お掃除

 〜森大陸(しんたいりく)ルデリア・幻想結晶〜

 

秋月 涼 


 霧が溶け始めていた。
 野原を、長い緩やかな坂道を、その先の十字路を、橙の屋根を、角の魚屋を、レンガの路を、道端の花壇の赤い花びらを、雑貨屋の果物ナイフを、屋根からこぼれ落ちる雨の名残を、学舎の建物を、神殿の尖塔を、もちろん道行く人々も――白髪の老人も、気取った若い娘も、長靴を履いた子供も、赤ん坊を背負う母親も、中年の商人も、若い聖術師も――そして馬車の幌も、猫の目も、港への大通りも、波止場も、帆船も、使い古した帆も、碇も、海も、空も――うっすらと覆っていた乳白色の霧が、まさに温めた牛乳の濃い膜を剥ぐように、さらには牛乳に真水を足してゆくかのように、しなやかに、確実に溶け始めていた。
 近いところから、遠い場所へ。自分の視力が、自分の存在が、心とともに拡がってゆく感じがする。しっとりと湿り気を帯びた風は驚くほど涼しく、二人の幼い少女の金と銀の髪を優しく撫でると、各々の信じた目的地を目指し、羽ばたいていった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「あたし、雷って怖いけど……たぶん嫌いじゃないよ」
 鮮烈な眩しい閃光の合間に、襲い来る自然の圧倒的な奔流に身体を固くしながらも、八歳のジーナは両眼を爛々と輝かせていた。次の瞬間、彼方の天で生まれた雷鳴の轟きが、少女たちのすぐそばを龍の速度と地を這うような咆吼で疾駆する。
「きゃあっ。ジーナちゃん、助けて!」
 ジーナの同級生、九歳のリュアは、汗と雨で濡れた服を気にする余裕もないまま、きつくまぶたを閉じてジーナの肩にしがみついた。いつ頭上の樹に狙いを定めるか分からない雷の恐ろしさに取り憑かれ、涙さえ出るのも忘れて小刻みに震えている。
 他方、ジーナは恍惚とした表情で、空のキャンバスを仰ぐ。
「リュア、大丈夫。ほら、あの線、光の文字……ひゃっ!」
 これまでよりも一層、近づいている。巨きな低い音が天と地を揺らし、さすがのジーナも驚いて叫んだ。リュアは銀色の髪の乱れをそのままに、耳をふさいで子猫のように丸まっている。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 がむしゃらに叩きつける激しい雨の線は、広葉樹の大らかで繊細に編まれた傘の下、たくさんの不規則な水滴の音符に分解される。その淑やかな音楽は、雨がやんでも細く長く続いていた。どっしりと構える幹に背中を預ければ、気持ちが和む。
 西から近づいてきた雲が腕を伸ばし、デリシの町外れの峠に突っかかって雨と雷を降らせ、大股で東の方に抜けていった。
 暗かった空が薄くなり、地上には霧の粉が湧き出していた。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 そしていつしか、霧はほとんど晴れていた。
 大海峡に面して横長に伸びるデリシの町が遠く見渡せる。遥か向こうにはルデリア大陸がぼんやりと浮かび上がる。雑草が生えている野原では虫たちが初秋の調べを奏で始めている。
「帰ろっか、リュア」
 ジーナは言いながら立ち上がり、ズボンのお尻を無造作にはたいて、速やかに手を差し伸べた。青い瞳は神秘的に瞬き、若い金の前髪を夕風になびかせ、少しだけはにかんだ笑顔で。
「うん」
 右手を友と重ねて、握りしめ、リュアは遅れて立ち上がった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 濡れた草を踏みしめ、水たまりを跳躍し、二人は手を繋いで丘を下ってゆく。目の前に拡がる空と海は、そう遠くない森の衣替えを予感させ、紅と橙と黄色に染まっていた。目を通して、心の奥底まで染み込んでくるように感じられる澄みきった色だ。
 ジーナは高く腕を振り上げて歩き、誇らしげに言うのだった。
「さっきの雲の親分が、他の雲を追い払ってくれたみたい!」
「雷さんと霧さんが、空のお掃除をしてくれたんだね……」
 リュアがぽつりと呟いた。後ろ姿は小さくなってゆく。二人の影は去年の今ごろよりも、昨日の今ごろよりも若干伸びていた。日が短くなるとともに、影は背伸びをし続ける季節である。
 町の入口の十字路まで来ると微かな潮の香りがした――。

(了)



【この作品は"秋月 涼"の著作物です。無断転載・複製を禁じます】