子であった。
 
 
(二十二)

 まもなくシェリアの捜索は再開された。心して取りかかった二周目だったが、なぜか妖しの薄紫の霧は晴れていた。すぐに周り終え、収穫は得られない。引き続き行われた三周目も駄目で、ケレンスの焦りとリンローナの不安は募るばかりであった。
「ここ、さっきの場所……」
 こうしてリンローナは、先ほどの言葉を愕然と洩らして絶句するのだった。顔は青ざめ、可愛らしい唇は微かに震えている。
 少女の気持ちを痛いほど感じていたケレンスは、こういう時にリーダーのルーグだったらどう行動するだろうか――ということを必死に思い浮かべ、責任感と後悔とで揺れ動く心をどうにか抑えつけて、年下のリンローナへ前向きに提案するのだった。
「これで三周か。もう一回、廻ってみようぜ。今度はもっと注意深くな。まだ、そんな遠くには行ってねえよ。大声で呼ぼうぜ」
「……うん」
「特に霧があった辺りを入念にな」
「そうだね」
 リンローナはかすれ声でうつむきがちに言ったが、その直後に自らを厳しく律して毅然とした表情を取り戻すと、再び率先して草の道を歩き出した。足の疲れとむくみ、両肩や膝や腰の重さを感じていたが、そんな些細なことに構っている余裕はない。他人のこと、特に家族や親しいものを一途に案じた時、彼女は自分の好不調をさておいて無理を重ねてしまう傾向があった。

 まさにその時であった――姉の言葉をふと思い出したのは。
(姿が見えるから平気でしょ? じゃあね)
「お姉ちゃん……お願い、どうか無事でいてね」
 つぶやいてから唇を結んだ幼さの残る少女は、今度こそ姉の行き先の手がかりを見つけなければと強く心に誓うのだった。
「お姉ちゃーん!」
 ケレンスの方は、そもそもの今回の旅の目的である山菜が池のほとりに生えていて一瞬だけ気にかかったが、すぐに気持ちを切り替えて声を張り上げ、紫の髪の魔術師の名前を呼んだ。
「シェリアー、どこにいるんだー?」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

(このまま暗くなったら、お仕舞いよね。鳥に変えられて、あいつらのために唄わなきゃいけないなんて、まっぴら御免だわ)
 夕暮れの涼しい空気が迫りつつある池を左手に見ながらケレンスとリンローナが四周目に入ったのと同じ頃、天音が森の精霊たちによって魔力の網が張られている〈鳥籠〉に閉じこめられた魔術師シェリアも、決して現状に甘んじていたわけではなかった。すっかり精霊の術中に堕ちて捕まり、何十人もの姿を隠した相手に見下ろされているという明らかに分の悪い対峙であるが、彼女なりに現状を打破しようと考えを巡らしていたのだ。
「そうね。もう、抵抗しても無駄だわね」
 軽い溜め息のあとにシェリアがうなだれて、諦めたように緊張の解けた声で言うと、鳥の中の雰囲気は安堵につつまれた。
「やっと観念したんだね」
「いい心がけだよ」
 しばらく考えていたシェリアは、ひとまず従順なふりをして時間を稼ぎ、何とか作戦を立てようとしていた。連中は不思議な魔法の糸を伸ばし、頭の中を掻き回すことが出来るほどの力の持ち主なのだから、いずれ考えは伝わってしまうかも知れぬ。
(それでも諦めるのは――私の性には合わないのよね!)

「よっしょ……と」
 シェリアは小さく首を振ってから、足の裏から膝にかけて力を込め、その場に立ち上がろうとする。どこが天井なのか分からないような薄暗がりにいるとバランス感覚がおかしくなり、最初はふらついてしまう。むろん長旅や精神力消耗の疲れもある。
「何をするの?」
「謝ったって、出してあげないよ」
「こら、黙るんだ」
「そうだよ。鳥に注目しようじゃないか」
 遙か上の方で取り交わされるそれらのざわめきを手で制し、シェリアは可能な限りはっきりした声で皆に告げるのだった。
「静かにして。唄うわよ」
 
 
(二十三)

 シェリアは両足を軽く開いて大地を支え、胸を広げてゆったりと息を吸い込んだ。顎をやや引き、肩や首の無駄な力を抜く。
 雑談していた精霊たちもふいに黙り、夕風さえも足を止める。
 その瞬間、天音ヶ森のすみずみまで〈休符〉が舞い降りた。

 十九歳の魔術師はここぞという機会を逃さなかった。南国伝来のメフマ茶に少しずつ黒砂糖の粒を混ぜてゆくかのように、涼しさをそっと流し込む黄昏の空気の奥底で、最初は微かに震える声で――しだいに広がりを抱きつつ歌い始めるのだった。
『真っ赤な夕焼けが』
 かつて森の奥の小さな村で、つかの間の友の詩人が作った歌の一節一節を思い出しながら、シェリアはありったけの想いを声に乗せて唄った。鳥籠の中では見えないが、精一杯の想像力を膨らませて、今日の赤い夕陽を心の懐に描いたのだった。
『あまりにもきれいで』
 精霊たちは無伴奏の独唱に聴き入っている。いや、むしろ聞き惚れている、というのが正しかったのかも知れぬ。音楽好きの彼らにとって、唄は伴奏があろうと無かろうと関係なく、重要なのは歌唱力や表現力といった純粋な音楽性であるようだ。

『さみしい帰り道、心は沈んでた』
 視界の利かない鳥籠の最下層で唄うシェリアの顔つきが変わったのは、二番になってからだった。唇がそっと緩められ、微笑みが混じり出す。それは彼女が賭けをするときの顔に似ている。期待と願望、楽しみと淡い夢とが混じった顔つきであった。
(リ・ン・ロー・ナ、気・づ・い・て)
 シェリアはついに作戦を実行に移した。唄いながら、音符と音符の隙間に、何度か秘かな魔法の伝言を籠めていた――限りなく慎重に、繊細に。この土壇場で精霊たちを出し抜くために。
(私・は、こ・こ・に・捕・ら・え・ら・れ・て・い・る・の・よ!)

