遙かなる想い

 〜森大陸(しんたいりく)ルデリア・幻想結晶〜

 

秋月 涼 


 風が吹き抜けて行く。
 梢を鳴らし、葉を揺らし、翠の樹海の深く分け入って。

 風は吹き抜けて行く。
 颯爽と吹く青年の風や、軽やかに進む少女の風。
 いたずら好きの子供たち、思索にふける年老いた風。
 それらが複雑に絡み合って、悠久の序曲を奏でる――。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 川の上流が透き通っているのに似て、ここの空気は汚れなく純粋だ。そう、ここは風のはじまり。妖精族も暮らすほどに美しい〈風の森〉なのだから――茶色の長い髪を後ろで束ね、しなやかな体つきの十九歳の女性、狩人のシフィルはふと思った。
「気持ちいい……」
 前髪と睫毛がかすかに揺れ動くのを感じつつ、少し顔を上げ、溢れんばかりの生命力を宿した古の樹の幹に背中を預ける。

 小高い丘に連なり立つ樹の高みから眺めると、遮る物とて何もなく、陽の光を受けて夏色に照り輝く碧の絨毯が拡がっている。その果ては緩やかな曲線を描いて霞み、綿雲の漂う蒼い空とつながっている。南に目を移せば、森を縫って走る麗しのリース河の源流も見分けられるし、日の沈む方角に視線を送れば深い森の彼方に西海らしき青い帯が横たわっている。東はマホル高原がそびえ、その向こうは〈世界の屋根〉中央山脈だ。
 剣の切っ先のごとく視力も聴力も研ぎ澄まされている狩人のシフィルは、ここから眺めているだけで、たいがいの異変には気づくことができる。煙が上がっていれば侵入者がいる証拠だし、河の水が濁っていれば山間部で大雨が降ったことを予想させる。それらは悪意のある人間を貴重な資源に近づけず、さらに奥に住む妖精族――森の妖精・メルファ族、風の妖精・セルファ族――の安寧を守るのに必要な〈森の番人〉としての能力だ。

 シフィルは右手を額に当て、遙か遠くまで飽かず見渡した。
 この森は彼女の想いを映す。嬉しい時も、また哀しい時も。
「ここが、私の世界……」
 樹の上には木造の粗末な寝床があるけれど、彼女の心はそこに留まらぬ。空を駆ける風のようにつかみ所がなく、自由だ。
 森に尽くし、森から必要なだけの糧を得る。森とともに生き、森の循環に入る――獰猛な野生の動物から三人の家族を守り、身代わりとなって死んだ亡き父も大地に還った。シフィルたちが流した涙もシダ植物の養分となったろう。力強く光を集める夏の木の葉の匂いの中、彼女は鮮やかな父の存在を感じた。

 首にかけていた短い横笛を手に取って、唇に近づける。
 シフィルがまぶたを閉じてゆくと、安らかな闇が開いた。
 彼女は息を送った。想いを奏で、澄んだ楽の調べに乗せる。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 風が吹き抜けて行く。
 何も飾らず、本当の己のままで。

 風は――。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「姉さーん」
 双子の弟、ロレスが下で呼ぶ声が聞こえると、シフィルは細い指を横笛から離して顔をもたげた。森の巡回に行く頃合いだ。
「いま行くわ」

 シフィルは十分に注意しつつも、枝を飛び渡る小動物を思わせる軽やかな身のこなしで、まずは樹の中程の寝床に向かう。そこには丹念に調整がなされた弓と矢筒が置いてあるのだ。
 洗濯物を避けて愛用の弓をつかむと、彼女の横顔が引き締まった。無駄な贅肉が全くない鍛えられた腕の、茶色の産毛がかすかに揺れ動いている。狩人としては彼女よりも実力のある弟のロレスと、母のシレフィスの待つ大地を目指し、シフィルは速度を上げた。枝と幹が少しずつ太くなり、湿り気が増してゆく。
 間もなく三人は新しい風となり、森を駆け抜けるだろう――。

(了)



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