夕焼けに

 〜森大陸(しんたいりく)ルデリア・幻想結晶〜

 

秋月 涼 


「今、集めていますが……は、はい。分かりました、急ぎます」
 眼鏡をかけ、痩せ気味で背の高い二十歳過ぎの青年は見えない相手に向かって頭を下げた。相互伝達魔法〈クィザロアム〉で、厳しい師匠から有無を言わさぬ指示が飛んで来たのだ。
 ややうつむいて、軽く頬を膨らました息を〈ふぅ〉と吐き出すと、彼は気持ちを切り替えて回れ右をし、客人の方に振り向いた。
 それは彼に比べると身長が半分ほどしかない小さな訪問者たちであったが、西日が奥の方まで射し込んでくる秋の爽やかな広葉樹の森の中で、その姿はとても背景に馴染んでいた。
 木々の力強い幹、どんな彫刻にも勝る繊細な枝や葉、可愛らしい赤い実まで、起伏に富む大地に繋がっているものは彩りを失って黒い影法師に変わり、空だけが浮上する。陽の町から月の村へ境界の橋を渡る黄昏時は全ての明暗がはっきりする。
 雲間に拡がった天の光の畑にも少しずつ夜の種が育ち、根を張ってゆく。朱い光が見守る中、ゆっくりとした確実な変化だ。

「残念ですが、僕はそろそろ帰らねばなりません」
 薄くても羽織るものを着ていないと肌寒くもある涼風に、整えられていない前髪を揺らし、青年――テッテは言うのだった。
「それでは森の入口までお送りしましょう」
「お兄さん、大丈夫? 怒られないの?」
 率直に訊ねたのは訪問客のうちの一人、八歳のジーナだ。太陽のかけらをまとったような金の髪を長く伸ばし、今日は頭の上で結んでいる。活発でやんちゃな瞳の奥には、清らかな気高さと芯の強さが見え隠れしている。負けず嫌いで猪突猛進な所もあるが、友達思いで情に厚く、話題も豊富な学舎の人気者だ。
「まあ、何とかなる……と思いますよ。では行きましょうか」
 客人を安心させるため青年は何事もなかったかのように微笑む。飾り気が無く、冴えない印象を与えかねぬ彼を特徴づけるのが、ささやかで暖かな冬の小春日和を思わせる〈笑顔〉だ。
「急いだ方がいいんだよね」
「慌てなくて結構ですよ。ゆっくり歩いて下さいね、リュアさん」
「でも……」
 リュアと呼ばれたもう一人の少女は不安そうに口をつぐんだ。彼女はジーナと同じ学舎に通う親友同士で、商人の娘の九歳、月の雫を絞ったような銀色の髪を肩の辺りで切り揃えている。引っ込み思案な性格であり、感情の起伏の波が大きいものの、賢い判断の出来る鋭い感性を持った心優しき少女である。
「師匠には、果物集めに時間がかかったと言っておけば問題ありませんよ。雷は落ちるでしょうが、後腐れはない方ですから」
 彼自身の気質でもあるが、テッテは決して相手を焦らせぬ。
 リュアは完全に納得したわけではないが、十五歳も年の離れたテッテの思いを何となく理解して、しっかりうなずくのだった。
「お兄さーん、リュアー、早く! 真っ赤なお日様が見えるよ」
 行動派のジーナは向こうのカーブの辺りで手を振っている。
 そして三人は一列になり、暮れなずむ森の細い小径を歩き始めた。先頭はジーナ、次がリュアで、二人に気をつけながらテッテが追う。しだいに別れが近づき、口数は減ってゆくのだった。
 空の家路をたどる鳥たちの声は、反比例して高まり――。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「うわぁー、すごい!」
「すてき……」
 最後の木々のアーチを抜けると、眩しい西日とともに視界が無限大にまで開けてくる。ジーナと、少し遅れたリュアは、それぞれの言葉で込み上げる胸の震えを表現した。この場所はお気に入りで、何度も夕焼けを見ているが、感動は毎回新たにやってくる。太陽の位置も、空の色も、風の流れも、前と同じことは有り得ないからだ。過ぎゆく時の重みが波間に漂っている。
 丘を縫って町へ続く一本道の向こうには海があって、その上には空が乗り、雲は不思議な記号を描いて浮かんでいる。見る者によっては〈ありきたり〉とも映るであろう風景は、今やどこもかしこも薄紅に染まっていた。少女たちの暮らしているシャムル公国のデリシ町は大海峡に臨み、メラロール市モニモニ町シャワラット町と並び、日の入りの美しい土地柄として有名だ。

「自然の染料には、どんな魔法もかないませんからね……」
 肩越しに上の方から響いてきたテッテの抑えた声が、少女たちの心の泉に染み渡る。わずかな間にも雲の衣替えは微妙に深化し、もはや〈薄紅〉と一言で表現することも出来ぬ。橙でも鴇(とき)色でもなく、赤紫でも浅黄色でさえなく、それらの暖色系の中間色同士を空色のパレットで混ぜ合わせたかのような、えもいわれぬ神秘の淡い彩りであった。特に南西の方角の森に折り重なって伸びる雲は、黄昏に染まる柔らかな山の嶺がそこに出現したかのごとく――しかも神秘の花園の気品がある。
 テッテの言う通り、あの雲を表現するのは、絵画でも魔法でも至難の業だろう。その時、その刹那にしか出逢えない風景や人々は記録に残らぬことが多いが、記憶の礎、想い出の渓谷には確実に刻まれる。羊皮紙は色褪せても魂は変わらない。

 吹きゆく涼風の河の流れが、そっと夢から醒ましてくれる。
「帰らなきゃ」
 突如、ジーナは振り向く。今まさに没しようとしている真紅の太陽を背にして立つ八歳の小柄な少女の影は、テッテの背丈を凌駕し、黒い針葉樹となって地面に枝と幹を伸ばしていた。
「リュア、帰ろ」
「うん」
 一度、承諾を得るかのように青年の顔を仰いでから、リュアは速やかに歩き出し、やがてテッテとジーナの間――森と町の間にある別れの分水嶺を越える。重心が移動したかのような一抹の淋しさをテッテが味わう刻であるが、眼鏡の奥の瞳はほとんど変わらない。ジーナとリュアでなければ気づかなかったろう。

「じゃあね、お兄さん。あたし、また来るからね」
「ええ、どうぞ。今度いらっしゃる時も羽織るものをお忘れなく」
「バイバイ」
 夕焼けに明日への想いと希(ねが)いをのせて、秋の落日にふさわしく、三人は名残惜しくも静かに別れを告げるのだった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 ついに今日の陽は海の中へ身を沈め、闇の精霊は枷を外されて飛び回り始めた。少女たちの後ろ姿が丘の小径に遠ざかってゆく。ジーナとリュアはしきりに振り向き、森の入口で見送っている〈お兄さん〉にさよならの合図を送り続けるのだった。
「風の澄む秋の夜は、空に散りばめた炎の名残がずっとくすぶっている……さあて、師匠への言い訳をどうしたものかなぁ?」
 最後に大きく手を振って、立ち去りがたい思いを断ち切り、テッテは薄暗い森の道を歩き出した。楽しい時間の余韻を味わいつつも、現実へ還るためにさまざまな独り言を繰り返しながら。

夕焼けに顔を火照らす雲の嶺

(了)



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