『今日よ、おやすみ……』
 歌い終わって、シェリアは沈黙する。頬と胸が火照っていた。
 風がそよぎだしたが、精霊たちは歌が終わったのかどうか判断しかねていると見えて、感想を言い合うのを躊躇している。
「……終わりよ」
 溜め息混じりに言うと、上方から一斉に歓声が沸き起こる。
「なかなかじゃないか!」
「今までの〈鳥〉と比べても遜色ないな」
「へーえ。やるもんだねえ」
「明日の夏休みが楽しみだよ」

「ま、こんなもんよ」
 シェリアは立ち尽くしたまま軽口を叩いた。その一方で額に浮かぶ冷や汗の珠を手で拭いながら、精神を操るのが得意な相手に決して気取られぬよう、心の深い領域で考えるのだった。
(上手くいったかしらね……)
 
 
(二十四)

「ちょっと休んで、もう一曲披露するわ」
 一方的に言い放つと、シェリアはその場に横座りをした。肩や腰は重く、頭はやや血の気が引いていて、胸の辺りは少し息苦しかった。こめかみが不安定な強い鼓動を打ち続けている。
 普段なら思いきり唄えば気が晴れるものだが、さっきは極限まで心が張りつめていたのだった。正確な広さも分からぬ薄暗い〈鳥籠〉の中で、ひんやりと涼しい微風を受け、見えない観衆に向かって唄っていれば、だんだん感覚がおかしくなってくる。
 シェリアは出来るだけ何も考えないようにして肩を上げ下げし、思いきり首を振り、それから口をすぼめて開いて、歯の隙間から長い時間をかけて息を吐き出した。それとともに身体の力みが抜けてゆき、自分の領域がほんのわずかながら拡がったような感じがし――緊張の糸がほぐれて、彼女の頬は緩む。

 一方、鳥籠のはるか上の雰囲気はすっかり和らいでいた。
「無理しすぎて喉を潰されたら、困るからね」
「休んだら、また唄ってくれるんだね?」
 天音ヶ森の精霊たちは、まるで子守歌や物語をねだる幼子たちのようだ。赤いズボンの両足を折り曲げて上半身を起こした姿勢のまま、シェリアは脱力感を覚えつつ、呆れたように言う。
「あんたら、よほど唄が好きなのね……」

 やがて彼女は強い意志の光を瞳に輝かせ、斜め上を眺めた。その顔には、最近では滅多に見られることはなくなってしまった悪戯っぽい微笑みが浮かんでいたが、鳥籠は相変わらず薄明かりに沈み、話に夢中だった精霊たちは気づいていなかった。
「今度の鳥は、なかなか声がいいみたいだよ」
「明日の夏祭りが楽しみになるね」
 シェリアは今や囚われの身でありながら、鳥籠という小さな世界を席巻し、話題の中心へと登りつめていたのだった。もはや敵対的な行動を受けたり、みだりに虐げられることはない――ここでは〈唄〉が全ての上位にある。シェリアが唄うことを拒否しない限り、彼女は森の精霊たちにとって可愛らしい〈鳥〉であり、守られるべき存在だ。話の種になるのも無理はなかった。

「そろそろかしらねぇ」
 彼女が一言喋ると、とたんに甲高い声が雨霰と降ってくる。
「そろそろ始まるのかい?」
「今度はどんな唄なんだい?」

 シェリアは両手で身体を支えて立ち上がりかけていたが、急に考えを変えて腰を落とした。精霊たちの言う通りにするのが何となく癪だったのと、時期を〈待ってみよう〉と思ったからだ。
「……いや、もうちょっと、準備が整うまで」
「準備?」
 怪訝そうに問う精霊に、シェリアは立ち上がりながら応える。
「そう。次の唄は、準備が必要なのよ」
 言い終わるのと時を同じくして、鳥籠の隙間から外の夕風がそっと吹き込んでくる。他愛ないことだが幸先良く感じられた。草や葉の揺れて擦れ合う音が、故郷の港町の波音と重なる。

「え?」
「もちろん、準備に決まってるじゃないの」
 シェリアは軽く言い放ったが、その表情はむしろ真剣だった。薄暗い中にも地面があることを靴の裏で確かめながら、彼女は再び灯りのない舞台に立ち、孤独な鳥を演じ始めるのだった。
「じゃあ、しっかり聞いてて頂戴。私の『森のハーモニー』を」
 
 
(二十五)

「どうした?」
 急にリンローナが立ち止まったので、歩みを止めて後ろを振り返り、ケレンスは声をかけた。霧の名残となって、幹と幹、葉と葉の間を微かに漂っていた霞は消えそうになりながらも命脈を保ち、そのままほんのり染まって夕靄に変わろうとしていた。
 一群れの秋の風が頬を撫でて速やかに通り過ぎる。この季節、涼しいと思った次の瞬間、早くも冷ややかに感じられる。

