春の朝

 〜森大陸(しんたいりく)ルデリア・幻想結晶〜

 

秋月 涼 


 小さい鳥は高らかに、大きな鳥は深い響きを保ちつつ――。
 鳥たちがあちらこちらで呼び掛け合っているが、首が痛くなるほど見上げても、針葉樹の緑の懐に姿は見られない。時折、枝が揺れ、翼の羽ばたきが聞こえた。葉裏を伝い、こぼれ落ちてきた透き通る朝の雫は、斜めに注がれる光の帯を駆け抜けた瞬間に、虹色の宝石へと変わって、額の上で弾けるのだった。
「ひゃっ……」
 思わず彼女は首を左右に動かした。水のかけらが、しっとりと濡れた森の下草に吸い込まれてゆく。辺りはまだ薄暗かった。
「びっくりしたー」
 鼓動のやや乱れた胸の辺りにこぶしを置いて、溜まっていた昨夜(ゆうべ)の息を深く吐き出したなら、白い息が薄い朝もやに溶けてゆく。難しいことは何もかも忘れて、ゆっくり安らかに吸い込めば、口から肺の奥、身体のすみずみに――しまいには心や魂までが、新しい一日のひそかな希望に染められてゆく。

 彼女は雑草の生い茂る地面に左膝をつき、ほっそりとした腕をしなやかに伸ばした。薄手の、春物のベージュの服は彼女にはやや長く、袖の先を折り返してある。焦げ茶色のチェックの長ズボンは厚みがあって暖かそうだったが、内側の生地は汗を吸い取りやすいものが使われていた。いくぶん履き慣れ過ぎた感のある茶色の革靴は、ほとんど装飾といえるものが無かったが、その分、しっかりと実用的に、長旅にふさわしく堅実に作られていた。辺りに雪はなく、かんじきを使う季節は遠ざかった。

 柔らかそうで血色のいい薄桃色の唇を少しすぼめ、指先で相手をしっかりと支えながら、彼女は顔を寄せていった。貴婦人の面紗(ヴェール)のごとく、霧は優雅にささやかに流れきたる。
 少しずつ、確実に彼女と相手を隔てていた顔の距離が近づき、むせるような甘い匂いはいよいよ高まり、とろけてしまいそうな不思議な感覚に、彼女は薄緑色の瞳を軽く閉じて――。

 不確実な期待の高まりの中で、彼女の口先に突如、紛れもない触感が走った。相手に到達したのだ。彼女はさらに自らの口を沈ませ、唇を軽く開いたかと思うと、夢心地にまぶたを開いて、唇の方は再び、すぼめてゆくのだった。そして、彼女は。
 迷いを捨て、吸い込んだ。

 チュッ、という軽い音が響いた。しっとりと甘い味わい、長旅では久しぶりの甘さ――春の甘さと瑞々しさが口の中に広がってゆく。目の前に見えるのは、天使が羽を広げたかのような、つぼみを開いたばかりの、白い可憐な花の群れている茂みだ。
 小川の近くでは、森の木の匂いよりも、背の高い草の匂いが勝っている。しかし、この一角だけは、清らかな花の香りが甘美で繊細な空間を作り上げていた。若い光沢を帯びた彼女の優しげな草色の髪の毛は、その中に紛れ込んでも違和感がない。
 満たされた彼女は、やがて優雅に、丁寧に余韻を味わうかのように唇を離してゆく。舌の上にはまだ蜜の味が残っていた。

 天使の口づけを終えた少女は、木々の梢を縫って辿り着いたひとしずくの光に目を細め、さっき自分の額で弾けた虹色の泡沫を思い出しながら、仲間の呼ぶ声に顔をもたげるのだった。
「……リンローナさぁん、食事の準備を始めませんかぁ?」
 リンローナは頬をほころばせたが、すぐには返事をしない。ポケットから取り出した布きれで軽く口を拭い、もう一度呼ばれるのを待つ。二つ年上のタックの声は、やや近づいて聞こえた。
「リンローナさ……」
「ここだよ! いま行くね」
 茂みと別れて、リンローナは朝の空気に駆け出すのだった。

(了)



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