時の河原で

 〜森大陸(しんたいりく)ルデリア・幻想結晶〜

 

秋月 涼 


「河って、不思議よね……」
 シーラが言った。声が消えると、後に残った音は下草を踏む二人の靴音、森を鳴らす風の音、そして河のせせらぎだけだ。
 森と河との境目に細く長く続いている、川面を見下ろす細い脇街道を歩いているのは、若い男女の旅人である。長い黒髪と彫りの深い顔が特徴的な女性聖術師のシーラと、やや痩せている魔術師のミラーだ。ともに二十代半ばで、どこか神秘的な雰囲気を漂わせている――黒髪族で魔法を扱える者は少ない。

 空には雲がどんよりと立ちこめていたが、色は薄く、今のところ雨や雪の降り出す気配はなかった。ルデリア大陸の東部、どちらかといえば北の方に位置するポシミア連邦のキルタニア州では、雪の降った形跡は確かにあるが、ほとんど乾いていた。
 それよりも空っ風の冷たさが身に応える。シーラは毛皮のコートを羽織り、ミラーは黒い上着に身をつつんでいたが、心までもしんしんと染み渡ってくる。河は水の通り道であるのと同時に、物流の動脈でもあり、その上空は風の通り道でもあるのだ。

 二人はさらに北国からやってきたので、風に耐え、腕組みしつつ歩いていった。荷物をしょった背中はうっすらと汗ばむほどで、風さえ吹かなければ歩いている最中はそれほど寒くない。
 もともと人口の多くないキルタニア州の北部、国境のガルア河もさほど遠くない辺境である。中規模の山脈の裏側に当たるため、この辺りの冬はやや乾燥しており、気温は低くても雨雪はあまり降らない。降っても粒が細かいので積もりにくい。二人の旅人にとっては、雪が積もっていないだけでも、すばらしいと思えてくる。雪に閉ざされる北方では、移動の自由がほとんど失われるからだ。薄茶色の大きな鳥が翼を広げ、聞き覚えのない低くて不気味な鳴き声を上げながら灰色の空を滑っていた。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「河が不思議? 確かにね……」
 ミラーがつぶやく。彼の白い吐息は拡がり、かすんでいった。

 河の両側はうっそうとした森だが、植生的には北方の針葉樹林とは異なっている。大河ガルアの支流、ゼム河の中流は曲がりくねり、見通しはあまり良くない。鳥の視点で眺めれば、森に刻まれた荒々しい龍のごとき川の流れを見下ろせるだろう。
 中流といえども支流であるため、それほど川幅は広くはないが、清らかで水量も勢いもある。ただし、喉を潤したり顔を洗うために川原へ降りて手を浸せば、水は凍り付くほどに冷たい。

 河に沿った脇海道を進むぶんには、道に迷うこともない。川幅が狭まり、自然堤防が消えると、道は崖の上の高いところを張りつくように進む。そういう場所では、旅人たちの口数は減る。
 今はほとんど平坦で、歩きやすかった。突然出てくるかも知れない獣に注意する必要はあるが、獰猛な生き物はあらかた冬眠しているはずなので、緊張を維持する必要はなかった。両足を規則的に動かしながら、シーラは冷えた頬を動かして語る。
「水が流れてるんだから、河は変わってるはずだし、確かに変わってるんだけど……でも全体的には驚くほど変わってない」

 二人はこのままガルア河に出て、船でセンティリーバ町まで下り、短期の仕事を見つけて冬を越すことに決めていた。まれにこの辺りでも大雪が降ることもあるし、リスクは大きかった。

「変わりゆくもの、変わらないもの」
 そう言って、ミラーは斜め後ろを振り返る。
「それはきっと、僕らだって、似てるんじゃないのかな?」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「うーん、そうかも知れないけど……」
 シーラは肯定とも否定とも受け取れる、曖昧な返事をした。
「けど?」
 聞き役となったミラーは相づちを打ち、先を促す。するとシーラは、寒さと長旅でこわばった口元を、冬の雲間から降り注ぐ淡い光のごとく、わずかにゆるめる。そして遙か遠くに置いてきた少女時代とは異なる、大人びた微笑みを浮かべるのだった。
「その台詞は、ミラーには合わないわよ……ふふ」