 リンローナはまるで警戒を怠らない猫のように、薄緑色の瞳を見開き、耳を澄ませて立ち尽くしていた。その視線の行く先は、現実の景色を飛び越えた先にある真実を見極めようと必死だ。
 息苦しい刻が重く引きずるように進んでいた――次の刹那。
 華奢な肩がぴくりと反応し、彼女は少しだけ向きを変えた。それから杖を握ったまま右手を持ち上げて、前方を指し示した。
「こっち!」
「シェリアだな!」
 出会った最初の頃は魔法や神秘的な現象を苦手としていたケレンスだったが、聖術を得意とするリンローナや魔術師のシェリアたちのことも今ではだいぶ分かるようになってきている。無駄なことは一切聞かず、彼は一気に躍り出て藪に突入した。
「くそっ」
 彼は懸命に腕と足を突き出し、丈の高い草を掻き分けた。剣は使わずに使い古しの靴で踏みつけ、起き上がろうとする硬いくきを長袖の服で押し返し、正面を向いたまま短く鋭く叫んだ。
「来いよ!」
「……えっ? うん!」
 ふと我に返ったリンローナは、口を真一文字に結んで決意を表情にみなぎらせ、しっかりとうなずいた。彼女は息を吸って、ケレンスが必死に切り開いた道なき道へ分け入るのだった。
「おりゃあ!」
 ケレンスは草の丈の長さに辟易しながらも、歯を食いしばって本能のまま、無理矢理に力任せに進んでゆく。彼に続くリンローナの後ろに控えるのは、永い眠りを急に覚まされて不機嫌にざわめいているような、自然に出来た森の垣根だけだった。
「踏みつけてごめんね」
 リンローナは小さく呟きながらも、足早に少年の背中を追う。

「おっと」
 突如として藪は尽き、斜め下に視界がやや広がった。日焼け止めを兼ねて常備している軍手をはめていたケレンスだったが、むきだしの顔は草に引っかかれて傷だらけになっていた。
 短い急な坂を駆け下りると、湖から離れてゆく細い獣道が現れた。今度の脇道は割と平坦で、幅もそれほど狭くはなかった。木々のアーチをくぐり抜け、道は右へ右へと曲がってゆく。
「こっちか?」
 先頭のケレンスが訊ねると、リンローナは再び瞳を閉じて立ち止まり、神経を集中させた。ぴんと張りつめた空気が辺りをつつんでいる。この付近では、鳥の声さえが厳選されているように思えた。澄んだ声と、輪唱と和音の響きが、滞りない水のように、混じりけのない風のように流れている。音楽の溢れる〈天音ヶ森〉の中の最深部――核に迫りつつあることが感じられた。

 リンローナの背中がぴくりと動いた。姉の声が届いたのだ。
『ときどき、は……』
「……」
 向き合うケレンスは、相手の邪魔をしないよう、真剣な表情のまま黙ってその場に立ち尽くしている。昔の彼ならばリンローナを質問攻めにしたところだが〈待つ〉と言うことを覚えていた。

 まるで太陽の光を集める翠の葉となったリンローナは、微かな伝言の断片を確実にかき集め、頭の中で再構成していく。
『……しくて、……だ、……』
「かなり近いよ!」
 見開かれた少女の瞳が強く輝き、ケレンスは指を鳴らした。
 
 
(二十六)

『口ずさもう、懐かしい歌を』
 昼間でも薄暗く、空気の感じでしか夕暮れに近づいているのが判別できない〈天音ヶ森の鳥籠〉の中で、シェリアの独唱は続いていた。単語ごとに機械的に音程を発するのではなく、歌詞の意味を想像し、切なる思いを籠めて音の畑を育んでゆく。
 さらに音符の裏側に、妹のリンローナへの秘かなる魔法通信を隠していた。もともと土壇場や逆境にこそ、極めて純化された形で最大限に発揮されるシェリアの集中力は、彼女の限界と思われていた範囲をとうに超えて、今まさに落ちる寸前の雫や張りつめた蜘蛛の糸を彷彿とさせる未知の領域に達していた。
『冷たい霧も、晴れてゆくよ……』
 歌声には、霧につつまれて〈鳥籠〉にさらわれた自分の愚かさに対する深い反省と、脱出への強い決意が混じり合っていた。

『悲しい、気持ちを』
 シェリアの歌に聴き惚れていた姿の見えない大勢の精霊たちは、長らく秘密の伝言にも気づかずに静聴していたが、唄の二番が佳境に入り始めた頃、にわかに動揺し、ざわめき出した。
『誰だ?』
『誰かと誰かが、近づいてるよ』
『小鳥の〈飼い主〉かな?』
『どうして分かったんだ?』
 驚きと怒りとともに耳打ちするような彼らの小声を、女魔術師は研ぎ澄ませた聴覚で的確に拾いつつ、唄いながら考える。

 唄を中断して〈ちゃんと聞いて!〉と怒鳴るかどうか迷ったが、せっかく繋がるかも知れない魔法通信を切ってしまうのはもったいないし、再び集中力を高めるのも大変だ。どちらにせよ手に思惑がばれてしまうのは時間の問題だと判断したシェリアは、いさぎよく賭けに出ることとし、小細工をするのはやめにした。
 音符の影や裏手に魔法通信を隠すことをせず、抑えつけていた気持ちを爆発的に解放し、思いの丈を素直に言葉に乗せる。それによって、妹に正確な居場所を伝えようと画策したのだ。
『偉大な森の木々に預けたら』
 他方、精霊たちはすぐには意見がまとまらず、明らかに動揺が拡がっていた。強硬策を打とうとする思念と、困惑するような思念が行ったり来たりして――不思議な精神力によって頑なに封印された〈鳥籠〉の世界の、透明な屋台骨を軋ませていた。
『優しさ、取り戻せる……』
 その間もシェリアの唄は精霊を出し抜いて続行した。度重なる緊張の連続で、彼女の薄紫の髪の奥から吹き出した汗がこめかみを経由して頬を伝い、腋の辺りはじっとりと湿っていた。
『今日も明日(あす)も、ずうっと!』

