安らぎの囁き

 〜森大陸(しんたいりく)ルデリア・幻想結晶〜

 

秋月 涼 


「ねえ、お姉ちゃん」
 窓辺に立ち、ランプの明かりを右手に掲げた十四歳のシルキアは、すでにベッドの中へ頭まで潜り込んでいる姉のファルナに声をかけた。さっきまで誰もいなかった姉妹の部屋は冷え切っていたが、シルキアの目の前の窓ガラスには細かな水滴が付着していた――朝になれば結露してカーテンを湿らすのだろう。獣の遠吠えが、雪化粧した深い森の彼方から響いていた。
 厚手の長袖のパジャマの上に毛皮のロングコートを羽織ったシルキアは、ランプを消そうと絶え間なく闇が染み込んでくる部屋の中でいかにも寒そうに肩をすくめ、栗色の瞳で窓の向こう側を見つめていた。数えきれない星たちの瞬き――銀や薔薇色、瑠璃色――は、まるで親密な内緒話を小声で囁いているかのように思える。シルキアの鼻と唇からはぬくい吐息が洩れて、近づきすぎると質の悪いガラス窓の表面をいっぺんに白く染めてしまった。その曇ったガラスの遙かな高みに、ひときわ目立つ向日葵色の光が夢の扉を思わせて朧にかすんでいる。
 それは南の空を斜めに昇ってゆく途中の十六夜の月だった。

 シルキアは速やかにカーテンを引いた。夜空と星と月が協演する晴れた初冬の舞台の幕は下ろされ、内外が断絶される。
「お姉ちゃん、もう寝ちゃったのぉ?」
 振り向いた妹のシルキアが探るように訊ねると、
「フワッ!」
 冷たい布団に抱かれて身体中が冷やされ、息を止めていたのだろう――ファルナは急に顔を出し、苦しそうに呼吸をした。
「ふわぁ、ふわぁ、ふわぁ……」

「なんだ、起きてたんだ」
 敢えて相手の反応を引き出そうとつまらなそうに呟いた言葉とは裏腹に、しっかり者の妹はほっと口元を緩めた。窓際にある背の高い樫の木の台にランプを置いて、質問を投げかける。
「消しても平気?」
「いいよん」
 姉のファルナは身体を丸め、ベッドの中で縮こまっていた。顔が寒かったのだろう、返事が終わるとうつぶせの姿勢になる。
 美しい彫刻の施された金属製のランプには横に取っ手がついていて、下側が円柱状の油入れになっている。温かみのある淡い光は火屋(ほや)の内側で優しく花開いていたが、芯の上にあるネジをシルキアが左へ回すと、急速にしぼんでいった。
 こうして姉妹の部屋は漆黒の夜の粒に充たされたのだった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 両腕を水平に伸ばし、壁にぶつからないようバランスを取りながら、シルキアは部屋を横断する。小さい頃から馴れているので闇の海を泳ぐのは得意だ。やがて爪先がベッドの脚にぶつかると、彼女はその場にロングコートを脱ぎ、布団に潜り込む。
「ふぅー」
 姉のファルナの、思いきり息を吐き出す音が微かに聞こえる。どうやら、うつぶせの姿勢のまま布団に吹きかけているようだ。温かさが口の周りから顔まで拡がって、気持ちいいのだろう。

「さむーい」
 パジャマの暖かさは冷え切った毛布に負けてしまい、シルキアも最初は姉と同じく背中を海老のように丸めて震えていた。
 それでも身体が触れている布地から、しだいに体温の領域が膨らんでゆく。足先が温まってきたら、その春を伝えるべく慎重に膝を伸ばす。最初は〈未開拓の〉氷のごとき毛布に驚くが――冬は確実に塗り変わる。さらに腕を広げ、腰の力を抜いた。

 仰向けのシルキアはおもむろに瞳を開く。閉じても開いても全く見分けがつかないほどの漆黒の闇ではあるが、眼球が冷え込むことでまぶたが上がっているのだと改めて気づかされる。
 顔を斜めに倒し、隣のベッドに視線を送っても、やはり何も見えない。ほてってくる身体と足が少しずつ眠りの国へいざなう。
「お姉ちゃん……?」
 シルキアは何となく話がしたくて、姉の睡眠の邪魔にならないくらいの小さな声で呼びかけた。湖の底にいるかのような暗い夜、しじまの谷では表情も身振り手振りも意味を失う。声だけが残された交流手段で、気持ちを映す水鏡として運ばれてゆく。

 やがて寝付きのいいファルナの半ばまどろんだ返事がした。
「んー?」
「さっき、お月様が出てたんだよ。冴えた光だった」
 シルキアはすかさず囁く。その瞬間、彼女の頭を閃きがよぎった――もしもあたしが話しかけてるのが、本当のお姉ちゃんじゃなくて、お姉ちゃんの声を真似している〈闇〉だったとしたら?
 山奥の村で育ったシルキアの出した答えは素朴で単純だ。
(見えないから結局は分からないけど……どっちでも嬉しいな)

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「お月様って、どうして一日ごとに形が変わるんだろうね?」
 横になり、体温と布団の交錯する温かみを感じながら、シルキアは限りない安らぎを感じていた。難しいことは何一つ不要で、湧き上がる眠気に身を任せられる、とても贅沢な時間だ。
 静まり返る空間につつまれ、シルキアは自分の鼓動の安定したリズムをはっきりと感じていた。寒さのために木の床がミシッと鳴る音が、昼間では考えられないくらいに強調されている。
 知らず知らずのうちに、まぶたが重くなって閉じようとする。姉は眠ったのだろうか――そして睡魔に身を任せかけたとたん。
「たぶん、お月様にも、気分の波があるのだっ……」
 真っ暗な中からファルナのいらえがあった。波、という単語を聞くと、いつか訪れた森の湖のほとりに寄せる周期的な流れを思い出した。想い出の中の透明な波に、胸の鼓動が重なる。
 山奥のサミス村で生まれ育ったシルキアは海の波を見たことがないし、おそらく一生見ないだろう。旅人から教わるのみだ。
「気分の波……」
 今日はご機嫌斜めの三日月、元気が出てきた上弦の月、満面の笑みの満月、困ったような下弦の月、姿さえ見せたくない新月。それらの循環が、シルキアの意識の奥を駆けめぐった。
「さすが、おねえ……」
 後に続く姉の敬称は、シルキアとしては言ったつもりだったのに、実際には口に出されない言葉だった。夢と現が混濁する。
(お姉ちゃんの発想はいっつも面白いよね!)

『おやすみ』
 その囁きはどこかしらファルナの声色にも似ていたし、はたまたシルキアらしくもあり、またどちらでもないとも思えた。姉妹はほとんど無意識の領域で、まどろみの挨拶を交わすのだった。
「お、や……」
「お……み……」

 二人の寝息が微かに響き始め、あとは闇だけが残された。

(了)



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