 言い終える間際に、後ろから相手の背中の荷物を軽く押す。彼女としては、猫がじゃれるのと同じような感覚だったのだが。
「おっと」
 予期せず突き出されたミラーは、背中の荷物のバランスが悪く、前につんのめった。何とか踏みとどまろうとするのだが、支えきれず、倒れそうになってしまった。彼は反射的に足を出す。
「おわっ」
 そのまま前のめりの姿勢で、ミラーは走り出す。川沿いの土手の道を踏み外さないよう下を見ながら、荷物の重みの力を借りて走るのは、気分転換にもなるし、思ったより楽な気がした。
「こりゃいいな。シーラ、先に行ってるよー」
 飄々と答え、ミラーがさらに速度を上げたとたん――。
「あ、ミラー、危ない!」
 静寂の脇街道に、シーラの甲高い叫び声が響くのであった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「えっ? ぎゃあっ!」
 と答えた時、彼は藪の中に突っ込んでいた。立ちはだかる木を避けるため、頼りない脇街道は右へ急激に舵を取っていた。

 腰と尻を突き上げた情けない格好で、ミラーはもがいた。手の平には幸い、厚い手袋をはめていたので、怪我はないようだ。
「大丈夫? やりすぎちゃった?」
 シーラがやってくるが、言葉とは裏腹に、口調はあまり心配そうではなく――それどころか、あきれた感じさえ含まれていた。
 他方、ミラーはようやく足に力を込め、手で藪を押し返し、勢いを付けて立ち上がりかけていた。のしかかり、下へ押しつけようとする背中のサックの重みに抗い、身体は徐々に起きていく。
 それを見ていたシーラのいたずら心が、大きく揺さぶられる。

 そして、もう次の瞬間には――。
「大丈夫?」
 と聞きながら、再び魔術師の黒いマントを押し出していた。
「うひゃ……」
 ミラーは怒るよりも苦笑いの表情で、もう一度、藪へ前のめりに倒れてゆく。曲がった堅い草が痛々しい音を立てて折れた。

 じゃれ合ったり、口論すること――それはお互いに疲れると分かってはいたが、長い道のりで滅入りそうになっていた気分転換の役には立つ。ミラーにはそれを知っていたので、本気で怒る気は毛頭なかった。暗黙の了解で、けんかを楽しもうとする。
「シーラ、ちょっとひどくないかい?」
 身を藪に任せたまま、起きているとも倒れているともつかない情けない姿勢のミラーは、同い年の恋人を見上げ、少し恨めしげに呟いた。相手の命運を握ったシーラは斜に構えてさっそうと腕組みし、あくまでも強気に、威圧的に――それでいて、どこかしら嬉しそうに、おちゃらけて、しかも色っぽく訊ねるのだった。
「起こしてあげよっか〜?」
「起こす代金を取ろうとするんだろう?」
 ミラーはぽつりと答え、自力で起き上がろうとした。引き際をわきまえているシーラは、しつこく邪魔することはない。今度は驚くほど素直に手を貸し、ミラーを引っ張りながら独りごちた。
「なんだ、バレてたんだ」

 空は相変わらず曇っていて、底冷えがした。風が強く。川は果てしないほど長く続いて、大きく曲がり、先は見えなかった。
 それでも確実に川幅は狭まってきている。地元で買った地図によれば、もうすぐゼム河はガルア河に合流し、その付近に物資の中継地点となる村があるはずなのだ。船着き場で乗せてもらえば、河口の大都市、センティリーバは遠くない。特に冬の船は、風さえ荒れなければ陸を行くよりも断然速いし確実だ。

(時間が進んで、しだいに距離は近づいてくる……)
 ミラーは歩みを止めぬまま、ひそかに考えていた。
(僕らもまた、時の川に寄り沿って進む旅人かも知れない)

 雪がひとひら、はらりとこぼれ落ち、地面に溶けて消えた。

(了)



【この作品は"秋月 涼"の著作物です。無断転載・複製を禁じます】