 シェリアは鼻歌で間奏を歌い出した。膝を軽く上下させ、身体をほぐしながらリズムを取りつつ、三拍目に的確に指を鳴らす。
『どうしよう?』
 精霊は打つ手が遅く、そしてシェリアは対照的に打てる手を全て打ち尽くした。彼女にできることと言えば、姉妹の絆を信じ、この〈鳥籠〉を越えた斉唱を望み、歌い続けることだった。
 森の中で妹から〈一緒に唄おう〉と誘われた際、むげに断ってしまった大人げなさを恥じ、赦しを乞いながら高く呼びかける。
(リンローナ、ごめんなさい。私はここよ、助けに来て!)
『小鳥、何をやってるんだい! お見通しなんだよ!』
 ついに強硬派の精霊の甲高く子供じみた怒号が飛び交い、ハミングの間奏が終わるところで、再びシェリアの頭はかき乱された。猛烈な反発の精神波に耐えられず、彼女は片膝をつく。
 しかしシェリアにとって、ここが正念場だ。集中力が途切れ、魔法通信はより高次の力によって切断させられたが、彼女は苦しげに宙をつかみながらも、唄うことで自らを奮い立たせた。
「花も……うっ……色も」

 ますます妨害が強まるかと思えた、その刹那――。
 悲鳴が起こったのは、何故か今度は精霊の側だった。
『ウワッ』
『嫌だ、やめさせるんだ!』
『助けて!』
『やめさせろ!』
『や・め・さ・せ・ろ!』

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「全て違うけれど、すべ……きゃあっ!」
 届けられたシェリアの歌に合わせて、間奏の後の部分から自らも唄いながら、姉の居場所を求めて小道を急いでいたリンローナだったが、何の前触れもなく突如として頭を抱え、前のめりに倒れかかる。見えない毒矢にでも射られたかのようだった。
 水辺の山菜を積んで持ち帰るはずだった籠が転がり落ちる。
「どうした? しっかりしろ!」
 リンローナについて歩いていたケレンスは得意の反射神経で飛び出し、左右から腕を伸ばして、倒れかかった少女を後ろからかかえ込むようにして受け止めた。不思議で優しい温もりと柔らかさが伝わってきて、ケレンスは火急の極みであるのを十分に理解しつつも、顔と耳が火照るのを認めざるを得なかった。
 何とか倒れずに済んだリンローナだったが、眉間に皺を寄せ、顔色は一瞬にして青ざめ、呼吸は荒くなっていた。まだ左腕は頭を抑えて苦しそうにしていたが、必死に右手を持ち上げて道の先を示し――その間もかろうじて唇と喉は唄を続けていた。
「瞳、閉じて、耳を、澄ませ……れば」
「あっちだな?」
 ケレンスは前を見据える。リンローナは、こくりとうなずいた。
 柵のように連なっていた両側の木々が尽き、その先に――。
 
 
(二十七)

 リンローナの華奢な少女の肩に日焼けした腕を差し込み、しっかりと支えながら一足ずつ歩んでいた時、ケレンスはふと前を見た。その先には広葉樹の高さほどある崖が立ちはだかり、行き止まりだった。崖を仰げば、重なり合って互いにきしみ、それでも上下に押し合う赤茶色や褐色の地層の断面が連なる。
 その手前は今までの細い道が拡がっていて、奇妙に開けている場所だった。まるで誰かが作り上げたかのように、わざとらしく円を描いて、見たことのない丈の低い木々が並んでいた。
 町の夏祭り――。
 そういう言葉と想像の断片が、ケレンスの脳裏をふとよぎる。

 遠浅の海岸の引き潮のごとく、夕暮れになかなか追いつけない夏といえども、かつての蒼空は既に黄色が強まり、黄昏の序曲はいくぶん高まりを見せていた。適度な量の柔らかい雲が天に寝そべり、風に運ばれ、眩しい光の合間に照り映えている。
 だが、ケレンスがそれらの様子を確認したのは、実際にはほんの一瞬の出来事だった。彼の視線は吸い寄せられる。
 広く空いた空間の中程には、幾本もの木々が絡まり合っている。その樹には幹がほとんど無く、分岐する枝も少なかった。
 一目で古株と分かる枝の群れは細すぎず頑丈すぎず、まるで蛇のように一定の太さを保ったまま、腰をくゆらせて他の枝と絡まりながら登っていた。枝の表面は妙に活き活きとしている。
 こんがらがった考えか、あるいは蜘蛛の巣、麦わら帽子か。はたまた豆の鞘や鳥の巣をとてつもなく大きくしたかのように。
 その枝の固まりは生きており、意志を持っていることが、不思議な事態にはあまり馴れていないケレンスにさえも直感として伝わってくる。そして明らかに〈何か〉を隠しているようだった。
 近くの崖が、その〈枝の固まり〉に濃い影を投げかけている。それは見方によっては幻想的であったかも知れないが、ケレンスは妙に生々しく感じ、気色悪い多足の虫を思い浮かべた。

「聞こえてくるよ」
 リンローナの顔は青ざめ、眉間に皺を寄せて、額には大粒の汗が浮かんでいた。それでも喉と肺に振り絞った力を注ぎ、やや調子外れの音で姉との思い出の唄を続けていた。妨害により、一時はかすれ声になったが、精神力で打ち克とうとする。
 ケレンスは足と腰に力を込めて、今や唯一の希望となった聖術師に肩を貸し、地面を踏みしめて歩いてゆく。それは支えるというよりも、下から斜め前に持ち上げているような状態だった。
「森のハーモニー!」
 突如、リンローナの声が長いトンネルを駆け抜けたあとのように、ひときわ高らかに響く――と、あからさまな変化が起こる。

「あっ」
 ケレンスは驚きに眼を見開き、耳をそばだてた。
 目の錯覚ではないし、おそらく聴覚も研ぎ澄まされている。
 間違いでなければ、広場の真ん中で異様に絡まっていた古の木々の枝が、水中の藻が揺れるかのように〈動いた〉のだ。
 その様子は、言うなれば病の床に伏せって蠢くがごとく、苦しみと反発とを帯びて。あるいは開きかけの扉を彷彿とさせた。
 目だけではなく、ケレンスの耳の方もどうやら正常のようだ。その証拠に、リンローナは望みの光を見いだして力強く顔をもたげ、膝に力を込めた。その表情には歓びと覚悟とが混ざり、彼女の本来の年齢である十五歳よりも数段、大人びていた。

 あの時、ケレンスとリンローナが聞いた残響とは――。
『ハーモニー……』
 という、枝の隙間から洩れてきた、女性の唄声だった。
 
 
(二十八)

「シェリアっ!」
 明白なケレンスの叫び声が〈鳥籠〉の中にいるシェリアにも伝わってきた。ややくぐもった声だったが、錯覚とは思えない。その声には現実に根を下ろす、何らかの証を含んでいたからだ。
 頭の中には強烈な痛みが駆けめぐっていたし、歯を食いしばって歌い続けていたシェリアだったが、魔法の力を帯びていないはずのケレンスの呼びかけは不思議と内側に届いていた。
 むろん、妹のリンローナのつたない歌声は言うに及ばない。少し疲れているが充実感にあふれている、草木の匂いを絡めた夏の夕暮れの空気を震わせて、まっすぐに響いてくる。やや音は外れているが、少女の高い声は必死に放たれていた。

 ケレンスとリンローナの呼びかけに、シェリアは言葉で返事をすることはなかった。彼女が選んだ最も明快で賢明な回答は、集中力を保ちながら、流れを壊さずに歌い続けることだった。
「知らない町まで、歩いてゆこう」
 それは正式な名前のない、一つの魔法であった。

 姉妹から発せられた見えない音の渦が、蚕の繭のように絡まり合って唄の竜巻を形作り、精霊たちの閉じた世界を打ち破ろうとする。事実、シェリアは〈鳥籠〉の中を突風が駆けめぐって髪が一斉に持ち上がるのを感じていた。それは嵐の晩に家の戸が飛ばされ、風が直接吹き込んでくるような状態を思わせた。
『まずい、まずい』
『頭が痛いよ!』
『立て直さなきゃ……』
『どうすればいいんだい!』
 唄を信奉する精霊たちは、ある意味では人の鼓膜を彷彿とさせる〈鳥籠〉の壁を守ろうとしていた。しかし皮肉なことに、気持ちの通じ合った唄が持つことのできる根元的で奇跡的な刹那の芸術を、彼らは知らなかったのだった。外見は立派だが中身の思想は薄っぺらな〈鳥籠〉は内外の〈唄〉にさらされてきしみ始め、自らは生み出さずに批評することが生き甲斐であった精霊たちは一挙に浮き足立ち、動揺から恐慌へ陥ちていった。

「幸せさがしに」
 互いの姿は見えずとも心の奥底に同じ伴奏を共有しているかのように、リンローナとシェリアの呼吸はピタリと合っていた。
「希望はきっと」「叶うよ!」
「この旅路の果てで」

「あっ!」
 鋭い声をあげ、思わず〈それ〉を凝視したのはケレンスだ。
 嘘ではなく、夢でもない――森の広場の中央で絡まり合っていた謎めいた木々の枝が、まさに蛇を思わせるように身をよじらせたのだ。それは脱皮の際に昆虫が皮を剥ぐのに似て、あるいは花のつぼみのごとく上側が少しだけ開き、光が差し込んだ。
「もう少しだ。リン、負けんなよ!」
 あの奇妙な〈鳥籠〉に駆け寄って剣を振るい、無理矢理にこじ開けてシェリアを救出するかどうかの浅はかな迷いは振り切った。ケレンスは二人の唄を邪魔せず、励ますことに決めて、リンローナの華奢な肩を下から支えている腰と腕とに力を込めた。
 
 
(二十九)

「希望はきっと叶うよ!」
 リンローナの日焼けした額にはあっという間に大粒の汗の珠が浮かび、一筋の流れが頬を伝った。必死の攻勢を維持するため、瞳はきつく閉じられ、眉間には小さくて深い皺が寄っていたが、ケレンスの位置から見える少女の横顔の一部は、心なしかほんの少しずつ和やかになってゆく印象を受けるのだった。
 彼女の唄は、音程こそやや不安定ではあったが、まさに〈望みを捨てない〉と言う強い意思がまっすぐに込められていた。

 耐えられない苦痛にもがくかのように、広場の木々はうごめいていた。細い幹を絡ませ、くねらせ、きしませながら、花のつぼみが速やかに開くかのように外側へと身体を反らせていった。
 魔法の修行を積んでいないケレンスには何も聞こえなかったが、精神が研ぎ澄まされているシェリアとリンローナの姉妹に、天音ヶ森の精霊たちの悲痛な叫びははっきりと届いていた。
『もう支えきれない、決壊だ!』
『保て、守れ! ウワァァ!』
『やめてくれぇ……』
 だが、それを気に留めず、姉妹はなおも朗々と歌っていた。
「この旅路の果てで、誰かが、待ってる!」

 外界とを隔てていた〈鳥籠〉の屋根が開いて、細い紅の光が差し込んでくる。それはあたかも新しい夜明けのようであった。
 ぴったりと硬い枝に閉ざされていた横の壁の部分にも、あちらこちらに隙間ができていて、籠の全体がしおれてゆく様子だ。
「きっと待ってる、ずっと待っている」
「シェリア!」
 今やケレンスの耳にも、シェリアの唄が聞こえ始めていた。
 
 
(三十)

「踏み出すこの一歩が」
 向こうとこちらから湧き上がった姉妹の声は、溶け合わさって攪拌する。見えない唄の渦は透明で清明な波となって、崖の近くにある森の広場を飲み込んでゆく。草がざわめき、地面が張りつめ、靴の裏が微かに震えるのがケレンスにも感じられた。
「すげえ」
 だがそれで気が緩むと、後ろから腕を入れて支えているリンローナの膝がにわかにふらついたので、我に返ったケレンスは肩に力を込めた。通り過ぎる夕風が二人の額の汗を拭った。

『ワァァ!』
 劣勢になり、四方八方からの唄攻めに堪えていた精霊たちの苦悩の金切り声は強まったが、その叫びは猛烈に高まったのち、急激に弱まっていった。それとともに、あちらこちらで壁のように立ちはだかって〈鳥籠〉を形成していた丈の高い古びた枝の群れは、頭を下げるかのようにしなびて垂れ下がってきた。
『う……』
 ひからびるかのように枝はしおれてゆき、かすれた声は途切れがちになり、ざわめきはやがて消えていった。見た目としては枯れたわけではないが、少なくとも〈気絶〉したようだった。
 花の〈がく〉のように拡がった枝の間から、短い下草が生えた円形の空間が覗いている。その真ん中に細身の人影が立っていた。女性としてはやや背が高く、赤いズボンを履いている。

「幸せな明日へ……続くと、信じて……」
 リンローナは涙声になっていたが、最後の盛り上がる部分を唄いきり――そしてその後は、言葉や歌を超えた叫びとなる。
「お姉ちゃーん!」
 歓び、安堵――数えきれない気持ちが小さな身体の奥底で爆発し、あっという間に外側の世界に向かってほとばしった。

(ふたが、開いた)
 他方、シェリアは立ち尽くしたまま、漠然と考えていた。その薄紫色の瞳は、ケレンスの肩から腕を外して駈けだし、不器用ながらも枝の固まりを乗り越えて近づいてきた妹の姿を捉えていた。姉は自然と腕を左右に広げて、妹を心から受け容れた。
 吹き込んでくる風は生暖かくはなく、空気が澄んでいた。
 今や小鳥は、自由の身になった。

「お姉ちゃん、捜したんだよ!」
 腕の中で泣きじゃくるやつれた表情の妹を抱きしめて、シェリアはぽつりと呟く。その瞳から、一筋だけ銀色の河が伝った。
「ごめんね、リンローナ……」

 抱きしめ合う若き姉妹を、射し込む赤い夕陽が暖かく照らし出していた。少し離れた所で、ケレンスは軽く鼻をすすっていた。
 
 
(三十一)

 日が沈み、急激に薄暗さが増していた森の道に、濃く長い三つの影が落ちている。それらは斜めに描かれた木々の影と入り交じり、追い越しながら、草を踏み分けて足早に歩いていた。

「はっ、はっ……」
 小さな身体で懸命にケレンスの背中を追い、やや荒くなっているリンローナの呼吸が強調して聞こえる。梢をそよがせる不気味な風のざわめきと、家路を急ぐ鳥の声が山々に響き渡る。
 誰も喋らなかった。夜目の利く動物たちの時間が迫ってきている。これが一本道でなく、複雑な分岐が有れば、地図を持ってしても仲間の待つ河までたどり着けなかったかも知れない。

 脇に挟んでいる山菜を入れるための籠が、今となっては少し邪魔なようでもあり、ある瞬間には誇りに思えたりもする――もう山菜を採ってくる必要はなくなったのだから。だが、肩も足も重く、残っていた光の粒が浄化されて空の星として去ってしまう森の中で、心細さは夜の大きさとともに膨らんでゆくのだった。三人集まっても、決して〈全員ではない〉不安定さは拭えない。

「きゃっ」
 足下の枝につっかかったリンローナを辛くも抱き留めたのは、再びリーダーの代役として神経を研ぎ澄ませていたケレンスだった。彼はほとんど反射神経と直感だけで振り返り、相手のぬくもりを受け止めると、いつもの飄々とした口調で付け加えた。
「よっと」
「あ、あの……ありがとう」
 ごく近いところから、リンローナのどぎまぎするような恥ずかしそうな声を聞くと、疲れて思考能力が衰えていたケレンスの頭は急に動きだし、頬には夕陽とは異なる赤みがさすのだった。
「気をつけろよ」
 そう言ってケレンスはリンローナの肩を軽く押した。先を急がなければならないと分かっているリンローナはすぐにうなずく。
「待って」
 その二人に声を掛けたのは、寡黙にしんがりを務めていたシェリアだった。涙もとうに乾いて、決然とした表情になっている。
「明かりを灯すわ」

 ケレンスとリンローナは踏み出そうとした足を留めて、シェリアの方を振り返り、改めて迫りつつある夕闇の帳の深さに気づいた。すでに天音ヶ森に特徴的だった麗しい鳥の歌声は遠く弱まり、夏の宵の口にふさわしい涼しい風が主導権を握っている。
 シェリアは瞳を閉じて集中力を高めた。精霊たちとの戦いで疲れ切っていたが、ここが正念場とばかりに魔力をかき集める。
「ЖЩЛЫЭЮ……空を照らす陽の光よ、我に力を与えたまえ! ライポール!」
 呪文の詠唱の後、シェリアの指先から生まれ出た細く鋭い煙の筋が素早く渦を巻き、しだいに寄り集まりながら光度を高める。やがて掌大の、白く輝くまばゆい光の珠が宙に浮かんだ。
「助かるぜ」
 ケレンスはシェリアに向かい、相手を元気づけようと片目をつぶって見せた。すると、精霊の夏祭りの鳥になりかけた女魔術師は硬く閉じ込めた気持ちをほのかに和らげて、息をついた。
「ふぅ……」
 
 
(三十二)

「あと、ちょっと、だ……よね?」
 坂道を登る足取りは止めることなく、荒い呼吸のリンローナは苦しそうに顔をゆがめ、息も絶え絶えに訊ねた。乾いた落ち葉や枯れ枝を踏めば、破れたり折れたりする音が足元で響いたり、ふくろうやみみずくの類が唄う低くて落ち着いた夜想曲が始まっていて、底知れぬ闇の不気味さが時折、さざ波のように訪れる。だが仲間と希望とを信じているのだろう――リンローナの言葉の端々にはたくさんの信頼感と期待感が含まれていた。

 一番前のシェリアは白い光の珠を消さないように、疲れた精神力を振り絞って魔法への集中を維持しながら、注意深く細い山道を歩いてゆく。あまり無駄な体力を使いたくなかったので、彼女は歩く速度をやや落とし、横顔を最後尾のケレンスの方にちらりと向けた――妹の質問に代わりに応えてもらうために。
「この坂が、確か最後の登りだ。ここまで来りゃあ、道から外れて転がるでもしねえ限り大丈夫だぜ。二人とも、頑張れよ!」
 ケレンスは前を向いて歩いたまま、リンローナから預かった山菜用の籠を小脇に抱え、行きと同じように拾った棒きれを反対の手で掲げた。彼の前をゆくリンローナは、大声で返事した。
「わかった!」
 微妙な間のあと、シェリアもやけっぱちに声を張り上げた。
「聞こえたわよー!」
「転がってきても、止めねえからな〜!」
 ケレンスが冗談を言うと、リンローナは深く息を吐き出した。
「ふぁ〜」
 星の光を集めたかのような魔法のまばゆい灯りが生まれて、三人は少し元気を取り戻したようだった。動物の嫌がる種類の光なので、獣除けにもなる。光の珠を操るシェリアが先頭に代わり、リンローナを間に挟んで、ケレンスがしんがりを務める。

 やがて登り切ったと思われる所で、汗を拭きながら呼吸を整えていた三人は、ふと振り返った。鬱蒼と茂る森は、夜の素を風で溶いた絵の具で塗られ、とうに漆黒の湖に沈んでいた。
「どこが天音ヶ森か、もうさっぱり分かんねぇな」
「なんとなく遠い気配は感じるような気がするけど……」
 白い魔法の灯火を受けてぼんやりと鈍い薄緑色に浮かび上がり、時折きらりと光る髪を夜風に軽くたなびかせて、リンローナは瞳を閉じ、耳を澄ませた。同じ闇ならば、視力を休めることで他の感覚が強まる。木々と大地が醸し出す安らぎの森の匂いが心を自然と落ち着かせ、聴覚は冴え渡り、味覚は――喉は渇いている。おまけに、忘れていた空腹感が浮上してくる。
「性懲りもなく生きてるみたいね……あいつら」
 シェリアは腰に手を当てて胸を張り、はた迷惑のように語ったが、それでいて言葉にはどこか寂しそうな響きが潜んでいた。

 ケレンスは気づかぬふりをして、わざとおどけた感じで喋る。
「そーいえば、リンの唄は、それだけ猛烈な毒ってことだよな。リンの音痴も精霊のお墨付きって訳だ、すげぇじゃねえか!」
 不満そうに瞳を開き、口を尖らせたリンローナは反論する。
「違うよ、あたしたちの唄の力だよ。ねっ、お姉ちゃん?」
「うーん。ま、そうね」
 シェリアが困惑気味に応えると、ケレンスは攻勢をかける。
「唄の力……不協和音のな」
「ふんだ。ケレンスなんか知らない!」
 リンローナはさっきまでの疲れ果てた様子から、だいぶ鋭気を取り戻していた。とその時、すっかり相手の術中にはまってしまったことに自ら気づいた彼女は、恥ずかしそうに面を下げる。

「魔力が混じってるから、効いたのよ」
 互いに武器こそ使わなかったけれども、厳しい精神力の戦いを振り返って、シェリアが感慨深そうに説明した。そう言われると、魔法に疎い剣術士のケレンスはあいまいに相づちを打つ。
「そうかも知れねえなあ……」
 やりとりを隣で聞いていたリンローナは肩の力をふっと抜く。
 
 
(三十三)

 それからしばらくは、峠がいよいよ終わりに近づいてきたこともあり、三人は黙って歩を進めた。坂は登りだけでなく、すでに緩やかな下りも現れていた。そよぐ空気は涼しいのに、額や背中を蒸れた汗が流れる。普段の荷物を背負っていたら余計に大変だったろうが、ルーグとタックの待つ川辺に置いてある。
 三人の靴音は、いつしか似通ったリズムになっていた。シェリアは背の低い妹を気遣い、いくらか歩幅を狭くしていたからだ。
「ふう、ふう……」
 小さな坂を越えたところで、それに気づいたリンローナは疲れた頬を緩めた。光の珠を巧みに操りながら進んでいく姉は何も言わなかったので、リンローナも敢えて口には出さなかった。
 昼はもっと楽に感じたし、あの時は往路だったが、暗くて先が見えないと距離感が失われる。目印もなく、しかも帰り道だ。

 道はしばらく平らになっていたが、今度は坂を下り始める。
「峠は越えたみたいだな!」
 最後尾をゆくケレンスが声を張り上げ、女性陣を元気づけた。山下りで軽くなったのは足取りだけでなく、心の中まで――。
「祭り、明日なのよね?」
 何度か唇を開いてから、ついに声を出したのは先頭をゆくシェリアだった。話しているうちにだいぶ気が楽になってきたのか、最後はほとんど普段通りのどこか醒めたような口調で訊いた。
「そっかぁ……明日は村の夏祭りだよね」
 歩きながらリンローナが相づちを打つ。滑らかで速やかな夜風が汗を冷やして流れ去る。山奥の夏の夜は過ごしやすい。
「まー、今日はどっちみち、森に泊まりだな!」
 後ろからケレンスが大声で話しかける。疲れてはいたが、彼は明るく言い放った。あと少しで〈別働隊のリーダーから解放される〉という感覚が、彼に元気を与えていたのかも知れない。

 順調に歩いていたシェリアだったが、坂の中腹でしだいに歩みを遅めて立ち止まってしまう。彼女は後ろ髪を引かれるような仕草で、戸惑いながら振り返った。リンローナが首をかしげる。
「どうしたの?」
「一晩くらいなら、いいのかも知れないわね。終わればちゃんと帰してくれるわけだし……求められるのは、唄うことだけだし」
 他方、シェリアはもう向こうの山の陰に隠れてしまった〈天音ヶ森〉を名残惜しそうに振り返って、ぽつりと独り言を洩らした。

 ふくろうの低い声は、老人が笑っているかのように聞こえる。木々の梢の向こうには空があり、星のきらめきが垣間見える。
「何の話だ?」
 相手の喋った内容が少し聞こえたので、ケレンスも訊ねる。
「聞いてたの?」
 魔術師は指先から魔力を送って、まばゆい光の珠を戯れに回転させながら、不思議そうに問い返し、相手の質問に応えた。
「天音が森の、鳥になってもいいかな、って言ったのよ」
 いくぶん弱まった白い球――シェリアの疲労によるのだろう――がゆっくり回り出すと、三人の若者の影はゆらめくのだった。

 わずかの間ののちに。
「はぁ? 正気かよ」
 口をゆがめ、心底あきれて叫んだのはケレンスだった。しかしシェリアはごく真面目な様子で、自らの意志を語るのだった。
「鳥の姿に変えたりするんじゃなくて、人間の歌い手として呼ばれるんなら、森の夏祭りに参加してみてもいいと思う。どこか憎めないやつらだったし。ケレンスにも会わせてあげたかったわ」
 その瞳は細められ、視線は遠く、懐かしそうに緩んでいた。
「ほー。俺は御免だね、魔法は分からねえしさ」
 肩をすくめた剣術士のケレンスとは対照的に、シェリアの妹のリンローナは微笑みを浮かべ、好奇心を膨らませてつぶやく。
「あたしは、ちょっとだけ会ってみたいなぁ。精霊さんたちに」
「けっこう懲らしめたわけだし。案外、怖がられたりして」
 シェリアは何か悪戯を思いついた少女のように、湧き上がってくる〈楽しさの渦〉をこらえていた。リンローナも素直に応じる。
「ふふっ、そうかもね〜」
「うへぇ、付き合いきれねえや……」
 その言葉とは裏腹に、ケレンスは見えなくなった〈天音ヶ森〉の方にまなざしを送りつつ、闇に沈む金の前髪を掻き上げた。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 天音ヶ森(あまねがもり)の精霊は
  素敵な唄がとってもお好き
   気に入られちゃあ かなわない
    澄んだ声には気を付けな

     夜風を浴びて 広場を囲み
      小鳥となって夏祭り――ったら夏祭り

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 森が尽きて視界が晴れ、真っ暗な河の畔にルーグとタックが待っているらしい小さな焚き火が見えた。香ばしい煙が届く。
「ねえ、あれは?」
 リンローナが思わず弾む声をあげると、前のシェリアが言う。
「着いたわね」
 すかさずリンローナは姉の横に駆け寄り、一つ提案をした。
「歌で知らせてあげようよ、お姉ちゃん」
「そうね」
 淀みない口調で、軽く胸を張り、シェリアは堂々と承諾する。
 ケレンスはもはや何も言わず、軽く口元を緩めただけだった。

 明るい魔法の珠が、仲間の待つ河へ続く道を照らし出す。
「知らない、街まで〜」
 姉妹の声が重なって響き、しだいに大きくなる河の音に混じってゆく。向こうで黒い人影が立ち上がるのがはっきりと分かる。
 三人は足元に気をつけて、最後の下り坂に取りかかった。

(了)



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